沖田氏縁者異聞

春羅

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第三章

第八話

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 天下の名医と自他共に認める松本良順が新撰組屯所の門番の横をヒョイと抜けて大声を上げると、部屋で大人しく寝てる筈の沖田は道場から走り出てきた。

「おーい、沖田ぁ! 来たぞぉ!」

「はぁーい!」

「馬鹿! テメェ、その躰で棒振り回してやがったのか!」

 頭ごなしに怒鳴り付けると、沖田は耳に手を遣りながらギュッと皺が寄る程に眼を瞑って見せ、反省していると装うように頭を掻いた。こんな仕草をして元気そうに見せていても、会う度毎に肉付きが薄くなっていく。医者でなくてもわかる程だ。

「だって、鈍っちゃいますよぉ」

 躰じゃなく、剣の腕を言っているのだろう。

 沖田を実の弟並以上に猫っ可愛がりする近藤から、ガキの頃からずっと剣の稽古をしてきたと、松本は聞いていた。彼にとっては剣術好きの気など分からないが、少しでも木刀を手にしない間は不安なのかもしれないとは思う。

「鈍らしときゃいいんだ。そんなんじゃ治るもんも治んねぇだろうが」

 すると沖田は不服そうに口の先を尖らせながら、松本が診察に来たのだと知っている為、自分の部屋に通した。


 診察を終えた松本が、手早く器具を仕舞いながら言う。

「いいか、酒と女は控えろよ」

 沖田の部屋は、病人の癖にいつ来ても布団が片付けてあるので、しっかり寝んでいるのか疑わしいもんだと、松本は苦々しく思う。

「生憎、どちらにも縁が無いんですよねぇ」

「モテねぇか?」

 酒についても近藤から、沖田はどれだけ呑んでも潰れているのを見たことがないというくらい強いが、自分からは好んで呑まないと聞いていた。

 だが女については意外に思いながらも、半笑いでからかった。

「そうですねぇ……ヒラメ顔ですし?」

 他人事のようにカラッと笑う。

 松本は前から不思議な雰囲気の、というよりこちらが心配になってしまうくらい無邪気な奴だと思ってはいたが、人間のあらゆる“欲”というものを、忘れて生まれてきたようだとまで感じた。

 この、笑ってると余計に子どものような顔に似合わない“女の話”をしていると、ふとあの夜を思い出した。

「そういやお前……月野天神っつう芸妓、知ってるか?」

 一瞬、確かに眼の色が変わった。

 沖田は然り気無く、庭の木で羽を休める鳥に顔を向ける。

「……さぁ……知りませんよ?」

「いや、あっちはお前の事を知った風だったぜ」

 沖田は眼を合わせないままにツラッと言う。

「ええ? 僕は知りませんけど」

 やはり沖田、知ってやがるな。ひょっとしてコイツ、この俺にシラァ切るつもりか?

 松本の意地悪心を刺激するには十分だった。

「へえぇえ、そうかい。……しっかしアレだな。名高い月野天神には期待して揚がったが、大して器量は良くねぇし舞もイマイチ……正直ガッカリだったぜ」

「それ、人違いですよ! あんなにカワ……」

 見るからに腹を立てた顔で言い、あっと口を噤んだ。

 熱でも上がったかと医者目線で懸念するくらい顔面中真っ赤にして、引っ掛けたな? という表情で上目に睨む沖田に、大人気なさ全開の松本はニヤリと笑う。

「俺を謀ろうなんざ五十年早ぇ」

などと勝ち誇った後に続ける。

「お前の病を聞くと月野天神はえらく動揺してな……土方、あのコを怒鳴ってたぜ」

「……土方さんッどうして?」

 沖田は誰もいないが如く、すぐに立ち上がる。

「あっすみませんっ……あの、失礼してもいいですか?」

 まさか、土方と沖田は……俺の直感通りだってか?

 やはり勘のよい松本は、おうと片手を挙げた。


 永倉、斎藤、原田に、松本が頻繁に沖田を訪ねてくる理由を訊かれた、いや、確かめられた土方は、どうせ感付いているのだからと、加えて、伝染病を蔑んだり無闇に怖がったりする者達ではないからと、その病の名を打ち明けた。

「労咳……ッ? なんで、総司なんだよ!」

「あんな、子どもみてぇに明るい、剣の天才が……」

 原田が心底悔しそうに吐き出した後に永倉がしんみりと呟き、斎藤は“らしくない”言葉を使った。

「天才、だからだろう。仏に愛されて、人より早く呼ばれたんだ」

 顔色を窺うと、正気だ。

 空かさず永倉は、決して面白がっているわけではないが冷やかす。

「斎藤は長生きしそうだよなぁ。“憎まれっ子世に憚る”で」

「あんたに言われたくないな」

 話を刷り替えなければ、やりきれなかったのだ。

「土方さんっ!」

 “噂をすれば”切羽詰まった顔の沖田が走ってきた。

 ちったぁ病人らしくおとなしくしとけよ。

 少しでも走らせたくない、意外と過保護といえる土方は、自分から早足で近付いた。

「お前なぁ……松本法眼を放っといて来たのか?」

 後で俺が文句言われんだぞと苦々しい顔の土方以上に、沖田は怒っているように見えなくもない切な気な表情だ。

「……どうした?」

 沖田が後ろの永倉達を気にしたようで黙っている為、土方は部屋に連れ込んだ。


 二人きりになると尚更黙り込む沖田の用件を、容態について松本に何か言われたか、と予想していた。

「躰の具合は、どうなんだ?」

 向かい合わず、何気無く聞いていると装う為に、土方は文机に躯を向かわせながら訊いた。

「……僕の心配なんて……してる場合じゃないでしょう?」

 心配しかできねぇんだ……それぐらいさせやがれ。

 言う余裕も与えず、沖田は目を合わせないままの土方を見据える。

「僕なんかに、遠慮しないでください」

「……遠慮?」

 むしろ、甘えてしまっている自覚すらあったのだ。

 どっしりと構えて貫禄と包容力のある局長・近藤に、冷酷だと恐れられる副長・土方、そして奔放な明るさの一番隊隊長で、隊内の飴と鞭は完璧だ。

 沖田がいなければ、土方が自信満々で築き上げた、この国で初の機能的武装集団は成り立たない。

 今でさえ病を押して隊務に出ると聞かないのに、もっと自分を頼れと言いたいのかという土方の考えは外れた。

「月野さんと、仲直りしてください」

 その口から出てくるには意外過ぎる話題に、やっと顔だけを合わせた。

 仲直りって……ガキか! と、突っ込んで誤魔化してしまおうと思いはしたが、剰りに真剣な眼差しに飲み込んだ。

「喧嘩なんかしてねぇよ」

「じゃあ怒鳴ったりしないでくださいよ!」

 誰から聞いたかと思えば、あのエロッパゲかよ、とは後から気付いたことで、この時はただ、男の顔をする沖田に驚かされた。

「……なんで……僕のせいで喧嘩なんか……きっと、寂しい思いをしています」

「んなに気にするなら、お前が慰めに行きゃあいいだろ」

 舌を打ちながら横目で睨み付けると、沖田は深々と眉間に皺を寄せる。

 子どもの頃から変わらなかった筈の“膨れっ面”の面影は消えていた。

「そんなこと、心にも無い癖に」

 重く響くのは、

「……お前もな」

土方の拳が文机を叩いた音だ。

「……僕はもう、月野さんにお会いする気はありません」

「遠慮してんのはお前の方だろうが」

 他人の感情に敏感で絶対に相手を怒らせず、相手が不機嫌そうならうまく立ち回って知らぬ間に機嫌をとるのが、下心では無く、癖のようになっていた沖田。だがこの時は土方の苛立ちっぷりを放って静かに立ち上がった。

「僕は屯所を……出なければならないのでしょう?」

 土方に、返す言葉はない。

 俺だってお前を、ずっと傍から離したくねぇよ。

「遠慮なんてしていません。早く仲直りしてください」

 最期はかっちゃんの足元で迎えても構わないと、幼少から本気で思ってきたのは十分知ってる。

 でも、これ以上隊務を続けさせるなんて、できるかよ。

 病に蝕まれた躰で歯を食い縛って刀を振るい、苦しみながらなんて死なせたくねぇんだよ。

 そして……月野を俺が奪って独りになった総司も、俺の元に居ながら総司を想い続ける月野も、見たくねぇ。

 そんな姿を見る勇気が、俺には無い。


 ぼんやりと、空気を舞いちらつく自分の手に連なる、二つの雲が朧月に棚引く扇を眺める。

 こんなもの……わたしなんかの舞を綺麗と言ってくれる人がいるのは、今では不思議にしか思えない。

 四角い窓から映るのは、透き通る夜空。

 どこまでも続いているとしても、わたしの声が届かないならば少しも意味なんて無い。

 ヒトはそこに浮かぶ月を見上げて祈りを唱えるけれど、あの人がいなくならなければならないこの憂き世に、神なんて、いない。

「むっちゃ、かわええやんかぁ! 月野ちゃん!」

「……おおきに」

「うわっ若旦那、鼻の下ぁ伸ばしっ放しやで」

 もう二度と土方さまには、総司さんにも、逢うことは許されない。

 わたしは誰よりも強欲だから、何もかもついにこの躰をすり抜けて欠片も残されていない……まるで屍みたいだ。

 最近変わったと女将が、先輩芸妓が無言のまま心配しているのを月野は肌で感じていた。

 誰も当然、原因は一つ……土方が来なくなったからだと思っている。

 多くの宴会に呼ばれはしたが、その度の客のどんな言葉にも心は動かされなかった。

「いやぁ、俺、惚れてもうたわー!」

 初めて京に来たと言う、堺の大商家の跡取り息子を持て成す総揚げの宴会に、当然月野も呼ばれ、舞だけ終えて帰る予定だったが、ニコニコと屈託の無い笑顔につい長居をしていた。

「おおきに」

「さっきッから、ソレばっかりやんなぁ」

 ドキリと、月野は焦った。

 天神にもなって巧くお客さまをあしらえない自分に、ではなく、他の客と芸妓まで、知らない間に部屋から居なくなっていたからだ。

「俺は、マジで言うてんのに」

 ボーッとして、仕事に全然集中できていなかった罰だと、青褪めた頬を無理に綻ばせる。

 近頃は生きて暮らしている実感さえなくて、常に夢の中をさ迷い漂っているようだった。

「旦那はんは、お上手ですわぁ」

 思えばずっと土方に守られてきたから、こんな時の切り抜け方すらもわからない。

「オベンチャラで言うたんやないわ! しっかし水臭いなぁ、沙葉でええって」

 優しい男らしい。月野の逃げ出したい気持ち……真剣な眼差しをはぐらかそうとしたのを察して、わざと冗談口調に戻したのだ。

「……さよ?」

「やっぱしずっと上の空やったんかい! 俺の名前や! さっき、女みたいな名前やろって話しとったのに」

 明るく人懐こい、月野と同い年程の男。

 天神の位に甘んじているのは勿体無い、太夫になるべきだ、と言い放った。才能を持って生まれたからには、とことん上を目指すべきだと。

 ずっと目標にしてきた太夫の地位にはもう情熱を持てなかったが、この男……日向ひなた沙葉との出会いは、月野の運命を大きく変えた。

 郭からの帰り道、沙葉は、父親が絶対の信頼を置く部下の倅で幼馴染みの男に、ニヤニヤせっつかれた。

「若、どないでした? 天神の味は?」

「……“怖くて死にそう”っちゅう顔されたわ」

 その顔が、今も焼き付いて離れない。

「あははは! 珍しい! フラれたんや」

 その上、遠慮無しに凹まされる。

「しかしそれは意外やな。月野いうたら……壬生狼のオンナやったんですよね? たかが商人やってナメられたんやないですか?」

「そんな女ちゃうわ!」

 全員を焦らせるくらい苛ついたが、何でこんなにも腹が立つのかわからない。

 月野を貶されたからか、不意に恋人だったという壬生狼……新撰組副長・土方歳三の名を出され、否応なしに心に根付いた嫉妬か。

 宿に着いてから、兄弟の沙菜にだけ呟いた。

「ヤバいわ。俺……本気かもしれん」

 兄弟といっても、年齢は同じ。母親が違う。

 沙菜は妾の子で、既にその母親は正妻であり女将・沙葉の母親に苛め抜かれて、折り合えないまま他界した。見た目は父そっくりで瓜二つなのに性格は正反対の沙菜は、跡取り……つまり沙葉の補佐役に回っている。

「……沙葉の気ぃ、当てたるわ。“太夫や天神や言うて粋がっても所詮は据え膳やろが。とっとと食わせろや”?」

「んな極端なこと思ってへんわ!」

 “極端なこと”やなんて……ちょっとは思っとるいうことか、俺。

 同い年とは思えないくらいしっかりと大人びている弟は、冷静に眉一つ動かさないままそっくりの低い声を出す。

 沙菜はこうして、時々わざと怒らせるようなことを言う。意地悪ではなく、うまく導こうとしているのだから癪にも思える。

「のめり込んだらアカン。奥さんに、女将さんと同じ思いさせたいんか」

 沙葉にはとうに婚約者がいた。両親と同じ、お互い顔もろくに知らない、家同士の結び付きの為の結婚だ。

 “月野天神に、俺の母親と同じ思いさせたいんか”と、言ったようにも聞こえる。

 沙菜は三月程前に生まれたから、それが余計に正妻の気に障った。お構い無しに双子以上に仲良くなったが、陰で煩く言う者は大勢いた。

 ――……

「ガキん頃はようても、大きゅうなったらエラいことやで」

「血で血を洗う家督争いや」

 ――……

 生憎、十分育って二十歳になった今でも二人は変わらなかった。

 ただし沙葉は何でも自由にやった。沙菜の方が、我慢してくれているとはわかっていた。

 ――……

「仲の冷めきった正妻の息子と、大恋愛の末結ばれた妾の息子や……どっちが幸せなんやろ」

 ――……

 子どもの頃に聞いた言葉が頭に浮かぶのを、振り払う。

「沙菜……」

 諦められそうにないんやけど。

 口に出さなくても、沙菜は表情だけで心中を察知する。

「好きにしい。もう止めへんし」

 やっぱり、我慢してくれるんやな。

 また許してくれる言葉が、本音では無いと知りながら甘えてしまう。これが、最後だからと謝りながら。


 慶応三年十二月九日、王政復古の大号令により旧幕制度は廃止。

 元見廻組・新遊撃隊の配下として奪われそうになった新撰組の名を、彼らは守った。

 “新遊撃隊御雇”……つか見廻組の格下なんざ冗談じゃ無ぇ、と。

 既に“前将軍”となった徳川慶喜公は討幕派との激突を避ける為、幕臣、会津藩、桑名藩、そして新撰組と大坂に下った。

 ついに京を離れるその日でさえ、土方も沖田も、月野に会いに行くことは無かった。どれだけの想いで惚れていても、別れは呆気ないものだと、土方は無理に納得した。

 その後新撰組は伏見に布陣する。

 十八日、新撰組局長・近藤勇は、島田魁達数名の護衛を連れ、黒谷の会津本陣・金戒光明寺に残留した会津藩士との会談に出掛けた。

 この日起きた事件が近藤の生き方を狂わせるとは、誰も予測していなかった。


 篠原泰之進は、大袈裟に舌打ちを響かせた。

「沖田め……! 既に伏見か」

「悪運の強い」

 数人の御陵衛士“残党”は、沖田が近藤の妾宅に潜伏中との奇報を聞き、襲った。

 病床だろうが死病だろうが、同情する気など彼らにある筈も無い。 

 いくら天才剣士と持て囃されようが、過去の栄光に過ぎない。今ではただの、新撰組の精神的足枷ではないか。

 近藤や土方を苦しめるには、これ以上無い格好の標的である。

 しかし元々居なかったか誤報を掴まされたのか、そこは藻抜けの殻。

 このまま帰られるか。

 彼らは伏見への帰途に着く近藤を狙い、伏見街道墨染を見下ろせる崖に潜んだ。

 まるで犬死にの伊東、無惨に油小路に斬り散らかされた仲間の無念は、必ず晴らして見せる。墓前に首を供えるのだ、と。

「来た!」

 近藤は悪く言えば相変わらずの大名気取り、悠々の馬上だ。厳つい顔を和やかに緩ませているのが一層、彼らの憎悪を煽った。

 かつて砲術師範の役職にあった阿部十郎が、小銃を構える。

 クソッ! 右肩か!

 止めを刺す為に槍を手に街道へ降りるが、銃声を聞くや否やの時点で島田が馬の尻を叩き、近藤は振り落とされまいと馬の首にしがみ付いて、文字通り正に姿を消した。

 いずれ必ず仕留めてやる、と根深い怨恨を残して。


「局長!」

 門番の驚声が隊士達を走らせた。

 土方が駆け付けた時には近藤は馬の足元、その姿は血に塗れていた。

 狙撃され、屯所に着いてやっと力を抜いたのだ。道中で落馬していれば、また狙われただろう。

 かっちゃん……!

 土方が息を吸う間に後ろから声が聞こえ、飲み下した。

「先生!」

 風の迅さで、沖田が横を追い抜いた。

「先生! 先生!」

 気が狂ったのかと、思う程。

 まるで母親を喪い泣き叫ぶ幼子のように、沖田は取り乱す。一心に近藤に縋り付き、その名を呼んだ。

「沖田隊長、落ち着いてください!」

「大丈夫です! 医師をお呼びしました。すぐに来てくださいます!」

 我を忘れかけた土方も、沖田の尋常ではない様子から逆に冷静に島田の報告を受けた。

「副長、私がいながら……申し訳ありません。高台寺党にやられました」

「新八!」

 呼び声だけで永倉は直ぐに隊伍を整えた。

 追撃するのだ。

「一番隊、二番隊出動!」

 沖田が隊務を離れてから、一番隊の隊長も兼任していた。

「僕も行きます」

 ついさっきまで、この世の終わりのような顔をしていた沖田がユラリと立ち上がった。

「駄目だ。俺に任せろ」

 永倉が一言答えた後、土方の目配せした平隊士達が沖田の前に立ちはだかり、取り押さえた。

「沖田先生、失礼します」

「お身体に障ります。部屋にお戻り下さい」

 数人係りで説き伏せられるものと、普段の優しい様子から誰もが思っただろう。

 しかし沖田は、別人のように厳しいと言われている稽古中でさえ見せたことの無い乱暴さで、掴まれた腕を振り払った。

「どけ! 俺が斬るんだ!」

 剥き出しの殺意を滾らせた、獣。

 命じられた隊務以外で刀を握ろうとする、人間を殺そうとするのは初めてだ。

 その形相に平隊士が怯んだ時。

「総司!」

 近藤の渾身の一喝が、大地まで揺るがせた。

 沖田はピタリと大人しくなり、また即座に近藤の傍らに付いた。

「……ごめんなさいっ」

「あや、まるな……」

 何を詫びたのかは、この二人同士にしか伝わらなかった。

 近藤は沖田の頬をそっと撫でると気丈にも立ち上がり、沖田一人だけの手を借りながら、歩いて自室に入った。

 右肩を致命傷ギリギリに撃ち抜かれ、常人なら気絶するところを馬で帰還し自分の足で歩いたなどと聞き、身の震える怯えを隠すかのように医師は頻りに感心していた。

 永倉達は墨染付近を隈無く探索したが、討手は既に跡形もなく消えていた。近藤が治療に専念する間、新撰組の指揮権は土方に預けられた。


 この、常に付き纏う苛立ちはなんや。

 しつこく袖を引く妓の白粉臭い肌か猫撫で声か、粘り着くような媚びた目線か、それとも幸せに能天気な……でも本心で好きだと言える弟・沙葉か……、いや……。

 白く薄暗い中、沙菜は一人、島原の大門を潜った。

「おおきに」

 指を付いて沙菜の待つ部屋に入ってきた月野は、顔を上げるとあからさまにホッとした。

「日向屋のモンや」

とだけ告げられていたから、沙葉だと思ったのだ。

 宴会の夜、自分に全く興味を示さなかった男の方で安心するという程に、心には強く深く、他の人が刻まれている。

 こないに正直に表情コロコロ変える女が、よう天神なんて務まっとるな。

 ……ああ、苛々する、と沙菜は最早癖のように眉間を寄せる。

「……沙葉さまの、お兄さま?」

 “沙葉の兄貴”やない。

 あかん……やっぱこの女、好かん。
 

 兄だなどと沙葉に聞いたのか、と仏頂面を貫きながら

「沙菜や」

 何で兄の方が来ているのだろうと疑問に思っている癖にフワリとした笑顔を見せる月野に、得意の無愛想さを見せる。

「沙菜さま、うち、お客さまに呼ばれるの初めて。おおきに」

 どういう気ぃで殺し文句使てんのや。沙葉やったら、まんまと喜ぶんやろうな。

 捻くれていると自覚する沙菜は、こう解釈する。

 土方歳三は“客”やと思ってへんのやて言いたいんか。

 そうや、いくら人形……作りもんみたいな風貌でも、鬼や言われとる男を手玉に取った女……気の無い男を切る手順は朝飯前てところか。

 苛々する……とっとと本題話して帰らしてもらうわ。

 まだ酒の一杯も飲まない内に、月野をつい見詰めた。沙葉のこと真剣に考えてやってくれと、頼みに来たのだったと思い起こして。

「あいつ、あんたの副長はんに比べたら青臭いガキかもしれんけど、中身はお日さんみたいな奴なんや」

 奇妙なでっかい目やな。

 きょとんとする月野に、息継ぎだけして続けた。

「あんたに惚れとる」

 言葉にした途端に苛々が消え、違和感に包まれた。

 沙菜には全く、意味がわからない。

 月野は黙ったまま、ゆっくりとした動作で盃を持たせた。

「……それ、言わはる為に? 弟さん想いのお兄さんどすねぇ」

 “兄貴”やない。

 ……苛々すんのは、この女のせいやったんか。

「俺は、あんたが嫌いや」

 酒を注ぐ、白い手が止まった。傷付いた顔に、胸がスッとするくらいに。

「あんた見てるとムカつくわ」

 ほとんど初対面の男に言われ、沙菜の想像通り素直な気質の月野は涙ぐんだ。

 なんぼでも言い返せばええやろ。

「……うち、なんか悪いことでも……」

 震えるか細い声を漏らす月野から、無理矢理目を逸らす。どんな誘われ方よりも、そそられた……とは気付かない振りをした。

 芸妓の匂いを全く感じさせない様子に、さっきの“殺し文句”なんて大した意味無うて、ただ思ったことをそのまま口にしただけなんやないか? と思えてくる。

「自分の、母親見てるみたいや」

 不思議そうに顔を上げる、月野の頬を涙が伝った。

 沙葉は、腹違いだとは言っていない。

「商売女なんて大嫌いや」

 言葉は次々溢れて止められなかった。

「綺麗で可愛くて優しくて……ほんで、男に頼らな生きて行けへん。……俺の母親なんて……一人の男を信じて付いていったのに、結局よう守ってもらえんで、幸せな時間を味わえへんまま死んだ。……俺は生涯、女を決める気ぃはない。一人の女に対する愛情が死ぬまで保てるとはどうしても信じられへんし、その度に女が悲しむんやから」

 ……って、なんで会って間もない女にベラベラ話しとんのや。

 普通、少しでもこないなこと言うと、芸妓に対する偏見やとか父親とは変わらず愛し合っとった筈やとか、自分の人生を決め付けるやなんてとか……どっかで

「間違うてる」

って否定されるやろうに、この女が俺が全部吐き出すまで黙って聞いとるせいや、などと言い訳しつつ顔がカッと熱くなるのを感じ、謝ろうとした。

「わたしも……同じことを思っていました」

 この女といると、周りの景色も音も、どうでもよくなる。島原は何処もかしこも宴会だらけで賑やかやろうに、耳に入ってくるのはこの女の息遣いと柔らかい声だけや。 

 物を考える時の癖、月野は視線を自分の膝に合わせた爪に下ろす。

 どこが同じかと訊く間も無く続けた。

「きっともう二度と、他の男の人を愛しません」

 それが、返事だった。

「伝えとくわ」

 なんでや……立ち上がると、足元から奈落に落ちていくみたいや。

 地を踏む心地の無いまま廊下に出る後ろから、名を呼ばれた。

「沙菜さま……それでもお母さまは、幸せやったと思いますよ」

 振り向けないのには、理由があった。

 急に泪が溢れて、真正面を向いたまま雫は床板の木目に染み込んだ。長年、誰に言われてもどうしても信じられなかった言葉が、胸の中にも。

 救われた。

 闇に浮かぶぼんぼりが、ジワリと歪む。

 外に出るとやけに騒がしく、月野が何か呟いた気がしたが、グシャグシャの顔では聞き返すこともできなかった。

「もう望みませんから……あの人の命だけは奪わないでください」

 結局、月野の答えを沙葉に告げることはできなかった。時間が経てば諦めるだろうと、見縊っていたのだ。


 この誰よりも温かい人がどれ程悩んで決心して、僕が我慢できずに本心を言えば、どれ程苦しむだろうと考えないわけは無い。

 むしろ迷惑をかけたくないという考えはいつでも頭の中にあって、それが僕の人生の最低条件だった。

 だからこれは、僕の甘えなんだ。

 人に疎まれるのを怖がることを忘れては、僕はおしまいだ。

 わかっているのに。

「……イヤです」

 近藤は狙撃されてから二日後、応急処置では到底間に合わない傷を負ったのは明らかな為、大坂町奉行の役宅で、徳川慶喜自らが派遣するという侍医・新撰組、特に沖田にとってお馴染みの松本良順の治療を受けることになった。

 土方はこの機に沖田も下坂させ、本格的に療養させるともう決めていた。

「駄々ぁ捏ねんじゃねぇよ」

 先程まで沖田が寝ていた部屋に来た土方は徹底して悪役を演じる為、バレバレにわざとらしく舌打ちをした。

 沖田が寝床を片付けたり着替えるのを今日は待たず、蒲団から出ようとするのさえ

「そのままでいろ」

と止めた。

 夕焼けの橙背景に佇む土方の顔は暗く、それからずっと胡座をかいて首を垂れているから、どんな表情かよく見えなかった。これも、わざとであろう。

「先生がいないからこそ、僕が刀を持つ意味があるんです」

 これから新撰組の真の戦いが始まるという時に先生をお助けできないなんて……僕のこれまでの鍛練は何の役にも立たないじゃないか。全て水の泡だ。

 本当に、この躰が憎らしい。

 醜く病んだこの肺腑だけ、切り取って棄ててしまえればいいのに。

「もう一度言わせたいか? ……足手纏いだ」

 互いに忘れる筈の無い、二度目の言葉。沖田が聞き分けの良くなる言葉を敢えて使っている。

 立ち直れないかもしれない程落ち込むと承知で、そして土方自身もかなりの心痛だろうにハッキリと言う程、病は重い。これも互いに、痛感している。しかし沖田は。

 この人の心は判っているつもりなのに、僕は“生きる”ことをやめられない。

「……僕、この戦いで死んでもいいんです。ただ無駄に弱っていくなんて、ごめんですよ」

 やっと、顔が見えた。沖田の方に向けた、バラガキの頃よりずっと、一番恐い顔。

「俺はお前を死なせるなんて御免だな」

「イッ……」

 一言呟くと、片手で沖田の頬を抓った。元気だった時なら、力一杯殴ったかもしれない。

「死ぬなんて簡単に吐くんじゃねぇ。お前の母親が命懸けで産んでくれたんだろうが」   

 会ったこともないから、ピンとこないですけど。

 沖田は母親のことになると極端に胸が渇く。

 ペイッと、どこか愛情を込めて手を離して、土方はまた顔を逸らした。

「泣く女がいるんだから、生きろよ」

 泣きそうな声なのは、あなたでしょう?

 でもあなたの言う“生きる”は僕にとって、死んでいるのと同じなんだ。

「オメェは“療養”じゃねぇよ。局長の護衛だ」

 それならいいだろう、と都合よく投げ掛けられたようで、沖田は膝の上の蒲団をギュッと握り締めた。

「だって……っ僕のことはもう、迎えに来てくれないんでしょう?」

 語尾に力が押し込められる。

 先生は傷が癒えれば復帰されるだろうけど、僕はあの時……試衛館に内弟子に出された時みたいに邪魔にされて、そのまま独りになるんだ。

 今度は、父上のような先生もいない。

「やだっ! 置いていかないで!」

 ずっと隠してきた本心を言ったのは、初めてだ。子どもの時、声にもならなかった言葉。

「んなわけねぇだろう。治して必ず戻ってこい」

 単純に信じたわけではないが、沖田は近藤と共に新撰組を離れた。

 どんなに格好が悪くても最期まで足掻けないならば、池田屋で血を吐いた夜、死んでいればよかったんだ。


 気に入られようとか言うことを聞かせようとか、下心で考えたわけやなかった。

 ただ、その姿は綺麗やろうと思ったんや。

 日向沙葉は、父の言いなりになることに精一杯言い訳をした。

「天神を、請け出したいんやけど」

 父に、妻のいる分際でなどと言わせない、と意気込んで一応相談したのが間違いだった。

「たかが天神か? どうせやったら太夫に揚げてから身請けせえ。お前は日向屋の跡取りなんやからな」

 天神のままなら許さないということだ。

 この親父の頭には見栄しか無いんか。

 沙葉は見ようによっては哀れにも、子どもの頃から思っていた。

 親父みたいな男には絶対にならん。

 自分の耳に鳴り響く警鐘を、沙菜の言葉でやっと受け入れた。

「結局、やっとることは父親と同じやないか」

 沙菜は初めて、腹違いの弟を心底嫌そうに見た。

 いくら本気で好きだとかキレイ事を並べても、結局世間から見たらただの“お妾さん”だ。沙葉が月野にすることを
一番我慢できないのは、同じ目に遭った母を持つ沙菜だと、確信すらあった。他にも理由があることまでは知らないにしても。

 それでも、諦められへん。沙菜と二度と、笑えんようになっても。


 太夫とは、容姿・芸事で群を抜いていることだけでは足らず、披露の時の莫大な資金を提供する後見人がいなければ手に入らない芸妓最高の位だ。

 月野は長年の夢などすっかり忘れていたので、喜びと言うよりも驚きの気持ちしかなかった。

「わたしが……太夫に……?」

 置屋の女将は満面の笑みだった。

 産みの母や医者だったと聞く父の記憶は殆んど無く、話を聞くのを嫌がるから生きているのか死んでいるのかもわからないし、興味さえ無かった。

 貧困のあまりに売られてきた九歳の少女を実の娘同然に育てた女将を、月野も本当の母だと思ってきた。

 上達を喜んでくれるから人一倍稽古を積み、恩返しをしたくて芸妓になった。太夫というかつては憧れていた地位に就けば、これ以上の恩返しはないだろう。

「日向屋沙葉はんが、是非にと言うてくれたんよ」

 でも月野だって子どもではない。

 小娘の想像にも及ばない程の大金を用意する男に、

「おおきに」

の一言で済むなんて、バカな話がありえないことはわかっている。

 沙葉を嫌いなわけでは、決して無い。しかし。

 こんなことになるなら、芹沢さまが暗殺されたあの夜、刺客の顔をした総司さんに斬られていればよかった。

 いいえ、いっそ……初めて逢ったあの日、本当に置屋から逃げ出していればよかった。

 そうしたら、あのひとを苦しませることもなかったのに。

「太夫になるんやから、名前は変えなあかんねぇ」

「……ううん、わたしは月野でええの」

 土方さまに付けてもらった……本当は当ててもらったこの名前は変えないまま、わたしは。

 長年の恩を無視し、置屋・吉更屋から出て行く。

 鮮やかな重い錦を脱いで、道連れは、肌身離さなかった句集だけ。

 何度も走って向かった先に、もう誰も居ないことは知っていた。

 この見慣れた町にも、もうお別れ。
 
 初めて沖田を想いながら島原に帰った道。

 何度も会えた……一緒に歩いた道。

 土方が毎夜のようにかよった道。

 芹沢暗殺の夜、嘘を謝りたくて必死に向かった道……そして刀の光を浴びて、沖田の剣鬼を見せられ、必死に逃げた道。

 池田屋から凱旋する二人を人垣から爪先を伸ばして見つめ、怪我などしていないかハラハラ心配した道。

 誰にも内緒で、会いに行った道。

 山南を追う馬上の沖田を呼び止めた……明里の涙に続いて走った道。

 最後は夜の闇に紛れて行く宛の無い……月も照らさぬ躓きながらの道。

 この先どうなろうと、他の男に抱かれるよりずっと耐えられる。


 大雨の後で濁流になった、普段と別物のような川の上、大きな橋ですれ違った男に呼び止められた。

「“月野天神”どちらに行かれる」

 凄まじい轟音が耳の聞こえを邪魔する中のくぐもった低い声に、もう追っ手がついたんだとヒヤリとした。

 しかし振り返ると、全く見覚えのない人影。ガッシリと背が高い、厳しい顔の男。

「……天神? ……人違いです」

 嘘を吐いてでも逃げ切る。けれどその決心は全くの無駄だった。

「土方歳三のオンナだろう? 見間違える筈がない」

 新撰組隊士のかたか、それとも倒幕派のかたかもしれない……。

 その名を出され、少しばかりに油断したのも確かだ。

「……あなたは?」

 土方歳三さまなんて、知りません、と言ってしまうことは、思い付きもしなかった。

「篠原泰之進」

「……っ!」 


 名乗りの末尾を聞くより早く、橋の手摺を背に追い込まれた。

 逃がすまいと篠原が掴んだ手摺は老朽化した上に雨にも打たれていて、メキメキと悲鳴を上げる。寄り掛かれば折れる。

 月野は後退りもできずに硬直した。

「流石に詳しいと見える。そうだ……壬生狼に壊滅させられた御陵衛士の生き残りだ」

 土方は月野に、仕事の話をしなかった。月野がわからないような難しい時勢の中、新撰組副長という立場の重責をひとときでも忘れてくれるのが嬉しくもあったから訊かなかったのもあるが。

 ただ島原の広い情報網による噂で聞いて、その名も経緯も知っている。

「仲間も希望も……何もかもを奴等に奪われた」

 憎悪に歪んだ顔から視線を逸らせない。

「同じ目に遭わせなければ、息が詰まって死にそうだ」

 人気の無い静寂の中、鞘が鳴った。手摺から外れた手で大刀を抜き、首元に近付ける。

 呼吸が止まり、瞬きもできず鳥肌が立つ。指先足先から血の気が引いていった。

「沖田総司の居場所ぐらい知っているのだろう? 話せば命は奪わない」

 ギュッと瞑っていた眼を開いた。

 総司さんをどうする気ですか?

 尋ねるまでもない。

「知りません」

 本当に、知らなかった。

 篠原の口振りから、伏見へ行った新撰組から離れて、多分どこかで療養しているのだと逆に気付かされたくらいだ。あの夜、土方との最後の座敷で聞いた通り、松本良順の所に居るのかもしれない、とまで。

 どんなに、お辛いだろう。

「隠しだてすると得にならぬぞ。こちらとてたかが芸妓一人斬るのになんの躊躇も無いが、あの“死に損ない”を斬る方が奴等の士気への打撃は大きい」

 怒りの感情でも、涙は出るのだと知った。

 総司さんの命を奪わせたりしない。

 病気に耐えて一生懸命生きるあのひとは、それでも剣に生きたいと願うあのひとは、“死に損ない”なんかじゃない。

 どんなに離れても喩え二度と会えなくても、あのひとはずっと変わらずわたしの誇り。

 心の中に湧き出でて、ずっと涸れない深い泉。

 足の付かないところに嵌まっても溺れても、心の真ん中から決して消えたりしない。

 この人を、許せない。

「言わないのは、あなたの為でもあるんですよ」

「どういう意味だ」

 本当に不思議そうな顔で、首から剣先がずらされた。

「総司さんは、病床を襲う姑息な人に斬られたりしない。あのかたの大事な刀を、卑怯者の血で穢してほしくない」

 日々叶わない夢ばかりを描いていた世界が、真っ赤に染まる。

「月野!」

 遠くに響く声を、土方さまが来てくれたと錯覚した。

 もう名前を呼んでもらうことなんて、ないのに。


 沙菜は、手持ち提灯の照らすボォッとした空間を急ぐ。もう島原に客が入られる時間では無いことは知っていた。

 沙葉が身請けを言い出して、今更に認められる。

 俺は、月野天神が好きなんや。

 自覚した瞬間から終わる感情だった。沙葉が欲しいものに、手は出せない。

 大店の妾腹の子ども……しかも同い年の男など邪魔にされて日陰に追いやられるのが普通だろうに、沙葉は少しも蔑んだり偉ぶることもなく、自分と変わらない日向屋の兄弟として扱った。

 沙菜の冷静な頭で考えても、あんなに優しい……器の大きい男、他にいないと思っていた。

 だからこそ、何があっても沙葉だけは裏切れない。

 それでもこうして走ってしまうのは、ダメ元で想いを打ち明けようとかいうわけではく、“沙葉のモノ”になってしまう前に一目でいいからただ、会いたかったからだ。

 その一心で足を進めていると、柳の立ち並ぶ川沿いの畦道から橋の上、抜刀した男が女と向き合っているのが見えた。

 提灯を持ち上げ眼を凝らす。

 あれは……!

 その姿を見留めた瞬間だった。

「……!」

 男が何か叫びながら、ダラリと下げていた刀を摩り上げる。

 刃が、あの吸い込まれるような瞳を裂いた。

「月野!」

 虚しく走り寄るが間に合わない……斬られた衝撃でぶつかると、腐敗した手摺が折れた。

 高い水音すら川の流れに消され、月野の躰は真っ暗に飲み込まれた。

 川は大荒れで、一瞬で姿が無くなった。

 男が逃げ去った後、沙菜は月野が落ちた所に跪き、どれだけ見続けても、ひたすら何も見えなかった。
助からん。

 虚ろになる頭で、頭蓋の奥から谺(こだま)する。

 なんで殺されなあかんのや……!

 あの柔らかい光みたいな女が、こんな風に死んでええんか?

 朝には皮肉に水位は減るが、流されてしまうだろう下流まで、どう捜しても見つからなかった。

 ――……

「きっともう二度と、他の男の人を愛しません」

 ――……

 あんな時間に一人で出歩いていたのだ。太夫に揚がって、沙葉に身請けされるとまでわかっていたのか、それを苦に島原を抜けようとしたのだろうと、沙菜は気付いた。しかし到底沙葉には言えなかったし、置屋の女将は謝りに行かなければと言いながらも倒れてしまって起き上がれない。

 それでも自然と、三日三晩の早さで噂は広まった。

 沙葉が重病にでも罹ったように鬱ぎ込めるのは、沙菜から見ればまだマシだった。想いを誰にも悟られないように、仕事を詰め込み隙無く働いた。

 ただの悪夢だったらよかったのにと恨む夜、脳内をグルグルに回り迷った思考の答えは出た。いや、答えなどとうに決まっているのに意識を失わないように……額を打ち付ける代わりに、その考えで眼を冷まし続けていた。

 橋の木板の上で両拳を握りしめ、ただ遠退く気を狂わせないように、一点だけ、考え巡らす。

 誰に、伝えればええ?

 相手を間違えんな。

 一番、月野天神の為になるように、考えろ。

 一番、月野天神が愛した男や。
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