沖田氏縁者異聞

春羅

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第一章

第一話

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 今でも心を捉えて止まないのは、笑い合うときの輝き、心配するときの優しい声、腕に頬に、触れるときの温もり、すべて押し流してちらりと浮かぶ幸せな記憶。それだけ残してわたしから遠ざかる背中。

 縋ることもできなかったこと、やっと後悔しなくなりました。あなたらしく生きるのを、邪魔するなんてできなかったから。わたしだけを見てなんて、決して言えなかったから。

 人生の始まりの日を、鮮明に覚えている。

 文久三年、春五月。

 後の世に“幕末”と呼ばれる時代。

 十五の少女は、京にいた。

 島原の老舗置屋で働いていた少女が、初めて芸妓としてお座敷に出る日。

 生涯忘れない、忘れられない出逢いの日。


 お座敷に出るのはどうしても怖かった。

 覚悟をしていた筈なのに、何が悲しいのか自分でもわからないままに、ただ涙が溢れた。覚悟……なんて本当はできていなかったのかもしれない。本当は、いつ逃げ出そうか考えていたのかもしれない。

「うん、もう大丈夫!」

 急に泣き出してしまった少女に、女将は優しく声を掛けた。

 少女は置屋の女将を“お母さん”と呼んでいた。実の親は、九歳の娘を遊郭に売ったのだ。実の娘のように可愛がられた。親を恨む気持ちなど起こらないくらい、すっかり忘れてしまうくらいに。

「そないに嫌やったら、無理に今夜やなくてもええんよ」

「平気! 少し緊張し過ぎただけだもん。踊りが上手くできるか心配だったの」

 笑顔を作って嘘をつくが、全てを見透かすような優しい眼差しに、ぷいと視線を逸らす。

「そやったらええけど。……あんたは誰が見ても可愛らしい顔してはるし、舞も可憐や。でもな、その言葉だけはなんとかならんの?」

 わざと意地悪そうにして、冗談ぽく言った。

「はぁーい。気を付けまぁす」

 江戸の生まれなので、気を付けていないと訛りが出てしまう。やわらかな京ことばがお座敷では好まれるのに。

 幸い、江戸弁が出てしまうのは心から安心できる女将の前だけだった。舞の先生の前でも、同じ置屋の先輩芸妓の前でさえ、自然と京ことばで話した。

「そないな生返事して。もうええから、その辺出かけておいで」

「えっ! いいの?」

 本当の芸妓になったら、昼は稽古で夜はお座敷。今までのように好き勝手に、たくさん外には出られない。

 “外”というのは遊里・島原の外。ここは世間から切り離された場所。土堤で囲まれ、大きな門で閉じ込められた京格子の檻。男の極楽・女の地獄。憧憬を浴びる綺麗に着飾った女達には自由などないこと、毎日痛切に苦しみながら、それぞれ忘れた振りをして楽しく暮らす。

「ええよ。はよ行き」

 笑顔に見送られ、駆け出した。よく考えもせず。

 女将は“逃げなさい”と言ったのかもしれない。

 芸妓になんてなりたくない。

 好きでもない、初めて会う男のひとに、心から笑えない。

 でも今まで育ててくれた“お母さん”に、恩返しをしたい。

 子どもながら、その気持ちは本物だった。

 最後の外出のような気持ちでひたすら歩いた。もちろんこれからだって買い物はするし、遊びにも出かけられる。

 変わるのはただ少女のみ。

 今日で別れを告げる。

 自由な子どもだった時には、戻れなくなる。


 かなり歩いた気になった。

 しかし気持ちと同じに足取りも重く、まだ十町先の壬生村までしか来ていなかった。その名の通りに名物の壬生菜畑が広がるのどかな風景。常なら落ち着くような景色も、見る余裕もないままにただ歩いていた。

 ただ時間はすっかり過ぎていた。

 壬生寺の境内から望む陽は沈みかけ、そこかしこで遊ぶ子ども達の姿を橙の空が優しく包む。和やかに眺めている場合じゃない。とうに置屋に帰って、化粧を始めていなければならない頃だ。首の辺りまで白粉を塗る化粧の上、初めてだから時間がかかる。それもこの少女、ひどく不器用だ。

 振り返り、走ろうと大きく一歩。

 途端、反射的に眼をぎゅっと絞る。かなり強く、ぶつかってしまった。

 ぐらりと身が後ろに倒れる。何かに頼ろうと伸ばした腕を掴まれ、引き寄せられた。

 全部が、瞬きの間のような早さで。

「大丈夫ですか?」

 恐る恐る、ゆっくりと瞼を開いた。

 まず、しっかりとしがみ付いている手。そして藍染めのあわせと胸。少女が始めて間近で見る、男の胸だ。

 抱き留められた胸を離れ、見上げると心配そうな顔。

「ごめんなさい!」

 青年は、本当にすまなそうな顔をしていた。

 急に駆け出そうとして、人にぶつかり、転びそうになるのを助けられた。戸惑い、しばらく茫然としてしまっていた。そして明るい、よく通る声にハッとした。

 どう考えても自分が悪いのに、ぶつかってしまった相手に先に謝られてしまったと。

「いいえ! わたしの方こそ、申し訳ございません!」

 お辞儀をしたときに無意識に目にした腰元は、一本の刀も佩いていなかった。

 青年は安心した顔になり、直後に頬をさっと赤くした。

「すみませっ……!」

 握ったままだった手は慌てながらも優しく離された。その手を仙台平の袴の後ろに隠す。暖かい手を少しも嫌だと感じなかったから、少女としては謝られるのが不思議にすら思えた。

「ソージが悪いんやで! ひょろひょろ走っとるからぁ」

「ミチがそうじの手ぇひっぱっとるからやろぉ!」

 周りにいた子ども達が口々に言った。小さいけれどしっかりしている。こんなに遅くまで遊んでいるのは壬生村の子でもだからだ。

「ああ! ねえちゃんケガしとるで!」

 足首が腫れていて、少しでも動かすとズキズキと痛んだ。挫いたらしい。今夜、ちゃんと舞えるかなぁ……なんて、本気で心配しているのかよくわからなかった。

「あっ……僕に、送らせて下さい!」

「ソージ、おぶってあげればええやん!」

 確かに、くすぐったいような嬉しさを感じていた。

 けれどこの青年には絶対に、知られたくなかったのだ。

 自分が島原の女だとは。

「いいえ、一人で帰れます」

 そんなつもりはないのについ、冷たく突き放すように言ってしまったことをすぐに悔やんだ。

 拒絶した理由と同じくらいの強さで、良く思われたい。

「……そうですか……ごめんなさい……」

 また、謝られてしまった。悪いのは自分だと歯噛みした。

 青年はシュンとしてから、小声であっと呟くと、懐をゴソゴソ探り始めた。

「……これ! 打ち身の薬です。なんと、焼酎で飲むんですよ!」

 手渡された袋には“石田散薬”と大きく書かれていた。

「焼酎で……?」

 疑っているわけではないが、ついしげしげと袋を見ていて礼を言う間もなく、青年はその場に俯き、土に棒切れで何かを書いている。

 “総司”

「僕、総司っていいます!」

 しゃがんだまま少女を見上げ、にっこり笑いかけた。

「あ……わ、わたしは、月野と申します」


 安心する、元気になる……そんな笑顔の人に出逢ったのは初めてだと思った。初対面ではないみたいだと。

 大らかな字を書くひと。多分、子どもが大好きなひと。その癖、笑うと子どもみたいで、表情がくるくる変わるひと。

 ヒョロッと背が高くて、肌は少し浅黒い。総髪の髪を一つに結い上げ、肩の辺りまで垂らしていた。

 その辺りの武士より余程礼儀正しいくらいだが、刀を差していなかった。しかし全然町人には見えなかった、というより月野としては武士にしか見えなかった。武士の異名は二本差し、というようにどこに行くのにも必ず大小二本の刀を差しているものだが。

 慣れない化粧をしながらあの青年……総司の事ばかり考えていたので、余計に化粧が遅くなった。

 また、会えるのかなぁ。

 そんな時、先輩芸妓が血相を変えて部屋に入ってきた。

「大変や! 今日は壬生浪が来るで!」

 “壬生浪”

 女将に大切に育てられ、いい意味でも悪い意味でも箱入り娘のような世間知らずでも、その名は知っていた。

 第十四代将軍・徳川家茂が上洛する時、警護の為に掻き集められた江戸の浪人達。百五十名もの猛者が物々しく京の町に踏み込んだが、その後すぐにまた江戸に引き返した。

 たった十三人だけを残して。

 その十三人は、京都守護職である会津藩主・松平容保預かりの下、“壬生浪士組”の名を得た。でも京の人々は彼らを“壬生浪”や“壬生狼”、少し前までのみすぼらしい姿から“みぼろ”などと呼んだ。

 今ではどこから資金を集めたのか、よく遊廓に現れるようになった。中でも巨魁局長・芹沢鴨は、遊廓に来ては酔って暴れると頗る評判が悪い。

 芹沢鴨……京に住むもの、特に遊廓にいるものにとっては、嫌悪の対象でしかなかった。少しでも気に入らないとすぐに暴れ、三百匁はあるという大鉄扇で家具を壊し、人を殴った。屈指の老舗揚屋である角屋でさえ、七日間の休業を命じられている。夜伽を断ったことから髪を切られた妓が二人もいるというが、芹沢鴨本人は二人とも斬るつもりだったのを同席していた隊士・永倉新八がとどめたらしい。

 何年も経験のある先輩芸妓達さえも、緊張が隠せず、ただ気持ちを強ばらせながら彼らの訪れを待つしかない。

 月野は、初めてお座敷に出る恐さと芹沢鴨に酌をする怖さ、どちらなのかわからない気持ちだった。


 春といっても、黄昏時はやはり肌寒い。遊廓にも夜がくる。白粉の香、客引きの声。軒を連ねる暖かそうな明かりが、黒塗りの格子を浮かび上がらせる。

 芸妓達は壬生浪が来るのを二階の小部屋から見下ろしながら、口々に彼らの悪口を言っている。その場所は玄関から入ってくる客からはちょうど見えなくなっていたので、よくこうして、客を逆に値踏みしていた。

 月野は結局間に合わなかった身仕度を、女将に小言を言われながら手伝ってもらっていたので、とてもそれどころではないが。

「あっ! ……あれが芹沢鴨やで!」

 その姿を見ようと、先輩芸妓が集まる小窓の傍に駆け寄った。

「こらっ!」

 ちょうど仕上げをしていた帯がはらりと崩れる。

「ごめん、お母さんっ」

 間に入り小窓を覗いた。

 一目で、かの人とわかる“尽忠報国士  芹沢鴨”と書かれた噂の大鉄扇で自らを仰いでいる恰幅の良い男。

 側には狐のような顔をした頬のけた男と、隻眼の男が従う。その眼で周囲を睥睨しながらの大喝が響く。

「こちらは、壬生浪士組筆頭局長・芹沢鴨先生である。丁重に持て成せい!」

「へえ! 心得ましてございます!」

「月野おいで! はよ支度せな!」

 玄関先でぺこぺこする番頭を尻目に急いで戻る。まだ続々と壬生浪達が入ってきている様で、芸妓達は彼らの風貌に一喜一憂していた。

 ちょうど、やっと支度を終えた時だった。

「いやあー! かっこええ!」

 急に陶酔の溜息を漏らしながら、様々に誉め出した。身悶えでもしそうな勢いで。月野が置屋に入ってから今まで、聞いたことの無い程の絶賛の嵐だった。

「やっぱ男前やなぁ。あの人きっと、土方歳三はんやで!」

「ええ! 壬生浪士組副長の?」

「他の見世の達が、えらい綺麗な顔や言うてはったけど……ほんまやなぁ」

「でも、泣かされた妓が仰山おるらしいでぇ」

「それでもええ! うちも遊ばれたいわぁ」

「あほやなぁ、別嬪しか相手にせえへんって有名やん」

 もう、聞いているのも恥ずかしいくらい、芸妓達は夢中だった。中には、とうに“歳さま”呼ばわりで褒めちぎる者もいる。

「見てぇ! 歳さまのあの長い黒髪ぃ! やっぱ、ええ男はんは総髪やなぁ」

「ちょっと、月野もこっち来て歳さま見てみぃ! 歳さまなぁ、赤い元結してはんねんで!」

「うちはええ! そんな女ったらし好かんもん」

 ぷいっと“歳さま”とは反対の方を向くと、女将がお腹を抱えて笑いを堪えていた。よく顔に似合わずキツイ性格だと言われるが、本心なのだから仕方がない。 

 二枚目の女好きなんかより、明るく朗らかで、いつも笑顔な子ども好きの方がよっぽど好きなのだから、などと見当違いに開き直った。

「月野、ちょお、おいで」

 同じく興味の無さそうな、天神の十綾とあやが呼んでいる。最高位の太夫に次ぐ位の、月野が一番憧れ、尊敬する芸妓だ。舞も謡も一流で、落ち着いた女性。次の太夫は十綾天神を置いて他にはいない、と名高い。

「これ神棚にあったんやけど、あんたのやろ?」

 十綾は総司に手渡された“石田散薬”を差し出す。

「あっ……へえ、うちのどす!」

 かぁっと紅潮していくのを感じた。

「やっぱりなぁ。薬を神棚に飾るなんて変わりもん、あんたしかおらへん」

 女でも見惚れて吸い込まれる美貌が、呆れ顔になった。

「せやけど……なんや、飲んでしまうの勿体のうて」

 本人無意識ながら、可愛いと言われる癖の一つ、上目遣いに見上げた。

「勿体無いてあんた、薬飾ってどないするん?」

 ますます顔が赤くなる気がした。

 どうすると言われても、せっかく貰ったものを無くしたくなかっただけなのに。もしかしたら、もう、会うことも無いかも知れないかたに貰ったものだから。

 そんなことを考えているうちに、十綾は笑顔に変わっていった。

「……堪忍な、もう野暮なことは言わへん。これ、惚れとるお人にもろたんやろ?」

「ええっ!」

 その美しさに魅入る間もなく、思いもかけない言葉に動揺した。

わたしが……総司さんを……?

 本当に、世間知らずで生きてきた。

 親に捨てられたのを置屋の女将に拾われ、大切に育てられた。女将に恩返ししたい

 一心で、立派な芸妓になる為に日がな一日中、血反吐を吐くような厳しい稽古に明け暮れた。

 思えば男性とまともに話したことなんて、十五の今まで無かったような娘。男を好きになるなんて感覚が、全くと言っていいくらいわからない。

 動揺するのに構わず、十綾は続けた。

「その男はんやって、あんたを心配してくれたんやで。後生大事にしまっとくより、ちゃっちゃと飲んどいた方がええ」

 好きかどうかはともかく、確かに十綾の言う通りだ。折角もらったのに、飾っておくだけなんてそれこそ勿体無い。

「わかったらその脚、早う治し」

「……へえ! おおきに!」

 何でもお見通しだった。

 去り際に、聞こえない小さな声で、

「うちの後の天神はあんたやで……しっかりしい!」

と、言っていたのを、傍で聞いていた女将から伝えられるのはまだ先のことだった。

 そろそろお座敷に出る時間。

 “石田散薬”をじっと見つめた。手のひらに振りつつ傾けて、かさかさと小さな包みが出てきたのを一つとり、残りを丁寧に中に戻す。これだけのことに何だか慎重になってしまう。焼酎なんて飲んだことがなかったので、水を使って喉に流し込む。

「……! にっが……」


 つい口に出る程に、すごく苦い。まさに苦虫を噛み潰したようだ。こんな苦過ぎる薬、どんな人が作ったのだろうと、やや涙目になる。

 今更飲んでも効き目が間に合わなそう。でも体の中にある薬をお守りと思って、お座敷に入った。


 舞扇を持つ手が震える程の、脚の痛みも忘れる程の緊張。精一杯舞いながら時折流し目の先で、今夜の客を見渡す。

 芹沢は既に酔っていて、顔を赤くしている上に眼が坐っている。呑むばかりで全然舞など見ていない。狐顔の男は芹沢に何やら耳打ちをしながらにやりと笑う、という仕草を何回か繰り返していた。隻眼の男は他の隊士とわいわい言いながらよく食べ、よく呑んでいる。

 そして、さっきわざわざ見なくとも、誰が土方歳三かはすぐにわかる。

 女のように色が白く、やっぱり芸妓達の言う通り端正な顔立ちで、全く呑んでいる様子はなく、無表情のまま舞を見ている。

 月野は“平隊士”ばかりに酌をした。

 九歳という異例の遅さで置屋に入った。お座敷に出る前の格付けで天神に次ぐ位の鹿恋かこいを得たが、もちろん今夜のお座敷ではまだ一番の新人。

 十綾は局長の芹沢、狐顔の新見錦に酌をし、他の芸妓は年かさの順から副長の土方歳三、副長助勤の隻眼の平山五郎に侍る。

 壬生浪士組は旗揚げの十三人から新たに隊士を募り、今は五十人にもなるらしい。その内十四人もが登楼していたので、芸妓達は大忙しだった。

 舞っている時には平気だった脚が、隊士の傍に正座する度にひどく痛んだ。

 芹沢は、今夜のように機嫌が良い日にはとても好人物に見えて、周りを笑わせる気さくな人物だった。新人にも気軽に声を掛けるし、恐ろしさは全く感じないので、あの噂の方が嘘なのではと思うくらいだった。

 逆に土方歳三はほとんど話もせず、たまに口を開くと、

「そうですか」

と、畏まった感じで、いくら芸妓が媚を売ってもなびく様子はない。

 土方歳三とは全然関わることもなく、宴の夜は更けていった。

「土方くん、そろそろ部屋に行くぞ! 早く好みのおんなを選べ!」

 酔って赤ら顔をした芹沢が、ふらりと立ち上がった。つまり、今夜は泊まっていくつもりらしい。

 もともと、島原で客が泊まることは許されていない。でも芹沢始め江戸から来た浪士達は京の常識をまるでわかっていないらしく、彼らの前ではこの島原も、江戸の吉原に成り代わる。常識を説いて芹沢等の逆鱗に触れた結果は、他の揚屋、置屋の例で痛い程に知っていた。

「いえ、私はこれで帰ります」

 ほとんど呑まなかったらしく、真っ白な顔のままで座っている土方歳三が、さらりと言った。

「なにぃ、わしの誘いを断るのかぁ?」

 さっきまでの好漢とは一変、もっと顔を真っ赤にして凄む芹沢に、周りはいつ暴れるかと気が気じゃないのに、当の土方歳三は流れるような眉をぴくりとも動かさず、涼しげな顔をちっとも崩さない。側の新見がさらに付け加えた。

「貴様ァ、先生のお言葉に従わない気か!」

 芹沢の機嫌を常に窺っているような見た目通りの狐だが、三人いるという壬生浪士組の局長の一人なので、土方歳三より上の役職だった。

「……わかりました。では……」

 土方歳三は立ち上がり、芸妓を見つめる。

 最後まで、なんだか気取っているひとという印象だった。やっぱり、こういうひとはあんまり好きじゃないなぁと、月野は指の爪をぼんやり眺めていた。

 その時。

 急に手を掴まれ、はっと見上げた。

「この女にします」

 月野の手は、白粉する前と同じくらい白い手に繋がれていた。

 先輩芸妓はお座敷を出ていく土方歳三と月野の姿を、顔を顰めて見守っていた。もちろん、いくら土方歳三贔屓でも誇り高い島原芸妓。嫉妬しての事ではない。まさか芸妓に成り立ての月野が、部屋に行かなければならないなんてと、憐れむ表情がありありと伝わってきた。


 遠くに他の見世の三味線の音が聞こえ、さらに近くの部屋に入った芹沢等の声も遠く聞こえる。

 けれどシンとしたこの部屋では、衣擦れの音がいやに響いていた。お酒の道具一式と、蒲団が一組に枕が二つある。

 壬生浪を嫌がりながらも、最近祇園や上七軒に押されて落ち目らしい島原は、芸妓にお構い無しに彼らに順応してきている。

 えもいわれぬ寒気を感じていた。

「こちらへ」

「……へえ」

 入り口で突っ立っていた所を呼び掛けられ、とりあえず酌をしようと座った。別にこの男が特別恐いというわけでは無いにしても、銚子を持つ手が震えてしまう。

 近くで見ると、くっきりとした切れ長の二重で、睫毛が陰る程に長く、傍に寄り難い空気が伝わってきて、まともに顔も合わせられない。

 そもそも、この男がなぜ自分を選んだのかがわからない。こうして部屋にいても話し掛けてくるでもなく、愛想よく笑うでもなく、変わらず無口で、不愛想で、無表情な男。

 沈黙の中で、何もないまま早く時間が過ぎればいいのにと思っていた矢先だった。突然、銚子を持つ手を引かれ、その胸に倒れこんだ。

「いやっ……!」

 乾いていて弾けるような、島原中に響いていそうな音。土方歳三の整った横っ面を、思いっきりひっぱたいた音だ。

 ……殴られる!

 刀は玄関先で必ず預かるので、いきなり無礼討ち、という命に関わる危険は考えなかった。

 それでもあの壬生浪士組の副長を平手打ちにした。どんな乱暴をされるかわかったものじゃない。

 こぼれた酒がとくとくと、畳に染みを作っていく。

「すっすみまへん!」

 夢中で手を付いて謝った。

 どうしよう、叩かれた方を向いたまま動かない。当たり前だけど、絶対、すごく怒っている。とっさに手が出るなんて。

 もう激しい後悔で、ここから今すぐ出て行きたいくらいだった。

「……ってぇー」

 え……?

「おっ前、叩くかぁ? 普通。それでも天下の島原芸妓かよ?」

 赤く腫れた頬を押さえながらこちらを振り返る、最後の言葉にむっとしつつ、それより気になるこの態度。

 あなた……誰ですか?

「そりゃあ俺もからかったりして悪かったけどよ……。でもなぁ、お前の手は人を叩く手じゃねぇ。舞扇を扱う手だろうが。傷でも付いたらどうすんだよ」

 月野はやっとで口をきいた。

「あのぉ……、叩いたことはほんまにすみまへん。……えっと、土方さま……さっきと随分違うおひとみたいやけど」

 我ながら正直者だと思いつつ、聞いておかずにはいられない。

「ありゃ“公用”だな。お前も本当は江戸の生まれだろ?」

 一夜でこんなに大失敗する芸妓も珍しい。

 島原の芸妓は全員京生まれの京育ちと決まっている、というのはもちろん建前で、実は各地から売られてきた子どもの集まりだ。みんな必死で京ことばに慣れ、完璧に話す。客にばれるなんて持っての外。いくら気を許している女将の前でも、江戸弁は使ったらだめだといわれた意味が身に染みてわかる。

 そういえばわたし……と、今頃思い出すと、お母さんの前でしか話さない江戸弁を総司さんには話していた。やっぱり、とっさの時にどうしても使ってしまうみたいだと、この時は単純に考えていた。そう、そして土方にも。

「あの……他のお客様には……」

「別に言い触らしたりしねぇって。ま、俺は甘ったるい京弁は好かねぇから、俺の前ではそのままにしてな」

「ありがとうございます!」

 なんだか変なところで気が合うひとだ。わたしも、言いたい事を包み隠すような京ことばはあまり好きじゃない。

 月野は、素直に笑顔を見せた。笑うと余計、屈託のない無防備さだ。

「お前、名前何ていうんだ?」

 あ……決めていない……!

 今訊かれたのは当然源氏名。芸妓としての名前は、普通お座敷に出る前に女将が付けるものだ。

 しっかり者のお母さんでも忘れることがあるんだなぁ。それとも、本当に逃がすつもりで付けなかったのだろうか。

「まだ……ないんです」

「ねえのかよ! ……じゃあ、俺が付けてやるよ。ちょっと待ってな……」

 なんだかあっさり言われた。しかし懐紙を取り出してさらさら書きながら、思ったより真剣に考えている。

「よし、……“月野”なんてどうだ?」

 初めて、驚かされてばかりのこの男の顔をじっと見つめた。

 すると、すっと席を立った。

「じゃあな、月野。また来る」

 言うより早くもう襖を開けているところへ、ちょうど他の隊士が通りかかったらし
い。

「土方副長! もう帰られるんですか?」

「おう。こんなくそガキ、抱く気にもなんねぇ」

 今度は背中目掛けて枕を投げ付けてやった音が鈍く響く。

「いってぇっつーの!」

 こんな二重人格男、大ッ嫌い!


「ただいまぁ」

 女将の部屋に入ると、すごく心配そうな顔で迎えられた。

「あんた、壬生狼の副長はんに呼ばれはったんやて?」

「お母さん、うちの名前な……」

 あのひとの話はやめてと、思いながらすぐに話を変える。

「……忘れとった!  堪忍なぁ」

 やっぱり、わたしを逃がす気だったんだ、きっと。
「ええの。うちは“月野”で芸妓やるし」

「あんた本気で言うてんの? ……ええわ、あんたの好きにしぃ。言葉もやっと直ったしな」

 芸妓になった日の夜が更けていく。

 生涯忘れない、忘れられない出逢いの日。

 永遠に魅了して止まない愛しい人の面影は、わたしの人生で、消えない光を灯し続ける。
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三井 寿
歴史・時代
 豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。  義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。  下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。  大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。  女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。  だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。  その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。  島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。  その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。    

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