飛べない少年と窓辺の歌姫

紫音

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第1章

揺れる心

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 病室に戻る途中、烏丸はふと車椅子の動きを止め、中庭の見える窓の方へ目をやった。

 視線の先――庭の中央では、一本の桜の木が淡くライトアップされている。
 静寂の中、薄桃色に着飾ったその木だけが、夜の風景にぼんやりと浮かび上がっていた。

 昼間はこの場所で、あの少女が歌っていた。
 か細い声で、幸せそうに。

 あのときの笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
 あんな風に笑う人を見たのは、酷く懐かしいことのような気がする。

 ――あなた、いつか死ぬわよ。

 そう忠告した彼女の目は、烏丸を射殺いころさんばかりに鋭く研ぎ澄まされていた。
 まるで他人事ではない、あたかも己の問題と向き合うような、真剣な眼差しだった。

(やっぱり心配してくれた……のかな)

 口調こそ刺々しかったものの、その実、彼女の口にした内容は烏丸の身を案じるようなものだった。
 攻撃的な態度に惑わされそうになるが、実は意外と優しい子なのかもしれない。

 これがもしも担任の鴨志田だったら、「周りに心配をかけるからやめなさい」とか、当たり障りのない教科書にでも載っていそうなセリフだけで済ますのだろう。

 こういう温度差は、本人の意識しない内にも、身体の外側に滲み出てしまうものなのかもしれない。

 ――あなた、死にたいの?

 再び、少女の声が思い出される。

 別に死にたいわけじゃない。

 けれど、このまま危険な行為を続けていれば、いつかは本当に死ぬかもしれない。
 それはわかっている。

 なら、自分はなぜそうまでして、こんな馬鹿げたことを続けているのか?

 ――怖いなら、俺が代わりに跳んでやってもいいんだぜ?

 脳裏に響くあの声。
 幼馴染の鷹取隼人が、こちらに嘲笑を向けてくる。

 そう、あの目だ。

 あいつに、あの挑発的な視線を向けられる度、烏丸は自制が利かなくなる。
 たとえ危険は承知の上でも、止まれない自分がいる。

 身体のことは二の次で、己の本能に従って行動してしまう――これでは自分も、あの少女と同じではないか。

 いや。

 ――好きでもないことに命を賭けるなんてバカらしいって言ってんの。

 彼女は、自分とは違う。
 好きなことに情熱を注ぐ彼女と、好きでもないことに身を投げ出している自分とでは、決定的な差がある。

 彼女が自分の身を犠牲にしてまであそこで歌っていたのは、彼女がそれだけ『歌』を愛していたからだ。

 それに比べて烏丸は、好きなわけでもない、趣味にしているわけでもない、ただ幼馴染に対する意地のようなもので命を懸けている。
 ちっぽけなプライドに振り回されて、自暴自棄になっているだけだ。

 本当に、自分は一体何をやっているのだろう。

「翔」

 と、そこへ後ろから、聞き慣れた声が届いた。

 車椅子に座ったまま、首だけを動かして振り返ってみると、薄暗い廊下の先に、見慣れた制服姿の幼馴染が立っていた。

「隼人……」
「よお、捜したぜ。病室で待ってても全然帰ってこねーからさ」
「補習はもう終わったの?」
「ああ、おとなしく受けてきたぜ。鴨志田の顔は見てるだけでむかつくけど、さすがに留年は勘弁だからな」

 鷹取隼人は両手をポケットに突っ込んだまま、すり足気味に、だらしない足取りで近づいてくる。
 そうして烏丸の目の前まで迫ると、右手をスマホごと取り出して、その画面を徐に見せた。

「ほら、この間の動画。また閲覧数が跳ね上がったぞ。さすがに今回は労りのコメントが多いけどな」
「俺の飛び降り……。結局、アップロードしたんだ」

 画面の中で再生された映像には、数日前の自分の情けない姿が映っている。
 橋の上から十メートル下の川へ飛び込み、見事に足の骨を折った。

 さすがに、こんな格好の悪い動画を公開するのには抵抗があったが、それをはっきりと意思表示する前に、鷹取に先手を取られてしまった。

「事故の瞬間、ってなると、野次馬がうじゃうじゃ群がってくるみたいだな。普段とは違う層の視聴者が増えてやがるぜ」

 鷹取は嬉しそうに言うと、そこでやっと思い出したように烏丸の右足へ目を落とした。

「で、足の調子はどうなんだ?」
「見ての通り。まだリハビリは先になるって」
「どのくらい?」
「おとなしく寝てれば数日だって。来週には松葉杖で歩けるようにはなるだろうけど」
「ふうん」

 鷹取は手元のスマホを操作しながら、興味なさげに相槌を打つ。
 それから辺りをちょっと見回して、

「この病院、でかい規模の割にはやけに静かだよな。夜中に誰かが出入りしても気づかれなさそうっていうか」

 そう、まるで悪戯を思いついた子どものようにニヤリと笑った。

「何の話?」

 なんだか嫌な予感がして、烏丸は躊躇いがちに聞く。
 鷹取がこの笑みを浮かべるときはいつも、無茶な企画を考えていることが多いのだ。

「なあ、翔。そろそろベッドでじっとしてるだけの生活にも飽きてきただろ? ここらで一発、新作を撮らないか?」
「新作?」

 やはりそうくるか、と烏丸は身構えた。
 思わず右足に目をやりながら「今この状況で?」と聞き返すと、

「なんだよ。傷が痛んで動けねーってか? 腑抜けてんな」

 と、あからさまな嘲笑が返ってくる。

 
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