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第五章
第四話
しおりを挟む山々に囲まれた、落ち着いた場所。
こんな風に土方さまと穏やかに過ごせる日が来るなんて、夢にも描かなかった。
「わたし、温泉って初めてです」
実家は医者だから両親は休みなく働いていて、置屋に入ってからは稽古にお座敷にでゆっくりしている時間はなかった。
「よし! じゃあ一緒に入るか!」
「いいですよ。お背中流しましょうか?」
「っばか! 冗談だ」
ご自分で言ったのに照れないでください。わたしを動揺させようとするからですよ。
「じゃあ歳三さまが上がるのお待ちしてます。後でお薬塗って、包帯巻き直しますね」
わたし勝手にも、お嫁さんにしてもらったみたいと思った。
自分でその道を避けたくせに。
「着いたらまず風呂だろ。行かねぇのか」
だって、わたしの包帯はいつ巻くんですか。
「後でいいです」
「済むまで待ってるから。行くぞ」
土方さまは、わたしの考えていることなんて全部お見通しなんだ。
ズルい。
こうして手を引かれるだけで、わたしの心音がどれだけ高鳴るかも、きっとわかってるんだ。
顔を見ながらは問えずにいたこと、湯の中で声を張った。
「歳三さま? あの、訊いてもいいですか?」
「や、あんまよくねぇ」
仕事の時と気を許していない人間を前にした時は別人のように堅苦しい言葉を遣う男だ。この口振りであちらも誰もいないのだとわかった月野は、男湯と女湯の隔たりになっている岩の方へ近付いた。
側には大きな山があって、埋もれるような温泉が湯気を立てている。
猿とかも入ってきそう。あ、ちょうどあの辺りの崖の奥から……。
「っひゃあ!」
明らかに猿が入ったわけではない水音が響く。
「どうした!?」
「へ、平気です! 滑っただけです!」
後から青痣になるくらいに岩底に強く膝を打ったが、心配されたくなくてまた声を張った。その意外な大きさに土方はまんまと慌てる。
「近っ! 危ねぇからウロウロすんな!」
そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。
それ以上寄ってくるなとまで釘を刺されて、月野は少し意気を落として黙った。目の前の黒い岩ばかりが視界にあって、せっかくの景色がもったいない。
そうだ、わたしはお礼すら言っていない。
「あの、わたしのこと、見抜けしてくださって……ありがとうございます」
でもお礼なんて、なんて言えばいいか。
わたしが想像もつかないくらいの大金が必要なはずなのに。
土方もしばらく黙るので、月野は岩に背を付けて座った。膝を抱くと、やっぱり、大きく痣になっている。
「いや、逆にお前の帰る場所を奪っちまって、すまなかったな」
無言のまま首を横に振るう。
あ、首を振っても、見えないんだった。
「……この顔じゃあ、芸妓には戻れませんから」
「気にすんな。十分かわいい」
お互いがどんな表情か、見えないからってやめてください。
残酷な気休めにしか聞こえません。
月野はやっと尋ねた。
打たなかった方の膝に、顎を乗せる。
「……光縁寺に、行きました」
目線を上げて見えるわけでもないが、土方に応える気配はない。
「“沖田氏縁者”って……どうして……」
勢いよく湯から上がる音が、会話の終了を告げる。
「逆上せた」
しかも月野を置いて出てしまう気だ。つい憎まれ口を利く。
「このくらいで熱いだなんて、それでも江戸っ子?」
今度は低く鈍い音が微かにしたが、岩の向こうにまで聞こえる程ではない。
「イッテ!」
「歳三さま!」
「……転んだだけだ」
逆上せたのは嘘じゃないみたい。
ぶっきら棒に言うと土方は本当に行ってしまい、さっきはここぞとばかりに甘い声を聞かせて待ってると言ったのに、一人で部屋に帰っていた。そして、自分で包帯を巻いている途中だ。
「……へたっぴぃですね」
包帯というよりよれっとした白い布のまま、ぶすっとそっぽを向いている。
「直します。貸してください」
何も応えないのは無視して足元に座り、痛くないようにそっと傷口を現わした。女のように白い肌が、腫れて赤黒くなっている。
「お薬も塗っていないんですね……さっきのは、傷になってませんか?」
「……お前、気色悪くねぇのか」
やっと口を利いた。
「ちっとも」
痛そうで、可哀相だとは思いますけど。
「そうか。もう立派な助手だな」
銃創が済んでから、転んだ方も診た。
「お風呂で滑るなんて、子どもみた……」
言い掛けて、月野は急に笑い出す。
「お前な……人のこと言えねぇだろ」
だって痣が……。
「お揃いですね」
二人同じ、右の膝小僧が青くなっているらしい。
「ふぅん。見せてみな」
「ひっぱたいてほしいですか?」
わたしったら、こんなことが嬉しいなんて変なの。
「なんかお前また、あいつに似てきてねぇ?」
つい、治療していた手を止めた。
「え……」
土方にも、しまった、という顔を隠す余裕はない。
あいつって……。
会ったばかりの頃にも、そう言われたことがある。
その時は“本当は誰”なのかさえ知らなかった。
「……総司さん?」
「なんでもねぇ」
言うと同時に足を引っ込めた。
「月野、もう帰れ」
……やだ、泣きそう。
わたしなんで、あのとき泣いたりしたんだろう。
冷たくされるほうが、よっぽど辛い……悲しい。
「帰りません」
それでもやっぱり、手を伸ばされると目を固く閉じてしまう。
「……“沖田氏縁者”は、お前があいつに惚れてるからそうした」
土方さまは、わたしが総司さんだけを好きだと、お思いですか?
自分の本性に、寒気がする。
そんなことを言えるはずもなく言葉を返せずにいると、土方は左眼を隠す髪を払った。
……なんだろう……。
「や……っ」
包帯に手を掛けるその躰から離れようと肩を押しても動きはしない。
「イヤ! 歳三さま……っ」
下を向いて顔を背けて、でもまだ生きている皮膚が暖かくなったから、蠢くような傷が蝋燭に照らされ、露わになったのがわかった。
両手の平で、顔中を覆う。
「月野……」
「イヤです!」
そんなに優しい声で呼ばれたら、余計に苦しいです。
唯一気持ち悪い、醜いと思ったのは、この傷だけだから。
今は暖かく触れてくれる土方さまだって、きっと目を逸らす。
離れていってしまう。
「……歳三さまに嫌われるなら、二度と会えない方がいい……っ」
抱き締められた。
痛いと言って、この腕から擦り抜けたい。
包帯を外すなんてひどい。
こうして髪を撫でてもらっても、許さない。
「……総司を守った傷、か」
「っ違います! わたしが勝手に……」
胸のなかに籠もって消える声。
本当に、痛い……。
「嫌ったりしない」
そう言うと傷に優しく、優しく口づけをくれた。
「……綺麗だ」
偽物の硝子玉みたいな、虚ろを映す瞳で見上げたつもりになる。
零れる涙そのまま、もう一度抱き締めてくれた。
「好きだ、月野」
わたしはまた、言葉を返すことができなかった。
ああ早く、今すぐに……。
わたしの躰と心、すべてがあなたのものになれたらいいのに。
朝、目覚めると土方はいなかった。
「あ、一階でお待ちですよ」
茫然として廊下に立つ月野に、必ず別の床で寝むとは知るわけもない仲居が声を掛ける。
「かっこいい旦那さまねぇ」
じゃ、ないんですけれど。
旦那さまじゃないし、かっこいいですけどお風呂で転びますよ?
と、押し寄せる不安を紛らわせる。
帰ってしまうおつもりかもしれない。
そう思いながらも荷物は持たないで降りていった。
「遅ぇよ」
「……どこへ行くんですか?」
イラッとした言葉を作るのになんだか嬉しそうに笑っているから、月野は安心して尋ねた。
「山登り」
「ええ?」
「愛宕山に行くぞ」
連れていってくれるんだと思うと、また安心した。
頂上までは行かない、すぐに着くと言っていたのに。
「ど、どこまで登るんですか?」
かなり急なデコボコした山道を、ずんずん進む背中を追い掛ける。
手を引いてくれるのは嬉しいですけど……前から思ってましたけど、土方さまは歩くのが速いです。
「もうすぐだ」
天寧寺の裏が、今登っている愛宕山だ。
「歳三さま……も、少しゆっくり……っ」
息を切らせながら中腹くらいまで来ると、急にピタリと止まる背中にぶつかりそうになった。
「かわいい。今のもう一回」
「着いたのかと思いましたっ!」
「いや、着いた」
このひとと居るとすぐに手が出ちゃう。
割とおとなしめに見られることが多い月野だが、土方からはすっかりお転婆扱いだ。叩こうとした平手を繋がれて、土方が見つめる坂の先には大きな墓があった。
「おいで」
“貫天院殿純忠誠大居士”
“院殿”更に“大居士”……立派な法名と、丸に三ツ引きの紋が正面に刻まれている。
お殿さまのお墓みたい。どなたの……あ!
「近藤さまの……?」
目線を変えないまま、黙ってこくりと頷く。少しだけ泥濘んだ土を踏みしめる。
土方は久し振りに着ている黒羅紗地の正装の、片膝を着いた。
「来たぜ、かっちゃん」
わたしなんかがいたら、邪魔じゃないのかな。なんだか申し訳ない気がする。
土方は酒、ではなく饅頭をポンポンと置いた。
「かっちゃんは甘党だから、こっちの方が喜ぶんだ」
と、笑って。
こんな大事な場所に、わたしも呼んでくれるなんて。
でも、もしかしたら……ひとりで来るのが辛かったのかもしれない。
会津愛宕山天寧寺の墓碑は、土方が会津公・松平容保に法名を依頼して建立したものだ。近藤の墓は全部で四つ、江戸にも墓所はあるが、土方が手を合わせられたのは、ここだけである。
「見晴らしが良くって気持ちいいだろう」
わたしではなくて、きっと近藤さまに言ったんだ。
なぜ一緒に連れてきてくれたのかは尋ねずにいたが、自ら話し出すのはこの後だ。
「また来るな」
と言って山を降りて、今度は月野に合わせてゆっくり歩く。さっきは早く行きたくて仕方がなかったようだ。
「ガキん頃から、“トシが本気で惚れるような女ができたら見てみたい”って言われてたんだ」
……それって……。
「……どんな悪さしてたんですか?」
「そっちかよ」
と土方は苦笑いした。
二人とも、とても大切なひとを失って。
土方さまは歩くのにも痛そうな怪我をして。
わたしは目が見えなくて。
日本は二つに分かれていて。
そして土方さまは、わたしを置いて戦場に行ってしまう。
だから今こうしているときが、生きてきたなかで一番幸せに思えた。
引き止めたい。
「じゃあ、行ってくる」
「まだ、治っていないじゃないですか」
伝わればいい。
でも伝わっていたとしても、きっと一緒にはいてくれない。
世の女のひと……奥様といわれる人達は、どうやって見送っているのだろう。
わたしは、笑顔でいってらっしゃいませなんて、できそうにない。
「良順先生がお許しになってもわたしは、危ないと思います」
土方は、もうすっかり戦場にいるような表情をする。
「俺は腕がいいからな。ちったぁ足枷付けとかねぇと、面白くねぇだろ」
もう、なんですかそれ。
名前を呼ぶ声が、途中で止まった。
初めてかもしれない。
わたしから触れるのは。
太陽みたいな、暖かい香りのする胸に頬をつけた。
「待ってます。寂しいです」
当の月野と同じに土方も驚いたが、すぐに両腕で包んだ。
……あれ?
なんだか、カサカサする。
頬を離して、そこに手のひらを置いた。
「あの、ここに何か入れてます?」
左胸辺りを撫でると、その手をパッと掴んで退かされた。
「くすぐってぇよ」
はぐらかすような声だが、目を見張る器用さでジャケットのボタンを次々外す。
「ほら」
……総司さん……。
開いた上着の内側には、沖田の写真が縫い付けてあった。
「……泣くなよ」
まるでわたし、母親の笑顔を見たらそれだけで笑う赤子だ。
そう仕組まれているように、自然と片眼から雫が落ちる。
固まって動かない、別のひとみたい。
緊張を隠しているみたいに唇を結ぶ、涙が溢れる程の愛おしさを、教えてくれたひと。
「くれっつってもやらねぇぞ。俺が連れて行くって言っちまったんだからな」
恥ずかしげにする、あの笑顔が目に浮かぶ。
きっとそう言われたとき、嬉しかっただろうなぁ。
「欲しいだなんて、言いません」
未来を向きなさいと、伝えてくれたひと。
「あなたの写真が欲しいです」
土方はまた、とても驚いた顔をした。
「京に持って帰って売り捌くんです」
「はぁ?」
「嘘ですよ。誰にも見せないで、大事にします」
照れたのだろう、月野から顔を見えないようにした。
「……撮ってねぇんだよなぁ」
「ええ?」
新しい流行りものが好きでしかもお顔が素敵だから、真っ先に撮ってむしろ持ち歩いてそうなのに……自慢用に。
「嫌ぇなんだよ」
そんな風に言われたら、帰ってきてから一緒に撮りに行きたいですとか、約束もできないじゃないですか。
溜息で下げた頭の上に手を置かれた。
もう、また子ども扱いを。
「……生身の俺より、紙っ切れの方がいいのかよ」
そんな、イジケないでください。
「だって、生身の土方さまはわたしのじゃないですから」
あ、イジケているのはわたしの方だ。
「これだけお前のものだって言っててもまだ足りねぇか? 欲張り」
コンッと額を小突いて、また慣れた早さでボタンを掛けていく。
嘘ばっかり。
あなたはずっと、わたしのものになんかならない。
駄々をあやすみたいに、いくら甘い言葉を遣われても騙されません。
知っているんですから。
あなたは心の最奥から誇り高い武士で、誠忠義の為に戦う道を迷いはしない。
例えわたしが泣き喚いて取り縋っても、もし新撰組の危機と聞いたら躊躇わず置いていくのでしょう?
現に、危ないとわかっている戦場へ行ってしまうじゃないですか。
今すぐにだって、故郷のように大切な新撰組に帰りたいくせに。
「無事に帰ってきてくださったら、信じます」
欲張りだなんて、今更気付いても遅いんですから。
やっぱり月野はやめたと言われても、聞きませんから。
こんな感情を、初めて知った。
この世の悲しいことすべてから守って、寂しいなんて瞬きにも思われたくない、ひとときも離れたくないと願ったひと。
そして今去ってしまう、ついて行きたくても叶わなくて、それでも心は寄り添っていたい、あなたにもそう感じてほしいと夢見るひと。
「たりめぇだ。俺がやられるわけねぇだろ」
こうして土方は、幕府軍の指揮官に戻った。月野も江戸に、松本の医学所の助手に戻る。
しかし別れ際、馬上で言い掛けていた言葉が気になって毎夜眠れない。
「月野、帰ったら……いや、やめとく」
なんて言おうとしたのですか?
この国がどうとか勝敗がどうとかより、またお会いしたら真っ先に問いたい。
浅はかだと、知られてもいい。
新撰組にとって故郷のひとつだ、ここ会津は。
藩主が朝廷より追討令を受けようと、変わりはない。
伝統を重んじる国柄でありながら、古来武田信玄公からの長沼流兵法を仏国式調練に改め、年齢により編成を組み直したという本腰の入れ様。
五十歳以上の玄武隊、四十九歳から三十六歳の青龍隊、三十五歳から十八歳の朱雀隊、そして十七歳から十六歳の白虎隊で、各隊およそ百名だ。
白虎隊に至っては規定年齢など建前で、更に幼い少年兵も加わっている。
他に娘子隊や僧侶の集まった奇勝隊、郷士による正奇隊、修験隊、猟師隊、力士隊などが次々と結成され、仕舞には農民まで武器を取った。
女子どもまで決起する国を挙げての戦、新撰組が黙っていられるか。
白河城出陣が命じられる以前、隊は……特に斎藤一こと山口次郎は、指南役として呼び出されることが多かった。
居丈高に聞こえるのは、性分だから仕方がない。
「この中で一番の遣い手は誰だ」
まだ幼稚さの残る丸い眼をした白虎隊士が、広々とした道場に並ぶのを端から見渡した。
「わしらが殿の指揮なさった、あの京都新撰組だべぇ!」
「鬼の斎藤だど!」
「超かっごいい! ……でも怖っ!」
こうしてヒソヒソ無駄話をしていた癖に、一斉に静まる。
斎藤はやたらしゃべる男は嫌いだが、言うべきことを言わない男こそ格段、気に障る。苛々と木刀を肩に下ろすと、漸く一人、前に出た。
「はい、山口先生」
自分だ、と言うと思うだろう普通は。
「篠田儀三郎くんが一番です」
「バカ貞吉! 余計なこど言ってんなでー」
列の真ん中辺りでこの二人、しばらくごちゃごちゃ小突き合っていた。
ウンザリだ、ガキの相手は。
こうして見ると、いろいろな子どもがいるものだ。
もやしみたいなのばかりかと思えば、皆をまとめる者、斎藤の動向を窺って目を光らせる者、ヘラヘラ笑っている調子者、憮然と黙り込んでいる者……隊というのはどこもそういうものだ。
普段は考え方も個性もバラバラだが、いざという時に固くまとまる。
「本当です! コイツひょろひょろだけんじょ、腕は一流です!」
「……ならば篠田、こちらへ来い」
全員漏れなく
「立ち合いだ! 殺される!」
との恐怖を噛み殺し、真っ青になった。
私が弱者相手の稽古に本気であたる訳が無いだろう、あの人ではあるまいし、と斎藤は憮然と歩き出す。
生来より神仏もへったくれもない斎藤は、相当な年季の鎧兜が飾ってあるのを退かし、そこに木桶を固定した。道場の中心にドンと置くのを、子ども達はポカンと見ている。
「これを突いてみろ。本気でだ」
やっと力試しだと得心したらしく、また全員に安堵の空気が流れる。
「はい!」
「儀三郎はお突きが得意だすけ、簡単!」
篠田は会津らしい、厳しい教えの行き届いた凛とした構えで中段に竹刀を据えた。
「ええいっ!」
どよめきと共に、木桶は壁にぶつかる程に飛んだ。
「わっ! へっこんだぁ!」
仲間の功と誇らしげに木桶を持ち上げるのを取り上げ、また固定した。途端に子ども達は息を呑む。
斎藤が突くと、木桶は僅かに震えただけだった。
「……な、なーんだぁ!」
「わしら会津士魂を受け継ぐ武士だに、負げでらんね!」
皆に持ち上げられているのかと斎藤は思ったが、やはり腕が立つというのは真実らしい。篠田が歩み出て、恐る恐る木桶を手に取った。
「……穴、空いっだ」
大きな空洞が二つできているのを、子ども達は豆鉄砲を食らった小鳩のような表情でマジマジと見る。
「これが稽古と実戦の違いだ」
予定通り、この後は別人と見紛う程に物静かになった少年兵達は真摯に稽古に取り組んだ。日が落ちるまで扱いたのにもへこたれず、もう帰ると言うのに引き止められ、何度も代わる代わるの質問責めに遭った。
やっと解放されて見送られると、もう一番星が天空に小さく光っていた。
「あ、山口さま!」
また呼び止められるが、女の声だった。
「どうぞ、お使いくださいませ」
両手に持つ提灯を差し出された。
年若いが、着物に下品な派手さがなく趣味が良い。
何者だ?
斎藤でも問いたくなるような、明け透けに言えば見栄えの良い女だ。
「ありがとう」
だが普通に礼だけ口にすると、女はふっと笑う。勝ち気そうな眉を下げるので……いや、見惚れている場合かと、これでも斎藤本人は、女には無愛想加減がマシなつもりだったが自然に眉間が寄る。
「ごめんなさい……稽古、少し拝見しました。お優しいのですね」
「甘く教えた気はない」
迫る戦いの日に備えた、厳しい稽古を付けたつもりだ。
「いえ。一人一人の太刀筋に合わせて、丁寧に指導して下さっていました。だからあの子達も、あなたを慕って……“先生”向きですわね」
慕われた憶えもないが。それより、子ども達それぞれの剣の個性を見抜くとは……ますます何者だ、と斎藤には珍しい他人への興味は尽きない。
話し振りからすると母親のようだが、あんな大きな息子がいるとは見えない。
「名乗りもせず、失礼をいたしました。照姫さまの祐筆をさせていただいております、時尾と申します」
照姫つまり会津公の義姉の祐筆だ。
賢そうな、少しばかり生意気そうな女だと思ったが、大した才媛ではないか……いや、もっとこう、ただ大人しい女が好きなのだ。
などと、自らに言い聞かせる時点で、お仕舞いだとは斎藤もわかっている。
「薙刀では誰にも負けたことがないのですけれど、お見受けしたところ、山口さまには到底適いませんわ」
俺は元々、女を相手にはしない、等という返答を受け入れられる状態ではない程に本気で肩を落としている。
薙刀まで扱うとは……やはりこのような、跳ねっ返り女はやめておけ。
斎藤の心情を知るわけもなく吊りがちな、くっきりとした二重瞼の双瞳を誇らしげに微笑ませる。
「わたくし、娘子隊に身を置いておりますの。ぜひ、わたくしにもご教授いただきたいですわ」
娘子隊だと……? ならばこの女も、薙刀に銃を取り、戦に出るというのか。
「……城の中に居ればいいものを」
誰か、教えてやってくれ。
もし会津に薩長が攻め入れば、激しい、辛い戦になることは必定。
その場に女を立たせるなど、悲劇に他ならない。
「故郷を守るのに男も女も、貴賎も老若もありません。わたくしはこの身に代えても会津を、照姫さまをお守りいたします」
なぜ聞き入れぬ。だから嫌なのだ、こういう気の強い女は。
「……好きになされよ。しかし稽古には付き合えませんな」
ならば新撰組が、娘子隊の出るに及ばぬ程に官軍とやらを蹴散らせば済むことだ。
「“男女が戸外で言葉を交えてはならぬ”什の掟に背くことになりますぞ」
会津藩では子どもの頃から毎日言い聞かされるという、絶対の教育方針である。他にも、年長者を重んじろ、卑怯をするな、弱者を苛めるな、といった訓戒七条だ。
「あらっ、お詳しいのですね! でも山口さまは会津のお生れではないのですから、大丈夫ですわ」
相手が会津でなければいいとかいう問題なのか判別が付くまでは、詳しくない。
「それにもう、たくさんお話してくださいましたわ」
よく話すのはあんたの方だろう。……掟の最後は“ならぬものはならぬ”と結ばれていた気がするが、とは反論せず、
「わかりました。では、またの機会に」
と返しておいたが、女相手に剣の稽古など真っ平御免だ、というのが本心だ。
女の腕力が、強くなる必要は無い。見縊っている訳ではなく、俺の理念に反する。
この気性ならば本音を言ってもまた尤もな理屈で返され、納得などする筈もないので斎藤は黙っていたが。
「きっとですからね! よろしくお願いいたします、先生」
後から聞いた話だが、この頃の時尾は二つばかりしか歳の違わない斎藤を十も上だと思い込んでいたらしい。
実年齢よりも老けて見られるのは慣れているものの、少しばかりムッとしたのだが、
「男の人は年嵩に見えるぐらいしっかりなさっている方が、わたくしは好きですわ」
口の減らぬ女だと、逆に感心させられた。
新撰組に白河への出陣の命が下ったのは、閏四月五日のことだった。
「師匠、わしらもお供させてくなんしょ!」
「どんな端っこでもいいに、連れていってくなんしょ!」
剣技は段違いに上達していても中身はまるで子どもの白虎隊士が、切実な眼差しで口を揃える。
道場には挨拶に来ただけだったのだが、と他人に懐かれる経験の乏しい斎藤は困惑するしかなかった。
「急ぐな。まだその時ではない」
死に急ぐなと、叱ってやりたい。
戦とはなんだ。
何故同じ島の上に生まれた人間同士が争う。
それはこの若い武士達が大人になっていくことよりも大事なことか?
……このような考えを副長達に聞かれでもしたら、笑われる。
今更、腑抜けたことをと。
こんな風に、人を斬るのに二の足を踏む紛いの心境を持ったことなど、かつて無かった。
見送りさえも稽古に専念しろと断り、ひとり道場を振り向かず会津の砂利を踏む。
見上げる白い城は、堅固で美しい。
……俺が来ていると、知っていたのか。
と、目を止めた先には新撰組の仮屯所から駆けてきた借りものの馬の傍ら、時尾の姿があった。
「ご無事で、お戻りくださいませ」
しおらしげに腰を折るので、つい笑ってしまう。
「まあ! お笑いになるなんてひどい! ……でも嬉しい。初めて、拝見しましたわ」
笑わなかったとは、馬鹿なと思いつつ、そうだったか? と検める。
「失礼。あなたのご気性ならば“命を捨てても武勲を残せ”と叱咤されるかと思っておりましたので」
何しろ自身が、命より名を惜しむ、古の戦国武将のような気概を持っている。女にしておくのが惜しいくらい……新撰組に欲しい人材だ。いや、男に生まれられていたら相当困るな、と自嘲した。
「わたくし、山口さまにはそのようなこと、決して申しません」
ヒヤリともしない睨み方をされた。むしろ甘ったるい形容しか思いつかない。
「まだお約束を、果たしていただいておりませんもの」
稽古のこと、何かと理由を付けながら幾日と断り続けて今日に至る。
「わたくしまだ、諦めておりませんからね」
守る気の起きない約束など、しなければよかった。
下を向いていたのに、黙ったまま馬に跨ると、まだ話は終わっていないと言いたげな不満顔が見えた。
「約束を、代えていただきたい」
太陽は斎藤の後ろにあるらしく、目映げに上げた顔が茜に染まる。
「必ず、時尾どののもとに帰ると、約束致します」
その後の反応が、返答がどうだったかなど斎藤は知らない。まともに目も合わせられずに馬を蹴ったからだ。こそばゆくて平常でいられるものか、とでも言うように。
下知を受けた翌日、斎藤は約百三十人と城下を出、赤津残留の隊士と合流した。
数は約二百五十。二十日には、既に会津軍が奪った白河城に到着し、白坂関門の守りに就いた。薩長が攻めてきたのは二十五日。一度は撃退し、翌日には会津青龍隊・朱雀隊なども加わった。
「山口殿、会津では白虎隊の稽古をしていただいたとか……ありがとうございました」
同年代の朱雀隊士に、戦の最中とは無縁の人懐こい笑顔を向けられた。直接会ったことのない、名も知らぬ人物だ。
「“俺達の師匠は日本一の剣客なんだ”って、鼻を高くしていましたよ」
主君と臣下は、互いを映す鏡だな、と斎藤は眺める。
会津に住む人々はどの藩よりも忠心篤くその上、余所者を隔てるという心を持ち合わせていないらしい。
「しかしあなたには剣術以上の、武士の意気をも教えていただいたようですね。てんでガキだったのが嘘みたいですよ」
そんな大層なことはしていない。ここまで誉められると、否定もしにくいもので、口には出さないが。
「あいつら、本当に来たがってましたよ」
本当に、来させなくて良かったと思う程に、五月一日の戦では再度激しい攻撃に遭った。
三百人もの死者を出し、白河城を明け渡した。新撰組を我が子かのように大事にしている土方副長から指揮を任されたというのに、腑甲斐ないとしか言えない、と斎藤は歯噛みする。
三代へ退き、およそ二十日間滞陣を続けた。この先は、思い出すのも口惜しい敗退の連続である。五度も奪還を試みたが、一度も叶わず終わった。
この歯痒い戦の中、退隠した会津中将松平容保の跡目を継いだ十四歳の藩主松平喜徳に従えられ、白虎隊が湖南地方巡視の為に城下を出た。
福良など湖南の村に陣を留めた新撰組に、土方が復帰したのは七月六日だった。
しかし完全に回復したわけではなく、長沼出陣にも同行できる状態ではないので、引き続き斎藤が、本人曰く似合いもせぬ新撰組の隊長役を務めた。
伝習隊や回天隊と共に猪苗代城下へ転陣した後、母成峠の戦いにも、始めは出られなかった。
斎藤は敗北した戦を具に思い描く趣味など無い。几帳面に見られるが、忌々しい記憶は勧んで忘れていくのだ。
一言でいえば惨憺たる負け戦……復帰した会津公の滝沢本陣御出陣、土方も滝沢峠に姿を見せたのを以てしても、挽回は叶わなかった。
そして、一月にも及ぶ会津若松城籠城戦が始まる。
翌日には土方が庄内藩へ、新撰組と幕軍は米沢藩へと援軍や兵糧弾薬の確保に走るが、奥羽越列藩同盟はどこへやら、降伏を決めた米沢には入ることすら許されず、さらに庄内入国も阻まれた。
更なる援軍要請の為、幕軍は白石へ向かうという。しかし如来堂に布陣していた衝鋒隊が抜けては、その穴は誰が埋めるのだ。
斎藤は葛藤した。時尾には会わずともわかる。天守にて、自慢の薙刀片手に照姫を護衛しているに違いない。
「斎藤、もう会津はダメだ」
久々に見る険しい顔で、土方は告げた。
「……山口です」
覚える気が無いのか、わざと固い団結の中で直属の配下にあった頃の呼び名を使うのか。
「海軍副総裁・榎本武揚殿が幕艦隊を率いて仙台に到着した。俺達も合流する」
庄内行きを断念した後、いち早く白石から仙台へ向かい面談を果たし、もう話を付けたのだ。
つくづく、転んでもただでは起きない男である。
「私は、会津を棄てない」
「……死ぬぞ。会津は落ちる」
そんなことは百も承知だ。
幕府が終焉を迎えた今もしがみ付いて戦っているあんたが言うことか?
「ならば副長とは、ここでお別れです」
京に居る頃から、残酷なまでに冷ややかで落ち着いた、何にも動じない仕事振りを尊敬していた。暗殺や隠密、危険な仕事を任される度に誇りを感じた。
怪我を負って、無くしてしまったのか。
「落城を目の前に志を捨てて逃げるなど、私の誠義にもとる」
必死に抗うこの城を、置き去りにはできない。
頬の一つでも殴られるかと、斎藤は覚悟していたが。
「……よく、言ってくれた。会津はお前に任せる」
俺が残ると承知で……。相変わらず、適わない。
この別れが最期だと感じながら、斎藤は隊士十二人と如来堂に宿陣した。
しかしすぐに新政府軍からの集中攻撃に遭い、斎藤達は全員討死したと、一時は伝わった。
斎藤の評価としては情けなくも生き残ったことよりも悔やんだのは、白虎隊を助けられなかったことだ。
食糧もろくに無いのに戸ノ口へ急な出陣をし、激闘の末に隊長らとはぐれた中で彼らを引っ張ったのは、あの篠田儀三郎僅かに十七歳だ。
飯盛山を手探りで進み、城を見下ろした。
疲弊した躰と空の胃袋、いつ攻撃されるかという緊張の連続は、城下の屋敷の炎上を落城そして藩主の死と見間違えるのに十分な要因だった。
皆、涙しながら腹を切った。
助けられたのは、喉を突いても死に切れなかった飯沼貞吉だけだった。
その後板垣退助の勧告を受け入れ、九月二十二日に会津は降伏した。
言っていた。
砲撃を受けて崩れる白い壁や立ち上る粉塵は、花雪のようだったと。
戦火の中でも美しさを見出だそうとする、やはりこの女は相当な変り者だと、斎藤は後々、新政府が築く束の間の平和に隠れる。
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