沖田氏縁者異聞

春羅

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第四章

第五話

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 やっと、辿り着いた。

 長い眠りから目覚めた時、一番始めに想ったのはあなたでした。

 真っ先に心に描いたのは、あなたの笑顔でした。

 土方さまと、あなたに出会ったこと、何があっても後悔なんてしません。

 幸せを感じることはあっても、不幸だと嘆く日は一度もありませんでした。

 月野は、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れに移り、匿われているという沖田のもとを訪ねた。

 新撰組の沖田総司だと知られたら、病気だろうが捕らえられてしまうのだと言いながら、松本良順は内緒でこの場所を教えた。

 世の中は、逆転した。

 なぜ、何も悪いことをしていないのに、隠れなければならないの?

 わたしなんかにこの国のことはわからないけれど、新撰組が間違っているとは思えない。後世にどう言われようと、わたしは……。

「月野さん?」

「あっ……ごめんね、弓継くん」

 医学所は繁忙していたが、一人で行くのは危ないからと弓継が付いてきた。

 月野はいつも思う、自分の方が年下みたいだと。

「は、入ってもいい……のかな」

 門が隠れるくらい大きな桜の木の下で振り向いて、見上げた。出会った頃よりとても背が伸びたから、抜かされてしまったのだ。

「ええ? もう、月野さんったら! 平気ですよ、許可をいただいているんですから。医者として来たんですよ?」

「でもっ……こんな夜更けに来るなんて……平五郎さん、絶対変だと思ってる」

 総司さんに変だと思われてしまう。

 夕方には着くつもりが松本の手伝いをしているうちに時が過ぎて、もう辺りは暗くなっていた。最近は、松本の助手……と言っても簡単な雑用の仕事をしていたのだ。

「その辺は先生がうまく言ってますから心配いりませんよ。じゃあ、いってらっしゃい!」

 無邪気な笑顔で手を振られたので、恐る恐る訊いた。

「弓継くん……は?」

「行くわけないでしょう? そんな野暮じゃないですよ」

 野暮って! さっき医者として来たって言ったのに! との反論を込めて月野は涙目だ。

「ひっひどい! 見捨てるのっ?」

「ヒドイのはどっちですか」

「弓継くんでしょっ! やっぱり明日にする!」

 すごくすごく会いたかったけれど、緊張し過ぎて足がすくんでしまう。

 月野はほとんど息だけの小声で拗ねた。

「先延ばしにしたって絶対僕は入りませんから」

 弓継は見たことがないくらい不機嫌そうに、ツンと流し目を細める。

「イジワル!」

「はいはい。とっとと行ってください」

「大ッキライ!」

 こんなことを思うのは、土方に初めて会った夜以来だ。

 だっていつもはイイコなのに、今日は本当にイヤなコなんだもん。

「“大好き”な沖田さんがお待ちですよ」

 フイッと後ろを向いて、

「明日の朝に迎えに来ますから」

と言い残しながら帰り道を歩き始める。

「なっなんで朝なの!」

 これがお医者さまの卵の言うこと? と耳を疑う。

「待ってよ弓継くん!」

 振り向きもせず来た道をズンズン進んで行く弓継を、呼ぶだけで追いかけない月野は、やっぱり会いたいという気持ちに変わりはないようだ。

 胸の早鐘をなんとか押さえようとしながら一つ二つ深呼吸をして、葉桜が掛かる門を通り、桃色に咲く花々が少し覗く庭へ廻った。

 玄関から入るときっと迎えに来てくれてしまうと気遣いそうしたが、縁側の方から入ったりして、わたしって猫みたいと思った。


耳について今でも離れないのは、この日の、天から聞こえてくる怒号。

「もう……お仕舞いだ。歳ぃ、ここで腹を切るよ」

「んなことしたら俺ぁ一生許さねぇぜ、かっちゃん」

 許さないと言ったのは俺じゃねぇ。

 怒らすと怖ぇんだ。

 見守ってくれている筈のサンナンさんが、俺に語り掛けて休まない。

 かっちゃんを止めろと説いて、休んでくれない。

 薩長軍が板橋に集まっていたので、土方ら新撰組は、誇らしいその名、大旗、志を隠し、偽り、胸クソ悪ぃと歯噛みしながらも五兵衛新田から流山の嶋屋に転陣していた。

 だが相当鼻が利くらしい。

 すぐに嗅ぎ付けられ、よりによって……いや、この機を狙っていたのかも知れないが、大半の隊士が訓練に出て本陣にいない時に、これ見よがしの重装備の大群引き連れて

「この武装は何事だ。ひょっとして旧幕軍ではあるまいな。責任者を出せ」

という意味のことを彼らにとっては憎々しい薩摩弁で捲し立てた。

 土方得意の営業顔と好人物風演技で

「隊長は出掛けておりまして……少々時間をいただけますか」

とか適当に宥めつつ、斬りかからない自分を内心で褒めちぎりながらまんまと待ちぼうけを喰らわせて、さてどうするかと二階に上がってきた途端、ガクリを肩を落とした近藤に“終わり”だと告げられたのだ。

「まるで犬死にじゃねぇか……どうしても腹切りてぇなら俺をぶった斬ってからにしろ」

 虚仮威しじゃねぇ。本気でそう思ってんだ。

 しかし近藤はまた力無くフッと笑う。

「変わらないなぁ、歳は。昔っから真っ正直で」

 それはあんたの方だろうと、土方は反対に頬を強張らせる。

「じゃあ、こうしよう。俺が幕臣の大久保大和として出て、事情を説明してくるよ。これは流山鎮撫の為に集まった隊で、官軍に弓引くなどとんでもないってな」

 心にもないけどな、という感じでニッと口角を上げた。

「駄目だ。かっちゃんを行かせるぐれぇなら、俺の首差し出してやる」

 そんな危ない目に遭わせられるか。

「副長では、奴等は納得しないだろう?」

 畜生……!

 こんなことなら……かっちゃんが負傷した時に俺が指揮を執ったまま、局長交代と世間に広まるようにしておけばよかったのか?

 いや、かっちゃんが大将じゃなきゃ、ここまで持たねぇよ。

「あいつらは官軍でも新政府でもねぇ。ただの反逆軍だ。長州は池田屋を執念深く根に持ってるし、土佐は坂本龍馬暗殺の犯人は俺達だと思い込んでやがる。新撰組局長と知ったら……絶対生きては帰さねぇぜ」

 どんなに説き伏せようとしても、近藤は全てわかっていると、黙って頷くだけだ。

 近藤勇だとバレたら、よくて投獄、切腹……最悪は拷問の末……斬首。

 斬首だ?

 ふざけんな。

 こちとら誠の武士だ。

 いや、武士なんかより、武士らしい。
 
 否応なしに目に浮かぶ光景を、瞼を固く閉じて打ち消す。

 あんただけに全部背負わせるぐらいなら、いっそ……。

「めんどくせぇ……いいじゃねぇか! 俺達は新撰組だっつって奴等のイカれた黒トンガリ帽に大砲ぶちこんでやろうぜ!」

「っ馬鹿野郎! 仲間がどれだけ死ぬと思ってる!」

 仲間。

 隊士を守る為に……自分はどうなったっていいってのか?

「俺は! あんたにこんな死なせ方させる為に今日まで!」

 拳を、迫るような壁に叩き付けるその音が強く響く。

「……走ってきたわけじゃ……ねぇ……!」

 口に入るなんて信じられない、でかい、温かい手で近藤は、土方の肩を掴む。

 泣くんじゃねぇよ……本当に、俺は馬鹿野郎だ。

 自分をありったけ責めながら、土方は涙を振り絞るように固く眼を閉じる。

「俺を……新撰組局長・近藤勇にしてくれたのは、歳、お前だったな。誰より優しいお前が鬼になってくれたお陰で俺は……みんなは武士になれた。今まで二番手として俺を立ててくれて……ありがとうな」

 かっちゃんがいなきゃダメなのは、俺だ。

 俺を新撰組副長・土方歳三にしてくれたのこそ、あんただよ。

 俺の人生……あんたなしじゃ、梲なんざ上がる見込みもねぇ農家の味噌っかすのまま、今でも薬箱担いで江戸を彷徨いてたかもしれねぇ。

「じゃあ、行ってくるよ」

 立ち上がり、二本を腰に差す。

「なんだ歳ぃ、もうこれきりみたいな顔するなよぉ。大丈夫だ。バレやしないよ」

 近藤は馬上、少しもビクつかず堂々と、むしろ涼しげに本陣を出た。

 野村利三郎と相馬主計……僅か二人の護衛隊士でさえ、関係の無い“ただの供”だから帰してやってくれと願い出たという。

 バレないか?

 そんなうまくいくか?

 嫌な予感ばかりが強くなった。

 不安を映す空は、どこまでも暗い。


 この、鉄臭さ。

 嗅ぎ慣れてしまった、血の匂い。

 いや、慣れていたのは他人の血だ。

 刀に滴る、地上に撒かれた返り血。

 その様に顔をしかめるのは悪い気がして、いつも笑っていた。

 でも今は、自分が吐き出した血を見て笑っている。

 口中に血の味が残って味わって。

 この味とは、死ぬまで付き合わなくてはならない。

 純白の雪を穢すように転々と、無様に咳をしながら吐き出した血が吸い込まれて、

 拡がっては端の方で次第に浄化されていく。

 僕の身近にあった紅。

 土方さんの刀の下げ緒。

 斬った屍の中身。

 月野さんの着物。

 そして今、掌の上で溢れて流れるこのクレナイ。

 すべて僕の目の前から消えて、残ったのはこれただ一つだけど、それでも嫌いになんかなれないんだ。

 あの夜……芹沢さまが亡くなった夜と同じ様に、月明りに、懐かしく愛しい面影が浮かび上がる。

 蒲団の中で躰を起こして、癖なのかな……手のひらを、見詰めている。横顔で表情がよくわからない。

 よかった……まだお寝みじゃなかった。

 お医者さまの助手の端くれとしては、よく眠っててもらう方がいいのだけれど。

 ああ、変わらない。会えなくたって、このひとを好きな気持ちは。

 月野は、今度は深呼吸をする余裕もなく、その名を呼んだ。

「……総司さん……っ!」

 何度も心の中で唱えたその名。声にするだけで、想いが込み上げる。

 ハッと顔を上げて、沖田は躰の向きを変えた。

 聞こえはしないものの、

「月野さん」

と呼んだ時と同じに唇が動いたように見えた。

 縁側に駆け寄ろうと踏み出す。

 片時も忘れ得なかったひとを前に、逸る心が止められない。

 一方沖田は微かにも動かないまま、病床で眼を丸くしていた。

「来ないで下さい……!」

 痩身から絞る声は掠れている。

 足を止め、突き付けられた言葉に息もできない。

 言葉と裏腹、優しい笑顔そのまま、続ける。

「……お、お久し、振りです。あの、僕なんかに、会いに来てくれたんですか? ……うれしいです……。でも僕は……見ての通りの病人です。……今初めて意識しましたけど」

 くすりと笑って見せると少し咳込んだ。

 また一歩、近付きかける。

「総司さ……」

「来ちゃ駄目です!」

 苦しい息で喘ぎ、言葉と細くなった手でを制した。

 同じ囲いの中にいるのに、こんなにも遠い。

 どこかで、水の流れる音がしていた。

 どこかで、次々と泡沫を作っているのだろうか。

「……労咳……らしいです。知ってますよね……感染ることは」

 あなたと一緒にいられるなら。

「ね……もう、ここに来てはいけません」

 それでもいいと思ってしまうのは、おかしいですか?

「……いやです」

 あなたを一人にしたくないと思うのは、ただ押し付けがましいだけですか?

「月野、さん……?」

 あなたを想うのは、迷惑ですか?

 また、速度を上げて歩み寄る。

「! ……月野さん……っ」

 心に迷いはありません。

 一緒にいたい。

 もう、離れたくない。

「駄目、です! 来ないで……! 帰ってくだ、っく……っ」

 身を揺らせて苦しげに渇いた咳を繰り返す、まるで医者の素早さを装って、床に付き添った。

「はぁ……っいけない……帰、りなさ……」

 呼吸の度に風の通り抜ける音がする背中を、ゆっくりと擦るとようやく咳が止まった。

「白湯を、お持ちしますね」

 手伝おうとするのを止め、自分の手で口に含んだ。

「総司さん……お願いです……今日から、わたしにお世話をさせてください」

 くっきりと影を落とす隈の上、双瞳は怖いくらいに深く澄んでいた。

「どうして……あんなに言ってもわからないのです?」

 でもその瞳は、月野を一度だって見ようとしない。

「だって……」

「はっきり、言わなきゃわかりませんか」

 ここはとても静かな場所で、小さな声でも、冷たい程によく響く。

「僕は誰よりあなたに、ここにいてほしくない。近寄ってほしくない」

 わたしどうして、十分な介抱ができれば傍に置いてもらえるなんて思ったんだろう。

 思い上がりもいいところだ。

 嫌がられているなんて、全然知らなかった。

「月野さん、帰りなさい」

「それはいけません、沖田さん」

 部屋の向こう側の廊下から声を掛け、襖を開けたのは弓継だ。

 松本に、沖田総司はどんな人かと訊いたことがあった。

 診療にはいつも連いて行き、手伝いと勉強をしていたが、沖田の時は留守番していたので会ったことがない。

 月野が、会いたい人だからだ。

 ――……

「そうだなぁ……稀に見るぐれぇの不器用な……気難しいヤツだよ」

「え? とても明るくて、剣の稽古中でも冗談ばかり言っているって……」

 誰からも慕われていていつもニコニコして、真面目な顔をして黙っているのなんて見たことがないと、前に治療をした新撰組隊士から聞いたことがある。

「ああ、確かに懐っこいが、本心は誰にも言わねぇからなぁ。痛い、苦しいとかも我慢しやがるから、医者としちゃあやり辛ぇよな」

 ――……

 そんな人ならもしかすると、月野さんだからこそ突き放す。


 と、弓継が予想した通りだった。いや、ちゃんと玄関から入って聞こえてきた会話は予想以上に必死な拒絶の仕方だった。

 彼から見れば月野は素直で、悪く言ってしまえば子どもっぽいので、裏返しの言葉も正面から受け止めてしまう。きっと、傷付いて涙を流してしまう。

 部屋に入り、沖田に向かい辞儀をした。

 月野より五つ六つ年上とは知っていたが、少し若く見える、彼が言うのはおかしいが幼げな顔立ち、という印象だ。

「ゆっ……弓継くん?」

 やっぱり思った通りだ、という考えを持ちながら、

「泣かないで。大丈夫ですよ、ただの照れ隠しだから」

 月野を励ますと、その童顔は確実にちょっと眉間を寄せた。

「……えっと、弟さんですか?」

 わざとだ。弟なんて言ったのは。

「違いますよ、失礼な」

 しっかりそうと伝わった弓継は、しょうがないと認める。彼もわざと、身を切る思いで言ったのだろう言葉を“照れ隠し”だと茶化したのだから。

 なんでわたしの弟と間違われると失礼なの! などと的外れな意味で憤慨していそうな月野に構わず続けた。

「松本法眼の使いで参りました。あなたを診る為にです。月野さんは、僕の助手です。だから帰したりしないで下さい」

 すると

「……良順さんが?」

と呟いたきり黙ってしまったので、月野はすっかり、明らかにしょんぼりと肩を落とした。

「総司さん、あの、無理言ってごめんなさい……。わたしはもう、来ませんから。でも、わたしいつでも、早く治りますようにってお祈りしてます」

 ああーっもう!

 地団駄を踏みたい勢いでイライラする弓継は思う。
 
 こういう時、先生なら何て言うだろう。って……なんで俺が二人の月下氷人みたいなことしなきゃいけないんだと、またさらにイラつきながら。

「……なんて、あきらめると思いますか?」

『え……っ』

 沖田と弓継、つい声が揃った。

「今日は失礼します。また明日、来ますからっ」

 返答など元より聞く耳持たず、縁側から出て行ってしまった。

 ここで帰ったら俺、いきなりケンカ腰で現れて診察もしないで去った、ただの生意気なクソガキじゃないか、と弓継は思いながらも、こんな夜道を一人で歩かせるわけにはいかない。

「すっすみません!」

 俺も失礼します、と言い掛けたが、沖田があまりにも呆気にとられているから一瞬口を噤んだ。

「……また明日っ」

 そうなる気持ちもわかるが、ちょっとポカンとしている隙、急いで部屋を出ようとする。

「待ってください!」

 聞いた話と違って終始無表情な人だと思っていたが、月野がいなくなったら途端、頬を赤くしている。

「は、はい?」

 あーあ、憎めない人だな。

 俺たちが……というか月野さんが部屋にいる間、無理に咳を堪えていたみたいだし。

「あの……つ、月野さんの包帯……どうしたんですか?」

 今更?

「……ご自分で訊いてください」

 本当のこと……あなたの代わりに斬られたなんて、あのひとは思ってもいないし、口が裂けても言わないだろうけど。

 先生が

「医者にはなんでも正直に話すもんだ」

とか無理矢理な理屈で言いくるめて、やっと聞き出したくらいなんだから。

 沖田さんと月野さん……二人が一緒にいた空間は、妙な違和感があった。

 何て言うんだろう。

 お互いに想い合っていることは周りからすれば一目瞭然なのに、男女の雰囲気がしないんだ。

 俺だってそんなのよくわかるわけないけど、いろんな所に診察に行くと、仲睦まじい夫婦のどちらかが病気、という状況に何度も出会したから。

 ……その人達と全然違う、不思議な感じだった。

 どうしてだろう。

 うーん……二人とも、あんまり大人っぽくないからかなぁ。


 左頬くらいまでを隠している包帯のことを訊ねると、月野は眼の辺りを押さえた。

「え……これですか?」

 眼を、怪我してしまったのだろうか?

「転んじゃったんです」

 数日後、月野と、松本、弓継の三人が沖田の診察に来ていた。

「ええ? 気を付けてくださいね」

 ふわっと笑う月野さんが、可愛くてならない。

 困る……こんな気持ちは。

 もう一度忘れなければ……棄てた筈の感情は。

「月野さんを、来させないで下さい」

 診察中、ようやく二人になったところで松本に言った。弓継はあまり彼には関わろうとしないので、部屋に入らず他の仕事をしているのだ。

「何故だ?」

 当たり前でしょう?

 伝染なんてさせてしまったら、僕は死ぬまで、僕を恨みきる。

「あのなぁ、俺は医者だぜ? 伝染しちまう危険があるのに無責任に連れ回すわけねぇだろ。ちゃんと予防してるから心配すんな。それができなきゃ医者は全員漏れなく病人だ」

 診療の後、消毒みたいなことをしてるのだろうか。

 でも……僕が言いたいのはそれだけじゃない。

「……僕のところになんて、引き留めておけませんよ」

 月野さんが、会いに来てくれている……こんなこと、土方さんが知ったら何て思うか。

 それに僕、弱って死んでいくのなんて、月野さんに見られたくない。

 今でさえ耐えられないのにこれ以上……痩せ衰えて、咳を繰り返しての情けない姿を晒すなら、寂しい方がまだマシだ。

「月野ちゃんは、死んだことになっている」

「なっ……なんですか……それ」

 意味が、わからない。

「眼のこと、聞いてねぇのかよ」

「え……転んだって……」

 違うんですか?

 松本は、溜め息混じりに苦笑いした。

「激流に落っこちてな。行方不明だったんだ」

 そんな……どんなに、怖かっただろう。

「落ち着け。見ただろ、無事だろうが」

 腕を掴まれてやっと気付く。真っ青だ。

「あ……はい。よ、よかった……です」

 冷たく痺れた指を折りながら、言葉通り落ち着くよう言い聞かせた。

「でもな、助かったことはあまり知られていない」

 まさかと、怒っていない時でも強面な顔を見返した。

「土方は、月野ちゃんが死んじまったと思っている」

「だから……どうしろって言うんです」

 声の低さに、内心驚いた。

 何がそんなに気にくわないんだ。

 “土方さんが可哀想だ”

 “僕は、付け入るようなことできない”

 ……などと、手段を尽くして善人振る自分に?

「テメェで考えな」

 ぶっきらぼうに言って席を立つのを、上目で睨む。

「あなたが一番ご存知なはずでしょう? 僕は死にます」

 月野さんは優しいから、きっと泣いてしまう。

 悲しい気持ちにさせるだけだ。

「……病人は思うまま生きちゃならねぇってのか?」

 風体は怖いけど心の広い、新撰組隊士を身内のように大事にし、温かく接してくれる松本を、本気で怒らせたらしい。

「俺の仕事は、一日でも早く回復させるだけじゃねぇんだ。一回でも多く、笑ってもらいてぇ。悪ぃかよ」

 ずっと医者が大嫌いだったけれど、こんな人に診てもらえて、僕は果報者だ。

 黙って、首を振った……のが間違いだった。

「よし、さっさとモノにしちまいな」

「……おっしゃる意味がわかりません」

 これが日本一の名医の言うことですか、と耳を疑った。


 局長の居なくなってしまった新撰組は、まるで昼間でも太陽が昇っていないみたいだ。

 そう、少年隊士達は感じていた。

 幕閣相手に議論する、彼らにとっては雲上とさえ思う存在だが、一人ひとりに優しく声を掛けていた男。局長が大好きだ、ということは新撰組隊士全員一致の意見である。

「剣は力とか技術なんかより“気組み”だぞ」

と、教えた局長を必死に慕うように、市村鉄之助と田村銀之助は、朝から剣術の稽古をしていた。

「ねぇ銀ちゃん、沖田先生は乱闘になると一人で十人も相手にしたって本当?」

 初対面の時に、彼の蚤の心臓からすればこっぴどくやられたというのに、また沖田の話題を出した。それができるのは田村と、互いに思った通り仲良くなれたから。

「らしいね」

 田村は素振りをやめた木刀を肩に乗せると、片方の唇を上げてニヤッとした。ほんと沖田先生が好きだね、鉄ちゃんは、と顔付きが言っている。

 友人として、副長の小姓としても一緒にいることが多かった市村だからこそ気付いたが、仕草が段々と土方に似てきている。あまりに慕い過ぎて次第に似てしまったのか、かっこつけて真似しているのか……その両方かもしれない。

 土方はといえば、市村にはずっと余所余所しいままだった。

「え……でも、さ。実際は刃こぼれとかしちゃってそんないっぺんに斬れないんじゃないかな」

 期待を込めて訊いた割に答えを意外に思って、ついキョトンとした顔で言った。

「無理に決まってるだろ? 刀が何口あっても足りないって」

とか、これだから実戦を知らない新人は、という感じで笑うかと思っていたのだ。

 人間の骨やら肉やらを斬れば、当然刃毀れはするし、刀に脂が撒いて切れ味が落ちる。芝居小屋みたいに多勢に無勢の華麗な立ち回りなんてできっこないことは、いくら道場稽古が精一杯の子どもでも知っていた。

「だからね、沖田先生は“ここ”とか」

と言って、市村の手首を持つ。

「血の管が太くって、スッと斬ってもドクドク血が吹き出して止まらないところを狙って斬ったんだって」

 そして、手首や足首を斬ってしまえば、反撃もされない。

 急に、指に押さえられたところに神経を集中させてしまい、血流の“ドクドク”した動きを感じた。自分が“ここ”を斬られる心地がした。

「沖田先生って、普段は飾りっけの無いひたすら朗らかな人だけど、刀を握ると別人だったんだって。舞台の殺陣でも見せられてるみたいに、こうヒュッとさ、綺麗と思えるくらい小気味良く刀を払って、返り血も浴びなかったんだぜ? 次に掛かるのが早過ぎて」

「か、かっこい……」

 惚れ惚れと溜め息を吐きかけたが、田村の後ろから土方が歩いてくるのを見付けてやめた。未だに、土方が怖いのだ。

「土方先生と試合したらどっちが強いかなぁ? 見たかったよな!」

 うわあ……間、悪過ぎ。

「銀ちゃん、後ろ」

と言う間も無く、銀之助の頭は片手でがっしり掴まれた。

「チビ、誰が強ぇって?」

「ひゃあ! 先生、おはようございます!」

 声をひっくり返してから首だけ後ろにやって、こんな状況なのにも関わらず満面の笑顔で言った。

「お、おはようございます」

 日常的にこうだが、何もしていない市村の方がオドオドしてしまった。

「土方先生と沖田隊長、どちらが強いのかなぁって話してたんです!」

 ひえぇ……とか間抜けな感想を内心に、少しも悪びれない友人をハラハラと見ているしかできない。

「そんなの、決まってんだろが」

 土方は呆れ顔で腕を組んだ。

「あ、やっぱり先生ですよねっすみまっせんでしたぁ!」

 彼に全くそんなつもりがないから、おべっかになど聞こえない。

 市村が、僕なんかいらないんじゃないかと卑屈さに磨きが掛かるくらい仕事の手際も要領も良く、土方に可愛がられるのを、最近は妬む気持ちはなくなってきたが羨ましいなぁとは思う。

「いや、総司だろ」

「え―っ! そうなんですか?」

 恰も当然のように言うが、その判定に、というよりいつでも自信満々の土方が、あっさり相手を立てることにも、市村の方は一声も上げないにしても驚いていた。

 ……かなり失礼な感想である。

「えっと、沖田隊長の方がお若いからお肌が強いとか、髪の毛が強いとかお酒が強いとか……っていう意味じゃないですよね?」

 こんなやり取りができるの、銀ちゃんだけだよ。

「痛ぁ! せめて口で怒ってからにしてください!」

 拳骨された旋毛を擦って涙目になるのを、でも今のは銀ちゃんが悪いよ、とか思っていると、初めて土方に、仕事以外のことで声を掛けられた。

「鉄、脇が開き過ぎだ」

 黙ったまま見上げているので、もう一度言った。

「素振りの時。疲れてきても脇は締めろ」

「あ、はっはい!」

 見ていてくれた……僕を気にかけてくれていた……!

 嫌われていると思っていたのに、兄がそうするように“鉄”と呼ばれたのも嬉しく、この殆ど応えられなかった会話を、市村は忘れなかった。


 数日後の夜半、眠っていた鉄之助を揺り起こしたのは、旅装に身を包む兄・市村辰之助だ。

「鉄、一緒においで」

「に、兄さん? どこに行くの?」

 寝惚けた眼を擦りながら躰を起こした。

「新撰組を、脱走する」

「……ッ」

 大きな声を上げそうになった口を押さえたものの、

「どうして!」

 黙ったまま尋ねられたのを辰之助は見通し、静かに答えた。

「当然だ。新政府の武器を見ただろう? 勝てる見込みがまるでない。賊軍として死ぬなんてごめんだ」

 ゆっくりと手を退かしてから、多分一番のであろう理由を答えた。

「それに、局長が捕らえられた。もう終わりだよ、ここは」

 鉄之助は小さい頃から、兄の背中ばかり追っていた。しっかり者で勉学も剣術も得意な兄が、ずっと憧れだった。

 新撰組にだって、兄が入ると言わなければ見向きもしなかったのだ。

「沈む船に付き合う義理はない。わかったね? 早く支度しなさい」

 わかったよ。兄さんは、狡い鼠だ。沈没船から、いち早く逃げ出す。

「やだ。僕は行かない」

 いつでも喜んで付いてきて逆らうことがない弟だったから、常に冷静な筈の辰之助はピタリと動きを止めて、またすぐ静かに説いた。

「聞き分けなさい。今に、兄さんが正しかったとわかるから」

 正しいって何? 信念を持たず、勝ちそうな方に従うこと?

 肩に添えられた手を、振り払う。

「僕は新撰組隊士だ。土方副長の小姓だ。お側を離れないって……誓ったから」

 喩えその馬前で命を落としても、構わない。

 あんなに怖いと思っていた人なのに……いや、本当は怖くなんてなかったんだ。身のすくむようなこの思いは、尊敬だったんだ。

 土方先生の下で、最後まで戦いたい。

「おかしなことを言うね、鉄は。遊びではないんだよ? “好きだから”“仲間だから”だけで一緒にはいられないんだ。おいで」

「やだ!」

 僕が遊びだというのなら、一回や二回敗けただけで早抜けする兄さんこそ、“侍ごっこ”だよ。

「脱走は、法度により粛清される罪だ。今なら見逃すけど、これ以上しつこいなら人を呼ぶよ」

 見逃すなんて、僕は何様のつもりなんだ。

 呼びに行かずとも、先程の大声で何人か起き出した音が聞こえてきた。

「……くっ!」

 失踪が隊内に広まったのは、次の日の朝だった。

 鉄之助は一睡もできなかった。

 一度は憎みかけたのに、誰にも見つからず逃げ切れますようにと、祈ることをやめられなかった。

 土方の部屋に呼ばれ、僕は今日、切腹をしなければならないと覚悟した。

「鉄、知っていたのか」

 知りながら止めなかったのだから、同罪だ。

 士道に悖る。

「申し訳……ありませんでした」

 付いた手が、震えて止まらない。

 死にたくない。

 そして、軽蔑されたくない。

「そうか……誘われたのに行かなかったのか」

「えっ?」

 あれ? 怒られない?
 
 驚いた勢いで顔を上げると、土方は苦笑いをしていた。

「バカだな、鉄は」

「あ、ありがとうございま、す……?」

 お礼を言ってしまったのは、褒められた気がしたから。土方は

「何がだよ」

と笑った。

「……お前は、勝手に名前縮めても嫌がらねぇんだな」

 “鉄”と呼んでくれたこと?

「えっと……う、うれしかったですけど」

 また土方は鼻で、ふっと笑った。

「そこは似てねぇんだな」

「は……、え?」

 誰にですか、と訊く前に

「もう行っていいぞ」

と曖昧にされた。

「ぼ、僕は、隊規違反と承知で兄を逃がしました。許されないことです。士道に叛きました」

 膝の上で握る手に走る青筋を見詰める。

 実はこの頃、全盛期であった京都新撰組を支配した俗名・局中法度の効力など無いに等しく、発案者である鬼副長・土方すら脱走を黙認する程であったのだが、そのようなこと鉄之助は勿論、一般隊士は知らない。

 土方は内心似ていると思う男に対するようについ子ども扱いする癖が出て、合わせて易しく言った。

「そうか? 武士は家族を大切にするもんだぜ」

 この優しさを忘れられなくて、鉄之助は後年、別れたきりだった兄が病に臥したと聞いた時、迷わず会いに行けたのだ。

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野松 彦秋
歴史・時代
加藤虎之助15歳、山崎シノ17歳 一族の出世頭、又従弟秀吉に翻弄(祝福?)されながら、 二人は夫婦としてやっていけるのか、身分が違う二人が真の夫婦になるまでの物語。 若い虎之助とシノの新婚生活を温かく包む羽柴家の人々。しかし身分違いの二人の祝言が、織田信長の耳に入り、まさかの展開に。少年加藤虎之助が加藤清正になるまでのモノカタリである。

新撰組のものがたり

琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。 ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。 近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。 町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。 近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。 最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。 主人公は土方歳三。 彼の恋と戦いの日々がメインとなります。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル

初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。 義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……! 『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527 の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。 ※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。 ※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。 独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす 【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す 【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す 【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす 【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))

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