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第一章
見覚えのある人
しおりを挟む低い、落ち着いた声だった。どことなく耳に心地良い響きだったが、もちろん聞き覚えがあるわけではない。フランクに話しかけてきたところを見ると、おそらくは親しい間柄なのだろうけれど。
「その……ごめんなさい。今は、事故のせいで記憶が」
記憶がないので、あなたのことはわかりません。と、率直に伝えてしまってもいいのだろうか。
言い方によっては、相手を傷つけてしまうかもしれない。特に恋人ともなれば尚更だ。そう思うと、何も言えなくなってしまう。
そのまま黙り込んでしまった私の方へ、男性は静かに歩み寄ってくる。カーテンの向こうから現れた彼の全身を改めて見上げると、その姿は思ったよりも年齢が上のようだった。
およそ高校生には見えない。大学生、というよりは、新社会人といった風貌だった。おそらくは二十代の前半から半ばほど。清潔感のある黒髪に、白いワイシャツとダークグレーのスラックスというラフな出立ちだ。
「記憶喪失になったって聞いたけど、本当だったんだな」
男性は形の良い目を細めて、神妙な面持ちでこちらを見下ろす。まつ毛の長い、どこか妖艶な眼差し。その左目の下には泣きボクロがある。
(泣きボクロ……)
ふと、そのホクロに見覚えがあるような気がした。はっきりとは思い出せないけれど、ぼんやりとした既視感が脳裏を掠める。
「あの。あなたは、私とどういう関係なんでしょうか」
この人のことを何か思い出せるかもしれない。初めて得た感触に、自然と期待感が高まる。
「俺は、キミの通う学校の教師だよ。今は担任じゃないけど、前に受け持ったことがあったから」
「教師?」
オウム返しに呟きながら、その事実を頭の中で咀嚼する。
「教師……。そっか。それで見覚えがあったんだ」
「え。何か思い出したのか?」
「あ、いや。なんとなく見覚えがある気がしただけで。具体的なことは何も思い出せないんですけど」
まさか両親よりも先に、学校の教師のことを思い出しかけるとは。
いや。もしかしたら、この男性教師には過去に特別世話になったのかもしれない。さすがに恋人同士という間柄ではないだろうけれど。
「比良坂さーん。ちょっと失礼しますねー」
と、そこへ今度は別の声が届く。サバサバとした女性の声。こちらの返事を待たずに、彼女は問答無用でカーテンを開けた。
「あら! ごめんなさい。取り込み中だった?」
カーテンの向こうから現れた看護師の女性は、しまった、という仕草で口元に手を当てた。
「ああ、いえ。大丈夫です。もう帰るところでしたので」
男性教師はそう言うと、どことなく慌てた様子でベッドから離れる。
「それじゃあ、俺はもう行くから。ゆっくり休めよ」
「えっ。もう行っちゃうんですか?」
せっかく何かを思い出しかけているのに。
それに、まだ大事なことを聞けていない。
「待って。あの。……先生の、名前は?」
名前を聞けば、少しは何かを思い出せるかもしれないと思った。
「井澤だよ。井澤凪」
「井澤……先生」
懐かしい響き、のような気がする。
彼は看護師の女性に軽く会釈すると、そそくさと病室を出ていった。
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