沖田氏縁者異聞

春羅

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第二章

第三話

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 まだ暑い日の夕暮れ。常連の色男が見世の暖簾を潜った。

「月野、居るか?」

「……あら! いつもおおきにぃ。月野ならいてますよ」

「そうか。上がらせてもらう」

 女将は、ずっしりと重い大小二本を受け取る。

「……土方はん!」

 つい呼び止めると、土方は振向き様に目を合わせる。

「いえ、ごゆっくり……」

 あの子のこと、慰めたって下さい!

 その一言は言えなかった。

 先日の政変後、壬生浪士組は会津藩主から“新撰組”の名を賜った。

 この名は会津藩の軍制度に古来から在る隊に由来するもので、近藤は由緒正しい名だと喜び、土方は使い回しじゃねぇかと釈然としなかった。しかし本格的に京市中の巡察を任せるとの事なので、やっと張り合いのある仕事が出来る。

 もう壬生浪なんて呼ばせやしない。

 そんな事を話している間、月野はいつもより沈んでいるように見えた。いや見えるわけでは無く、寧ろいつもより愛想が良いくらいだ。土方の話を嬉しそうに聞きながらも、瞳の底が悲しみを語っている。

「月野……お前、何かあっただろう?」

 すると月野は、その指摘が意外な様に眼を丸くした。まさか、気付かれるとは思っていなかったのだろう。

「……いいえ……」

 小さく頭を振る月野に、つい真剣になる。

「お前にとって、俺はまだ、ただの客か?」

 一瞬真っ直ぐ見詰めたかと思えば、今度は下を向いた。そして俯いたままの消え入りそうな声で、か細く話した。

 「十綾姉さんが……死んでしまったんです。……大好きな人に身請けされて……幸せな……はずだったのに……すぐ、病気になって……」

 白い、小さな頬を涙が伝う。

 土方は恐る恐る、髪を撫でた。触れると本当に小さく、まだほんの少女だと思い知らされる。いつもガキだとか言ってしまうが、細い肩を震わせて泣くばかりの小さな女だ。

 腕が、抱きしめたいと言っている。悲しみを全て流してやりたいと。

 初めて逢った夜の様に、今抱き寄せたらきっと抵抗はしないだろう。その理由は過ごした日々の違いとも言えるし、月野もあの頃よりは芸妓という仕事に慣れ、まさか客を引っ叩きはしないだろうからとも言える。

 だが土方は、いつからか誓っていた。

 俺と月野が客と芸妓の内は、絶対こいつに手を出さねぇ。

 金を使って言う事を聞かせるのは死んでも御免だ。折角の誓いが今、月野に触れたら、正直守る自信が無い。

 ただずっと、小さい頭を撫でていた。

 本気で触れても自分を抑えられる程の理性に自信が無く、一緒にいるくらいしかできなかった。

 土方としては情けない夜だったが、月野はその掌に安心して素直に泣けた。

 その後、月野は天神揚がりをした。

 名を変えるのが普通だが、全くその気は無かった。それが土方には堪らなく嬉しかった、という事は冗談でも言わない。


一、 士道ニ背キ間敷事
一、 局ヲ脱スルヲ不許
一、 勝手ニ金策致不可
一、 勝手ニ訴訟取扱不可
一、 私ノ闘争ヲ不許

右条々相背候者
切腹申付ベク候也

「ッたく、豪いもん作ってくれたよなぁ」

「つか、破ったら切腹ってマジかよ!」

 永倉が深く溜息を吐き、原田は昔にしょうもない理由で切腹した時の古傷辺りを摩りながら目を剥くが、土方は悉く無視をする。

「始めに言って置く。この法度は、局長や副長だろうが、隊長でも関係ねぇ。……いいか? 新選組を支配するのは人間じゃねぇ。この法だ」

 新選組は既に約二百五十人の大所帯。脱藩浪人、農民、商人……中には何処の者とも知れない荒くれも、腕さえ良ければ入ってくる。志有る者、無い者。ただ宿と食い物、そして毎月支給される手当を目的に入ってくる者。

 それを許し、纏めるには規律が必要だ。それも、かなり厳しいものが。

「“士道ニ背キ間敷事”は少し曖昧過ぎやしないか? どんな時に罰せられるんだ」

 得意げな顔してやがる、とでも言いたげな顔で聞いていた新八が問う。

「敵を逃がせば切腹。敵に背を斬られれば切腹。戦闘時、刀に血の一つも付いていなければ切腹」

 全隊士を集めた広間にどよめきが増す。 

 そんなんでこいつらが連いていけるかよ、とは幹部の誰も、平隊士を前には口に出さなかった。

 この数日後、芹沢の腹心である副長・新見錦は切腹する。罪状は、士道不覚悟。


 文久三年九月十三日、祇園新地・山緒。

「どういうことだぁっ! 土方ぁっ」

「どうと言われましても……言葉のままの意味ですよ。芹沢局長の名を騙っての押し借り、乱暴狼藉、そして屯所を離れての遊郭居続け……あなたの所業は法度第一条“士道に背きまじき事”第三条“勝手に金策いたすべからず”に当たる」

 あえて無表情のまま、唇だけを動かして淡々と語ると、余計に新見は閾り立つ。怒りに震えながら顔面を真っ赤にして、“科白”を耳に入れていた。

 介錯は原田左之助。刀は不得手である。

「わッ私が切腹だなどとっ、あの方が許す訳が無い! 土方、原田、お前ら東男の謀り事であろう! 芹沢局長を呼べぇ!」

 必死の形相で腕を振り回す。

「見苦しいぜ。あんたも武士ならば覚悟を決めたらどうだ?」

 土方は苛立ち、つい公用を忘れ伝法な口調に戻る。

「う、煩い! 誰が切腹なんかしてやるか!」

 立ち上がろうと膝を付いた。

「折角、新選組副長のまま死なせてやろうとしてるんだぜ?」

「なっ! なんだと?」

 顔面は一変蒼白になり、硬直した躰はただ戦慄(わなな)く。その様を愉しんでいるように見えたのか、悪趣味だと原田が舌打ちした。

「この名で呼ばねぇとわかんねぇか? ……田中伊織」

「何故ッそれを!」

 新見錦の本名。いつしか長州の間者となっていた。これだから新撰組の、というより土方の大事な監察は恐ろしい。

「切腹は、両局長の命だ」

 近藤の大好きなあの赤穂浪士でさえ、本当に腹を一文字にかっ捌く切腹をやる者などいなかった。だが、新見はそれをやってのけた。流石は元、水戸天狗党の一員だ。血で染まる障子を眺め土方は、ここまで追い詰めながらも感心せずにはいられなかった。


 芹沢鴨暗殺。

 沖田総司が初めて人を斬った日。

 土砂降りの、夜だった。

 先日、京都守護職・会津藩主松平容保に呼ばれた近藤と土方は密命を受けた。

「他に……方法は無いのか……っ!」

「近藤さん、肥後守様直々の命だ。逆らえないだろう」

 郭での乱暴狼藉に押し借り、極め付けは大和屋焼き打ち。攘夷・討幕派の連中に大金を貸して新撰組には一銭も貸さなかったと、幕府に反する不届きな者という理由で火を点けた。当の芹沢はその屋根の上に登り、大鉄扇を広げながら火事見物をする始末。噂が大袈裟に広まり、大砲を撃った等と言う者もいる。それらの所業を上げられ、新撰組の預かり主にさぁどうすると言われれば、取るべき方法は一つである。

「近藤さん、今回の件は俺に任せてくれ」

「歳、何を言う! 是非の無い事ならば俺も……」

「駄目だ。局長自ら手を汚す事では無い」

 それでも食い下がろうとする近藤を見つめた。興奮で涙目になっている。

「大将のあんたが、隊士に疑念を持たれたらこの新撰組は終いだ。決行するのは試衛館以来の同士から抜粋する。他の者には一切を伏せる」

「……誰を行かせる?」

 やっと聞く気になったようだ。

「俺と、サンナンさん。源さん、左之」

「そして、僕!」

「総司。立ち聞きなんかすんなよみっともねェ」

 障子がすっと開いた。

「絶対僕も行きますからっ!」

 宣言と共に、頬を膨らませている。

「わかってる」

 だからそのガキみてぇな面はやめろと、渋々返事をした。

「ならいいんです」

 あっさり出て行った。どうせまだ聞いているだろうが。

 普段芹沢には可愛がられている沖田が、当然の様に殺しに行きたがる。近藤と土方は昔からの付き合いだが、こういう部分は余りに未知だ。

「歳、永倉さんは」

「アイツは駄目だ。芹沢とは同門だし、正義感が強過ぎる。闇討ちには向かねぇよ」

「なっ! 闇討ち?」

 驚愕の顔で土方の腕を掴んだ。

「ああ。芹沢はあれで神道無念流免許皆伝、水戸天狗党幹部だった男だぜ? 正面(まとも)に行きゃ、こっちが殺られちまう」

 わざと冷静に言うと、さらに掴み掛かった。

「俺達は……! 武士になったのだろう?」

「勿論だ。だから失敗は許されない。仲間を失う訳にはいかない」

「……くっ……!」

 心底悔しそうに手を離す。

 どこまでも真っ直ぐな近藤に対し、土方はこの日が来るのを知っていた。

 芹沢が何をしようと。新撰組の名を貶めようと。このまま続けていれば必ず、上から目を付けられる。その時を待っていたとも言える。近藤が、唯一の局長に成れる日を。

 俺はなぁかっちゃん、あんたを大将にする為なら何だってやって見せるぜ。

 そう、微笑んでさえいられる。


 芹沢とお梅、何度ともわからないくらいに契った後のことだった。

「お梅……お前は頭のいい女だよな?」

「……なんですか、急に」

「……いつまで……わしの元に居る?」

 芹沢はふいに、呟くように別れを切り出した。

「いつまでも! ずっとお梅は、あなたの傍に……」

「駄目だ」

 鉄扇を手に持つのが癖の芹沢は、やはりそれで、ぴしゃりと畳を叩いて、容赦無く遮った。

 菱屋には、愛されていると信じていた。

 しかしどんなに想っても、待遇、気持ちはいつまでも“妾”でしかなかった。

 正妻はもちろん、家族、そして近所に住む人々までもから、“妻のある男を誑かした好色女”と蔑まれてきた。

 周りにはなんと言われてもかまわない。

 それ以上に哀しかったのは、菱屋でさえ“そういう女”だと思っていたこと。妾で満足しているような女だと見下していたこと。

 そしてどんなに想っても生涯、一番愛している人の“一番”にはなれないことだった。

 そんなお梅を、芹沢は求めた。

「お前が商人の妾だなどと役不足だ。大将の……わしの女になれ」

 最初は近付くだけで斬られそうな威圧感と恐怖をひしと感じていたが、その奥に隠された優しさ、そして孤高特有の寂しさを知り、次第に惹かれていった。

 自分だけが、“本当の芹沢鴨”を理解できる……と思えることは誇りでさえあった。

「お前ならわかる筈だ……わしはもうすぐ……」

 このとき確かに、慈しみを肌でさえ感じた。

「あなたの女はあたしです。誰にだって譲ってあげないんですからね」

「違う! そうではない、わしは……」

「わかっています」

 この世の話はすべて、生き残った“勝者”の語り事。この世の人がなんと言おうと、あなたの真実を。

 慌てて取り繕おうとした芹沢の両目には、俄かに光るものが滲み出ていた。

「お梅……明晩、角屋で隊の宴会がある」

「まぁ、あまり呑み過ぎないでくださいね? あたしが、待っているのですから」

 得意の、愛しさを込めた流し目に応え、

「明後日にでも、そろそろヤツらに話すか」

と身を向けた。

「何をです?」

 そう返す唇は、軽い口付けに止められた。

「お梅を……妻にする、と」

 耳元で響く、掠れた低い声。その声に最期まで酔いながら、お梅は瞳を閉じた。


 文九三年九月十八日。

 今夜島原の角屋扇の間で、新撰組隊士総揚げの大宴会が催される。

 最も有名な遊郭の一つだが沖田は“その辺り”には詳しくなく、実はここに来るのは初めてだった。

 人を斬ることも。

 酔って眠った所を襲う作戦。決行する五人以外には絶対に知られてはいけない。原田など永倉と仲が良いから大変だ。

 まばゆく輝く豪奢な衣裳。絢爛な舞姿。

 直視できず、沖田は目を伏せていた。耳に、爪弾く三味線の音が響いた。

 一方月野は、皆さん、わたしが土方さまの恋人だとか思っているかもしれない、と少し恥ずかしそうにしている。

 何せ市中を歩いていても、

「副長はんと仲良ぉね!」

なんて声が聞こえてくるのだ。

 天神として初めて舞った。これが、十綾が立っていた舞台。 

 同じ様になんて無理としても、せめて近付きたい。天神の名を背負う者として、がっかりさせるような舞は絶対にしたくない。

 わかっているのに、緊張で隊士達の方を全然見られなかった。

 舞が終わりしばらくすると、すぐに土方に呼ばれた。

 すごく楽しそうな隊士を前に今日、月野はやっとわかった気がした。

 みんな怖いなんて言って嫌うけれど、そんなことない。この人達は京に住むわたし達に害を与えたことは一度もない。“天誅”はなくなったし、夜でも安全歩けるようになったじゃない。

 感謝しなくてはいけない人達なのに、と。

「このが噂の月野天神か?」

 そう言って、男前と名高い原田の顔が月野を覗いた。

「おぁっ! “副長様”ぁ? 随分面食いですなぁ」

「たりめぇだ。孔が空いてりゃなんでもいい“左之様”とは違ぇんだよ」

 えーっと……とりあえず、今夜は“公用”では無いのですね……って、最低ー!

 ギロリと土方にだけ睨み、酒を持ってくる、という口実で席を立った。

 
 長い廊下だ。その頃沖田は宴会を抜け出して、渡り廊下に腰掛けて庭を見ていた。手入れが行き届き、柔らかい橙色の灯に照らされている。   

 宴会では、近藤、土方、原田……策を知る者、知らぬ者……皆が芹沢に酌をしていた。原田など、あんなに呑んで大丈夫かとヒヤヒヤするくらい、わざといつもより、はしゃいでいたのだろう。山南は沈んだ顔をしていた。

 皆本当は、芹沢が好きなのかもしれない。

 戻らなきゃ!

 自分だけこんな所に逃げて来たのだと、沖田は立ち上がり、振り返った。

「きゃあっ!」

 ぶつかったその人が転ばないように、慌てて腕を引き寄せた。

 子どもみたいに細い。羽根みたいに軽い。

 月野と初めて会った日をふと、思い出した。

「すっすみまへん!」

 慌てて顔を上げるその姿は、艶やかな黒髪を結い上げ、細やかな装飾が施された髪飾り。一際煌びやかな、でも上品な衣裳。

 本当に、天女みたいだ。

「月野!」

 呼ばれて振り返るその先には、土方。

 咄嗟に手を離した。そう、初めて会った日と同じ様に。

 一瞬で、全てを理解したから。

 あの土方が、息を切らせて女を追う。最近入れ込んでいるという噂の天神……月野がそうだと。

「なんだ、総司。お前こんなとこでサボってたのか? 月野、前に話しただろう? こいつが沖田だ」

「“初めまして。月野天神”」

 蒼褪める彼女を見つめる僕の顔は、ちゃんと笑えているだろうか。

 沖田は気遣いながら、いつも通りに微笑んだ。


 総司さんに……総司さんに知られてしまった……!

 どうしよう……!

 医者の娘だなんて嘘をついたりして、それが島原の芸妓だなんて!

 ――初めまして。月野天神――

 月野は何度も響くその声に苛まれるばかりで、沖田が新撰組隊士だということは全く構わなかった。

 絶対に、軽蔑された。

「月野!」

 今度は女将に呼ばれて我に返る。

「あんた何しとんの! ぼーっとして!」

 まだ宴会の最中だというのに小声で注意され、やっと周りが見えた。

 芹沢がいない。軽く見渡すと、土方、山南、井上、原田……沖田も帰ってしまったようだ。

 あれから黙っていることしかできなかった。

 総司さんに謝らなければ! ……でも……なんて言えばいいの?

 今夜会わなければ、ずっと会えないような気がした。

 何を言ったって、ただの言い訳にしかならない。

 それでも初めて、やっと判った。

 総司さんが好き。

 会えない時間の、知らなかった切なさ。自分を晒け出せないもどかしさ。そして、会えたときの時間の疾さ。

 表せる言葉は一つだけだと。

「お母さん、お願いします! 一生に一度、このお座敷だけ抜けさせてください!」

 ひどく驚いていた。

 呆れられてもいい。天神の座を捨てても構わない。

「ええよ。何するんか知らんけど、気ぃ付けてね」

 そっと見送り、傘を手渡す。

 月野は新撰組屯所へと走った。

 どう謝るかは会ってから考えればいい。もう一度話してくれたなら……もう一度“わたし”を見てくれたなら、それだけで。

 外は土砂降り。ひたすらに、走った。


 新撰組だと知られた。

 どう、思われただろう……?

 怒り。

 悲しみ。

 侮蔑。

 ……恐怖。

「総司、聞いてんのか」

「えっ! はいっ」

 あ……。なんだ。

 土方さんが新撰組副長だと、当然知っている筈。僕はその、仲間だと思われただけか。沖田は、最も信頼される隊士の顔に戻る。

「しょうがねぇな……もうじき奴等寝付く頃だぜ。サンナンさん、源さん、左之は、平山と平間を頼む。総司は俺と来い」

 芹沢達が眠る八木家。そこで息を潜める五人の刺客。一切の物音を、激しい雨と雷が掻き消した。

 部屋に入ると、土方の読み通りに皆酔って熟睡していた。でっぷりとした腹を出して、高らかに鼾をかいて眠る芹沢。ここまで酔った時、昼まで起きて来ないのが常だった。その様に普段苦い顔をしていた土方だが、今夜はその悪癖に助けられている。そして隣には、愛し気に寄り添うお梅。

 土方の言葉が頭を過ぎった。

――……

「万一、目撃されたらそいつも生かして帰すな。勿論、同衾している女もだ」

 そんな!

「待ちたまえ! 女達に罪は無いだろう」

 沖田が口を開く前に、山南が正論をぶつけた。それを予測していた様に土方は務めて冷静に、一人ひとり見据えながら告げた。

「では、逃がしたとする。その後そいつらが、芹沢達を殺したのは新撰組隊士だと触れ回ったらどうする? 隊士達が動揺したら? 近藤局長に不信感を抱いたら? 京雀が、会津公の指示だと推したらどうするのだ」

 既に二の句をつぐことができない彼らに、さらに畳掛けた。

「今夜の事は、墓場まで腹ん中に留めておけよ」

――……

 土方が側に合った立派な屏風を二人が眠る蒲団の上に倒す時、沖田はお梅を見た。

 ……眼を……開けた!

 驚くのも束の間お梅は咄嗟に芹沢を庇い、覆い被さった。

「待……っ」

 瞬間、僅かに見えていた白い足首が反動で動いた。屏風と蒲団の隙間から血が流れ、畳に染み込んでいく。お梅は、声さえ上げなかった。

 新撰組が借金をした菱屋は取立てに妾を寄越した。それを芹沢は手篭めにしてしまった。そのお梅は屯所に自ら来るようになった。沖田は、確かに軽蔑していた筈だがしかし。

 僕は……何をしているんだ……。

 土方は無表情。そのままもう一度、今度こそ“標的”を突こうと刀を引いた。

「……芹沢さんっ!」 

 沖田は声を振り絞って、その名を呼んだ。

 眠ったまま斬るなんて……冗談じゃない。

 驚愕と憤怒の空気が満ちるのが、手に取るようにわかった。隣に居た刺客に肩を掴まれた。無言の怒り。沖田はその眼を真っ直ぐに見つめる。

 間違ったことなんてしていない、と。

 その間に、芹沢は気怠そうに半身を起こした。上にある屏風を片手で軽々押し退けて。お梅の身体がごろりと転がった。

「……やっと来たか」

 企てを知っていた。

 悲しくも悔しくも、何ともなかったといえば嘘になる。

 ただ知っていた、というだけだ。

 芹沢は、自分が単なる駒に過ぎないと知っていた。新撰組という生まれたての若い組織が、大きく成長し、飛躍する為の。

 怒りさえ感じなかった、という事実も嘘になるのだろうか。

 綺麗事だと、負け惜しみだと人は笑うのだろうか。

 新見が切腹した夜のことだった。

「芹沢さん、あんた逃げた方がいいぜ」

 ついさっきまで目を据わらせていた永倉が、急に真面目な顔を作った。しかし片手では猪口を傾けている。

「なんだと? どういう意味だ」

 芹沢は、凄みを利かせたような声で応じる。酒癖の悪いこの男の、地声ともいえる。

「あんた程の男が、わからねぇでもあるめぇ」

 永倉は、根拠を語ろうとはしない。かつて同門で鍛錬した男と、どんな窮地でも安心して背中を任せられる無二の仲間達との間とで、板挟みになっている。

 芹沢は二つに分かれてしまった新撰組の片翼を担う立場……それ以上に最高の地位にありながら、元から“壬生浪”と蔑まれた評判をさらに落としていった。

 他の隊士がどんな働きをしても、効果のないくらいに。

「俺達は、あんたを斬る」

 “近藤達は”と言わないところが永倉らしい。

 懸念している芹沢暗殺計画について、全くの蚊帳の外にされているのにも関わらずだ。

 信頼し合っている近藤派幹部達の中で、なぜ自分だけ何一つ知らされないのか、その理由さえわかっていた。

 元同流派であるというほんの少しの疑念と、それ以上に一本気な心意気ゆえ、綿密な計画から除外されたのだ。

 芹沢は手酌していた徳利を、無造作な仕草で畳に置いた。

「何故だ?」

「……だから、ヘタな芝居はやめてくれって」

 これから誰も知らない、芹沢鴨の心を語ろう。

 そう喉奥で呟いたかのように、芹沢は胸中を振り返った。

 書にも声にさえ表れることのない、遺言。

 知っていた。

 転落する坂の始まりから、わかっていた。

 しかし酒が無ければ體が疼き、いくら呷っても枯渇し、気が狂いそうになる。

 命乞いなど、決してすまい。

 我が命、所詮あの日牢獄で捨てたもの。

 ただひとつだけ、願いがある。 

 その時は、お梅の好きな星の輝く夜がいい。

 そして、お梅のいない、ひとりの夜がいい。

 叶うならば、どんな惨い死に様を晒すことも厭わない。

 新見が死んだ……こんな宵でもいい風が吹く。

 憂き世すべてを、忘れられるようだ。

「可笑しなことを言う。浮き世すべては、猿芝居ではないか」

 幕の引き際は、自分次第だと。

「……芹沢鴨……死んでもらうぜ」

 ゆらり、芹沢は立ち上がった。

「お梅には、悪い事をした」

 今夜来るとわかっていたらお梅とは別室で寝む。破天荒で他人の妾を奪うような男だが、その分周りが思っている以上にお梅を本気で愛していただろう。

 いつかはわからない。

 それでも、新見が切腹し、次は自分だと思っていた。

 芹沢は、自分を斬りに来た男達は見ようともしない。じっとお梅の亡骸に目を遣り、呟くように言った。

「無粋……」

「あぁ?」

 土方は気が立って、すっかり昔の“バラガキ”に戻っている。

「無粋だなぁ、土方。隣を見てみろ。差しでわしと戦(や)りたくて疼いているのがわからんか?」

 完全に見抜いている。

 そう、僕は……あなたと真剣で立ち合ってみたかった。

 沖田はハッとして、目を畳に落とした。

 土方には知られたくなかった。

 僕は今……人斬りの顔をしている。

 それも、極めて酷薄な。


 山南、井上、原田の三人にも、沖田の声は聞こえていた。平山と平間の部屋にそれぞれ近付いて行く。

 土砂降りの筈だった雨の音も轟く雷の音も聞こえないくらい、緊張で麻痺している耳に驚くべき科白が入ってきたのだ。

 相手は“あの”芹沢鴨。

 実戦には滅法強い“土方喧嘩剣法”と天然理心流皆伝の二人掛かりでも、目を醒まされたら敵うかどうか。しかも噂では、酔えば酔う程強いらしい。

 身震いの衝動に駆られる内、山南は平間が寝る部屋の襖を開けていた。相手の実力差を考え、井上は原田の背へ。

「おや……? 糸里天神がいないようだ」

 糸里とは、平間の馴染みだ。

 逃げたか? 女ってのはおっかねぇ。だが、これで斬らなくて済む。

 原田は幾分ほっとしながら、すぐ隣の平山の部屋を開けた。

 ん……? こっちのおんなも居ねぇ……。 

「うおぁっ!」

 不意に放たれた抜き打ちを、背中を反らし辛うじて避けた。起きていたのか。いや、沖田があれだけ大声で喚けば普通は起きる。

「貴様等ぁ! 芹沢先生への恩義を忘れたか!」

 返す言葉も無かった。

 元は“将軍警護の為”という名目で江戸から集められた彼らは、浪士組発案者・清河八郎の真の企てが尊王攘夷活動であると知り、江戸に帰るというのに背いた。

 京に残り、幕府の為に身命を賭して戦うのだと。

 しかし武士でも無い彼らに後ろ楯などあるわけが無い。唯一芹沢だけが、藩主が京都守護職である会津藩士に顔が利いた。

 そのおかげで、歴とした“役目”と“使命”を得たのだ。芹沢がいなければ、何も出来ずに路頭に迷っていたかもしれない。

 その恩を……今夜、仇で返す。

 芹沢から見たら、大した悪人だ。

 槍を構える原田の腕に力が入る。平山は隻眼の剣士。当然見えない右側を狙いたい所だが、この男の場合右への攻撃にはムキになって打ち返すので絶対食らわせられない。

「……行くぜっ」

 もう一方の襖を景気良く蹴り倒し、剣先を合わせる頼もしい井上に声を掛けた。


 当然、原田の声も土方と沖田に聞こえていた。

「土方さんっここは僕に任せて! 行って下さい!」

 目を合わせられないまま言った。芹沢が如何にも愉快そうにしている空気を感じながら。

「ッ馬鹿! 出来るか、んなこと!」

 確かに道場では一番強かった。他流を極めた永倉や原田を、稽古では子ども同然に扱う少年。道場主の近藤をも、本気になれば凌ぐかもしれない。

 だがそれは、竹刀での話だ。命を賭けた斬り合いとは話が違う。剣術が上手いのと、勝負に……真剣を遣う殺し合いに強いのとは全く違うのだ。

「……おねがいします!」

 しかし土方は、このいつまでも少年のような男が、自分には剣しか無いと思い込んでいる事を知っている。周りが何と言っても、剣の無い自分は誰にも認められないと決め付けている事を知っている。

 沖田は武士の家に生まれたが、食うのに困る程貧窮した実の家族に、口減らしの為試衛館道場に預けられた。

 ほんの九歳の時だ。

 その道場の跡取りが近藤だった。子ども嫌いの道場主の妻に疎まれながらも、雑用に働いている沖田を呼び出して少しずつ剣を教えてやったのが。

 沖田は……早死にした父親に重ねる様に慕っている。恩人である近藤の役に立つ事が生きる全てなのだ。

 生き甲斐を、奪えるか?

 誇りを奪えるのか……?

「しょうがねぇな」

 絶対眼を合わせない沖田に、到底叶わなそうな願いを言った。

「何か合ったらすぐに呼べよ」


「始めるか、沖田」

 沖田は咄嗟に抜刀し、構えた。

 天然理心流・平晴眼。常道の正眼よりも、やや右側に剣先が寄る独特の構え。普段ならよく、右側に寄り過ぎだと注意された事も、土方などさらにひどく左小手がガラ空きになっていた事も思い出すが、この時はそんな余裕など有る筈もなかった。

「お前、怖くないのか?」

 芹沢は軽く破顔した。

 ……そんなの、怖いに決まっている。

 目の前には、江戸を代表する三大流派の一つ・神道無念流の皆伝者。それも角刀取りの肥腹を両断した、沖田の怯えを手に取る様に知っていながらも敢えてこんな質問をしてくる、芹沢鴨。

 そして、互いの手には勿論真剣。勝ち負けの問題ですら無い。この一戦で、確実にどちらかが死ぬ。

「イヤだなぁ、芹沢さん。怖いわけ無いですよ」

 つと、一足一刀の間合いに踏み入れた。刃を横に寝かせながら。

「流石は沖田」

 その言葉を最後まで聞かず、諸手突きを繰り出した。余裕のていで躱される。

「逸るな。夜明けは遠い。その命、少しでも存えよ」

 まさか……まさか、躱されるなんて!

 払われた刀を、また素早く芹沢の喉元に合わせた。

「突きが得意とは、珍しいなぁ」

「いえいえ。僕が得意なのは、この笑顔くらいです」

 元来、突きは死に技と呼ばれ、実戦で使う者は殆どいなかった。上半身が伸びきり、失敗すれば隙だらけ。技が成功しても刀が相手の肉に食い込む。その間に今際の斬撃を受けるか、もしくは別の敵に斬られてしまう。

 しかし沖田は違う。芹沢程の腕力を持たない代わりに、俊敏さを手に入れた。

 一度突いた刀を引いて、もう一度突く。刀を寝かせるのは、命中しなくともどこかに必ず傷が付けられるからだ。

 二段突き。沖田必殺の技。

 新撰組の稽古では、一つでも必殺技を身に付けておけと教えている。真剣を遣う者にとって、一人の相手と斬り合うのは生涯一度だけ。道場試合とは違い、一度遣った技を見切られる“次回”の心配が無い。絶対に相手を殺す事が出来る技を持っていれば、勝ち続けられる。

 今使わないでいつ使う。初めてこの技で、芹沢を斬る事を決意した。

「今度は儂から行くぞ」

 芹沢は剣先をゆるゆると上げ、上段に構えた。とてつもなく大きく感じるのは、その体躯のせいだけではない。

「くっ」

 重い……!

 途端、打ち込まれるのをやっとで止めた。それでも向かってくる剣は止まる事無く、四方八方から次々と繰り出される。棍棒を振り降ろした様な重圧の一撃一撃が、躰の一部かの様に柔軟に攻めてくる。

 こんなに力強いのに、どうしてここまで疾いんだ。

 負けるかも知れない。

 十年以上剣術に生きて、初めて覚える心情だった。

 いや、それよりも。

 死ぬかも知れない。

 そしてそれ以上に。

 ……僕は剣でさえ、人の役に立てない……!

「僕はあなたを倒すっ!」

 今まで道場試合をしてきて、沖田は常に冷静だった。こう来たらこう返す。自分の得意な技を決める為に、わざと隙を見せて相手を誘う。稽古の全ての成果を出せるよう、一秒一秒緻密な判断を繰り返すには冷静でなければならない。

 わかっている筈なのに。これが刀の魔力だと、身を以て思い知る。

 冷静さ所か、我をも失った。焦りに。恐怖に。自分では無い何かに躰をつき動かされた。

 心の臓が“しまった”と早鐘を打つ。

 衝動的に大きく振り上げ芹沢の首筋を袈裟掛けに目指した刀が、鴨居に食い込み、どれだけ引いても離れない。その様に、芹沢は薄く嘲笑う。

「さらば。沖田」


 結構やるじゃねぇか平山の野郎。

 焦る原田と井上は、明らかに押されていた。

 原田の槍は、民家の中で振るうには大き過ぎてさっき捨ててしまった。代わりに刀を遣ってはいるが、やはり慣れない。

 永倉に稽古つけてもらっていればよかったと今更に悔やむ原田に次々と斬り付けてくる平山。脚に怪我を負い、疲弊する井上。

「左之助ぇ!」

 刀が折れた。猛攻をまともに受け過ぎた刀身が、ぽっきりと二つになった。

 バカか俺は!

 思い切り歯噛みした。

 信じられないが、名工の鍛えた刀でも衝撃で簡単に折れる。毎日手入れをしてでさえ、折れる時は折れてしまうのは知っていたのに。

 滅多に遣わないからと、刀の手入れを……剣術の稽古を怠っていたツケが来たのか。

 よりによって今。

 脇差しを抜くのも、井上が立ち上がって加勢するのも間に合わない。平山は刀を振り翳した。

 勢い良く、鮮血が噴き上がる。

 その血は原田のものでは無く、ついさっき勝ち誇った顔でいた平山のものだった。

「……ッひじ……か、た……」

 血に塗れた怨みの形相で振り返る背後には同じく血を、いや、返り血をその顔に滴らせる土方が居た。

 平山は倒れた。

 声を発することはできなかったが確かに最期、口元を動かした。

 その微かな息は自分を死に追いやった者への恨み言では無く、自分が信奉し続けた者の名でも無く、愛した女の名を吐き出したように見えた。

「源さん! 斬られたのか!?」

 土方は鬼の面を剥ぎ取り、井上に駆け寄った。眼に入ってしまったものを振り払うように。

 山南が斬る筈の平間が、走り去る姿。

 思えばこの時に、剣客の自分達と論客の山南、という隔たりが引かれたのを。

 平間は芹沢一派の良心……“じいや”さながらに、デカイ“坊ちゃま”の世話をする気の良い初老の男だ。対した山南は大流派・北辰一刀流の免許皆伝者。

 勝敗は、誰から見ても明らかだ。山南が逃がしたとしか思えない。

 知りたくなかった。かつて斬り合いの後には血刀の“刀拓”までとっていたという剣客は、もう居ないことを。

「……っ歳さん、わしの手当はいい。総司はどうした?」


 芹沢はよろめき、新撰組が居候している八木家の次男坊・為三郎の文机に躓いて縁側に倒れ込んだ。

「ぐぁあっ!」

 沖田の突き……咄嗟に出来た三段突きを体躯に受けて。

 あの一瞬、鴨居に刺さった刀から手を離し、脇差しで我武者羅に突いた。それが偶偶(たまたま)、今までしたことも無い三段の突きになった。

「芹沢さんッ!」

「……莫迦者! 何故……っ直ぐに止めを差さん!」

 芹沢に駆け寄り、膝を付いたのを撥ね除けられた。

「その甘さが……! お前の大将を殺すぞ!」

 僕の剣の迷いが……先生の命を奪う……!

 渾身の檄が、胸に重く響いた。

「……これで……新撰組の、膿は、抜けた」

 その言葉は小さく、風穴の空いた肺腑からの空気と共に消えた。

「わざ……と……?」

 答えを聞くことは出来る筈もなく、“新撰組巨魁局長・尽忠報国の士”はただ清浄な微笑みを浮かべた。

「さぁ、早く……やれ! 嫁が、待ち、くたびれる……」


 宵の京、雷雨の豪音を月野の足音が乱す。下ろしたての錦の裾は、とうにびしょ濡れている。

「はぁっ……着い、た……」

 立派な民家に見惚れる達筆で“新撰組屯所”と掲げられている。前を通ったことはあったが、入ろうとするのは初めて。切れる息を抑え、ぐちゃぐちゃで、今更どうにもならなそうな身なりを整える。

「左之助ぇ!」

 月野が屯所を訪れたのは、ちょうど井上の声が響いた時だった。

 嘘……新撰組が襲われてる!

 月野の心は身の危険を怖れる気持ちより、大切な人を失う怖ればかりに支配された。

 総司さんはっ、土方さまは無事なの……?

 数秒で考えを巡らせながら、中に入ってしまっていた。いくら頭に血が上っていても玄関から押し入ったりしない。縁側の方に廻った。

 首の皮を切り裂く、刀の走る音。

「……ひッ」

 誰かが斬られた。僅かに見えるのは芹沢鴨だ。

 でも悼む余裕など無かった。

 芹沢の命を絶った者が、その刀に付いた血脂をヒュンッと小気味よく払う。そう、“次の為”に、刃の斬れ味を脂に邪魔されないように。

 ……殺される!

 その場に腰から滑り落ちた月野の躰の、凍り付いて動かない脚。対して、縁側から降りて近付いてくる脚。

 雷光に、振り上げた白刃と、芹沢を斬った下手人が照らし出された。暗闇に、紅い返り血を受けた姿が浮かぶ。

 その黒髪には、見覚えのある紫苑の元結。

 その面立ちはよく知る、逢えない時でさえ心を揺らす……確かにそのひと。

「……月野さん……」

 呟くその声は……確かに。

 沖田総司だった。

 枷が外れた様に走った。来た道をひたすらに、月野は沖田から逃げた。


「総司!」

 土方、山南、井上、原田と刺客が揃って駆け付けた時、既に芹沢は息絶えていた。

 沖田は縁側の庭の先をじっと、ぼんやり見つめている

「……人に見られたのか」

「土方さん……。いいえ……見ていたのは“月”だけです」

 その言葉と目線につられて空を見ると、確かに先刻まで雷雨だった筈の雲の隙間から、月が覗いていた。


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