沖田氏縁者異聞

春羅

文字の大きさ
上 下
11 / 29
第三章

第七話

しおりを挟む


 今夜、島原吉更屋天神・月野に告白をする。

 三十をとうに越えた男が何を初心のようなことを、とは自分でも思う上に、態度で示せば……いっそ抱いてしまえばいいなんて思わない、とか聖人振る気は殊更無い。

 かつての土方はそうしてきた。しかし絶対に、月野にはそうしたくない。毎夜のように逢いに通っていて、何故急に、こう焦るのか。

 沖田が今やほぼ寝たきりになった機会だなどとは、考えたくなかった。

 今年の冬、積もった真白い初雪の上、人生二度目、血を喀た。

 “どういう”訳だ、と土方は不思議だろうが、『豊玉発句集』を詠んだのは土方だと知った月野は、それから会う毎に一つ、句の解釈を訊く。

「ねぇねぇ土方さま、この句、どういう意味ですか?」

 白く細い指で、句帳の“報国の 心を忘るる 婦人かな”を示す月野の、澄んだ見上げる瞳、愛おしく、その頬に片手を添えた。

 よりによって今夜その句かよと笑う余裕も、問い掛けに応じる余裕さえ無くした、まるでガキだ。

「お前を、身請けしたい」

「……どう、して?」

 勘弁しろよ、と内心ガックリくるのは抑えたが、“身請け”という単語を使った以上、抑えが効かなかった。

「好きだからに決まってんだろ」

 唇を、近付ける。

 長く震える睫毛に飾られた大きく見開いたままの眼と、至近距離で見つめ合う。

「今日は、ひっ叩かねぇのか?」

 瞬間、月野は迷うように眼を伏せ逸らしたが、それで止まる程大人ではないし幼稚でもない。

 初めて触れると、込み上げる感情に目眩がした。

 逃げられてしまいそうで怖くて、手を繋いだ。

 月野が目の前で泣いた夜、抱き締めて、その涙を胸の中で受け止めることさえ理性を保てないからと憚った、芸妓の内は手を出さないと決めていた土方だった。

 つまり今夜、我慢をする気は失われていた。

「待ってください」

 くちづける、吐息を分け合う呼吸の隙間、微塵も色を感じさせない声で目が醒めた。誘い焦らす為の台詞では無いことは明らかだった。

「俺が嫌いかよ」

「いいえ、大好きです。でも、考える時間が欲しいです」

 俺は今すぐお前が欲しいです、とかの押しの一言は、夢にも描かなかった“大好き”の殺し文句で飲み込んだ。

「わかった。待っている」

 しかしこの時の決意は、守れなかった。

 後の土方は、ずっと胸の奥、折り重なっていた疑惑をさらに強め、囚われる。

 月野が本当に愛しているのは、総司ではないか?


 本当に苦しい時には、会いに来てくれない。

 一晩中居てほしいなんて、言っていないじゃないですか。

 山南が死んだ後はしばらく顔も見せずについ最近、“大丈夫”になってからひょっこり、またキザな台詞を添えて会いに来始めた。

 月野は、イイ男ぶった澄ました顔を困った表情にして崩すのが楽しくて、わざと句集の話をしている。

「ねぇねぇ土方さま、この句、どういう意味ですか?」

 “報国の 心を忘るる 婦人かな”を指差した。

 この句集は全て上洛前に詠んだものだと聞いてはいたが、“国のことを思うのも、かわい娘ちゃんの前では忘れてしまう”などと惚けられては、つい妬いてしまう月野だった。

 内心を隠した頬に、土方は片手を当てた。

「お前を、身請けしたい」

 胸が跳ねた。

 そこまで想ってくれていたと喜ぶ気持ちと……もう一つは、そこまで想われていた後ろめたさ。

 はい、と応えることは、芸妓をやめて島原を出るのと同時に、“土方の”妻となること、土方一人を想い続けて生きることを意味する。

 約束できないわたしに、そこまで想われる資格なんて無い。

「……どう、して?」

「好きだからに決まってんだろ」

 至近距離で見つめ合うと、土方の瞳の中にも、月野がいる。

「今日は、ひっ叩かねぇのか?」

 そのもう一人の自分が総司を呼ぶのを見た気がして、眼を伏せ逸らした。

 初めて触れた唇は、目眩のする罪の味。

 逃げてしまいそうなのが怖くて、手を繋いだ。

 置屋の女将に、いつかどうしても愛さずにはいられない人に出逢う日が必ず来ると、そうしたら、その人を信じてついていきなさいと言われていた。

 でも、そのひとが一人ではない場合は、どうすればいいの?

「待ってください」

 あなたについていけたなら、どんなに幸せだろう。

 でも今のわたしには、二つの心を持ったままでは、あなたの妻に、なれません。

「俺が嫌いかよ」

 そう思っていたなら、どんなに楽だろう。

「いいえ大好きです。でも、考える時間が欲しいです」

 土方は今頃サッと耳まで赤くして、それを隠すように月野の頭に手をポンポンと置
いた。

「わかった。待っている」

 後の土方は、冗談だと言うようないつも通りの憎まれ口とキザっぷりだった。

 どんなに苦しんでいたかなど、気付かせることさえしなかった。


 西本願寺がついに折れた。

 境内での大砲訓練、栄養の為に豚肉を進んで摂ろうと飼育していた家畜の臭い、粗雑な振る舞いから散々物を壊す始末。

 土方の目論見のまま、隊士を追い出したくて仕方が無い西本願寺側の土地提供、建築費全額負担による新屯所を手に入れた。

 新撰組最後の居場所・不動堂村屯所。

 まるで大名屋敷……近藤の立場的にも従える組織的にも既に大名に匹敵していたのだが……至れり尽くせりの豪邸だった。

 そして幕臣となってから僅かに三月足らず。

 局長以下、武士になることを夢に見てきた隊士達は喜んでいたが、それは束の間の泡沫だった。

 慶応三年十月、将軍・徳川慶喜は二条城にて大政を奉還。

 坂本龍馬創案による現代日本の礎、後世に言う“船中八策”に記された

 新政権構想の頂点は今上……後の明治天皇だ。

 二百六十年の太平の末、徳川幕府は崩れた。

 だが、これで満足する薩長では無い。

 武力討幕断固阻止の坂本の意図とは外れ、徳川家の完全撤廃を狙う薩摩・長州藩、公家の岩倉具視らは朝廷から“討幕の密勅”を手に入れていた。

 そして急に政権を渡されてもどうして良いやらわからぬ朝廷に代わり、次の時代を牛耳ろうとの算段だ。

 佐幕派・新撰組の聖戦……本当の幕末は、これから始まる。


 土方は、この夜を後悔する。

 後悔など、月野に会いに来ていて初めてのことだ。

 気付きたくなかった。本人同士さえ知らなかった、月野の真意など。

「おっ? こんな所でバッタリたぁ! 新撰組副長殿!」

 幕府御殿医・松本良順……慶応二年の集団検診以来、隊士の健康管理や衛生状態を気に掛け度々屯所に訪れ、最近は総司の診察までしてくれている、やけに新撰組に好意的な名医だ。あまり医者然としていない豪快で伝法な口調の生粋の江戸っ子オヤジは既に酔った状態で、部屋中に聞こえ渡るぐらい声がデカイ。

「それはこちらの台詞で……」

「おぉおおっ! そっちは月野天神か! かっんわゆうぅいなぁ!」

 禿に案内されながら月野の部屋に向かう廊下を歩いていたが、松本の大声で出てきたのだろう月野は土方の後ろにいた。

「是非とも一緒に飲もう土方!」

 マジかよエロッパゲ……。

 露骨に月野目当てで眼を輝かせるのにゲンナリしながら、逆らえる立場ではない、というか断り切れる気がしない土方は、一緒に宴会部屋に入った。

 久々に……めっきり色気付いた月野の舞に不覚にも見とれていると、大酒飲みの松本が月野にも聞こえるデカイ地声で言った。

「月野天神と言えば、滅多に島原で遊ばねぇ俺でも知ってるぐれぇ有名だぜ」

 ナニ真面目さ強調してんだよオッサン。

 月野の舞は天下一なんだからあたりめぇだろ、などと、なぜか土方の鼻が高くなった。

「なんせ鬼副長が首ったけだっつうからな」

 そうそう、俺が首ったけ……ってオイ!

 普段飲めない酒に噎せていると、松本は咳から連想したのか急に医者の顔になった。

「なぁ……おめぇんとこの“坊や”そろそろ俺ん家に寄越さねぇか?」

 自分以外の者が沖田をそう呼ぶのに違和を感じながら、隊務から完全に離れ孤立するなど、“坊や”が厭がるのを容易に予想できた。

 沖田は、独りが何より怖い。

「……療養、ですか。有り難いお話ですが、アイツがうんと言うか……」

「無理にでも来させやがれ! 沖田が死んでもいいってのか!」

 扇を落とす音が響いた。

 三味線を奏でていた芸妓がハラハラしている様子で手を止め、余計に沈黙が目立った。

「おっと。天神すまねぇ、ビックリさせちまったな」

 この前温もりを感じたばかりの月野の手は、震えながら扇を取った。

「いえ……すみまへん……」

 そしてこの前触れたばかりの唇を、片手で覆った。

 月野は、沖田の病を知らなかった。それが不治の病だと言うことを。

 ヘタリと腰を着けたままの月野を支え立たせた。力の抜けた躰を全て預けられても、儚いぐらいに軽い。

「先生申し訳無い。月野、最近具合が悪……」

「土方さまっ……大丈夫ですからっ」

「俺が我慢できねぇんだよ!」

 一度引き受けた座敷は中座しないという芸妓根性か、それとも土方に“ただの知り合いを案じる様子”では無い明確な自分の想いを悟られない為か、袖を懸命に引く月野を心のまま怒鳴った。

 もう何も言わず、土方の腕からスルリと抜けて、また座り込んだ。松本が勘良さげに去った後、決意を固めながら話した。

 月野は青ざめながらも正された背筋の先、白い首を垂らす。

 来るべき日が、ついに来た。

「総司は、労咳だ。喀血発作は二回。三年も前からだ」

 淡々と言う土方を見上げ、泣き出しそうになりながら、ゆっくりと言葉を選んだ。

「……そんな……身体で、新撰組のお仕事を……?」

 月野がどんなに泣こうと、もう胸を貸すことはできない。

 大きな瞳の大半に見る見る涙が浮かぶのを、気が付かない振りをした。

「それがあいつの望みだ」

「どうして……! どうして命を大切に……」

「刀を、もう一つの命を大切にしたからだ」

 座っていられない、という風情で、膝の前に両手を付いた。畳の上に、数粒の涙が落ちる音が聞こえる。

「……伝染るから、見舞いには行くなよ」

 自分でも嫌になるくらいの嫉妬心の渦中、土方の最後の本音を切っ掛けに、月野の嗚咽が始まった。

「バカ、嘘だよ。お前は何も気にしねぇで、総司の心配だけしてりゃいいんだ」

 月野には全てが伝わっただろう。

 俺のことは気にしなくていい。

 お前を諦める。

 総司のところに行け。

 もう、お前とは会わない。

 月野に惹かれてから三度目のこの決意通り、土方が“月野天神”に会ったのはこれが最後となった。

 次の日の朝、気持ちが変わってしまわない内にと沖田の部屋に行った。


 沖田は、自分とは違って、土方は返事があるまで部屋に入らないと知っている。

「総司、入るぞ」

「はいはーい」

 しばらくしてから明るげな声が聞こえた。

 土方も、沖田が何をしていたか知っている。

 部屋に入ると、眠っていただろう沖田は布団を片付け、しかも着替えていた。

 土方にでさえ決して、病み、弱っていく自分を見せやしない。誰の前でも、決して泣けやしない。

 強いようで弱い人間だ。

「お顔がカッコイイですけど、どうしました?」

 顰めっ面をしていると、わざとらしく驚き顔を作って茶化した。

「元からだろうが」

 正面に座りながら言うと、沖田はヘラリと笑う。

「ええ? そうでしたっけぇ?」

 その顔は、次の言葉で凍り付いた。

「総司……お前、月野を嫁にしろ」

「……な、何言ってるんですか。土方さん」

 腐れ縁の土方も見たことの無い、真剣な顔……そして、月野の事を考えた時の顔。

 その記憶の中に姿が浮かぶことにさえ、微かな苛立ちを感じた。

 弟のように大事に思うのはちっとも変わらないのに、この身を焼きかねない嫉妬が土方の胸で燻る。

「何回も言わせるな。惚れてんだろ?」

「……」

 眼の中心を見つめたまま沈黙するところに、試すように揺さ振りを掛ける。

「俺、あいつに身請け話をした」

「……えっ?」

 沖田は咳をしそうになってやっと堪(こら)えた。

 想像以上の動揺が、苦しい程に土方に伝わる。

 沖田の、月野への想いが、苦しい。

 そして、月野の沖田への想いも。

「あいつはなぁ、お前でなきゃ駄目なんだよ……!」

 誰よりも、ずっと見てきてしまったから、わかるんだ。

「……そんな。……僕は、月野さんを……」

 まるで罪悪を否定するように、妻になどと考えたことがないと言いたいように冷めた声で、土方の目だけを見続けながら首だけを振るった。

 口に出そうとしたようだが、偽りでも言えないのだ。

 月野を、愛していないなんて。

 いつのまに、そこまで想う程に逢っていたんだよ、と土方は奥歯を噛み締める。その事実にも、嫉妬に乱れる自らにも。

「わかんねぇなら教えてやるよ。相手をこの手で幸せにしてやる……って思うのが惚れてるっつうことだろうが」

 すると沖田は、芯からホッとしたように眼を閉じた。

 土方から少しでも眼を外したら見抜かれる、と開いていた眼はひどく乾いていた。

「……じゃあ、僕はやっぱり違うんですよ。僕は……誰の手でも構わない。……月野さんが……僕の知っている人の中で、一番幸せになってくれれば……」

 違うって……冗談かよそりゃあ。じゃあ、その気持ちは何だってんだ?

 苛立ちすら超えてきた土方は、最早呆れ気味に溜め息して髪を掻き上げる。

「ならお前……月野を抱きたいとも思わねぇのかよ」

 すぐそんなこと言うんだから、という顔で苦笑いし、ごくサラリと返す。

「思いませんね」

「嘘つけ」

 すると沖田はまた真顔になって、怒ったように言った。

「だって、子でもできたらどうするんです? 死んでしまうかもしれないんですよ? そんな目に遭わせられません」

 母親が自分を産んだ時に死んだことを、まだ引き摺っていた。

 同情以上に“可哀想”で、大切で心配で……そして憎くても憎み切れない、土方にとって弟のような沖田に、声を出さずに語り掛ける。

 そんな憤りを抱え続けて、一体どうやって笑って生きてきたんだ?

「それに土方さん……お忘れなら言いますが、僕は来年の今頃には、もう生きていません」

「……ッバカ野郎! お前が死ぬか! 殺したって死なねぇよ!」

 痩せて薄くなった肩を揺らして、フフッと笑いながら続ける。

「その言葉、そっくりお返しします」

 お前の病のこと、忘れてなんかねぇよ。

 それでも総司と月野、二人が一緒になってほしかったのは本心だ。

 月野が付いていてくれれば長らえるのでは、との期待もある。

 それ以上に、言葉を借りれば、俺にとって誰より幸せになってほしいのは、お前と月野、二人なんだ。


 慶応三年十一月十五日、無血革命の立役者・坂本龍馬と陸援隊隊長で坂本の盟友・中岡慎太郎は、志半ばで暗殺された。

 新撰組は真っ先に疑われたが、痛くもない腹を探られても何も出はしない。

 最近の坂本は短銃を使っていたというが、北辰一刀流免許皆伝の腕前を暗殺したとなると、新撰組一の人斬り・沖田総司が下手人ではと疑われた。

 当の本人は、病気で腕が衰えているのだから等の言い訳は使う筈もなく、土方以外の奴から見たら薄気味悪いだろう剣客の微笑をした。

「坂本さんはほぼ即死だったけれど、中岡さんは暫く……十七日まで存命だったのでしょう? 僕が犯人な訳無いですよねぇ? 僕なら二人とも即死です」

 沖田のことは市井の他愛無い噂に過ぎないが、本気でこの暗殺事件を新撰組の仕業にしようと謀略する者がいた。

 新撰組から“分隊”後、御陵衛士の名を拝命し高台寺に屯所を置く、策士・伊東甲子太郎だ。

 標的は原田左之助。

 暗殺の最中、中岡が聞いたという

「こなくそっ!」

という伊予弁を発するのも、ご丁寧に現場に残された珍しい蝋色の鞘に片方の下駄の持ち主も、原田だと証言した。

 これだけでは伊東の目的は分からないだろう。

 彼はその情報を薩摩藩邸に持ち込み、新撰組とは完全に切れた証明として、暗殺の首謀者である憎き局長・近藤勇を殺して見せるから尊王討幕の仲間に加えてくれ、と懇願した。

 密偵として高台寺党に送り込んだ斎藤の調べだ、間違いはない。

 伊東の筋書きは、斎藤の帰隊の驚きと共に各隊隊長を集め知らされた。


 自分の暗殺計画を聞かされてもなお憤慨する所か敬称も省かない、近藤の気の毒な程に人の良い第一声でしんみりとした空気が流れる。

「そうか……伊東さんが……」

 他でもない土方が打ち消した。

「悪さする狐は、狩らなきゃならねぇ」

 従来ならば、まず沖田が

「巧いことおっしゃいますねぇ土方さん!」

とか笑いながら茶々を入れ、永倉か原田辺りが

「おう! 勿論俺の隊だろうな?」

などと息巻く所だ。

 しかし沖田の不在、そしてただ一つの引っ掛かりで、依然しんみりとした空気のままだ。

「平助は……どうすんだよ」

 永倉が吐き出すと、他の者も同じ気持ちだと言うように視線を一手に向けた先はやはり土方。

 伊東を始末するならその賛同者も共に処分しなければ、復讐の連鎖が起こり、局長は言うまでもなく新撰組隊士の誰かを狙うのは必然だ。

「……どうしたい?」

 その事を重々承知の部屋の中に、沈黙が流れる。

「……平助は……新撰組に戻そうぜ」

 普段は破天荒という表現が相応しいぐらいの原田が妙に潮らしく、懇願するように言った。

 いくら“冷酷非道の鬼副長”の土方でも、同じ気持ちだった。

 そのつもりで伊東を負かす暗殺の企てを立てたのに、うまくは行かなかった。

 やはり幕末の世は……真の武士ほど、早く死ぬ。


 罠に嵌まった伊東甲子太郎は、新撰組局長・近藤勇の妾宅に来ている。

「お久し振りです、近藤さん」

 江戸に妻子を残しながら太夫を落籍させて囲っているのだから、“英雄、色を好む”とはよく言ったものだ、と嘲る余裕までをも持って。いや、近藤の場合情が厚過ぎて、一度でも目を掛けた者を放って置けないのだろうと解釈していたのだ。

 その人の良さを、利用しようとしているくらいなのだから。

 伊東は以前から活動資金の無心をしていて、やっと今日、承諾の返事を聞きに来た。

 同志達には単身敵地に入るようなものだと無論止められたが、近藤と一対一で会うのを恐れるより、あの美しい鬼・土方歳三に見くびられることを懼れた。

 しかし情けないことに、この部屋の襖を隔てた向こうに何人の刺客が居るだろうかと気が気では無い。

 伊東は新撰組隊士の掲げる理想、命知らずの武士ではない。引き吊る笑顔を作るので精一杯だ。

「あなたも、度胸の座った方だ。私の計画を、ご存じの筈でしょう?」

 恐怖心を悟られては、御陵衞士の名折れである、と虚勢を張り鎌をかける。

 近藤は、苦笑いに四角い顔を歪ませた。

「斎藤君は、間諜だったのですよね?」

 いつの間にやら姿を消していた斎藤が、自分の計画を当然全て話したのだろうと。

「私があなたに斬りかかるのでは、とお考えにならないのですか?」

 つい饒舌になる伊東に対し、ずっと唇を真一文字に結んでいた近藤は酒を静かに勧めた。

「それはあなたも同じことだ」

 並々注れた盃を受ける。

「今夜はとても……何と言うか、素直ですな、“伊東参謀”」

 恐怖心の剰りつい駆け引き無しになってしまった伊東の直情的な言葉に、近藤は歯を見せて破顔したのだった。

 なんという……人だ。

 何故、確実に裏切り者だと判っている相手に、こうも屈託無く笑い掛けられる?

 ……私は……間違ったのではないか……?

 信じる道を、付く相手を、天子様への忠義心の貫き方を、そして……斬る人間を。

「折角久し振りなのだから、呑みましょう」

 そう、強くない酒を相手の為に楽しもうとする近藤に、この国はどんな状態か、どうすればいいのか、何もを知らない子どもの頃のように心から幸福を感じ、伊東はただ、眩しいものでも見るように笑った。

 薩摩は蝙蝠だ。

 それはとうに知っていながらも、利用するつもりだった。

 私の曲がった理想の為に、この人は死なせられない。


 土方の計画通りに伊東を散々酔わせて帰した後、近藤は沁々、しかし強い局長の眼光で呟いた。

「歳ぃ……伊東さんは斬れねぇよ」

「……は? ……毒にでも当たったか?」

 冗談で茶化そうとした訳では無く、今更ふざけんなよ、と言ったつもりだ。勿論、近藤にはそれが伝わる。

「やはりあの人は、話せば通じる人だ……芹沢さんとは違う。性根から腐っている人ではない……清河さんとは違うんだ」

 未だに芹沢と清河八郎までを持ち出す。近藤は今でも、心の奥に罪の意識を背負っているのかもしれない。

「奴は新撰組を乗っ取る気だったんだぜ? それ以前に、脱隊は隊規違反だ」

 押し問答の二人の脳裏を、同時に山南が過る。これも同じく、浮かぶのは、穏やかな笑顔ばかりだ。

「もう……たくさんだ。死ななくてもいい人が死ぬのは!」

 頭を振るい、涙のかかる声で吐き出す。

 土方は内心、俺はやっぱり大将の器じゃねぇんだなと、思い知らされる。

 山南が死んだのに伊東を生かしておけるものかと意地になっていたから。それが自分にできる供養の仕方……いや、あの人の誠への応え方だと信じていたのは、只の自己満足だった。

「……討っ手を止める」

 籠を断り、酔い冷ましだと歩く伊東の帰り道に配置した刺客に、暗殺中止の伝令を走らせた。 

 近藤はすっかりホッとしたのか、伊東と再び歩み寄る未来を生き生きと語った。

 外はキンと冴え渡る冬の澄んだ空気に星々がこれでもかと散りばめられ、月さえ、姿を霞ませていた。


 伊東暗殺の隊を任せられた大石鍬次郎の元に、耳を疑う知らせが突き付けられた。

「局長より伝令です! 暗殺は中止とのこと!」

 冗談ではない。

 まさか、ここまで来てやめられるか?

 北辰一刀流免許の腕を斬り臥せる好機を、逃すのか? 並み居る隊士の中で、一歩抜きん出る好機を?

 そこへ気持ち良さそうに詩吟に興じながらフラりと、伊東が角を曲がって現れた。今か今かと気を張り巡らせて待ち伏せをしていた大石は、制御不能に興奮しきっていた。

「……残念。遅かった」

 手馴れた自然な動作で刀に手を掛ける。もっと近寄らせて、居合い抜きの瞬間を見極める。

「お前の伝令は、間に合わなかった……わかったな」

 伝令の隊士が、暗殺を命じられていた他の隊士さえ、サッと顔色を変えた。

 冬の外気より冷たい凍鉄が、風を切る。

「……ッ奸賊ばら!」 

 凶刃にしっかり反応した伊東に刀を抜かれながらも、酔った相手に負けることができる“人斬り・鍬次郎”ではない。

 紅く染まった白磁の肌が、暗く冷たい地面に色を加える。

「そんなに、僕に斬られたい?」

 近藤局長の意を無視した大石に、かつて度々手合わせをせがまれていた沖田が囁いた言葉だった。


 他の幹部隊士と共に伊東の死を聞いた土方は、間髪入れず次の策を練った。

「油小路に晒せ」

 いや、大石の残忍さを熟知し、用意をしていたのかもしれないと、自らのそれを強調して意識する。

 鬼になれ。

 そう言い聞かせなければ副長の顔を保てない。

「歳!」

 死体を餌に御陵衞士を誘き寄せて一網打尽にしようする鬼副長を、これも土方の筋書通りに局長は止める。

 近藤は……この組織の頂点は、隊士に恨まれては、怖れられてはならない。

「伊東を喪った高台寺党は、必ず新撰組に報復する」

 彼等の伊東への忠義は凄まじい。ひょっとすると近藤への、土方や沖田の気持ちと等しいくらいに。

 高台寺党と一戦交えるのは、永倉と原田の隊。

 勿論この人選は、腕は当然だが、こういう時に逃げも隠れもしない、必ず油小路に現れるだろう藤堂を何とか救う機転の利く、そして何より特別よくツルんでいた者をと選んだ。


 土方は隊士に、すぐに役人に届けるようにと命じた。

 伊東が“何者か”に斬られ、その遺骸が油小路に倒れたままだから引き取りに来てほしいとの、藤堂にとっては悪い予感的中の報せが月真院に飛び込んだ。

「……新撰組だ……!」

「時勢を知らぬ成り上がりが!」

「クソッ……すぐに先生をお連れするぞ!」

 嗚咽混じりの悪態を口々に吐き出して、一斉に立ち上がった。服部武雄と藤堂を除いて。

「待て! これは罠だ!」

 服部も遅れて立ち上がる。しかし止める為だ。

 そうこれは土方が、御陵衛士らが勘付き、それでもかかるだろうとまで計算した罠だ。

「伊東さんを晒して置けと言うのか? ふざけるな!」

「上等ではないか! 仇討ち合戦だ!」

 頭に血が上り、相手がどんな軍勢で来ようが、ちょうど今のような言葉で罠にかかると。

「ならせめて鎖帷子を」

「要らぬ! 御陵衛士は隊長の遺体を運びに来ながら、新撰組に怯えて防具を着込んでいたなど、市井の嘲笑の的だぞ!」

 死体の着物の中から鎖帷子が見付けられたら……という意味だ。

 篠原泰之進は伊東の後を追うつもりで、せめて相討ちをと願う程の忠心を露にする。籠を担ぎ足早に出て行った後ろ姿に深く息を吐いた服部は、黙り込む藤堂を気遣う。

「君は……辛いだろう? 皆も分かっている。決して、誰も責めたりしない。……残りたまえ」

 まるで懇願のようだ。

「俺だって、自分の意志でここまでやってきたんです。行くかどうかなんて、考えるまでもないですよ」

 外に出ると、白い息が周囲を霞める。雪が、降り始めていた。


 道の真ん中に捨て置かれた伊東の躰は、既に真っ白になっていた。

「兄上!」

 彼らの前で初めて“兄”と口にした伊東の実弟・三樹三郎が、その躰に突っ伏して泣く。苦悶に開いた双瞳を、膝を付いた服部が、寒さによるものだけでは無い震える手で閉じた。

 脇には闇討ちに遭いながらも流石の腕、少し血の付いた刀が転がっていた。

 一人も漏れず啜り泣きながら、躰を籠に運び入れた。

 きっと永倉の策だろう、と藤堂は感じた。一番油断した時を狙ったように、いや、最期の別れを惜しませたのか、籠に固まった御陵衛士らを二番隊と、原田の十番隊が囲む。

 闇から姿を現しても、さらに闇。

「よくも……ッよくも先生を!」

「闇討ちに待ち伏せか……如何にも壬生狼らしいな!」

 永倉は真っ暗で顔も見えないまま、無言で刀を抜いた。

「貴様等はッ武士気取りのただの鬼だ!」

 全員、一息に抜き放った。無論、藤堂も。

 邪魔をするように大きな塊の雪が、もう星の消え失せた空から落ちてきていた。キンと静まり返った小路に、剣跋が響く。

 藤堂が刀を躱しながら斬り進むと、刀をダラリと下げた影が前に立ち塞がった。
「……新八さん……」

 互いに正眼、一足一刀の間合い。互いに冷たい空気を、

「すぅ……っ」

と吸い込んでから剣を合わせた。わざと、相打ちにしたようだった。

「平助……バカ野郎だよ……おめぇは……」

 嘆息と一緒になりながらもハッキリと言うと、すぐに決着を付けたがる永倉にしては珍しく鍔迫り合いでグッと圧した。苦し気な表情に、泪が滲む。

 不意に、衝き押した。

 ……斬られる!

 そう思った。しかし藤堂は、新八さんになら斬られてもいいや、とも思った。腕が最高だから、痛くないだろうしね、などと付け足しながら。

 永倉はそれきりピタリと動かない。藤堂が不思議がってその顔を見つめると、殆ど息だけで怒鳴った。

「バカ! 早く行け!」 

 乱闘にならない場所に追い込んで、逃がそうとしていたのだ。

 気付いた藤堂は目線だけで頷いて、悪戯っぽく歯を見せる姿に背中を向け走った。

 俺、新撰組が……みんなが大好きだった。

 本当は、ずっと同じものを見て、ずっと同じ敵と戦いたかった。

 この時、俺を許してくれた礼だって、ちゃんとしたい。

 いつか俺が帰ったら、みんな呆れるかな?

 笑って、迎えてくれるかな……?

「平助ぇ!」

 永倉の横を一人の新人隊士が横切り、目で姿を追うとその先。藤堂の背中がバッサリ袈裟懸けに斬られていた。呼び声は時遅く、虚しく谺した。

「うわあぁぁああぁああ!」

 それでも応戦しようと振り返った藤堂を、こんな手練れ同士の乱闘は初めてで錯乱状態の新人隊士は、一心に叫びながら我武者羅に刺す。
「三浦! やめろ!」

 殴りかかる永倉にでさえ、刀を向ける程だった。それを力任せに吹っ飛ばし、抱き起こした藤堂の躯は血塗れで既に瞳孔が開き、息が無かった。

「……ぱっつぁん……」

 呆然と呟く原田の後ろで既に騒動は終わっていたが、高台寺党一掃は叶わず、服部武雄、毛内有之助、そして藤堂平助は死亡、残りは取り逃した。

 伊東甲子太郎暗殺……後に言う油小路の変は、新撰組に一際暗い歴史を刻んだ。
しおりを挟む

処理中です...