沖田氏縁者異聞

春羅

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第四章

第四話

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 弓継は、月野の笑った顔を見ると嬉しくなる。

「すごいなぁ……月野さんって飲み込みが早いんですね!」

「師匠、ありがとうございます!」

 月野は松本良順の医学所で医療の勉強をしていた。

 刀傷と眼の治療の為に泊まっていたが、合間の時間に少しでもいいから教えてほしい、と願い出たのだ。

 子ども心にも喜ばせようと褒めたのではなく、事実、覚えるのが早い。

 左眼が見えない。

 両眼とも、見えなくなるかもしれない。

 瞼の上に斜めに付いた傷も、完全には消えない。

 ちっとも、弱音も愚痴も言わないんだよなぁ。

 自分の為に泣いているところなんて、見たことがない。

 初めて会った時は島原の芸妓さん、それも天神だったと聞いた割にはどこか頼りなげな雰囲気の人だと思ったけれど、本当はとても強い人なのかもしれない。

 こんなに熱心に医学を習うのも、一人の大好きな男の人の為なんだ。

 毎日寝る間を惜しんで本を読んでは書き写していて、和蘭陀語も多少は理解しなければならないのに。

「新撰組の沖田さん……ですけど、先生がおっしゃっていたように、あなたがお見舞いに行くだけで喜ばれるんじゃないですか?」

 何も女の人の身でこんな苦労をしなくても、俺が沖田総司だったら十分過ぎるくらい幸せなのに。

 月野は、せっせと走らせていた筆を置いた。

「そんなこと、ないです」
 
そして当然のことのように笑う。

「だってわたし、芸事以外になんの取り柄もないの。ろくな看病もできずにただ傍にいるだけなんて、絶対いやだから」

 新撰組が甲陽鎮撫隊として甲府城に向かう途中に沖田が戦線離脱し療養生活に入ったことは、松本の患者だから当然連絡が来ていた。

 月野さんは今すぐにでも会いに行きたいのだろうに、自分の治療と、自分の納得の行く、労咳の苦しさを和らげるのに役に立てる知識がつくまで、やっぱり我慢しているのかなぁ。

 俺なんかには悩んでいる様子も見せてくれないから、想像するしかないんだけど。


 寒ぃのは嫌ぇなんだよな。

 土方は呼吸の度に白く視界が曇らされるのすら忌々しく思いながら、甲府に向かう道、豪雪の中を近藤の後に続いた。

 こういう時に舌打ちでもしようものなら、決まって沖田が隣に並んできてヘラヘラした笑い顔を作ってからかってくる……いや、またいろいろ気を遣ってくるところだが、今は土方自ら背中を振り返っても、名前を呼んだとしても応えない。

 京に上ってバラガキの頃から夢に見た武士になって、愛せるものに出逢って……しかし一番大事なものばかり、この指の隙から零れ落ちるようだった。

 ダメだな……俺は、こんな頼りなかったか?

「局長!」

 およそ二百人いた隊士が脱走やらで百二十人ばかりに減った頃、甲府に先発していた大石鍬次郎が血相変えて戻ってきた。

「奴等に……っ先を越されました!」

 新政府軍……というより薩長が、もう甲府城に入ってしまったと言うのだ。

 近藤らは早馬で勝沼に急行し、土方は援軍を求め、江戸そして神奈川へと奔った。しかし、援軍は得られなかった。

 幕府の腰抜けどもは、頑として“城”から出る気はないらしい。

 だから“菜っ葉隊”とかダッセェ渾名で呼ばれんだよ、と土方は心中で悪態吐く。

 土方の帰陣を待つ間も無いまま衝突した新撰組はおよそ一刻の内に無惨に散り、なんとか退路だけは確保できた、という状態だった。

 やはりここでも、新兵器の数と扱い方が勝敗を分けた。

 鳥羽・伏見での戦には出られなかった近藤が、初めて味わった敗北だった。

 盟友二人、近藤と土方は八王子で再会したが、腕の怪我と完膚なきまでに負かされたことからか、近藤の雰囲気が随分変わり、そこが良いところだったのだが、何となく残っていたガキ大将そのままの青臭さが薄くなった。


 近藤勇という男は、最後まで計り知れなかった。

「永倉さん、左之助、今までどうもありがとう」

 一時的に永倉と原田で新撰組をまとめていて、近藤と土方が少し遅れて八王子に入ってから早々の夜に言われたので、てっきりその礼かと、永倉は思ったのだ。

「おう! 連中、意外にイイコだったぜ」

 理由はわかるがちょっとショボくれている気がしたから

「な、左之! お前の方がうるせぇぐれぇだったよな!」

「ああ? そりゃぱっつぁんだろ!」

とか、景気付けと照れ隠しに笑った。

「いや、違うんだ。あ、勿論、こんな時なのに新撰組をバラバラにしないでくれてありがとう、流石だな」

「違うって……」

 じゃあなんだと尋ねる前に、近藤は続けた。

「試衛館から、京での毎日……こんな負け戦にまで付き合ってくれて助かった……本当にありがとう。二人が居てくれなければ俺は……」

「なんだよそれ……」

「ナニもう会わねぇみてぇなこと言ってんだよ!」

 生来短気な原田は捲し立てたが、永倉は呆然と訊き返した。

「これ以上、俺の意地に巻き込むのは心苦しいんだよ……わかってくれないか」

 いや、やはり原田ばかりを怒りっぽいとは言えない。永倉は頭に血が上り、掴み掛かって怒鳴った。

「フザけないでくれ! 総司もいねぇのに新撰組の剣と槍を手放して、誰があんたを守るんだ! だいたい俺達は仲間じゃなかったのかよ! 確かにあんたは大将だが家来になった覚えはねぇ! 出てけと言われておとなしく従えるかよ!」

 近藤勇が貫き通す“誠”を、終いまで支えさせてくれよ。

 カッとなりながらも、こういう言い方をすれば近藤は

「家来だなどと、とんでもない!」

と引き下がると計略しての発言だ。

「……幕臣の芳賀宜道殿が新しい隊を組織すると聞いた。そちらに、誘われているのだろう?」

 荒い手段を遣う永倉を、近藤は困ったように僅かに眉を下げ、微笑んで見詰めた。

「そうなのかよ、ぱっつぁん!」

 同じように誘われていることは、原田本人にも伝えていなかった。

 永倉と芳賀は同じ松前藩の出身で、旧知の仲だ。幕府陸軍奉行並・松平太郎公認で会津藩邸を屯所とする、永倉と原田が副長を任された新しい佐幕派の一隊であり、名を後に靖共隊という。

「二人が呼び掛ければ、是非加わりたいという隊士がいるだろう。みんな家族みたいで……無駄死になどさせたくないヤツばかりだ。連れて行ってやってくれないか?」

 こんな風に頼まれちゃあ、どう反論していいかわかんねぇよ。

 永倉、原田、林信太郎ら七名は、こうして新撰組を離れた。

 組織は違っても戦う志は一つだと、心には常に真っ赤な“誠”の大旗がはためいている。

 文久三年の『天狗』、元治元年の『非行五ヶ条』と、遠慮なしにガンガン意見してきた

 俺だが、それはあんたがどっしりと受け止めてくれる、後腐れなくまた笑えるって信じてたからなんだ。

 俺の上に立つのは、生涯あんただけだぜ、局長。


 なんて厳しい眼で、僕を見る人だろう。

 そんなに嫌われちゃってるのかなぁ。使えなさそうだって、思われてるのかなぁ。

「ひ、土方副長、今日から小姓としてお側に従かせていただきます。市村鉄之助と申します」

 鉄之助は、武州観音寺での新入隊士募集に兄・辰之助と共に申し込み、念願叶って憧れの新撰組に入った。

 天才との呼び声高い一番隊隊長の沖田総司先生みたいに、局長と副長をお守りして新政府軍なんてみんな蹴散らしてやるんだ、と大きな目標を持って故郷を出た。

 だから小姓にと言われ、正直ガッカリしていた。

 この土方がかつての討幕派志士と、そして新撰組の隊士からも冷酷な鬼と恐れられているからではなくて、戦いたくて入ったのに戦力の一人として数えられていないと、子どもなりに感じたからだ。

 それに加えて、すごくキビキビと動く小姓が先にいるのも目にしている。

 特に会話の無いまま部屋を出た。威圧感に気圧され、これからやっていけるのだろうかと早速に不安だった。

「あっ鉄ちゃん! よろしくな、俺、田村銀之助!」

 庭先、丸くなり気味の肩を突然叩かれた。

 て……てっちゃん……?

「同じ、土方先生の小姓だ。がんばろうなっ!」

 知っている。鉄之助が見留めたのはこの少年だ。

 同い年くらいだが堂々としてしっかりしていて、氷みたいに表情の変わらない副長が時々呆れたような、だけど優しい笑顔を向けていた、との鉄之助の印象だ。

「田村さん、よろしくお願……」

「堅っ苦しい! 銀ちゃんでいいって!」

「えっ……あ、はい」

 名前はちょっと似ているのに、僕とは正反対に明るくてのびのびとしていて、こんなにいい人なんだから、副長に気に入られるのは当然だ、と思った。仲良くなれそうだとは思う反面、強烈な劣等感もあった。

「鉄ちゃんはさ、なんで新撰組に入ったの?」

「え? ええと……」

 正直に言ったら、笑われるかもしれないなぁ。お会いしたこともないけれど。

「沖田先生みたいな剣士に、なりたくって……」

「……へ? へえぇ……俺は、あの人みたいになりたいとは思わないなぁ」

 子どもっぽい理由だなぁとか言われるかもとは予想したけれど、こんな風に否定されるとは思わなかった。

 だって……十代で免許皆伝した上、塾頭まで務めて、京では常に中心的活躍をし、局長始め皆さんから信頼されている、新撰組一番の剣客と有名な人じゃないか。

 鉄之助は口に出せない癖に在り来たりな文句で反論して、心なしかムッとした。

「ど、どうして?」

「うーん……説明するのは難しいけど、あの人決して、恵まれてなんかいないよ?」

 それって、不治の病だから?

「ま、そのうちわかるよ」

 俺は副長とずっと一緒にいたからわかるんだよ、と言われた気がした。お前は表面しか見えてない“お客さん”だ、とも聞こえるんだ。

 僕が、ひねくれてるからなんだけど。


 これが、最期かもしれないと……痛いくらいにわかっていたのに、俺も総司も知らない振りをしていた。

 信じたくなかった。

 もう二度と、共に並んで歩くこと、バカみてぇな冗談に額を小突くこと、あの明るい声で名を呼ばれることすらできないなど。

 土方は、今戸八幡宮境内にある松本良順の別邸に移った沖田を見舞いに来た。こざっぱりとした庭園がついて、外界の動乱などとは無関係というように静かで、病を癒すには最適と言える場所だった。

「土方さん……来てくれたんですね……」

 蒲団からゆっくり身を起こす姿を見て、愕然とした。

 天然理心流独特の太い木刀で何百回と素振りをしていた健康な躰が薄らと痩せ、骨と皮だけのようになっている。地黒だったかとの印象を持つ程に浅黒い肌も、出会った頃の透き通るような白に変わっていた。

 そんな姿になっても少しも変わらず微笑むのが、堪らなく痛々しい。

 隊務から外したせいで、こんな一気に弱っちまったのかよ。

「総司ッ……」

 思わず、細い躰を掻き抱いた。

 これが、不逞浪士共を震撼させた新撰組一番隊隊長、天武・沖田総司の末路か……。

 なんて、表向きの悲観は止しておく。

 それ以上に、肉親同然に愛しく思っていた男が今にも逝こうとしている事に、ただ溢れる涙が止まらなかった。 

 子ども同然に背中を擦られながら、土方はいつのまにか、この見栄張り男が決して見せない涙に嗚咽まで漏らして泣いていた。

「大丈夫です……僕は、大丈夫ですよ」

 すぐ我慢しやがるんだコイツは。

 誰かに心配を掛けることを人一倍嫌う沖田は、苦しい自分を絶対に見せない。

 ――……

「総司、俺の前では無理して笑わなくていいんだ」

 ――……


 何年か前の言葉だが、全くの無視を決め込んでいる。

「……ごめんな。悪かったよ、総司」

「何がです? ……あっ、さてはお見舞いのお菓子忘れました?」

 いつからか見慣れた紫の紐で結った後ろ髪が、揺れるのを感じた。

 また……顔なんか見えねぇのに笑ってんのかよ、と思ったのをそのまま苦々しく言った。

「笑ってんなよ」

「箸が転んでもおかしいお年頃なんです」

 抱き締めていた肩を引き離して、はぐらかそうと必死らしい頭を、くしゃっと撫でた。

 そんな土方を沖田は

「子ども扱いするな」

と言いたげな困惑気味の表情で、でも文句垂れるどころか口先を尖らせる癖も出さずに黙って上目した。

「俺を……恨んでもいいんだぜ」

「あはっ! またご冗談を」

と、笑うのを無視して土方が顔を伏せると、やっとふざけるのを観念したらしく珍しい溜め息を吐いた。

「感謝はしてますけど……恨むなんて、考えたこともないですよ」

 漸く耐えた涙が、また滲む。

「感謝してんのは、俺の方だ。どんなに礼しても足りねぇよ」

 お前の剣が無ければ、新撰組は成り立たなかった。

 弟みてぇにかわいい、という以外に、病に倒れたお前をずっと離さなかった理由がそれだ。

 池田屋で初めて血を喀いた後だって、しっかり休めとは言ったが、嫌だというのを怒りながらも“鬼副長”の顔をした俺はどこかで、大事な戦力を失わずに済んだとホッとして、立てなくなるまで人を斬らせればいいと冷たく笑っていたのかもしれない。

 最低だ。

 最後まで利用したんだ。

 病的と言える程に真っ直ぐな忠義心を。

「そうですねぇ……そこまでおっしゃるならお願いがあります」

 顔色を窺うように一旦区切った。

「戦が終わったら……月野さんと、ほんとに仲直りしてくださいね」

 結局、月野のことは言えなかった。

 土方自身がまだ認め切れないのに、誰かに……取り分け沖田に話した途端、現実になりそうな気がしていた。

 それにこう見えても沖田は気性が荒い。月野が何者かに斬られたなどと知ったら枕元の愛刀を引っ掴んで飛び出して行きそうだ。

「……わかったよ」

 これが精一杯の受け答えだった。それでも沖田は、心底嬉しそうにしていた。

「お前、写真とかないのかよ」

 かっちゃんが撮った時、ちゃっかり撮ってなかったか?

 俺はああいうのは好かねぇ。男前なんだから残しとけとかむちゃくちゃ勧められて、余計意地になっちまって撮らなかった。あんなもん、寿命縮められそうじゃねぇか。

「“ほとがら”ですか? えっと、僕は持ってませんけど……うーん……先生にお渡ししたような……」

「っだよ、相変わらず無頓着だな」

「だって変な顔だったんですもん……って、あれ、どうするおつもりです?」

 確かに……変な顔っつか、ずっと息止めてなきゃならねぇから、総司の癖に真面目腐った、やけに大人っぽい表情だったんだよな。

「連れていってやるよ。一緒に」

 沖田は、急にパッと俯いた。

「“代わり”だけどな。“ホンモノ”が追い付くまで、しょうがねぇ」

 軍服の内側にでも縫い付けとく、と付け加えて、黙ったまま垂れた頭にポンと手をやる。

「とっとと来いよな。お前がいねぇと、つまんねぇだろ」

 素直過ぎる本音で言ったが、ふっと沖田は吹き出した。

「もう! 僕を泣かせたいんですかっ!」

と、肩を叩く。

「いや、ボウヤを笑わせたい」

「十分笑わされてますって!」

 バカ、心からって意味だ。

「忘れんな。一緒に戦えなくても、俺の心にはいつもお前がいるんだからな。身代わりの写真、必ず取り返しに来い」

 この時の、眼に浮かんだ涙を精一杯隠しての笑顔が、土方が憶えている沖田の最期だった。


 数日後、土方は他の隊士……しかも互いの小姓がいる前なのに、

「かっ……局長! その眼……」

 咄嗟に“かっちゃん”と呼びそうになる程驚かされた。

 そして、俺としたことが野暮なことをとすぐに後悔した。

 言うべきではないと思い直したので誤魔化そうとしたが、近藤は威厳たっぷりの声で土方に部屋へ来いと、如何にも仕事でも言い付けるかのように促した。

 今更だが、近藤はいちいちキチンとしている。

 いや、こうでなければ土方が口を酸っぱくして進言するところだ。芹沢亡き後唯一の局長の座に就いた頃から、元々備わっていた威厳である。

 決して偉ぶりはしないが、この格式がなければ、大将がどんと構えていなければ、元は素性など言えやしない経歴の輩ばかりの、どうしようもない烏合の集であると見られても文句の言えない新撰組は崩壊すると、わざわざ誰に教えられずとも知っているのだ。

 隊士達が朝から短筒の調練を行っていて、休みなく谺する音を土方が聞いていると大分上達してきたように感じていた中、近藤は沖田を見舞って帰ってきた。普段は何でも許して包み込むような優しさだがいざという時は烈迫の気合いでつり上がる眼を、よく開かないぐらいパンパンに腫らせて。

「歳ぃー、総司がぁー」

「だぁっ! 泣くんじゃねぇや情けねぇ!」

 自分のことはそっくり棚に上げて、洟まみれの厳つい四角顔に懐紙をぶん投げる。部屋に入り、周囲に誰もいなくなった途端、近藤は“思い出し泣き”を始めた。

 ったく幸せもんだな、あいつは。


 僕はあなたの前だと、いつも小さな子どもになってしまう。

 あなたの顔色を窺ってばかりの、怯えてばかりのただの幼な子。

 好かれたくて嫌われたくなくて、優しすぎる筈のあなたが、この世で唯一の恐怖だった。

 気を抜いたことなんて、一度だってなかった。

 あなたの思いやりが身に沁みて、気に入ってもらえているのかもと感じてからも際限になど辿り着けなくて、どうにか一番になりたいと思った。

 先生の一番に。

 必死だった。

 僕は生まれた瞬間から人に、家族に大きなものを失わせた。

 病気がちだったという母上は、僕を産んですぐに死んでしまったんだ。

 どうして命を失ってまで僕なんかを産んだのかと、面影すら知らない母上を思うと、浮かぶのはそんな疑問だけだった。

 最愛の人を奪った僕に対して、柔らかい笑顔を絶やさず可愛がってくれた父さまも死んでしまって、長男だけど幼すぎた僕は家を継ぐことができず、二人の姉さん達を守ることもできず、なんの役にも立たないまま家を出た。

 白河藩の録を喰む武士の家だったけれどひどく貧しかったので、口減らしだと、いくら子どもでもわかった。

 そして、母上を殺した不吉な子どもだから追い出されるんだとも思った。

 ――……

「寂しい思いをさせて悪かったなぁ。どうしても、宗次郎をうちの道場に欲しいと、ミツさんに無理にお願いしてしまったのだよ。島崎勝太、一生の頼みです! ……ってな」

 ――……

 先生は、闇に沈んだ僕を引き上げようと、あの温かく大きな手を延ばしてくれた。少しずつ少しずつ、一緒に階段を上ってくれた。

 でも、表面だけ出来上がった“沖田総司”という人間は、全てが虚飾だ。

 本質はただの人斬り。

 いや、その名を冠する他の人のような、然したる大義名分すらありはしない。

 国の為でも、主君の為でも、仲間の為でもない。

 ただ僕は、先生・近藤勇に捨てられないよう、嫌われないよう、誰よりも認めてもらえるよう、必要だと思ってもらえるよう、これしかないと縋り、一心不乱に身に付けた剣技を、そしてこの胸に巣食う鬼を、利用したに過ぎない。

 他人の命を、罪悪感無く踏み台にした。

「総司、どうだ? 具合は」

「とてもいいですよ。このまま治ってしまいそうです!」

 近藤は、忙しい合間を縫い、沖田を見舞いに来た。当然のように、全く苦に思っていない。

 沖田は秘かに覚悟する。

 今生でお会いできるのは、最期かもしれない。

 だって、これから良くなる人間が、こんなに痩せていく筈がない。

 喀血なんて、する筈がない。

「ちゃんと食べているのか?」

「はい! でも良順さんってば牛の肉食べろっていうんですよう。臭くって無理ですよねぇ?」

「こ、こら! 松本法眼を……」
「こう呼んでいいって言われたんです」

と言うより、“先生”と思ってもいないのに無理して付けなくてもいい、という感じのことを、あの明るいベランメェ言葉で言われていたのだ。

 沖田が“先生”と呼ぶのは、生きてきた中でただ一人だけだったから。

「そうなのか? ならいいか」

 カラッと笑い飛ばした後に頬を綻ばせたまま、でもと加えた。

「獣肉は滋養が付くというから……そうだなぁ、鼻を摘んで食べればいいんじゃないか?」

 肉だけではなく、実は他の食物もあまり食べられなかった。

 喉を、通ってくれない。

「大事な跡取りなんだからな。治ってもらわなければ困るだろう」

「……えっ?」

 二人して、それぞれ違う意味で驚いた顔になっていた。

「あれ? 言っていなかったか?」

 近藤は、しまった、という感じで手の平を額にあてた。

「三年前……か、池田屋の後、永井主水正殿と訊問使として長州へ行っただろう? 流石に今度ばかりは命が危ないと覚悟していたから、故郷に手紙を送っておいたんだ」

 照れたように微笑む。この笑顔に、何度も何度も救われた。

「俺にもしものことがあったら、新撰組はトシに、試衛館……天然理心流は総司に任せると」

「……僕に……」

 泣いてはいけない。

 先生に、心配をかけてはいけない。

「今でも、俺の後を預けられるのはお前しかいないと思っているよ」

 ……駄目だ。

 下を向いて、ひたすらに首を振った。

 勿体無い。

 僕は、そんな……先生にそこまで思ってもらっていい人間じゃない。

「ボロ道場で悪いが、俺には宝物なんだ」

「ちっ……違います!」

 嫌がっていると勘違いされてしまったと、沖田は慌てて、また首を振るった。

「違うんです! 僕、本当は……先生が思ってくれているような人間じゃないんです! 僕は……」

「俺が思っている総司は、素直で無邪気で純粋で、俺は大好きだぞ」

 騙しているのは、もう辛いです、先生。

「僕はただの剣鬼です。刀を持つと、人が変わってしまう……いいえ、あれが僕の本性です」

 先生が一番知っている筈だ、と胸の中に蟠る記憶が蘇る。

 十二歳の頃、近藤と行った出稽古の帰り道で会った、白河藩の剣術師範だという男を打ちのめした。気絶して、もう起き上がってこない程に。

 天然理心流を、近藤を、田舎剣法と小馬鹿にされてカッとなって無我夢中だったとはいえ、相手に見くびられていたとはいえ、本格的に剣術を始めてから二年足らずの子どもだったのに。

 得意顔で振り返った時に見た近藤の表情は、忘れられない。

 化け物に遭遇したように、蒼くなっていた。

「……人っていうのは、みんな……」

 そっと撫でるように沖田の肩に触れる。

「表と、裏がある。相対する人によって、顔を使い分ける。ただ明るいだけとか、ただ優しいだけの人間などいない。どちら側からでも完璧な人間などいない」

「幕閣に揉まれて、俺もオトナになった」

と苦笑いして、

「ここ数年精一杯働いたつもりだ。出世はしたが、夫として、父としてはいいところなんて一つもなかったしな」

と、頭を掻いた。

「誰もが見て見ぬ振りをする部分なのに、悩む総司は、やっぱり誰よりも無垢だ。きれい過ぎるから、苦しんでしまうんだ」

 息が詰まって、頷くことさえできない。もう、否定も肯定もできない。

 さ迷って、手探りでふらつく幼いままの僕を、光はこっちだと導いてくれるその声。

 母を殺してまで生まれてきた僕……なんの意味があったのだろうと自問を繰り返してきた。

 一つは池田屋の夜、先生を狙う刃を退けた時の為。

 もう一つは、今日、この瞬間の為だ。

「……僕、先生の子どもになれるんですか?」

 近藤は、泣いていた。

「そうだな……五代目だからな。至らぬ父ですまないが」

 僕に涙を見せないでください。

 また僕は、嬉しいだなんて思ってしまう。

 僕だけが、見ていられる涙。

「こちらこそ、至らぬ息子ですが、よろしくお願いします!」

 初めて感じた。

 心から幸せなときの人間は、このまま死んでもいいと思うんだ。

 先生……。

 あなたは本当の家族のように、温かい慈しみを与え続けてくれた。

 今日まで、ありがとうございました。

 あなたが言ってくれたような人間ではないけれど、生まれてこられて、本当によかったです。


 一通り泣き明かしたであろう頃、土方が舌打ち混じりに言うが、近藤は気にする様子もなく物凄い轟音で鼻をかんだ。

「ったく、ヤローの汚ねぇ泣き顔なんざ見せられても嬉しくもなんともねぇや」

「ううっ……しょうがないだろう?」

 だから涙溜めて上目されようが、ちっともかわいくねぇって。

「……あ。歳ぃ、総司のほとがらが欲しいんだって?」

 あのおしゃべりめ。

 ――……

「土方さんね、僕のほとがらがどーっしても欲しいんですって! 寂しがり屋さんで困っちゃいますよねぇ? よっぽど僕が恋しいんですね!」

 ――……

 この遣り取り、土方は知る筈も無いが想像に容易過ぎて、勝手に腹を立てた。

「ん? ああー、欲しいっつか、人質?」

 そんなこと言ったっけ? と、惚け気味に言うが、近藤はまだ涙目のまま破顔した。

「一枚だけだぞっ」

 いや、何枚持ってんだよ! との突っ込みを、土方は敢えて飲み込む。

 近藤はいそいそと懐から写真を取り出し、目に入れても痛くねぇ、という勢いで満面の笑みを向けた。

「ほら、かわいいだろう? おっ、ついでに俺のもやろう!」

「いらね」

「何ぃ!」

 沖田の緊張気味な真面目顔写真だけ、ピッと音が鳴る早さで没収した。

 土方はこの写真を、これからも肌身離すことはない。

 最期だとわかりながら出る戦いまでの腐れ縁になるが、それはまだ先の話だ。
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歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿
歴史・時代
 豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。  義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。  下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。  大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。  女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。  だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。  その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。  島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。  その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。    

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