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第二章
赤の他人
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「は——っ! 良い汗かいた!」
公園にあった女子トイレの手洗い場で、沙耶は甘い香りのする汗拭きシートを取り出しながら言った。バドミントンでのバトルは思ったより白熱し、ただでさえ暑い真夏の炎天下でたっぷり汗をかいてしまった。
私はハンカチくらいしか持って来なかったので、見兼ねた沙耶がシートを分けてくれる。こういうところを見ると、彼女もやっぱり女の子だなぁと思う。
「そういえばさ。今のすずって、トイレとかは不便だったりしないの? 女の子の体で、その、やりにくかったりとか……」
沙耶は少しだけ言葉を濁しながら聞く。
男と女では体の構造が違う。自分を男だと認識しているなら、女の体では何かと不便があるはずだろうと。
けれど実際には、私は物理的な面では特に困らなかった。不思議なくらいに、女の体で用を足すことに違和感はなかったのだ。
もしかしたら、比良坂すずの体がその動作を覚えているのかもしれない。記憶は細胞に宿る、なんて言う人もいるくらいだ。たとえ私が覚えていなくても、この体のどこかに記憶が残っているのかもしれない。
「あ。なんかデリケートなこと聞いちゃってるよね。ごめん、忘れて!」
私が返事に窮していると、沙耶は慌てて話題を変える。
「それで、どう? 探し物は見つかりそう?」
探し物。一瞬何のことだかわからなくて首を傾げていると、
「記憶の断片、だっけ。この町に見覚えがあるんだよね? 何か思い出せそう?」
「ああ……」
記憶の断片。この町へ以前にも来たことがあるという感覚。朧げだが確かに感じるこの懐かしさを辿っていけば、私は何かを思い出せるかもしれない。
「まだはっきりとはわからないけど、思い出せそうな気はしてるよ。この公園のことも、なんとなく懐かしい感じがするし。私は多分、前にもここへ来たことがあるんだと思う」
「それって、すずの記憶とは別……ってことだよね?」
沙耶は恐る恐る尋ねてくる。私は質問の意図を測りかねて彼女の顔を見た。
「どういうこと?」
「いや、その……。この町に訪れた記憶とか、自分が男だって思うその感覚とかってさ、それって全部、すずの持ってた記憶じゃないよね。今のあんたは、すずじゃない。全く別の、あたしとは関係がない赤の他人だよね?」
赤の他人。なんとなく、急に突き放されたような響きを持つ言葉だった。
「実を言うとさ。あたし、ちょっと安心してるんだよね。今のあんたがすずとは別人だってこと」
彼女の思わぬ本音に、私は面食らった。
「安心? どうして?」
「だって今のすず、あたしのことをちょっと意識してるでしょ。女の子同士っていうよりは、気になる異性として意識してる」
指摘されて、私は二の句が告げなかった。
沙耶のことを、一人の異性として見ている。彼女を見る視線にほのかな熱がこもっていたことも、どうやら本人に見破られていたらしい。
「わかるよ。なんとなく。男の人の視線って、けっこう正直だからさ」
シートで体を拭く彼女の、髪をかき上げた時に見えるうなじ。ホットパンツの下から覗く瑞々しい脚。それらに無意識のうちに視線をやってしまっていた自分に気づいて、今さら恥ずかしくなってくる。
「ご、ごめん。私、そんなつもりじゃ……!」
「いいよ。あたしは気にしてない。ただね、あんたが本物のすずだったら、それは困るの。すずがあたしに恋愛感情を抱いちゃうのはダメ。だってすずは、桃ちゃんのことが好きなんだもん」
彼女は本当に気にしていないといった風に笑って言った。
「桃ちゃんも、子どもの頃からずっとすずのことが好き。二人が両想いだってことは、誰よりも近くで見てきたあたしが一番よくわかってる。だから、その関係を壊しちゃいけないの」
そう言った彼女の横顔は優しい微笑を浮かべていたけれど、どこか寂しそうにも見えた。
「その……。沙耶は、好きな人とかいないの?」
もしかしたら彼女も桃ちゃんのことを——と、そんな可能性を考えてしまう。
「いるよ。叶わない恋だけどね。……でもいいの。あたしは、あたしの好きな人が幸せでいてくれるなら、それを見てるだけで幸せだから」
自分のことよりも、大切な人の心を優先する彼女の懐の深さに、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
と、それまで静かだったトイレの外側から、何やら口論するような声が聞こえてきた。
「だからあんたは、一体何が目的なんだよ!!」
怒りを含んだその声は、桃ちゃんのものだった。おそらくは井澤さんに向けたものだろう。
「なんか揉めてんね。まっ、そりゃそうか。桃ちゃんはすずのこと大好きだし、井澤さんのことを敵視する気持ちはあたしもわかるしね」
「は、早く止めにいかないと」
すかさず駆け出そうとした私に、沙耶は「待って」と後ろから声をかける。振り返ると、彼女は腕組みをしたまま諭すような声で言った。
「あたしもまだ信用してないよ、井澤さんのこと。もしもすずに何かあったら、あたしはあの人のことを絶対に許さないから」
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