沖田氏縁者異聞

春羅

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第五章

第五話

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 入れねぇってのはどういう了見だ。

 土方は、援軍を求めて遥々庄内まで痛い足引き摺って……いや、馬走らせて来たというのに米沢藩の兵士に入国を阻まれた。奥羽越列藩同盟など砂上の楼閣の如く、米沢は降伏を決めたらしい。

「新撰組の土方と知ってのことか」

 どんな下っ端でも、京洛を震撼させた鬼が今は幕軍参謀の役職に就いていることは聞いているだろうから、わざと気に入っている方の名を迫力込めて使う。

 しかし彼が出来得る限りの全力で睨みを利かせて凄んでも効果は無かった。

 それでも一度城下に留まり白石に向かったおかげで情報を得た。海軍副総裁・榎本武揚の幕府艦隊が江戸を抜け、仙台に着いたと。

 “仕事の早い”土方はすぐに面談を申し込んだ。

「おぉう! 君が土方さんかぁあ! うぅんサムラァーイ! クゥール! ビュウテフォオウ!」

 ……斬られる!

 途中から訳のわからない言葉を発しながら諸手を挙げて寄ってくる男。

 陽気な変り者の風情を匂わせながらの相手に関わらず、土方はハッキリとそう思った。

 間合いに入ったら最後、斬り付けられると。

 見たところ腰には一口の刀も佩いていないが、恐らく短銃の一つぐらい隠し持っているだろう。

 身構える土方をものともせずズンズン満面の笑顔で迫り、右手を差し出す。意味がわからないでいるとギュッと右手を掴み、勢い良く上下に振った。

 ……利き手を封じる戦略か?

 人生二度目の、物凄い威圧感を見せ付けられた。

「初めまして、お会いできて嬉しい!」

 一度目は、近藤勇……新撰組局長なんて肩書きが付く前のガキ大将の時分からそうだった。周りを包み込むような威厳を纏った男だった。

 対して榎本武揚は上から圧するような、気を抜けば胴を真っ二つにされるような風格を漂わせている。

 まだ少しも翳らない笑顔を浴びせられるまま、いつのまにやら両手で握られていた手を漸く離された。

「……こちらこそ。長旅でお疲れのところ……」

「いやいや! まぁまぁ立ち話もなんですから」

 やっと引き吊り気味の頬の筋肉強張らせて一応の挨拶をしようとするところで肩に手をやられ、ふっかりとした背もたれの付いた、土方からすれば、確か椅子? のソファに座らされた。

 趣き深い趣向の古宿だというのに畳の上に臙脂の絨毯を敷いて、猫の足のように丸まった四脚の付いた高い机と、このやけに暖かい深緑の椅子を置いている。

 黒々とした口髭を揺らして笑う、恐らくこの男の好みだろう。

 机の上には怪しげな黒い液体の入った瓶が置いてある。

 榎本は儒学や蘭語に英語そして海軍技術を修めた学問好きでオランダへは留学もし、さらに機械と化学と治金に地質に、日本人で初めてモールス信号まで学んだ。

 固そうな頭の割に異様に親しみ易さを全面に押し出した人物だが、しかしさっきの迫力は……裏の顔か?

「私はあなたの味方だ」

「……は?」

 これからそうなってくれるよう説得するかというのに不意を突かれた。

「あなたが来てくれなければ、私からお願いするところでした」

 呆気にとられている間、榎本は机上の瓶の栓を持ち上げた。

「では、お近付きの印に飲みますか!」

 いや、それ毒じゃねぇのかよ。

 予想は外れ、ポンと軽く栓を抜くとフワリと葡萄の香がした。

「ご安心を。洋酒です」

 酒はちょっととか言うのは、見栄が邪魔する相手だ。

「ワインといいまして、葡萄酒です。美味ですよ!」

 硝子に酒を注ぎ、自分の分をこれ見よがしにニコニコ顔の辺りまで軽く持ち上げる。

 ……なんだよ。

 後から乾杯と呼ぶと知るのだが、マジマジとその動作を見ている間に榎本はグルグル硝子を回して匂いを吸い込んでからグイッと飲み干して、土方が飲んだらどんな反応をするか、きっとうまいと感激するに決まってる、という期待の視線を向けてくる。

 そろそろと口元まで近付けると、鼻を突くような酸味混じりの匂いがした。

 性分からして、半分くらいを一気に口に入れる。

 ぅおえっ……!

「……おいしいですね」

 なんで足の傷以外で痩せ我慢しなきゃならねぇんだ。

「よかった! あ、土方さんはすぐ顔に出るんですね」

 不味い、いやキツいと噎せそうになったのがバレたかと思ったが

「真っ赤ですよ」

と付け足された。

 肌のことかよ……つか、ほっとけ。

 すっかり調子を持って行かれっぱなしの土方は、やっと先攻を奪った。

「……本当にいいのですか? 反対する方も多いのでは」

 勝安房守と親交が深いと聞いている。だから簡単にはこちらに付かないだろうと覚悟していたのだ。

 榎本はムカつく程の余裕でニコリと笑顔を作ってから言った。

「あなたは、誰と会う時でもそうなのかな?」

 いや、無視かよ。
「“そう”とは……」

 微笑を貼り付けたまま硝子に酒を注ぎ足すのを、正直に睨み付けた。

「“仲間以外は全部敵”そう思っていらっしゃる。違いますかな?」

 絶句した。

 インチキ占い師の真似事かよ、と意気を戻すのに少し時間が掛かった。

 仲間とは、新撰組のことを示したのだろう。

「隙あらば斬る、という気を当て付けてくる。この先、私なんぞより怪しげな外国人達の手も借りることになるのですから、もっとフレンドリィになってくれなければ困りますな」

 肝心であろう部分の意味がわからなかったが前置きから何となく、友好的に愛想よく笑ってろと言いたいのだと思った。

 夷狄に助けられるだと?

 バカか。

 何の益もなく他人の国に奉仕する奴がいるものか、うまく利用されるのがオチだ。

「ほら、またそんな表情をなさる。せっかく素敵な役者顔なのに勿体ないですよ」

 仏頂面も顔がイイのも、ただの生れ付きだ。

「……気を付けます」

 長年積み重ねた癖だ、どう注意すれば直るのかも知らないが適当に返事しておいた。

「ああ。ありがとう!」

 もっと偉ぶった奴かと構えて来れば、まるっきり反対に素直で人が善さそうな、しかし大鳥圭介のような坊っちゃん育ちの甘さはどこにもない、一言で言えば変な男だった。

 礼の意味がよくわからないまま、共に仙台城での奥羽越列藩同盟の軍議に出席した。


 は? という直球の感想は口には出していない。

「同盟軍総督は、ぜひ土方さんにお願いするべきです」

 発言した榎本を怪訝に見返すと、何回か見覚えのあるかなり気味悪い癖・片目をバチリと閉じる仕草、つまりウィンクをされた。

 いきなりの推薦に他の参加者がどよめく中、大鳥はぼんやり顔の面影をすっかり消し、心底気に入らないという眉間の皺を隠そうともしなかった。

「なるほど! やはりここは実戦経験の豊富な方にお願いするのが……」

「冷静機敏な判断が必然ですからな」

「宇都宮城奪取の見事な采配、本当に素晴らしかった!」

「兵からの信頼も篤い」

 賛成の声が高まる程に大鳥の眉間は更に深く、見る見る険しくなっていく。誰も気付いていない。

 テメェの上に俺が立つのは我慢ならねぇってか。

 いい気味だとか、思わないではないが。

「列藩を引っ張る、強い力が必要ですからな」

 へぇ……お前等の藩士は、その力に従いてこられるのか?

 様々称賛される中、榎本に言わせれば愛想のない無表情であろう顔で黙っていたが、やっと口を利いた。

「……私が総督に就くからには、軍令を厳しく取り決めさせていただく。律に背く者があれば、例え御大藩の宿老衆といえどもこの土方が三尺の剣にかけて斬らねばなりません」

 つまりお前らのことだ。

 諸侯の顔色、この広い部屋を取り囲む空気全体が変わっていくのをひしと感じた。榎本の方は、わざと見ずに続ける。

「生殺与奪の権限を総督の二字に与えて下さるのであれば、喜んでお受けいたします」

 藩士を生かすも殺すも、通常ならば藩主の判断だ。

 この崩れかけた同盟に、そんな気骨のあるはずがない。

 あくまで藩は藩……真の同盟軍とはなりえない。

 様々な難癖を付けられながら、土方はその座を辞退した。


 過剰な敬意は息苦しいと肩を竦められてから、こう呼んでいる。

「榎本さん」

 軍議の後、土方並に早歩きのヤケにピンと張った背中に声を掛けた。

「折角のご推薦を……」

 似合わぬ謝辞を述べようというのに、人の言葉を中断させるのも癖なのだろうか。

「いえいえ! どんなに褒められても木に登らない……ナイス判断です! ますます惚れましたよ!」

 いらねぇよ! 親指立てんな!

 この野郎、俺を試しやがった。

「でも、あなたが軍を率いればよいとは心から思います。残念ですね」

 いつもながらの大振りな動作で両腕を上げた。

「あのぉう」

 榎本が行ったのを見計らったように呼ぶ声は大鳥だ。

「あなたが総督にならなくて、よかった」

 だろうな……って、正直過ぎだろ。

 遠慮がちに視線を動かしながら続ける。

「あの人達のなか、一体何人が我々の勝利を信じているでしょう……いいや、負けるとわかっている。その時新撰組副長のあなたが総督に祭り上げられていたら、彼らはきっと官軍にあなたの首を差し出して反乱の許しを請いますよ」

 コイツ……わかっていやがったのか!

 神君家康公の徒名を拝借し、あのタヌキオヤジ共の考えなど土方とて見通していた。

 おそらく、榎本も。

「残念だ」

と表したのは自分の推薦が通らなかったことではなく、この頼りない環境のことだろう。

 しかしまさか、ただの世間知らずの学者だと見縊っていたこの男が見抜くとは。

 そして浴びせられる称賛の声の真意を、当然土方も承知だと。

「……そうですね」

 驚かされながらも何となく相槌を打った。

 だからあんなに不機嫌そうにしていたのか。

「あなたはいつも誰かにすまなそうに、苦しそうにしているから。知りながらも引き受けてしまうかとヒヤヒヤしましたよ」

 表情を確かめるように、目を細める。

「何があっても絶対に、急がないでくださいね。この国この土地そしてこの時代は、生きる為にある。あなたの死に場所などでは決してない」

 前にも斎藤に、こんな説教をされたことがある。反発するより先に大鳥は付け足した。

「でも最近のあなたはまた変わりましたね。常に春羅……薄衣の暗闇を纏うような翳りが無くなったと見える」

 死にたくないと思うのは、かっちゃんに申し訳がない。

 許してほしい……生きたいと願うことを。

「あなたの影響かもしれません」

「ほっ本当ですか! わぁ、それは……ぅわあ……」

 今更土方にしては珍しい冗談だと撤回できない程に満面喜びの形相を向けられ、閉口した。

 俺が死んだら、哀しむであろう女がいる。

 最後の瞬間まで共にいた総司も、同じことに苦しみながら目を閉じたのだろう。

 しかし俺は、どんなに泣かせるか、出陣の瞬間には躊躇うことを忘れてしまう。


 おとなしげな顔に似合わず頑固で、中々自分の考えを曲げない月野に数日続けている説得をぶり返した。

「やっぱり月野さんは、行くべきだと思う」

「……なんで、いっつも弓継くんはイジワルばっかり言うのっ」

 俺がいつあなたに意地悪しましたか。

 困らせるのはいつも、あなたの方だ。

「もうコドモじゃないんですから、駄々をこねないでください」

 一日の診察が終わってどんなに遅くなっても疲れても、少しでも師である松本に認めてもらいたい弓継は医学の勉強をしている姿勢をとりながら、月野が部屋にいるせいで全然集中できない。

「……最近、冷たい。ちょっと前まではかわいかったのに。急にお兄さんになっちゃった」

 あなたは本来の様子を取り戻して、とても明るくなった。

 土方さんのおかげだ。

 シュンと華奢な躰をもっと小さくするのを視界の隅に、ただでさえ難しくて今の頁のほとんどが頭に入っていない分厚い蘭学書をめくった。

「好きな女の子でもできた? お姉さんが相談に乗ってあげよっか?」

 っだー! もう!

「俺のことはいいんですっ!」

 何とも思ってないくせに。

「沖田さんが可哀相ですよって、何回言わせればいいんですか!」

 土方さんに獲られるくらいなら、沖田さんに縛られたままのあなたの方がまだマシだ。とか、思って言ったわけではない。

 光縁寺へ行った時に、恋人のお墓に手を合わせるお友達に再会したと、自分にはそんな勇気がないと言いましたよね?

 でもあなたが行かなくて、誰が行くんですか。

「行かない。見たくない」

「……後悔しますよ」

 仙台から出航する旧幕陸海軍を見送る、強力な支持者である松本良順に月野はついて行く。

「そんな。二度と江戸に帰らないわけじゃないから」

 後悔するのは俺だ。どんなことをしても止めるべきだった。


 こんな時によく笑っていられるな。

「仙台がダメとなったら、そうですねぇ……カニでも食べに行きますか!」

 榎本は何が楽しいのか口髭を撫でながら言った。

 敵の進攻が迫ると、仙台藩は主戦派を次々罷免。土方ら同盟軍の居場所はなくなっていった。

 腰抜けもここまでくると可笑しいってか。

「土方さん、寒いのはお好きですか?」

「大嫌いです」

「だと思った! でもほら、寒いところは色白美人が多いですし!」

 そりゃとんでもねぇ偏見だな。……つかなんだよ、だと思ったって。

「興味がありません」

「オォウ! ゴッド! 世間の女性が泣きますよ!」

 こんな戯言ばかりを話しているが、執政の遠藤文七郎に恭順論撤回を求める為の説得に登城し、二人して敢えなく惨敗した帰り道だ。

「蝦夷へ、行きませんか? 新天地で私達の政権を創るのです。きっとすっごく楽しい! アドベンチャー!」

 蝦夷だと? ……あんな北端に人間が住めるのかよ。

「スーパーカッコイイ星形のお城があるんですよ!」

 星形ぁ? イカレてんな……いや、五稜郭のことか。

 緒方洪庵の適塾で蘭学を修めた武田斐三郎が設計し、カクカクと五つの張り出しを持っている為にその名が付けられた、難攻不落だという洋式城郭だ。

「わかりました。カニでも何でも食べましょう」

 蝦夷地に向かう前、土方は新撰組隊士の離隊を許した。

 結果、二十五人までその数は減る。

 その代わりに桑名藩の松平定敬、唐津藩の小笠原長行、備中松山藩の板倉勝静が率いる藩士が形式上新撰組に入隊。

 しかしこれは幕艦の乗船人数から漏れた者達の蝦夷に渡る手段に利用されたに過ぎず、見抜いてしまって態度にあからさまに出る土方はかなり嫌われていたであろう。

 元号は、慶応から明治へと勝手に改められていた。

 土方は不逞腐れてダセェ元号だなどと言いそうだが……明治元年十月十二日、榎本自慢の開陽を先頭に回天・蟠龍・神速・長鯨・鳳凰・伝習隊を加えた新撰組およそ百人が乗る大江は石巻を出航する。

 榎本の気に入りようも頷ける巨大な船艦を背に、土方はこれで日本も見納めかも知れねぇとぐるりと視線の旋回をした。

 って、あれは……。

「月野!」

 キョロキョロと土方を探していたらしい、つい大声で呼ぶと駆け寄ってきた。

 まるで花だ。とか、まともに思ってしまう自分に呆れる。

「え―っ!」

「どれどれ?」

「副長愛しの月野ちゃんだってよ!」

 月野が土方の名を呼ぼうとしたのか唇を開くが、周りにいた新撰組の“生き残り”いや、“死に損い”かもしれないと彼らは自嘲するが、とにかく筋肉隆々の男達が絵に描いたようなむさ苦しさで、全速力で取り囲んだ。

「ぅお! めっちゃかわいいし!」

「副長って、意外とアレっすね!」

 アレってなんだと憤りながらその波を掻き分ける。

「てめぇら見るな寄るな触るな! ぶっ飛ばすぞ!」

「痛! それ足! 蹴ってますって!」

「ひっとりも触ってません! 命は惜しいので!」

 中に埋もれた月野は久々に見る笑顔だった。

「……見送りに、来てくれたのか?」

 って! お前ら邪魔だ、どっか行け!

 気を利かせるという言葉を知らない部下達に迷惑にも見守られながら、ゆっくりと噛み締めて訊ねた。

「お見送り? ご冗談でしょう?」

 ふわりとした微笑みを崩さないままに返す。

「ヒィ! フラれたぁ!」

「副長泣かないで! 俺達がいるじゃないっすか!」

 うるっせえ! と怒鳴り付ける前に月野が続けた。

「わたしも、つれてってください」

 ……なに、言ってんだ。

「駄目だ」

「行きます」

 淀みない、迷いのない声だった。

 うるさい隊士達の大声も、シンと打ち消された。

「遊びに行くんじゃねぇんだ。おいそれと連れていけるか」

 涙ぐんでも駄目だ。

「よぉ土方! 足の具合はどうだ?」

 またも遠くから寄ってきた松本が手を挙げる。

「うお! てめっナニ俺の月野ちゃん泣かしてんだ!」

 いつからあんたのになったんだよ、と危うく口が滑りそうになったのは堪えておく。

 来てくれて、助かった。

「法眼……月野を頼みます」

 生きていた月野が松本の元にいると知った時、正直ホッとした。

 なら俺にもしものことがあっても大丈夫だと。

「いや! 歳三さまと一緒じゃなきゃ帰んない!」

 なんだって今日に“限って”こんなかわいいことを、と頭を抱えたくなる。

 土方とここで会うのは最後だと、予感していたのかもしれない。

「おぉう! キュゥウツ!」

 余計ややこしいのが来たとわかりきった声の主を振り返ると、よりによって大鳥までくっついていた。

「こちらのスノウ・ホワイトは土方さんのガールフレンドですか? 初めましてレディ、榎本武揚……いえ釜次郎と申します」

 あなたになら釜ちゃんと呼ばれたい、とか本人三割増しの渋い声で妄言吐き出しながら膝を着き、月野の手を取る、しかも例のウィンク付きなのを土方は危うく防ぐ。口を付けようとまでしたからだ。尤も西洋被れの榎本にとってはほんの挨拶だが。

 残念そうな動作の榎本を大鳥が諫める。

「いけませんよ。こちらの白雪姫はおそらく土方さんの恋人スイートハートです」

 おめぇら母国の言葉を使え。

 肝心らしい部分の意味を全く汲めないまま、どうせしょうもねぇことだろうと放置し、まず月野を避難させるのとこの状態を収集する為に一旦船室に入れようとした。

「月野、こっち」

 小さな肩を引き寄せる、土方の手が震えていた。

 最後の階段を上る。

 離れられるのか?

 辛いからってあのまま別れようとしたものだから、会ってしまうと自信が無い。

「レディ、待って」

 呼び掛けの意味などわからないが、さっきの遣り取りから月野のことだと想像できた。蘭語を学んでいる分、土方よりは言葉がわかる月野もパッと立ち止まる。

「あなたが安心して暮らせるような国を、きっと創ってみせます。それまで、待ってもらえませんか?」

 榎本には予測がついていたのだ。

 北へ向かう船に一度引き入れたら、後で追い出すなんてできやしない。

「平和になったら、すぐに蝦夷へお呼びします。ね? そうしましょう、土方さん」

 そしてその場凌ぎの方便などではなく、本気で言う男だ。

 ……あんたが言うなよ。

 月野は日本の言葉こそわからないように、返事もせずに黙っていた。介さぬ榎本はニカと歯を見せる。

「今日の海は荒れてますね。まるで怒っているみたいだ……いや、泣いているのかな?」

 出発は、明日に延期された。


 泣くなよ。

「歳三さまに向かってくる刀は、わたしの“お祈り”で全然当たらないんです」

「あの雑魚共の刀になんざ、元々斬られてやんねぇよ」

 お前に泣かれると、どうしたらいいかわからない。

「……あなたが斬られたりしたら……わたしも、生きていませんから」

 ここは誰も知らない場所。まるで、今夜逃げろというお膳立てだ。

「バッカ。お前がんなことしたら俺、あの世で総司の奴に斬られちまうよ」

 時々月野は、片目を少し細める、近付いて物を見る。視力が弱くなってきているのだ。

 この澄んだ睛、なにも映さなくなるかもしれない。

 それでも傍に付いていてやれないのか。

「それに、俺は生憎地獄逝きだからな。追っかけて来ても逢えねぇぜ」

 冗談粧すことしかできなくて、指先から伝えるように髪に触れる。

「歳三さま、わたしまだ……あの続きを聞いていません」

 頬に届いた土方の手に、月野もまた指を重ねた。

 ちっせぇくせに、あったかいな。

 ……月野、帰ったら……。

 何を言おうとしたんだよ。

 もう、言えねぇ。

「お前が蝦夷に来てくれたらな」

 約束で縛るようなこと、言えるか。

 パチパチ音を鳴らす囲炉裏の火が、夕焼けさながらの侘しさを煽る。初めての場所だというのに、長年住み慣れた家のようだ。

「追いかけてばっかり」

 お前がそうして微笑むと、俺が壊れそうになる。

 泣きそうだ。

「追いつけたらわたしを、あなたの月野にしてくれますか?」

 同じく見送りの振りをして連れ帰ろうとの算段だったらしい松本が、癖のある早口を封じて噛み砕くように言っていた。

 ――……

「この先新しい世で、お前みてぇな切れ者はきっと必要になる。とっとと江戸に帰んな。なぁに、一度は捕まっても薩長の奴らだって馬鹿じゃねぇんだ、斬るどころか掠り傷も負わせねぇよ。お前の辣腕は奴らが痛ぇって程わかってらぁ」

 そりゃあ、反吐の出る話だな。

「意地を張っても勝算のないこと、承知の上」

 それでも。

「俺如き喧嘩しか能の無い者は、この国に殉じて戦い抜くだけです」

 ――……

 この国に……? よく言うぜ。

「俺はお前から逃げたことねぇよ」

 出会った頃から、鬼の皮を被ったまま、人間の心はお前にやるって言っただろ。

 まるで必死になって、抱き締める。

 蝦夷に呼ぶ……そんなの絵空事の夢物語で、実感が全然湧かねぇよ。

「ずっと、待ってた」

 一夜だけでいいとか、思えもしねぇのに。

 持てるすべてで犯す、最初で最後の別れの夜。


  地獄でもいいです。

 連れていってくれれば、どんなに嬉しいか、幸せか。

  わたし土方さまに、優しくしてなんて言えません。

 あなたの好きに、壊してほしい。

 何もかも忘れさせてほしい。

  未だに引き止めたくて、行かないでと言いたいこと。

 お別れの言葉、どこかで込み上げてしまうのを堪えること。

 もう、会えないのかもしれない。

  けれど一夜だけでいいなんて、思えそうにありません。

 わたしをひとりにするなら、先に殺して。

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