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第五章
第九話
しおりを挟む未練がましいって、笑ってもいいよ。嫌われなかったら、なんでもいいや。
「また来ちゃった」
伊庭は一人で、写真家の一音を訪ねた。
縁起悪いよね……これが最後って気がしたんだ。
一音はひどく驚いた顔をした。
「もしかして、心配してくれてた? ほらっ! ちゃんと足あるから安心してっ! 手はないけどっ」
……なんで泣くの。
机に肘を付いたままその涙顔を手で隠すので、伊庭はしゃがんで髪を撫でた。
「よしよし。安心して?」
「……だからイヤなのよ……待ってるだけなんて、気が狂いそう」
ちゃんと、冗談なんか言ったりしなければよかったな、と伊庭は早々に後悔する。
「……バカね。こういう時は抱きしめてもいいのっ」
……あ、やっぱり?
でもさ、それってホントに好きなひとの前では、なかなかわかんないものだよ。
「あったかいね。……今日の一音さんは、なんだか元気ないけど」
バレちゃった? お別れかもしれないこと。
「戦に行ってしまうんでしょ?」
海戦から間もない四月、とうに次の予定は決まっていた。忙しないことだ。
「うん。もう、待ってなくてもいいからね」
待っててくれたことさえ、知らなかったけど。
「なんでそんなこと言うのよっ!」
「うわっビックリしたぁ」
肩にしおらしげに埋めていた顔を急に上げるからだ。
「理想を貫くための、生きるための戦でしょう! そうじゃなきゃ行かせないから!」
榎本さん達みたいなことを言うんだね、とつい感心する。
俺よりずっと凛凛しいや。
でも俺には、片腕をなくしてしまった絶望が身に圧し掛かる。
自分で思ってたよりずっと、“剣士”だったみたいだ。
「うん、わかった。ありがとう」
大好きだった。
数日前に思ったことを撤回して、ここで出会ったことも後悔するくらいに。
宮古湾開戦後、薩長軍の青森入港を許したその先陣は千五百。四月五日には襲来の報を聞き、箱舘に住む市民達は避難を始めた。
この街を守る為に戦うなんて意気込む、カッコ付けをする気はさらさら無ぇ。
俺達が勝手に占領しといて敗けて、戦場にしちまったんだからな、と申し訳ないくらいに土方は思っている。
新選組の本陣であり、伝習隊や箱舘奉行配下の拠点でもあった弁天台場は、相馬主計を陣将とし迎撃態勢を万全に整えた。生真面目一辺倒で、気の毒になるくらいに小ズルさという類のものが寸分さえ無い奴だからと土方は心配したが、随分と出世をしたものだ。
銃撃適わず江差を突破され、千八百に膨れた薩長軍は難なく全軍上陸した。
その隊は二軍……松前口から海岸線を進むのと、直線横断する二股口とに分かれる。
九日、土方は衝鋒隊と伝習隊を率いて二股口へ出た。
市渡村に宿陣した夜、陸軍奉行添役……つまり土方と一緒に戦う者ということだが、その役の大野右仲と大島寅雄が、何やら裏のありそうなニヤけ顔で部屋に入ってきた。
「おばんどすぅー」
「気色悪ぃ」
深々と刻む眉間の皺をものともせず座る彼らの手には酒瓶である。
酒は嫌ぇと知ってやがるらしい。
どんな反応をするかとの期待が明け透けなので、平然と盃を持たせた。
「俺、こっちでよかったです!」
松前口に対してだ。
“あっち”は大鳥が率いている。
「土方さんの隊なら敗ける気がしませんよ!」
わざわざ景気付けに来てくれたのに水を差すようだが。
「俺達の兵は限りがあるが、敵は無い。一旦勝っても最後は必ず敗ける。日本中が知ってることだ」
二人が息だか酒だかを飲む音が聞こえた。
「でもよ、逃げちゃあ武士の名が廃るだろ。勝つにも敗けるにも、殉じる意気でやらねぇのは恥だ」
「はい! 元より!」
俄然高くなる声に耳を痛くしながら、苦い酒を口にした。
次の日、二股口台場山まで軍を進め、陣を置いた。
道狭く左右を囲うように山があり、右は木々に覆われて削るような崖だから攀じ登るなんてできやしないし、左には川が滔滔と流れている。
冬の箱舘に続き、またも手にした天然の要害だ。
だがまさかこれに甘んじることはなく、同行していたフランス人のフォルタンに指揮を執らせて胸壁をいくつも築いた。
本陣である山上と中腹に十一ヶ所に川岸に三ヶ所、唯一の山道の両側に一ヶ所ずつ、前線基地の天狗岳にも三ヶ所だ。
これで少ない進路に狙いを付けて、待ち伏せもできよう。
昼夜問わずよく働いてくれたおかげで、十二日に全て完成した。時機ちょうどよく、十三日正午過ぎに薩長軍は天狗岳の陣へと登ってきた。
おもしろいくらいにまんまと引っ掛かる。
呆気なく突破できたのに勢い付いてか、どんどん台場山へと進軍してくるのだ。
悪戯程度の餌に食い付いてくれるとは有り難い……こんな策も見抜けねぇ奴らがもし自軍に居ては、大層困りものだがな、と土方はほくそ笑む。
万全の迎撃態勢を整えて、ヒイヒイ大山登ってくるのを待った。
土方は市渡から向かったので、その間の指揮は大野が執ったのだが、近くて二百歩、遠くても五百歩以内だろうという至近距離での銃撃戦を展開したが、全く引けは取らなかった。
しかし日没後には雨が降り始め、上着を脱いで弾薬箱を覆い、湿った弾丸は懐に入れて乾かしてから発砲していた。
着いたのはその頃だった。
「土方さんだ!」
これだけ兵士達が寄ってくるのは、担いできた酒樽につられてだろう、と本人だけが思っている。
「雨ん中よくやってくれてる。まだ宴会は早ぇから一杯だけだぞ」
それぞれの胸壁を廻って飲ませながら決死隊を募った。
敵陣の背後を突く。
うちの兵の腕前には胸を張れるが、やはり敵軍の奴ら、数だけは無駄に多い。力でなく謀を用いなければ、勝てる相手じゃねぇ。
そう思い、夜中の三時過ぎ、一時的にだろうが退却していく隊列を追っ掛けていった。
しかし改めて、ここの自然は味方だったと悟る。
山道が険し過ぎて、追い付く頃には夜が明けちまう。
こんな砦に守られてるんだからな、勝てなきゃ勿体ねぇぐらいだ。
夜討ちについてはさっさと諦めて、自陣に帰りながら少しずつ白んでいく空を眺めた。
その余裕すら残しながら、再び目見えた朝六時には快勝。費やした弾数およそ三万五千発にて、敵軍は稲倉石へと撤退していった。
フォルタンが、五稜郭にいるブリュネ宛に記した報告書はこうだ。
“味方の働き驚くべし”
“一人にても怠ける者なし”
“硝煙で顔中真っ黒くした兵は、まるで悪党であったが”
鼻が高くなる賛辞でいっそ嘘くさいが、土方が届けたのだから間違いない。
ある仕事の為に一旦、五稜郭に戻ったのだ。
しかし待っていたのは思ってもみない悪報だった。
松前口の隊にいた伊庭が、胸を撃たれ重傷を負った。
ひどい傷だから見ない方がいいと軍医に脅されながらも、榎本への戦況報告そこそこに見舞った。
ツンとする苦いような薬の匂い漂う病室で、包帯に巻かれた伊庭は眠っていた。土方が入ってきたことにも気付かず、静かな寝息を立てている。
稀に見るおとなしさだ。
洋式寝台・ベッドの隣、椅子に腰掛けるが、土方はしばらく惚けたように黙って、その横顔を眺めるしかできなかった。
「……怖いよ。オバケが入ってきたみたい」
どう見ても熟睡していた筈が、ふと目を開いた。憎まれ口を叩く元気などない癖にだ。
「二股口軍は絶好調だって? さすが歳さんだねっ」
別に俺の功績じゃねぇよ。所詮俺は指揮官だから、前線の兵が命張ってくれたおかげだ。
「敗け知らずかぁ……かっこいいなぁ」
同じ軍にいるフランス人達程に白くなった顔で微笑みを作るから、土方は辛くて下を向いてしまう。
「やっぱ俺は運が悪いなぁ。歳さんのことは弾が避けてくのにね」
続けて、弾にもモテちゃうからな、と歯を見せた。
「運がいいからだろ。傷だらけでも生きてんのは」
慰めではなく、本当にそう思う。
ずっとピンピンしていても、一発の銃弾で死ぬ奴もいるんだからな。
「そっかぁ……二度も命拾いしてるもんなぁ。きっと死神は野郎だねっ! 俺、嫌われてっから」
「軍神は女だな。俺の味方だから」
土方まで冗談粧すと、伊庭は口先を尖らせた。
「ブー! 違うよっみんな言ってっから。土方隊長はまるで軍神だって。正解は歳さんっ、自分でしたー!」
誰だよ、んなアホなこと言い触らしてんのは。
「もういいから黙って寝てろ」
懸念していたよりも精神面は元気そうで、安心したのだが。
「待ってよ! 最後に一つだけ」
いつまでも居座っては寝めないと、部屋を出ようとしたところだった。
「俺が……死んじまったらさ、一音さんが哀しむと思うんだよね。様子見に行ってあげてよ」
怪我人じゃなけりゃぶっ飛ばしてるだろうな。
「んな約束できねぇ。俺だってまた戦場に戻るんだ。死ぬならお前より先だぜ?」
「ちょっ……やめてよ!」
縁起でもねぇこと言うなと目を吊り上げるが、始めたのはそっちだろ。
「だからよ、意地でも治してテメェで機嫌取りに行きな」
コイツを生かす為にも、五稜郭には踏み入らせねぇ。
縄に掛かるぐれぇなら、自決を選ぶような男だからだ。
よしや身は
蝦夷が島辺に朽ちぬとも
魂は東の
君やまもらむ
「身が果てても魂は将軍をお守りする……。なんですか……まるで、ご辞世じゃないですか」
誰が二心豚一なんざ守るか。やっぱガキだな、鉄は。
「そうだ。この句と、これ、俺の故郷に届けろ」
これ、と持たせたのは、茎が腐るのではないかというくらい血を吸った愛刀・会津十一代和泉守兼定二尺三寸五分と、一音に撮ってもらった写真だ。
写真は……まさか月野に手渡してくれとは頼めねぇよな。
そして二寸程に半紙を切って書いた手紙。
“使いの者の身の上、頼み上げ候”
義豊、と署名した。諱、当時でいう実名を使ったのは、確かに真筆だと示す為だ。
市村鉄之助を、姉・ノブの嫁ぎ先である日野石田村佐藤彦五郎の元に行かせる……その仕事をしようと、五稜郭に戻ってきたのだ。
「……それは、僕を戦列から外すということですか」
「まぁ、そうだな。しかし歴とした任務だ」
通称・之定を持つ手が、震えていた。
「厭です! 僕は兄のようにはなりたくありません……敵前逃亡などっ」
「お前の上官は誰だ。命令だと言っている」
近藤が沖田を離脱させた時の心境は、これ程だったかと思い知る。あの時の土方は、ただ情けなく目を逸らしていただけだった。
「僕は、役立たずですか」
新撰組の仲間をそんな風に思ったこと、一瞬だってねぇよ。
「でも……それでも先生と一緒に戦いたいです! 戦力には不足でも、盾にはなれます!」
じりじりと日が昇ってきた。部屋の中から見れば風もなく静かだが、時化には遭わず船は順調に進むだろう。
「お願いです! お供させてください!」
こうして涙を流されることを、予想しないわけではなかった。
それ程に、子どもながらに忠義に篤くて真直ぐだから……きっと彦五郎さんも気に入って、匿ってくれる筈だ、と土方は確信していた。
「鉄、お前にしかできねぇ仕事だ」
はっと顔を上げる手を取って、“遺品”を握り直させる。
「俺は、ここで死ぬだろう」
簡単に折れてやる気は微塵すら無ぇが、命懸けの兵の上で、覚悟もしねぇで指揮を取れるか。
「お供します! 主君を喪っても生き延びるなどは恥辱でしかありません!」
俺の小姓じゃ勿体なかったな、と秘かに思う。
「馬鹿。新撰組の連中全員死ぬわけじゃねぇんだ。必ず誰かが生き残ってくれる」
新八や斎藤だって、今は行方もわからねぇが訃報も聞かねぇし、しぶとく生きてるだろうしな。
「島田とかな。あのデカブツは弾なんざ跳ね返すだろ」
吹き出し掛ける顔はまだあどけないから、尚更ここに置いてられねぇ。
「残って散るは勇気、だが生きるも勇気……士道だ。局長も新撰組も、逆賊のままじゃ終われねぇ。汚名を雪いでくれる仲間がいなけりゃ報われねぇな」
死んだ後の評判なんざどうでもいいし、味方からも鬼と忌み嫌われた俺はともかく、かっちゃん……他の奴らは認められてもいいだろう。
罪人などではなかった……誠の武士だと。
まだ泣き止まない頭に手を置く。
「市村、お前を一人の侍と見込んで託すんだ」
十五の割に小さいその頭が、漸くコクリと頷いた。
「……わかりました。届けたら、ここへ帰ってきてもいいですか?」
それはわかったっつわねぇんだよ。
返事をせずにいると、ぶつぶつ呟いた。
「ええと、刀とお手紙は日野の……銀ちゃんがおじゃましたことあるって……佐藤彦五郎様ですよね」
いや、普通に話してるつもりでも声まで小せぇんだな。
「写真は、えっと、愛しの月野さん宛でいいですか?」
「っこの! 早く行け!」
野村あたりが碌でもねぇ知恵ばっか付けさせやがったな。
置いたままだった手で叩くと、涙目の癖に笑い声を上げた。
「はい! 行ってきます!」
雲の隙間から覗く、朝日が揚々と星形を照らし出す中、遠くなっていく、振り切るように走る姿を、見えなくなるまで眺めていた。
時折こちら……土方の部屋の窓を見上げるので顔を少し背けるが、そうしてもわかるわけがねぇよな、と途中からはそのまま見下ろし続けた。
二十三日夜、再び二股口での戦いが始まった。
敵はお得意のラッパを吹きながら台場山に進軍し、松明を焚きながら背後に廻ってきた。
それを胸壁の間を抜けて見ていた土方には、つい笑いが込み上げてくる。
誰を引っ掛けるつもりだよ。見縊んじゃねぇ。
だが、殆どの兵は動揺しているようだ。
「ビビらせようとしてるだけだ。少しでも退いてみろ、俺が斬るぞ」
土方の言葉は単なる脅しではないが、敵の行動は明らかな陽動作戦である。
これに惑わされず、優勢ではあるが、切れ間の無い激戦は二十五日まで続いた。
三、四発も撃てば持っていられない程に熱くなる銃身を、川で汲んだ水を桶に蓄え、各々冷やしながら連射した。撤退しながらも放たれた砲撃を最後に、またも勝利を収めた。
しかし、不敗無敵と景気がいいのは台場山の陣だけだった。
海岸線沿いの松前、木古内の陣は戦艦からの砲射により崩壊した上で陸兵からも追撃され壊滅、次々と突破された。
四月二十九日に矢不来も陥落し、箱館平野までの進軍を許してしまった。
このまま北上されては、五稜郭からの補給路が断たれ、いくら好調でも二股は完全に孤立する。その上、東西から挟み撃ちにされるのだ。
榎本から即刻退却の命令を受けた。
このままでは全滅するのは必定……理屈ではわかっていた。
不敗の陣を捨てることを残念がる兵ばかりだったが、日暮れを待ち、全軍に撤退を命じた。
あまりに不平そうにするものだから……いや、土方も含めてだが……道すがら有川村の敵陣を襲い、およそ二百人を敗走させた。
五月一日には新撰組が屯する弁天台場に着いたが、“些少な”夜襲を何回か行ったくらいで大きな戦の無い、静かな日々が続いた。
束の間の平安を破る、次なる戦いの舞台が箱館市内、そして五稜郭であることは明白だ。
その噂を聞いたのは、五月五日のこと。
もうじき、蝦夷の幕府軍に総攻撃が掛けられる。
会えなくなってしまったらどうしよう。
あのひとに会えなくなってしまったら、わたしは。
松本と弓継がいなくなってからも、月野は会津の医学所にいた。
相変わらず、イギリスからの連絡はなかった。
見捨てられてしまったのかもしれないと思った。
毎日忙しくて自分の眼のことすら忘れそうになっていたが、患者の噂話のおかげで、戦の状況にはかなり詳しくなった。
もう、迷っている場合じゃない。
定期的に船が出ている一番近い港は、あの日別れた仙台。
松本の代理の医者にはまだ少し人見知りしがちで切り出しにくいが、これもそんなことを言っている場合ではない。
人出の足りない時にと渋い顔をされながらだが無理に休みをもらい、月野は一人で仙台に向かった。
戦時中にその戦場へ乗せていってくれるのだろうかと、考えないわけではなかったが、他に方法が思いつかないのだから不安は無視するしかない。
わたしが行って何かできるわけでもないのに。
医者ではないから、もしもの時に手当てすら満足にできない。
置いていかないでと引き止めようとしたって、わたしの説得くらいで心が動くひとなら、今日まで戦い続けるわけがない。
例え戦に出る前に、一瞬でもわたしを思い出してくれるとしても、きっと行ってしまう、そういうひと。
だからこそ、好きになったの。
二日酔いで動けなくなったらどうすんだよ。
明治二年五月十一日、明日は最後の戦になる。
敵軍の方は勝利と決め込んで、総攻撃を掛けると予告してきた。
幕軍の、幹部と呼ばれる四十人近くの面々は、別盃と称して箱館市内の武蔵野楼へいそいそと出かけていく。
誘われても全然乗り気しねぇんだよな。今日まで榎本とかお偉いさんの機嫌取る気は湧かねぇよ。
その大きな役割は相馬と大野に任せ、土方は自室の窓辺の暗い空を見上げる。
大陸に行った異国被れの榎本に言わせれば土方は、新撰組しか知らない、頭上には小さな空しかない男らしい。
砲撃するとの脅しを掲げて降参を要求されると、土方は誰を責めるとは言わないがそれを飲もうと提案する、彼からすれば所謂腰抜けがいた。
作戦会議の席で、徹底抗戦以外ありえねぇと唱えたのを後から揶揄されたのだ。しかも、またその後に大鳥がやってきて眉を下げる。
「頭でっかちで中身がカラより、一点にギュッと凝縮されている方がずっといいですよ」
器が小さいと言われている気がしないでもないが、さっき散々批判した男の肩を持ってくれるのが不思議だった。
「僕はですね、実を言うとあなたに憧れていました。最初こそ張り合う気もありましたけど、適わないと痛感させられましたから」
ゴシゴシと目を擦っている。
近眼だからか?
「新撰組隊士は勿論、他の皆も、あなたと戦えることが誇らしそうでした。常勝将軍であること以上に、羨ましかったですよ」
あんただって、部下を尊重して絶対に声を荒げて怒ったりしねぇ、理不尽のない立派な将軍だった。俺なら口に出すのもこっ恥ずかしいことを正面切って言ってくるしよ。
互いに到底、無いものねだりだが。
「僕が腑甲斐ないばかりに、足を引っ張ってしまいましたね」
また、頻りに目を擦る。
俺を見ていると、ちょうど逆光だからな、と土方は引き続き意外にも鈍く考察していた。
「大鳥さんが卑下することではない。所詮は人数と武器の差だ、敵兵との」
大して気の利いたことも言えない。
「私と比べるのは御門違いだ。あなたには私の真似できない良さがある」
その上やっと言えれば笑われる。
女の扱いなら得意だったのによ……月野以外は。
「やっぱり思っていた通り、見掛けに因らず優しいひとです!」
一言余計だろ。
「前にも言いましたが……いいえ、何回でも言いたいです」
憧れてたとか言われて照れ臭ぇし、もうしゃべんなよ。
構わず大鳥は異人のように、強引に握手をしてきた。
「あなたこそ、新しい日本に必要なひとだ。生きましょうね! 今度は僕が、あなたの補佐をしたいです」
不意に戸を叩く音がした。ノック……というものだ。
やっと止まった回想に苦笑いする。
「……島田かよ」
「おや、女のひとかと思いましたか? ご期待に添えず、ゴツイ野郎ですみません」
巨漢の島田が身を屈めて入ってきた。
しょっちゅう額を打ち付けていた京の屯所じゃあるまいし、桟は遥かに高くて当たらないのに、その癖は直らないらしい。
「こんな所でサボッてらっしゃいましたか」
「お前こそ抜け出して来やがって、不良め」
「副長にだけは言われたくないですなぁ」
相馬辺りがなんとか後始末してくれるでしょう、と岩のような手には酒をぶら下げている。
「他の奴らも来たがってたんですがね。大勢でいなくなったら不自然なので置いてきました」
で、一番目立つのが来てしまったのだ。
そうこうしながらも島田は土方が許すのを待ち、ギシリと目の前の椅子に腰掛けた。彼が座っていると洋物家具も小さく見える。
「夜明けには持ち場に戻ると言ってましたよ。少しでも行って差し上げれば皆さん喜びますのに」
「暇じゃねぇんだよ。伊庭を見舞ったりな」
同じく銃弾に倒れた春日と共に、田村が細々と手当てしていた。今日は病室に入っても眠ったまま、目を覚まさなかったが。
島田は豪快に、並々と土方の盃を満たした。
「ちょっと待て。呑む前に言っておく」
酔った勢いだと思われては困ることだ。
「俺の後、新撰組は相馬に任せたい」
ずっと空白だった局長の座……相馬本人は知らない。
しかし最も適任だ。
実直で仕事のできる、誰からも信頼されている隊士……島田はすんなり納得する筈だった。
「……そうはなりませんよ。副長は俺達が守ります」
新撰組と俺じゃあ陣地が違うだろ。
「テメェの身はテメェでわかっている」
「私も素面で申し上げますが」
宴会を抜ける前から呑んでなかったのかよ。愛想の欠片も無ぇ、しょうがねぇな新撰組は。
内容はまるで冗談だが、島田は大真面目だった。
「副長に万が一のことがあれば、生涯この身に、あなたの戒名を括り付けて離しません」
……勘弁してくれ。
土方は盛大に迷惑な顔をしてやった。
「お厭なら、また明日も一緒に呑んでくださいね」
「意地でもそうする」
すると島田は思い切り破顔し、もう一つの盃に手を伸ばすので、取り上げて注いだ。
天明を待つことはなかった。
箱館港への砲撃が始まったのは午前三時。
大川口と七重浜口からは陸軍が五稜郭目がけて銃撃し、箱館山の背後からは艦隊で上陸され、市中へ進軍を許した。
最前線は弁天台場……そこには新撰組百人がいた。
「面目次第もない! 既に敗走し、箱館奉行軍と共に弁天台場は籠城を……」
援軍要請の為だろう、千代ケ岡陣屋に飛び込んできた大野は頭を下げるなり一気に捲し立てたが、漸くここの様子……というより土方を見て、あっと息を飲み中断した。立川主税や沢忠助、それに元から陣屋配属の額兵隊を引き連れ、言われる迄もなく出陣準備の最中だったからだ。
「ひ、土方先生! まさか直に指揮をなさるのですか!」
「たりめぇだろ。俺が出ねぇでどうすんだよ」
なんで最後の砦・本陣五稜郭に幹部らしく引っ込んでねぇんだ、とまで言いたげな、非難混じりの形相に向けて付け加える。
「誰だと思ってる。行くぞ、まずは一本木関門だ」
新撰組副長じゃなくて、誰が奴らを助けるってんだ。
それでもいいのに、と思うのは自分勝手過ぎる。
「行けるわけがない。知らないのか? 今頃、箱館港は火の海だろうよ」
月野は、仙台港に来たのはいいが船に乗ることさえできずにいた。
いつだって中途半端だ。
迷ってばかりいるから。
だから後悔ばかりして、この片目から涙を流す。
「ほら、あの船だって難儀してやっと着いたんだ」
指し示された方向には、箱館から帰ってきたという大きな船。
降りてきた乗客が……嵐に遭ったのだろう、フラフラに疲れ切った表情で、月野の横を通り過ぎていく。
「あっ……ごめんなさい!」
よろめいた少年とぶつかりそうになって、ペコリとお辞儀をされた。
「いえ、こちらこそ。大丈夫ですか?」
「……つ、月野さん……」
黒い軍服を身に付けた躰を斜めに傾けるその少年に、名を呼ばれた。
「えっ?」
「すっすみません! そっか……」
途中からポツポツ小声で、それもよく聞こえないのだが、また慌てて頭を下げられた。
「あの、僕、市村鉄之助と申しますっ。土方先生の小姓を……」
仙台港に押し掛けた時にこの子もいたんだと思い出して、少し恥ずかしくなったのも束の間、途端に、その小姓の目にいっぱいの涙が溜まる。なんて声を掛けようか戸惑っている内に、ギュッと目を瞑って振り払うと、別人のようにしっかりした様子で言った。
「小姓の市村です。先生から、これを預かって参りました」
小さな紙の中で椅子に腰掛けて、別れた朝に着ていたものに似た、暖かさを知る羅紗地の軍服の土方。
写真は嫌いと言っていたのに、二枚とも涼しげに澄ましている。
驚いて見返した市村は、身の丈には合わない長さの刀袋も、大切そうに抱えていた。
土方さま……形見を、預けたんですか?
「あのぅ……月野さんはどうしてここに……」
箱館に向かう船に乗る為と答えられたらいいが、実際はただ立往生しているだけだった。訊ねる言葉を言い切らないまま、市村はかなり遠くに泊まる船を見て、まだ高めの声を上げた。
「あっ! もう行かなきゃ!」
横浜港まで行く船だ。
「じゃあ、はい。お気を付けて」
大事に布で包んであったのを戻して、写真を渡した。
「えっ……でも……」
「日野へ届けるように言われたのでしょう?」
――……
「……生身の俺より、紙っ切れの方がいいのかよ」
――……
やっぱり生身の方がいいから、わたしはいりません。
「早く。間に合いませんよ」
躊躇うのを急かすと、納得できないような顔ながら写真を受け取って、ヘトヘトの筈なのに機敏に走っていった。
その船を見送る。
白い陽が、中天を目指して昇る頃だった。
凄まじい爆発音が地を揺らす。
蟠龍の放った大砲が敵艦・朝陽の弾薬庫に命中し、赤く炎を上げてどっぷりと沈んでいく。
土方の向かう方とは逆向きに敗走してきた兵が一斉、ドッと歓喜に沸き上がった。
未だ軍神には見放されていなかったな。この好機を逸したら勝利は無ぇが。
「大野、お前が軍を進めろ」
ここをなんとかしなければ、弁天台場は完全に孤立する。逃げてきた伝習隊を大喝した。
「お前等のことは俺が見ているからな」
一本木関門の柵に手をやる。
「退いたらここで斬られると思え!」
啖呵を切って兵を送り込んだはいいが、その直後、すぐ近くの一本木の浜に味方が上陸した。
機関に故障を抱え、浅瀬に乗り上げながら砲戦を続けていた回天はついに断念し、兵達は荒井の命じるまま小舟で脱出してきたのだがしかし。
あそこは敵兵の渦中じゃねぇか。
「援護するぞ」
と、口に出さなくても、駆け出す土方の背中には、“陸軍奉行並”という新しい役職を付けられてからずっと直接指揮してきた隊、五稜郭詰陸軍添役の面子が揃って従いてきていた。
いい仲間を得た。
しかも殊更、接近戦では他の追随を許さぬ猛者ばかりだ。
敵は散々になり、無事、回天乗員の退路は確保した。
でも、なんだな。
この戦場はヤケに、今まで以上に、見守られている気がする。
かっちゃんと総司……先に逝っちまった奴らが、俺が死んだら誰が一番に迎えに行くか、本気で談合でもしていやがるのかもしれねぇ。
「戻るぞ。いや、このまま俺らが弁天台場まで斬り込むか」
駆ける馬上でニヤリと、悪巧みする。
一本木関門で見張ってるより、逃げてくるのがいても、俺が進軍しながら怒鳴り付ければいい。
本気で、そうするつもりだ。
「土方副長!」
呼び声だけ聞こえて、銃弾は、自分の腹の中に入ってこられては先にした筈でも音すらわからない。
天地が引っ繰り返るのが見えた。
この躰が地に着くまで、空を見上げる。
ほんの、一瞬じゃねぇか。
生きているうちに苦しめた仲間はじわじわと死なせちまったのに、俺は痛みも無ぇ。
高く、白い雪と花びらが次々降りてくる空に、手を翳す。
全部、幻想か。
よく生ききったと思うのも、掲げた誠の旗も、胸の誇りさえ。
胸を掴むと、クシャリと乾いた歪みの感触。
あまり浸ってる猶予もねぇらしい。
ほったらかしにした癖に虫のいい話だが……この真っ白な空の中で、今、俺の視界を支配するのは月野……お前だけだ。
あのひとの、姿が見えた。
散る雪。
散る花。
天から離れる躰。
「歳三さま!」
膝を打ちつけるくらいガクリと折り、港と海の境に手を付いた。
あのひとに、呼ばれた気がした。
暗闇の中で一度、名を呼ばれた。
目を開けたつもりでも、そのまま。
ああ、わたしの両目、見えなくなったんだ。
でも、これでいい。
二度と光を映さなくても構わない。
あなたが居ない現世なんて、どうせ真っ暗なのだから。
どこへ行こう。
芸妓になって、太夫に憧れた。
土方さまに身請けしてもらえたら、どんなに幸せだろうと夢見た。
総司さんの病気が治りますように、叶うならわたしはどうなってもいいと願った。
目が見えるようになって医者になって、土方さま達の創った国で暮らしたかった。
全てなくして、わたしは。
土方の戦死を切っ掛けにしたように、箱館市中で戦った兵士達は圧倒され、悉く敗走している。
明治二年五月十八日、五稜郭は降伏した。
幕末の終わりだ。
しかしその後も、新撰組の名は賊軍の汚名を着て残っている。
隊長となった相馬主計は、官軍への抗戦責任から京都での“活躍”、果ては坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺まで、執拗な詮議を受けることになった。
この人なら耐え抜いて始末を付けると、見通していたんだろうなぁ……土方さんは。
と、弓継は思う。彼が日本に帰った頃は、廃藩置県に地租改正に徴兵令と、中央集権を目的にした新国家ができていた。
ザンギリ頭で文明開化って……古っ! 俺は六年も前から髷なんか無いよ。生活に文化、猿マネが大好きな官軍さん達はどんどん西洋を取り入れようと頑張ってるみたいだけど、そこから来た俺に言わせればちゃんちゃら可笑しいね。……イジケてても、しょうがないんだけどさ。
会津の医学所に着いても、月野はいなかった。
どこにもいない。
弓継より先に帰っていた松本も当然捜し続けたが、見つからない。
「尼さんにでもなっちまったんじゃねぇか」
松本が似合わない溜息を吐いた。
会いたいな。
藪医者じゃあ埒が開かないから、俺が眼の手術を習ってきたのに。
きっと見えるようにするよ。傷だってちゃんと治すし。
土方さんの辞世の句は、小姓が日野に届けたんだって。
身は朽ちても、魂は江戸の君主をお守りする……でもあなたがこれを目にしたなら、涙を溢してから、それから微笑むんじゃないかな。
たとえ身は
蝦夷の島根に朽ちぬとも
魂は吾妻の
君や守らむ
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