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第四章
第二話
しおりを挟む片眼だけの視界はなんだかボヤけていて、わたしを満面の喜びの顔で眺める女のひととの距離感がいまいち掴めない。
「……あっ……目を覚ました……! あなた早く! このコが……」
ボンヤリとしたままゆっくりとしか動けず半身を起こすと、ギュウッと抱き締められる。
「良かったねぇえ! 本当に運がいいよ!」
また躰を離して、優しげな表情で問い掛けられた。
「……お名前は?」
「……つき、の……月野」
左眼に巻かれた新しい包帯は、触れると柔らかかった。
「ここは……?」
どのくらいの間、眠っていたのだろう。完全に気だるい寝起きの状態で、あまり考えられないままそれだけ訊いた。
「安心しなさい。うちは医者だから、治るまで……ううん、好きなだけ居ていいからね」
治るまで……どうして包帯を巻かれているのか、よく覚えていない。
「びっくりしたよ……刀傷なんて付けられた女のこが川に流されてきたんだもの」
そうだ……斬られたんだっけ。
月野は虚ろな記憶から何より大事なことを思い出し……何かもかも忘れた。
「……ッ総司さんは……! ……あっ」
何も考えられずに声にして、口を覆った。
目線だけで
「ん?」
と聞き返されたので、
「なんでもありません」
と誤魔化した。
篠原が沖田を斬ろうと狙っていることを、真っ先に思い出したのだ。他の何もかもを忘れたようにして。
ご無事だろうか。
わたしが寝ている間、何かなかっただろうか。
今すぐ、今すぐにあのひとに会いたい。
視界の少ない眼の奥に浮かぶのは、ただ思い出の中に微笑む姿だけ。このまま……離れたまま会えなくなるなんて、耐えられない。
ひたすらに心の中で繰り返すのは陳腐な世迷い言ばかり。でも、人に恋をした時の言葉なんて全て在り来たりで簡単で、安っぽいもの。
今頃になって、この想いを飾る気も格好をつける気も無い。
ただそれだけが、わたしの真実なのだから。
「この包帯、外したらどうなってるんですか?」
ドキリとした顔をされたのは気付いていたし、斬られたのだから想像が付かないでもなかった。躊躇しているのも感じていたので、月野は自分の手でスルスルと白い布を剥いでいった。
「……ッ!」
化け物。
これも自分の手で引き寄せた鏡に映るのは、人間の姿ではなかった。くっきりとした赤々しい傷が、ぱっくりと斜めに、左眼を割っている。
かつてこの顔を美しいだなんて思ったこと、ありませんと言えるようなら芸妓など務まりはしない。今は、自分のものだと言う贔屓目を無理矢理加えても、気色が悪いとしか表現の仕様が見付からなかった。
恐る恐る傷に触れると、やっぱり紛れもなく自分の顔だと思い知らされる。そしてその目を覆うものがあってもなく ても、なんにも見えない。
ああ、何も映さないならば、この眼この顔この手足、全部消してくれればよかったのに。
「ごめんな……うちみたいな小さい医者じゃあ傷は隠しきれないし……視力の回復も難しいんだ」
たった今診療を終えた医者が、すぐに駆け付けてくれた様子だった。二人ともとても優しげな目をしていて、懐かしい、気持ちがした。
「いえ……右眼は見えていますし、傷なんて……別に……」
少し視界が狭いくらい全然平気、と月野が二人に向き直ると、中年女性の方は泣いていた。
「何言ってるの! バカだねぇ……強がらなくていいよ」
再会した……捨てた娘に、バカはないんじゃないですか?
本当は、目が覚めた時からわかっていた。
この夫婦は、九歳の月野を置屋に売った、母親と父親。また、医者を始めていたのだ。心の中だけで、普通の子どもが親を呼ぶ言葉を、思い付きながらも拒んだ。
「あの……」
聞きたいことは山程あった。
どうして今さら医者に戻ったんですか?
どうして……わたしを捨てたんですか?
わたしを思い出す日はありましたか?
わたしを覚えていますか?
……わたしは、あなた達の娘ですか?
すべてを、飲み込んだ。
グスグス鼻を啜りながら
「うん?」
と、やっぱり十年分老けた目線を向ける母親を前に、作り笑いをした。
「あの……すみません、また包帯を巻いてくれませんか?」
江戸から京都へ……こんなに近くに移り住んでいながらも会いにすら来てくれなかった両親の家は、血脈すら通わない他人の家のようだった。
二人は月野を
「月野さん」
と呼び、月野はなるべく自分から話しかけないようにしていたけれど、どうしても用事がある時には初日と変わらず
「あの……」
と呼び止めた。
互いに親子だとは確認しないし、夫婦の方は気付いているのかさえわからなかった。そして数日間療養したある日、月野に相談したいことがあると言い出した。
「幕府御殿医の松本良順先生という、日本最高の医師がいるんだ。月野さんの目を治せるとしたら、あの方を置いて他にないだろう。伝が取れたから、診ていただきなさい」
月野は先生に初めて会った、そして土方と二度と会えなくなった日を思い出した。
「今は大坂城で……そうだ、確か新撰組の方の治療をしていると」
その言葉を聞き、顔に書いてあるというくらい驚いてしまった月野に続けた。
「局長が銃創で、もう一人が胸の病だとか」
……総司さん!
月野は何の目的で松本の元に行くのか頭から放り出して、沖田に会えるということだけを繰り返し胸の中で唱えては、嬉しさと緊張と、無事だったという安心感で宙にこの身が浮くようだった。
「月野さんのことをお話ししたら是非来なさいとおっしゃっていたから、明日にでも一緒に行こうか」
喩え娘だと気付いていたとしても何も言ってこなかったということは、つまり未だにこの夫婦にとって、月野は邪魔な存在だ。だから医者としての気遣いと対面の言葉だとしても、付き添うと言ってくれただけでもありがたいこと。
そのような考えを巡らせつつ、月野は小さく首を振った。
それが、最後の情だと。
これが、最後の別れだとしても。
「いいえ。一人で行けます」
「女のこに一人旅なんてさせられるわけないでしょう?」
母親が娘を叱るように言うので、つい意地の悪い科白を使った。
「この十年、ひとりじゃなかったことなんてありませんから」
こんなことを言いながらまた他人めいた反応をされるのが怖くて、どちらの顔も見られなかった。同情を引こうとしている、惨めな娘になっていた。
「松本先生にはお会いしたことがありますし、大丈夫です」
一人で行きたい理由は他にもあった。
きっと心配してくれている、置屋の女将に会いたかったのだ。
わたしにとってのお母さんは、やっぱり置屋の女将さんだ。こんな傷があってはもう芸妓として用無しだけれど、生きていることを知ったら喜んでくれるはずだから。
「大変お世話になりました。ありがとうございました」
傷を隠す為に伸ばした前髪は左眼にかかっていたけれど、自分でも巻けるようになった包帯に守られて、深々とお辞儀をしてもチクリともしなかった。
それは月野の気持ちも一緒だった。
今上の別れだとしても、この二度目の別離に、なんの悲しみも抱きはしない。そんな気持ちは、わたしが許さない。
一歩一歩……歩く程に、長年心底に澱固まった両親への愛憎を振り払った。
「……月野!」
だからそう呼ばれるだけで涙が止まらないなんて、考えもしなかった。
子どもの頃から毎日のように、こんな日々を思い描いていた。
いつかまた、一緒に暮らせる日々を。
でも反面、再会した時にはなんて罵倒してやろうと、その言葉を何度も想像した。全部、忘れてしまった。
「おかあさん……っ」
両手で顔を覆って肩を震わせる母の横で、父が微笑む。
「月野、帰ってきなさい。何があっても、必ず。月野の家はここだからね」
父はきっと見抜いていた。
月野が謝罪など望んでいないことを、そして誰を想い、どう生きようとしているかを。
せっかく会えて……何より欲しかった言葉を聞けたからこそ、嘘をつくなんてできなかった。
親子の間を嘘で終わりたくない。
わたしは、帰ってこない。
だから返事をすることはできず、また一歩、歩き始めた。
久し振りの島原は、同じ京でもガラリと違う、やはり異質な場所だ。
それともそう感じるのは、月野が変わったからなのかもしれない。
通るだけで“あの月野天神だ”と振り返られたり歓声が上がったりしたものだったが、今の月野……長く伸びた前髪と包帯で顔を隠せば、誰も見向きしなかった。それでも憐れみの視線に包まれるより、無視される方が余程マシだ。
長い道のりに思えた吉更屋の前に立ち、入っていいものか迷ってしまう。
斬られたりしなければ、あのまま置屋を抜けて京からも抜け出して、二度と戻る気など無かったのだ。
あんなに良くしてくれた女将を、裏切った。
当然のように図々しく、訪れたら喜んでもらえると思っていたなんて、浅まし過ぎる。
月野は、やっぱり真っ直ぐ大坂へ行こうと、来た道を帰ろうとした。
後ろ数間先で、女将が見詰めていた。
「……あっ……」
「月、野!」
心配は全く見当外れだった。駆け足で、抱き締めに来てくれた。
「……よくっ……よく生きていたね!」
他人だということが不思議なくらい、本当の娘のように髪を背中を撫でて、月野の無事を確認した。
二人して、拭こうとしない涙が流れ放題でひどい顔だ。しかも女将は、月野の傷を可哀想にと言ってまた更に泣いてしまった。
その後、一部始終を隠さず打ち明けた。
置屋を抜け出した理由。実の両親に助けられて、暫く一緒に暮らしたこと。
これから、どこに行くのか。
そう、思い通りの生き方を辿れば、女将にも会えなくなるかもしれない。
女将もそれに気が付いたのかこの機会しかないと、月野の両親について話した。
江戸で医者をしていたがうまく行かず、その日の食べ物さえ儘ならない状態だった。医者も辞め、仕事も無いまま満足に育てられることのできない娘を、母方の親戚に預けた。
それが置屋の女将、母の姉……月野の伯母。血は繋がっていたということだ。
預けたと言っても置屋だから娘一人売った分の金は入るので、また医者を始めてお金を貯め、満足に暮らせるようになってから月野を買い戻そうとしていた。
それまでは、会いにいくのも我慢していたらしい。
でも月野の評判は聞いていたし、時折見掛けても声を掛けられなかったのだ。
全て知った月野は、もう以前の“両親の情を信じられない子ども”ではなくなった。
別れる時、もう一度謝った。
「勝手に抜け出したりして……本当にごめんなさい……!」
女将は、芯からケロリとしたような顔になった。
「なに言うてんの?」
月野の行く先を知ってはいるけれど、教えた。
「あんたのことは、土方さまが身抜けしてくれはったから。だぁれも、あんたが勝手に出て行ったなんて思ってへんよ」
……土方さま……!
月野は込み上げてくる感情を抑えきれず、両手で顔を覆った。
たくさん、ひどいことをしたわたしなのに……土方さまは……。
「あんな優しい人、他にはおらんねぇ」
その言葉を痛烈に身に染み込ませながら、何度も頷いた。
そして更にわたしは、違う男のひとのところに行くんだ。
土方さまには、どんなに謝っても許されない。
許されてはいけないことを、し続けていたのだから。
また一歩、総司さんの元に近付く。
その一歩を、何があっても止める気がないのだから。
わたしってどうしてこう……後先考えず行動してしまうんだろう。
大坂城の下に立って見上げて、どうしたらいいのか途方に暮れる。
「……月野さん……?」
振り返った目線の先は誰もいなく、月野よりもやや下の方で視線が合うと、少年がニコッと笑った。
「はじめまして! 俺……や、僕は弓継といいますっ。松本法眼がお待ちです。ご案内しますっ」
ハキハキと歯切れよく話す、白い着物にきちんと火斗された小豆色の袴を穿いた、十歳くらいの少年。
とても可愛い、と言える容姿だが、少し違和感がある。
髪を結っていないからだ。前に月野も会ったことのある有髪の坊主のように短い真っ黒な髪の毛が、動く度にサラサラ靡く。
「本当にお一人で来てしまうなんて、すごいですねっ! お疲れではありませんか?」
「ありがとうございます、大丈夫です」
城の中に入るなどもちろん初めてで、まだ置屋に預けられたばかりの子どもの頃、かつて帝や天上人の御前で舞を披露した太夫がいたという話を聞き、もしも自分が城に行くことがあるならば、それは太夫として舞う時だと夢を見ていた。
まさか将軍専属の医者に診てもらう為に城に、などと考えもしなかった。
「僕に敬語は使わないでくださいよ。あなたは先生の大切なお客様なんですから」
「あっ……は、はい」
なんとなく沖田に似ていると感じるのは、月野の気のせいだろうか?
子どもの時って、こんな感じだったのかなぁなどと思ってしまう。
「……弓継くん……は、松本先生の……」
「はいっ! 一番弟子ですっ」
「ほぉーお、そいつぁ初耳だな」
広々とした廊下の壁に背を付けて、腕を組んだ松本良順がニヤリという感じの微笑みで立っていた。
「待ち遠しくて迎えに来ちまったよ。こんだけだだっ広ぇのもメンドくせぇよな」
そして、
「ヒドイですよ、先生!」
と膨れる弓継の頭を、犬猫みたいにクシャクシャ撫でた。
「無事で何よりだ。相変わらず可愛いな、月野ちゃん」
まだまだ続く廊下を通りようやく診療部屋に着くと、中には父の所には無かった多分最先端の医療器具が並んでいて、早速診てもらった。
松本は終始、傷のことにも視力のことにも一切触れず、表情さえ変えないまま次々手を動かす。
「弓継のヤツには“この辺通る一番の美人連れてこい、それが月野ちゃんだから”って言い付けたんだぜ」
「ちょっ、先生! ヒミツって言ったのに!」
片眼に包帯をした女だと言えばわかりやすいのに、そうしなかったんだと思い、優しさが心に沁みる。
「よし、と。……ここからは“ヒミツ”の話だ。弓継、外せ」
すごい……お話ししている間にもう診断が終わったんだと、改めて松本の偉大さを感じた。
弓継が居ないと余計に部屋が広くて、日本一の地位と力を持つ医者なのだという緊張を急に思い出してしまう。
松本は
「落ち着いて、聞いてくれよ」
と前置きをした。
「左眼だが……情けねぇ話だが、今の医学では治せるもんじゃねぇ。傷も、完全には元に戻せねぇ」
月野は一つひとつ、
「はい」
と返事した。
「俺ぁハッキリ言う医者だ。片方の眼が見えねぇと、もう片方の視力に頼り過ぎるせいで消耗して、いずれ両眼とも見えなくなるだろう」
……この世から、光が消える日。
そんな日は自分が死ぬまで訪れないと、信じているのが普通だろう。
この眼を開いても、なんの光も映さない日が来るなんて。
ここぞという時しか使わなかった、大好きな模様の舞扇。
芸妓になって、初めて自分で買った髪飾り。
碁盤の隙間、夕焼けに色付く京の町。
全て、消えてしまう。
わたしと一緒に川に流されて、お母さんが乾かしてくれた……土方さまの、句集。
差し上げて以来、いつお会いしても付けていてくれた、総司さんの髪結い紐。
そして……もう姿さえ、見えなくなってしまう。
……怖い……。
でも不思議と涙は溢れない。これ以上の恐怖を知っているからだ。
わたしの人生の中で、誰よりもわたしを愛してくれたひとを裏切っている今の方が、余程辛い。
そして一番大事なひとがこの世に生きられなくなることを知った時の方が、余程辛かった。
「わかりました。……ありがとうございました」
月野は手を付いた。
片眼だと近付く畳との距離感が掴めず、よりゆっくりとした動作になった。
「もう一つ」
松本は月野の手を取り、顔を上げさせた。
「ここには、沖田は居ねぇ」
お会いできると思って、一人で来たのに。
見返りを求めていたわけではないけれど、やっぱり、諦められない。
それが叶わない事実に心を支配され、松本に、期待はおろか、想いまで見破られていたことに対する恥ずかしさには無意識だった。
「……どちらに……?」
はしたないと、思われてもいい。
お会いできるなら、どこへでも行きたい。
「新撰組は、江戸へ引き上げた。敗走だ。……ちょうどすれ違っちまったな」
新撰組が……敗けた?
芸妓だった時は、島原の噂話や土方に教えてもらったりで、世の中の動きには結構詳しいつもりでいた。けれど今……隔離されたかのような暮らしをしていた間は、そんなことは全然知らなかった。
これから……どうなってしまうんだろう。
お二人は、どんな気持ちだろう。
「先生、ご出発のお時間です」
障子の向こうからの畏まった様子で聞こえる弓継の声に、松本は無言で、返事をする代わりに立ち上がった。
「俺も江戸に行くんだ。“坊や”を診てやらなきゃならねぇ」
松本先生……わたしが来ると知って、待っていてくださったんだ。
「一緒に……来るよな?」
沖田も後から聞く話だが、月野が来る少し前、新撰組は一時大坂城に集まり、江戸へと立つ船に乗った。
その前のこと。
初めての負け戦から帰ってきた土方は、すぐに沖田の寝ている部屋を訪れた。
「あ、お帰りなさぁい……って、ええ!」
約束通りちゃんと迎えに来た土方の姿に沖田は身を起こして、ちょっと目でも擦りたくなった。
後頭部で束ねて平均より少し長く垂らしていた漆のような黒髪をバッサリ切り、羅紗地の仏式軍服を身に付けた土方が、心なしか気恥ずかしそうな表情で枕元に腰を下ろした。
「あはははは! ……っけほげほッ」
「てめ……っ噎せる程笑うか普通?」
噎せた訳じゃないことを実はわかっているらしく、沖田の背を擦った。
肌に触れると、暖かい手の平は一瞬ビクリと波打った。肉が痩せ落ちていることに、否応無しに気付かされたのだ。
「ッたく、相変わらず失礼なクソガキだな」
「だって……すっごい変!」
「ああ? 他の奴等は絶賛だったぜ?」
沖田はまだ笑いを止められないまま、いい加減に腹が痛くなってきた。
「お前だけだぜ、似合わねぇとか言うのは」
いいえ、似合ってますよ。だからおかしいんです。
西洋人向けに作られた筈の服がピタリと似合っていて、白い……確か“まふらー”と呼ばれているものを首に巻いて土方さん流お洒落までしているのだから、いろんな意味でさすがです。
「土方さんはぁ、美人さんだからなんでも似合いますよぉ」
「心が込もってねぇッつうの!」
本心だが照れくさくて、わざと棒読みで語尾を伸ばす沖田の頭をくしゃっと撫でた。
宗次郎という幼名を名乗っていた頃からの、土方の癖だ。この手に素直に愛情を感じられるようになったのは、最近のことだが。
「お前も意外と似合うかもなぁ。着てみるか?」
「イヤですよう恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
「だから着ないですって! ぅわ、脱がないでください!」
恥ずかしいなどと言わなければよかったのだ。
土方さんって……昔から僕が嫌がる顔を見て喜ぶ、イジメッコ気質なところがあるからなぁ……今だってかなりニヤリとしながら“上着”というらしいものの留め具、えっと“ぼたん”? を外している。
……かと思えば溜め息を吐いて、ドサッと上着を脱ぎ置いてから真面目な顔になった。
「周平の奴、どっか行っちまいやがった」
近藤の養子に抜擢されながら、剣技等なかなか上達しないまま長兄・谷三十郎が、噂によると斎藤一に、恐らく土方の指示で斬られ、養子縁組の解除をされていた谷昌武。戦いの最中、姿が見えなくなってしまったという。
「脱走……ですかねぇ……追いかけて斬りましょうか?」
沖田は自分の口からだと知っていても、まだあの少年に嫉妬をしていたのかと驚いてしまう。土方も同じ気持ちらしく正気かと目を見張るので、慌てて付け足した。
「戯れ言です。……怪我でもしてなきゃいいんですけど」
沖田はまだ“平常”だと、ホッとしたような顔の後、土方は瞑目して呟いた。
「源さんの近くの配置だったんだが……もう訊きたくても訊けねぇからなぁ」
井上源三郎さんの訃報はまず近藤に伝わり、涙を隠さない……最高の器の大きさを見せられながら沖田も聞いていた。
初めて天然理心流の荒稽古場に連れていってくれたのも、近藤に巡り会わせてくれたのも沖田から見て親戚筋に当たる井上だった。
人に教えるのも上手で、率直で剛健な、最も試衛館らしい剣の井上を思い出すと、叱りながらも後には笑顔を溢す温かい人柄が浮かぶ。
「山崎の奴も、鉄砲傷で苦しんでいる」
と、ここでまた、土方は更に顔を曇らせた。
「やっぱ……俺の指揮がマズかったか」
沖田は、一言目から気付いてしまった。
「……そうですねぇ……」
「新撰組は、かっちゃんを担いでこそだよなぁ」
「……そうですねぇ……」
「つか俺が、かっちゃんがいてくれねぇとダメだ」
「……そうですねぇ……」
「殴ってもいいか」
「三倍返しですぅ」
「襲うぞ」
「ぶっ飛ばしますよぉ」
大きな音を立て、土方“が”仰向けに寝っ転がった。
あの……一応ここ、病人の部屋なんですけど。
「あーあ……かわいくねぇなぁ、ソージは」
手を頭に回して、すっかり拗ねた。
「慰めの言葉を期待した俺が馬鹿だったぜ」
「ありゃ。土方さんは随分かわいらしいですねぇ」
珍しく、の秘密の言葉は言わないで置く。
「敗けたくないなら、二度と振り返らないでください。あなたは何があっても前を向いて、先生に付いていかなければならない。この世の全てを敵に回しても、あなたは先生の味方でなければならない。僕がしたくても叶わないことができるのだから、弱音を吐かないでください。少しでも気を緩めたら、僕があなたに取って代わります」
こんなこと言われなくても承知だろうことは沖田にはわかっているのに、止まらなかった。
土方がヒョイと軽々起き上がるので、
「生意気」
だと小突かれるのかと思ったが、
「そうだな」
フッと微笑まれると、涙が出そうだった。
八つ当たりなんかして、ごめんなさい。
本当は、あなたの心は僕が一番知っています。
あなたが先生を、新撰組を最後まで捨てないことは、僕が知っています。
ただ、あなたの苦しい心境を細切れでも打ち明けられてしまったのが、辛かった。
悩みを聞かせてくれるなんて江戸にいた頃からでも初めてで、やっと対等に扱ってくれたんだという印象を表面的には与えるかもしれないけれど、それは全然違う。
もう僕を、新撰組隊士として戦場に必要としていないことの現れだ。
同じ仲間と認めている相手に、土方さんは決して弱味を見せない。
怯えや不安……負の力が、隊内に蔓延することを恐れるからだ。
つまり僕は完全に蚊帳の外……関係なくなったということなんだ。
こんな解釈を伝えたら、きっと、そんなつもりはないと叱られてしまうと思う。
でも無意識だからこそ、真実だ。
「……総司」
「あ、土方さん」
「……ん?」
土方が部屋を出ようと背を向けてから、決心したように切羽詰まった声で呼ばれたのと、沖田がふと思い付いた疑問が偶然重なってしまうと、土方は片眉を上げる癖付きで聞き返した。
「なんで急に、西洋風になったんですかぁ?」
「遅ぇよ!」
かなりズッコケ気味の土方は呆れながらも、ちゃんと説明した。
沖田を傷付けないように、落ち込ませないように慎重に。
刀の戦が終わったことを、厭って程に思い知らされたから。
だから西洋式の調練に変え、服装を改めたのだと。
刀が、不要になったから。
なぜ気を遣うかというと、“沖田総司が不要になった”と錯覚させない為だ。
「いや単に……西洋人の服装(なり)見て、俺の方がイケると思ったってのもあるがな」
二人笑いながら話を終えた。
どちらにしろ、帰陣する道すがら着替えるなんて、以前松本に誉められた通りにつくづく即実行の人だなぁと感心した。
そして後から思えばあの時振り返った土方は、月野のことを、話そうとしたのかもしれない。
沖田はまだ、月野が怪我をしたことも、なにも知らなかった。
土方も、月野が生きていることを知らなかったのだ。
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