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第五章
第三話
しおりを挟む年下の弓継にまた気遣われて、月野は光縁寺に向かった。
「月野さん一人で行った方が、いい気がする」
二度と帰ってこないと決めて走り抜けたはずの、京の碁盤を上る。
あとで挨拶に行こうと思うのは、置屋の母だった。
産みの母に会いたくないのは、恨んでいるからではない。
この眼が松本に診てもらっても治らなかったことを伝えたら、また泣かせてしまうからだ。帰っておいでと言ってくれた父に、傷付いたままの顔を見られたくないからだ。
両親の中では、離れていても元気に笑っている、幸せな娘でなければならない。そうでなければ二人とも、きっと自分を責めてしまうから。
長年京に暮らしても、光縁寺入るのは初めてだ。
総司さん、時間がかかってしまったけれど、来ました。
――……
「すぐに涙を拭いて」
――……
「……はい……!」
月野はしゃがみ込んで泣いた。
優しく響く声が不意に蘇る度に、全身が切なさに支配される。
どうすればいいですか?
約束に背を押されて来られたけれど、それを果たした後のわたしは、どうやって生きていけばいいかわからない。
意義が、見付けられない。
いずれ両眼の光を失う、誰にも必要じゃないわたし。
何の為に、生きるの?
「……ッ黙ってよ」
いつのまにか自身ではないかのような声に問われ、首を振った。
門を潜る。
もっと生きたいと、わたしに泣いてくれたあのひとに、申し訳ない。
だから意味なんて無くても、絶対にわたしは、与えられた命が尽きるまで生きることをやめない。
自ら命を絶つのを美しいなんて、それが変わらない想いの示し方だなんて思わない。
人気のない、墓石が並ぶ間を縫って歩く。
端の方に、蹲って手を合わせている女が見えた。新しい、供えられたばかりの白い菊の前で、固まってしまったように微かにも動かない。
明里さん……。
それじゃあ、あのお墓は、山南さまの……。
すごいな、明里さんは。
わたしはその前に立つ勇気を未だ、持てないでいる。
最期の吐息を傍で感じたわたしなのに、まだ。
美しい横顔にしばらく声を出すのさえ止められて、棒立ちになっていた。
帰ろうと膝を伸ばした明里と目が合ったが、すぐに月野とはわからなかったようだ。
着飾っていない、顔を半分隠した月野。
別人に見えるんだろうなぁと思いながらも、頭を下げた。
「月野天神?」
すぐに笑顔を向ける眼は、少し腫れていた。月野も同じだが。
「また会えて、うれしいです」
誰も憎まず静かに島原を去って行った後ろ姿を芸妓総出、涙で見送ったのは四年も前のこと。
「それ、どないしたん? 可哀想やね……怪我?」
明里は自分の顔左側を手で押さえた。
「転んだんです。あの、わたしも山南さまとお話していいですか?」
「痕残ったら大変やん」
月野が結構ドジなのを知っている彼女はそれ以上訊かず、月野がしゃがむ分の場所を空けた。そして隣でもう一度、手を合わせていた。
眼を閉じたまま、この場を離れ難い理由がわかった気がした。
あまり会ったことのなかった月野でさえ、暖かく包まれているみたいと感じる。
優しい、ひとだったんですね、明里さん。
「あれ……珍し」
墓石の並ぶ向こう、ふっくらとした色白の坊主が、半身を傾いで二人を覗く。少し遠いが、周りに漂う貫禄からして住職のようだ。
「このご時世に新撰組のお参りやなんて、官軍に見留められたら……」
「うちらを庇って捕まってくれはるん? おおきにぃ」
月野がムッとしたのに気付いた明里が、代わりに言う。
もっと嫌な思いをしているだろうに平然として見える明里は、一人の時にも何度か同じようなことがあったのかもしれない。
「行こ、月野天神」
手を引かれる月野に住職が顔色を変えたのが、横目に入った。
「月野、天神……?」
その様子と同じに、驚いて振り向いた。
「島原吉更屋月野天神……新撰組の土方はんの?」
あ、もしかしてこのかたも、わたしが死んだとどこかで聞いたのかも。
幽霊やらお化けとでも遭遇したように、怖がるように震えている。
明里は訳がわからないという感じで怪訝そうに、住職と月野を交互に見比べていた。
「生きとったんかぁ……」
「はい。でも、もう芸妓ではありませんよ」
明里はまた、びっくりして見つめて訊ねる。
“山南に請け出されて”から母の看病に忙しかった明里は何も知らないし、月野も言えなかったから。
「身請けしてもろたん? それとも……」
傷が残ったから? とは言われなかった。
「芸妓やないのは知っとる。土方はんが身抜けさして、ここへ……」
住職は声を詰まらせて、指先しか見えない袖を上げた。
山南の墓の隣を、示していた。
”沖田氏縁者”そう刻まれている。
沖田氏……って、総司さん……?
「訃報を聞かはった土方はんが、ここ……山南はんの隣に、墓をたててくれと……躰もないのに信じるのは辛いけど、寝む場所もあらへんのは可哀想やからって」
わたしの、お墓……?
「肩書きを落として、あんたの最も望む名ぁで眠らす言うて」
最も呼ばれたい名……?
沖田氏縁者……沖田総司の、恋人。
「……どういう意味なん? 月野天神は、土方はんが好きなんやないの?」
「土方歳三やて言うから、あないにあったかい人やと思わへんかったわ。以来めっきり旧幕贔屓やし。イケズ言うたりして堪忍な」
他のどんな言葉も、遠くの隔たりで聞こえる空耳のようだった。
明里に、今までの全てを話した。
十五歳で芸妓になった日から目醒めた、幼さ清さ、装った月野。
比べることなどできなくて、その方法もわからないくらい、違うひとそれぞれを想っていたこと。
向かい合う時こそ、この瞳の向こうに違うひとを想ってしまうこと。
昼間に総司さんに笑いかけてもらっても、夜には土方さまに惹かれた。
夜中別れる土方さまに寂しいと言った唇で、昼にすれ違う総司さんを呼び止めた。
総司さんに好かれたくて芸妓であることを隠し、土方さまに嫌われたくなくてお見舞いに行くことを隠した。
土方さまに身請けしてもらって、ずっと一緒に生きられたらどんなに幸せだろうと夢見ながら、総司さんに会えなくなるなら一緒に死んでしまいたいとさえ願った。
一途に心貫いて、二度と逢瀬の叶わなくても変わらないままの明里さんに、わたしはとても醜く映るだろう。
明里さんには、言えなかった。
誰にも、言えなかった。
「……もう一遍、よう考えて」
責めることなく、ゆっくりと言う。
「沖田はんは、土方はんの気持ちを伝えたかったんやない?」
総司さんはわたしが川に落ちたことやお墓のことを、良順先生から聞いたのかもしれない。
でもわたしは何も訊ねられなかった。
先生はわたしに何も告げなかった。
どうして……?
「後悔せえへんように、素直になったらええよ。悲しいけど、こんな時代やからいつでも会えるわけやないし、いっくら好きでも明日また会えるかなんてわからへんやん。また明日ねぇ言うて別れたら、それで最期かもしれへん」
だけど、わたしは……。
「せっかくお互い生きとるんやから、勿体ないやろ」
土方さまが大好きだから……だから、会えない。
次の日、心配そうにする弓継にはまた何も言えず、一緒に京を出た。そして明里の最後の問い掛けにも、答えられずにいた。
「なぁ、ほんまに、お二人ともに同じ“好き”なん?」
月野さんは時々ぼぅっと考え込むことが多くなった。
まるで、子どもの頃に寺子屋で読まされた『竹取物語』……故郷に帰ってしまう前のかぐや姫みたいだ。
弓継は思う。きっと同じ、空飛ぶ車には乗られない。隣で歩いていても、遠い。
土方さんを裏切ったって、どういう意味だろう?
どうしてあの、日向屋さんという大坂の商人さんは、土方さんを選んだのだろう?
沖田さんはどうして、月野さんを光縁寺に来させたのだろう?
弓継と月野が医学所に着くと、医療器具を仕舞い込んで、大荷物の旅支度をしているところだった。医生の皆がかなりピリピリして走り回る中、松本良順がヒョイと手を挙げた。
「おう、お帰り! 慌ただしくってすまねぇが、俺ぁこれから会津に行かなけりゃならねぇ」
まだ旅装を解いていないが、弓継は自称一番弟子として、他に遅れをとるわけにはいかない。
「急患ですか? お供します!」
走り寄る弟子より、松本は月野の方に向き直った。
「土方が、撃たれた」
月野は声すら上げなかった。
「ええっ! 重傷なんですか?」
訊き返す弓継の後ろで、ただ顔中を青白くして、今にも倒れてしまいそうだ。
そんなに、あの人が好きですか?
「俺が呼ばれるぐれぇだからな……。急ぐぜ。付いて来んなら支度しな」
「はいっ」
返事をしたのは弓継でも、松本は月野に言ったのかもしれない。
弓継は月野を支える間もなく準備に加わった。横目で、ヘタリと膝を折るのが見えた気がしたのに。
土方は戦列を離れ、会津城下七日町の清水屋で傷を癒した。
「見舞いに来んならちっとは心配そうな顔しやがれ」
「心配……していますよ。驚きました。副長には本当に、鉛玉は当たらないと思っていましたから」
なんつう皮肉だよ。
かっちゃんが死んで、今が一番戦いたい時だってのに床から起きることすらできねぇとはな。
情けねぇ。身の奮わない悔しさを、ここまで苦しいものかと痛感する。
「こんなの当たったうちに入んねぇよ。それより斎藤……」
「先程も申し上げましたが、その名は棄てました。山口次郎と、お呼び下さい」
彼こそ、この形容が似合うだろう。“泣く子がもっと泣く”瞬剣の人斬り・斎藤一だ。
「コロコロ変えやがって、ややこしいったらねぇな」
斎藤……山口は、心にもないことが見え見えの言い訳を付けた。
「“新撰組三番隊の斎藤”は恨みを買い過ぎました。私とて、仇討ちに遭うのは恐ろしい」
束になってぶつかって来ようが背後から斬り掛かられようが、余裕で蹴散らすのが当然と自負している折り紙付き……いや、免許皆伝付きの自信家の癖に、よく言う。
本心が読めねぇのは、こいつぐらいのもんだ。
「副長も、変名されたではないですか」
内藤隼人……土方家の跡取りが継いできた名に、幕臣としての名字をいただいた。
「めんどくせぇから全然使ってねぇ」
つか口数少ねぇ奴の割にどんどん話ずらされるな。
「さい……山口、承知で来ただろうが、頼みがある」
土方も機嫌が悪いと眉間を寄せるのが癖だが、斎藤はそれが常だ。人嫌いを絵に描いたように無駄口は一切叩かないし、滅法腕が立つ。
土方直々の指示だが、暗殺や密偵など汚い裏仕事を任され、忠実に遂行してきた男だ。ゆえに、敬遠する隊士も多いがしかし。
「お前しかいねぇ。新撰組を任せる」
山口は、俄かに口角を歪めた。こう見えても冷笑ったのだ。
「良いのですか? 大事な可愛い隊士達を私なんぞに預けて。私はあなた程甘くはない」
言わせておけばこのガキ……。
これで総司の二つ年下、平助と同い年というのだからな。まるで扱い辛ぇ頑固ジジイじゃねぇか。
「俺はあいつらを甘やかした憶えは無ぇ」
山口は
「そうですか?」
と鼻で息を抜く。
「中島登が言っていました。副長は京都に居た頃とは別人だと。隊士達は皆、子が母を想うように副長を慕っていると」
中島の奴、そんなことを……。俺はあんなゴツイ連中、産んだ憶えも無ぇよ。
「任せると言った筈だ。好きにしろ」
そうなのか?
俺は、変わっちまったのか?
鬼に撤していたつもりだったのに。
「それに俺なら、あの鳥坊を斬るかもしれない」
大鳥のことだ。
俺、か。ついに本音を出しやがった。
「好きにしな」
知ったことじゃねぇよあんな腰抜け。ぶった斬りてぇのは俺とて同じだ。
「嘘ばかりおっしゃる」
閉じていた眼を開ける。
「あの男は“生き残りたい男”だ。ならば、生かしてやれ」
補佐してやれ、と言ったつもりだ。
気に入らねぇが、俺とは正反対だから、逆によくわかるのかもな。
「副長は、死にたいとおっしゃるのですか」
山口は立ち上がり、大刀を腰の右側に差した。当時ぎっちょと蔑まれた左利きを、直しもしなかった捻くれ者だ。
「生きる為に戦うと約束していただけないのであれば、ご命令は聞けません」
生き恥を晒せだなどと、それが武家の出の言うことか。
「私の戦いを御覧になって、尚もお考えの改まらないようであれば」
遥々江戸から診察に来る松本にこれから会うところだというのに、土方は可笑しくもないのに笑った。
俺も、可笑しいくらいに偉くなったもんだ。
天下の幕府御典医、最高位・法眼を許された医者に鉄砲傷の治療をしてもらおうってんだからな。
さておき部屋に現われたのは赤津から城下入りした幕臣、望月光蔵だ。
見るからにヘナチョコそうな腰の低い男だった。見た目だけ、だったのだが。
「大層な怪我ですなぁ」
何の用だよ、文官が。
蒲団に入ったままの土方を見下ろす目線が、ざまぁねぇな、と言っているのがわかる。
「こんなところまでお運びいただいて……私のお味方にでもなって下さるのですかな」
皮肉粧すが、本当にそうなってくれたら心強い。
「ははっ……それは……」
言葉始めは明らかな嘲笑だった。
「私は兵ではない。表立って戦うことなどできませんぞ」
弱ったのを珍しがりに来ただけらしく、もう廊下へ出ようと襖を放つ。
「待ちやがれ」
幕臣がこんなだから幕府は倒れたんだ。
中身から腐ってんだよ。
薩長が躍起にならなくても、勝手に崩壊しちまってたかもな。
「志を立てて遠く会津まで来たんじゃねぇのかよ。身を殺して誠忠を尽くそうって気は無ぇのか。怯懦と蔑まれても文句は言えねぇぜ」
望月は閉じた扇子で後ろ首を掻いた。
「一朝の夢でしたなぁ……。折角手にした城を忽ち敵に返すとは。再び獲るもできぬ。実に口惜しい……」
宇都宮城の、ことだ。
「然らば卿等、新撰組もまた……怯懦と言わずにおれませんな」
全て言い終える前に、真綿の鈍い音と怒声で遮った。
「黙れ!」
真綿……投げ付けたのは枕だ。
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「これだから田舎侍は」
とか捨て台詞を吐きながらドスドス床板を鳴らして行ってしまった。
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二度とそんなこと言わせやしねぇ。
汚名を雪ぐまで、とことん戦ってやる。
まだむしゃくしゃしながら投げ付けた枕の方に目をやると、それがスッと持ち上がった。
俯きがちから次第に開く、吸い込まれるような隻眼。
生涯会えないと覚悟はしていたが、見紛うわけがない。
……月野……。
「土方さまったら、マネしないでください」
鈴の転がるような声、響かせる唇を、少し尖らせる。
……なんだ、やっと俺んところに来たのかよ。
ちっとも現れやしねぇから、冷てぇなと思ってたんだ。
真似……?
ああ、初めて会った夜、お前に枕を投げられたんだったな。
とんだジャジャ馬だぜ。
左目に包帯を巻いているのは、斬られた傷か?
痛かったろうな。
“水”のなかは、苦しかったろうな。
……しかし、ヤケに鮮明に見えるもんだ。
「お迎えかよ……縁起でもねぇな」
随分と待たされたんだ……嬉しい癖に、応えねぇだろうなとどっかで思ってる癖に、捻くれて悪態吐きたくもなる。
「……ひどい。オバケじゃないですよ。ただ会いに来ただけです。いけませんか?」
一歩踏み出すと、ちゃんと軽い足音がする。
生きて再び“ここ”に来てくれるとは、あまりに現実味がなく、幻かと思った。
「……つき……っお前……生きて……」
生きていた……!
生きていてくれた!
二人の間に、枕が弾んで落ちる。
足の痛みなどすっかり掻き消えて、ただ、抱き寄せた。
温もりを感じて髪を撫でて、夢幻ではないと、確かめる。
月野は震える、腕の中で。
背中に小さな手がゆっくりと、僅かに触れるのを感じた。
息を詰めて、言わなければ、訊かなければならないことを吐き出すのは、どちらの方か。
月野から、嗚咽が漏れた。
「……ッ総司さんが……」
総司が、死んだのか。
嫉妬も……独占欲も忘れ、ただ、弟同然に思っていたあいつを看取ってくれた感謝が込み上げてきた。
愛する男が病み、痩せ細り、弱っていく様を日々見届けるのは、どんなにか辛かったろう。
時に血を喀く背を擦っただろう気持ちは、計り知れない。
「ありがとう……月野……辛かったろう。あいつを、独りにしないでくれて……ありがとうな……」
悲鳴のように痛々しい声を上げて泣く華奢な躰を、抱き締めた。
総司が死んでから耐えて耐えて、きっとこうして、誰かと泣くのは初めてなのだろう。
涙が堪えられない。
あの日ひとり取り残された時、一生分の涙を流し尽くしたはずなのに、止まらない。
でも滴は零れる間を与えられることはなく、すべて土方さまの胸のなかに吸われた。
土方さまに会って、初めて総司さんの死を人前で嘆いた。
土方さまには、許してもらえないと思っていた。
なのに、こんなに優しい。
なのにどうして?
この道を辿る途中、確かにわたしは躊躇した。
浅はかな女と蔑まれるのが、憎まれるのがイヤ。
他の誰かがいるかもしれない。
打ち明けてもらえた想いが、未だに同じとは限らない。
島原の天神ではないわたしに、何の価値も取り柄もない。
そして、光も闇も映さないこの左眼と、刻まれた醜い傷。
知られたくないと思った……土方さまにだけは。
その理由に気付かない程、もうコドモじゃない。
なのにどうして、わたしは脳裏の奥で、このひとを愛したいと繰り返し唱えるの?
上っても上ってもそのつもりでも、本当は足を取られて滑り落ちているのかもしれない。
土方さまが撃たれたと聞いて、生きた心地がしなかった。
そんなもの、元からしていなかった癖に。
こんな大怪我でよくも軽口が利けるものだ、とは弓継の感想だ。
「は? 法眼“も”ここに泊まる?」
「たりめぇだろっ! 付きっきりで治療してやっから覚悟しな」
やっぱり、月野さんと沖田さんが一緒にいる時とは周りを包む空気が違う。
沖田さんは意外と頑固でひたすら気持ちを隠す人だけど、土方さんは誰からもわかりやすいくらいに表す人だから?
それだけじゃない気もする。
「イヤですか?」
「月野は泊まりな」
仏式の軍服がまるでその男の為にあしらえたように似合うという。
弓継も噂には聞いていたが、背丈が高くて、二枚目役者風に整った顔の人だと改めて思う。黙っていると冷たそうにもなる容貌なのに、月野に笑顔を向けるとさも別人かのように屈託なく見える。
弓継は、土方の指に包帯を巻き直しながらその横顔にチラリと目をやった。
「満足に動けやしねぇのに月野ちゃんに手ぇ出しやがったら承知しねぇからな」
「まさか。人をオオカミかのように言わないでいただきたい」
「説得力ねぇなぁ」
この人は俺を、弟かとは言わなかった。
逆に悔しいよ。
眼中に無いんだ。
俺は、月野さんを好きになってしまったのだろうか。
そんなわけない。あってはいけないことだ。
このひとを男の目で見るなんて、絶対に許されない。
「ありがとな」
作業が終わったことに気付くと、ちゃんと目を合わせて言われる。
「いえ。失礼します」
鬼とか冠して名指される残虐な人との話なのに、全然違うじゃないか。
もっともそれなら、月野さんが好きになるわけないな。
むしろ江戸に帰りたいくらいの弓継は、とにかくこの場に居たくなくてさっさと器具を片付けた。
「じゃあな、ゆっくりしろよ」
さっきまで……実際には見たことないけど、娘を心配する父親みたいな顔をしていた先生も、あっさり立ち上がる。
月野さんは、ついて来なかった。
土方は意地悪でも冗談でもなく、本当に不思議そうに言った。
「……月野? 行かねぇのか」
「あの……土方さま……」
迷惑かもしれないのに。
ひとりになりたいかもしれないのに。
でもこのひとがひとりで涙するのかと思うと、居た堪れない。
放っておけるはずがない。
「心配そうな顔すんなよ。どうってことねぇって、こんな傷」
長い前髪を、子どもをあやすようにふわりと撫でた。
熱を持って随分痛そうな傷も心配だけれど、それよりもっと……。
「近藤さまが、亡くなったと聞きました」
そして総司さんの死は、わたしが勝手に告げてしまった。
新撰組創設前からだという親友を喪って、どんなに悲しいか。
わたしには幼なじみがいないし絆を理解できるわけではないけれど、土方さまがお二人をとても大切に思っているのは、少しだけど想像できる。
土方は、ふっと微笑んだ。
「……平気だ。月野が生きて、俺のところへ来てくれたからな」
頭に置いたままの手の平を頬に添えられた。包帯に被われているから、その暖かみだけ感じた。
「お前が死んだと聞かされて、深い苦しみと同時に、後悔もした。……怒鳴ったりしてすまなかった。あの夜が最後だなどと、信じたくなかった」
「悪いのは、わたしですから」
揺れる二心をどうにもできずにいた狡さが、このひとを傷付けた。
「無理にでも奪ってしまえばよかったと思ったぜ。そうすれば、傷を負わせずに済んだ」
目を逸らして、顔を背けてしまいそう。
大切だと伝えてくれる見つめ方をされると、辛い。
わたしちっとも、あの頃と変わっていない。
真っ暗闇の高い天に、ぽっかりと、白く孔を空けたような月が浮いている。
月野は、俺を選んでここに居るわけではない。
同情されていると承知の上だ。
弱っている自分に掛けてくれる、憐れみの優しさに付け入る低俗さを卑下されても構わない。
なぜ愛情と、大事にしたい、守りたいという気持ちは相容れないのか。
純白の美しさを綺麗だと思うからこそ、同じ地上に堕としたくなる。
「土方さ……」
戸惑う視線が動くのを、くちづけで止めて僅かに離した。
「歳三だ」
愚かにも。
どんなに固い契りで結ばれたって、幾度も傍にいたいと願ったって、どうせ人はひとりで生まれてひとりで死ぬだけだと、思い知らされたばかりじゃねぇか。
決して同じものにはなれないと、わかっているのに。
俺は、これしか想いを伝える術を持たねぇ。
月野は躊躇う。
応えれば、受け入れて許すという合図になると、わかっているのだ。
「……歳三さま……」
結い上げた髪に、指を滑らせた。
「イイコだ……」
顔を埋めて、唇で首筋をなぞる。
それだけで、ビクリと短く息を吸い上げ、細い肩が波打つ。
「月野、愛している」
小さな冷たい耳に囁く、生まれて初めて口にした言葉。
月野は自分もだとは言わなかった。
それでもいい。
追い出せた筈だった嫉妬が燻る。
“他の男”に渡したままなのは、耐えられない。
帯を解きながら躰を倒す。
失意に崩れるのを抱き留めて、この軽さに驚かされた日から、やはり俺は変われずにいる。
「月野……」
「……ッ……ご、ごめんなさ……」
月野は、泣いていた。
頬を横に伝う涙を、俺が繋いでいない方の手で隠す。
それでもいいなどと、大嘘だ。
「……泣いてません」
中身のない脱け殻だけ得ても、虚しいだけだ。
薄い膜を残す強い眼と、結んだ指先から離れた。
「……やっぱ、足痛ぇ」
急に足が痛いだなんて、嘘ばっかり。でも嘘をつかせてしまったのは、わたしなんだ。
次の日、月野が土方の部屋を覗くと、“怪我人”の癖にしっかりとした荷造りがしてあった。
「……どこか、行かれるんですか?」
わたしが嫌だから、離れていってしまうのかもしれない。
なんとなく、呼び名は飲み込んだ。
「だから急に立ってんなって! また幽霊と間違うだろ」
「もう! 大ッキライ!」
いつも通り憎らしくて、ホッとしてしまう。土方さまは大人で、わたしは本当にコドモだなぁ。
「……月野、ちょっと」
「っえ?」
ふわりと、マフラー……月野にとっては白い襟巻……えっと、まふらー? くらいのものだが、それを巻かれた。
新しもの好きの土方さまらしいお洒落さだけれど、あの、寒くはないですよ?
不思議に思い見上げると、土方は横顔の耳を赤くしていた。
「……首。悪かったな、んな目立つとこに」
「あ!」
月野は心当たりのある首元を押さえたまま、下を向いて動けなくなった。
「つき……」
「おーい、朝っぱらから痴話喧嘩がうるせぇぞーって、なんだその荷物」
「痴話喧嘩じゃないですよ! ってなんですかその荷物」
松本と弓継が揃って驚き声を上げたのに少し助けられたが、月野はまだ手を離せずにいた。弓継は目の下にすごい隈を作っている。
「湯治でもしたらどうだと言われたのは法眼ではないですか」
「そりゃそうだが。昨日の晩の話だろ。相変わらず手ぇ早ぇな」
「仕事が、早いのです」
湯治……どこか温泉に移るんだ。わたしが、ここにいるから?
「月野も、来るか?」
「は、はい!」
土方と月野は東山温泉……当時の名でいう天寧温泉に赴き、その後も松本は治療に来ていたが弓継は江戸に帰ったらしく、一度も会わないままだった。
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武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中

新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
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