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月が照らす野原を
月が照らす野原を
しおりを挟む懸命に生きるほど、いっそ死んでしまったほうが楽なんじゃないか、と思うことなんて誰にでもある。
けれどわたしの大切なひとは。
死にたくないと、わたしなんかに泣いてくれながら、眠るような最期を寄り添ってくれた。
覚悟と誇りを胸に一本の道を貫いて、生き抜く為に戦い続ける勇気を教えてくれた。
だからわたしは絶対に、自ら死を選ばない。
両眼が見えなくても、この国を憎んでも。
わたしはきっと生涯、大切なひとを奪った新しい国を許せない。
それでも、生きていくと決めたから。
雨の音を聞くのは久し振り。ずっと晴れていたのじゃなくて、雪の日が続いていたから。
暖かくなってきたんだなぁ。何も見えない分、他の感覚が研がれた気がする。
「月野さん、そろそろ参りましょうか」
「はい」
わたしはまた、名前を変えなかった。
芸妓になった時も天神になった時も、そして今、出家をしても。
特別な信仰心も志も、功徳を積むという気さえないくせに、ただ新しい国の枠組みに填まるのが厭で、世俗から逃げたかっただけ。
生きていなければと気負いながら、この世から消えてしまいたかった。
天罰が下るかも。
それでもこの名は、わたしの掛け替えのない宝物だから。
「小雨だけれど、足元には気を付けてね」
「はい、ありがとうございます」
ゆっくり手を引いてくれるのは、あの日仙台港で膝を付くわたしに声を掛けてくれて以来、ずっと同じ優しさで接してくれる尼僧、恵泉尼さま。江戸で行われた法要の帰り道だったらしいけれど、もし出会っていなければ、わたしはこの世にいなかったかもしれない。
柔らかい手に寄る皺と少し擦れる声で結構なご高齢だと思うけれど、シャキシャキした若々しい話し言葉や、どこに行くにもわたしを引っ張ってくれる程の行動力からちょっと年齢不詳気味で、お世話になって三年、今更訊けない。
それは恵泉尼さまも、不自然なくらいに詮索をしないかただから、という理由もある。
なぜ一人で港にいたのか。
目の傷はどうして付いたのか。
目が見えないのはそのせいか。
どこにも帰る場所はないのか。
なぜいつまでも、泣いているのか。
出家したいと言った時も名を変えたくないと言った時も、何も訊かれなかった。
「雨なのに、わがままを言ってすみません」
「あらあら、雪の日も休まなかったひとが」
毎朝欠かさず裏山に登り、中腹に鎮座する祠堂にお参りしていた。
わたしなんかに不釣り合いな程、身に余る幸せをいただいた人生なのに、まだ神頼み。
神様に呆れられてしまう。
出家したからには欲を捨て去らなければならないのに、この髪も肩まで残してあるのと同じで中途半端、未練が残っている証拠。
緩やかな傾斜だけれど、泥濘に足を取られる。
土方さまと愛宕山に登った日を思うのも、慣れてしまった。その度に、飾り物の両目が濡れるのも。
「まぁ、珍しいこと。あんな若い男の子がお参りなんて」
今日まで、ここで誰かと会うことはなかった。
ひっそりと人に忘れられたような小さな祠だと、勝手に想像してしまっていた。恵泉尼さまに教えてもらった通り、どんな願いも叶えてくれる神様だ、ということしか知らなかったから。
「……手を振っているけれど、お知り合いかしら」
「えっ?」
茂みを擦る足音が近付いてきて、わたしはつい後退りする。
「月野さんっ」
誰なのかとか怖いとか、警戒する間もなかった。
弓継くんだ……。
「……見えないの?」
前より高い所から聞こえるその声は、また少し大人びていた。
「ごめんね? みつけちゃった」
恵泉尼さまに呼ばれるまで、返事をするのも、ただ頷くことさえしていなかった。
「あの、ご、ごめんなさい……わたし……」
「なにが?」
声が近くなった。わたしに合わせて屈んでくれたのかもしれない。
「……いいよ。生きていてくれただけで嬉しいから」
わたし、一人きりだと思っていた。この地上で一人きりだと。
心配はされてしまうかもしれないと思ったけれど、捜してもらえるなんて。
取り残されたまま、前にも進めず、後戻りだってできなかった。
弓継くんも、なぜとは訊かなかった。
久し振りなのだから積もる話もあるでしょう、と恵泉尼さまは一足先に帰ってしまい、わたしは弓継くんに手を引かれて歩いた。
とてもゆっくり歩いてくれているのが伝わった。
弓継くんからは遠い方の肩にも、腕にさえ、ささやかな雫もかからない。涙で濡らすような静かな雨音が、止んでいるわけではないのに。こんなに傘を傾けてくれては、弓継くんが風邪を引いてしまう。
わたしは余程、哀れに見えるんだ。
「月野さん、黒も似合うね」
特に派手好きというわけでもないつもりだけれど、紅や桜、鮮やかな色ばかり好んで着ていたから、こんなに黒尽くめを選んでいると可笑しいかな、と想像していた。形だけは尼僧なのだから当然だけれど。
この色は、憎しみを潰して隠す暗闇。
「ありがとう」
そうなのかなぁ、首を傾げてしまった。
「うん、おとなっぽい」
「ええ? ……もう、“おとな”をからかわないで」
思い描いていた人間とは掛け離れているけれど、年の数だけは世間的に大人だった。
弓継くんは声を上げて笑うけれど、笑顔とは人に向けるものだから。
相手の顔が見えなくなってからは、どこに向かって笑えばいいのかわからなくて。
無表情になっていると思う。それが癖になっていた。
「どうして、わたしを捜したの?」
これじゃあ、捜してほしくなかったって言っているみたい。そんなことないのに。身勝手にも嬉しかったのに。
弓継くんにどんな顔をされているか気になる。
でも見えないからって、わたしはまた無神経になっていく。よくなったのは物を聞く感覚や触れて触れられる感覚だけで、相手の心を汲む精神は相変わらずに未熟だ。
「三年間、駆けずり回っちゃった。せっかくの最新医術も宝の持ち腐れだよ」
何も話さないまま訊ねた癖に、ごまかされると歯痒かった。そんな迷惑を掛けていたなんて、自身には苛立ちさえした。
傘を打つ雫の間隔が、だんだん広く、弱くなる。足元にコロリと傘が回ったのか、骨が少し当たった。
わたしの両手、弓継くんの両手に包まれながら、理由もわからず震える。やっぱり弓継くんは濡れていた。
「俺の手は、月野さんを治す為にあるんだ。あなたにもう一度、世界をあげる」
愛するひとのいない現世なんて、見えても見えなくても同じこと。
喪ったその日に思ったのは真実。
けれどわたしは手術を受ける為、二度と踏み入れることはないと覚悟していた東京へ向かった。
新しい政府の中心地らしいけれど、土方さまの生れ故郷で、総司さんの眠る場所、という認識しかなかった。
総司さんがどこに眠っているか、知っているのに、まだ行く勇気もないくせに。
東京の医学所は、今は弓継くんに任せられているらしい。良順先生は大阪に出張に行ってしまっていて、会うことができなかった。
「怖くない?」
最近の……再会してからの弓継くんは、前よりもっとわたしを気遣ってくれる。
目が見えないから、と言うよりも、なんだか甲斐甲斐しく、優しくしてくれていた。留学先がイギリスだったから、すっかり紳士なのかも。本当に、わたしよりずっと大人になってしまったみたい。
わたしは全然、立ち止まっているように成長しないし。
「手術のこと? 怖くないよ、弓継くんを信じてるから」
「ぅわ、プレッシャーだなぁ」
手術台に乗ると、わたしが居た頃より随分改装されて大きな病院になったなぁと思った。大きくて、ひんやりとしている。
「嘘です。安心して?」
普通なら、お医者様は知り合いの手術は受け持たない。けれど、ここで視力回復の技術を持っているのは“二十歳にも満たない名医”だけ。
「でも、怖いなら言ってくれてもいいよ」
「だって本当に平気だもん」
幾度も、こんなことを思ってきた。
なにがあっても平気、怖くない。
もっと怖いこと、辛いことを知っているから。
手術は失敗する場合もある。でも一度見えなくなってしまったから、治る見込みなんてないと思っていたくらいだから平気。
「あと、さ。この傷も、ほとんどわかんないくらいに薄くできるから」
消してしまってもいいか、と訊かれた。
左眼を、斜めに潰した傷。
「え……これは、いいよ」
わたしは当然承諾すると思ったから、こんな直前になって確認したんだ。
でも、この傷は。
「へっ? なんで?」
「いいよ、別に。どうせ尼だから、外見なんてどうでも……」
嘘。そんな風に考えたことない。恵泉尼さまに、とても失礼だ。
「なに、“どうせ”って。そうやって卑下するのはよくない。月野さんでも怒るよ」
いつでも目の前が真っ暗だからよくわかる。弓継くん、怒るって言いながら、声が泣いているみたい。
「俺、月野さんがどんな顔だって好きだけど、でも傷は……月野さん、女の子なのに」
「……わたしは女の子じゃないよ。出家したんだから」
女だということを捨てる為に、この世を捨てた。
「月野さんは、出家してないよ」
……どういうこと……?
「恵泉尼様に聞いたんだ」
わたしは、出家していない? 確かに、出家させてくれている筈なのに。
「あなたらしく生きることを、やめちゃダメだ」
わたしらしくって、どういう意味だろう?
前にも言われたことがあるけれど、弓継くんはそれを知っているのかなぁ?
なら、教えてほしい。
「夢を捨てる必要ないよ」
わたしの夢……たくさんあったのに、忘れてしまったみたい。
「医者になりたいんでしょ? 諦めることない」
……違うの。
わたしの夢は、ただ傍に行きたかっただけ。
人を救いたいなんて……その時の気持ちは思い出せないけれど、本気で志してはいなかったかもしれない。
ただ役に立てるような仕事を身につけて、傍に居たかっただけ。
こんなわたしに、医者を目指す資格はない。
「ありがとう……でも、ごめんね? わたし、嘘をついたの」
弓継くんにしか、言わないから。本当の理由は。
「この傷ね、土方さまに触れられた傷なの。だから、消してしまいたくない」
あのひとの唇が触れた傷口だから、これはわたしがあのひとのものっていう印なの。
「……そっか。わかった」
この坂を下って、もうすぐで着く。白と黄色、紫の菊の花。
――チリ……ン
黒猫……。
「どこのこ?」
手の平を伸ばすと擦り寄ってくる。懐っこいなぁ。
「かわいい」
京都で木から降りられなくなった、そして縁側に現れた黒猫に似ている……まさか、そんなわけない。小さな金の鈴を付けて、眼の色と短毛も少し、陽に透けて茶色いし。
菊花と一緒に抱き上げてもおとなしくて、ゴロゴロと喉を鳴らす。わたしの手を舐める。
「一緒に来る?」
でもそう話し掛けた途端じっとわたしを見つめて、するっと降りると駈けて行ってしまった。
――……
「小さな生きものには、嫌われちゃうんです」
――……
そう寂しげに笑っていたのを、思い出した。
わたしはようやく、ここで向かい合う勇気が持てた。また映るようになったこの眼で、あなたに会う勇気が。
門前に立つ。
雨が降った後のような、湿る空気。涙みたいに、はらはらと散る桜。いつも心を覆う、別れの日が蘇る。
――沖田宗治郎
刻まれているのは、いつか聞いた子どもの頃の名前。
「触れても、いいですか?」
せっかく治してもらった眼なのに、もう霞んでしまって見えません。手を合わせたくても震えてしまって、うまくお話ができません。
あなたの肩に袖に、桜の花びらが降り掛かっているみたい。
ここに来られなかった理由のひとつ。思った通り、離れたくなくなってしまう。
本当に出家をする為に、お寺に帰ったら今度はいつ来られるかわからない。
ずっとここにいたい……ううん、わたしも同じ場所に行きたい。
だって誰に会えなくなっても、土方さまと総司さんと、一緒にいられたらそれでいい。
――チリン……
「……泣かないで」
はっと息を止める思いで振り返った。
「泣き虫さんですねぇ」
きちんと折り目を正した袴に稽古着の男の子が、さっきの黒猫を抱いている。飼い主さんなのかなぁ。
「よいしょっ」
呟いてわたしの横にしゃがむと、日焼けした手を合わせてギュッと眼を瞑った。
「ぼうや、このひとのこと知ってるの?」
確か生まれたのもこの辺りだと、教えてもらったことがある。もしかしたら親戚の子とか。
こちらを向くと、最近では見慣れてきた髷のない短い髪が風に靡く。
「その傷、痛いですか?」
自分の左眼を指差しながら、心配そうに小首を傾げる。
「ううん、痛くないよ」
はぐらかされてしまったけれど、ホッとしたような笑顔を見ると聞き直すこともできなかった。
「じゃあ、僕は行きますね」
「あの……っ」
わたしもよく言われるけれど、別れる時でさえ、たじろいてしまうくらい真直ぐに眼を合わせて話す子だから、言葉にならなくても気付いて立ち止まってくれた。
でも、なにを言いたかったんだっけ。
男の子の腕のなかの黒猫は、さっきは懐いてくれたと思ったのに、今は三日月みたいに眼を細めて眺めてくる。
冷たいなぁ。
「……大丈夫ですよ」
「えっ?」
初めて会った、十以上も年下に見える子どもなのに、なぜか安心する笑顔。
「寂しくないですよ」
わたしがずっとびっくりしているのに構わず、微笑みが絶えない。
不思議な子……。
「……僕が毎日でもここに来るから、“月野さん”は心配しないでください」
毎日お参りに……? やっぱり親戚の子なのかなぁ。そういえば、目鼻立ちが似ている気がする。
それにきれいに掃除されていて花も新しくて、今までもこの子と、そして他のひともよく来ているのかもしれない。
「はい……ありがとう……」
コクンと頷くと、男の子は……あ、名前も知らない。
「あなたが落ち込んでると、哀しがりますよ。お元気で」
「えっ……は、はい!」
総司さんが、ということかなぁ。
わたしが返事をすると男の子はまた笑って、黒猫を抱いたまま行ってしまった。
哀しがる……そうかなぁ?
あんなに困らせてしまったのに総司さんと、そして土方さまはわたしを見ていてくれているのだろうか。
だとしたら嬉しい……ううん、しっかりしなくちゃ。
弱気になっちゃいけない。
卑屈になっちゃいけない。
わたしはひとりじゃない、強く生きなければ。
そう、何度も言い聞かせた。
確実に近付く、現し世との別れを前にして、不思議なくらい心は穏やか。
まるで、他人事みたい。
だんだんと躰が弱っていくのを感じながら、熱に浮かされて眠れずにいるのは、辛い。
でも、夜通しひとりで過ごす日が幾晩も続いても、怖いと思うことは一度だってなかった。
厭で仕方なくて、許せなかった明治政府から逃げるように出家まで考えたけれど、捨てきれなかった目標を追いかけて、東京で町医者になった。
まだ、医者になりたい、病から人を救いたいと思っている自分に、ほっとしながらの毎日だった。
あの日どこまでもついて行くつもりだったから、二度と会うことはないと思っていた両親とは、一緒にご飯を食べたり、育った家に帰ったりもした。しょっちゅう見舞いにも来てくれる。父は治す力があればと嘆き、母はできることなら代わってあげたいと言ってくれた。
顔の傷は、年々薄くなっている。
幕末の京都で芸妓をしていた頃とは、わたしも周りも社会も、様変わりした。
それでもただひとつ変わらないものに支えられて、今日まで生きてきた。
「先生、お加減はいかがですか?」
「“先生”はやめて。今は病人だもの」
そう呼ばれることは、ずっと気恥ずかしかった。断る為の、ちゃんとした理由ができてしまった。
あのひとも同じことを言っていたと聞いたからって、真似しているわけではないけれど。せっかく医者になれたのに、まずイヤだなぁと思ったのは、先生なんて呼ばれてしまうこと。
気遣われて安心しながらも小言を言う間に、年上のしっかりした看護婦は他の病室に呼ばれて行ってしまった。
ありがとうと、伝えれば良かった。
良順先生は相変わらず、もう若くもないわたしをちゃん付けで呼んでくれるし、たまに手伝いに来てくれる弓継くんは……。
「月野さん? あっ、エラい、今日はちゃんと寝てましたね」
……未だにお兄ちゃんみたいに、わたしを心配する。
「そうそう、養生すれば治るんだからね」
そのままでいいよ、と言われたけど、ふらつく頭を持ち上げて半身を起こした。
脳を掻き回されてるみたいに、目眩がする。
「患者に嘘をついちゃダメよ、先輩」
もう一月も前に喀血している。
特効薬のない病だから、ここまで進行しては治る見込みはない。
これがわたしの患者なら諦めずに手を尽くすけれど、自分の躰だから、わかってしまう。
「医者に必要なのは技術よりも、奇跡を信じる気持ちだよ」
奇跡……それが齎されるなら、わたしの命なんて助かるよりも、もっと大事な、齎すべき時が何度もあったのに。
神様と同じ……信じるようなものじゃない。
「もうっ! そんな弱気な月野さんにはコレだ!」
わたしが下を向いたままだから、不機嫌とはまた別の憤りの表情で、目の前に半紙を突き出された。
「……なに?」
いいから黙って見て、と言うように弓継くんは姿勢を変えないから、その紙を受け取った。
少し古くてごわごわしている。たくさんの人が触ったみたい。でも弓継くんが大事そうに懐から取り出したので、わたしも倣ってゆっくりと開けた。
今でも毎日のようにあの句集を見つめてしまうから、忘れたことのない、だから思い出すという言葉の当てはまらない、懐かしいとも違う、ただ愛しい筆跡。
……歳三さま……。
その名を呟く余裕もなく、夢中に目で追う。読みづらいわけでもないのに、墨の濃淡を指でなぞる。
何度か繰り返すうち、すぐに涙で曇って、見えなくなってしまった。
零れ落ちて濡らさないように、手のひらで掬う。
「……やだ……歳三さまったら」
精一杯笑顔を作る照れ隠しも、言葉が継げられない。
それは、ご辞世だった。
あ、でも……わたしが喜ぶなんて、勘違いだったら……恐る恐る弓継くんを見ると、ひどく優しい顔でこう言った。
「やっぱり……俺の予想通りだ」
「え?」
わたしの疑問に応えず、立ち上がる。
「それ、月野さんのだよ」
「ええっ? そんな、もらえないよ!」
びっくりして咳き込みそうになるのを慌てて抑えた。
きっと仙台港で会った、歳三さまの小姓だと言っていた少年隊士さんが、命懸けで故郷に届けたものに違いないのに。
「写真、返しちゃったんでしょ? 鉄が、これだけはって」
でも、わたしがいただいていいものではない。
もしも歳三さまに訊いたらさらりと
「お前にやる」
なんて言われそうだけど、ご家族にしてみたら、こんな遊女上がりの得体の知れない女に渡されては堪ったものではないでしょうに。
「鉄はまだ子どもなんだよ。“土方先生の忠義はすばらしいです! 武士の鑑です!”だって」
……本当に、そっちの意味だったらどうしよう。
「だから俺、教えてやったんだ。“東を他の字に変えてみな”って」
それより、“吾妻”が他にいたらどうしよう。舞い上がってバカみたい。
「そしたら鉄、“ああ! 月野さんですかぁ!”って感動してたよ」
……でも……。
「やっぱりダメだよ。ご家族のかたに申し訳ないよ」
弓継くんはまた座り直して言った。
「くれるって。そういうひとがいて嬉しいって、お姉さんが」
そんな……わたしなんかに、もったいない。
あ、弓継くんったら、ご実家に押し掛けたのかな。
……わたしまた、変に考え込んでしまって。素直じゃないところとか、悪い性分は昔のまま。
「遅くなっちゃったけど。前から狙ってたんだよねー。噂を聞いてからさ、月野さんに見せたくって」
弓継くんは得意気に笑うと、じっくり見てと促して出て行ってしまった。
嬉しい……そう、夢みたい。
歳三さまがこんな風に思ってくれていたなんて。
出会えてよかった。好きになってよかった。
一緒になれなくても、死に別れても、幸せだった。
それでも結ばれた心は、ずっと繋がっていたから。
生まれてきて、よかった。
よく言うけど、眠るみたいに。
静かに、そして少し微笑むように。
ああ、もしかして。迎えに来ていたのかもしれない。
その躰は“沖田氏縁者”と刻まれた場所で眠っている。
そうしてほしいと、頼まれていたんだ。月野さんの方から俺を頼ってくれるのはすごく珍しくて、それが最期だった。
まだこんなに若いのに、医者としてこれからという時に、夫や子ども……家族を築いてもいないのに……みんな口々に、月野さんを可哀想だと言った。
でも俺はそうは思わない。
だって月野さん自身、不満をこぼしたことがないから。
不治の病名を聞いたときも、取り乱すことなく、ただ頷いたから。
二度と別れのない場所で、休むことができるから。
あの日は、文久三年春五月。
後の世に“幕末”と呼ばれる時代。
わたしは京にいた。
生涯忘れない、忘れられないひとに出会う為。
愛しいひとの面影は、今日もわたしの人生で、消えない光を灯し続ける。
沖田氏縁者異聞 了
応援ありがとうございます!
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