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第五章
第六話
しおりを挟む凍えそうだ。
塞がったばかりの足の傷が、急に思い出したように痛む。
これ程の長時間船に揺られるのは初めてだが、寒ぃところの空ってのは煙で覆ったみてぇに白く重々しい。
決して真っ白ではなく、どんよりと包むような。
せめて江戸に倣って、青く高い空なら気が晴れるんだろうか。
いや、江戸は東京と名を変えたんだった。
「土方先生? 顔色が悪いですよ。もう少し寝まれた方がいいのではないですか?」
出航を後らせたのも適わず悪天候続きで、先を行く船とはぐれそうになりながらもなんとか目的地である内浦湾鷲ノ木沖に着こうという日、土方は早朝から甲板に出ていた。
嫌と言うまで全身にぶつかる北国の風は、さながら細かい針で刺されているようだ。
一度振り返ってまた向けた背には、根っから真面目くさった心配顔を傾げる相馬主計。
「寒がりやで朝にも強くはないんですから、ご無理は禁物ですよ! 気になって俺ものんびりしていられませんし」
悪ガキ風に破顔するのは野村利三郎。近藤勇の護衛として板橋に投降し、共に捕らえられた二人だ。
隊士の末端までを仲間と扱った近藤が歯を食い縛って
「何も知らない、ただの従者だから」
と、自らの命乞いなど二の次に、拳を握って頭を下げてまで解放させた。
そうでなければ、ここにはいない。
ようやく隊に合流できた時、二人は何も語れないまま止める方法を持たない涙を流した。
最期までと懇願したのを叱り飛ばし、僅かの味方を遠ざけ救った近藤。
あの日土方は、墓前で誓った。
いい気にさせる為でも、局長として担ぎ上げる為でもない。
唯一である誠の武士の、その心意気の分まで戦い抜いてみせる。
だから、四角い顔を苦笑いに歪ませてでもいいから、しっかり見ててくれよな。
「頑固なんだからなぁ。鉄も苦労してるだろうなぁ」
両手を頭で組む野村の後ろ襟を掴み上げた。
「相馬、海釣りでもするか。餌コイツで」
「いいですね」
朴念仁の癖に無理矢理乗り気を作ったんだかひょっとしたら本気なんだか、相馬は土方と一緒になって、せぇのでバタつく野村を持ち上げて、手摺りから身を乗り出させる。
「やめっ……ぎゃあ! テメ相馬! マジで落ちっだろ!」
そこにようやく救いの一声が入った。またいつのまにやら遠慮がちに様子を窺っていたらしい、鉄之助の甲高い声だ。
「先生、岸が見えてきましたよ!」
十月二十一日、回天・開陽・鳳凰に続いて新撰組の乗る大江丸も到着した。
その前日、先発隊三十人が鷲ノ木駐在の荒井信五郎に湯・宿・薪の手配を命じている。しかし荒井の届け出により箱館府は万全の臨戦態勢を整えた。
そして箱館府知事清水谷公考への蝦夷地下付嘆願書を携えた遊撃隊隊長・人見勝太郎が、これも三十人程と内陸部本道を五稜郭へ向かった。
それを追い、大鳥が伝習隊・遊撃隊を率いて進軍。先鋒として加わった新撰組の隊長は安富才助が務めた。
土方はというと、額兵隊・陸軍隊を連れて海岸添いを南下、川汲から峠の間道を進んだ。
と、その前に、懐かしい顔との再会があった。
「歳さぁん! オッス! 相変わらずイイ男だねぇ! 俺程じゃねぇけど!」
「伊庭……おめぇは相変わらずウルセ……」
言い掛けて、絶句した。
上洛前の、この国のことも自分自身のことすらも何も知らない頃に、伊庭の小天狗との異名を誇る程の剣技を持つ男と土方は出会った。
その男の左腕が、無くなっている。
「その腕……」
伊庭はカラリと笑いながら残った右腕を屈伸する。
「ヘヘッ鳥羽伏見でちっと失敗った! “隻腕の美剣士・イバハチ”なぁんちって! まぁたモテちまうなぁ……北国美人は俺がいただきだぜぃ! 歳さんにはあーげないっ」
「……別にいらねぇよ」
一言話せば十も返ってくるこの男・伊庭八郎は江戸四大道場の一つ、心形刀流伊庭道場の倅……これでも御曹司で、講武所剣術教授方を務めた歴とした幕臣だ。
将軍上洛時の奥詰など華々しい役職を経て幕府遊撃隊として、こうして武士の致命傷を負っても戦い続けている。
「辛気臭ぇ顔しねぇでくれよっ! これからが祭りだろ!」
この能天気はさて置き、額兵隊には洋式兵学を修めた星恂太郎がいた。
細谷十太夫を筆頭に夜襲を得意とする衝撃隊……黒迷彩の鴉組と並ぶ仙台藩双璧の砦であり、自藩の降伏をよしとせず合流したのだ。
「細谷が屈したこと、腑抜けだなどと思いませんよ。彼のように、降伏で藩と領民を守る道もあるということは承知。私がそれを選べなかっただけです。私を説得しながらも一番戦い続けたかったのは、恐らく彼でしょうね」
確かに、土方も会ったが、武器遣いの達人と世に聞く戦いぶりと鋭敏な指揮からは意外な程に年若い、同じ評価がピタリ当て嵌まる斎藤……山口次郎よりもさらに一つ年下だという血気に逸る男だった。
そして鷲ノ木には海軍・衝鋒隊・彰義隊が残った。
笑って再会する筈だった、もう一人の能天気の姿は無い。
彰義隊に加わった原田左之助は、上野戦争で戦死したという。
蒙古に渡り馬賊の頭目をやっているとか妙な噂が囁かれたが、そっちの破天荒な眉唾話の方が余程に彼らしい。互いに不死身かと思っていたくらいだ。
蝦夷の緒戦は、薩長軍の急襲により始まった。
受けて立つのは本道を進む人見の一行だが、すぐに大鳥が援軍を出し返り討ちにした。土方ははっきり言って大鳥にしちゃあやるなと思ったが、うちの隊士が先陣切ってるんだから当然の結果だとも鼻を高くした。
その後も作戦会議中の敵陣を有無も言わせず襲うなど、目を見張る活躍振りだった。
伝習隊を大野村、遊撃隊と工兵隊そして新撰組を七重村へと、軍を二分しても勢いは衰えず、伝習隊はたったの半刻……一時間で勝利した。
迎撃態勢万全の兵を相手に激戦を強いられたのは、七重村の方だ。
昼下がりから始まった戦闘は苦難を極め、ついに白兵戦となる。
勇敢にも外套や胴服を脱ぎ捨てて斬り込んだという唐津藩士・三好胖に随従していた新撰組隊士・小久保清吉が、敵は討ち取ったものの胸に銃弾を受けて即死した。
蝦夷に来て初めて、隊士を死なせてしまった。
最後まで戦いたいと言ってくれた仲間なのに。
さらに誓いを強く、心に刻む。
隊士を、離れたところで死なせやしねぇ……うるせぇぐらいに、共に戦おう。
辛くも撃退した後に二隊は合流し、赤川に宿陣した。
五稜郭まで、目と鼻の先である。
土方の率いる軍は順調に進み、発砲を受けるも額兵隊の機転で背後から追撃して忽ち敗走させた。
“のんびり”温泉に宿営してから川汲峠を越え、こちらも上湯川……五稜郭を見据えた挟み撃ちの場所まで到着した。
この負けなしの進軍に、箱館府知事の清水谷は津軽への撤退を決めたらしい。誰かサマのように夜の内に船を手配し、朝にはさっさと逃げてしまった。
しかし、意気揚揚と入城……とはいかせてくれない奴らがいた。
「退きな。ちんたら指揮されちゃあ欠伸が出ちまうぜ」
「そちらが退け。これだから血の気ばかりの多い新撰組は。溜め息が出る」
やっと城へ乗り込みという時、相馬に呼ばれて来てみれば、既に抜き合っての対峙だった。
「春日……斬って捨てる」
止めに来たはずの相馬が溺愛する新撰組を貶されたゆえのコロリと阿修羅の形相で低く呟く独り言を、後ろ頭を軽く叩いて止めた。
一触即発……と称するのもやや遅い気がするが、ただでさえ寒いのに割り増ししてピンと張った空気を辺りに巡らせるのは、新撰組の野村と、旗本で陸軍隊隊長の春日左衛門だ。
先程までは相変わらずの鉄面皮で冷静だった相馬の話によると、まだ進軍の命令もないのに野村が配下の小隊を動かそうとしたらしい。
あのせっかちのしそうなことだ、と土方は苦笑いを隠そうともしない。
しかし春日は鷲ノ木出発以来ずっと野村の隊を後方に置き、先鋒は常に自らの隊に切らせたという。
弱兵と慢られているのではとの欝憤が募り、野村から抜刀したのだ。
「軍法に逆らうなとか理屈捏ねる気なら、非はそっちだぜ。この隊はお前の私兵じゃねぇんだよ」
「どちらが罪人か。この刄が決めること」
「……上等」
なんで俺がガキの喧嘩の世話焼かなきゃならねぇんだ。
ここまで黙って見ていたが、どちらかが死ぬのではというぐらいの剣幕に横槍を入れた。
「そこまでだ。進軍していいぞ。グズグズすんな」
お前等のせいで大鳥に先を越されたじゃねぇか。
騒ぎを知る由も無い彼は白地の中心に赤丸……日章旗掲げて、とっくに裏門から入っている。
「副長! コイツひどいんすよ! 懲らしめちゃってください!」
すぐに刀と殺気を納めてアホ面に戻る野村に対し、憮然としたままの春日に声を掛けた。
「春日、すまなかったな。血量過多だけが取り柄なんだ」
マズイと表情を一変させる春日と、蛻けの殻の五稜郭に入ったのは夕刻だった。
時々、一瞬だけれど周りが色褪せてぼんやりして、よく見えなくなる。
眠る前に思う。
明日の朝、眼を開けても何も見えなくなっているかもしれない。
月野は、会津の藩医として戦で怪我をした兵士そして一般人の手当てをしている松本良順を手伝っていた。
毎日忙しくしていれば、いくつもの不安が少しは紛れる気がした。
「月野さん……こんなところで何してるんですか」
江戸の医学所を任されていた弓継は、より一層大人びて、どこか貫禄すらある。今日は出張し、手伝いに来ていたのだ。
「久しぶりなのに、ひどいんじゃない?」
月野は患者の傷に薬を塗る手を休めないまま、無意識に口先が尖ってしまっているのに気が付いた。
「俺はてっきり、蝦夷に行くのかと思ってましたよ」
わたしも、本当に行けるんじゃないかと思ってた。
本気で夢を見た。
ずっと一緒にいられる儚さを。
「よく来たな、弓継」
松本が腕組みして壁に凭れているところに、弓継は挨拶も疎かに噛み付いた。
「先生! 土方さんを連れ戻すか、できなければ月野さんを箱館に行かせてくれるって言ったじゃないですか!」
そんな約束をしてくれていたなんて。
困って首を掻く松本は、ふぅと目線を下げた。
「弓継くん、わたしはまだ行けないの」
平和な国が築かれて、呼んでもらえるまで?
……違う。
「もっと勉強して、お医者さんになりたい」
それで蝦夷の病気と怪我を治す、初めての人になる。
役に立つと思ってもらえるまで、傍には行きません。
「月野さんはいつも、我慢し過ぎですよ」
してないよ。それに……。
「榎本さま? に、嫌われちゃってるし」
松本はやっと顔を上げ、片眉を捻った。
「ん? どこがだよ、メロメロだったぜ?」
いいえ、それは偽造。
わたしのことを、すごく邪魔だという目で見ていた。
酔って暴れる芹沢さんや、わたしを斬った篠原さんより、あのニコニコ笑っていた人の方が、すごく怖い。
こんなこと誰もが、きっと土方さまも否定するから言えないけれど。
「それに、迷惑だって思われたくないから」
くるくると、大きな弾傷の痕に包帯を巻いた。
あ、やっぱりたまに、見えなくなる。
気のせいじゃ、なかった。
「あの人が、迷惑だなんて思わないですよ」
それは、わかってる。
でも喜んではくれない。
周りの人達に迷惑がられる……そうしたら、土方さまのせいにもなってしまう。
「すぐ一人で考え込むんだから。月野さんのそういうところ、かわいくないなぁ」
直後、ツンツンだった髪の少し伸びた頭が松本に叩かれていた。
かわいくなくていい。
何もかも捨てて、ただ会いたい一心で飛び出すなんてできない。
そんなのあれきりで、二度としない。
数日後に弓継が江戸に帰っても、月野は会津に残った。
薩摩藩と長州藩の治世になれば、年貢を免除される。
そんな噂が広まった会津では大規模な一揆が頻発し、民政は崩壊状態、会津公は鳥取藩に永預となった。
薩長軍は、負けても負けてもこの日本中から援軍が出る。
しかし蝦夷に行った幕府軍が負けては、あの日船に乗った兵士達が次々減っていくだけなのだ。
とても単純な理屈で、月野にもわかってしまうのが厭だった。
勝たなくても、わたしなんかに会いに来てくれなくてもいいから。
生きていてほしい。
もう二度と、“ここ”愛するひとと別れる場所に取り残されたくない。
沖之口運上所、そして弁天台場には日章旗が北風に靡く。
箱館府に代わり市中を治めると布告する為、永井尚志らが掲げた。
赤い丸は、太陽の光を表している。
俺達の旗と言うより、陽の昇るこの国にこそ相応しい、と土方は見上げる。そして、五稜郭ってのは遠くから見ると、哀しいくらいに美しい城だなと。
洋式の見慣れない城郭なのに、眺めているとどこか寂しくなってくる不思議な光景だった。
しかし和んでいる暇などなく、入城二日目には松前藩攻略に向かった。
従えたのは額兵隊、陸軍隊、彰義隊ら五百人と新撰組数人。有川に宿陣し、松前藩士・渋谷十郎と対面した。
江戸にて抗戦派を手に掛けた後、炎上した津軽陣屋を見て幕軍の箱館占領を知ったらしく、責任者との面会を求められたからだ。
要するに、ふざけんなてめぇら面ぁ貸せ、といった風に。
上陸理由はこう述べた。
「この地を開拓し、功を以て罪を贖いたいのです」
なんだ意外とおとなしい、話のわかりそうな人物ではないか、と“勘違い”させ油断させたところでギロリ得意の睨みを利かせた。
「こちらには、三千の兵と数隻の大軍艦がある。ますます兵仗を整え粮道を広げていけば、全島の平定などすぐだ」
怯んだと見えるところでさらに加える。
「前の松前藩主は老中として徳川家を補佐していた筈。現藩主はなぜ幕府に敵対する」
言うだけ言って黙り込んで返答を待った。
「……と、徳川家への恩義は重々……しかし、藩論は勤王と固まっている。両立は、できない」
土方は殊更にガタンと音を鳴らして立ち上がった。
「ならば戦うのみ」
その後、進軍中の知内で夜襲を受けるも難なく蹴散らした。
負ける気がしねぇ。
相手側は、薩長の援軍を待つ為にだろうが十一月十日までの停戦を提案してきていた。
「和を講ずるならばこちらとて望むところ。しばらく進軍を停めるが、期日を過ぎれば即刻兵を向ける。そのつもりで」
しかし返答の代わりに夜襲を受けたのだ。
翌日、早速開戦。
一ノ渡に進軍した先鋒・額兵隊と彰義隊が松前の砲台を陥落させ、続け様に山崎の陣も突破、次の日には福島に入った。
吉岡峠の残党も撃退し、全軍が荒谷に宿陣したのは四日だった。
負け知らずのまま、明日の早朝には松前城を攻める。
遠くに見える回天と、蟠龍……は風に妨げられ引き返していったが、それら榎本のお気に入りはハッキリ言って邪魔臭い。
「ここにあんなデカブツ持って来られてもなぁ……つか自慢してぇだけか?」
「はい? どうしました?」
陸の戦いは俺に任しときゃいいだろ。
ついつい毒吐く腹の中を星恂太郎に聞かれかけたのとは反対に予想通り、回天はろくな艦砲射撃をしてくれなかった。その間、城下搦手門に攻め込んだのはまたも心強い額兵隊と彰義隊だ。
「くっ! 汚いぞ!」
星が持ち前の実直さで歯軋りをする。
待ち受けた松前藩兵は門内から大砲を撃ち捲り、撃っては門を閉じ、砲弾を備えてはまた開いて発砲する、という戦法を執った。その上で塀の隙間からも狙撃してくる。
「汚ねぇっつうか、まぁ見事だな」
「土方さん! どちらへ?」
攻撃とは反対方向に睚を決する。
「新撰組、ついてこい」
何か戦略があるのだと無条件に信じてくれるのはいいが、島田魁を筆頭に裂帛の気合いを発するのを苦笑いで制した。
「……声がデケェ」
「総督! 我々もお供します!」
「だから声がデケェ。バレたらどうすんだ」
食い気味に叱られた春日ら陸軍隊も加わり城裏の寺町に迂回、梯子で石塀を越えた。
汚さなら、俺が上手だ。
背後から潜入し、一斉に銃を放つ。
背に刄を向ける……もう武士道とか拘ってる方が敗けるだろ。反吐が出る程に教えてくれたのは、そっちだぜ。
てんやわんやの防御が長く続く筈が無かった。ついに城と市中に火を放ち西門から逃れられ、松前城は落ちた。
夜には、誠の旗に替えたいのは山々だが慣れない日章旗を掲げ、城に入った。
着いてしばらく、休む寸暇も許されぬ土方は、荒々しい怒鳴り声の固まりができているのを掻き分ける。
「こんな所に隠れてやがった!」
「動くんじゃねぇよ、誰が逃げていいと言った?」
「おい、誰が勝手な真似していいっつった?」
「ひっ土方先生!」
一人一人睨み付けて三割増しで凄みながら目を落とせば、いかにも気位の高そうな脅されても微動だにしない女と、対して当然だろうがその侍女は震えている。
松前藩主・松前徳広の夫人だ。
「軍律を知らぬ者が、失礼をした。弘前にお送りする」
松本捨助と斎藤一諾斎に護衛させたが、後に人見勝太郎に冷やかされた。
「常勝将軍も、女には弱いらしいですな」
「……あなたも、きっと同じことをする」
内緒にするものだからこの時の土方は知らなかったが、実際に人見も、奥の仏間に居た藩主の家族らを逃がしていたという。
「そんなに美しかったのですか?」
頓珍漢な返しに目線だけで、そういう意味じゃねぇよ、と応える。
暫しの休陣の後、衝鋒隊と額兵隊を先頭に江差へ敗走した松前兵を追った。大滝で反撃に遭うのも退けながら到着したが、既に熊石方面に逃げ延びられていた。
そこで待っていたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。一艦でさえ津軽海峡を制すると讃えられた開陽が、座礁していた。
「だから黙ってやがれと言ったんだ」
大袈裟な舌打ちを隠すこともしなかった。
先回りして偵察部隊を運んだ榎本の虎の子は、江差沖に停泊していた夜間、暴風雪で煽られ“碇が”役立たずになり、襲い掛かる波浪に弄ばれるまま浅瀬に乗り上げた。不機嫌を聞き付けたようにやってきた伊庭が、失った左腕の付け根を軽く叩いた。
「俺よりヒデェな。これじゃあ幕軍は両手足に両眼を取られたのと同じだぜ……なっ、歳さん」
天の邪鬼気質を熟知で操縦しようと試みているのがあからさまだが、敢えて乗ってやる。
「端から頼りにしてねぇよ。俺がいんのに敗けるわけねぇだろ」
ここで後ろに気配を感じ、ヤバいと思えば案の定、榎本だった。
暗礁から脱することもできずその身を隠していく船を、額に手を当てて眺めている。
抜け目ないこの男のことだ、恐らく聞かれていただろう。
「あーあ、沈んじゃうなぁ。とても残念だ!」
なんでそんな、あっけらかんとしてられんだ。心底、この男の気が知れない。
「でも乗組員は全員無事に脱出できましたし、よかったよかった!」
「……っ歳さ……」
制する伊庭を無言で一瞥した。
「笑ってる場合かよ。あんた本当に勝つ気があるんだろうな? 悪フザケも大概にしてくれ」
いくら戦略を任せられても、所詮新撰組しか知らないとの自覚はある。弁えず、海軍副総裁に噛み付ける立場じゃないことも。
「悔しくねぇのかよ! 道楽のつもりなら……」
「歳さん! やめなって!」
伊庭に止められるまで沈黙して聞いていた榎本が、深く息を吐いた。開陽は、哀れがましく海に飲まれていく。
「……悔しいですよ、ちゃんとね。私の船だ。連勝のあなたより、数倍は悔しい」
掲げられた日章旗もろとも沈んでいく様は、あたかも日没だ。
「この状況の前で、私が地団駄踏んで口惜しがれば満足かな?」
ちゃらんぽらんの癖に人が良い伊庭が、ハラハラ焦っているのが伝わってくる。
「あなたの言葉に憤怒して、殴り合いの大喧嘩でもすれば気が済みますかな?」
バカにされてるようだと思うが、いつもの大振りの動作で肩を竦める。
「そうではないでしょう。私はこの船の艦長だ。兵に不安が伝染する。正直になって、いいことなど一つもないのです」
大将の器……そうか、だから……かっちゃんに似ていると錯覚したんだ。
「国をなんとかしたい。だが薩長のやり方には賛同できない。このパッション……情熱は、あなたと同じです」
榎本は終始笑顔を張り付けたまま、ドンと左胸を拳で叩いた。
情熱か……もし本当にその大きさが同じだとしても、種類と方法は違うのだろうな。俺の方は、一点しか見えていない。
「歳さんほらっ! 失礼なこと言ったんだから謝って! 仲直り仲直りっ!」
ガキの喧嘩か。
「榎本さん……すまな……」
「いえいえ、いいんですよ! フレンドリーにいきましょう!」
……また遮りやがった。
下げ掛けた頭を決まり悪く戻した。
開陽と、蒸気機関の故障により同じく座礁した神速の二艦を失いながらも、江差そして蝦夷全島は平定した。箱館五稜郭で祝賀会が開かれる中、土方は全軍の最後、十二月十五日に到着した。
早々と榎本は英仏両国の船将との会談を済ませ、幕軍を事実上の政権と認めさせていた。ちなみに国外の歴史には、オーソリティーズ・デ・ファクトと記されている。各国領事や船将に箱館の有力者達が招かれた盛大な催しに、凱旋将軍なのだから勿体振って遅めに華々しく登場してくださいとか細々うるさく……勿論榎本からだが、注文付けられていたのだ。
箱館港と弁天台場、さらに五稜郭から百一発もの祝砲を放ち、艦隊は五色の小旗に彩られ、夜は市中これでもかと提灯で飾った。
「土方さん、こっちこっち!」
恥ずかしいだろ、と叱り付けたいくらい、京に居た頃と同じ勢いで飲んではしゃぐ隊士らを尻目に榎本から手招きされると、そこには光を溶かしたような赤い髪と雪まみれのように白い肌の大男達が待っていた。
ゲッと、顔が歪みそうになる。
土方は外国人が苦手だ。いや、得意な日本人なんてそう多くはいないだろうが。
「軍事教官のブリュネ(Jules Brunet)さんと、伍長のカズヌーヴ(Andre Cazeneuve)さんですよ。お二人ともフランス人です」
顔中の懐こい笑顔で、その内の一人が意外に華奢な土方の一回りは大きいであろう片手を伸ばしてきた。榎本のおかげでさすがに慣れた。握手……というものだ。
「ヨロシクおねがいシマス、monsieur……?」
「ムッシュー・土方!」
「ヒジィ、カタさぁーん! Brunetデスゥー」
榎本が補足すると、ブリュネは抱きつかんばかりに寄ってきたのでさり気なく、のつもりで避けた。
実は蝦夷上陸の時から一緒で、これから仏式調練を施してくれるのに加え戦略会議にも意見してもらうのだと聞いてはいたが、やはり土方は外国人を好意的に見られる質ではないので面と向かっての挨拶は遠慮してきたのだ。
どうも、信じきれない。日本のゴタゴタに首突っ込んで、疲弊しきったところをどうする気かなんて大体想像付くだろう、と斜めから見てしまう。
「チャンバラァー! ニンジャー!」
如何にも武士然とした厳めしい立ち居振る舞いに、精一杯知っている日本語を並べて称賛だか冷やかしだかを浴びせてくる、初対面時の榎本とほぼ同じ反応なのに呆れながらもう一人、カズヌーヴの方を見ると大人しげに押し黙っている。
異人は皆、底抜けに陽気という印象がこびり付いていたが、こういう奴もいるのだとわかると逆に親近感が湧いてくるから不思議だ。
そしてこの日、箱館政府の閣僚を決める入札、現代でいう選挙が行われた。その権利は上等士官以上の者に与えられる。江戸幕府開闢からおよそ百五十年、国の長はどんなに出来が悪かろうが基本的には徳川家世襲制で、藩主も同じ、家を継ぐのは能力に関係なく長男、商人は一生商人、農家は一生農家……と、個人の力や希望は無視されてきた時代で、身分はほとんど問わず、実力と人徳を重んじる画期的な方法だ。
新しい国を創るだけのことはある、と土方も感心した。
結果が知らされる直前、ふと大鳥を見るとモヤシッコ風情に磨きがかかり、いっそ青ざめているくらいだった。入札点数の多い順から役職が決まっていく。大鳥の目に見えての緊張振りの意味が、いまいち理解できずにいた。
一位は、百五十六点とダントツの票を得た榎本武揚。文句なしの総裁だ。副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介。
ここで大鳥は身体の底からハァと深く息を吐いて、ようやく血色を取り戻していった。
それも、注目している者にしかわからない動作で。
なんなんだ? と、訝しがる土方は、陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取。
長ぇよ、と一人吹き出しそうになりつつ、つまりやることは新撰組と変わらねぇのか、と得心する。
そして各奉行ごとの入札も行われたが、やはり総裁は絶大な支持により榎本だった。副総裁の任に土方に票を入れた者がいたのに本人は内心驚いていたが……そんな物好きの内の一人は榎本だろうな、と確信していた。今は知る術もないが。
仏頂面との差があり過ぎて、あからさまに相好を崩しているように見えたのは相馬主計。陸軍奉行添役十六名の筆頭に選ばれたからだ。
「また、土方先生の下に従けるのが嬉しいです……!」
涙ぐむ程の相馬の横で呟くのは、その補佐役に就いた野村利三郎だ。
「でも、蝦夷平定の主力で敗けナシの副長の上が大鳥さんって納得いかないっすよ。何か裏があるんじゃ……」
「止せ」
更に低い声で制した。
「俺は二番手がいいんだよ。じゃなきゃ身動きとれねぇだろ」
こうして入札により政府を立てた為、蝦夷共和国、と称されるようになった。徳川家に連なる人物を盟主に迎え蝦夷藩という新しい藩を創ることが、榎本らの目標だったのだ。
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【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
大奥~牡丹の綻び~
翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。
大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。
映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。
リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。
時は17代将軍の治世。
公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。
京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。
ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。
祖母の死
鷹司家の断絶
実父の突然の死
嫁姑争い
姉妹間の軋轢
壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。
2023.01.13
修正加筆のため一括非公開
2023.04.20
修正加筆 完成
2023.04.23
推敲完成 再公開
2023.08.09
「小説家になろう」にも投稿開始。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
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