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第4章
星水神社
しおりを挟むまどろみの中で、声が聞こえた。
――……くん。あさひくん。
誰だろう。
どこかで聞いたことのある声。
――だいすきだよ、あさひくん。
女の子だろうか。
子どもっぽい、高い声だ。
――いままでありがとう。いっしょにあそんでくれて。
一緒に遊んだ?
誰だろう、思い出せない。
けれど、どこか懐かしい感じがする。
――とってもたのしかったよ。わたし、すごくしあわせだった。……だから、これでサヨナラだね。
声は段々と遠くなってく。
待ってくれ。
君にはまだ聞きたいことが……。
――わたしのこと、わすれてね。
◯
「待っ……!」
思わず手を伸ばしたとき、ハッと目が覚めた。
気がつくと、雨が降っていた。
どんよりとした灰色の雲が、視界いっぱいに広がっている。
ぽかんと口を開けたまま呆けていると、細かな雨粒が舌に当たった。
「ここは……」
「気がついた?」
「!」
声が降ってきた。
ぼんやりと空を見上げていると、声の主らしき女の子の顔が、ぴょこっと視界に入ってきた。
ほんのりと吊り上がった美しい目元に、長いポニーテール。
纏った巫女装束は雨に濡れて、薄らと肌の色を透けさせていた。
「星蘭、さん……?」
目の前に現れた麗しい顔を見て、俺は驚きと安堵の入り混じった声を漏らした。
星蘭さんだった。
彼女は全身が雨に濡れるのにも構わず、やわらかな微笑を浮かべてこちらを見下ろしていた。
ほんの少しだけ首を伸ばすようにしているのは、大きな胸が邪魔になってこちらの顔が見えにくいからだろうか。
「大丈夫? 頭を強く打ったようだったけれど……。いま救急車を呼ぶかどうかで迷っていたの」
彼女は微笑を絶やさぬまま、申し訳なさそうに眉をひそめた。
この口調のときの彼女は、あの子どもっぽくて破天荒な星蘭さんではないのだろう。
おそらく、今の落ち着いた雰囲気の方が本来の彼女なのだ。
「ごめんなさいね、弟が乱暴なことをして。痛かったでしょう?」
その言葉で、俺の脳はゆっくりと記憶を取り戻していく。
弟。
そうだ。
さっきは拝殿から出てきた男に竹ボウキを投げつけられて――。
「で、どうすんのさ? 救急車は呼ぶの? 呼ばないの? ちゃんと指示してくれないとボクも動けないんだけど」
そんな不満げな声が、今度は横の方から聞こえた。
聞き覚えのある男の声だった。
こちらはあまり印象が良くない。
むしろ人の神経を逆撫でするような嫌味な声だ。
俺は恐る恐る首を動かして声の主を見やる。
そこに立っていたのは、俺と同じ高校の制服を着た男子生徒だった。
明るい髪にピアス。
中性的で整った顔立ち。
水も滴る何とやら。
予想していた通り、そこにいたのは竹ボウキを持った男――雲水だった。
「……なに、旭。何か言いたげな顔してるね。文句でもあるの?」
そう言って、彼は明らかに不機嫌な目でこちらを睨んでくる。
いや、文句も何もお前のせいで俺は倒れたんだろうが――と言いたいところだったけれど、彼の尋常ではない殺気のようなものを感じて、俺は口を噤んだ。
よほど虫の居所が悪いのだろう。
彼の顔には反省の色はおろか、いつものいやらしい笑みはなく、代わりにこれでもかというほど深いシワが眉間に刻まれている。
「だめよ、雲水。まずは旭君に謝って」
星蘭さんがたしなめる。
それを「ふん」と鼻であしらう雲水。
って、ちょっと待て。
そもそも星蘭さんが俺を盾にしたんじゃなかったか?
……といっても本人は覚えていないのだろうけれど。
「それより旭、いつまでそうしてるつもり? 身体に問題がないなら早くそこをどいてよね。人んちの境内で、人の姉に膝枕してもらうなんて、恥ずかしいと思わないの?」
「え?」
雲水の放った言葉に、俺は首を傾げた。
人んち? 姉? ひざまくら……?
数秒の間を要して、その一つ一つの単語の意味を考える。
そして、
「! ……とわあっ!」
すべての意味を理解したとき、俺はその場から飛び起きた。
特に反応したのは、『膝枕』。
それまで何の違和感もなく神社の境内で寝転んでいたが、本来はごつごつとした石畳が後頭部に当たっていたはずである。
しかしその寝心地は不思議と心地よく、むしろやわらかいとさえ思える感触だった。
それもそのはず。
仰向けに寝転んでいた俺の後頭部には、あたたかい人肌の感触――星蘭さんの膝枕があったのだから。
「ご、ご、ごめんなさい! 俺、気づかなくって」
「あら、どうして謝るの? わたしが勝手にこうしていただけなのに」
そう言って、星蘭さんはふふっとお淑しとやかに笑う。
そっと口元に手を添えるその姿は妙に色っぽい。
見れば見るほど、あの別人格の彼女とは正反対だ。
「あ、いや……迷惑じゃなかったのなら俺はいいんですけど。……っていうか、姉っていうのは……?」
「ああ、そうそう。あなたが雲水のクラスメイトだと聞いて、わたしも驚いたのよ」
彼女はそう思い出したように言って、その場にゆっくりと立ち上がると、濡れた髪を揺らしながら深々と頭を下げた。
「改めて自己紹介するわね。私は雲水の姉の星蘭。この星水神社の長女よ」
「へ……っええええ!?」
思わず声を上げ、二人の姉弟を交互に見る。
確かにどちらも美形ではあるが、まさか血が繋がっていたなんて。
世間は狭いにもほどがある。
「さあ、早く濡れた身体を拭かなくっちゃ。よかったら旭君もうちに上がって。すぐにお茶を用意するわ」
星蘭さんはそう言って俺の背後に回り、やんわりと肩を押す。
そうして促されるまま、俺は二人の住む社務所へと向かうことになった。
◯
案内されたのは畳の部屋だった。
リビングだろうか。
こぢんまりとした部屋の真ん中には古い卓袱台ちゃぶだいと座布団が置かれている。
前時代的なその部屋の中でただ一つ、壁に設置された薄型テレビだけが妙に浮いていた。
制服は雨で濡れてしまったので、代わりに薄手の浴衣を手渡され、着替えた。
なんとなく、どこかの民宿へ旅行に来たときのような気分になる。
「旭君、着替えは終わった? 入るわよ」
すらりと襖ふすまが開いて、星蘭さんが顔を見せた。
新しい巫女装束に着替えた彼女は襖の手前で膝をつき、女将さんのような所作で部屋に入ってくる。
そんな彼女の傍らには、盆に載った急須と湯呑が三つ。
俺と、星蘭さんと、おそらく雲水の分だろう。
しかし雲水はどこか別の部屋へ行ってしまったきり帰ってこない。
「ごめんなさいね。あの子ってば、あなたに謝りもしないで」
「あ、いえ。おかまいなく」
思えば今日は、この姉弟からそれぞれ殴られる羽目になってしまった。
昼休みは星蘭さんからの誤解によるビンタ。
放課後は雲水の竹ボウキである。
「それで、今日はわたしに用があったのよね?」
お茶を並べ終えた星蘭さんが、座布団の上に正しく座り直して言った。
「はい。実は……」
俺は昼休みと同様、例の写真を取り出して彼女に見せた。
こうしてみると、まるで双子の姉妹にでも会ったかのようだ。
「……うーん。確かに、ここに写ってるのはわたしよね」
「ですよね」
彼女は片方の頬に手を当てて、昼間と同じようなことを口にした。
「うん。間違いないわ。この場所はどう見ても星水神社だし……。でも――」
「でも?」
彼女はちらりと上目遣いにこちらを窺って、
「わたしの人格が変化するのは、あなたも知ってるわよね?」
「……はい」
その反応を見る限り、やはり彼女も当時のことは覚えていないのだろう。
そして、写真の中の星蘭さんがどちらの人格だったのかさえわからないということだ。
「そう、ですよね……。当時の状況なんてわからないし、それに、こんな昔のことなんて覚えてるはずがないですよね。……すみません」
俺はそう笑って流そうとしたが、
「あのね。こんなことを言っても困らせてしまうだけかもしれないけれど……」
「え?」
星蘭さんは顔を上げ、まっすぐに俺を見た。
その表情はどこか切なげで、ともすれば涙を零してしまうのではないかとさえ思わせた。
「わたしの……人格が入れ替わってしまうのは、わたしが二重人格というわけではないの。あれは、もっと別のもの。まったくの別人が、わたしに乗り移っているだけなのよ」
「? どういうこと、ですか?」
「霊が憑依する、と言った方がいいかしら」
「!」
霊、という言葉に俺は凍りついた。
「この星水神社にはね、たくさんの神様が祀られているの。その神様たちはみんな、昔この辺りで亡くなった子どもたちの霊の集合体といわれているわ。普段は特に何かをするわけではないのだけれど、でも時々、わたしのような身近な巫女に憑りついて、遊びまわることがあるの」
俺は黙って彼女の話を聞いていた。
特に反論がないから、というわけではない。
あまりにも突飛すぎるその話の内容に、どう反応すればいいのかわからなかったのだ。
「だからその、信じてもらえるかどうかわからないけれど……。あなたが捜しているその子は、わたしではない、この神社の神様の一人かもしれない。彼らは不思議な力を持っているから、あなたの記憶を操作することだってきっとできるわ」
「そんな。記憶を操作するだなんて、そんなこと……。それに、どうしてそんなことをする必要があるんですか?」
「それはわたしにもわからないわ。彼らには彼らなりの考えがあるのだと思う。それに、傍から見れば悪事と思えるような行いでも、それで救われる人も確かにいるの。……雲水だってそう。あの子はちょっと――少し難しい体質に変えられてしまったのだけれど、本人はそれで満足しているのよ。わたしには不思議で仕方がないのだけれど」
「その体質って、まさか……」
尋ねて良いものかどうか迷ったが、
「キスのこと、ですか?」
思い切って、俺は聞いた。
すると星蘭さんは、明らかに戸惑いを含んだような表情を見せた。
「知っているの? 白雪姫のこと」
「!」
彼女の口からその名が出たことに、俺は動揺を隠せなかった。
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