沖田氏縁者異聞

春羅

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第四章

第三話

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 月野は松本良順、弓継と一緒に江戸へ向かう船の上にいた。

「……あーッ! 駄目だ気持ち悪ィ!」

 黒船を知らない月野が乗るのは勿論、見るのも初めての大きい船だ。それでも平気なのに、慣れている筈の松本は海の方に身を乗り出しながら真っ青になっている。

「先生、薬をお持ちしましたよ」

 薬と水を乗せた盆を持ってきた弓継も、頗る元気だ。

「俺ぁ薬なんざ飲まねぇ!」

「ええ? ……もう! 天下の名医が何をおっしゃるんですか!」

「うるせぇな、天才美形医師だろうがモテモテだろうが嫌ぇなもんは嫌ぇなんだよ」

「そこまで褒めてません!」

 笑い出してしまうのをなんとか我慢していた月野を余所に、弓継の高い声さえ辛そうに耳に栓をして、猫でも払うみたいに手を振ってから松本が言った。

「月野ちゃんの口移しだったら飲んでもいいぜ」

「絶対ダメです! それならずっと苦しんでればいいでしょっ!」

 慌てるだけの月野ではなく弓継が頬を膨らませつつ両手を広げて間に入ると、松本は渋々文句を言いながら、大量の水と一緒に薬をがぶ飲みして眠ってしまった。

 月野はせっかくこんな立派な船に乗っているのに勿体無いと、潮風の気持ちよさを感じながら海を眺めていた。一人にしてはつまらないだろうと気を遣ったのか、弓継が手摺に小さな肘を付きながら話相手になった。

「月野さんは、どうして芸妓さんになったんですか?」

 改めて、訊かれたことなんてなかった。それくらい、純粋な少年だ。

 以前なら、大抵の者がそうだと承知しているように、両親に売られたから、と答えていただろう。

 でも今は父と母を悪く言うなどできないし、置屋に入っていなければ出逢えなかった人もたくさんいる……そのせいで傷つけてしまった大事なひとがいるから、一度は後悔したけれど、少しずつ感謝の気持ちが生まれていた。

 それは芸妓になったこと以上に、自分の身よりも大切に思えるひとと、同じときに生きられることの幸せでもあるのだけれど。

「うーん……踊りが、好きだから……かな」

「へぇえ……キレイなんだろうなぁ」

 弓継はコテンと、手摺に頬を置いて笑った。所々、ひとつの仕草が可愛らしい。

 一人っ子で、置屋では……もちろんだけれど、年上も年下も女ばかりの中にいたので、弟ができたみたいだと思った。

「弓継くんは、どうして松本先生のお弟子さんになったの?」

 次の、手摺から躰を離して腕をピンと伸ばした様子もやはり可愛く映る。

「俺はねぇ、父さん母さんが死んだから、先生が引き取ってくれたんだぁ。住んでるところが戦場になっちゃって、火傷したんだって。赤ん坊だったからわかんないけど、俺だけ助かっちゃった。……なんでかなぁ……先生、優しいですよね。だから立派な助手になって、お役に立ちたいんです」

 顔色すら曇らせないのが余計に痛々しくて、涙が零れそうになる。こんな可哀想なことを、無神経に訊くなんてと後悔した。

「……ごめんなさい……」

「えっ? ……あ、そんな……泣かないで? 月野さん」

 頭まで手を伸ばして、撫でられてしまった。

 情けないけど、わたしの方が妹みたいだ。

「あなたの涙は、哀しい」

「ふっかーつ!」

 重い鉄の扉が勢いよく開くと、大の字状態の松本が豪快に笑った。

「だから言ったじゃないですかぁ! ちゃんと薬飲んでよかったでしょう?」

「“良薬口に苦し”ってのは、ありゃマジだなぁ」

 そう言ってわたしにすっごく苦い薬を下さったのは松本先生じゃないですか、とは思っても口に出せない。

 弓継はとても気を遣う少年で……遣わせてしまう月野は申し訳なく思うが、多分今の話を気にしないように、イタズラっぽく笑った。

「あ。先生が俺をもらってくれたのって、母さんがすんごく美人だったからでしたっけぇ?」

「そうそう、実は惚れてたんだよなぁー……って言わすんじゃねぇ! 俺の“いめぇじ”落ちるだろ!」

 その後弓継が眠ると、松本は本当の理由を話した。弓継本人も知らない、引き取って、愛弟子として育てた理由を。

「あいつは、俺の知己の一人息子だ」

 見たこともない、辛そうな顔だった。

 昼間涙が伝った月野の頬は夜風でひんやりと冷たくなったけれど、この時は気が付かなかった。

「あいつの両親は十三年前、安政の大地震の時、我が子を庇って圧死した」

 だから……自分を庇う為の犠牲になって死んだのだと弓継が思わないように、松本は真実を言わなかったのだ。

「父親は瓦礫から救い出すこともできねぇまま、母親は俺が手当てしたんだが、死なせちまった」

 松本は今までにない心痛な声で、辛いだろうに説明を続けた。

「罪滅ぼし……のつもりだったのかも知れねぇな」

 そしてその頃が海の向こうに見えるように目を細めた。

「あいつが俺を先生とか呼ぶ度に、やりきれなくなる。言えねぇのはあいつを傷つけねぇ為じゃなくて、俺が恨まれねぇように……かもな」

 クッと口の中だけで自嘲する様子に悲しくなって、月野は手摺に置かれる固く握った手に触れた。

「……弓継くんは、松本先生のこと、大好きですよ」

 松本が多分長年繰り返し考えただろう、弓継がどう感じるかとその理屈を説く気にはなれないし、そんな資格は自分にないと思う。こういう時はいつも子どもっぽいことしか言えなくて、中身の成長の無さにいい加減嫌気が差してしまう。

「……いい女だな、月野ちゃん」

「えっ?」

 雲の上にいるような大先生に微笑まれてビックリしてしまう月野に、続けて呟いた。

“ぼうや”には勿体ねぇぜ」

「そ……沖田さまですか?」

 総司さんと呼ぶのがなんだかいけない気がしながら確認した。“ぼうや”などと言われているのを聞いたのは、その病を知った時以来だ。

「お、おう」

と、松本はよくわかったなという顔で少し、うんうんと頷いた。

 勿体ないだなんて……。

「ただの……わたしの片想いですから……」

「……はあ?」

 あまりの剣幕に船の帆すら揺れそうで月野も肩をビクリと上げたけれど、松本はツルッとした頭をペタペタ触りながら、力が抜けたみたいにしゃがんだ。しかも、何かブツブツと聞き取れないぐらいの呟きに加えて溜め息混じりに。

「こりゃあ、鬼の副長が手ぇ焼くわけだ」

 よっと弾みをつけて立ち上がると、月野にとっては懐かしく、ポンと頭の上に手を置いた。

「まぁ、いい。江戸に着いたら、あいつはキッチリ療養させようと思っている。月野ちゃんが行ってやったらきっと喜ぶぜ」

 その前に、あのひとは療養を厭がるのではないだろうか。

 すごく……強いひとだから。

 でもわたしには、弱いところも見せてほしい。

 苦しみを理解したいだなんて思い上がりだし、どんなにがんばってもできないとわかっている。

 けれど少しだけでも分けてもらえたら、それ以上の幸せはない。

 あとは、なにも望まない。

 長い船旅をようやく終えて、久し振りの江戸に着いた。

 九歳で島原に入ってから一度も踏まなかった故郷の地。

 十年以上前に見ただろう景色なんて懐かしいと言う感慨すら湧かなくて、それよりも早く、会いに行きたかった。

 ひたすらそれだけで、不思議だけれど、この眼に負った傷、包帯を巻いた顔を見て、どんな反応をされるだろうとかそういう心配は少しもなかった。

 わたしは一人の男性として、あのひとを好きだと思っていたはずなのに。


 かっちゃんを大名にするまで帰らねぇと誓った土方だが、六年目、敗走する賊軍として江戸へ戻ってきた。

 不意に、故郷を同じくした一人の女を思い出す。

 消えてしまった月野を求める俺は、まるで水面に浮かぶ月に触れようとする獣のようだ。その爪は手応えの無い水を掻いて掻いて、滴は残らず涙になった。

 しかし今は俺の新撰組の踏ん張り所だ。

 立ち止まるわけにはいかねぇんだ。

 新撰組の乗っていた順動丸は慶応四年一月に品川沖に到着し、一先ず建場茶屋の釜屋を仮の屯所とした。負傷した隊士は富士山丸に乗船し、横浜の病院に入った。

 しかし同じ船に乗っていた近藤と沖田は品川に下船するも、松本良順の治療を受ける為に神田和泉橋の医学所に入った。

 江戸で彼らがバラバラになるのは初めてだった。

 江戸に帰還した隊士の総数は約百二十人。また、新しい戦力を募る必要があった。

 やっと“かっちゃん”と再会できたのは、もう月末のことだった。

「やっぱり、見慣れないものだなぁ」

 近藤は明らかに土方の格好を見ながら苦笑いしているが、わざと聞いてやった。

「何がだよ」

 齢三十五にもなってもひたすら真っ直ぐで素直な性分で、土方の意地悪さなど気付かずに答える。

「いや、その洋装だが……似合っているけど、一瞬異人の……なんだったか……そう、紳士に見えるなぁ」

「ばっ……褒め過ぎだ」

 さすがの土方も、顔が少し熱くなるのを感じながら言った。

「かっちゃんだって、すっかり大名じゃねぇか。ヨッ! 殿!」

「照れるだろう、歳ぃ」

 そう心底嬉しそうに頭を掻くが、今日は二人で登城し、佐倉藩士・依田学海に会う予定なので身形は勿論、実際の身分も従える部下……近藤は隊士を仲間と呼んで憚らないが、その数も大名並みだった。

 ただこの時勢で、手放しで喜べるものかは別として。

 登城すると、待ってましたと言うように鳥羽・伏見での戦について訊ねられた。

「私はこの腕でしたから……指揮を任せていた土方からご報告致します」

 近藤は包帯で吊られた腕を軽く上げて苦笑いした後、土方に促した。

「最早、銃や砲でなければ戦はできません。刀など佩いていても、まるで役には立ちませんでした」

「成程。それでそのお姿ですか」

 つい、は? という顔をしてしまった。それに気付いたらしく、若干含み笑いをされる。

「いや……その軍服、貴殿の趣味かと。剰りによくお似合いなので」

 土方がムッとしたのを知ってか知らずか、近藤は屈託なく笑った。

「ありがとうございます。何でも着こなすのだから、私なんぞは羨ましく思ってしまいます」

 どうにも反りの合わなそうな土方と依田だが、したい突っ込みは共通だろう。

 嫌味が通じねぇー!

 暫くして、新撰組に江戸での屯所が与えられた。

 元若年寄・秋月種樹の、鍛冶橋門内にある屋敷だ。ここで、重傷者以外の隊士が漸く揃った。

 再生の地で最初に与えられた任務は、徳川慶喜の警備だ。討幕軍に追討令を出され、江戸城から上野寛永寺の大慈院に移り謹慎しているのを、見廻組らと交代で任務に就いた。

 はっきり言って土方の心境は

「やってらんねぇ」

だが、近藤は真っ先に密命を受けたのを、寧ろ喜んでいた。


 癖になってしまっている舌打ちと言葉に、その場に居た部下はビクリと凍りついた。

「……邪魔くせぇなぁ……」

「もっ……申し訳ございません、勝先生!」

「何謝ってやがる。オメェのことじゃねぇよ」

 勝麟太郎……いや、本人は海舟と名乗る方が気に入っているのだが……今、彼の頭を悩ませるものの一つに、京都から江戸に陣を移した新撰組がある。

 江戸で戦を起こさないように骨を折っている時にあんな血の気の多い輩に来られてしまえば、収まるものも収まらない、というわけだ。

 徳川慶喜が勝曰く正に“絶世の姿”である大政奉還をして見せても、討幕派はあくまでも徳川家の崩壊を狙っている。しつこく除け者にしてた癖に、そんな窮地になってから頼ってくる幕府の方ももうダメだ、と勝は苦り顔だ。

 おまけに鳥羽・伏見で戦の大将は敵前逃亡……尻尾巻いて逃げちまったってんだから、一本気な新撰組連中が苛立つのも無理もねぇな、とも理解はしているのだが。

 龍馬が死んじまってから世の中気に食わねぇことばっかりだ、とすら嘯く。

「近藤……“甲陽鎮撫隊”ってのはどうだ? カッコイイだろ?」

「は……コウヨウチンブ……ですか?」

 土方は勝が部屋に入った瞬間から殺気を飛ばしていたが、そこまで

「ダッセェ名前! ふざけんな!」

と顔面中貼り付けなくてもいいだろうが、と言いたくなる形相の隣、近藤は率直に面食らった表情をしている。

 ……いや、と勝は訂正する。

 土方がガンくれてくるのは昨日や今日始まったことじゃねぇや。まぁ、いつも通り無視して進めちまうか。

「江戸を離れ、甲府城に向かってくれ。俺は人のこと言えやしねぇが、お前らも結構恨み買ってるからな。新撰組の名を出しゃあ奴等の闘争心を煽るだけだろ? だから改めろ」

 いつ斬り掛かってくるかわかったもんじゃねぇと、ずっと黙っている土方の形相を、常に目の端に置く。まるで初対面の龍馬が殴り込んできた時みてぇだ、などと暢気に思いながらだが。

「龍馬は俺を斬りに来たんだぜ」

とか後に語るのは冗談だったが、土方なら本気でやりかねない。

「甲府城ぶん取りをやってのけたら……そうだな、新撰組に百万石くれてやるよ」

 俺は、悪党か? と、幕臣唯一の狐・勝ですら思う。 

 何故ならこんな嘘を吐いても、罪悪感がまるで湧かないのだ。

 嘘というのは、褒美をやる気が無いのではない。

 新撰組を勝たせる気が無いのだ。

 名を変えさせるのは、援軍をつかせない為だ。他の佐幕派の藩は、新撰組が戦に出ると知れば挙って味方するだろう。

 孤立無援で、江戸を離れさせる。

 後世どんなに批難されようが、江戸に戦を持ち込まない為ならなんだってするのが勝の信念だ。

 新撰組には悪ぃが、お前らには、また敗け戦に出てもらうぜ。

「百万石! ……はは、それはすごい……」

 近藤は多摩の百姓出身だが、ここまで武士らしい男はいないだろう。

 自分の身よりも、今はその地位すら失った将軍のこと、そして国のことを第一に考えて立ち回る。こんな男が幕閣にも居れば、徳川家は反乱の憂き目にも遭わずに済んだのかもしれない。

「我ら新撰組、大樹公の御為とあらば、命すら擲つ所存です」

 悲しくも、今は新撰組が離れるのが国の為だ。

 感動しきりの近藤に対し、土方は終始沈黙し続けたまま帰っていった。

 ひたすら人の善い近藤が、勝自称“腹黒”に騙されないようについて来たのは勝にもお見通しで、むしろ

「しっかりしやがれ」

と言いたくなってしまう。敢えて黙っていたのかもな、と思いながらも。

 しかし近藤は……俺にはキレイ過ぎて、目が眩む。


 久し振りに二人で歩いているが、こんな気分は今まで無かった。

 土方は切実な焦燥を堪えきれず、ズンズン前を行く背を追い、隣に並んだ。

「幕府も太っ腹だよなぁ……俺達に軍資金三百両とは!」

「……局長」

 かっちゃんの御輿は、俺が守るって決めてんだ。

「ちょうどいい! 通り道だから彦五郎さんの所でも寄っていくか。隊士募集も兼ねて……な!」

「近藤さん」

 あんな野郎に、良いように操られてたまるか。

「おのぶさんにも久々に会えるぞ。楽しみだろ?」

「ッなぁ! かっちゃん!」

 土方はついに声を荒げ、怪我していない方の肩を掴んだ。

「……なんだよ歳ぃ……怒るなよ」

 あまりにも穏やかな表情の近藤に、一瞬で理解した。

 そうか……かっちゃんは、全て承知で行くってのかよ。

「人には、都合ってもんがあるからなぁ。頭のキレる人の考えはよく分からんが、俺は幕府に与えられた任務を全うするだけだ」

 昔から見慣れた、ガキ大将の頼りになる笑顔。

 どこで何をしようと、ついて行く。

 そして絶対に、勝安房の策謀通り、新撰組が甲府で散るなんて許さねぇ。


 近藤は出陣する隊士を集めて、心底楽しそうに鼓舞した。

「城を取れば、甲州百万石を俺達にそっくり下さるそうだ。副長助勤には各々三万石、調役には一万石配分しよう」

 無意識に、付いて来させる、従わせる術を知っている。

「マジで! すっげぇ!」

「ついに俺達も知行か……」

 原田と永倉がさらに盛り上げる中、近藤はちゃんとこの場に呼んでいた沖田に明るく言った。

「お前もだぞ、総司!」

「ふぇっ? ……は、はい!」

 お互いに涙目になっているのを、土方は見ぬ振りをした。

 新撰組は二月、幕府から二千四百両、会津藩から千二百両、松本良順からなんと三千両の軍資金を与えられ、甲府城に進軍した。

 この時近藤は、幕府から与えられた大久保姓で剛と名乗り、土方は内藤姓と、土方家の跡取りが受け継ぐ隼人の名を遣った。

 近藤、土方、沖田、永倉、原田……試衛館以来の仲間が揃う、最後の戦が始まった。


 近藤の故郷である調布の熱烈歓迎を受けながら通り過ぎ、土方の姉・おのぶの嫁ぎ先、佐藤彦五郎の屋敷に着いた。

「歳三おじさぁん! おっかえんなさぁい!」

「おお! 源之助、久し振りだな」

 ここで一旦休み、隊士募集をする予定だ。

「源坊、大きくなったなぁ」

 以前、剣を教えていた沖田が懐かしげに言った。土方は隊務で何度か江戸に来ていたが、沖田は上洛してから一度も訪れていなかった。

「あっ! ソージだ! 相変わらずヒョロッちいな!」

「あはは。相変わらず叔父さんに似て生意気ぃ」

 土方が猛抗議に出ようとすると、背後から耳を劈くような、“バラガキ”の頃に引き戻されるような声が響いた。

「源之助! 宗ちゃんをいじめちゃダメでしょ!」

 苛めちゃって、おい。

 彼には珍しく心の中だけで反論する、こんな惚けた叱り方をするのが、早世した父母の代わりに土方を育てた姉だ。今でも頭が上がらない。

「そうだぞ。あと、俺のこと呼ぶ時“おじさん”はいらねぇって言ってんだろ」

「だって、叔父さんだし」

 ったく誰に似やがった。

 すると沖田が、しめたとばかりにニヤリと肩をつつく。

「そうですよぉ、オ・ジ・サ・ン」

「このっ! 総司!」

 無茶で大人げないとは自覚している土方だが、沖田本人が全力で元気な振りをしているからつい病なんて忘れてしまいそうになり、額にグリグリ拳骨を浴びせる。

 本当は、立って歩いているのすら辛い筈だ。土方の家族は三人、同じ病で倒れたので、嫌と言う程に分かっている。

「歳三さんも! やめなさいってば! 全く……そんな異人みたいな格好してっ」

 これでも隊士の前だからと気を遣っている方なのだ。普段ならこの姉、呼び捨てでキンキン怒鳴り、ペシペシ叩いてきかねない。

 自分では結構気に入っている服装だったがやはり反論はせず、とっとと話題を変えちまえと源之助の方に目をやったが、先に話し掛けられた。

「やっぱ歳三おじさんすげぇかっこいい!」

 上着の裾を引っ張り、満面を輝かせている。

「知ってるっつの。よし、お前も一緒に行くか!」

「やったぁあ! 行くぅ! 新撰組に入れてよ!」

 源之助は土方の腰に纏わりついて大喜びした……のは束の間、ついに、優しく控え目……とまでは演じ切れていなかったが、仮面が剥がれた。

「バカなこと言うんじゃないのっ歳三! うちのかわいい源ちゃんを新撰組にやるもんですか!」

 源之助はこの剣幕に当然慣れているらしく、

「ええー! ケチ!」

と捻くれたが、大半はもう屋内だがパラパラ周りにも居た隊士は土方に気を遣っているのだろうがしかしわざとらしく、見ていないし聞いていない風を装った。

 沖田だけ、彼独特の小刻みな笑い声を上げた。

「おう歳三、宗次郎! 元気そうだなぁ」

 そこへ助け船を出すように現れてくれたのは、のぶにベタ惚れの夫・佐藤彦五郎だ。

「宗次郎……お前、躰はいいのか」

 まだ土方に小言を言い続ける声に紛れ、沖田に訊ねていた。

「ええ? 全ッ然大丈夫ですよう! ほら、四股踏んじゃうくらい」

と、本当に二、三回表玄関を踏み締めるのを、土方は不覚にもハラハラしながら横目で見る。

「ええー! 土方先生、ここでお昼寝されてたんですか?」

 最近入隊したばかりの若い隊士が、手入れの行き届いた庭を一望する部屋で歓声を上げた。どうやら、ノブ姉がまたいらねぇこと言ったらしい、とは思いつつ顔にも出さない。

「ああ。そうだ」

「うちに来る度にゴロゴロしていたのよ」

 って余計なこと付け足すんじゃねぇよ。

「……わぁあ……ちょっと僕も寝てみていいですか?」

 この少年……田村銀之助はどんなに睨み利かせても物怖じしないので、土方は小姓という名の見習い隊士としていた。

「馬ぁ鹿。観光名所じゃねぇよ」

 小姓を付けるなんてガラじゃねぇとは思ったが、身分が上がるというのは面倒なこともある。

「あっ! これ、三味線掛けですか?」

 寝っ転がるのを諦めた田村は少し悄気た後、またウロチョロと物色し始めた。

 だから、観光地じゃねぇっつの。

「もしかして、三味線弾かれるのですか?」

「お、おぅよ! どんなもんでぃ!」

 なんて胸を張ったが、弾けるのは長兄・為次郎だ。

 盲目だからか世俗に囚われないかなりの風流人で、土方が句を始めたのは兄の影響だった。

「ぅわあ! 聴きたいです!」

「今日はノらねぇからダメだ。とっとと昼飯食ってこい」

 かじった程度にどうにか弾けるが大して巧くもないので、うるさげな顔で田村を追い払った。しかしまた遠くの方で、

「あっ! 横笛! これも土方先生のですかぁ?」

と興奮気味なのはついに無視した。のに、今度は沖田がまた寄ってきた。

 誰も俺を休ませる気は無ぇのかよ。

「銀之助くんって、大物ですよね」

 なんて、ニコニコしている。

「ほんのガキだ、ありゃあ」

 するとどこか不満げに口を尖らせた。

「仲がよろしいようで、嫉妬しちゃいます」

「……イヤガラセかよ」

 土方は吹き出しそうなのを飲み込んで、苦笑いした。

「土方さんをイジめられるの、僕だけだったのになぁ」

 子どもに戻ったように膨らませた両頬を、指でがっしり押す。

「俺をナメてちょっかい出してくんのは今でもお前だけだろ」

「あはは! うれしーい」

 いや、ここはナメてねぇとか否定しろよ。土方は、相次ぐ突っ込みにげっそり気味だ。

「ところで……アレはどこですかねぇ?」

「アレ?」

「アレこそイヤガラセですよう。こちらに送った、土方さんのモテ自慢っ」

「人聞き悪ぃな」

 京に着いて間もない時期、舞妓芸妓からの恋文を集めて大量に送ったのを、思い出した。そして“毎日”忘れようとしていた月野のことも、思い出した。

 まだ、ここまで惚れるとは予想すらしていなかった頃だ。

 ――……

「……そんなの。わたしが書かなくても、もう沢山もらっているのだからいいじゃないですか」

「数は多けりゃ多い方がいいんだよ。いくら、くそガキからでもな」

 ――……

 恋文を書けと、冗談混じりにからかったのだ。

 ただの、ちょっと風変わりな芸妓だと思っていた、あの頃は。

「捨てたわよ、あんなの」

「……捨てんなよ」

 後ろから、のぶがツンと言う。沖田しかいないからすっかり地に戻っている。

「だって、京土産でも送ってきたかと思ったら本当に“つまらないもの”なんだから。皆で呆れていたのよ」

 土方は拗ねた振りをして、昼飯に行こうとした。その背後から聞こえる声は、母を喪った辛さは同じだったろうに気丈に育ててくれた、姉の温かさで満ちていた。

「元気だってわかるだけで、嬉しかったんだからね。無理なんかしないで、ちゃんと帰ってきなさいよ」

 それは、夫・家族や他の隊士がいる前では、絶対に言わない言葉だった。

 沖田もちょっと目を離した隙に消えている。相変わらず、要らない程に気を遣うのだ。

 でも土方は、なんと答えていいか、わからない。

 仕方なく、背中を向けたまま、頷いた。


 日野を出て二日目の宿、府中常久村、関田家。

 近藤は土方と、沖田を呼んだ。沖田の反応を予測して、他の隊士の眼に触れないようにしたのだ。

「総司……ここまでだ」

 一言で全てを理解したのだろう。沖田は聞き返すこともなく、押し黙った。

 近藤は、沖田をここで休養させる気だ。

 旧知の間柄で試衛館の出稽古先、石田散薬の卸先でもあった。長男の庄太郎は沖田と同年代で、仲が良い。

 戦前に一旦預けるには、ここしかない。

 ――……

「……先生、僕を、置いて行くの?」

「帰ってこない訳じゃあないんだぞ」

 ――……

 今では懐かしいやり取りを、土方は不意に思い出した。

 まだ試衛館に居た頃、浪士隊募集の知らせを聞いた近藤はすっかり舞い上がって、なんの迷いもなく沖田を連れて行こうとした。

 しかしその時期ちょうど、沖田は近藤から離れようとしていた。

 ――……

「おいソージ! いつまで寝てやがんだ!」

 土方は障子が大きな音で鳴って跳ね返るくらいに開け、仁王立ちをしている。沖田は掛け蒲団を頭のてっぺんまでひっ被った。

「うぅわムカつくー!」

 対する土方は悪態吐きながら、傍で胡座をかく。

「めぐりが。お前に“ごめんなさい”だってよ」

 その落ち着いた声音に沖田は飛び起きた。

「何それ……っ! めぐりさんは悪くないのにっ! 謝るのは僕の方だっ!」

「……じゃあそうすりゃよかっただろ。逃げんな」

 口をきけなかった。その通りだと、感じたから。

 めぐりとは、当時試衛館で働いていた少女だ。沖田に片恋を寄せ、縁談を拒否し想いを伝えたが、修行中の身だからと断られた。やはり少年であった沖田の眼前で、自身の首を掻き切ったのだ。

「……泣くなよウゼェ……」

 ……まだ泣いてないじゃないですかッ!

「もう僕には構わないでくださいっ! 僕はここを出るんですからっ!」

「は? なんだよそれ」

 言葉だけは落ち着いた感じの聞き返しだが実際には怒ったような声音で、尋問されている気持ちがした。

「だからっ……僕は試衛館を出ます! ここにはもう居られないんです!」

 あくまで蒲団は被ったままだ。

「“だから”何でだよ」

 ああ、見えなくてよかった。絶対歳三さん、すごく怖い顔をしている。

 それが見えないから、声だけは強気に言った。

「もうイヤになったんです! 剣術の稽古をするのは!」

「へぇえ」

 憎たらしくもわざとらしい相槌を打った後、土方は舌打ちまでした。

「だから“ぼうや”だってんだよオメェは」

「だって! ……僕、知らなかった……! 剣が人を傷つける道具だなんて!」

 こんな時でさえ、僕は計算高い。

 知らないなんて嘘だ。気付かないふりをしていただけなのに。

 それ以上に、僕が九歳で手にした刀という道具は、人に認められる、必要とされる唯一の道具だった。

「……小綺麗なこと、言うようだが」

 眉間に皺寄せて、前置きした。

「剣は……人を守る道具でもあるだろう」

 しかしその言葉は実感に満ちていた。

 土方の姉・のぶの嫁ぎ先、佐藤彦五郎宅に、以前賊が侵入して祖母が斬殺された。それから彦五郎は、家族を守る為に天然理心流に入門。

 余談だが、近藤と土方が出会ったのも近藤が出稽古に行った時に土方が遊びに来ていたからだ。

 確かに、守る剣術もある。

 でも僕は、そんな風にはなれない人間だと思う。

 毎日必死に朝から晩まで稽古をして初めて真剣を手にした時の、あの吸い寄せられるような感覚。

 魅入られたんだ……刀に。

 僕の剣は、ただの人殺しの剣だ。

 それ以上でも以下でも無い、生涯そうとしか成り得ない気がする。

 だからもう、剣は握らない。

 人が傷付くところは、見たくない。

「僕には……無理です」

「……勝手にしろ」

 なんであなたがそんなに怒るんですかと沖田が訊きたくなるくらいにドスドスと音を立てながら、土方は行ってしまった。

 先生は、一度も来てくれなかった。

 初めて……斬傷で血を流す人を見た。

 僕はこれが、剣術によって作り出されるだろう光景だと悟る。

 稽古を一切止めた。

 先生は、何も言わなかった。

「……宗次郎さん? どこ行くんだい?」

 近藤の義母・ふでだ。

 沖田の記憶には眉間にきつく皺を寄せた表情が焼き付いているから、この時心配そうに見つめてていたことにハッとした。

「あッ……僕……」

 小さい頃は毎日叱られていたが、近藤に連れられて剣の稽古を始めてからはほとんど話すことも無かった。
避けていたのかもしれない。

 沖田は試衛館を出ようとしていた。

 誰にも言わず。

 誰かに会ったら絶対に出て行けなくなるから、後から挨拶に来るつもりだった。

「……なんだい、その荷物は」

 荷物と言っても一着の着替えと、心とは裏腹、竹刀だけ持っていた。

「……今日までっ……大変お世話になりました!」

 お辞儀して走ろうとした。引き止めてくれるとは思わなかった。
嫌われているという先入観が付きまとって、いつも緊張しながら会話をしていた。

「宗次郎さん待って!」

 染み付いた恐怖心もあったのか、反射的に足を止める。

「……さぞ……私が憎かったろうねぇ……」

 振り返ると、養子の近藤に対してでも見せたことがないような深い労りの表情にドキリとした。思わず、黙ってしまった。

「てっきり、あんたはうちの人の隠し子だと……」

 ふでは子どもを産まなかった。道場主・周斎には若い頃から妾が数人居たらしい。そこに九歳の沖田が現れ可愛がられていたのだから、もしやと疑うのも道理だろう。

「宗次郎! 大変だ! トシを呼んでくれ! お前も俺の部屋に来い! ……ああ! 

 皆、稽古場に集合だ!」

 珍しく、近藤はとても慌てた様子で帰ってきた。

 沖田は、にこりと確かに微笑んだふでを後ろに腕を引っ張られながら、危ない足取りで稽古場に走る羽目になる。

「せっ……先生! どうしたんですかっ?」

 少し昔を思い出してしまいそうに、子どもみたいに手を引かれながら、勝手に滲む涙をごまかす為に声を上げた。

 やっぱり先生が大好きだ。この人のためなら、なんでもしたい。


 食客全員が集まる中、永倉が一番に声を上げた。

「ついに俺達が世に出る時が来たんだ!」

「将軍が上洛? 本当か近藤さん!」

 黒船が来てから十年後の文久三年。徳川十四代将軍・家茂が、今上・孝明天皇の攘夷祈願の賀茂行幸に随行する。

 沖田はそんな事情には全く詳しくないが、幕府は開国路線であることくらいは知っていた。天子様は大の異人嫌いだというから逆らえなかったのだろうな、などとぼんやり思っていた。

 つまりそれだけ、幕府の力は衰退し始めていたのだ。

「京は、“天誅”と称した幕府要人の暗殺が横行しているとか。我々は、将軍の護衛というわけです」

 近藤にこの話を知らせた山南が涼やかに捕捉した。対して近藤は興奮気味に見渡す。

「俺達が! 大樹公のお役に立てる時が遂に来たんだ!」

 他の大道場と同じように稽古の後には黒船来航以後の日本の行く末について激論を交わしていた彼ら後の新撰組幹部の意気は、俄然高まった。ただ土方だけが少し苦しそうに下を向き、両腕を組んでいた。

「歳三さん? ……嬉しくないんですか? 歳三さんは」

 皆がいなくなった稽古場で、まだ腕を組んだまま考え込んでいた土方さんの袖を引いた。

「ん? ああ……俺ぁ、勝ちゃんと行く。……お前は?」

 心ここにあらずと言った感じで、ボーッと聞き返される。

「僕は……行きません……よ」

「へー……」

 全然聞いていない。

「……俺、琴とは別れる」

 沖田の決意は無視して、急に目を覚ましたように言った。しかし沖田はムッとした、のではなくホッとした気持ちだった。

「……琴?」

「許嫁だ」

「いっ! えええ!」

「お前……この俺に女の一人もいねぇとでも思ってたのかよ」

 あんぐりと口を開ける少年沖田に土方は“この俺サマに”とでも言わんばかりに、ふっと鼻を鳴らした。

「……つっても、琴は家同士の決めた相手だからな。あっちも俺のことはすぐ忘れっだろ」

 そんな……あなたに優しくされた女の人が、あなたに惹かれないはずがないですよ。

 沖田は会ったこともない女を哀れに思った。

「別れなくても……いいじゃないですか。帰ってくるんですし……」

 別に怒ってもいないのに土方は睨み付ける。この頃から既に癖だった。

「俺ぁ帰らねぇ」

 その眼光を、やめてくださいよ、いちいち怖いんだからとか、かわす余裕など到底ない。

「……帰ら、ない?」

 ……先生も?

 また、思い知らされた。

 どんなに離れようとしても、僕の生きる総ては、先生に認められて必要とされること。こんな僕は他人には哀れをかすらず滑稽に映るのだろうけど、しょうがない。

「こんな田舎で燻ってる場合じゃ無ぇんだよ。戦国以来の群雄割拠……この機を逃さねぇ。京に出て、武士になる」

 そう、輝いた横顔で言った。

「宗次郎……マジで行かねぇのか」

 初めて、かもしれない。歳三さんに“宗次郎”と呼んでもらったのは。

 でも聞いてなかったふりをするなんて、ズルい。

 無言で頷いた。

「宗次郎ぉお! 行かないのか?」

 駄々を捏ねる子ども同然の表情で、近藤が稽古場に入ってきた。

「宗次郎が来るなら心強いのになぁ」

 危険な旅かもしれないし帰られない旅かもしれないのに、ほんの少年だった沖田を誘うなんてと非難されそうだが、それは違う。

 置いていかれたくないことを、知っていたのだ。

 意地を張って、行かないと言ったあの時の沖田。それも近藤には直接言わず、近藤に向かって拗ねていた。

 それでも

「お前が来ると心強いのになぁ」

と、沖田にとってはかなりの殺し文句を吐いて誘ったぐらいだ。

 しかしその日の夜、ここが良いところであり隊士達や土方も好きなところなのだが、普段からあまり無い冷静さを取り戻した近藤は、背中を少し丸めて相談してきた。

「なぁ、歳ぃ……」

 この辺りの口調は今でも変わらない。

「宗次郎は、江戸に残った方がいいのかもなぁ」

「なんだよ急に」

 自分の部屋なのに居辛いような表情で、額の端を掻いた。

「白河藩の、剣術師範になってくれと頼まれているらしいんだ」

 初耳だった。

 白河藩といえば沖田家が二十二俵二人扶持の禄を食んでいて、沖田が生まれたのも白河藩阿部豊後守の江戸下屋敷だ。僅か十二歳の時にその剣術師範を打ち負かした、という因縁もある。

 アイツのことだ……かっちゃんにだけ話したんだろう。

 いちいち人に相談できる気質じゃねぇからな、と土方は思う。

 かつて剣術師範にと言われながらも、直前に、農家の出だからという理由だけで白紙に戻された近藤を気遣う心は当然あったが、師と仰ぐゆえに言わずにもいられなかったのだろう。

「……それで?」

 近藤がどう考えているかなんて、長い付き合いだ、わかっていたが、土方の意地悪い癖でわざと訊いた。

「それに……宗次郎は俺達とは違って元々武家の生まれだ。未来の見えない京へ行くより、仕官する方がいいに決まっている。そうだろう?」

 食客全員を鼓舞していた大将の、本音だった。

 そう、この先なんて、暗闇だ。

 痛い程感じる筈の“引き離されるのが怖い”という気持ちに応えることを、愛が妨げる。

「アイツ……断るんじゃねぇか?」

 出稽古などの乱暴な教え方を見る限り、師範など柄でもない。天才とは、人に教えるのは下手なものだ。

 今は意固地になってるが、結局アイツは、かっちゃんと一緒にいることを選ぶだろう、と土方は確信していた。

「わかってる! けど、将来を考えたら、それを許すことはできない!」

 ここで、たまたま通りかかったか態とか、立ち聞いていた沖田がさっき土方が思い出した言葉と、部屋に入ってきた。

「……先生、僕を、置いて行くの?」

 近藤は、いかにも“らしく”正直に困った顔で答えた。

「帰ってこない訳じゃあないんだぞ」

 沖田は人前で、近藤の前でなど絶対泣かない。

 だがこういう風に、涙を我慢する表情なら土方は何度も見てきた。近藤のようにデカイ男にはなれず、つい眼を逸らす。

「僕、やっぱり迷惑ですか?」

「宗次郎! 違う!」

 ああ、ここに居たくねぇなぁ。

 目すら向けられない土方は、こんなやり取りに耐える自信が無い。

「こんな……両親に死なれてて。身内から邪魔にされた僕なんか。身寄りのないコドモに変に懐かれて、迷惑……ううん、気持ち悪いんでしょう? なら、優しくしてくれなければよかったんですよ! 適当に距離を置いてくれればよかったのに! 不気味なら放っておけば、捨ててくれればよかっ……」

 この為にかっちゃん、俺を呼んだのかよ……いや、そういう妙な知恵を遣う男じゃねぇな。

 頬を打った手の平が痺れて、握った。

 近藤も、右手で拳を作っていたのは知っていた。だが土方は、いくら情の込もった拳でも、近藤に殴られる沖田は見たくなかった。

 それにこれからは、直接手を出すのは二番手になる自分だと、決めていたのだ。

 つかあんたの鉄拳なんか喰らったら総司の顔が変形しちまうだろ、と散々喧嘩した過去の経験を以て思った。

「とっ……歳! 叩くなよ!」

 腫れてきそうな頬に手もやらずに固まっている沖田の代わりに、近藤がアワアワと触れる。

「悪ィ」

 殊更ぶっきらぼうに言った。

「宗次郎!」

 沖田は顔を背けたままギュッと眼を閉じ、出ていった。

 真っ青だった。

 追ってほしくないのはわかるので、二人共部屋に残った。

「また、一人で泣くのだろうなぁ」

 トシのせいだと言いたげに溜め息するが、アイツは俺に殴られて泣くような類じゃねぇ、と土方は俯く。

 誰に対してよりも神経を張ってきた“先生”に初めて逆らって、本音をぶちまけてしまったから、あんなに蒼白になって後悔したんだ。

「俺が……なんとかしてやるよ」

 そうだった……俺のせいだ、ということも、思い出した。

「武士になれればいいんだろ?」

 俺が総司に、人斬りの面を被せた。

「俺は、あんたを大将にするっつったよな? 京でゼッテェ名を上げる! その為ならなんだってしてやる。ソージの腕は、寂しさなんか、孤独なんか感じさせねぇぐらい使う。源さんに新八や左之、斎藤、平助にサンナンさんにもむちゃくちゃ働いてもらう。全員で武士になんだよ! 俺を信じろ、かっちゃん!」

 今思えば相当ガキ臭い演説で、かっちゃんは

「よし、みんなで行こう!」

と言ってくれた。

 俺が京でコキ使ったせいで、何も知らない総司は病の進行を早めた。

 江戸に居た頃に詠んだ句を纏めた句集……京に持ってきた方は月野に渡したんだが、その一番初めの頁に一つだけ書いた句がある。

 差し向かう(原文・さしむかふ) 心は清き 水鏡

 これは、総司を詠んだ句だ。

 黒衣を着せ、血で汚したのは俺だ。

 ――……

 だんだん暖かくなり始めながら、急に底冷えもする季節の変わり目。沖田はこの時期に決まって体調を崩すので、よく

「鍛錬が足りねぇからだ」

とか叱られていた。

 でも、すごい寒がりな癖に着膨れるのが厭で、それだけで機嫌が悪くなってしまうひとに言われたくないですよねぇ。それに、稽古だって休んだことがないのに……あ、そっか……だからいけないのかも、と漸く沖田は気付く。

 僕も、春は好きなんだけどな。

「ソージ、具合はどうなんだ。治ったのか?」

「はい、だいぶ。これのおかげです」

 ひょいと“石田散薬”と印字された袋を持ち上げる。

 こうでも言って“持ち上げ”ないと、桜が全部散ってしまいそうな程の冷たい風が吹く中で、縁側に出ていたことを怒られてしまう。

 もったいないなぁ……一気に散らなくてもいいのに。しかもここ・試衛館の桜は咲き始めるのも早い。

「ったく。もうじき出発だってのに心配させんなよ」

 文久三年、二月……そう、浪士隊出発前。

 道場主の近藤を始め、天領つまり幕府直轄領で剣の稽古に励んできた周りの者はにべもなく参加を決めて、栄誉ある大任だとかあわよくば仕官の道だとか気合十分だが、沖田には正直よくわからない。

 先生が行くからついていく、という唯一の理由だけで、揺るぎ無い天命だと思ってしまっている。

 冗談交じりによく言われるけど、やっぱりどこか変なのかな。

「歳三さんこそ。準備もしないで朝帰りなんて。お盛んですね」

と、言ってしまってから後悔した。

 本人自覚ありのモテぶりを冷やかすとニヤリと不敵に笑うのがお決まりの反応なのだが、今回はふっと沈んだ顔になった。

「……琴と別れてきた。で、里に行った」

 許嫁さんと……やっぱり江戸に帰るつもりはないんですね……って、結局は吉原にも行ったんですか。

「じゃあこの句は、歳三さんの決意の表れなんですね」

 さっきまで、熱心に熟読していて慌てて懐に隠した本を取り出して表紙を捲った。

「なんでっ! お前がっ! 持ってんだっ!」

 三度も繰り出される掴み掛かりの腕を躱しながら、できる限りの情感を込めて読み上げる。

「差し向かう 心は清き 水鏡っ!」

「返せっ!」

 取り上げられて拳骨まで落とされたが、今まで詠み溜めた豊玉宗匠傑作選をせっせとまとめられたら読みたくもなる。

 最初の頁に一首だけ書いてあるから余程大事なんだなぁと思ったけれど、渡りに船の上洛機会と、武士になるっていう決意を詠んだ句なんですよね?

「僕にだって少しはわかりますよ」

「いや、わかってねぇ」

 深草色の句集を溜息しながらしまい込んだ。

 まだ読みきっていなかったのにな。

「歳三さんはすぐにコドモ扱いを! わかりますよう!」

 膨らませた頬をグイと指で押される。

「何回言ったらわかんだよクソガキ。もう名前で呼ぶのは止せ。“土方”だ」

 武士だから、かぁ。

 理不尽だなぁ、自分は勝手に縮めて呼ぶ癖に。他のみんなも真似するし。いっそ名前を変えちゃおうかなぁ。

「これはな、お前を詠んだ句なんだよ」

「へっ?」

 そうなんですか? ……なんでまた。

「ありがとうございますぅ。じゃあ僕にくださいよう」

「ダメだ! って触んな!」

「ケチ!」

 急にそんなこと言われても、こうしてごまかすだけで精一杯なんですけど。

 嬉しくて……申し訳なくて。心は止めどなく涙を流す。

「うーん……でもどういう意味なんですか?」

 答えるわけない。わかってるから訊けるんだ。

「ゼッテェ教えねぇ」

 ほらね。

「なら俳句の師匠になってくださいよ! そしたらお返事書きます。えっと、返句?」

 僕はあなたの中にいる宗次郎みたいに、向かい合う勇気も、ましてや心なんて清くもないけれど。

「お約束はちょっとできませんけど、いつかの桜の季節が終わる頃には」

 あんまり切なそうだから話を変えたのに、大変なことになっちゃった。

 ――……

「土方さん? もう、昼間っから寝ないでくださいよう」

「あ? ああ……悪ィ」

 なんだ? コイツ、元気じゃねぇか。

 現実に引き戻された土方は、いきなり拍子抜けした。

「ぅわあ、心配だなぁ……くれぐれも斬られたりしないでくださいよ! ご武運、お祈りしてますからね!」

「お前……」

 いいのかよ?

 何も言わせないように、それでも応えるようにふっと微笑んだ。

 沖田はとうに、残ることを決めていた。

 近藤の方が泣きそうになってしまっている、というか既に洟ばかり啜っている。

 取り残されるのが平気になったとは、到底思えない。

 土方と沖田が初めて会った頃と同じように全て腹ん中に溜めて、我慢ばかりする本質に戻っただけだ。

 ずっと心中に“宗次郎”がいる癖に、もう誰にも、見せなくなったんだろう?

 あの後、思った通り涙で眼を真っ赤にした総司を探し出して、

「京へ行くぞ」

と、熱くなった頬に氷嚢を押し当てた。

「っ歳三さん……ありがとぉ!」

 感謝なんてされていい人間じゃねぇよ。

「僕、必ず役に立ちますからね!」

 頼むから、泣き場所ぐらい見つけてくれ。

 “本当の独り”にならないでくれ。

 訂正する。

 どれだけ人を斬り殺しても、総司は汚れちゃいねぇ。

 俺がどんなに冷徹な鬼になっても、ずっと向かい合ってくれる清い水鏡だった。
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