飛べない少年と窓辺の歌姫

紫音

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第1章

少女の歌声

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 多くの外来患者たちが行き来する受付の向かいで、車椅子に腰掛けた烏丸はスマホの通話を終えた。

 毎度毎度、電話のためだけに病室を出なければならないのは骨が折れる。
 が、なんだかんだでこの入院生活にも少しずつ慣れてきた。

 車椅子に座ったまま、タイヤの両脇に取り付けられたハンドリムを握り、前進させる。

 中庭に面した長い廊下を進んでいると、窓の外側でスズメが二羽、一緒におしゃべりをしながら飛び立っていくのが見えた。

 鳥はいいよなあ、と恨めしく思う。

 背中に翼を持った鳥たちは皆、大空へ羽ばたいて好きな所に飛んでいける。
 あんな風に自由に空を飛ぶことができれば、自分もこんなケガをして入院、なんて情けないことにはならなかったのに。

 今は福木シーネで固定されている右足首を見下ろしながら、ひとり肩を落とす。

 本当に、自分は一体何をやっているのだろう。

 ――怖いなら、俺が代わりに跳んでやってもいいんだぜ?

 脳裏で、見慣れた幼馴染の、こちらを試すような視線を思い出す。

 あの目で、あの声で、あの挑発的な態度を取られてしまうと、こちらもつい躍起になって無茶な真似をしてしまう。
 結果、こうしてまた無様にケガをする羽目になる。

 その方がよっぽど格好が悪いということは自分でもわかっているはずなのに、どうしても同じことを繰り返してしまう。
 ちっぽけなプライドに振り回される自分自身が心底嫌になる。

 はあ、と人知れず溜め息を吐いていると、そこへどこからか、かすかに歌声のようなものが聞こえてきた。

「……?」

 か細く、やわらかな音色。
 聴いたことのないメロディー。
 歌詞は英語っぽいことだけはわかるが、内容はほとんど聞き取れない。

 あたたかな春の風に乗せられて、その歌声は窓の外から聞こえてくる。

 見ると、中庭の中央――大きな桜の木の足元に、小柄な少女が立っていた。
 すでに散り始めている桜の花を見上げながら、小鳥がさえずるように歌を口ずさんでいる。

 年は烏丸と同じか、少し下くらいだろうか。
 高校生か、もしかすると中学生かもしれない。
 淡い青の病衣を纏った肌は抜けるように白く、腰まで伸びるやわらかそうな髪はわずかにウェーブを帯びている。

 その愛らしい姿に、烏丸は思わず見惚れていた。

 細い手指を胸の前で絡め、桜を見上げながら沁み入るようにメロディーを紡ぐ少女。
 その横顔は遠目でもわかるくらいに、穏やかな笑みを浮かべていた。
 まるで束の間の幸せを噛みしめるような、満ち足りた笑み。

 多くの人が慌ただしく往来する病院の中で、彼女のいる空間だけが、まるで世界から切り離されているかのようだった。

 なぜ彼女がそんなにも幸せそうにしているのか、烏丸には疑問だった。

 よほど歌が好きなのか。
 あるいは何か特別に良いことでもあったのか。

 わかるはずもないが、しかしどちらにせよ、その満ち足りた表情は烏丸には眩しすぎるものだった。

 あんな風に晴れ晴れとした笑みを浮かべることは、今の自分には到底できそうにない。

「あっ、いました。中庭です!」

 と、そこへ突如騒がしい声が届いた。

 烏丸が見ると、廊下の奥から早足でやってきた看護師が二人、慌てた様子で中庭へと出ていくところだった。

 ほどなくして看護師たちは少女のもとへ駆け寄り、その華奢な身体を左右から取り押さえる。

「……やめて。離して!」

 悲哀を滲ませた少女の声が中庭に響いた。
 一体何事かと、周囲の人々も中庭の方へ一斉に注意を向ける。

 少女は身を捩って逃げようとするが、二人がかりで押さえ込まれてはひとたまりもない。
 看護師たちは有無を言わさず、少女をどこかへ連れて行こうとする。

「やめて。お願い。もっと歌わせて……!」

 なおも抵抗する少女は懇願するような目を看護師たちへ向ける。
 先ほどの笑顔が嘘のように、その表情は絶望の色に染まっていた。

 状況からして、少女はおそらく無断で病室を抜け出してきたのだろう、と烏丸は予想した。
 彼女の容態はわからないが、看護師たちの様子を見るに、あまり思わしくはない状況なのだろう。

 そこまでして、なぜこんな場所で歌を口ずさんでいたのか。
 先ほどの幸せそうな横顔を思い出しながら、烏丸はひとり思案する。

 やがて観念したのか、少女はしゅんとしたようにおとなしくなると、そのままどこかへと連れ去られていった。

 その横顔があまりにも悲しげだったので、烏丸は何だか気の毒に思った。

 なぜ、そんなにも必死になって彼女はここへ来たのだろう。
 自分の身体よりも優先したい何かが、彼女の中にあったのだろうか。

 答えの出ない疑問を抱きながら、烏丸はふと、骨の折れた自分の右足首を見下ろした。
 と同時に、見慣れた幼馴染の顔――こちらを試すような、いつもの視線を思い出す。

 ――怖いなら、俺が代わりに跳んでやってもいいんだぜ?

 怖くて跳べないんだろ。
 跳ぶ勇気がないんだろ。
 本当にお前は臆病者だな――そんな風に笑われるくらいなら、足の骨の一本くらい安いものだと思えた。

(身体よりも優先したい何か、……か)

 自分も人のことは言えないなと、烏丸は胸の内で嘆息した。

 
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