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第2章

可能性の話

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 烏丸が病室に戻ると、すでに羽丘の姿は消えていた。
 きっと自分の病室に帰ったのだろうと踏んでいたが、彼女の部屋――三〇七号室を覗いてみると、ベッドはもぬけの殻だった。

 さすがに放っておくこともできず、仕方なく彼女の行方を知っていそうな人物に尋ねる。

「そうねえ~。羽丘さんなら、屋上で見たような気がするけどぉ?」

 どこか白々しい百舌谷の声にやや苛立ちを覚えながらも、一応礼を言って屋上へと向かう。

 屋上に続く扉は普段、関係者以外が立ち入らないように施錠されているはずだった。
 にも関わらず、百舌谷がためらいもなく屋上を指摘したということはつまり、羽丘がそこにいることを確信しているのだろう。

 あの看護師はやけに患者に対してお節介を焼く節がある。
 一体どういう権限があってそんなことをするのかはわからないが、大方、羽丘に頼まれてこっそり屋上を解放したのだろう。

 薄暗い非常階段を上っていくと、最上段の所に屋上へ出る扉があった。
 烏丸が扉の前に立つと、辺りでは雨が壁を打ちつける音が反響していた。

 こんな悪天候の中で、彼女は屋上にいるのだろうか。
 疑問に思いながらも、扉のノブを回す。

 やがて開けた視界の先で、一人の少女がそこに佇んでいるのが見えた。
 未だ雨の降り続く屋上の縁で、こちらに背を向けて赤い傘を差している。

 その小さな背中がやけに儚げに見えて、烏丸は思わず声をかけた。

「羽丘……」

 その名を呼ぼうとした声は、雨の音にかき消された。
 ここからでは余程大きな声を上げなければ届かないだろう。

「……羽丘!」

 柄にもなく声を張り上げたその瞬間。
 雨の音にまじって、ほんの一瞬だけ、彼女のか細い歌声が聞こえた。

 その歌声にハッとしたのと、視界の先で彼女がこちらを振り返ったのとはほぼ同時だった。

 少しだけ驚いたような羽丘の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。

「……烏丸くん?」

 羽丘は歌を中断して、ゆっくりと烏丸の元へと歩いてきた。

「よくここがわかったわね。もしかして百舌谷さんから聞いたの?」

 目の前まで迫った彼女は、思ったよりも落ち着いていた。
 その口元にはほんのりと微笑が浮かんでいる。

「うん……まあ。それより、こんな所で歌ってたの? 風邪ひくよ」

 一体いつからここで歌っていたのか。
 傘を差しているとはいえ、サンダルを履いた彼女の足元はすでにぐっしょりと濡れていた。

 彼女は手にした赤い傘を畳むと、室内用のスリッパに履き替えて扉の内側に入った。

「ふふ、このくらい平気よ。それよりほら、この屋上。いつもは扉に鍵がかかってて入れないでしょ? でも時々、百舌谷さんに頼んでこっそり開けてもらってるの。ここなら他の看護師さんたちにも気づかれないから、思う存分歌えるのよね」

 以前のようにあの中庭で歌っていたら、すぐに見つかって病室へ連れ戻されてしまう。
 その対策として、彼女はここを選んだらしい。

「それで、わざわざここまで来たってことは、私に用があったのよね?」

 彼女は烏丸の隣に立つと、雨の降る暗い空を見上げて言った。
 その声色は、どこか緊張しているように烏丸には聞こえた。

「うん……。あいつから聞いたよ、色々。飛鳥、だっけ。従姉妹なんだってね。あんたの両親が亡くなってから、一緒に暮らしてるって聞いた。ここに入院してからも、ちょくちょく顔を出しに来てるって。それから――」

 その先に続けられる言葉に、羽丘は身構えているようだった。

 烏丸は探るような視線を彼女に向けて言う。

「あんたの病気、本当はまだ治せる可能性があるんだってね」

 羽丘は何も答えず、ただ黙って遠い空を見上げていた。

 天から降り注ぐ雨の音だけが、静けさとともに二人を包み込む。

「ケンカの理由もそれだって聞いた。あいつは、今すぐにでもあんたに手術を受けて欲しいと思ってるけど、それを言うと、あんたは怒って聞く耳を持たないって」
「前にも言ったけど、手術をしたら、声がなくなるの」

 やっと口を開いた彼女の声は、あきらかな拒絶の色を含んでいた。

「声帯を摘出して……二度と歌えなくなるの。それは『治る』とは言わないわ」

 言い終えるのと同時に、彼女は小さく咳き込んだ。
 まるでタイムリミットが近づくのを報せるように、彼女の咳は日に日に頻度を増していく。

「でも、手術をしなきゃ死ぬんでしょ?」
「歌えないまま生きるくらいなら、死んだ方がましよ。……それとも何。あなたもあの子といっしょで、今すぐ私に声帯を捨てろって言うの?」

 わずかに鋭さを増した彼女の目が、斜めに烏丸を睨め付ける。
 窮地に追い込まれてもなお他人を威嚇する様は、手負いの獣そのものだった。

「そんなことは言ってない。あんたが歌を好きだってことはわかってるし、ずっと歌っていられるなら、それ以上のことはないと思ってる。ただ……今ならまだ助かるかもしれないのに、その可能性まで捨ててしまうのは、本当にあんたのためになるのかって」
「本当に私のことを思うなら、今のままで私を死なせてくれるわよね?」

 やはり飛鳥の言っていた通り、羽丘は聞く耳を持たない。

「私はこのままがいいの。声を出せない生活なんて考えたくもない。それで死ぬっていうなら本望だわ。私は私のままで死にたいのよ」

 相手に有無を言わせない、鋼の意思を含んだ声だった。

「俺は……」

 こちらが反論するよりも先に、彼女はふいとそっぽを向いてしまった。
 そのまま階段を降り始めた彼女の背中が、もう何も話すことはないと語っている。

「俺は、ただ……あんたに死んでほしいとは思わなくて」

 何と言えばいいのかわからず、ほとんど一方的な感情をぶつけるように言うと、彼女は一度だけ立ち止まって、

「それをあなたが言うの? 命知らずで、一歩間違えればいつ死んでもおかしくないあなたが」

 こちらを振り返ることもなく、半ば説教をするように言う。

「私のことより、あなたはまず自分の身を心配した方がいいんじゃない? ……どっちが先に死ぬか、今はまだわからないわね」

 どこか呆れたように笑いながら、不穏な言葉を残して、彼女はその場を去っていった。
 
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