僕《わたし》は誰でしょう

紫音

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第二章

昔、この場所で

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 細い路地を抜け、広めの車道に出る。そこから駅のある方向へ進んでいく途中で、目的の建物はついに姿を現した。
 氷張市立氷張中学校。
 校門前の坂は急で、その先に見える校舎の景色がひどく懐かしい。

「氷張中学……。そうだ。ぼくはここに通ってた。自転車で。あの山の上の町から、S字の坂を下りて……」

 頭に浮かんだ映像を口にすればするほど、記憶が鮮明になっていく。
 自転車で山を下りる時の、肌を撫でる風。太陽に温められた緑と土のにおい。氷張川の途中に見える沈み橋。そして、この校門前の坂に差し掛かる頃にはいつも、

 ——おはよう、

 誰かが、ぼくにそう挨拶していた。
 みなみ。
 そう、みなみだ。
 苗字か、下の名前かはわからない。けれど、生前のぼくがもしも男だったとしたら、『みなみ』は苗字かもしれない。

「何か思い出したか?」

 不意に、隣から井澤さんの声が聞こえた。ハッとしてそちらを見ると、彼はどこか不安げにこちらを見つめていた。
 まつ毛の長い、妖艶な瞳。その左目の下にある泣きボクロ。
 その顔が、ぼくの記憶の中にある人物と重なる。
 十年前に、この校門前で毎日挨拶を交わしていた男の子。

 ——おはよう、みなみ。

 ——うん。おはよう、なぎ

 凪、と。記憶の中のぼくが、その男の子を呼ぶ。紺色の学ランに身を包んだ、綺麗な目をした男子中学生。
 そうだ。どうして今まで忘れていたんだろう。
 井澤さんの年齢は、おそらく二十代の前半から半ばほど。十年前はきっと中学生だったはずだ。

「……あなたは、凪。ぼくの友達だった、凪なんだね?」

 井澤凪。彼のフルネームを思い出して、ぼくは合点がいった。
 対する井澤さんも、こちらの顔を見ながら、ふっと肩の力を抜くようにして微笑んだ。

「そうだ。俺はキミの友達だった。学年も同じ。十年前、キミと同じこの中学に通っていた井澤凪だ」

 十年前にこの場所で、毎日彼と顔を合わせていた。当時の光景が、確かな色を持って頭の中に蘇る。

「あのー、もしもし? なんか二人きりで盛り上がってるとこ悪いけど、あたしたちの存在を忘れてません?」

 と、横から沙耶が割って入る。彼女は何が何だかわからないといった様子で、ぼくと井澤さんの顔を交互に見る。

「ごめん、沙耶。ぼくもまだわからないことがいっぱいなんだけど……もう少しで思い出せそうなんだ」

 井澤さん——もとい、凪のことは今、やっと思い出した。彼はぼくの小学校の頃からの友達で、お互いによく会話をしていた覚えがある。
 ただ、会話の内容まではまだ思い出せない。彼と何か、大事な話をよくしていたような気がするのだけれど。

「俺のことは少しずつ思い出してきたようだな。それで、キミ自身のことについては、何か思い出したか?」

 凪が聞いて、ぼくは再び彼の方へ視線を戻す。

ぼくは、『みなみ』という名前で呼ばれていたと思う。でもフルネームはまだ思い出せない。それに顔も……」

 記憶の中で、自分の目で見たもの、周囲の環境なんかは少しずつ思い出せている。けれど、肝心な自分自身のことはまだ見えてこない。
 ぼくはどんな人物だったのか。
 そして、なぜ十年前に死んでしまったのか。

「もう一度、桜ヶ丘の方まで戻ってみるか?」

 凪が言って、ぼくは頷く。
 あの山の上にある町はきっと、十年前にぼくが住んでいた場所だ。あそこに戻れば、もっと具体的なことを思い出せるかもしれない。

「ごめんね、沙耶。桃ちゃんも。ぼくのワガママで連れ回しちゃって」

「ぜーんぜん! もともとあたしらは勝手についてきたわけだしね。それに、今のあんたの記憶の謎を解明しないことには、も戻ってこられないかもしれないし」

 そんな沙耶の発言に、ぼくは急に背中から水を浴びせられたような感じがした。
 比良坂すずの意識。
 そういえば、彼女の記憶は今どこにあるのだろう?

「さて。それじゃあ車の方まで戻るか。祭り会場の駐車場だったな」

 凪が言って、みんなが歩き出す。
 一拍遅れて、ぼくもその後を追う。
 言い知れぬ不安に駆られたぼくのことを、やけに無口になった桃ちゃんだけが見つめていた。
 
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