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第二章
第二話
しおりを挟む新体制について、試衛館派だけで話し合いの最中、山南が珍しく素頓狂な声を上げた。廊下まで、平隊士にまで聞こえるだろ、と土方は軽く睨む。
「借金二百両!」
壬生浪士組の隊服を作る為、呉服商・菱屋に二百両もの借金をしたのだ。
「そうまでして、隊服なんて必要なのかなぁ?」
藤堂がポツリと呟く。江戸にいた頃からかわいがられている山南を隣に、気が抜けているらしい。
「……やはり今のままでは、京の民にとってただの田舎浪人だからね。浪士組の宣伝に隊服を利用するのだろう?」
考え直したように平静を取り戻した山南は土方に問いかける。何でもこの男が決めているとでも思っているのか。
「隊服に関しては近藤さんと芹沢が意気投合してるからな。柄まで一緒になって決めちまった」
「ヘぇー! 出来上がりが楽しみ!」
無邪気な藤堂に土方はその柄を思い出し、危うく笑い飛ばしそうになった。
続けて、浪士組の新体制について。
まず十人で一つの小隊を編成し、以前の副長助勤がそれぞれの隊の長となる。隊の数は全部で十。他に、監察、会計方がある。
一番隊の隊長が沖田総司、二番隊が永倉新八、三番隊が斎藤一、八番隊が藤堂平助、そして十番隊は原田左之助。
「新見は局長から格下げだ」
誰もが納得の表情だ。理由に確証は無いものの、隊士一人ひとり思い当たる節が合る。局長の身分と芹沢の威の影で、ろくに仕事もせず押し借りや暴力ばかりに精を出し、大した力もないのに踏ん反り返っている者を、嫌わない隊士などいない。
いずれ、何とかしなきゃならねぇ男だ。
土方は顔色すら変えずに思った。
「なぁ、“死番”ってのはなんだ?」
「……しばん?」
眉間を寄せる永倉の横で、沖田が首を傾ぐ。
「まぁ……“死ぬ番”だな。見廻りの時、四人一組で行くだろ? で、一番に戸を開けて突入するのが“死番”だ」
「縁起でもねぇな」
と、笑う永倉含め、怯えるヤツなど一人もいない。むしろ満更でもない様子に、土方は改めて心強さを感じた。口には絶対出せないが。
「交代制だから、本人には朝から知らせて心の準備をさせる」
「戦場一番乗りはお役御免だなっ魁先生!」
原田が藤堂の背中を思いっきり叩く。若い藤堂はいざ斬り込みになると先陣を切るから、そんな徒名が付いていた。
後の新撰組の組織者である土方はこの時期、なんとか浪士組を世間に、幕府に認めさせたくて躍起になっていた。
舞の稽古中に知らせられた。
十綾が太夫揚がりをする。しばらく不在だった、月野が属する置屋・吉更屋の、太夫の座が埋まる。
太夫とは、朝廷から正五位の位を戴き、天子様の御前で舞う事を許された格別の芸妓。その辺りの武士や貴族より余程身分が高い。京に住む人々、全芸妓の羨望の的。もちろん、月野も目標にしている。
いつも一番叱ってくれて一番褒めてくれた十綾が太夫になると聞いて嬉しく、誇りに思った。
でもその時、先輩芸妓が信じられないという顔で稽古場に入って来た。
「大変! 十綾姐さんが太夫にはならへんて言うてるんにゃて!」
珍しく遅れて稽古場に来た十綾に、皆が詰め寄った。口々に理由を問われる中で、平然と微笑んだまま特別語らない。
その後月野が今夜の化粧をしていると、十綾がそっと部屋に入って来た。いつもの絢爛な衣裳では無い軽装が、しなやかさを秘めた美しさを一層引き立てている。髪は一糸の乱れも無く整っているのが十綾らしい。
「……月野、あんたは聞かへんの?」
「気になるけれど、姉さんが安々と教えてくれはるとも思えへんし」
そう言うと十綾は少し破顔って、久し振りに月野の化粧を見てやった。
十綾は芸事だけでは無く、化粧の仕方や着物の捌き方等まで熱心に教える。それもただ教えるのでは無く、化粧一つ取ってみても、一人ひとりの顔立ちや輪郭、表情に合わせて一番美しく見られる方法を教えた。
仕度が終わった頃、十綾はゆっくりと話した。ぜひにと望まれる太夫にならない理由を。
「惚れとる……お人がおるんよ。そのお人が、身請けしてくれはるって」
「わぁっ……素敵! おめでとうございます!」
身請けとは、芸妓が懇ろになった客と一緒になる為に置屋から請け出されていくこと。芸妓は自分が買われた時に、置屋が払った金を返す為に働いている。なので客は、芸妓のこれからの稼ぎ分等という多額の金を置屋に支払う。
毎夜辛い思いで身を削って働く芸妓にとって、この島原から出る事を夢見るのが生きる糧。
月野は本当に嬉しくて、自分の事のように舞い上がった気持ちだった。対して十綾は落ち着いた様子で淡々と語っていた。姉さんはやっぱり大人だなぁ、なんて感心するくらいだった。
「ありがとう。月野は、太夫になりたいん?」
「へえ! うちなんかがって思うけど、芸事が好きやから、一番目指したいし」
「そう……がんばり!」
十綾は度々、月野を可愛いと言った。実家の妹と、つい重ねてしまうとも。
だからこそ、本当の事は言わなかったのだ。
しばらくは幸せな気のまま芸妓を続けてほしいと。いつか、太夫に揚がる為に精一杯稽古する幸せ。いつか、一番好きな人に身請けしてもらうのを夢見る幸せ。
でも現実の芸妓など悲しいものだと、後に知ることになる。
十綾には、心底惚れた男がいた。見世出しの頃、初めて来てくれた男。まだ若く、裕福とは言えないのでたまにしか来なかったが、本気で好き合っていた。
しかし十綾が天神に揚がった頃から、ある金持ちの客に気に入られるようなった。月野も知っている、今でも足繁く通う男。歳が離れ過ぎている上、地位を鼻にかけるようなところが大嫌いだと、女将にだけ漏らしていた。後輩芸妓の前では、どんなに砕けても決して客の悪口は出さなかった。芸には興味も示さずに酒ばかり呑む男で、大層意地も悪い。
その男は、十綾に自分の他に深い仲の客がいると知ると、金にものを言わせ荒くれ数人を雇い、殺してしまった。
それからの十綾は見ていられない程に泣き暮らして、それでも夜には憎くて堪らない客の前で舞っていた。全て月野が、置屋に入ったばかりの何も知らない頃の話。
十綾は、その敵の元に嫁いで行ったのだ。
可哀相で仕方が無いと話していた女将も、身請けをしてくれるという客を断るなんて、絶対にできないことだった。
“壬生浪士組屯所”とでかでかと札の掛けてある立派な門に立つ若い隊士に向かって、大きな声でゆっくりと、でも割り込む隙を与えず言った。
「こちら壬生浪士組ぃのお住まいどっかぁ? あて、菱屋の家内でおますぅ。先日の二百両、返してもらいに来たんやけどぉ。芹沢局長はんはどちらにいやしゃりますかぁ?」
「……せ……っ芹沢局長はっ今、出掛けておいでだっ」
この女、男が自分の前で狼狽えるのは慣れているから、特に気にせず続けた。
「そうなん? なら、待たしてもらいますしぃ」
弱り顔の横を擦り抜け、屯所の中に入り込んだ。
「ちょっ……待て!」
困り果てる門番を余処に中にいる長身痩躯の隊士の処に走り、さらに声をかけた。
「すんまへん、芹沢局長はん待たしてもらいたいんやけど」
「はい? ……あなた、お一人で……ですか?」
振り返ったその幼げな顔は、落ち着き払って言った。自分の姿を見て、こんなに冷静な男に会ったのは初めてだ。
「へえ、そうやけど、なんか?」
「沖田先生! すみません」
どう見ても門番と同じくらいの歳恰好なのに、幹部なのだろうか?
意外さを以って見詰める間にさっきの門番が息を切らせて追い掛けて来て、女を気にしながら事の次第を説明した。しばらくすると沖田はぺこりと一礼してから言った。
「生憎、芹沢局長はお戻りが遅いんですよ。申し訳無いですがまた今度、御足労をお願いしてもよろしいですか?」
呆気に取られた。人斬りの集まりで無法者ばかりだと聞いていた壬生浪に、ここまで丁寧に扱われるとは思いもしなかった。
“沖田先生”には悪いけど、あたしはこの仕事を失敗する訳にはいかない。一銭も取らずにのこのこ帰ったら、妾のあたしは正妻にどんな嫌味を言われるかわからない。
先程の自信万面は潜め、女は呟くように言った。
「このまま帰るなんて、あてはようしいへん」
「……そうですか。では林君、案内してあげてください」
こうして女は漸く屯所内部に入り込み、広い部屋で芹沢の帰りを待った。
「はぁ……林くん、心配ですねぇ……」
「へっ?」
戻ってきた若い隊士・監察の林信太郎はまだ、妖艶な女の色気に当てられて呆けていた。慌てて、何がでしょうか? と聞き直す。
「……今の女の人ですよ」
もしかして、沖田先生!
いやぁー、平気そうな顔してたけど、実は沖田先生もかぁー。また会えるか心配ですよねー!
「芹沢さんのお好きそうな方でしたからねぇ……。芹沢さん、旦那さんがいる女の人を好きになったりしなきゃいいけど」
双方幼いゆえ、微妙に的外れな心配をする始末。
男として、 ああいう女にクラッとこないのはどうかと思う、などと変な会話さえしていた。
あの人が……あたしを裏切った!
「素人女じゃあるまいし、一人で寄越された意味はわかっておるだろう」
目の前が真っ暗で何も見えないのに、涙が次々と零れた。
泣きながら、芹沢に抱かれた。
それでもまだ、愛されていると信じたかった。
女は江戸の吉原で芸者をしている時に菱屋の主人と出逢い、お互い落ちるように恋をした。商人と言っても芸者を身請けできるような大店の主人……身分が違い過ぎる。
京ことばを覚え商いの勉強をし、皆に認められようと必死だった。菱屋も女を妻にしようと手を尽くしたが結局許されず、家が決めた少女のような若い女を正妻にし、妾に置かれた。
「梅、俺が本当に愛しているのはお前だけだ」
よくこう言って、慰められながら。
「お前には妾なぞ相応しくない。わしの女になれ」
驚くほど優しげな声で命じる芹沢の身体を突き飛ばした。
さっきまではどんなに抵抗しても動かなかった體から逃れ、お梅は走った。見捨てられた妾には、どこにも行く先など無かった。
十綾が見守る中、女将に天神揚がりをするように言われた。
「無理や! 絶対できひん!」
天神なんて、十綾姉さんの後継なんて務まるわけない。
そう思うのも当然、月野はつい最近見世出ししたばかりで、鹿恋の中では一番下。
先輩芸妓がまだまだ沢山控えているというのに、異例の大抜擢である。
「ええ加減にしいや!」
普段穏やかな十綾にぴしゃりと言われ、身を竦めた。厳しく見据える美しい瞳を見つめ返すと、またいつもの優しい顔に戻った。
「あんた、できひんなんて本気で言うとるん? 周りを見てみい。その目鼻立ち、舞、謡、三味線……あんたが一番やろ。歳なんて関係あらへん。誰よりできる妓が揚がっていくんは当然や」
「そんな! わたしなんて……」
衣擦れの音が静かに響く。十綾は深く頭を下げた。
「うちの次を任せられるんは、あんただけなんや」
綺麗な、心地よい声がよく通った。
月野の顔を見た早々、土方は明るく言った。
「おう、月野! お前“天神”になるんだってな?」
この男、公私共にとても情報が早い。“私”に置いての理由は、歩く先々で女達が袖を掴んでは、なんでも話してくれるから。そうまでして気を引きたい程に素敵らしいことは、月野も知っていた。
「もうじき天神にしちゃあ、おっ前いつも暇そうだなぁ。俺が呼ぶといつもすぐ来るもんな」
「あなたのせいで、わたしには他のお客様がつかなくなってしまったのですからね!」
そう言って、つんとそっぽを向く。そんな仕草まで愛おしく思う土方は、相当参っている事を否応無く自覚した。
最初は、興味本位だった。
大きな意志の強い瞳は好みの顔だし、一際華やかな舞姿は気に入っていたが……素直で誇り高い内面に触れ、想いが止められなくなった。
月野が暇なのは当然、目論み通りだ。
遊郭とは異質で不思議な場所だ。特徴は朝廷が政治を執っていた古代の、貴族の男女の色恋とよく似ている。一回会ってすぐにまた会わないと遊び、ということになり、続けて三回会うと周囲からも恋人同士と見なされる。そうなると、客が他の妓に会おうものなら浮気だと言われる。人気のある芸妓は複数の客を持ち、男の方では互いに取合いになる。それが原因で刃傷沙汰になる事もしょっちゅうだ。
だが、土方が“恋人”についた月野は他の客なんて寄り付く筈が無い。
それは役者風と称される容姿に加え、壬生浪士組副長の肩書きが成せる技である。人斬り集団の中でも鬼と怖れられる男と、妓で争う様な命知らずはいないからだ。
最初は月野があまりに芸妓に向かなそうだと思ったから、こいつには下心の沸かない俺が守っといてやる、ぐらいのつもりだった。好きでもない男に抱かせるのは忍びなかった。
しかし元々、求められるばかりで自らはのめりこもうとしない自分が、女の為に何かしてやろうとか考える時点で心は奪われていたのだと、今更ながらに気が付いた。
「お前みたいな奴、俺んとこにもいてな」
そう始めて、終始、優しげな目で語った。俺んとこ、とは壬生浪士組のことだ。
「人斬りなんて全然向いてねぇ癖に、刀を持てば誰より強え。……一番隊隊長の沖田。知ってるか?」
月野にとって、聞いたことの無い名だった。
芸妓達の口に上る隊士といえば、顔格好の良い者ばかり。まず十番隊隊長・原田は土方とは違う雰囲気の、如何にも男らしい凛々しい容姿で槍の名手。後は女の様に美しいという、楠小十郎、佐々木愛次郎、馬越三郎、馬詰柳太郎、山野八十八の所謂“隊中美男五人衆”。そして最近はめっきり月野の恋人としても有名な土方。
「いや、知らねぇか。あいつはこの界隈には寄り付きもしねぇ野郎だからなぁ。いい歳して困ったもんだぜ」
それを聞いて吹き出した。
「そのかたが島原に通ったりしたら、土方さまは余計に心配で、困るのではありませんか?」
弟を心配するような表情を見せる土方は少し考えて、そうかもなと頷いた。
「似合わねえ仕事の癖に、人一倍上手くやれちまうとことか……似てるよな」
そう言って含み笑いをするので、他にはどこが似ているんですかと訊いたが、秘密と言い張って話を逸らした。
「ひとつ、士道に背くまじきこと……ひとつ……」
「土方さぁーん、僕ですー」
「って総司! いいって言ってから入れ!」
今書いていた物を咄嗟に隠し振り返ると、碁盤を抱えながら訝しげな顔をする沖田が突っ立っていた。
「もしかして、新作ですかっ? 豊玉宗匠!」
「違ぇよ。始めンならとっとと碁盤を置いたらどうだ。お前のケツもな」
土方が一人で何か書いていたら絶対句作だと思い込んでいる。勝ったら見せろ、と言いながら沖田は腰を降ろした。竹刀胼胝の目立つ掌で顔を仰ぎながら、溜息を吐く。
「京の夏は蒸し暑いですねぇ。この真ッ昼間から幕府の偉い人とお話だなんて、先生は大変だなぁ」
―ぱち。
「新見さんは近頃見かけないですし、隊士の皆が落ち着きませんねぇ」
―ぱちっ
「芹沢が女を連れ込んでるからだろ」
―ぱち。
「ああ、お梅さんですね?」
―ぱちっ
「図太ぇ女だよなぁ。手籠めにされてからずっと居座ってやがんだから」
―ぱち。
「……」
―ぱちっ!
……何でおめぇが怒んだよ、つか誰に怒ってんだ?
と、思いつつあくまで真面目ぶった顔のまま、土方は次の一手。
―ぱち。
「……それよりお前。最近、女に惚れたろ?」
「なっ……何、言ってンですかぁっ!」
見るからに狼狽し、顔を真っ赤にする沖田。問い質す気がさらに湧く。
「ガキの頃から風呂嫌いで服装もだらしなかったお前が、今は……」
「もうっ! それは、僕が大人になったってことですよーう!」
そう口を尖らせる沖田に止めを刺す。
「俺をはぐらかそうとしたって無駄だぜ。……その紫苑の元結、どうしたんだよ」
「えっ!」
尋問がいよいよ佳境に差し掛かった時、地響きが廊下を打ち鳴らして近付いてきた。
「歳っ! 俺だ!」
吹っ飛ぶ程の勢いで障子が開かれる。
「かっちゃん、あんたもかよ!」
「戦だ! 長州との戦に、俺達壬生浪士組が会津藩の兵として参加できるぞ!」
相変わらず声がでかい。局長近藤勇が、喧嘩前の餓鬼大将の顔に戻っている。だから土方もつい、昔の徒名で呼んでしまう。
「やっと……やっと、大樹公の御役に立てるのだ!」
今度は涙ぐんでいる。
「よかったですね、先生!」
総司の奴、調子を取り戻しちまったじゃねぇか。
土方のみ秘かに舌打ちを響かせながら、武具を揃える為に部屋を出た。その準備中、珍しく真剣な表情で、沖田がヒソヒソ話し掛ける。
「土方さん、ちょっと」
こいつでも初陣は緊張するもんなのか、と顔を近付けた。
「土方さんこそ、大切な句帳が最近見当たりませんが……どこに行ったのでしょう?」
「るせッ! 無駄口叩いてねぇで支度しろ!」
にやにやしやがってこの野郎。ヤケに勘がいいのは、やっぱガキだからか?
一方で土方は思った。
本気で徳川幕府を心配して、本気で命を賭けて盾になろうとしているかっちゃんこそ、武士では無いか。
農民出だって関係ねぇ。
誠の武士だぜ……。
だが今夜もう一人の“誠の武士”を目にすることになる。普段、飲んだくれてどうしようもないはずの、巨魁局長・芹沢だ。
文久三年八月十八日。
下ろしたての、浅葱地に白くだんだらを染め抜いたぶっ裂き羽織を身に付けた壬生浪士組は御所ヘ急行した。
この隊服は当時から大流行の歌舞伎、『仮名手本忠臣蔵』で赤穂志士四十七士が吉良邸討ち入りを決行する際のだんだら模様の羽織衣装を真似たものだ。そしてその色は武士が切腹を賜る時に付ける裃、切腹裃の色である浅葱色。つまり赤穂志士の様な忠誠心と、常時命を賭し死ぬ覚悟で幕府にお仕えする、との意気を表している。
死に装束を纏い、刀を振るう。如何にも両局長が好む心意気だ。
土方は、こんな派手さ、野暮ったくて気に入らねぇと漏らしていたが。
後世には“八月十八日の政変”と名を残す今夜、近藤の予想していた様な大合戦にはならなかった。
朝廷政治を攘夷派が牛耳り、京市中では“天誅”と称した殺戮が蔓延していた。その中心である七公卿と長州藩士が、十津川へ落ちる。これは会津藩と薩摩藩が結託し、朝廷の意向にて成し遂げた長州・攘夷強行勢の一掃だった。
壬生浪士組の任務は、七公卿を警護する天誅組、桂小吾郎、坂本龍馬等錚々たる志士が京から引き揚げる際の御所警備だ。
「はじめさぁん、なんかおかしくないですか?」
いつもながら、気配を消すのはやめて欲しい。
元々寄り気味の眉間をさらに縮めながら斎藤は思った。自分とは、正反対だと。
後々、大勢の人間を斬っておいて“人斬り”の異名を冠せられなかったのは、この国の歴史上に沖田総司だけだ。誰より……恐らく日本一、人を斬っていてもそう呼ばせない、呼べない何かがこの剣士にはある。
互いに壬生浪士組随一の剣客だが、雰囲気はまるで正反対の二人だ。
見つめる先に目を遣ると、御所の門に立つ会津藩士数十名が不審な輩を見る目でこちらを警戒している。
そこへ先頭の近藤が声を掛けたが、何やら追い返されかけている。
「行きましょう!」
沖田は走り出そうとしたが、事態は思わぬ方向へ動いた。
「会津兵のくせに壬生浪士組を知らんとは。貴様等が偽物ではないのか」
芹沢が、自慢の大鉄扇で肩を叩きながら前に出た。
「何ッ! 無礼な!」
藩士達は一斉に、手持ち槍を向けた。
「大した覚悟も無しにわしに刄を向ける事こそ無礼であろう」
自らに向けられた切っ先を鉄扇で退かす。
「憶えておくがよい! 尽忠報国の士・芹沢鴨率いる、壬生浪士組! 御花畠迄免り通る!」
大喝一声が響き渡ると、会津藩士は無論隊士も圧倒され、誰一人言葉を発する事もできなかった。会津藩士達が何も言えず立ち往生していると、芹沢はずいと門の方へ進んで行く。そこへ騒ぎを聞き付けた会津藩公用方が門の中から出て来た。
「大変失礼した! こちらの伝達違いであった。面目無い、さぁどうぞ中へ」
こうしてやっとで任務に就いた。
会津兵の証である黄の襷を頂いても、まだ芹沢は顔を顰めていた。対して近藤は嬉しそうに、だが旧知の土方でさえ見た事も無い様な真剣な面持ちだ。
成る程芹沢の自尊心の高さが伺える。尤も不機嫌だったのは、腹心の新見錦がこの様な日にも姿を見せなかったから、とも推測できる。
土方はひとり、まずいなと空を睨む。これでは会津に、芹沢こそ浪士組の隊長だと印象付けただけだ。近藤がまるで脇役である。
「“大した覚悟も無しに”かぁ……。やっぱり芹沢さんはすごいや」
微笑しながら警備に付く沖田は感心した風を装い、あの対峙する甲斐の有りそうな武士を“いつ斬るか”を狙う剣客だった。土方の思惑を知っているかのように。
決して、残虐なのではない。ただ純粋であるがゆえに、先生と呼び崇める、近藤の為ならば何でもするという危うさを併せ持っているのだ。それを土方は、これから何度も利用していくことになる。
結局、活躍の場だと期待していた騒動は起こらず、後に言う“七卿落ち”は無事に終わった。
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