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第四章
第六話
しおりを挟むまだ九歳の時だった。父母の亡い寂しさ、不安定な心を突き放したのは。
家を出て行く日、見送るわたしは必死に涙を堪えた。わたしが泣いてしまったら、あの子も我慢できなくなるから。
十一も歳の離れた弟。
父が死んで……わたし達二人の姉が悲しみに暮れる中でも、弟だけは泣かなかった。
生来甘えん坊で、人見知りのくせに寂しがりや。もちろん、まだまだそれが許される年齢のかわいい弟だった。決して、強い子ではなかったのに。
どうしてわからなかったのだろう。わたしもまだ幼かったといえばそうだけど。
我慢させずに、思いっきり泣かせてあげればよかった。
少しも変わらず、纏う雰囲気が穏やかで優しい。
“新撰組一番隊隊長の沖田総司は、剣鬼の如き人斬り。通りを歩けば、尊攘志士が一目散に逃げ出す”
そんな噂、嘘だったのではないかしら。そうよ。新八さんや左之さん辺りのヤンチャならともかく。
「なんですか、姉上は。さっきからニコニコと」
桜散る、小さな庭に面した離れ。姉のミツが植木屋平五郎宅離れに通っていたのは、月野が訪れるよりも前のことだった。
やっと築いた大勢の“家族”と別れ、またひとりになってしまった……いいえ、二度とひとりにさせやしない。遅くなってしまったけれど、今こそわたしが守らなければ。
すっかり細くなった躰を病床から起こし、不審そうに首を傾ぐ。女のような仕草が癖なのは、この姉に育てられたからかもしれない。
「あら、笑っていたかしら。そうね、青空と桜がきれいだから」
納得いかない様子ながらも、沖田は身を屈めて空を覗いた。
ミツが決断して、子どもの足では帰れない距離にある剣術道場・試衛館に預けた。
天武とさえ称される程に剣の腕を上げ、たくさんの仲間ができ、当時は次期道場主で、若先生と呼ばれていた近藤を、父のように慕っていたのが救いだった。それは今も続く、掛け替えのない絆。
忘れてはいけないと戒めながらも、罪の意識が僅かに軽減された。
仲間総出での上洛について行かないわけがないし、京に残るという近藤に逆らうわけもなかった。まして、他に住む場所がない。
まさか五年も帰らないとは、大病を抱えているとは思いもしなかった。
「ねぇ、宗次郎」
「……もう、今は総司ですってば」
名を改めたのは元服の時だ。
しかし九歳までが一緒にいられる時間だったミツにとって、名も印象も宗次郎で止まってしまっている。
「あ、そっか。平五郎さんには秘密だった」
新政府軍……かつて新撰組が討伐する側だった倒幕派に、追われて身を隠している。松本の厚意で、静養が必要な患者として名を偽り世話になっていた。
見つかれば、本人は当然、身内ごと皆殺しに遭うのではないか、といわれるくらい憎まれている上、いつ治るかわからない病にまで蝕まれているからこそミツは。
「ごめんね、姉さん。宗次郎でいいよ」
ねぇ宗次郎……わたし、あなたの誰より大切な先生を、恨んでしまいそうなの。あのひとに、あなたもわたしも救われたのに。
「それで、なに?」
さっきこの子を呼んだとき、わたしは何を言おうとしたんだろう。
訊いたとて、答えはわかっている。
「ううん、なんでもないわ」
あなた、幸せ?
「疲れたでしょう。もう寝みなさい」
毎日笑っているけれど、辛くないの?
「平気だよ。すぐ子ども扱いするんだから」
後悔はない。大好きなひと達に囲まれて、自分の腕を頼りにされて幸せだった。
……きっと、そう笑うに決まっている。
この子に泣く場所はあるのだろうか。
我慢で自分を抑え込まなくて済む、ありのままを受け止めてくれるひとは、いるのだろうか。
夕方に服む薬を準備して戻ると、胸が跳ねる静かさで眠っていた。蒲団を掛け直して痩けた頬に手をあてると、ずっと前の言葉を思い出した。
――……
畳の上で死ぬのだけは厭だ。先生を守って、僕より強い剣士と精一杯戦ってから死にたい、なんて思ったこともありましたけど……。
僕は武士になりたいわけじゃないから。
死に方に拘ること、ないんですよね。
それよりも、生きているときを……なんて、みんなに笑われちゃうかな。
――……
薄闇に、昼間とは違う表情を見せる桜が浮かぶ。
ミツが夫と共に庄内藩へ向かう、少し前の日の景色だった。
「ちゃんと毎日お薬を服むのよ」
またわたしは、自分の家族の為に弟を捨てるんだ。
「無理しないで、しっかり眠りなさいね」
こうして口うるさくしていなければ、涙が溢れて止められなくなる。
「汗をかいたら、こまめに着替えなさいよ」
いつだって、わたしのほうが泣き虫ね。
「平五郎さんのお母様がよくしてくださるから、言うことを聞いてね」
他人に看病を任せなければならないなんて。今できることが、手を動かすだけの虚ろな作業だけなんて。
掃除や洗濯物の整理、薬が足りているかの確認……とうに片付いた部屋をウロウロ動き回る。
そんなわたしを、弟はすべてわかっているように黙って、たまに
「うん」
と、静かに返事しながら眺めていた。
そのうちにすることもなくなり、出発の刻限が近づく。
「じゃあ、もう行くからね」
抱きしめたい。
けれど別れを惜しむ行為など一つもしたくなかった。
これで最後なんかじゃない。
また会える。この国が落ち着く頃にはきっと病も治って、また会える。
そう信じるしかなかった。
心から信じられなければとても、置いていくことはできなかった。
障子を開けると、意外なくらい陽が照っていた。こんなに眩しいのに、気付かなかった。
「姉さん」
今日向き合うことが苦しかった弟の顔は、微笑んでいた。
「ありがとう」
ああ、今でさえ宗次郎は、眸を潤ませながらも懸命に我慢をする。
「な、なに言ってるの! 姉弟でしょっ」
また、先に泣いてしまうのはわたしだ。
「……ううん。今日まで、ありがとう。僕、姉さんの弟でよかった」
どうかわたしの代わりに、最期の時には誰か、抱きしめてあげて。
こんなことを訊く意味を、わからないわけではなかった。
「月野さん……僕、あなたの本当の名前が知りたいです」
「……本当の、名前ですか?」
妙な癖も二人は似ている。小首を傾げる後ろには、春に花咲く木々が緑の葉を茂らせていた。
この花が一斉に開くのを、また見たかった。
薬を湯に溶かしていた手を止め、月野は蒲団の近くに座る。
苦いんだよなぁ、良順さんの処方する薬は……石田散薬ほどではないけど。
主役を失った背景に、雀が集まっているのに気付いた。
「月野ですよ」
急に距離が縮まったので、沖田は膝の上に置いた手のひらに眼を落とす。彼もそうだと言われるが、真っ直ぐに見詰めて話すから。
「島原の女のひとは、二つのお名前を持っているのでしょう?」
何も知らないみたいに言う自分が滑稽だ。
尋ねる理由にやっと納得したらしい月野は、あっと呟いてから答えた。
「わたしは、父にもらった名と同じなんです」
そんな天神さん、聞いたことないですよ。
「そうですか……よかったです」
だって芸妓さんだと知ってからは、初めて会ったときに源氏名を名乗られたと思っていたんです。
それがイヤとかじゃなくて、信用してもらえなかったのかなと少し落ち込んだから。
理由がわからず不思議がりながらも、付け加えた。
「でも、すごいんですよ! 土方さまに、まだ芸妓としての名がないんです、って話したら、じゃあ付けてやるって言って……」
芹沢派連中を主にした顔合わせで郭に行ったとは信じられない、頗る上機嫌で帰って来た夜だ。
「“月野”でどうだ? って!」
土方さんにも見せてあげたい。
月野さんはあなたのお話をするとき、こんなに嬉しそうに笑うんですよ。
頬を桜色にほんのり染めて、声がもっと高くなるんです。
子どもの頃から今まで、ずっと土方さんが羨ましいままだった。
あなたみたいになりたかった。
何にも縛られなくて奔放で。
先生に誰よりも信じられて頼りにされて。
みんなを引っ張る強い力を持っていて。
武士らしくて、そのくせ誰より優しくて。
僕といるといつも切なそうな顔の月野さんに想われて。
「土方さんらしいなぁ。ヒミツの発句も“春の月”ばっかり詠んでるし。月が大好きなんですよねぇ」
役に立てなければ、いつかきっと捨てられる。
そうひたすらに思い詰めて常に緊張して怖がっていた僕は、ようやく安心できる場所に着いた。
やっぱり、見せてあげない。
こんなに声を高くして苦笑いに顔を紅くさせてしまったのは、わたしがつい変なことを口走ったせい。
「ええ? そうですかぁ?」
総司さんって……なんだか雲みたい。
止めておけば良いのに、まだ少しでもお話をして、少しでもあなたに見てもらいたくて、気に掛けてもらいたくて……その、こちらが気恥ずかしいくらいに澄んだ瞳を独り占めする。
「届きそうで掴めなくて、自由だから」
あなたを追いかけて、知りたくて……触れられたと思ってもそれは勝手な錯覚で、またあなたのことばかり追ってしまうから。
あなたを捕まえたい。
あなたの自由が好きなのに。
「月野さんになら、つかまってもいいですよ? 僕はもう、ここから動きませんから」
お願い、笑顔を見せないでください。
その笑顔を見ると、トクベツな振りをしてしまうじゃないですか。
「なに考えているか分からない、なんて言われません?」
「ええ、言われちゃいます。……怒ってます?」
月野は、ここ二、三日頃は一人で沖田を訪ねていた。
嘘か真か、他の患者の都合で時間が合わないからという松本は午前中に、月野は午後からと別々になっていたのだ。
冬にも一度血を喀いたと聞いていたが、月野が労咳について勉強して想像していたより、あまり咳が出ていないし、調子のいい時はすっかり治ったようだった。
連日ポカポカという言葉がぴったりの陽気で、たいてい沖田は縁側に腰かけていた。
「あれ……? あの黒猫……あの時のコじゃないですか?」
数年前、高い木に上って降りられなくなったのを沖田が助けた、小さな黒猫をすぐに思い出しそして、まさか、という言葉を飲み込む。
“今はすっかり大きくなった”黒猫の方も、覚えているとでも言うかのように、塀の上からじっとこちらを……というより、沖田を見つめているからだ。
「……懐かしいなぁ」
喉を鳴らして笑う沖田は、トンッと軽い音をたてて庭に降りた。
見る見る近付くが、黒猫はというと絵画になったように、植木を背景に貼り付いて微動だにしない。
「……かわいい……。労咳平癒のおまじないになると言いますよね……黒猫を、斬ると」
左手には、殺気に引き込まれたように、大刀が吸い寄せられていた。
違う……元から持っていたのだ。
それ程に自然に、刀に手を遣るひと。
可愛いと言いながら同じ口で殺生を平然と唱える、純粋な残酷さを持つ子どものまま大人になったようなひと。
恐怖しないわけではない。
でも止めたいと、声を掛けるのを躊躇わなかった。
「総司さんっ!」
「……しませんよ……。斬れないです……僕には」
その科白は、慈悲をかけた優しさからでは無い。
「ほら、こんなに近付いても全然逃げないでしょう?」
“この沖田総司が斬る気で近付いても、怖がりもしない”という意味だ。
もし本当に以前と同じ黒猫ならば、数年前は小さな爪で引っ掻いてでも逃げていたのに。
黒猫の高い鳴き声が、勿体ぶったように長く響く。
「ふふっ! かわい」
振り返る表情はいつもの沖田に戻っていて、それはさらに奇妙なことかもしれないが、月野はホッとした。
「わたしを、怯えさせようとしたってムダです。斬ってしまったとしても、明日も来ますからねっ」
さっきまで沖田が居た縁側で口を尖らせると、
「困ったな」
と溜め息を吐いた。
「この前は、ごめんなさい」
「……? え……」
「あなたを、泣かせたいわけじゃなかった」
ペコンと頭を下げて、隣に座った。
この場所で、初めて会った時のことだ。
「あ、あの、平気です。全然」
そんなわけない。
思い出すと今でも悲しいけど、好きになってもらえなくてもせめて一緒にいてもいいと思ってもらえるように、自分にできることをするしかない……なんて、看病に来ている癖にすごく不謹慎だけれど。
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――……
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――……
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「わかってます」
「ええっ!」
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沖田は急に真っ赤になって驚くが、どんより消沈したまま月野は聞き返す。
「……あ! いえ、違うんです!」
その顔の前で手を振り、すぐに真面目な表情になった。
「そういう意味じゃなくって……あの……僕は、あなたがイヤで言ったわけじゃないんです。僕が、あなたを嫌うはずない」
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わたし、ヒドイことばかりしてきたのに。
あなたに嘘をついた。
あなたに嘘をつかせた。
あなたから逃げた。
あなたを責めたりもした。
あなたの病に、ずっと気付かずにいた。
嫌われて当然のことばかりしてきたのに。
「……えっと……」
呟いたまま俯いている姿を、まだ黒猫が、ジィッと見ていた。
どうしよう。
いっそ、言ってしまいたい。
あなたはわたしの心の中の、一番深く綺麗な、大事なところにいるひとです。
「総司さん……っわたし……わたし、あなたのことが……」
唇を指で軽く押さえ、言葉を止める。
代わりに涙が溢れて次々零れるのを、その指でそっと拭った。
言わせはしなかった。
言葉にすることさえ、許さなかった。
「……泣き虫ですね」
ふっと微笑むのを、月野は見上げた。
誰のせいですか。
「僕の、せい……?」
わたしを一番悩ますことのできる、この世で一番愛しいひと。
一度でいいから伝えたい。
「……月野さん」
わたしは、あなたのことが好きです。
「僕は、死にます。斬り合いの中では無く、畳の上で……血を喀きながら……自分の喉から出る血に濡れて死ぬんです。それでも……ここにいてくれますか?」
薄紅の桜の花びらが、舞い込んでくる。
いつのまにか、黒猫は姿を消していた。
例えばこのように、満面に勝ち誇って声を掛けてやろうと決めていた。
「これはこれは近藤勇殿! いやあ、奇遇ですなぁ!」
篠原泰之進は、幕府から与えられた大久保大和の名を使い、正体を隠しているという近藤勇の首実検の為、調所へ向かった。薩摩軍に加わり板橋の新政府軍本営に入っていた元御陵衛士の内、加納鷲雄と清原清が確かめるよう呼ばれたが、篠原は自ら望んでその役目を代わったのだ。
新撰組局長だと判明すれば、ただでは帰られない。
近藤勇を貶める。
障子の隙間から、その姿を覗いた。間違いない。是非、面会したいと申し出た。
志を共にした仲間が、騙され、惨殺された。
その肩を奪い、自慢の剣技を封じただけでは到底足らぬ。
胸の中に冷たい雪のように、恨みばかりが降り積もる。
部屋に入った瞬間から、目が合った。
しかしその人が驚きで目を見開いた後、篠原にしかわからない程度に微笑したのだ。相当の恨みがある筈だろうに、さらに自分を陥れる人間を、なんの猜疑もなく。ふと新撰組に入る時のことを思い出しながら、少しずつ、積雪が溶かされていくのを感じた。
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「いくつになっても、仲間が増えるというのは嬉しいものですなぁ!」
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この御方は、新撰組局長・近藤勇とは別人です。
間違いなく、幕臣の大久保大和殿です。
我等官軍に楯突くなど、あるわけがない。
どうにかして助けなければと、言葉を探す自分がいた。
「如何した? 篠原殿」
と、いうような意味でせっつくのは土佐弁だった。
こちらが訊きたいくらいだ。
ああ……そうか……。
こいつら……端から局長の正体を知った上で、元は新撰組……佐幕側にいた我等御陵衛士の忠節を試す為に……。
信用なんざしちゃあいないということか。以前の大将を売って、身も心も討幕派だと証を立てよと。
坂本龍馬暗殺が新撰組の仕業と決め付けている土佐藩士が、独特の赭熊を揺らし、近藤と篠原の方を見比べる。
自分達の英雄の仇を、最も残酷な方法で葬りたくて仕方がないのだろう?
そんなにも近藤勇が、新撰組が怖いか?
怖いのだろうな。
二心を持つ蝙蝠であるお前等が易々と裏切った幕府……この世に生を受けた時から仰ぎ見ればそこにあった導きの父を、ひたすらに信じ、守り抜こうとする者達。
清く強い心と、ただ一人の君主、共に戦う仲間を持つ誠の武士。
首を取り、動かなくなるのを見届けるまで、いつ引っくり返されるか牙を剥かれるか、恐ろしくて仕方がないのだろう?
沈黙……近藤勇に与したと捉えられたら、俺は……“頭”を失ってもしぶとく生き抜いてきた俺達はどうなる……?
ずっと篠原を見詰めていた近藤は、フイッと目線を外した。
頷いたように見えた。いいから、俺のことはいいから、と肩を叩かれた心地がした。
「……ご無沙汰、しておりました……局長」
手を付いて、畳に泪を落とす。
耳障りな土佐訛りが、わざとらしくどよめきを作るのを、野太い声が遮った。
「知らぬ。……このような者、会うたことも御座らぬ」
ハッと顔を上げる。
……っくそ! そうか!
ここで、戦場で再会した同士の如く言葉を交わせば、俺の立場が危うくなる。
なんて様だ。この人に、剰りにも苦手としているだろう、ヘタな演技をさせるとは。
「……ッ往生際が悪いぞ、近藤勇! 観念しろ!」
カァッとなった風を作り怒鳴り付ける篠原をグイと睨む近藤の双瞳の奥は、ホッとしたようだった。
死を、覚悟した人間の顔。
この時代だ……何度か対面はしたが、失意や絶望、そして憎しみすら映さないその表情でさえ、他を優しく圧倒する人間は初めて見た。
武士とは……この人のことだったのだ。
こんな局面で、頼れるのがあいつしかいねぇとはな。
土方は、どうにかして捕らえられた局長を助け出そうと画策していた。どう考えを巡らせても、鍵はあの男しかいない。
勝安房守。
破天荒だから一時は幕府も追放扱いだったが、ここ最近……つまり自分達が危うくなってから引っ張り出した男……しかし薩長への影響力も絶大だ。
いけ好かねぇんだよなぁ。俺と同じ女ったらしだからか? 違ぇな。昔っから策士の類いは嫌ぇなんだよ。つうか、さっきから……。
「うるっせぇなぁ……」
「……っごめんなさい!」
苦々しく呟くと鉄之助が真っ青になり、垂直に近く辞儀をした。
「いや、お前じゃねぇよ」
むしろ居るかわかんねぇくらい静かじゃねぇか。
「下が騒がしい。連中、何してやがる」
稽古中とは思えない様子でガヤガヤしている……というか怒鳴り声が二階まで聞こえてくる。
考え事もまともにできやしねぇ。
「あ、あの……土方先生にお会いしたいという人がいて……えっと、元御陵、衛士? の人だということで、門番の方が追い払おうと……」
「御陵衛士ィ?」
喧嘩でも吹っ掛けに来やがったか。
ビクッと肩を上げる鉄之助に訊ねながら部屋を出た。
「名は?」
三人係りで取り押さえられている篠原を見下ろし、鼻で笑った。
「いい眺めだなぁ、篠原」
敵地に単独で飛び込むとは、流石は伊東の仲間だぜ。奴の場合は、そう仕向けたんだが。
「一人か? 死にに来たのかよ」
今の状態では完全に土方の方が悪役風情だろうし、確かに伊東を騙し討ちした上に御陵衛士を壊滅させはしたが、新撰組は隊を二分され、仲間を喪い、局長・近藤勇が狙撃された。所謂同じ釜の飯を食った仲だが、今のそれはまさに犬猿と言うべきだ。
「局長が……」
睨み付けていた相手の吐き出した言葉に、息を飲んだ。
「……バレた……! 局長が、殺される……」
無言のまま、というより何も言えないで、篠原の胸倉を乱暴に掴んだ。
「俺の……せいだ」
その科白が、自身に突き刺さるようだった。
「土方、俺を斬れ!」
土方は抵抗もせずガックリと項垂れる篠原と騒然とする隊士達、そして自らを落ち着かせ、危険だとか言われるのも無視し、二人になって詳しい話を聞いた。
やっと説明を終えた篠原は以前の、素で居丈高だった印象は消え失せ、なおも意気を落とし、自分を斬れと再度付け足す。
ったく、変なモンでも食ったのかよ。
「悪ぃが、俺は諦めちゃいねぇ。絶対に局長を助ける。お前をスッキリさせてやる暇は無ぇ」
グダグダ好き嫌い言ってる場合じゃねぇ……勝安房に話着ける。
「待て。ならばこれでどうだ」
針の筵の様であろう新撰組屯所に放っぽって立ち上がったところを止められた。
「天神を、斬ったのは俺だ」
月野を斬ったのは……。
斬った……?
今日までは、人伝に聞いたことだから信じられない気でいた。
生きていると、無理矢理でも信じていた。
「療養中の沖田総司の居場所を訊き、明かさないので斬った」
今頃になってまだ、涙が込み上げそうだ。
「殺せ、土方」
やめろ……俺が認めない。
頑なに憂いを打ち消してきたのに、当事者に言われては、真っ黒に盲目な中で視界を刺す現実になってしまう。
「……戻ってくれるなら、いくらでも斬ってやるがな……」
何人斬ろうと、願いが叶うわけではない。
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篠原を心配したわけではなかった。
総司はもう、人斬りになれる躰じゃない。
それを本人もわかっていてさえ、斬ろうとするからだ。
どこに居ようと構わない。
いや、ひとつの望みが成るならば、俺は再び会えなくてもいい。
なんでもいいからただ、月野に生きていてほしいだけだ。
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2023.04.20
修正加筆 完成
2023.04.23
推敲完成 再公開
2023.08.09
「小説家になろう」にも投稿開始。
独裁者・武田信玄
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国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
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