白雪姫症候群~スノーホワイト・シンドローム~

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第4章

恋の病の治し方

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 けれどそれは一瞬のことで、

「……ふっ……あははははっ!」

 心底おかしそうに、雲水は噴き出して笑った。

「っは……。なに、言ってるの……? ボクは姉さんの弟だよ? 血の繋がった姉さんのことなんて恋愛対象として見るわけがないじゃない。バッカじゃないの。あっははは……っ!」

 息も絶え絶えに、狂ったように彼は笑い続ける。

「でも雲水。お前は俺の行動を見てイライラするんだろ? それはお前が、俺と同じように自分の心に素直になれないからじゃないのか? 本当は星蘭さんのことが好きなのに、他の女の子とばかりキスをするから――」

「何それ。ボクが旭に自分を重ねてるとでもいうわけ? 笑わせないでよね……!」

 雲水はそう拒絶すると、震える足でフラフラとその場に立ち上がった。

「雲水くん?」

 日和は心配そうに隣から彼を見上げる。

「おい、雲水。無理はするな」
「うるさいっ……!」

 俺の忠告を振り払い、雲水は叫んだ。

「姉さんなんてっ……関係ないよ。ボクは……可愛い女の子とキスができるなら、それでいいんだから……っは……。姉さんとキスをするのだって……、別に何とも思わないんだから……っ」

 ひゅーひゅーと肩で息をしながら、雲水はゆっくりとこちらへ歩み寄って来る。
 いや。正確には俺たちの背後にある、食堂の出口へと向かっている。

 星蘭さんのもとへ行こうとしているのだろうか。
 けれどこの様子だと、彼女のもとへたどり着くのは難しいだろう。
 彼の身体は今にも崩れ落ちてしまいそうで、汗に濡れた明るい髪は額や頬に張り付いていた。

「おい、やめろ雲水。ぶっ倒れるぞ」

 このままだとさすがに危険だ。

 しかし俺が止めに入ろうと立ち上がりかけたとき、俺の腕の中で、不意に月花が身体を起こした。

「月花?」

 ゆっくりとした動きだったが、今の彼女にとってはそれが精一杯だったのだろう。
 震える足でその場に立ち上がり、無言のまま、前方から近づいてくる雲水を正面から抱きとめる。

 二人の白雪姫。

 彼らは、お互いに倒れそうになる身体を支え合い、赤くなった顔を突き合わせ、そして、

「――……」

 少しだけ開いたままの雲水の唇へと、月花は静かに口づけた。

 時間にすると一秒にも満たなかったかもしれない。
 けれど俺には、その時間がひどく長いものに感じられた。

 二人がお互いの身体を離すと、彼らの顔色はみるみるうちに正常なものへと戻っていった。

「……最初から、こうしていればよかったんですね」

 そう消え入りそうな声で言って、月花はこちらを振り返った。

 そうして露わになった彼女の顔は、今にも泣きそうな目をして笑っていた。
 彼女の陶器のように白い肌が、その儚げな笑みを一層引き立たせている。

「ごめんなさい。私……雲水さんが白雪姫だってこと、もっと早くに知っていればよかったのに。そうしたら、旭さんや日和さんに迷惑をかけることだってなかったのに……」

 必死に笑みを浮かべている彼女に、俺は何と声を掛ければ良いのかわからなかった。

「月花……」

 俺は、自分が情けなくて仕方がなかった。

 いつも、いつも、月花は俺に精一杯の気を遣ってくれて。
 けれど、それに対して俺は何もできなくて。

 彼女には本当に、こんな顔をさせてばかりだ。

「……へえ。男前だねえ、月花ちゃん。惚れちゃいそうだよ」

 雲水は額の汗を拭いながら言った。
 熱はすっかり引いたようで、その声には普段の軽薄さが戻っている。
 けれど、今回はさすがに懲りたのか、

「でも、こんな身体じゃあ色々と不便だし……。さっさと姉さんを捕まえて、病の治療法を聞き出さないとね」

 その言葉に、俺は頷く。

 終わらせなきゃいけない。
 この関係を。

 キスをしなければ生きられないだなんて、そんな状況は間違っている。

 月花につらい思いをさせないためにも、必ず病を治さなくてはならない。





       ◯





 それから、しらみ潰しに校内を回った。
 けれど星蘭さんの姿はどこにも見当たらなかった。

 次第に閉門時間が近づき、グラウンドでは練習を終えた陸上部員たちがトンボで足元の整備を始めている。

 タイムリミットが迫り、焦りが増す中、正面玄関の所までやって来た俺たちは人目を盗んで星蘭さんの下駄箱を覗いた。

「……うん。やっぱり校舎の中だな」

 下駄箱にはローファーがあった。
 彼女がいま上靴を履いているということは、すなわち彼女は校舎内に潜んでいるということになる。

「ねえ、屋上はどうかな? まだ見てなかったよね」

 そう言ったのは日和だった。

 言われてみれば、屋上はまだ確認していない。

「行ってみましょう」

 月花が言って、俺たちは頷いた。





       ◯





 屋上へと続く階段を上りながら、俺は、前にもこんなことがあったな、と考えていた。

 前にもこんな風に、俺は人を捜して校内を駆け回ったことがあった。

 あのときは、月花を捜していたのだ。
 俺とキスをするのが申し訳ないといって、校舎のどこかに隠れてしまった彼女を。

 あのときの彼女もやはり、屋上に隠れていた。
 実は意外と見つかりにくい場所なのだろうか?

 思えばあの場所から、すべてが始まったのだ。

 月花と出会って、キスをして、日和に見られて、誤解されて。

 今まで色々なことがあったけれど、それももうじき終わる。

 病の存在によって築かれた奇妙な巡り合わせに、俺たちはいま終止符を打とうとしている。

 少しだけ寂しい気持ちにもなるけれど、それは俺のただのわがままだ。

 俺たちはこれから、それぞれの道を歩んでいく。

 病によって束縛される必要なんて、どこにもないのだから。





       ◯





 屋上の扉を開けると、そこには雨上がりのような空が広がっていた。
 決して晴天とはいえない、けれど確かな陽の光を感じられる曇り空。

 薄い灰色をした雲の切れ間からは、光の柱がカーテンのように地上へ降り注いでいる。

 この光は『天使の梯子はしご』というらしい。
 まるで天使が降臨するかのような神々しい見た目から、そう呼ばれているのだと聞いたことがある。

 そんな幻想的な風景の中に、一人の女子生徒が立っていた。

 こちらに背を向けたその少女は、屋上の真ん中で、肺に空気をいっぱい吸い込もうとするように、両手を大きく広げていた。

「星蘭、さん……?」

 少女の背中に、俺は呼び掛けた。

 すると彼女は長いポニーテールを揺らして、くるりとこちらを振り返った。

「にゃは。見つかっちゃったね」

 ぺろりと舌を出して、彼女は笑った。

 やはり、そこにいたのは星蘭さんだった。
 天からの光を浴びた彼女の姿は、いつにも増して美しく見えた。

「これで本当に最後ですよ、星蘭さん」

 俺は逃げ場を塞ぐように、階段室の前に立って言った。

「そうだねえ、もう帰る時間だもんね。……あたしも、そろそろお別れしなきゃ」

 彼女はそう、遠い空を見上げて言った。

「お別れ……?」

 恐る恐る、月花が聞いた。

「うん、お別れ。星蘭の身体、あたしがずっと借りてるわけにはいかないでしょ? だからそろそろ返してあげなきゃなあって」
「! それって……星蘭さんの身体にはもう憑りつかないってことですか?」

 俺が聞くと、星蘭さんは笑った。

「うん、あたしはね。……でも、うちの神社には他にもいっぱい神様がいるから。あたしが離れたところで、次は他の神様が憑りつくかもしれないけど」
「ま、待ってよ! 消える前に、白雪姫症候群の治し方を教えてよね!」

 今度は雲水が、いつになく慌てた様子で言った。

「もちろん。あたしを捕まえたご褒美に、ちゃんと教えてあげるよ。……ってことで、誰があたしとキスをするの?」

 星蘭さんがそう言ったとき、その場にいた全員がハッとした。

 そういえば、キスの相手を決めていなかった。

「立候補がないなら、あたしが決めちゃうよん」
「え、ちょ、まっ……」

 俺が本気で狼狽えるのにも構わず、星蘭さんは細い腕を伸ばして。
 有無を言わさず、希望の相手の顔をまっすぐに指差した。

 そうして選ばれた人物は、ぽかんとした表情のまま、その場に立ち竦んでいた。

「おいで、子羊ちゃん」

 そう言った星蘭さんの人差し指が示した先には、実の弟である雲水が立っていた。

「本当は、ずっとキスしたかったんでしょ? お姉ちゃんのこと、大好きだもんね」
「! な、なに言って……」

 指摘された途端、雲水の頬は明らかに紅潮した。

 まるで月花みたいなその反応は、ちょっと新鮮だった。

「にゃは。とぼけても無駄だよ。あたしは縁結びの神だもん。隠してたってお見通しだよ」

 星蘭さんはそう自信満々に告げるなり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

「ほら、そんなに照れてないでさ。大好きなお姉ちゃんとキスができるんだよ? もっと喜びなよ」

 やがて彼女は雲水の目の前まで迫り、恥ずかしそうに目を背けている弟の顔を覗き込む。

「……ね、姉さんはともかく……あんたのことは大っ嫌いなんだからね」

 苦し紛れに、雲水はそう反論した。

「むー。やっぱり雲水ちゃんってば冷たあい! どうしてあたしにはそんなに冷たくするの?」

「そんなの……当たり前でしょ。あんたみたいに、あの神社にいる神様たちは代わる代わる姉さんの身体を利用して、自分の欲を満たすために遊びまわるんだから。……そのせいで姉さんは、周りの人間から変な目で見られるようになったんだよ。生徒会選挙に落ちたのだって、あんたたちのせいなんだからね」

「そうなの?」

 目から鱗とでもいうように、星蘭さんは目を丸くした。
 その様子からすると、本当に気づいていなかったらしい。

「そっかあ……迷惑をかけちゃったんだね。それじゃあやっぱり、あたしはもうお別れしないとね」

 少しだけ申し訳なさそうに、彼女は溜息を吐いた。
 けれどすぐにまた微笑を浮かべて、

「あーあ。やっぱり楽しい時間って一瞬だよねえ。オカルト研究部を作ったときは人が集まらなくて、ずーっと退屈だったけど……。でも旭ちゃんたちと会ってからは、いっぱい遊んでもらえて楽しかったなあ。短い間だったけどさ」
「星蘭さん……」

 こうやって、それまでのことを振り返られると、いよいよ別れのときだと感じさせられる。

「いっぱい遊んでくれて嬉しかったよ。あたしが満足するには、もう十分。……だからやっぱり、これでサヨナラだね」

 その言葉を聞いた瞬間。

 俺の脳裏で、デジャヴが起こった。

 ――とってもたのしかったよ。わたし、すごくしあわせだった。……だから、これでサヨナラだね。

 いつか、どこかで耳にした言葉。

 一体いつの記憶だろう?

 思い出せない。

「……ま、待ってください!」

 思い出しかけた記憶の欠片を手放したくなくて、俺は縋るように叫んだ。

「さっき話してましたよね。あの星水神社の神様たちは、代わる代わる星蘭さんの身体に憑りついてきたって……。それじゃあ、俺が小さい頃に会った星蘭さんも、その神様のうちの一人だった可能性があるということですよね?」
「……そうだね。旭ちゃん、写真の件があったよね」

 星蘭さんは穏やかな表情を浮かべて言った。

 古いアルバムに残っていた、あの写真。

 幼稚園か、小学一年生の頃。

 形の悪いピースサインを作る俺の隣で、満面の笑みを浮かべていた女の子。

「本当は、このまま黙っていようかとも思ったんだけどね」

 どこか観念したような声で、星蘭さんは言った。

「旭ちゃんがそこまで必死になって捜してくれたから、特別に教えてあげる。……その思い出の女の子は、あたしだよ。旭ちゃんの記憶を消したのもそう」

 その言葉に、俺は目を見開いていた。

 ずっと探していた思い出の答え。
 しかし心のどこかでは、俺はすでに、その真実に気づいていたのかもしれない。

「そんな……。どうして、記憶を消す必要があったんですか?」

「そうしないと、旭ちゃんの迷惑になると思ったんだよ」

「迷惑?」

「うん。色々あるけど……例えばさ、当時のあたしが本気で旭ちゃんに惚れちゃったとか。あるいは逆に、旭ちゃんがあたしに惚れちゃったとかさ。そういうことがあったら、困るでしょ? 当時はどうだったかよく覚えてないけどね」

 ぺろりと舌を出して星蘭さんが笑う。

 その仮説は、一概には否定できなかった。

 特に後者。
 俺が当時の星蘭さんに惚れたという可能性は極めて高い。

 なぜなら、その感情があればこそ、俺が日和に惚れた理由にも説明がつくからだ。

 でも、

「……仮にそれが事実だったとして、どうして俺の記憶を消したんですか?」

 そこがわからない。

 大切だったはずの思い出を、どうしてわざわざ消してしまおうとするのだろう?

「だって、この身体はあくまでも星蘭のものだもん。星蘭の身体で、他の人格が恋をするわけにはいかないでしょ? それに、絶対に成就しない恋だとわかっているのに、思い出だけを残すなんて残酷だと思ったんだよ。失恋した人がよく言うでしょ? 未練を断ち切るために、過去の思い出を忘れたいって」
「!」

 未練を断ち切るために、過去の思い出を忘れようとする――それは紛れもなく、つい数週間前までの俺自身の姿だった。

 日和にフラれて、生まれて初めての失恋に落ち込んで、それでも彼女を忘れることができなくて。
 立ち止まって、前に進めなくて。

 どうすれば彼女のことを忘れられるのか、そればかり考えていた。

「もしかして、私たちの今の記憶も……あなたは消すつもりですか?」

 そう尋ねたのは日和だった。
 どこか怯えたような声だった。

 考えてみれば無理もない。
 記憶を消す、なんて大それたことを簡単にやってのける存在が目の前にいるのだから。

 けれど星蘭さんは、日和の不安を吹き飛ばすようにニカッと八重歯を見せて笑った。

「ううん。記憶を消すだなんて、そんな寂しいことはもうしないよ。だってあたしは覚えててほしいもん。今日みたいに、みんなで一緒に遊んだこと!」

 その発言は、俺にとっては耳が痛かった。

 大切な思い出を忘れようとするなんて、今となっては、とても空しい考え方だと思えてくるから。

「星蘭さん」

 と、今度は月花が口を開いた。

「私、ずっと覚えています。あなたと一緒に鬼ごっこをしたこと。こうしてお話しをしたこと。それから……一緒に裏山に登って、白いタンポポを見つけたときのことも」
「にゃは。ありがとね、月花ちゃん。あたしもずーっと覚えてるよん」

 星蘭さんの声と重なるようにして、閉門の予鈴が鳴った。

「……時間だね。それじゃあ、そろそろキスをしますか!」

 言うなり、星蘭さんはがばっ! と両手を開いて雲水を抱きしめる態勢に入る。
 あたしの胸に飛び込んでこい、といわんばかりだ。

「ほれほれ、雲水ちゃん」
「何がほれほれ、だよ。嫌だよボクは」

 さすがにこのムードのなさではやる気も失せるのだろう。
 雲水は頑なに彼女と目を合わせようとしない。

「もーっ。雲水ちゃんってばどうしてそこまで嫌がるの? お姉ちゃんのこと好きなくせに」
「それは、だって……」

 視線を斜めに落としたまま、雲水はボソボソと小さな声で言った。

「姉さんは、真面目な人だから……。血の繋がった弟とキスをするなんて、きっと嫌がるでしょ?」

 ようやく絞り出されたその言葉に、彼の葛藤が滲んでいるように思えた。

 血の繋がった姉弟だから――それこそが彼を悩ませる種となっているのかもしれない。

「そんなの本人に聞いてみなきゃわかんないでしょ? 聞く前から決めつけちゃだめだよ」

 まったくの本心で言っているのだろう。
 純粋な目をした星蘭さんはまるで何でもないことのように言う。

「本人に聞くって……そんなことしたら、告白と同じでしょ」

 雲水はやっと星蘭さんの目を見て返した。

「なら、良い機会だから思い切って告白しちゃいなよ」
「なっ……。他人事だと思って」

「だって、白雪姫症候群を治す方法は『好きな人に想いを伝えること』なんだもん」
「!」

 さらりと重大なことを口にした星蘭さんに、その場は一瞬だけ時が止まったかのようだった。

「じゃあね。そういうことだから、がんばってね。雲水ちゃん」

 彼女はそのアーモンド型の美しい目を閉じると、微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を伸ばす。

 目の前に立つ雲水は複雑な表情をして、彼女のことを待っている。

 やがて、音もなく。

 二人の姉弟は俺たちに見守られる中、静かに触れるだけのキスをした。
 
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