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第2章

母子

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 静かになった。

 先ほどまで部屋中に響いていた母の奇声はもう聞こえない。

 騒ぎ疲れて眠ってしまったのだろうか。
 荒れ放題になったリビングの隅から、母の息遣いだけが微かに聞こえていた。

「……何が悲しいんだよ、母さん」

 返事はないと知りつつも、鷹取は自問するように問うた。

 ここのところ、酒の飲み方もその後の暴れ方もますます酷くなっている。
 しばらくは落ち着いていた自傷行為もいつのまにか再開して、家の床には点々と赤い血が染みを作っていた。

 おそらくは先日別れた男のことをまだ引きずっているのだろう。
 どうせロクな相手でもなかったのに、なぜそこまで執着するのか、鷹取には理解できなかった。

 そして同時に、その男の代わりにすらなれない己の存在が、酷くちっぽけで虚しく感じられる。

 自分はここにいるのに。
 まるで居ないも同然のように扱われて、自分の存在意義を真っ向から否定されているような気がしてしまう。

 いっそのこと、この家を出てしまった方が楽になれるのかもしれない。
 仕事を探さなくてはならなくなるが、選り好みさえしなければ働き口はいくらでもあるだろう。

 だが、今この状態の母をここにひとり残していくのは不安だった。
 自分が目を離した隙に、いつか自殺でもしてしまうんじゃないか――そんな懸念が頭の隅にちらついて仕方ない。

(昔は、こんなんじゃなかったのにな)

 鷹取がまだ小さかった頃の母は、子どものことを何よりも優先する、慈愛に満ちた女性だった。
 女手一つで子どもを育てながら朝から晩まで働いて、どれだけくたくたになっても家の中ではニコニコと笑っていた。

 一体どれだけの負担がかかっていたのか、どれだけの感情を押し殺していたのかわからない。

 だからあの日、ついに限界がきて、きっと何かが壊れてしまったのだろう。

 母に初めて『手を焼かれた』日。
 熱したフライパンに無理やり手を押し付けられて、あまりの痛みに幼い鷹取は泣き叫んだ。

 キッカケは何だったのか、今はもう覚えていない。
 ただ一つだけわかるのは、それまで母の中で積み上げられてきたものが、一気に崩れ落ちたのだろうということだけ。

 母の心がそこまで追い詰めてられていたことに、幼い鷹取はその瞬間まで気づくことができなかった。

 結局、自分は母にとっての何だったのだろう。
 ただのお荷物だったのだろうか。

「隼人ぉ……。お酒、買ってきてよぉ……」

 その声にハッとして、鷹取は顔を上げた。

 見ると、リビングの隅に転がっていた母はいつのまにか薄目を開けて、無表情のまま暗い天井を見つめていた。

「……また酒かよ」

 酒、酒と、口を開けばそればかり。
 たまに隼人、と名前を呼ぶのも、何か頼み事をするときだけだ。

 家にいれば酒を嗜み、外に出れば男を漁る。
 あの『手を焼かれた日』から、母は自分の息子に一切の興味を示さなくなった。

 その証拠に、あの日を境に、母はふらりとどこかへ出掛けたまま帰らなくなることが多くなった。
 そうして児童相談所や施設など周りの人間が騒ぎ出して初めて、強制的にここへ戻らされる羽目になる。

 そんなにもここへ帰るのが嫌なのか――と問い詰めてやりたくなる反面、それでも最終的にはここへ帰ってくるということに確かな安堵を覚える自分がいる。
 都合の良い扱いを受けていると頭ではわかっているのに。
 それでも心のどこかで、何かを期待してしまっている。

「ねえ、隼人ぉ。早く……」

 うわ言のように繰り返す母を見兼ねて、鷹取は渋々と歩み寄った。
 そうして傍らにしゃがみ込んでみるが、母は虚ろな目を天へと向けたまま、息子の顔を一瞥もしなかった。

「……お酒……」
「もうやめとけって。朝からしこたま飲んでただろ。自分の限界がわからねえのか? これ以上は飲ませらんねーよ」

 鷹取が否定の意を示して初めて、母は息子の顔を見た。

「なんで、そんな冷たいこと言うの……?」

 信じられない、とでもいうような目で、縋るように問う。

「だから、これ以上飲んだら危ねえって言ってんだよ。もうベロベロじゃねえか」
「あんたまで、私を見捨てるの……?」

 会話が噛み合わない。
 酔いのせいでもはや頭が回っていないのだろう。

「見捨てるとか、そんなんじゃねーよ。一体何の話をしてんだよ」
「今朝、お父さんから電話があったの……。すごく怒ってたわ。お前は子どもの面倒も見れない駄目な母親だって。このままいつまでも変わらないつもりなら、今後は仕送りもやめるぞって……」

 お父さん、というのは母の実父であり、鷹取にとっては祖父に当たる人物だ。

 実家からの仕送りがあるおかげで、鷹取たち親子は何とか生計を立てている。
 だからこうして何を言われても、こちらが文句を言える立場ではない。

 とはいえ、鷹取自身は祖父母とはほとんど面識がなかった。
 会いに行く機会がないというよりは、一方的に避けられているのだ。

 もともと何処の馬の骨ともわからない男との間に出来た子どもとあれば、そんな態度になるのも致し方ないのかもしれない。
 勘当されなかっただけマシだと、むしろ感謝すべきなのだろう。
 
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