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後編
しおりを挟むヒタリヒタリと、足音が聞こえる。
望もうとも拒もうとも、どちらにせよその音は止まない。
時に残酷に緩慢と、時に華麗に疾風の如く。
もし、こうだったなら。
残されたものはただ、思い描くしか許されない。
生きる者は次の波に怯えつつ、眼前の高き壁をただ、登るのみ。
その先に何があるか、本当はすべてわかっていた。
それでも進むことをやめなかった。
止まることのほうが恐ろしかったのかも知れない。
生きる意味を、死に場所を、失うのが怖い。
ならば吸って吐く息の、早鐘を打つ鼓動の絶えるまで、奔れ。
――……
「はぁっ……はぁっ……」
クソッ! なんだってこんな時に……!
乱れる隊列で、只管に向かうは新選組の揺るぎなき大将・近藤勇のもと。
上がる息と、制御の利かない、余裕を許さない鼓動。
心情を覆うのは理不尽な怒りだけだった。
なんで此処に……新政府軍の野郎が来やがるんだ……!
慶応四年四月三日。
その前日から下総国流山に滞陣していた甲陽鎮撫隊……敢えて言おう、正式名称・新選組は、新政府軍東山道軍に突然包囲された。
しかし突然と思ったのはどうやら新選組側だけのようだ。
折しもその時は、事を思惑通り運ぶには絶好の機会といっていいだろう、大多数の隊士が駐屯地を遠く離れ、調練に勤しんでいたのだ。
残されていたのは、絶対に奪われてはならない王将・新選組局長近藤勇と、見習い隊士的な立場でしかない年端のいかぬ小姓含む護衛隊士数名、そして副長土方歳三。
新選組の精神的主柱は近藤勇だが、その規律・統制・実務的なことをすべて執り仕切ってきたのは紛れもなく、かつて鬼とその名に冠せられた土方歳三その人である。
低い衝撃音は、周りの怒声によって掻き消される。
それを物ともせず、自身の数倍はある図体の男に羽交い締めにされながらも発するのは、まるで叫び声だった。
「お前がついていながらなんで……っ! なんで局長を渡しちまったんだよ!」
駆け付け一発、強かに殴り飛ばされた土方はそのままの姿勢で項垂れている。
あの自尊心の塊のような男が地を這ったままに、ニヤリと憎たらしく笑う時も静かに怒りを表す時も常に秀麗に引き結んでおく口角から血を流している。
「やめろナギ!」
「副長を責めるな!」
近藤が、旧幕臣の大久保大和として板橋総督府に投降した。
全くの蚊帳の外にいるうちに大きく転換した事態を聞いた隊士らはその衝撃を受け止め切れず、駐屯地で彼を見つけるや否や突っ走って行ったのだから無理はない、一人の男が土方に殴り掛かるのを制止する余裕はなかった。
最後の新入隊士募集で加わった筈の新入り・葦原柳だ。
ご存知の通り、と、いうことになっている男である。
土方に絶対服従の元監察・巨漢の島田魁に押さえ付けられながら尚も吠える。
「新選組は局長がいなきゃ終いだろ! 俺が追っ掛けてヤツら全員斬ってやる! 局長を取り返す!」
こういう時、普通は数人掛りで止められるだろうが、一人の怪力自慢に任せても事足りている。
土方はゆっくりと首を擡げ、その様を見る。またもこういう時、邪魔になりそうな漆黒に長く垂らしていた総髪ババッサリと切っていたので、その鋭い眼光がより引き立つ。
周囲は嫌という程に記憶に刻まれている鬼の形相からどんな言葉が発せられるかと、シンと静まり返る。
情けないことに、騒ぎを起こした張本人もである。
異様な程に似合う黒羅紗の仏式軍服に包まれる身をゆっくりと起こし、血の滲む形のいい唇をグイと拭う。
葦原をただ、マジマジと見詰めている。
「……なんだ、ナギか」
ゾクリとする冷たい低音を落とし、今度はスっと立ち上がった。
「たりめぇだ。局長は必ず戻る」
転んでもただでは起きぬ男である。
まさか無策で、自らの人生の指針ともいえる男をみすみす渡したわけではないのだ。
兵は拙速を尊ぶを地でいく男でもある彼はさっさと自室に戻り、次の手を打つ。
取り残された、地を這ったままにされた葦原は歯噛みする。
巻き込まれてやるつもりはねぇ。
ここにいるのは俺の意志だ。
そう信じたい。
なぁホントに、お前は消えたんだよな?
かつて沖田総司として偽りの人生を歩んだ彼の、その経緯を知る者は、山口次郎と名を改めた斎藤一と、土方のみである。
永倉新八は原田左之助らと離脱後、旧幕臣含むおよそ百名の集まる靖兵隊を結成し、副長を務めていた。
甲州勝沼での惨憺たる負け戦で辛酸舐め尽くした後、未だ大将然とした態度を貫く近藤に嫌気がさして袂を分かったと伝わる、というか永倉が一方的に語り残している。
そして山﨑丞はさらに前、鳥羽・伏見の戦いにて重症を負い、江戸撤退の富士山丸船上で死去し、水葬されている。
今日この日までは、葦原も新入隊士として神妙に、土方を副長として敬うのは当然のこと、斎藤らにはなるべく関わらないようにしていた。
さすがの彼も、常識は弁えている。
京でその名を轟かせた新選組に憧れて新規入隊した者達のひとりとして、幹部隊士らを雲の上の存在が如く扱わなければならなかった。
ただ見た目が、今戸の幕府御典医松本良順の医学所にて療養中という真っ赤な嘘を纏い消えた一番隊隊長・沖田総司に瓜二つの生き写しであるというだけのごく一般的な隊士であろうとした。
幸い、長年培った演技力には定評がある。
幼い頃からともに生活してきた兄弟のような仲間の前では無邪気に、一度刀を握れば残酷な笑顔を湛えながら人を斬る剣鬼にとなる男の振りをするのに比べたら雑作もないことだ。
しかしすべて、今までの彼なりの努力がすべて水の泡となった。
新入隊士が、副長を殴り飛ばすなど、ありえない。
どんな処罰が待っているか想像もつかない。
まぁ、鉄の戒律・俗名局注法度に支配されていた京都新選組時代であれば間違いなく切腹であっただろう。
他の隊士らに何か言われる前にとの配慮であろうか、土方は珍しく公に、あからさまにわかりやすく葦原を籠り切りの自室に呼んだ。
神妙な面持ちから一変、二人きりの部屋の襖を閉めた途端に、脳に行く筈の栄養が顔に行ってしまったのだと名高い顔を歪ませる。
「謝んねぇぞ、俺は」
殴ったことも、罵倒したことも。
元よりこの男が憎くてしたことではない。
信じているからこその行動であった。
「へぇ。なら身体で償ってもらおうか」
京に居た頃とは違い、きちんと声を掛けてかつ返事を待ってから入ったにも関わらず文机にて物書きに専念し背を向けていた土方は不敵な笑みで振り返る。
だけに留まらず、これもまた名高い鬼脚の大股で一気に距離を詰めてきた。
殴られるとでも思ったのか葦原は身構える。
「とっとと支度しろ。江戸に向かう」
先程まで熱心に認めていた書簡を懐に、既に本人のみが準備万端で、肩をぶつける程の勢いで通り過ぎようとする。
「……さっきの」
人目があるとか、忘れたとか言い逃れできないよう、今しか訊けないことだ。
「あれ、どういう意味だよ」
互いに下に目を凝らし、視界にはただ小ざっぱりとした畳だけが映る。
すんなりとは応えないことなど、わかりきってあえて訊く質問だ。
反応を待たずに続ける。
「俺だけど。俺じゃ悪ぃかよ」
なんと言ってくるか予想はしていたが、実際に全く同じ声で吐かれる科白に土方はつい吹き出す。
「……そうだな。あいつなら、誰にも止めらんねぇで近藤さんとこすっ飛んでって、マジで全員斬り殺して連れ戻すかもな」
キッと睨み付けてくるのを制す為、大半の隊士がそうしたように短く切り落とした髪に手を置く。
「別に大した意味はねぇ。ただ、あいつも同じことを言うかもな、と思っただけだ」
「だぁあっ! ポンポンすんじゃねぇえ!」
直後、土方は葦原ともう一人、慶応三年初冬に入隊し、バカが付くほどマジメという程の実直な性格と仕事振りで幹部に亘るまで信頼厚い相馬主計という男のみを伴い、江戸に極秘潜入する。
他の隊士は山口に率いられ、次なる戦地を求めて会津へと向かった。
大恩ある会津の地を死守するとの意気込みと共に、近藤と土方が帰ってきた時に、敗けまくって新選組は無くなりましたなどと、命と引き換えにしても報告できないのだから、俄然士気は上がる。
悪かった。
だから、そんな眼で見るな。
「あなたがついていながら、どうして……」
ここで切腹するとか言われて、どうしようもなかったんだ。
「僕がみぃんな斬ってきちゃおうかなぁ」
かっちゃんは、俺がゼッテェ連れ戻す。
「ああ、だからそれは聞いたって……って寝てんのかよ!」
「副長はお疲れだ。今少し寝んでいただこう」
「……いや、寝てねぇ」
近藤が捕えられて翌四日には赤坂氷川坂の勝安房邸に到着していた彼らは寝ずに早馬を飛ばしたのであろう、通された応接間での待ち時間、一瞬の隙に眠っていることに加え、余りにもハッキリとした寝言に葦原が容赦なく突っ込むと、隊内では珍しく近藤より土方のほうに惚れ込んで心酔している相馬は普段冷静な癖に的外れに甘々に、真顔で言う。
ここは間違いなく、起こしたほうがいい場面であろうに。
土方は強かに肩に当たってきた手の甲のせいではなく、自らの大き過ぎる寝言のせいで自嘲気味に起きた。
勝と新選組には、甲陽鎮撫隊結成の因縁よりも以前、意外な繋がりがあった。
河上彦斎に暗殺された先進的思想家である佐久間象山の息子・三浦啓之助が仇討ちをしたいとのお題目で新選組に一時期入隊したが、彼は勝の甥でもあり、入隊自体も勝の口利きであったのだ。
その手の話が大好きな近藤はふたつ返事で受け入れ、自らの側近として丁重に遇した。
しかしこの三浦という男がかなりの曲者で、まさに虎の威を借る狐、何かにつけて自分があの佐久間象山の息子であるということを鼻にかけ、当然であるが実は嫌われていながらも羽振りがいいので表面上は周りに常に人がいる状態、それをさらに勘違いして余計に付け上がる、という典型的な、所謂おぼっちゃまだった。
やはり当然であるが、土方は悪い意味で目を付けていた。
ある大坂浪人の隊士に、そんな腕前で仇討ちなんざできるかと馬鹿にされ激昂した後、あろう事かその隊士が土方と沖田が碁を打っているのを見ている時に背後から斬りかかってきたのだ。
その“松の廊下”は、相手がというより客が悪過ぎる。
「腕がイマイチって、ホントのことじゃないですかぁ」
自慢にしていた購入したばかりの刀を抜くことすら許されず、居合わせた沖田に襟首掴んで引き倒され、鼻から思いっきり着地したらしく、その鼻っ柱は身体的にはずる剥けにされながら、心情的にはポッキリと折られた。
またしばらくした後、年下かつ役職も下である三浦に向かい、沖田が
「今度どこか飲みにつれてってくださいよぉ」
と、声を掛けてきたのだから堪らない。
明らかに連れて行かれるのは三浦の方で、送り狼どころか、行く道で斬られるくらいの勢いで向かわされるその先は、想像容易く冥府と呼ばれる場所である。
散々にビビらされて、三浦はその日のうちに脱走した。
こんな所業をするのはやはり想像容易く“ホンモノ”の方であるから葦原は全く知らないし、一部始終見ていた筈の土方も内心かなり引きながらの静観であった。
腕はからっきしの癖に踏ん反り返り、親の七光りを存分に利用し、屯所内かつ目上の者の前での私闘、さらに背後から襲うという卑怯さ、そして何よりこれが一番悪かった、建前のみで近藤に気に入られ厚遇されたことが逆鱗に触れたのであろう。
同じ、実力皆無での近藤の特別扱いでも、谷周平と違い、養子でもなんでもないのだから遠慮はいらない。
そんな沖田ガチギレ事件を勝は知らず、紹介状まで書いて入隊させた男が仇討を完遂するどころか逃げてしまったとあっては、流石の勝も相当気まずかったであろうと推察する。
かと思いきや、やはり流石は勝。
まったく気にしていないようだ。
多少待たせても、ヒョイと気安く浅黒い顔を出す。
「よう、土方。久し振りだな」
野心家かつ策略家、そして敏腕家で、頗る女にモテる。
同族嫌悪のようなものであろうか、土方はこの男が嫌いだ。
社交上手の癖に、嫌悪感を自覚している相手の機嫌を取るのは大の苦手。
従来ならば、むっつりとした愛想も何もない顔のまま応対しているところである。
そんな土方が自らの特性をかなぐり捨てて、心境としては地に頭を擦り付けることすら厭わない勢いの、一世一代の頼みごとにやって来た。
斜め後方に控える葦原からはわからないが、ひどく柔和に見せかける笑顔を湛えている。
いや、いたのだが、無遠慮な指摘にそれはいとも簡単に崩れた。
「後ろのヤツァおめぇのお稚児さんかい? かわいいじゃねぇか」
『違ぇよホラ吹きジジイ』
と、如何にも土方と葦原が同時に噛み付きそうな件だが、双方黙りこくっている。
勝は己が嫌われていることくらいわかっている、というか余り男には好かれない質なので大体どの男にもこんな感じだが、能面の如く整った顔を崩してやろうと必ず軽口を叩く。
土方は内心、葦原の野郎もよく耐えたと賛じながら華麗に無視を決め込み、
スルりと本題に入る。
早速、甲陽鎮撫隊の活動報告から始める。
何故、勝に報告するかというと、新選組を改名させたのも甲府行きを命じたのも、成功すれば甲府百万石の大名にしてやると約束したのも勝だからである。
まず改名の理由は、表向きには京で敵から見たらこれでもかという程に大活
躍した新選組の名を残しておけば新政府軍の恨みを一身に受けるのは必定であるから、そして勝の真の思惑としては、その名に惹かれて援軍が増えるのを防ぐ為である。
あの最強の武装集団が江戸から進軍すると聞いたら、加わろうとする者達が大勢いるであろうし、諸藩の動きも変わってくるが、勝としてはこれ以上増えられたら、力を付けられては困るのだ。
そう、甲府出陣を決めたのも、江戸から彼らを遠ざける為である。
勝の構想、江戸城無血開城の為には、新選組は邪魔以外の何ものでもない。
甲府百万石は餌だ。土方はもちろん近藤も、罠と知りながら食い付いてやったのだ。
転落する幕府の為、大樹公の為と、今こそ最高潮の時と存分に戦いたいところだが、彼らに与えられた役目は、何もしないこと、であった。
さぁ、お前の台本通りに演じてやったぞ、今度はこちらの演目に付き合ってもらおうか、とでも言いたいところだ。
勝は終始、聞いてるんだか聞いてないんだかわからないような顔をしている。
熱心さが窺えないのも道理である。
彼らが勝てないことはわかっていた。
敗けさせる為に出陣させたのだ。
それよりも、自分を毛嫌いしているだろう男がわざわざ訪れたのには、何か理由がある筈だ。
ちゃきちゃきの江戸っ子らしくせっかちな彼は、本題が打ち明けられるのを待っている。
いつも女房役として寄り添っている主人・近藤の姿がないのが寧ろ不自然なのだから。
「近藤が、新政府軍に捕えられました」
しかしこれには、僅かばかりに動揺した。
近藤の真っ直ぐさを、あまりに自分とは違う男を、眩しいような気持ちで見ていたのだ。
「ぜひ、お力添えをいただきたい」
憧れに似た、感情だったのかもしれない。
たくさんの仲間に慕われているのにも関わらず、その印象は孤高の武士。
今やその存在は自分が絶対になりえないどころか、日本で唯一といってもいい誠の武士である。
土方としては、この交渉、一筋縄ではいかぬと覚悟していた。
何せ相手は、皮肉な弁舌を駆使することが根っからの習性のような男だ。
しかし拍子抜けさせられるようにあっさりと、勝は助命嘆願の書を用意し
「ナギ、さっきはよく我慢できたじゃねぇか」
マテに成功した飼い犬に対するような、あんまりな言い草である。
「なにが?」
キョトンとする葦原に、まさか自分のことを言われていたという自覚がなかったのかと呆れながらの苦笑いで帰路につく。
ここからは、二手に分かれての旅となる。
「お稚児さんと、言われていただろう」
律儀な相馬が付け足すと、今更ながらに葦原は憤慨する。
「はぁあ!? ふざっけんなあのホラ吹き! 戻って文句言ってやる!」
再三、勝のことをホラ吹き呼ばわりしているが、氷川のホラ吹きとは彼の歴とした徒名である。
「バカ、んな暇はねぇ」
これからこの書状を看板に、二人には直談判という名の殴り込みを掛けさせなければならない。
それにしても覚えがないとは。
「寝てやがったのか」
寝言まで発していた自分を棚にあげての発言により別れの道中賑わいながらも、三様に忘れていく。
近藤を助けることしか頭になかった。
葦原と相馬はその足で板橋へ向かう。
勝安房と、同様に江戸城無血開城に尽力する幕臣・大久保一翁、そして幕臣として改名した内藤隼人名義の土方の書状を携えて、釈放を願い出る為だ。
元より、命懸けの任務である。
近藤は大久保大和として、新選組局長であることを隠して投降しているのだ。
素性がバレたらどうなる。
まずは甲陽鎮撫隊を名乗る新選組への総攻撃、江戸城無血開城もただの夢想となるかもしれないし、戦地と化した江戸中は火の海となるであろう。
そして近藤は、良くても切腹は免れない。
罪人として島流し、最悪は恨みに任せて拷問を受けるかもしれない。
今は早馬に鞭を入れて全力で駆ける二人も、当然捕えられ、近藤同等の処分を受けるだろう。
もしも、葦原の立場で沖田が生きていれば、江戸中どころか日本中がどうなろうと近藤ひとり奪還することを選ぶ。
しかも微塵も躊躇わずに。
「悪ぃが俺は、お前みてぇに“無欲”にはなれねぇ」
考えうるすべてを、守る為に行くのだ。
その呟きは、疾走する風に紛れて掻き消えた。
しかし、土方と勝、新選組全隊士が持っていた希望も、水泡と消えることになる。
真に覚悟をしていたのは、近藤だけであったのかもしれない。
二人が到着した時には既に、その正体が明らかになった後だった。
捕えられて僅かに二日目のことである。
何故こんなに早く露見したのか。
油小路の意趣返しとばかりに高々と、その名は新政府軍への忠誠の証が如く掲げられた。
御陵衛士の残党が、板橋総督府に紛れ込んでいたのだ。
その男は、加納鷲雄。油小路での死闘を生き延び、伏見街道での近藤襲撃にも加わっていた、因縁深い男である。
捕縛された葦原と相馬の面通しにも、意気揚々と現れる。
こんなに爽快なことはなかったであろうと推察するが、その表情は一変した。
「な……っ! 何故ここに!」
その存在の、鬼神が如き強さを知っている。
加納の記憶に残っているのは、ごく僅かであったホンモノの姿である。
日本屈指の強者が集まる新選組の実戦稽古はもちろん、渋々参加していたであろう不逞浪士取り締まり任務の際にも、どんな相手もてんで子ども扱いしている様を見せつけられてきた。
だからこそ、病身で伏しているとの噂を聞きつけ、最大の戦力を奪うかつ、士気をどん底まで落とす好機として、近藤襲撃以前の本命としていたのである。
熟考したわけではない。
葦原にとっての一世一代の妙案は、この瞬間に思い付いたものである。
「……加納さぁん。どうしたんです? そんな、オバケでも見たような顔しちゃってぇ」
滅多なことでは眉ひとつ動かさない相馬まで、声さえ上げないもののかなり驚愕している。
彼はかつて、葦原が沖田のニセモノであったことなど、知らない。
鷲尾同様、一番隊隊長沖田総司は病に倒れ、近藤の妾宅や幕府御典医松本良順の医学所など、新政府軍の探索を免れつつ転々としながらの療養生活であると信じ込んでいる。
自他共に認める近藤の一番弟子として常に第一線で美しいまでの剣技を惜しみなく披露し続け、討幕派浪士にとっては畏怖の象徴であった男が、幕府存続正念場の戦場を退いているなど、余程のことである。
誰もが、命に関わる大病なのだと予想する。
こんなにピンピンと元気に、笑いかけてくる筈がないのだ。
「あ、この前は僕に会いに来てくれたんでしたっけぇ? すれ違いになっちゃったみたいでゴメンねぇ」
近藤の妾宅に潜んでいるとの噂を聞きつけ踏み込み、当然だがその姿のないことに激昂し、
「だからって、先生を追っかけることなかったのに」
腹立ち紛れに近藤を襲撃したことを言っている。
お得意の、瞳の奥が笑っていない笑顔である。
その殺気を全身に浴びる加納は、ガチガチと歯を鳴らしている。
大小を奪われている丸腰ではあるが、沖田ならば関係ない。
近藤は、一命は取り留めたものの、剣を握れなくなったのだ。
神が如く信奉する沖田が許すわけがない。
確実に、殺される。
訳がわからないまま一部始終を見ていた土佐藩士が故郷の言葉で声を掛け、やっとで加納は冷静になった。
「この者は、あの、沖田総司です!」
こんな細身の、花の顔とでも言いたくなるような男が、とは知らぬ者が多いが、名と実績は誰もが知っている。
葦原は策略通り、沖田総司として厳重に監禁された。
もうお終いだと思った。
それは己の正体が露見した時、新政府軍に包囲された時、かつての仲間達とついに仲違いし離れてしまった時、甲府の戦いで新兵器の前に全く歯が立たずに敗けた時……どれも違う。
右肩に銃創を負い、もう二度と、この手で剣を振るえないと知った時……武士としての自分が死んだ時だ。
俺は、その時に既に死んだのだ。
だからどの時もどこか冷静で、やけに静かにすべて受け入れたのだ。
「俺は、ここで切腹する」
なにも絶望したのは流山ではない。
新政府軍への脅威などでは、ましてや他の隊士らを激しい戦闘に巻き込みたくなかったとか、代わりに自分が投降すると息巻く副長・土方を憂いてとか、そういうことではなかったのだ。
ただ、少年の頃からずっと育て続けた、武士としての俺が死んでしまったのを、お前は変わったと、誰に言われずとも自分が一番わかっていた。
「よしてくれ近藤さん。こんなところで死んじまうのは犬死にだ」
涙ぐむ、切れ長の双瞳が赤く滲むのを、眩しいような微笑みを持って受け入れるしかなかった。
ならば最期は、お前の為に生きよう。
これまでがずっと、お前の傀儡であったのと同じように。
よくいったものだ。
それはお互い様だ。
空の神輿と自覚しながら、散々重たい想いをさせつつ、掲げさせ続けたのだから。
「先生!」
ただでさえ薄暗い部屋で、それを感じることすらないよう瞑目を続けていたので、喩え話でもなんでもなく、本当に夢かと思った。
総司……迎えに来てくれたのか。
……ちょっと早くないか。
まだ、処分が決まったわけではないのだが。
少し笑いそうになりながら、それでもその姿を見たくて薄目を開けた。
「お迎えにあがりました。先生」
わかったよ。子どもの頃から変わらず、意外とせっかちだな。
やけにハッキリと見えるもんだ。
って、違うじゃないか。
「葦原くんか」
と、いう一声を危うく飲み込んだ。
背後に控える牢番に悟られないよう、人差し指を唇に添える仕草をしているからだ。
どんな手段を使って入り込んだのだ。
葦原の傍若無人の科白を苦々しく聞きつつ、死を覚悟した、末期の頼みであるとでも口説かれたのであろう牢番は沖田を名乗る男を、大久保大和を名乗っていた男の牢に入れ、静かに錠を掛けた。
「お迎えに、あがりました」
もう一度、葦原として告げる。
近藤ももう一度、瞑目した。
「最期ですので、もう少しお話しをしていたいですが、時間がありません。俺を……沖田総司を置いて、新選組に戻ってください」
恨みの買い方ならば、沖田とて勝るとも劣らない。
沖田を差出し、局長近藤を奪う。
「そのような……できるわけがない」
「いいえ。これは最早、あなた個人の問題ではない。新選組の為、幕府の為、この日本の為に、あなたはなんとしても生きていただかなければならない」
何故だが、両眼から涙が零れ落ちる。
葦原とて、理由はわからない。
「あなたが……新選組だ」
漸く近藤はその顔を見た。
途端に辛そうに、四角い頬が歪む。
困った……と、ありありと表情が語っている。
「その顔で泣かれると、弱いんだ」
両親がいなくても、大好きな姉さんと離れて暮らさなければならなくても、家族が恋しくても、厳しく叱られても、滲む涙を堪える子どもの頃の顔は何度も見てきたが、人前で溢す様など、あの時、別れを告げる時にしか見せなかったから、大人の顔をした総司が泣いた顔なんて、そもそも見たこともなかったが。
「新選組局長として死ぬことは、俺の最期の仕事だ。いかに一番隊隊長といえども、譲ることはできぬ」
そう言うと、思っていた。
局長ならきっと、誇り高い死を望むだろうと。
しかし。
「あなたを喪っては、新選組は誰の為に戦えというのですか。お願いです。俺たちの為に、生きてください」
元より新選組は、土方を筆頭に、国の為、朝廷の為、幕府の為に働こうなどと、考えていなかった。
誰の為にと問われれば、迷いなく、近藤勇の為と応えるだろう。
近藤も、土方の信念の為に、生きようと一度は考えた。
正体を隠し通せるとは端から思ってはいなかったが、こうもありありと露見しては、逃げることはできない。
それこそ名折れである。
それに。
「葦原くん……君のその姿。総司の生き写しのような君が俺の為に死ぬなど、もう二度と、耐えられない」
「局長……俺は、沖田じゃない」
だから死んだとて、別にそこまで、あなたが気に病むことではない。
あなたは俺が身を預けてきた隊の、大将なのだから。
天下泰平の世であればいざ知らず、葦原とて、この幕末という戦乱に生まれた武士である。
倒幕派志士として脱藩し、天誅に加わったこともあり、池田屋事変を命からがら逃れ、そして、沖田総司として新選組で生きた。
その中で、何度も人を斬ることはあったし、斬られたこともある。
というか、殺されかけたこともある。
他でもない沖田に。
いつだって、命の保証などない時代と場所で、大小二本携えて生きてきたのだ。
武士とはなにか。
生きる道と死に方を、自らの意志で決める者である。
「……そうだ。君は、総司ではない。なのにどうして、俺にそこまでしてくれる
のだ」
総司じゃないのにどうして、か。
ならばホンモノならば、自分の為に命を賭しても当たり前というわけか。
本当に幸せ者だよ、お前は。
ああ、まただ。
俺の中からいなくなったって、わかっているのに、ここにいるかのように感じてしまう時がある。
「俺はここを、死ぬ道と決めました」
一瞬だが、甦ったのかと錯覚した。
馬鹿な。
アイツは、沖田総司は二度死んだのだ。
「お前がついていながらなんで……っ! なんで局長を渡しちまったんだよ!」
胸倉を掴まれても、まるで怒る気がしなかった。
むしろ自らできる動作ならば迷わずやっていたし、同じ言葉を心中では何度も、渾身の力でぶつけた。
「新選組は局長がいなきゃ終いだろ! 俺が追っ掛けてヤツら全員斬ってやる! 局長を取り返す!」
目が醒めた。感心させられたわけではない。
お前に言われなくても、俺が一番わかっていることだ。
そしてもう一つ、自分を憎むだけなら、どんな阿呆でもできる。
取り押さえられながらも未だ光を失わない、猛る双瞳。
土方としては、ここまで近藤に執着する葦原を意外に思っていた。
「土方! 答えろよ!」
葦原には見向きもせず、いつも通りの澄まし顔で歩き出してしまった。
その速度もいつも通り、淀みない早足だ。
その背中になお罵声を浴びせる葦原は、土方が廊下の角を曲がった瞬間、あっという間に殴り飛ばされていた。
手足も動かせない程の怪力で葦原を羽交い締めにしていた、土方から最も信頼される部下の一人、巨漢の島田魁による重過ぎる鉄拳だ。
第一次隊士募集で入隊し、発展途上から最盛期、そして黄昏から終焉まで新撰組を、土方を支え続けた男である。
「いってぇな! なにすんだ!」
葦原は頬を真っ赤にして食いかかる。
まるで頭と口が直結しているようだ。
「何もわかっていないな、葦原は」
普段は穏やかなだけに、押さえ込んだ怒気は少なめでも迫力十分である。
男らしいとはいえない容貌の葦原は見た目に違わずビビり癖があり、今回も遺憾なく発揮、呆気なく黙ってしまった。
その後、葦原は一応、土方を捜していた。
“一応”と言うのは、誰に尋ねるでもなくただ土方が居そうな所をふらふら、うろうろとしているだけだからだ。
端から見れば、暢気に散歩でもしているように見えるだろう。
局長不在で、いつ新政府軍に攻め込まれるかというこの時期、本当にそうだとしたら暢気にも程があるが。
「どこにもいやしねぇ」
しかもこんな捜し方の割に諦めが早過ぎる。
捜しているのが気恥ずかしいらしく、その上妙に意地っ張りの葦原は漸く観念して、通りかかったある隊士を呼び止めた。
ちょうどいいことに土方の小姓をしている少年隊士で、居場所がわかるだろうし、他の者に訊くよりは変な意地も軽減される。
「えっ……土方先生ですか? 先程お出かけされたのですが……すみません……どちらに向かわれたのかは私も聞いておりません」
まだ柔らかそうな丸い頬をしているこの少年・市村鉄之助は、葦原と同時期に入った新米で、余りに幼けなさの残るかわいらしい顔をしている為、これからの辛い戦闘は不憫であろうと局長の判断で入隊を断った。
しかしどうしても入りたいと引き下がらず、見習いならいいだろうとやっと許された。
最初に折れ、局長に進言してくれた土方に心酔しきっている。
一方、葦原は心中気になりながらもやはり変な見栄を張り、
「ふーん」
とか、尋ねておきながら他人事のように喉を鳴らした。
「ご用でしたら、お戻りの時にお伝えしますが」
律儀で真面目な市村は、同期の葦原にも同じ小姓隊士にさえも敬語を崩さない。
性分はかなりの頑固者の癖に、遠慮がちで、どこか怯えているようにも見える上目遣いで話す。
土方にとっては、幼い頃の沖田を思い出させる部分だった。
「いや、大したことじゃねぇから。ありがとな」
葦原は後ろ手を振って行ってしまった。
小姓が知らないなら捜しようがない、と廊下をぷらぷらしつつ、早々と諦めた葦原の後ろから音もなく近付く者がいた。
「少しは反省したか、葦原」
どこに紛れても見つかるような巨体の島田魁だ。
大きな図体からは信じられない程、足音は勿論、息遣いすら立てない男である。
かつて新選組が京都で血の雨を降らせていた頃、後世に名高い敏腕監察・山﨑と共に、諜報活動を行っていた。
「のわっ! 脅かすなよ!」
性根の優しい好漢で、ついさっき力いっぱい殴り付けた者への配慮も忘れない。それも計算などではなく、心からの労りで。
その時であった。
土方が葦原を呼び出したのは。
そして今日は土方が呼び出された。
江戸で援軍を募る、との名目ではあったが、会津へと向かい、江戸から近藤から離れ難かったのだ。
相手は相馬。
「副長……申し訳ございません」
その一言ですべて察してしまう。
「板橋に、御陵衛士の残党が」
ならば次だ。
次の一手は。
恨み辛みを連ねることなど、どうでもいい。
本より諦めるという選択肢など、土方にはない。
「よくぞ帰ってきてくれた」
如何にも誠実そうな、真っ直ぐに見つめてきていた目を伏せる。
「局長が、助けてくださいました」
悔しげに、心底情けなさそうに眉根を歪める。
何も知らぬ新人隊士であるから帰してやってほしいと、敢えて貶めてその命を救ったという有名な逸話だ。
しかしこの件は、どうでもいいとは言えない。
「葦原は、どうした」
新人隊士であるというならば、葦原のほうがより当て嵌まる。
実際に在籍年数が短いことに加えて、相馬に対して如何にも消費熱量の少なそうな頭と軽量な仕草と口調、むしろ色小姓にでもいそうな風貌の葦原こそ、この場にいるべき状況である。
「……葦原は、沖田隊長として捕えられています」
「ッはぁあ!?」
思わず件の葦原ばりの大袈裟な声を上げる土方であった。
何考えてんだあの野郎。
御陵衛士に何言われようが、自分は別人であると証明する方法はいくらでもあるだろうが。
長州弁使うとか鏡新明智流を使うとか、元長州藩士しか知らねぇだろう情報だって、いくらでもあるだろう。
つか、あっち側に昔の知り合いぐれぇいねぇのか。
「葦原は自ら、沖田総司であると名乗りました」
根からの正直者であり、敬愛する土方の前で事実を包み隠すような考えすら浮かばない相馬はさらに続ける。
耳を疑うような内容を平然と。
いや、平然と見えるものの、実はかなり驚いていたのだが。
「……バカなのかアイツは」
「賢そうではないですね」
周知の事実であるので今更問い掛けたわけではないが、律儀な返答が返ってくる。
「この者は、あの、沖田総司です!」
加納がわなわなと震える指で示す方で笑う、待ってましたとばかりの葦原は、首を傾いで笑みを深める。
恐怖に任せた大声に、ドヤドヤと人集りが出来ていた。
「こぉんにちはぁ、東征総督府のみなさぁん。日の本一の人斬り・新選組一番隊隊長沖田総司ですぅ」
片手をヒラヒラと振る丸腰の相手に一斉に抜刀。
そして一様に、北辰一刀流鶺鴒の尾とは違う意味で震えている。
苦し紛れの、威勢が良いように見える気合いの振りをした奇声でも上げなければ、顔ではなくて膝が笑って立っていられないのだ。
「おのれ沖田……! 友の仇!」
その勢いに乗り、二人の男がほぼ同時に斬り掛かる。
動きの計算し尽くされた集団戦に慣れている者達など、新選組を置いて他にはいない。
これでは互いの刀が邪魔である。
葦原は顔面目掛けてくる剣先を軽く腰を落として躱し、一人目の男の伸び切った腕を蹴り上げ、放たれた刀を奪い、二人目の男の首先に据えた。
舞うように、よくやるものだ。
しかし皮一枚で止めてやるつもりだったらしいが、スっと血が滴る程度に斬れている。
その血が冷や汗と共に落ちる頃には、その男の背中に周り、いつでも首を落とせる角度で刀を留める。
「……先生を、近藤局長を解放しろ」
人質を取った格好である。
銃を構える者もいたが、この早業を見せ付けられては、弾が届く前に仲間が斬り殺されるであろうことは歴然だ。
「こちらも、ただでとは言いません」
また笑みを戻すが、誰ひとり、その表情で和まされる者などいやしない。
「二度と刀を握れない局長より、ここにいる誰より強い、僕を殺したらどうです? 好機じゃないですかぁ。だって、僕の両手両足繋いでおくぐらいじゃないと、斬れませんよねぇ?」
ホンモノでもそこまで憎らしいこと言わねぇだろうさすがに。
……いや、言うか。
ほぼそのままの内容を相馬から聞かされ、土方は呆れ返る。
その時の相馬もやはり呆然と、葦原の一計を成程と思いながらも正直納得がいっていなかった。
葦原は、局長の代わりに自分が死のうというのか?
それも、沖田隊長として?
確かに身代わりとしてなら、いち新人隊士葦原柳では力不足が過ぎるし誰ひとり応とは言わないだろうがしかし。
それでは葦原自身は、名や栄誉はおろか、存在すら残らない。
完全に、この国の歴史から抹消される。
相馬とて、戦いの最中には新選組の剣としては当然盾としても、命を惜しまない覚悟である。
その華々しい最期は、別人として切腹するのとは訳が違う。
葦原は、京都新選組撤退後の追加募集で入隊したばかりの新人だ。
新選組にましてや局長にも、縁もゆかりもないであろうに。
そこまでしようという忠義心は、どこからくるのだ。
果たして正気か?
なにか、得体の知れないなにかが、憑いてでもいるではないか?
確かに葦原はこちら側、味方の筈なのに、敵方満場一致の空気と同じく、心底から冷えるように、恐ろしい。
というより、本当に葦原か? あれは。
新人隊士の割に腕が立つとは思っていたが、あそこまで……丸腰のまま二人の男と対峙してまるで子ども扱いのように立ち回る程とは。
何度か共に稽古はしているが、全身を刺されるような殺気を纏い、瞬速の剣技を披露する様は別人のようだ。
十数人に囲まれているが、手助けが必要には全く見えない。
ここで不意に背後から高らかかつ野太い笑い声が響いた。
葦原によって凍りついた空気にほんの少し風穴が空く。
近藤との心温まる交流で後の世に名高い東山道総督府斥候・薩摩藩士有馬藤太である。
「確かに! ここに居る誰も、敵わん!」
上司の登場にも関わらず挨拶をすること、構えを崩すことすらできずにいる中で、葦原だけがすぐに反応する。
無論、他の者は少しでも気を抜けば自分もしくは人質が斬られる状況であるからだ。
「いっつも思うんですけどぉ。あなたがた、統一政権作りたいなら言葉遣い、なんとかしたらどうですぅ? ちょぉっと、何言ってるかわかりませぇん」
明らかに好人物風かつ何らかの役職者である者に対しても容赦なく一貫として無礼だが、元は長州藩士でありながら独学というか半ば興味本位の趣味で英語を学び、江戸出身の沖田を演じる為に慣れ親しんだ故郷の方言を改めた葦原にとって、様々な地域の者が一軍に纏まる環境の中で自らの言葉を一貫とすることは不自然かつ余りにも自分本位過ぎるとの考えでいた。
この事後報告を受けている間、常に引き攣っていた土方の表情は更に強ばっていく。
不敬にも程があるだろ、との感想はかつて上洛の道中で沖田に放った苦言と同じである。
似ているのは顔と声音だけにしておいてほしい。
何を考えているのかわからないところまで、よく似ている。
それどころか、思想や考え方、土方の与り知らぬところまで。
それに、これでもかとの挑発に乗せられ、近藤の処遇が更に悪くなったらどうするのだとの気持ちもある。
本人は恐らく、怒りを買うなら全て自分に、との思惑かも知れないが。
真意が読めないので、頭の一つでも抱えたい気分である。
「それで、有馬はなんて?」
「私も……何と言っているか、よくわからなかったのですが」
敬愛する上司を前に、心底申し訳なさそうに俯くが、土方はそれもそうか、と納得する。
別にその返答でも困らない。
正直、有馬にどう思われようと関係ないのだ。
もう、次の手は考えてある。
「終始笑いながら、葦原を連れて局長のもとへ向かってしまいました」
葦原がそういう、底抜けに明るげな、ある意味破天荒な人誑し男に弱いのは知っている。
すっかり毒気を抜かれてほいほいついて行ったのが容易に想像できてしまう。
相馬が理解できなかった有馬の言い分はこうだ。
新選組局長近藤勇ともあろう者が、最も信頼する部下を自分の身代わりに助かろうなどと、承諾するとは思えない。
まずは近藤本人と会い、話をしてはどうだ。
そしてこの場に来る前に近藤と面会をしていた有馬は、相馬を解放することを了承していた。
彼は、近藤を虜囚として扱う気は一切ないらしい。
葦原はというと、板橋総督府を出て行く相馬に、根拠のない自信たっぷりの表情で、これも相馬にはよく伝わらない、親指をグッと立てる仕草をしていたという。
そして思い出したように、土方に問う。
「葦原が……別人のようだったのですが」
その挙動も口調も、ただの演技には見えない別人であり、剣技に至っては人間離れしていると言っても過言ではなかった。
相馬の尤もな疑問として第一、何故葦原は、沖田隊長を知っているのだ、ということが引っ掛かる。
彼の入隊時期には沖田はとうに病気療養に入っており、京での活躍を知ってはいるだろうが会ったことすらない筈だ。
噂で聞く鬼のような強さからは荒々しい野獣のような、新選組という斬り捨て御免の武装集団を引っ張る斬込み隊長、如何にも武士、漢のなかの漢といっ
た風情の猛々しい人物を想像するであろう。
対して相馬は慶応三年、ちょうど葦原と沖田が入れ替わってゴタゴタしている時に入隊しており、ホンモノの沖田を知っている男だ。
あの気味が悪い程に秀麗な剣技も、驚愕と共に記憶している。
ふわりという形容が当て嵌まるような、舞うように残酷に人を斬ったかと思えば、唄うように朗らかに笑っているような人物であった。
「そうなのか? いや、俺ぁよく知らねぇが。まぁ、稽古だけは熱心なヤツだからなぁ」
決して大根役者ではないが、この白々しい科白でわかるように、土方はすっとぼける気満々である。
何故かと問われれば、全ての経緯を話すのが
「めんどくせぇ」
と応えるだろう。
しかし本心は。
また自らの口で、沖田の死を語らなければならないのが正直辛い。
必要に迫られ何度も説明してきた。
しかしあの夜の、軽くなった躯を抱き、まだほんのりと温かい肌に触れているのに、虚ろになっていく双眸、木枯しの吹くような苦しげな呼吸を、聞くのすら辛いながらも、どうか途絶えてくれるなと必死に祈り続けた時のことを、またありありと思い出してしまう。
いや、普段は忘れている、という訳では無い。
心の奥底に常にあるのと、他人に話すのとでは全然違う。
まだ痛い程に握り締めるその手に、感触が残っているのだ。
「そんなことより」
と、話題を変えてしまうのが土方にとって都合がいい。
現実に、ここで長々と話している場合ではない。
事は一刻を争う。
友の命に関わることを、他人任せ、それも毛嫌いする勝安房などに委ねておくなど性に合わない。
次の手というより寧ろ、土方の構想する真の近藤勇奪還作戦を実行する為に、会津転戦を任せ、江戸に留まっていたのだ。
それは文字通り、戦である。
正体が露見した以上は……京での恨み、大政奉還後も続ける徹底抗戦、それも、実際は正式に拝命した名ではあるが相手方としては名を偽っていた以上は、即刻切腹ということも有り得るのだ。
そんな最悪の事態も十分有り得たわけだが、有馬藤太という男がいる以上、それは無さそうだ。
「帰ってきたばかりですまねぇが、今度はこれを届けてくれ」
土方直筆の書簡である。
相馬は勝手に見もしないし、見てもいいかと問うてもこない上に、届けるまでの道程でも見ないつもりだ。
ただ短く、事も無げに
「はっ」
と応え、それを捧げ持った。
この男にとって、休み無しの蜻蛉返りであろうが土方の命とあらば諾以外の答はない。
胸に残る疑問も、土方に無理矢理払拭されれば問いはしないのだ。
「開けてもいい」
というより、是非見ておいてほしい。
また短く返事をし、相馬は手早く書簡に目を通した。
流石に細い眼を見張り、身震いする思いすらした。
それは、近藤勇奪還の為に夜討ちをかける、との檄文である。
「葦原に届けろ」
瞬時に理解した。
外からの襲撃で混乱する板橋総督府から、中にいる葦原が近藤を連れ出す、との算段だ。
「夜這いなんて久方振りだが」
ニヤリと特徴的に口端を上げる土方を、またも驚愕の表情で仰ぐ。
「副長自らが斬り込まれるのですか?」
斬り込むとは言っていない。
銃でも大砲でもぶっ放せばいいじゃねぇか。
否定するとしたらそこだけである。
「たりめぇだ。他に誰が行くんだよ」
農家の末っ子が武士になると息巻いて、追いかけ続けた背中。
肩を組み、生涯の友と誓った。
その男の夢こそ自分の夢だと、人生の指針としてきた。
そんな友の危機にてめぇで向かわねぇでどうする、という精神的な理由は勿論だが、現実的にも、隊士らは皆、山口に率いられ会津である。
「俺達もいます!」
「待たせたな」
の時機で現れたのは、島田魁と野村利三郎だ。
「……っお前ら、会津はどうした」
あまり表情に出ない、というか出さないようにしている土方にしては珍しく、かなり驚いている。
「元監察の直感、とかいうのですかね。何せ、副長の手足となるのが仕事なもので」
島田は屈託なく歯を見せて、破顔しながら付け加える。
「山﨑の声が聞こえたような気がしまして。アホゥ、副長はんの動きよう見とけ、と」
すぐ近くにいるような自然さで、気軽に亡き友の名を出す。
「俺を尾けてたってのか」
「尾行だなんて、人聞きが悪い。気付いておられるかと思いましたが……」
ぐっと口籠もるくらいなら土方にも可愛げがあろうともいうものだが、そこはすんなりと話題を逸らせる。
「俺に付いて来ようってんなら、覚悟はできてんだろうな。死ぬかもしれねぇ。全員だ」
待ってましたとばかりに野村が胸を張る。
「承知! つか相馬、とっとと行けよ。ゼッテェしくじんなよ。お前だけいいカッコすんのは気にいらねぇが、ビシッと届けてくれねぇと俺の出番がなくなるだろ」
説明する必要もないが、野村は大抵、一言どころか二言三言は余計だ。
同期入隊である相馬を何かと好敵手と見定め、相馬はというと他人にも自分にも無頓着な性分ゆえ全く相手にはされないながら、しつこくちょっかいをかけている。
印象も内面も正反対のような男で、共に慶応三年の末に入隊したにも関わらず、甲陽鎮撫隊と形式上名を改める頃には局長付組頭に抜擢されているという大出世で頭角を現してきた相馬と比べては、些か力不足感が否めない。
ちなみに、入隊時もその後も超実力至上主義集団である新選組において、特に異例ではないのだが。
今回も島田の動向というより、相馬がまた自分の知らないところで手柄を立てはしないかと、意外とくりっとしかかわいらしいともいえる目を光らせていた結果、半ば無理矢理島田に付いてきたのだ。
しかし島田であれば撒くことなど造作もなかった筈だ。
剣の腕どうこう以上に、度胸の良さを買って黙って、いや、島田も結構口数の多い方なので、小言の一つ二つでも浴びせながら連れてきてやったのだ。
ほぼ常にむっつりと無表情なので判断できかねるが、さすがに相馬も少しムッとしたように、
「行って参ります」
ぺこりと短い一礼を残して颯爽と駆けていった。
「あんな“恋文”持ってとっ捕まっちまったら命はねぇってのに、あっさり行っちまいやがった。ねぇ副長」
「……おめぇがうるせぇからだろ」
誰もがそう思うであろう一言を敢えて告げてやる土方は、後にこの面々主体で広められる通りに意外と優しい男だが、その内面では恐ろしいことを呟く。
いや、捕まってもらわなきゃ困るってもんだ。
熱烈な恋文の相手である葦原は、その想い人の男に素気無く袖にされ、まだ全く諦めきれないというのに一旦引き下がった。
押してダメなら引いてみろの駆け引きである。
幸い、想い人も自分も、有馬という男がいる限りは即刻処分ということはなさそうだ。
名乗った偽りの身分・新選組一番隊隊長も、無論局長も決して軽い身分ではない。
今は無き、とはいえ幕臣である。
葦原としては俄か西洋知識があるゆえ、ひょっとしたら正式な裁判が開かれるかもしれないとも踏んでいた。
そうなれば時間はたっぷりある。
この幕末動乱は、日本の内乱、と見せかけた討幕派側英国、佐幕派側仏国の代理戦争の面もある。
実際に何度も、互いに熱情に任せた判断をしがちな時には、それは万国公法に反すると苦言を呈し、互いに武士の性分故に卑怯ではないかとの戦略に二の足を踏む時には正当であると背中を押すような口出しをしてくるのだ。
双方共に、こんなことを続ければ続ける程、神国日本の地は食い潰されるという懸念はしながらも、瀬戸際の線で利用しなければこの戦は敗けると知っていた。
葦原はゴロリと横になり、珍しく深い溜息を吐く。
自ら望んだ筈の堅甲な牢内はどこもかしこも固く、頭に比べれば痛くてもまだマシな片腕を枕とする。
「……お前なら、どうすんだろうな」
時間はあるかもしれないが、なんと説得するべきか、決して論客ではない自分には今のところ案は浮かばない。
まぁ、ここで思い描く相手も口が回る性質の男ではないのだが。
“局長を連れて共に脱出するにはどうすればいいのか”
それこそ絶対にできはしないが、お手上げ状態である。
しばし沈黙して考え込んでいると、懐かしくも未だ消えはしない罪悪感に苛まれる言葉が聞こえた。
「おい、お前どうした」
直接斬ったわけではないが、葦原としては自分が殺したのだとの自責を抱え決して叶いはしないものの謝りたいと思い続ける男・坂本龍馬と同じ土佐訛りだ。
後々不幸にも、この板橋総督府には土佐藩士が多い。
寝転がったまま動かずにいるので、心配して牢番が声を掛けてきたのだ。
有馬が許した近藤との面会時に背後に控えていたのも、この男だ。
体調はというと、一晩寝ていない割に目は冴えて寧ろピンピンしている。
ならばすんなりと即答してやればいいのだが、なんとかここを出て、もう一度近藤に会えないかと画策する。
もっともこの男を諾と言わせるより、肝心の近藤を説得するほうが格段に難易度が高く、その対策は全く立てていないのだが。
「……なぁんか、熱っぽくて。僕ってホラ、病み上がりなんで」
そういえばそんな設定もあったものだ。
沖田が戦線を離れ病気療養中であったことは、当然彼が参戦するならば敵方主戦力として警戒するであろう東征軍内でもかなり知られていた。
「馬鹿者!」
急にまた意味のわからない方言で怒鳴られ、沖田である演技など意識から吹き飛んだ葦原はビクリと肩を揺らすが、その様を気にもせずに牢番は素早い動作で鍵を開け放った。
この後もほぼ意味が通じていない怒声を投げかけられ続けたが、どうやら彼は葦原の、というか沖田の容体を心配しているらしい。
言葉の端々からなんとなく、
「なぜそれを早く言わなかった」
「こんなところに居ては悪化してしまうじゃないか」
というようなことを言っているのでは、と推測できる。
牢内に入ってくるなり、熱があるという男の額に手を当てんばかりであるその動作から、随分年嵩な男のような印象だが、実際は同年代だ。
とっ捕まえて、というかそんな扱いは受けずにほぼ自分で仕組んだことだが、半囚人の立場で牢に入れておいた者に対する奇妙な扱いに、変なヤツ、と評価しながら葦原はじっと男を見詰める。
「すまん!」
真顔でいると目付きが悪く見えがちな葦原が睨んだと思ったから、とはまた別の理由で、触れていた手を瞬時に離す。
本人は認めたがらないが、その美貌と軽めの頭と人懐っこさで、男女問わずかなりモテる人生を歩み続けて二十五年程、危機管理能力的な意味合いで、男相手には自意識過剰とも言える勘が働くことがある。
ちなみに残念なことに女に対しては途轍もなく鈍いのだが。
その妙な予感故に今までならば尻尾撒いて逃げ出すところだが、これを利用しない手はない。
見詰めたままで少し頸を傾ける。
「熱、ありました?」
もちろん表情は、沖田の特技である蠱惑的な笑顔だ。
全くと断言していい程に嬉しくないが的中のようで、目の前で食らった相手は可哀想に激しく慌てふためき、なんと鍵を落とした。
ここまでの効果は期待していなかった。
せいぜい、近藤ともう一度話をさせてくれないかと口説く程度の考えだった。
「……ダメじゃないですかぁ。こんな大事なもの落としちゃあ」
反射的に鍵は奪ったものの、どうすればいいかは考えていない。
とは、さすがに軽量級の頭でもならない。
先程の憎たらしい科白と共に鍵に付いた鉄の輪を指先でクルクル回している時は既に、拾おうと屈み掛けた男の顔面に膝蹴りをかまして牢外に走り出、しっかり錠を掛けた後である。
ここまでの間に何度も男は声を発しているが、あまり葦原に伝わっていない土佐弁なので割愛している。
今度こそ葦原は脱兎の如く逃げた、と言っても目指すは近藤の牢だ。
しかし東征軍も馬鹿ではないのだから、大声を出せば会話ができる程の距離に近藤と葦原が配置されているわけではないのでかなり走らなければならない。
それも見つからないよう、最短距離を突っ切っていくわけにもいかない。
「葦原!」
間諜でも敏腕監察でもない、ただの剣術バカである彼は速攻見つかる。
これでも一応、縁の下を潜ったり弊や屋根を伝ったりはしていたのだが、同じような行動をしていた男がいたのだから仕方がないのかもしれない。
「び……っくりさせんじゃねぇよ相馬!」
例の迷信が本当なら何年分寿命が縮んだか数えたくない程の驚きに、バクバクと波打つ鼓動に手を当てて振り返る。
相馬はまず、少しホッとした。
なんとか侵入した総督府で、書簡が渡せること、葦原に会えたこと、そしてその男の様子がすっかり普段通りであるということに。
相変わらずの伝法な口の利き方が、全くの場違いではないかと自分を諌めながらも懐かしいような嬉しさを以て、珍しく表情が綻んだ。
その様にさらに驚かされるのは葦原のほうだ。
「おまっ……こんなところで何ニヤニヤしてんだよ」
近藤の、隊士……彼が言うには配下の者達全てを仲間と呼んで憚らないが、下は小姓まで、絶対に隊士を見捨てないという心情というか人間性故の機転でせっかく逃がしてもらったのに何ノコノコ戻ってきてるんだとの気持ちなのだが、それにしても酷い言い様である。
「これを……副長からお預かりしてきた」
またも見慣れた方の憮然とした表情を取戻し、書簡を差し出した。
土方からぁ? という訝しげな態度で、早速確認しようとした矢先である。
あの、やけに感じが良くて懐の深そうな、如何にも人格者然とした、この場に置いての敵方最高指揮官・有馬藤太にまたも明るく声を掛けられたのは。
平常時でも声を掛けたくなるだろう。
大の男二人が晴天眩しい陽気の中、外塀の上で身を屈め、コソコソと談合しているのだから。
それがこの情勢、この顔合わせでは、誰何するのも道理である。
珍しいのは、その声が遊びに誘うように浮き立つように聞こえることぐらいだ。
「イケメン二人が、何の話しちょっと?」
本心なら正しくその通りだろうが、混ぜてくれと言わんばかりの軽快さだ。
やはりこの状況、この組み合わせでの密談ならば、是非とも参加しなければならない立場の男なのだから。
対して双方漏れなく顔面蒼白の二人は、万事休すの様相だ。
葦原の方は、まだ開いてもいない書簡の意味はなんとなく察していたし、言うまでもなく内容を理解した上で持参した相馬は、ここで殺されるか、土方に切腹を命じられるかどちらかで、自分の生涯は終わったと覚悟した。
有馬はその内容には勿論、密かに、新選組鬼副長土方歳三とは、こんな女のような美しくも優しい字を書くのかと驚いた。
そう、送り主の名は無くともわかっていた。
近藤勇と直接対峙すれば彼の、どうしようもなく他人を惹き付けてしまう力は感じる。
自分もそれに絆されているのだから。
そんな男が敵に捕らわれて、血気盛んな新選組が黙っているわけがない。
局長だから戦術的に奪われてはならないという団体としての考え以上に、各々が個人的に掛け替えのない存在として、絶対に取り戻したいのだ。
きっと、力任せに奪いにくるだろうと、期待に近い予感はしていた。
気持ちはわかるが、このまま襲撃を待っている訳にはいかない。
ここで大掛かりな戦になることは必定。
新選組の大多数は会津に向かったと聞いているので、奇襲を掛けてくるのは少人数であり、銃火器なども然程の準備はしていないだろう。
恐らく、自他共に大得意と認める白兵戦を仕掛けて来るつもりだ。
それでも装備と人数で敗ける気はしないが、戦は避けなければならない。
戦となればこちらが勝つ。
そうなれば近藤、沖田に加え、土方ら実行犯を捕らえ、処分せざるを得なくなる。
避けたい。
京での実績、有力志士が多く落命した池田屋事変、中岡慎太郎と坂本龍馬の暗殺容疑、そして総督府討ち入りからの戦……生易しい刑で終わる筈がない。
有馬は一通り思い巡らせ決断する。
鬼と名高い副長のことだ、きっと自ら現れるだろう。
他に何人が来るかはわからないが、襲撃の際、目的である近藤の姿が無ければ、なんとか穏便に済ませられるのではないか。
更に、近藤も奪われずに済む。
いや、ずっと帰さぬつもりなど毛頭ないが、裁きもなしにみすみすと逃れられては如何に断罪する気は及ばぬとも流石に沽券に関わる。
近藤を、他の場所に移そう。
沖田も相馬も、共という名目で連れて行く。
当然だ。
今回は近藤に何と言われようと帰すわけにはいかない。
土方に絶対に知られてはならないのだから当然だ。
こちらも最小限の人数で動き、絶対に悟られてはならない。
ほとぼりが冷めるまで、近藤を隠す。
恨まれるかもしれないが、それが結局は彼らの為となるのだ。
早速、二人は厳重な警護の下捕らえられた。
眼を光らせる男らの中には、先程鼻っ柱に思い切り膝蹴りを食らってやっと鼻血が止まったと見える男の姿もある。
やはり近藤とは遠く離されながらも、仲良く同室に収められている。
また沖田の振りをした葦原に、悪巧みされかねないからだろうか。
「なぁ、さっきの文って……」
所在無さげにちょこんとしゃがみ、賢明にコソコソと低い声を出す。
「……ああ。察しの通りだ」
「マジかよ!」
イカれてんな土方、と自らの考えを棚に上げて評価しながらも、やはりその決断が嬉しくも感じてしまうし、最大の賛辞だ。
大将の為に敵の本拠地に討ち入るなど、軽薄な発想ながらも血湧き肉躍る。
せっかく小声で話し始めた癖に、葦原丸出しで大声を張るくらいだから相当だ。
「しかし、もうそれも叶わぬ。お終いだ、何もかも」
対して常識的な相馬は、正にこの世の終わりのように項垂れている。
確かにどこかで嬉しいと感じていた決断も、重大な任務を授かった栄誉も、一瞬の油断ですべて水の泡だ。
せっかく土方が満を持して突入して来ても、ここには近藤の姿がないのだ。
どれだけ落胆するか。
その姿がないことそしてそれ以上に、近藤救出が決して実現できぬ夢物語に終わると知ったら。
何より近藤は、新選組はこれからどうなる。
「二人とも、面倒かけてすまないな」
この期に及んでどこまで優しいのだ。
時刻は既に夜半。
漆黒の闇に紛れての道中となる。
自分を助け出す為の行動、また捕えられてしまったこと、共に移動をしなければならないこと、あらゆることに対して彼は詫びたようだ。
「局長!」
ここまでの展開は、近藤が投降してからわずか二日のことである。
それでも久し振りに会う彼は、達観したような、まるで自らの天命を全うしたような不思議な風格が漂うので、敏感に察する相馬は少し身震いをした。
近藤の少し後方には有馬の姿がある。
出立の催促だ。
「滅相もございません! 私が不甲斐ないばかりに……」
手をついて、何なら額まで擦りつけそうな勢いで低頭する相馬を近藤はその膝をついて止める。
肩を掴み、無言だ。
いや、心中でのみ呟いたのだ。
「お前らだけは絶対に、トシのもとに帰してやる」
近藤は駕籠、他の者は敵味方問わず皆徒歩だ。
有馬ですらそうなのだから、如何に秘密裏に事を進めたいのかがわかる。
その駕籠に、ごく一般的な処置に倣って、士分の罪人を運ぶ時に用いる青網を被せようとしたところ有馬は烈火の如く激怒し、やめさせた。
「近藤さぁは武士の中の武士でごわんど! 縄を掛けるとはなにごとだ!」
こうして粛々と、ほんの細やかな大名行列が出来上がった。
近藤の駕籠のすぐ両脇には葦原と相馬が付き従っている。
只管最悪の事態をのみ想定するならば、土方に、新選組に返すぐらいならばと、道中で近藤含む三人を斬り殺さんと考える者もいるかもしれないのだ。
有馬が承知しようとしまいと、逃げようとしたから止むを得ずと証言すれば済むことである。
どんな辺境まで向かう気だ。
随分歩いた。
今宵は朔月の手前。
不吉にも儚い欠けゆく下弦の月、消え入りそうな僅かな月光が遠慮がちに弓のような姿を見せる。
さて、お待たせしました。
静かにかつ早急に進む行列を揺るがす、一発の銃声。
新選組精鋭の斬り込みによる、奇襲作戦の開始であることを告げる。
「壬生浪じゃあ!」
恐怖と憤怒を以て、懐かしい名で呼んでくれる者がいる。
「卑怯な!」
当てる気はあまりない。
人数を多く見せかけるはったりで、続けざまに数発の銃声を聞かせる。
奇襲を掛けるには少数のほうが向いている。
人数差は然程の問題ではない。
何の想定もしていなく一方的に襲われる時、それを受ける側のほうが、如何に大人数でも武器装備が充実していても圧倒的に不利である。
「慎太と龍馬を斬っちょった仇じゃ!」
攻めるほうに慣れている彼らはほんの一声すらも発さない。
的になってしまうからとそして、闇に紛れて討つ為である。
しかし、頗る不気味。
提灯の頼りない明りだけが場違いにも暖かく浮かび上がる。
この暗闇では元より、東征軍の鈍い弾になど当たる気は皆無だ。
「やってくれるぜ」
喉の奥で低く呟く葦原。
相馬は勿論、葦原さえ、土方の真意に驚愕を以て、否応なしに無理矢理気付かされる。
土方の一世一代、その生涯で第一といっても過言ではない最も大事な戦へ、僅か数刻で考えた策とは、板橋総督府への正々堂々の討ち入りなどではない。
敢えて気付かせ、襲撃に怯えさせ、これこのように近藤を別の場所に移す時。
総督府本陣より当然手薄になる。
そこを襲撃することだ。
散々な目に遭わされる東征軍としては、丁重に扱う意味で駕籠の中に近藤を入れたのが、あからさまに仇となる。
ここに目的の近藤勇がいますとの、宛ら目印だ。
「かっちゃん! 俺だ!」
堪らず土方は、声を上げる。
出てきてくれとの、銃弾と剣の間を掻い潜りながらの悲痛な叫びだ。
罪人の駕籠に通常では施されている筈の錠すら掛けられていないので、出ることなど容易い。
それにも関わらずシンと静まって衣擦れの気配すらないので、脇に居た相馬が駕籠を開け、注意深く近藤を外へと促した。
そのまま、最も重要な役目ともいえる、近藤の護衛に徹する。
隙を見て逃れるつもりも十分にある。
どこをどう見ようが辺りは漆黒。
わざわざ近藤の顏を照らす余裕などありはしないゆえに誰ひとり気付かぬが、表情が浮かない。
土方の助けを嬉しいとも、また俺の為に無茶をして、との僅かな憤りとも取れない、ただただ曇っているとしか言いようがない。
白兵戦は得意とはいえ、有馬藤太は示現流の遣い手であり、なんとあの人斬り中村半次郎に勝るとも劣らない腕と評判の男だ。
他の者達を放って置いて、若しくは粗方片付けて置いて、白兵戦の中でもさらに大得意の新選組お家芸・集団戦術……要は標的を複数人数で包み斬る、武士の作法も何もあったものではない、とことん勝利に拘ってきた土方考案ならではの戦術を使わねば勝ち目はないかもしれない。
そもそも新選組創設時の幹部隊士らが主に修めていた天然理心流に、集団戦術の型が多いという流れも汲んでいるのだが。
しかし味方といえば、土方、島田、相馬、野村、そして葦原のみ。
この中で最も強く、有馬とさえ互角以上に渡り合えるであろう近藤は、剣を振るうことはできない。
その近藤を守りながらの戦いだ。
幸い、敵を壊滅させることが目的ではない。
近藤を連れてこの場を脱すればいいのだ。
「チェストォォ!」
示現流の気合い、というわけではなく薩摩の方言である。
この場にいる薩摩藩士は有馬のみ。
つまりこの掛け声が聞こえてくるほうからの初太刀は絶対に躱さなければならない。
示現流は初太刀に全身全霊を掛けて斬り込んでくる、先手必勝、二の太刀要らずといわれる剣法であり、まともに受けてはまず勝ち目は薄い。
猿叫と称される耳を劈くような甲高い気合いを発し、怒涛の如く攻めてくる。
一方で流石は指揮官、やはり冷静な部分も大いにある。
狙うは葦原。
理由はこの男が、剣神の如く強い、沖田総司だと認識しているから。
総督府での立ち回り以上に、自らの師である近藤を前に、そしてその命を救う為、手加減などは絶対にしないであろう。
ここにいる部下達では到底敵わないどころか、皆殺しになるかもしれない。
まともに相手できるのは、自分しかいない、と踏んでいるのだ。
「総司避けろ!」
他の者との斬り合いで他所を向いていた葦原を、土方は確かにそう呼んだ。
常に冷ややかにも智略巧妙な土方故に、こんな時でも冷静に、今の葦原は東征軍の前で沖田を演じているのだから、との計算での行動かとも思えるがしか
し、それは買い被り過ぎの真逆である。
真面に受けては確実に力負けする。
彼が年に数回あるかないか程、極めて慌てていたからこその行動だ。
「相変わらず、厳しいことをいうなぁ」
あれだけ大声で殺気満々で仕掛けられて気付かないわけがない、振り向きざまの葦原は、僅か斜めに体をずらし、有馬の剣先だけを軽く弾いてそのまま胸を突いた。
かと思わせる寸止めである。
「chest! 胸がガラ空きなんですよぉ」
葦原に言わせれば、文字通り、というところである。
敵味方共に、その光景に身動き出来なくなった。
敵側は有馬を心配する声を掛けたくとも、息すら忘れている。
味方側さえ、ごくりと生唾を飲んで刮目した。
「再度の忠告ですぅ」
あれだけ大騒ぎの乱闘であったのに、シンと静まり返る。
有馬の震える顎を、汗が流れる。
落ちる頃には葦原から笑みは消えていた。
「局長を返せ。沖田総司の級ならくれてやる」
土方さえ、口を開けずにいた。
近藤の帰還は、どんな汚い手段を使ってでも達成したい目的であった。
しかし、葦原の命と引き換えなど……本人が望んでいるとはいえそのまま推し進める程、鬼にはなり切れない。
有り体に言えば、喉から手が出る程、近藤の無事が欲しい。
だが何故、葦原はそこまでする?
自らの命を差し出すなど、どうかしている。
しかも、総司として。
総司の身代わりの次は、かっちゃんの身代わりになろうというのか。
絶対に許可などしないが、お前ならそうしたいだろうと、考えにのみ納得するとしたら、発想しているのが総司であればだ。
ホンモノの総司であれば、命を捨ててでも救いたいと願うであろう。
しかしそんなことはありえない。
確かにあの日、俺が死ぬまで会うことは無いと別れたのだ。
仮に、万が一にもまた入れ替わっているとして、俺がこれだけ見ていて総司と気付かないわけがない、と土方は自負している。
総司はあんなわけわかんねぇ西洋かぶれの言葉は遣わねぇしな、と付け加えてだが。
この沈黙を破るのは、彼を置いて他にはいない。
近藤勇その人である。
「総司、もういいんだ」
言葉からは、何もかも諦めた、魂の抜けたような表情が予想されるがむしろ逆、戦で采配を揮う大将が決断をする時のようなそれである。
この様相を前にして、いやそれは犬死だとかは到底反論できない。
土方に対してごく冷やかに、沖田を演じる葦原に配慮して、その名を出した。
相馬にピッタリと護られて、いつでも逃走できるよう徐々に後方へと控えていた近藤がゆるりと前に出る。
「俺は、新選組の為、幕府の為、この日本の為に残る」
近藤が新選組に帰還したとしたら、怒り狂った東征軍総出で、皆殺にせんとの気概で攻めてくるだろう。
援軍などは期待できない。
勝安房そして二心殿豚一・徳川慶喜初め、旧幕府の総意は徹底抗戦ではなく、江戸城無血開城作戦にも代表される通り、大掛かりな戦をしないことだ。
幾度となくおとなしくしていろと忠告され続け、言葉だけではなく実力行使、名を変えられ江戸から遠ざけられてまでの邪魔扱いを受けてきたのだから。
新選組の壊滅に成功しようが失敗しようが、次に狙うは旧幕府軍本隊である。
いかに命令違反を犯したとはいえ新選組は幕府の一組織。
本心では戦をしたくて堪らない、旧幕府の力を徹底的に、完膚なきまでに削ぎたい西郷隆盛初め東征軍は諸手を挙げて喜んで総攻撃を掛けてくるだろう。
その戦、長引けば長引く程、国が荒れれば荒れる程に、西洋諸国の思う壺である。
武器弾薬も戦艦も、東征軍は主に英国、旧幕府軍は主に仏国から、莫大な資金で輸入しているのに加え、戦で傷つくのは戦に出る武士だけではなく、土地に住む民、風土……いわば日本そのものだ。
内乱で疲弊した日本を、諸外国が放っておく筈がない。
助けるとでも?
当然、逆である。
そもそも“幕末”の始まり、開国を迫られたのは何の為だ。
別に仲良しこよしになりたいわけではないのだから。
その日が来るのを手を拱いて待っている、むしろ待っていられずに様々に助言という名の口出しをしてきているのだから。
近藤は、気組み第一の熱い剣術を遣う剣士であるが、一方で政治好きでもあった。
まだ道場にすら通う前の農家の倅であった幼少時から三国志を愛読し、新選組局長となってからはより一層、隊の運営は土方に任せ、自らは幕府の有力諸侯との面会など、政治に没頭してきた。
持ち前の勉強熱心さにより、勝安房らが懸念する程度の先読みはとうに済んでいるのだ。
近藤は、世間知らずの、時代に翻弄された哀れな男では決してない。
すべて、自ら選んでこの道を歩んできた。
それは新選組も同じである。
しかし土方らはそれでも、近藤を諦めきれなかったのだ。
彼個人の決断からすれば残念ながら、近藤は魅力的過ぎる。
天性の人誑しゆえ、周りが頭では理解していても、近藤に惚れ込んだ心が別れを納得できない。
「土方、会津へ向かえ。肥後守様をお助けしろ」
局長として最後の命令である。
土方の本心としては新選組があるのは正しく近藤の為であったが、当の近藤は勿論そうは思っていない。
局長ひとりの身柄に固執して、本懐を見失うな。
大恩ある会津藩主・松平容保公の危機に馳せ参じないとは何事だ。
今こそ新選組の血誠を捧げる時である。
目尻を赤くする土方も、人目を憚らなければそうしたいのかもしれない、いやそれどころか意外と誰より熱い男だ、抱き締めて号泣でもしてやりたいだろうが、葦原が近藤の袖を少し摘まんだ。
「いやです、先生。僕をひとりにしないで」
「……だからその顔で泣いてくれるな」
困りながらも四角い頬を緩ませ、幼子の如く頭を撫でる。
こうして近藤は、最後まで自ら選んで板橋総督府に残った。
対して土方ら新選組精鋭奇襲隊は会津へと向かう。
選んだとはいえ、人格者の有馬藤太が総督府を離れることになるのは誤算であった。
あくまで想定していた刑は最悪でも切腹。
切腹は、武士からすれば罪人としての刑ではない。
腹を斬って身の潔白を示す、誇り高い死である。
歴史に残る通り、斬首かつ梟首の屈辱が想定されていたとしたら、近藤と土方は共にこの決断をしただろうか。
夜に潜む二つの影。
纏う色こそ、さらに漆黒。
首を狙い、地を這う闇。
互いに疾走を繰り返してはいたが、息を切らすこともない。
疲弊していないわけではない。
吐息さえ、邪魔となる静寂。
「イテッ! んっだよ相馬!」
呼吸さえ目立ってしまうと書いたばかりである。
小突いておきながらも賢明に、相馬は目線だけで言う。
「油断するな」
「はいはい、わかりました」
と、逆ギレ気味に言わんばかりに、今度は葦原も睨みつけるだけに留める。
盗みなど働いたことがない二人の、初めての標的は。
新選組局長・近藤勇の級ひとつ。
慶応四年四月二十五日。
近藤勇は罪人として斬首された。
その首は板橋処刑場で晒された後、わざわざ活躍の地・京まで運んで三条河原でも晒されるという。
これ以上の恥辱は許せない。
何も出来ず、寧ろ救われた二人は、首だけでもあの男の元に帰さなければならないと、心に決めていた。
一旦会津にて新選組本隊に合流したものの、近藤斬首の報を聞きつけて飛び出してきたのだ。
如何にもそんな短慮な行動を取りそうな思考回路単純人間葦原はわかるが、相馬も全く同じ行動に出るとは意外である。
彼の敬愛する土方の憤慨ぶりを見て、居ても立ってもいられなかったのであろう。
憤慨するのは当然だ。
碌な審議もなしに、斬首されるとは。
あの有馬藤太は壬生城の戦いに出兵しており、重傷を負い入院している間に、狙ったかのように強行されたのだ。
歴史にもしもは禁句だが、もしあの有馬藤太が板橋総督府に残っていれば確実にこんな結果にはならなかった。
現に、その凶報を知った有馬は新選組の面々に勝るとも劣らない勢いで、やはり烈火の如く憤慨し、東山道軍総督府大軍監つまり上司にあたる香川敬三を詰り倒して糾弾したぐらいなのだ。
ちなみに香川敬三は、宇都宮城の戦いで土方に敗れ、一度は奪われた城を救援により再び奪還しているという因縁深い人物である。
しかも土方はこの戦いで足指を撃たれ、療養を余儀なくされている。
闇の中の二人は板橋刑場へ侵入する手立てを探っている。
まさに今、虚空の下に晒されている近藤の首は、当たり前だが、厳重に警備されている。
これこのように、何やら企てて近づく者がいるのを警戒してるのだ。
この二人、やはりどうしてもこのような仕事には不向き、またも容易に見つかる。
こんな時にも、隠密行動の名手であった山﨑は居てくれたらと悔やまれる。
見留め掛けられ、万事休すと提灯の明りに照らされる顏を向けると、相手の方が大層驚いた声を上げた。
「あれっ! そうちゃん?」
わかりやすく“相馬”の“そう”かと思い、知り合いかとチラと目配せする葦原に、相馬は
「いや、皆目わからん」
という反応で小首を僅かに傾げる。
相手は駕籠かき風情を含め七人の男で、真っ先に声を掛けてきたのは中でも一際若く少年と言ってもいい男だ。
キョトンとする二人を前に、少年は満面の笑顔で続ける。
「俺だよ! 勇叔父ちゃんの甥っ子の宮川勇五郎! 久しぶりだなぁ、宗ちゃん全然江戸に帰ってこないから」
史実では甲州勝沼の戦いの折り、甲府城へ向かう道すがら大名行列よろしく近藤の妻子が残る天然理心流試衛館や土方の実姉のぶの嫁ぎ先である日野宿の佐藤彦五郎邸を経由し、病身を引き摺るように共に進軍していた沖田は自らの頑健さを表す為、玄関先で四股を披露したという逸話が知られているが、葦原はとうに沖田のニセモノを辞めていた時期だ。
「やっぱり、歳三さんみたいに髪切ってたんだね! 仏蘭西の軍服も似合ってるよ!」
もう二人とも理解している。
この少年は、すっかり沖田だと信じ込んでいる。
そうなると、何年も沖田の振りをし続けていた葦原は反射的に自然に、演技を始めようとする。
少年の期待に応える利点など、全く無いというのに。
「おっきくなったねぇ勇五郎」
と、用意した科白を人懐こい笑顔で口にしようと息を吸い込んだ時
「いえ、この者は葦原柳と申しまして。見目形は沖田隊長と瓜二つですが、全くの別人です」
相馬が遮った。
間髪入れず畳み掛けてきていた勇五郎の他、近藤の長兄つまり勇五郎の父である音五郎、天満屋事件で落命した近藤の親戚かつ新選組隊士の宮川信吉の従兄弟の弥吉も、えっと驚いた。
それに構わず続ける。
「この者も私も新選組隊士です。局長付組頭を任されております相馬主計と申します」
淀みない言葉と共に、すっと一礼した。
「す、すごぉい! こんなそっくりなひとがいるなんて!」
「こら、勇五郎! 愚息が早とちりを致しまして、申し訳ございません」
全くの予想外にすっかり慣れてしまっている演技を切断されて、殊更に素の葦原も慌てて頭を下げる。
「いっいえいえ、こっちこそなんかすんません!」
素というか馬鹿丸出しで意味不明の謝罪をする始末である。
性格と、残念ながら剣術の腕以外はほぼ同じであることを謝っているとしたら、“生まれて、すみません”状態だ。
「ぅわあ、声までおんなじ!」
「こら!」
何故相馬は、葦原を止めたのか。
単に彼は、沖田を演じている葦原が気持ち悪い。
恐怖とも不気味とも言い切れないが、得体の知れない嫌悪感があるのだ。
類い稀な剣の遣い手である勇名から想像していたのと、掛け離れた沖田の真の姿を知らずにいた東征軍の面々を前に演ずるのは簡単かもしれないが、試衛館時代の少年期の沖田から彼の立ち居振る舞いやその内面を知り尽くしている者達の前で熟すのは無理があると、具体的に判断して行動したわけではない。
ただごく個人的に、寒気が全身を覆い、吐気がするような……相馬としてはやはり何だか気持ち悪いとしか言えない感情から、沖田の演技をやめさせたかった。
何やらごちゃごちゃと雑談している男達の陰に隠れるようにしていた少女が、子どもながらにどうやら和んだようだという空気を感じたのか、おずおずと小さく丸い顔を覗かせた。
音五郎の袴の端をしっかりと掴んだままではあるが。
かわいらしい姿だが可愛ければ可愛い程にこの場には不似合いだ。
微笑ましい様子を前に、二人はぎょっとした。
「こんばんは」
その二人の反応を見るなり真っ直ぐに気を付けの姿勢をとり、先に挨拶をしてくるところが、両親の気性をしっかりと受け継いでいる。
『こ、こんばんは?』
大人二人がこの有様である。
むしろ、ぎょっとした時点では、妖精か何かかと思った程に、何故今夜この場所に少女が? と、生身の人間であることの方が不自然なくらいだ。
いつ・どこで・誰が・何を・なぜ……どう考えても奇妙過ぎる。
音五郎らが慌てて補足しようとする間もなく、少女自らが続けた。
「近藤勇長女、瓊と申します。父がお世話になりました」
今度は二人が直立不動のち敬礼となる番である。
『こ、こちらこそ!』
さてここまで、彼らはほのぼのと雑談しているが、こんな場所で堂々としていていいのだろうか。
それは全くと言って良い程、問題無い。
何故なら近藤縁の七名は、目的としては葦原と相馬のそれに似通っているが、真反対にも取引を成立させた上でここに現れているからだ。
もちろん相応の包み金を支度してきてはいるが。
刑場の番人と通じている彼らは、近藤の屍をこんなところに捨て置いてはおけないと、せめて胴体だけでも連れ帰りたいと、灯ひとつもない通りを進んできたのだ。
勇五郎は、近藤の首が斬り落とされる瞬間を、間近でしかと見詰めていた。
その立派な最期を、家族に涙ながらに伝え聞かせた男だ。
やはり新選組隊士ら同様憤慨した彼らは、近藤の遺体を掘り出し、上石原の菩提寺へと運び埋葬し直そうというのだ。
「それで、瓊さんも一緒に?」
相馬が訊ねると、瓊は恥ずかしがるでも胸を張るでもなく、ただごく当たり
前のことをしているように応えた。
「はい。母には止められましたが、無理を言いまして」
二人の前では敢えて話題にしないが、実は許嫁同士である勇五郎が悪戯っぽく笑いながら付け加える。
「瓊は言い出したら聞かないんですよ」
バツが悪そうに俯きかけるが、
「さすが局長譲りで勇敢だ」
葦原が、そんな器用なことができる男ではないが、お世辞でもなんでもなく本当に感心し、
「なっ、瓊ちゃん」
と笑いかける頃には、誰も気付かぬものの頬を真っ赤に染めて結局俯いた。
勇五郎からさえ十も歳下の、七つの少女である。
「……葦原お前、それ天然か?」
「はっ? 何が?」
皆まで聞くな、わかりやすく明らかに天然である。
こうして、葦原と相馬もそれを手伝うことになった。
暗闇の中、やや遠くを眺めながら立っている男がいる。
金を握らされて密約を交わすような男には到底見えない。
聞く話によると、せめて菩提寺で弔ってやりたいという涙ながらの縁者達に同調し、それならばと引き受けたらしい。
首のない遺体は、最期に着ていた気に入りの亀綾の袷を脱がされ埋められていた。
斬首した罪人は、皆一様に下帯と下着一枚の状態だという。
絶対に取り違えてはならないと、右肩に残る銃創があるかしっかり確かめる。
音五郎が、ぐっと親指を傷口に差し込む。
「間違いねぇ」
誰からともなく、すすり泣きながら土を掘り起こす。
「うっ……お、お父、さまぁ……っ」
男達でさえこうなのだ。
一人娘の瓊はそれでも、大声で泣き喚くでもなく、歯を食い縛りながら小さな手を父の身体に触れる。
「お父さま……っ瓊です……お迎えに、参りました」
決して取り乱さずに、ただ静かに止めどない涙を流し続ける。
近藤の妻・ツネは、良妻賢母の手本のような女性である。
元々武家の出で、幕府のご祐筆を務めた程の才媛だ。
主人が離れ、滅多に帰って来なくとも、いやだからこそ、武士の娘として立派に育ててきた。
「ふっ……お父さまぁっ……」
耐え切れず、漸く自らの手を止めた勇五郎が、瓊をしかと抱き締める。
くぐもった泣き声は、遺体を駕籠に乗せて運ぶ準備が整うまで、約一刻の間続いていた。
激しく振りしきる雨の中、夜が白々と明け切る頃に、上石原に到着した。
宮川家には寄ることもなく、真っ直ぐに竜源寺へ。
そこへ、首のない近藤を埋めた。
「本当に……立派な最期でした。一言の言葉も遺さずに、ただ納得しているかのように、実に静かに首を斬られました」
そう語る勇五郎は、この十年後に瓊を娶り、天然理心流五代目を受け継ぐ。
生前の近藤が、沖田に是非継いでほしいと考えていたのが、随分昔のことのように思える。
瓊があまりにも哀れに泣くので、葦原の密かな涙は自分でさえ意識もしないままに滔々と流れ続けた。
いや、実際に号泣していたのは、あくまで心のなかだけであったのだ。
先生、僕を、ひとりにしないで。
別れ際にそう叫んだ、心のなかが、密かに燃えていた。
まるで血の色だ、その赤は。
綺麗なもんだな、などと思いながら、薄い硝子を陽に照らす。
「……今、なんつった?」
「おや、聞こえなかったかな」
冗談は髭だけにしとけよ。
「土方を斬れ」
シンセン 後編 最終章
土方歳三暗殺篇
まだその赤に見惚れるように、ゆらゆらと揺らしながら呟く。
「まぁ、理由はわからなくもねぇが」
真っ赤じゃねぇところなんか、そっくりじゃねぇか。
「なんで俺に?」
所謂、土方親衛隊の一人である。
「自覚はないのかい? 時折君は、あの男を殺したい程に憎らしい、という眼で見ているよ」
そんな馬鹿な。
そんなこと、思うわけがない。
そう、当たり前のように反論していた。
――……
あまりにも凄惨な激戦で、当時、如来堂での戦に参集した新選組隊士会津残留班は、全滅したといわれていた。
しかしその中の山口次郎そして葦原柳は悪運強く生き残り、むしろこの二人に限っては目立った外傷もなくピンピンしていた。
残党狩りにも遭うことなく、硝煙で煤だらけの顔面を突き合わせ、葦原に至っては軽く吹き出しそうにさえなった。
相手のこの顔を見れば自分も同じだろうと、山口は手の甲で頬をぐいと拭った。
「ぶはっ!」
逆効果である。
一層煤が拡がっただけの結果となり、葦原は耐え切れずに笑い出した。
ひっそりと佇む朽ちかけの小さな寺に、遠慮がちな忍び笑いが響く。
山口は遠慮などする筈もなく睨みつけた。
「いやぁ、盛大に負けたなぁ! このまま引き下がるわけにゃいかねぇ。土方の野郎を追っかけようぜ」
二隊に分かれた新選組の片割れは土方に率いられ仙台の地へ向かい、奥羽越列藩同盟軍に参加していた。
息をするように自然に、葦原はそこに合流しようとの考えだ。
「……いや、俺は会津に残る」
「はっ? なんでだよ。もう負けちまったんだ。ここでは戦は起こらねぇ」
既に決心を固めた様子の山口を、怪訝そうに見返す。
「ここからが、会津の真の戦だ」
全面降伏をした会津は、只管恭順だけで許される筈がない。
元会津藩主松平容保公は京都守護職として、天誅と称して京で暴れ回った討幕派連中所謂志士達を斬り捨て御免で取り締まりまくった新選組を率いた、薩摩長州討幕派諸藩からすれば相当の恨みを一身に買っている賢君である。
彼らにしてみれば、局長近藤の首を斬り落として晒してまでも、まだ足りないようだ。
会津藩士らは草木の生えない不毛の地斗南藩三万石へ移封の処分を受けることになる。
三万石というのは表向きであり、実際の石高は1万にも満たなかったのだ。
凍えた上に餓死する者が多数出る程の辛酸苦渋を舐める日々の始まりだ。
「会津藩士の俺が、殿を置いてこの地を離れるなど有り得ない」
「会津藩士ぃ?」
誰が? と、素っ頓狂な声を上げて目を見張る。
ここで珍しく、山口はしまった、と固まる。
正体がバレていたのは、ホンモノの沖田総司のほうにであったのを失念していた。
しかしそれを聞いても、まさか会津藩から密命を受けた間者であったなどと、疑いもしない。
葦原が単純明快ということに加え、それ程に山口の立ち居振る舞いは完璧だったのだ。
「お前こそ、長州藩士らしく戻ったらどうだ」
驚くだけ驚いてそれ以上追求する気配の無さそうな葦原に、山口は問う。
「日本中いや世界中どこから見ても幕府の負けだ。お前がこれ以上付き合う義理はなかろう」
どこから考えても明らかに正論である。
今や長州藩は天下の官軍様だ。
戻れば、あの池田屋事変の生き残りとして厚遇されるに違いない。
新選組に縁のある者から見た葦原の姿はどう見ても沖田総司だが、故郷に帰った途端、葦原が生きていたと大歓迎されるであろう。
しかし誰からでも常識である考えにこそ、葦原は思いもしなかった、というように元々大きめな眼をまだ見張り続けており、山口を前に感嘆の声を上げた。
「そっかぁー! なるほど、そういやそうだよなぁ」
ヘラッと軽く笑いながら言う。
「けど、約束しちまったんだよなぁ、アイツに」
つい最近会った友の話をするように笑うのだ。
「……沖田さんか」
一瞥する山口に、また軽くコクリと頷く。
「お前の分まで、局長と土方を支えてやる。だから安心して休め」
「沖田さんはなんて」
何故か苦々しげに、瞑目しながら訊ねた。
「いや、特になんも言わねぇよ」
どこから来るのか不明の自信満々な言葉を聞いてどんな反応をするのか、全く想像がつかない程度に、山口は沖田を知らない。
あの気難しい男の反応が気になるが、いつか確認しようと用意していた話題に変える。
一般的には明るく朗らかな親しみやすい男で通っているが、山口はそう評価している、というかしっかり見抜いていた。
「局長と共に板橋総督府を脱しようと、わざと捕らえられたのだったな?」
葦原は、今更それかとでも言いたげに大きめな若干の吊り目を瞬く。
「何故そこまで」
諾を聞かぬまま続けるが、返って来るのは何気なく発する、まるで他人事のような返事だ。
「わかんねぇ」
さぁ? という雰囲気の口振りである。
「記憶が、ないのか」
沖田さんが入れ替わっている間の記憶がない、それではあの頃と同じではないか。
先程の問い掛け、お気付きいただけたであろうか、山口は罠を張っている。
普通の流れであればこう訊く筈だ。
「局長を解放させる為に、自ら処刑されることを望んだのだったな?」
葦原が発想しそうな一般的で前向きな考えと、沖田が如何にも望みそうな、病的なまでの直向きな忠誠心の表れが、食い違っているのだ。
「咄嗟の思いつきだからな」
「俺はこう考えた。沖田さんが、言わせているのではないか」
敢えて直球を投げかける。のらりくらりと、受け流すのが上手い男が相手だからだ。
「お前はかつて、沖田さんの振りをしていた。今は逆なのではないか」
副長は自らの感覚で、沖田と葦原を完璧に見分けられると思い込んでいるようだが、それこそ副長は沖田に骨抜きにされているのだから、騙すのには最適の相手ではないか。
「沖田さんが、葦原の振りをしているのではないか」
もしくは、実は入れ替わっていない。あの時からずっと、沖田さんのままなのではないか。
二人が入れ替わる切っ掛けは心情が重なった時であり、そのカラクリを当てたら自分は完全に消えてやる。
そう言ったのは沖田だ。
すべて本人が語る内容を鵜呑みにし、誰もが信じ切ってしまっているが。
そのすべてが嘘だとは、何故思わない、いや、何故誰も気付かないのだ。
「……そうだとして、こう訊かれた沖田が素直に認めると思うか」
「はぐらかすだろうな、確実に」
山口は自嘲気味に珍しくも、皮肉そうではあるが少し笑う。
「だとしたら沖田さん。俺とあんたは、きっともう会うことはないだろう。バレたとて副長に……誰にも言ったりしない。だから、」
「だから違ぇって。……俺は葦原だ。嘘じゃねぇ」
真顔だと睨んでいるように見えがちな者同士、喧嘩でもしているような雰囲気で然と眼を逸らさない。
「つか縁起でもねぇな」
と、葦原のみが少し苦笑いした。
「……相変わらず、本当のことなどひとつも明かさないのだな」
だから本当のあんたなんか、誰も知らない。
そのままでいいのか?
「……しつこいですねぇ、はじめさんは」
人が悪い。
確信を持ちながらも話を詰めてきていた筈の山口が、それでもどれだけ驚愕するか想像に容易いだろうに。
「なんて。認めた振りしてやり過ごすのは簡単だ。お前らにとっちゃ残念だろうが、沖田はもういない。悔しいぜ。ホンモノのアイツなら、局長奪還もやり遂げたかもしれねぇし、如来堂の戦も勝ったかもしれねぇ。これからの戦だって、俺よりよっぽど役に立つだろうよ」
これは沖田の癖だ。
いつしか見つめていた掌をきつく握る。
「だが俺は、俺たちは喪っちまったんだ。だからどんなに力不足でも、やれるだけやるしかねぇ」
しばし、山口がじっくりと確かめる沈黙が流れた。
深く皺の刻まれた眉間が微かに震える。
「……あくまで貫くか。俺はあんたにとって、信用に足らぬ、という訳だな」
あくまで山口は、自論を確信している。
すっかり、沖田に向かって話を進めているようだ。
確かにこの様子では、いっそ認めてやったほうが楽にも思えてくるだろうがしかし。
「沖田の奴、お前のこと信用してたかどうかは知らねぇけど、一目置いてたのは確かじゃねぇか? まぁ、二度と会わねぇなんて言うのはやめろよ」
沖田と葦原の思考は似ている部分もあるが、まるで違うところもいくつかある。
葦原のほうが、圧倒的に前向きで楽観的であり、要はよりバカっぽい。
「絶対に生きて、また会おうぜ」
旧幕軍は、度々描かれるように悲愴感に塗れて戦っていた訳では無い。
戦で散った仲間の弔いや、幕府への忠義も勿論あるが、少なくとも新選組は。
本気で勝つ気で戦っていた。
現に東軍所謂旧幕軍は当初、勝ち戦の絶対条件である兵士の頭数で圧倒しており、徳川慶喜や勝安房守らの怜悧で卓抜した政治手腕により繰り返し踊る会議の議論上でも押しては引いての舌戦を展開し西軍、あまりこの表現は使いたくないが所謂官軍をヒイヒイ言わせていたのだ。
後から見れば、東軍の敗戦に次ぐ敗戦はまさかの連続であった。
他国で見る革命と、全く同じように。
全て後世の人間達が結果を知っているからこそ言えることであるが、時流に乗っている、というのはそういうことだ。
しかし当時の戦渦中にいる彼らは、二百五十年当たり前に存在していた幕府が本当に倒れるなどと、君臨し続けた征夷大将軍という存在が消え、武士の世が終わるなどと思いもしていないのだ。
漏れなく葦原もそういう男であり、だからこそ。
この戦を生き残り、幕府軍は勝ち、さらにその後も自分や仲間達は生き続け、元気に笑って暮らしていける。
そう信じて戦い続ける男だからこそ、喩え主君と決めた男の為とはいえ、かつて身代わりとして生きると決めた男との約束の為とはいえ、舞台裏を知る者から見れば犬死にと揶揄されかねない死に方を選ぶとは思えないからこそ、山口は確信を以て問い質したのだ。
「……わかった。戦が終わる頃には解放してやってくれよ、沖田さん」
「それは、わかったっつわねぇんだよ」
それぞれ別の戦場へと分かれる二人に、あまり時間はない。
山口は軽く手を挙げるが、葦原は不服げに口先を尖らせる癖を見せつけつつ煤で汚れた肩を小突く。
「また会おう“葦原”」
戦禍の誓いではありがちだが、この約束が果たされることはなく、縁起でもないと苦笑いをした男自らの選択により破られることになる。
何度目かの再会となる第一声はやはり、この言葉から始まる。
「お前……何してやがる」
「おはようございまぁす歳三さぁん」
長年履き慣れているかのように高らかに音を響かせる長靴でズンズンと近づいてくる土方は、歓迎に沸く箱舘新選組……島田魁によれば正式名称・土方副長守衛新選組隊士らを掻き分けた。
箱舘新政府軍のむさ苦しい男達の中でも土方を母のように慕う京都以来の古参隊士らを中心とした、後に島田が記した史料にしか残っていないという点と、若干迷惑そうにしていた土方の反応により残念ながら、公私ともに非公認の土方親衛隊である。
「なんで総司なんだよ」
「いや、この方が喜ぶかなぁと」
山口らと共に会津に残ると別れた時、もう会うことはないだろうと思っていた。
援軍の来る見込みのない籠城戦など、勝ち目のないことはわかっている。
だから土方は会津を離れたのだ。
予想通り降伏したことは知っていた。
運よく生き残ったとしても、今度こそ自由に生きるだろうと考えるのが常識である。
「どっちでも喜ばねぇ! なに戻ってきてんだよ! 馬鹿かお前! とっとと長州へ帰れ!」
戻るとは、俺のところに、という意味である。
「うるっせぇな! 俺は新選組で戦うって決めたんだ!」
近藤亡き今、身代わりを演じていた沖田本人でさえ、自分の元に残ってくれるなどと考える程、土方は甘くない。
沖田の主君は、天皇でも将軍でもない。近藤勇ただ一人であった。
その近藤が主と仰いでいるからといって、例えば幕府全体を敬うかといえばそうではない。
近藤だけが、敬慕の対象なのだ。
ゆえにきっと沖田ならば、近藤のいない新選組に従う理由などはない。
それこそ近藤を追って殉死しかねない。
良くて近藤の菩提を弔うことにその生涯を費やすかもしれない。
しかし葦原は……。
こんなことになるなら、会津で生き残ったとしても俺達を、新選組を追ってくるなと念を押せば良かったのだ。
「俺はもう、長州藩士でも沖田の代わりでもねぇ! 葦原柳として新選組に入ったんだっつーの!」
前に言っただろうがと、かなりの勢いでキレているが、土方としては呆れ返って物も言えない。
「だから馬鹿野郎だって言ってんだ! どうせ何も考えてねぇんだろう!」
いや、かなり言っているが。
「今、落ち着いて平和そうに見えんのは、これから雪が降るからだ。雪深い間は奴らも無理に攻めてこねぇ。雪が溶けたら」
「あ、なんだっけ……“たいせつな 雪……”」
「だーっ! 黙れ!」
今、わざとらしく思い出したのは、土方・俳号豊玉の名作
たいせつな 雪は解けけり 松の庭
である。
可愛らしい程に巧みとは言えないその発句を、趣味としていることすらこの場では葦原しか知らないことになっている公然の秘密だ。
しばし取っ組み合いを演じ、互いに息を切らせながら続ける。
ちなみに新選組隊士らは愉快な催しでも見物しているかのように、やんやと騒ぐのみだ。
「雪が溶けたら、喜び勇んで総攻撃を仕掛けてくるぞ。俺らに援軍なんざいねぇ。只管仲間が減っていくだけの戦なんだ」
一時的に勝ったとしても、最後は絶対に敗ける。
そのことを、土方は知っていた。
「運良く生き残ったとしても、奴らに捕らえられて、どんな目に遭わされるかわかったもんじゃねぇ」
最悪、近藤のように処刑されるかもしれないし、会津のように言わば飼い殺しの、非人道的な処分を受けるかもしれない。
「そうか? お前程の切れ者なら、新政府に呼ばれてもおかしくねぇだろ」
日本国内の騒乱が終われば今度こそこの小さな島国は、世界中を相手取った荒波に揉まれなければならない。
新政府としては、猫の手を借りたい程、喉から手が出る程、人財が欲しい。
英国人との交流の甲斐あり、意外と考えが広い葦原はあっけらかんと言う。
しかし土方は。
「反吐が出る」
二心殿豚一・徳川慶喜など、かわいいものだ。
蝙蝠よろしく旨みのあるほうへ跳梁跋扈する連中の配下になど就けるか、と舌打ちした。
対する葦原も、前言撤回の凝り固まった想いを吐露する。
「だろうな。それに俺は、敗ける気がしねぇ」
「……俺もだ。このままじゃあ、地下の近藤さんに合わせる顔がねぇんだよ」
敗け戦のままでは終わらせられない。
奴らに一泡でも二泡でも吹かせてからでなければ、近藤そして沖田と冥土で会った時になんと言われるか。
俺は、新選組は、やるだけやったと胸を張れるくらいでなければ、この振り上げた拳は彷徨い、宙ぶらりんだ。
こんな気障な仏式黒羅紗軍服にスカーフ、胸には銀の懐中時計、今でいうロングブーツの風体で、それこそ今のままでは沖田に
「歳三さんって、見かけ倒しぃ」
などと、小憎たらしく笑われるのが想像に容易い。
言ってしまった後に、しまったと気が付く。
その頃には、葦原の表情はパッと明るくなっている。
「ほーらな。気が合うじゃねぇか。一緒に仲良くぶった斬ろうぜ」
肩まで組もうとしてくる始末である。
それを無碍にも土方は避け、
「だから馬鹿だっつってんだ! 今の戦は斬り合いなんかじゃねぇ!」
と、ご丁寧に切り返す。
「知ってるっつーの! 言葉の綾ってやつだろーが! つかお前何回バカっつった!」
またも取っ組み合いの喧嘩を始めようとの勢いで、葦原は常套句、
「バカっつうヤツがバカなんだ」
を放つ。
ようやく、この男が間に入る。
「まぁまぁ副長、いいじゃないですか。せっかく来てくれたんですから」
まさに運良く生き残り、一生をかけて新選組隊士らの菩提を弔った男・島田魁が、鳥羽・伏見の戦いの折り、甲冑を着けた永倉をひょいと持ち上げたという怪力で二人の間にぐいと割って入る。
彼としては自分が生みの親である私設団体の組員が一人でも増えることは喜ばしいようで、満面の笑みで
「なぁ葦原! 副長親衛隊にようこそ!」
と葦原と肩を組む、が体格の差があり過ぎてなんだか葦原が押し潰されそうだ。
「そうですね。副長の楯は多い程いい」
「んだと相馬ぁ! 俺は土方の楯になんかなんねぇ! つかダサくね親衛隊って」
また、やいやいと言い争いに発展するが、終始、守衛新選組隊士らは土方を副長と呼ぶ。
彼はもう新選組の枠組みに留まらぬ、この旧幕府軍全体内の幹部である。
箱舘に進軍する時でさえ、新選組本隊とは別軍の指揮を取っていたのだ。
しかしそれでも本隊を離れ、土方にピタリと寄り添っていたのがこの守衛新選組だったのだが。
土方にはこの後、様々な重役と肩書きが付く。
それでもずっと、別れの瞬間そしてその以後も副長と呼び続けるのは、土方自身が最も気に入っている名だと、隊士らは知っているからだ。
土方はあくまで亡き近藤の意志を継ぐ者として、新選組の名は途絶えさせない。
局長の座は未だ空白であり、それは土方が新選組を去る日まで続く。
この喧噪の中、さらに面倒で、騒ぎを大きくする者が元からの大声をさらに張る。
「そぉーじー! 会いたかったぜー!」
かつて小天狗と持て囃された早業で駆け寄り問答無用、右腕一本で抱き着いてきた。
江戸四大流派のひとつ・心形刀流宗家であり、講武所教授方を務め、幕府遊撃隊入隊と華々しい経歴を誇りながらも、上洛前の試衛館の面々と親交があった……というか悪友の域までの濃い付き合いをした伊庭八郎は、箱根戦争の際に左腕を切断している。
葦原は、またか、とでも言いたげに、うんざりとした顔で説明する手間を思うが、江戸以来の沖田の知人に会うのはこれが最後である。
「あっれぇ歳さん? まぁたヤキモチ妬いて引き離さねぇの?」
これ見よがしに、細身の躯をぎゅうと抱きながら土方にニヤリと視線を向ける。
「そいつぁ総司じゃねぇからな」
「まったまたぁ! いいのぉ? 涼しい顔してっとチュウしちゃうぞっ」
「どわああ! やめろ!」
周りの隊士らは一様に、ヤキモチの件は否定しなくてもいいのかと内心思いつつヤレヤレと大喜び、葦原のみ必死の抵抗でグングン近付く伊庭の顏を押し退ける。
葦原的には、英国人に慣らされハグまでは許容範囲らしい。
「俺は沖田じゃねぇ! 顔が似てるだけだっつの!」
新選組に入った経緯や、病気療養中だとか伝えているであろう本当の沖田のこと、長州藩士であったことなどは説明すればする程に面倒な予感がして、ただのそっくりさんだと名乗った。
「葦原柳ってんだ」
やっとで解放し、今度は真ん中に星が見えそうな程見開いた目で観察する。
「イハラヤナギィ? マジで? お稚児さんみてぇな顏の癖に腹立つぐれぇ高い背恰好とかサラッサラの茶髪まで一緒じゃん」
当然の如くブチ切れる葦原を収束しつつ、伊庭を納得させるのに手間取りつつ、渋々ながら土方は葦原の旧幕軍再入隊を認めたようだ。
「……ったく……マジでバカだな」
の、一言をまたも漏らしつつ。
「こんっな瓜二つなのに、剣の腕はモチロン総司程じゃないんでしょ? 好機
到来じゃん歳さん!」
そして遅ればせながら伊庭にブチ切れつつ。
この一連の遣り取りを、先日入城したばかりの五稜郭内から見下ろす人物がいる。
その表情は嘲笑と、疑惑に歪んでいた。
ワイン片手を気取る別の意味の切れ者・榎本武揚である。
彼こそ葦原のいうように最後まで生き残り、我らが局長近藤に比べれば形式ばかりといっても過言ではない処分を受けた後に、明治政府で重用された男だ。
これから設立される蝦夷共和国総裁でありながら、降伏後は北海道開拓使に任命され、内閣開始からは各省大臣を歴任した。
見つめる先で笑う葦原は、鋭い観察眼を持つ彼からすると不自然でしかない。
一度認めた違和感を、気のせいだと打ち消すなど絶対にしない程の自信家である。
型通りの挨拶を難なく済ませた暫く後、気になることを胸に留めておけない榎本は葦原本人にズバリと訊いたことがある。
「なぜ君はいつも、どこか泣き出しそうな顔をしているんだい?」
肩を大きく竦めながらの「どこか」キザな口調と身振りはオランダ留学仕込みである。
「……は? 泣きそうって、俺が?」
あまりにも素っ頓狂な問い掛けに身体を開くと、調練の支度をしていた葦原は持っていた小銃を危うく向けかける。
葦原は意外と刀よりも小銃の方が得手らしく、この時代に本気で戦をするならば遅過ぎるのだが箱館に来てから漸く稽古を始めたものの、その腕は仙台藩が誇る洋式銃隊である星恂太郎率いる額兵隊の精鋭達も舌を巻く腕前に成長していた。
瓜二つの容姿であった沖田総司が銃を毛嫌いし、剣の上達のみに執心していたのに対し、元々西洋人に対してはもちろんその文化にも僅かの抵抗心のない葦原は最近では小銃の鍛錬に重きを置いている。
身振り手振りの大きさと口数の多さを除けば、狙撃手向きとも言えるのだが。
「ええ、いつも君は、悲しげだ」
そんなことを言われるのは初めてだ。
内容も、自意識すらないことを見透かすように指摘されるのも。
むしろ前述の通り、やっと得意分野を見つけて張り切っているというのに。
「今もほら、大きな眸から涙が溢れそうだ」
穏やかげな表情でも油断は禁物だ。
そう言う自らの眸の奥は常に笑っておらず、態とらしい動作で今更確認するかのように葦原の顎元を捉えた手先は、グイと斜めに角度を上げる。
厄介な男だ。
手を払い除けて思い切り怒鳴り……たいところだがどう見繕ってもそれはできない。相手は新入りとして加入した新たなる組織の総裁である。
と、考えるのが分別ある大人の対応だが、曲がりなりにも武家出身のものの末っ子故に甘やかされたのとある意味 放っておかれた成果か、上下関係に無頓着な葦原は易々とやってのける。
「触んじゃねぇ」
心底厭そうに睨みを効かせ、乾いた音が響く程に強かに、添えられた手を退けた。
激昂もしくは驚愕が当然の場面ではあるが、榎本は傲岸な微笑みを絶やさない。
「Let's grant your wish」
それでも幼い時から目上の者に可愛がられる性分である。本人の意思に反しても。
傲岸不遜さには葦原とて自信がある。
負けじと口角を上げて見せた。
「You know what I am」
ここではやっと榎本は驚いて、簡単には心情を表さない目許が僅かに動く。
彼としては意味を理解されるとは全く予想しておらず、不意に英語で誘惑することで、関心を引こうとでも思ったのであろう。
葦原の方はこの件を契機に榎本を“Genie”と渾名する。
突然、願いを叶えてやると宣言するところから原作ではその数は三つという決まりごともないらしいところまで、 レットから聞かされた千夜一夜物語「アラジンと魔法のランプ」のランプの精霊に似通っているからだ。
尤もランプの精のそれすら本名ではなく渾名なのだが。
彼ら旧幕府軍が、箱館の地で行ったことは、目新しさ満載であった。
いくつか挙げると、まずは役職を選挙で決めたこと。
日本最初の選挙と言われている。
当時は入れ札と呼んでいた行為で決められた土方の役回りは、箱館市中取締そして陸海軍裁判局頭取かつ陸軍奉行並だ。
読んで字の如くの仕事内容を察するに、どれも新選組副長と名実共に似通っている、と感じるのは恐らく土方本人も同じであっただろう。
そして、制圧したこの地で、一切の略奪行為と、多額の税徴収を禁じたこと。
これは、本気でこの地に根ざし、新しい国を設立し、民達と共存していこうとの彼らの決意の表れである。
いきなり登場した新参者が受け入れられ馴染むには、元からいた者達に嫌われては元も子もないのだ。
力で捩じ伏せることを良しとしない。
それは総裁である榎本武揚が若い頃から様々な学問を修め、留学先では戦線まで見学した末に身に付けた知識であり、武士相手にはとことん厳しい反面、所謂平民には頗る優しい土方の性格に寄るものが大きい。
そして、小姓扱いの見習い隊士には、教育をしっかり受けさせた。
これも、次代を担う若者の育成には欠かせないことであり、未来を見据えて本気で新しい国造りをしたからである。
春からの戦のみ考えれば只管に武術鍛錬のみしていればいいが、兵法のみならず、仏式調練、英語に仏語などの語学教育も行っていた。
その甲斐もあり、榎本を筆頭とした箱館を拠点とした旧幕府軍は、諸説あるものの、国際的には“Authorities De Facto”“事実上の政権”として認められることになった。
仏式調練と仏語を担当していたのはフランス軍事顧問ブリュネ、カズヌーヴらで、英語はなんと、葦原が受け持っていた。そしてさらに、他人に教えるなど柄でも無いであろうに、その腕を買われて小銃教授方筆頭となったのも葦原であった。
ほぼ毎日のように稽古があったが、意外に熱心に教えている成果で少年兵らの上達が早く、上にも下にも裏表なく同じ様子で会話をし振る舞うのでかなりの人気を得ている。
熱心であるかつ、教え方もなかなかに上手い。
後世に有名な山本五十六の名言で、
"やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。"
とあり、現代の企業新人社員教育でも根底をなす基本中の基本として知られているが、葦原はそれを自然と体現していた。
塾頭であり、次期道場主と期待されていたのに門人への教え方が頗る下手として有名な沖田とは、ここでも対極である。
土方はそれに気付いていながらも、特に褒めたりもしない。
いつも通りに貼り付いている不機嫌そうな顔で自室に呼び出した。
「だから、開ける時ゃ声掛けろっつの」
ガチャリと重い金属音と共に、やはり貼り付いているような不機嫌顔が覗く。
「knockしただろうが。いい加減慣れろっつの」
幼少時からの剣術鍛錬、というか昼夜明け暮れた喧嘩三昧の成果と持って生まれた天性の勘のおかげと、声も掛けずに自室に入ってこられるのはある男のせいで慣れているので、ノックには慣れていなくても他人の気配は察している。
小言を浴びせつつも、公然の秘密である趣味の発句に勤しむ様子を目撃されるようなヘマを仕出かすわけはなく、すっかりこれ見よがしの執務中である様子を見せつけるかのように机に向かい、書き物をしているようだ。
その机というのも使い古した文机ではなく、せっせと走らせるのも筆ではない。
五稜郭内の調度品のうち、より良い品をとの拘りの深い物は全て榎本が選んでおり、彼らしく船の木材を使用した大きく広々とした執務机は入室者を迎える向きで配置され、白さが眩しい羽ペンをコトリと置いた。
「そのノックとやら、こちらが返事してから入るもんだろが」
間髪入れずのコンコンガチャリでは意味がないだろうと、ごく正論をぶつけるが、そういう時、大抵葦原は無視に徹して話題を変える。
土方が掛けろと促したわけではないが、来客用の如何にも高級そうな、しかし葦原にとっては得体の知れない皮の香りを放つソファにどっかり深く腰掛け脚を組む。
向かい合わせのもう一組のソファとの間には臙脂色のローテーブルが置かれており、ここに足を乗せるなどという所業よりは幾分行儀が良いと言える。
「つか俺も暇じゃねぇんだけど。誰かさんに扱き使われてるもんで」
わざわざ呼び出して所作の小言かよ、本題に入れと促している。
「エノカマか?」
彼らの総大将・榎本武揚の通称である釜次郎を短く縮めている。
無論、普段は“榎本総裁”とか“榎本さん”とかしっかり尊称を付けて呼んでいるのだが、土方は器用に裏表使い分けができる男であり、どうでもいい余談な上に今更だが、人の名前を縮めて呼ぶのが好きだ。
「はぁ? いや、今の流れはお前だろ。なんであのキザ野郎が出てくんだよ」
葦原にしてはまともな部類のツッコミである。
土方は長時間の座り仕事でも疲れないと評判の革製執務椅子から立ち上がり、向かいのソファに移動する。
これも今更だが、しつこい程表現した通りの洋室であり、彼らは揃ってブーツを履き、歩く度に小気味よくカツカツと鳴る。
「ここ最近、やたらと仲良さげじゃねぇか」
「……歳三さんったら、まぁたヤキモチですかぁ?」
不遜げに組んでいた脚を解き、覗き込む上目が少し笑っている。
執務机の背後にある大きな窓から日没直前の強い陽射しが入り、猫のような吊り目が光る。
――……
「もしかしてぇ、ヤキモチですかぁ?」
――……
"また"と言われた通り、本人にも同じことを言われた夜は未だ鮮明な記憶として残っている。
場違いな話題にも程があるが、あの池田屋事変当日、沖田を一度目に喪った夜のことだ。
そう何度も言われる程なのだから、確かにかなり悋気が強い質なのかも知れない。
「……アタリだ……っつったらどうする?」
上記の科白は全てを言い終えることはなく"アタリ"の一声で葦原はソファを飛び上がり、無駄に広い部屋の隅まで撤退している。
ちなみにこの逃げ場所はあまりオススメしない。
これこのように、鬼脚と名高い駿足で追いつかれ、壁ドンされたら終わりである。
顔面蒼白の軽蔑の眼差しを鋭過ぎる眼光で睨み返し、態とらしい程の溜息を聞かせる。
「どう対処していいかわかんねぇくせに、アイツのマネはやめろ」
あっさりと背を向け、壁に置いていた手はサラリとした髪を掻き上げる。短髪にしてからよくする仕草だ。
「いや、喜ぶかと」
冗談だったのだと安堵した葦原は、すっかり腑抜けたニヤリ顔になる。
「んなわけねぇだろ。お前、"ゆいちゃん"瓜二つの女に迫られて嬉しいか?」
不意に初恋の想い人の名を出され動揺すると同時に身震いをした。
「……虫唾が走る」
「全く同感だ」
だからもう止めろとの論調だが、沖田に惚れ込んでいるという設定をいちいち拒否するのを諦めてしまったのであろうか。
また二人してソファに向かい合い、漸く本題と言えそうな話題に入る。
既に日没し、部屋には暖かい橙の照明がやや遠慮がちにいくつか灯った。
「Genieには、願いを叶えてやるって口説かれた」
また組んだ脚をユラユラ揺らしながら事も無げに言うが、小姓の市村が用意した熱い茶を噴き出しそうになったのを耐え、何とか反応を示す。
「……で? 軍艦でもオネダリしたか?」
「テメェに俺の何がわかるって返してやった」
今度こそ耐えきれず、土方は激しく咳き込んだ。
「笑い過ぎだろ」
「……っ笑ってねぇ!」
唯一無二の大将と認めた主君以外への、ある意味平等な不遜ぶり、外見のみならず気質は余計な部分ばかりが似ているとは知ってはいたが、見ていないところで思う存分発揮されるのはもうウンザリだ。
落ち着いてからまた少し茶を口に含み、続けた。
「ったく、少しは愛想ってもんを覚えやがれ」
返すまでもないが、土方にだけは言われたくない。
筋金入りの無愛想さを棚に上げ、これだからお前ら新選組は困るとブツブツ文句を続ける。
「おとなしく気に入られときゃ良いだろうが」
相手はこの戦に勝とうが負けようが、将来的に内務にも外交にも重用される人物である。
直属の部下として仕事をすることに恐らく利点しかない。
「自分以外の誰かのものになるくらいなら、頭ぶち抜いて死んでやる」
実際には一瞬だが、本人の体感としては数十秒もの間、爪先まで冷たい水に貫かれるような冷ややかな錯覚に囚われた。
――……
「そんなに心配しなくても、僕は誰のものにもなりません」
――……
育った境遇はまるで違うのに、不自然な程に似た信念を持つ。
自由な魂。孤独な程に。
「武士の端くれなら、せめて切腹するぐらい言いやがれ」
そう言って笑い合いながら、捉えどころがないと評される葦原は、肝心なことは話さない。
それもその筈。最も秘めておくべき相手である。
実はあの日の会話には続きがある。
榎本の執務室に呼ばれ、これ見よがしに優雅にワイングラス片手の彼に当然勧められたが、無碍とも言うべき即断で断っている。
それを話さないということは、申し入れを承諾したからなのか。
「君たちの大事な土方くんだが……斬ってくれないか」
冗談でもないであろうに、髭で隠れた口元は笑っているように見える。
くるりと回したワインを、慣れた動作で口に運ぶ。
「……今、なんつった?」
「おや、聞こえなかったかな」
もちろん、聞こえていない筈がない。
当たり前に、
「Pardon?」
ではなく
「No kidding!」
のほうである。
「土方を斬れ」
紛れもなく上官なのだから榎本としては大ありなのだが、葦原は
「テメェに命令される筋合いはねぇ」
との心境ながら、この男にしては珍しく飲み込む。
「まぁ、理由はわからなくもねぇが」
傍目にはボンヤリと見える印象で、榎本の揺らす赤を見詰める。
ずっと共に戦ってきた男である贔屓目を除いても、土方はあからさまに能力が高い。
武士としての誇りと矜恃と、軍人としての稀有な才、男女問わず惚れてしまう魅力もある。
神憑り的なカリスマ性があるのだ。
榎本に集中するべき、団体からの尊敬と信頼、この男になら命を預けられるという忠誠心が、奪われかねない存在を、邪魔と思うのは当然かもしれない。
本人は全くの無自覚だが、それを巧みに利用して取り込み、真逆の存在となることで頂点に立っていた近藤勇程の覚悟も大き過ぎる器もある男などそうそういない。
「なんで俺に?」
真っ当な意見だ。
何故寄りによって、それこそ傍目には土方親衛隊の一員である男に命ずるのか。
むしろ機密事項として絶対に漏れてはいけない、欺かなければならない部類の相手である。
「自覚はないのかい? 時折君は、あの男を殺したい程に憎らしい、という眼で見ているよ」
確かに。
いや、相馬主計や島田魁ら、土方に惚れ込んでいる男達とは全く違う。
本人にもバレバレだろうが、特に敬ってもいないし、盾となり護ろうという心意気などハッキリ言ってサラサラない。
しかし憎い、とまでの想いを抱いたことはない。
正直なところ、直属の部下の立場でありながら、仲間……いや、似たような志を持つ文字通りの同志、という位置付けの存在である。
つまり、命を擲つ程の愛情も、奪う程の憎悪も感じていない。
「そりゃあテメェだろ。自覚ねぇのか?」
ハッタリである。
榎本をそこまで観察する程に興味はない。
否定も肯定もしない。
感情を隠す為、としか見えないタイミングで、また榎本はワイングラスを口にする。
本当に美味しいと思っているのか、疑問な程にその動作は機械的だ。
「これは、言おうか迷ったのだけど」
と、心にもないであろう前置きをする。
「彼は、ここを出るつもりだよ」
如何にも、どんな反応をするか愉しみだという風情だ。
激怒の渦に飲み込まれるのか、悲哀の嵐に巻き込まれるのか、童のようにクルクル表情を変える男だ、その感情を読み取るのは容易い。
しかし葦原は、訝しげに眉間を寄せたままだ。
そうか、私の言葉が信じられない、というわけか。
随分、信用されていないものだ。
いや、内容が内容だ、致し方ない。
一方葦原は混乱する。
ここを、出る。
五稜郭を離れ、本拠地まで打って出るというのか。
いや、あの策略家のことだ。
情熱家でもあるから、そのぐらいの発想はしそうなものだが、そんな無謀な男ではない。
雪深い今、天然の要塞と化したここで、軍備を整え、調練に励み、必ず来る決戦の日を待つのが得策だ。
どうしてもやるというなら付き合うが、仲間を大事にする男だ、無闇に負傷者を増やすような作戦を強行するか?
期待した反応が得られなかった榎本は、さらに噛み砕いて伝える。
というのは語弊がある。
より、残酷に。
「国外へ、逃亡する気だ」
そうだ、求めていたのはこの眼だ。
「……私を殴ってどうするんだい」
ごもっとも。
しかしそんな判断もできない程に激昂した葦原は、目の前の榎本に掴みかかっていた。
「……嘘だろ」
拳に力が籠る。
「私だってそう願っているよ。だから君に探って欲しいのだ」
用意周到な台詞を無感情に読み上げる。
「真実ならば、叛逆者を斬ればよい。簡単だろう?」
乱暴過ぎるくらいに、大袈裟に手を離した。
少し笑みを作り、舞台染みた気障な動作で乱れたジャケットを整える。
衣擦れの音が小気味良く響く程に。
襟元に向けた目線を戻す頃には形勢逆転、驚愕させられる番である。
対峙する男の満面は、笑顔になっていた。
「ですねっ。かーんたん。」
もう用件は終わりだろうと、くるりと榎本の部屋を出る。
「Who's that……」
自ら計算して常に飄々としている榎本が、誰にも見せたことがないような表情で残された。
葦原は自らの稽古同様、教授方としてもかつてアホの一つ覚えと称された程に只管に行う。
そこに熱心に付いてくる者もかなり多い。先述したように、習う側からの人気が頗るあるのだ。
だが今日は珍しく、稽古場には土方の小姓である市村鉄之助の姿しかない。
何故なら今日は、大半の者が非番、所謂休日である。
京都新選組を彷彿とさせる、箱館市内の巡回などの業務は持ち回りで行われているが、フランス人軍事顧問らがいるからであろう、現代で言う日曜日のような公式の休日があったのだ。
寧ろ休みの日にまで稽古場にいるのが物好き過ぎると言える。
「なぁ、最近土方の野郎、どっか行くとか言ってたか?」
驚く程に、直球の質問だ。
元より小細工などできない男。そして相手も、そんな必要がないと、包み隠さず言えば、見縊っていたのだろう。
どこでもそうだと思うが、小銃の稽古場なので、かなり広い。
目指す方向には、等間隔に的がある。
「あ、えっと……今日は、ほとがらを撮りに行くと仰ってました」
「photographのことか……って、この非常時に大したご身分だぜ」
というより、今日のお出掛けの予定を聞いているわけではないのだが。
葦原は一つひとつ弾倉に弾を入れていく。
「非常時だから、だと思います」
市村も、覚束無いながらも同じ動作をゆっくり行う。
不慣れだからというより、やはり何か物思いがあるのだろう。
「先生は、僕を遠ざけようとしている……そんな気がするんです」
市村には、最近の土方の様子がそう映っているらしい。
ということは、市村は置いていく気なのだ。
「お前、宗次郎に似てるからな」
見てると辛いんだろ、という続きを飲み込む。
なら、何故小姓になどしたのだ。
安全装置を外す直前まで支度の済んだ葦原へ、せっせと装填していた手元から、弾かれたように視線を移す。
「宗次郎って……」
余計なことを言ったとの自覚は、十分にある。しかし、隠しても仕方のないことだ。
「あー、沖田のガキの頃って意味な」
容貌は全く似ていないが内面がなんとなく似ていると、葦原が知るわけがない、土方本人から聞いたのだ。
「沖田先生、と……葦原さんは、どういう関係なんですか?」
ふわりとした雰囲気を纏ってはいるが、徹底した実力主義者である土方が小姓にと直々に指名するぐらいなので、当たり前に敏い。何か勘付いているのであろう。
ここは当たり前に調弄しておく。
「どういうって……イケナイ関係?」
調弄すどころか疑問しかない、追求を諦めたのか小首を傾げた市村は、再び弾を手にする。
「土方がお前を置いてくわけねぇだろ」
お前を置いていくわけがない。
かつて沖田が、欲しがった言葉を口にする。
榎本の言葉をそのまま信じるはずはない。
しかし、国外逃亡などという大計画ならば、まさか一人で、ということはないだろう。
ここを出たところで、ただのうのうと平和に生き長らえるような男ではない。
敗ける気がしねぇと本気で言った彼の気持ちは自分と同じ、誰よりもとまでは言わないが、少なくても榎本よりはわかっている。
大っぴらに啖呵切ったこともあるらしいが、このままでは、地下の近藤に合わせる顔がないのだ。
榎本は悪意満々で“逃亡”と表現したが、外部から東征軍を叩くつもりではないか。
それならば、味方は多い方がいい。
しかし当然、守衛新選組別名土方親衛隊を全員連れて行くなど目立ち過ぎるし、確実に失敗する確率が上がる。
誰を、連れて行くんだ。
その候補の筆頭に上がりそうな男といえば、名実共に直属の部下である相馬主計だ。
「私にも稽古をつけてくれ」
ちょうどいいところで現れたのは相馬である。
「物好きばっかだな。今日は非番だろうが」
その言葉そっくり返す、との相馬と市村揃ってのツッコミは、やはり揃って飲み込んでいるようだ。
相馬は無言のまま小銃を手に取る。
「非番だからだ。大勢犇めいていては話せないこともある」
土方の小姓として仕事をする内に、様々に気が回るように成長した市村は、自分はこの場に居てもいいものか戸惑う。
せっかく込めた弾を静かに外し、二人に気を遣われないように密かに、片付けを始めた。
「目的は稽古じゃねぇってことか」
どいつもこいつもこの非常時に、と言いかけてやめた。
「市村、お前も聞いていろ」
察して声を掛けたのは、割り込んできた相馬だ。
「は、はい!」
幼少時の沖田と同じように、たまに吃音が出る市村は、しっかり銃を仕舞った後であり、ピシリと姿勢を正して返事した。
元から鋭い眼をさらに光らせる。まるで、敵を見るように。
「先生の周りを彷徨く鼠はお前だろ」
動物の名で罵られると、沖田と対峙した池田屋の夜に聞いた憎たらしい科白を思い出す。
「厭だなぁ。“ネズミ”だなんて」
葦原も静かにゆっくりと弾を戻しながら笑う。
「せめて“狼”とか言ってくれないと」
狙い通り、あまり表情が出ない相馬をありありとイラつかせることに成功した。
「私は嘲弄されないぞ」
二人の会話を聞いており、機を見計らって入ってきたということだ。
生来真面目な相馬は素早く弾を込める。一応、稽古の体は作るようだ。
「誰に言われ、何を探っている。無駄を省いて端的に答えろ。」
このせっかちさに表れる動作でさっさと小銃を構え、的を見据える。
市村は困り果てて、外は安定の根雪の寒さでも汗が噴く程オロオロしている。まぁ、冷や汗だろう。
ここで外したらお笑いだが、見事真ん中に命中した。
「それに、新参者が壬生狼を名乗るな」
「いや、同期だろ!」
の、ツッコミは、市村は当然飲み込むので、脳と口がほぼ直結の葦原のものである。
細く煙を上げる銃口を上に向け、相馬は嫌いなはずの無駄話まで思いつく。この話は、する気はなかった。
「……同期でも、新参者でもない。お前が、沖田総司だったのだろ?」
確信してニヤリ、というわけでも、疑惑の眼差しでもない。
紛れもない事実として、普段と何等変わらない様子の相馬が、訊ねるように語尾を上げるでもなく、ただ淡々と呟いた。
市村だけがポカンと訳も分からず、元から少年らしい丸い目と小さな唇を開いたが、利発な彼は決して会話に割り込みはしない。
「なんていうか……それは、ヒミツです」
割と本気で、何と答えていいかわからなかった。
相馬は、どこまで見抜いてそう判断しているのか。
試衛館塾頭時代、出稽古先で麻疹に罹り、免疫が落ちていたのであろう沖田は本人も知らぬうちに労咳も発症していた。
喩え知っていても、生涯の主君と誓った近藤から自ら離れるような道は選ばなかったであろうが、他の誰にも気付かれぬまま上洛、そして池田屋で喀血発作に襲われ生涯を終える。
討幕派浪士にとって鬼神の如く恐れられている沖田の死が明らかになれば、折角上り調子の評判も下がり見縊られるであろうし、隊内の士気も戦力も落ちるのは必定。
だからといって、その池田屋で会ったばかりの素性も知れない、むしろ敵方の代名詞ともいえる長州藩脱藩浪士・葦原柳に、沖田並とまでは及ばずとも一番隊隊長そして剣術師範頭を任せる相応の剣技を叩き込み、独特の口調や態度の演技まで仕込んで、代役を演じさせていたのだ。
選んだ理由は、背格好と容姿と声まで、瓜二つだったから。
計画の発案者も主導者も、副長・土方歳三である。
なんて馬鹿げたことを、どこまで予想しているのか。
いっそ全てバラしてしまえば、沖田が近藤に対してそうであったように、狂信的ともいえる勢いで土方に全幅の信頼を寄せる相馬は、愛想を尽かして探索活動に協力してくれるかもしれない。
逆に言えば、そこまでは辿り着いていないから、まだ彼は、土方の右腕としての役割を守ったまま、敵宛らに鋭い視線を崩さないのだ。
「だから、気色悪いと言っただろう」
正しくは、言っていない。
板橋総督府に捕えられた近藤の救出作戦で沖田を演ずるのを目の当たりにした折、晒された首級の奪還作戦でも、沖田を演じようとした折、葦原に対して心の底から思ったことだ。
単に人差し指を口元にやる仕草がではなく、沖田を演ずる葦原には、得体の知れない薄ら寒さを感じている。
「ヒミツったら、ヒミツでぇす」
明かせば、演じた結果、とでも言っていいのか“ホンモノ”の沖田が現れていたこと、相馬が初めて会った頃の沖田は“ホンモノ”であったことなども話さなければならないであろう。
それは単純に、メンドクサイ。本心では、話すのがツライ。
葦原本人は嫌がるだろうが、かつて土方が、やはり相馬に詰められた時の心境と同じである。
「本題の方は、誤魔化されぬぞ」
相馬としては、同じような“無駄話”を土方に投げかけた時にやはり明確な回答が得られなかったのは記憶に新しい。
でも土方は、確実にそのカラクリを知っていて、隠している。
つまり、二人は結託していたであろうに、その葦原が裏切り行為にも似たような行動を取るとは余程のことだ。
相応の理由がある筈。
相馬と“葦原柳”が入隊した新選組は、とうに順風満帆と言える状況ではなかった。むしろ沈みかけの泥舟に喜び勇んで乗り込み、勝ち目のない戦ばかり最前線で戦ってきた仲間である男が不可解な行動に出るには、自分が納得できる相応の理由がなければ認められない。
「俺も、お前に聞いときたかったんだ」
いつも通り、粋がった伝法さが特徴の葦原の口調に戻る。誤魔化さずに話せとは、今度はこちらの科白だと言わんばかりに。
「土方を排除しようとの動きがある、のは知ってるか?」
しかし、まさか市村にしたのと同じように直球を投げ込むわけにはいかないぐらいの配慮は、さすがの葦原でもある。
無論、箱舘政府の中で、ということだ。
本来味方側である筈の政府内で、土方を追い出そうとの意志を持つ者がいる、としたら。
「俺達全体を潰そうとするに等しいな」
実戦最強指揮官と謳われ、兵士達から絶大な支持と人気を誇る土方は、名実ともに箱舘政府軍の象徴ともいえる存在だ。
排除という言葉が、この政府から追い出すという意味にしても、最悪亡き者にしようという意味にしても、それこそ士気も戦力もガタ落ちで、政府自体の崩壊、全面降伏へと繋がっていくであろうことは容易く予想できる。
市村でさえ青褪めて、今にも大声で喚きたい衝動を抑える。
誰よりも篤い忠義で、そんなヤツ、ブッ飛ばしてやると。
「やっぱ、そう思うよな。バカだぜ、ホント」
いつしか固く握り締めていた拳を振るわせる市村の肩をポンと叩く。
「共にブッ飛ばそう」
ごく冷静な表情で眉根すら微動だにせず、呼吸するように自然に言うのは相馬である。
榎本が持つ表の目的と裏の思惑、そして土方の疑惑、何も知らないらしい、と葦原は判断した。
自分だって、この二人のように手放しに信じたい。
確かにそう、感じているのに。
二人とは徹底的に違うところがある。
心に決めた主君は、土方ではない。
雪が溶けたら、大切な話をしよう。
それどころではないかもしれないけれど。
当然の如く、その予感は的中する。
子どもでもわかることだ。
雪で覆われた真白な世界が真実の姿を現す。
土方の故郷・日野を思い出すような長閑な菜の花畑が見えたりもするが、残酷にも、それに浸っている余裕はない。
生涯、最期の春になるかもしれないのに。
この五稜郭は、まるで砂の城のようだった。
限りがあるからこそ、美しい。
それは、まるで輝く星の外見に限った話ではない。
共に生きようとした住民、築いた組織、志同じくした仲間もすべて。
眩しく感じるまでに美しく、どうか春が来ないでくれと、虚ろに願う日々の終わりが、もうそこまで来ている。
幻想の時間は終わりだと。
「いつから、ここの司令官は君になったのだね」
そんな言い方はねぇだろうと、満場一致で反論したが、口にせずに留めておく所まで息が揃っている。
ただ一人を除いては。
「んな怒んなくてもいいだろ。いいオトナがヘソ曲げてんじゃねぇよ」
普段はそれこそ誰よりも大人げなく感情剥き出しの男が、負けじの不機嫌さ全開で凄む。
余計な、というか必要な計算もできない性分だ、ここはオベッカ使ってヨイショヨイショと必死で機嫌を取るべき場面だというのに。
窮鼠猫を噛むの局面、何としてでも成功を遂げたい作戦の前提条件として、最高指揮官の同意を得なければ一歩を踏み出す、もとい錨を上げることもできない。
土方は舌打ちしたいのを抑え、小声で囁くだけにしておく。
でかいガキを、二人同時に相手にする気力も時間もない。
「うるっせぇ、すっこんでろクソガキ」
抑えた割には、言いたいことはしっかり言う。
機嫌の悪さも手伝って、目尻も鋭くなりがちだ。
だいたい、なんで幹部会議にこの下っ端が紛れ込んでいるんだと、そもそもの小言も加えたいところだ。
「あくまで任せたのは軍事顧問だ。指揮を依頼する予定も、気もない」
こちらも、意外なくらい腹の本音が出てしまっている。
厚い仮面を付けて、中々本性を現さない榎本は、不快感露わに立ち上がり、拳を机上に乗せる。
ここは例の如く西洋風に誂えた大会議室で、如何にも榎本が好みそうな理由である円卓の騎士に準えて大きな円形の机が中心に置かれ、真ん中には穴が空いている。
上座下座の無い席だなどと名ばかりであり、アーサー王の位置に座っていた。
本来、空席にしておくべき位置には、ふてぶてしく脚を組み、背もたれに寄り掛かる葦原がいる。
十三番目の、裏切り者の席である。
名指しで非難されたフランス人軍事顧問の一人、大鳥圭介が怜悧と評したブリュネも同席しているので、通訳の田島金太郎はどう柔らかい表現に変えようかと四苦八苦している。
発案者のニコールは居ないが、具体的な立案を担当した海軍奉行・荒井郁之助と回天艦長・甲賀源吾は、冒頭の榎本の苦言は自分達へのものだと縮こまっている。
実際、榎本が密かに様子を窺っていたのは、葦原の隣で腕を組んでいる土方である。
榎本の怒りにはどこか他人事のように、というか全くすっこみはしない葦原に文句を言われ続け辟易していた。
ここまで、蝦夷共和国総裁である自分を差し置いて大計画が練られていたこと、当然承諾されるであろうとして会議がするすると進んでいることに対して感情剥き出しで憤慨している風を装っていたが、観客僅か十一人の芝居である。
そう、葦原は気付いていた。土方の挙動を見ていると。
春からの戦は、元より全てが命懸けだ。
とはいえ明治二年三月、この段階でここまで大掛かりな、命懸けどころが命を海にブン投げるような作戦を前にして、どう出る。
「大将ってのはもっとこう、でんと構えてるもんだろ。こんぐらいでガタガタ騒ぐんじゃねぇよ、なぁ土方」
すぐ隣の男に同意を求める割に、声の音量は広い会議室全体に隈なく聞こえ渡っているので、またも満場一致で先程土方が小声で吐き出した言葉を飲み込んだ。
「……いや、俺達が間違っていた」
海戦には疎い土方も寝耳に水の暴挙的作戦だったが、敢えてこう切り出す。
討幕派浪士を震え上がらせた、自他内外共に認める新撰組鬼副長のそれは、決して軽くない。
深々と下げる黒髪艶やかな頭に、榎本のみならず目を疑った。
例に漏れず葦原も内心では驚きながら、相変わらずの不遜な態度で腕と脚を組んだまま、目の端にその姿を捉えるのみだ。
いい眺めじゃねぇか、とでも言いたげな風情である。
こんな芸当もできるのか、と感心してさえいる。
他人に頭を下げるなど、蛇蝎の如く嫌っていると言っても過言ではない勝安房守に、捨て身の覚悟で近藤の助命嘆願に出向いた時以来の、人生二度目である。
少年時代に丁稚奉公や自家製薬の行商をしていた時の、内心ではアカンベェするような表面上のお愛想とは訳が違う。
あくまで強気一辺倒の、常に攻めの姿勢を保ったままの徹底抗戦の為には、手段を選ばない。
「総裁の下知がなければ俺達は立ち行かぬ」
やはり榎本の目論見は、この蝦夷共和国が根絶やしになってでも、命ある限り戦いを辞めてくれそうにない男の始末であり、その為に新選組隊士が最も嫌悪する敵前逃亡というデマで内部分裂を謀ることではないか。
新政府軍に対して、俺は簡単には従わない男だと海軍を筆頭にした自慢の統率力を嫌程見せつけて、この力が欲しければ新しい政府でそれなりの役職を与えろ、との私的な交渉が腹積もりの、この陰謀渦巻く円卓会議の比ではない盛大な茶番が蝦夷共和国の実態ではないか。
冷静に考えれば、諸外国が認めようが、誠の武士を斬首の屈辱に貶めた者達が別政府の存在など許す筈がない。
只管に恭順を貫く旧幕府将軍を、仇敵である新撰組の大将を、絶対に反抗ができないとの安心感を得るまで叩きのめさなければ、気が済まない連中なのだ。
獣相手に、人間が正当な交渉など端から無理だ。
俺でもわかるくらいだ、榎本だって承知の上だろう。
そこまで思い至って、葦原は首を振った。
そんな悪党だとしたら、下で働く自分はなんだ。
「おい、クソガキ」
との暴言と同時に、強かに椅子の脚を蹴られる。
「ボサっとしてんじゃねぇ。軍議は終わりだ」
気持ちばかり宙に浮いた葦原が見上げると、つい先程まで神妙な面持ちをしていた土方が見慣れた不満顔で睨んでくる。
葦原が珍しく葛藤に専念している間に、狐と狸の化かし合いは終わってしまったらしい。
ちなみに、狐七化け、狸は八化けとの諺の通り、狸のほうが一枚上手であった。どちらが狸であるかは言うまでもなく、見目形の印象通りである。残念ながら土方は、試合に勝って勝負に敗けた。
「……総裁サマのご機嫌は直ったのかよ」
それがわからない程に本気でボンヤリしていたのかと呆れつつ、ヤレヤレと溜息する。
聞くだけ野暮だったとやや後悔して、
「さっすが。大将を手玉に取るぐれぇ朝メシ前ってか」
鼻から抜ける笑い交じりに呟き、席を立つ。
「ヤケに突っかかるじゃねぇか」
真正面から馬鹿正直にぶつかってくることは頻繁だが、このような皮肉めいた科白はあまり吐かない男である。
ある意味有り余る可愛げが人好きのするところなのだが、葦原は自らの決断故に素直になれず、榎本の次はお前かよと言われんばかりに不機嫌なのだ。
「土方、俺はお前を信じる」
こんなことを突然言えば、彼にしては珍しく、江戸でも京でも箱館でも女達を騒がせてきた秀麗に整った眼を丸くし、
「なんだ急に」
とか
「はぁあ?」
という表情で憎たらしく返した後、
「今までは信じてなかったのかよ」
などと小突いてくるであろうとの反応を予想していたがしかし。
「それが、お前の答えか」
土方の眼は全て知っていたとの事実を見せつけるように細くなるばかりである。
思いつく限り大抵、驚かされるのは葦原のほうだ。
「……知ってたのかよ」
言いながらも、脳裏には何をしても見破られた似非関西弁の男の姿が浮かぶ。
「新選組の監察ナメんな」
そう、もう一人いるのだ。気は優しくて力持ちを地で行く、最古参隊士かつ土方親衛隊筆頭・島田魁により、葦原の行動は筒抜けであった。
土方の直属であり、諜報活動に内部粛清と八面六臂に暗躍し、敵味方問わず恐れらていた新選組監察方。
あの山﨑丞と、双璧を成していた島田に狙われては敵う筈がない。
葦原は潔く諦め、基土方を信じると決めた以上、榎本から任じられた役割からはお払い箱であるから、半ば拗ねたように口を尖らせる。
土方としては沖田を思い起こさせる厭な表情だ。
「榎本の野郎、きっとまだ狙ってるぞ」
土方が最も衝撃を受けるであろう新選組隊士から斬られるという筋書きは崩れたが、わざわざ葦原が斬らなくても、凄腕の剣士も銃使いもわんさか揃っているのがここ、蝦夷共和国だ。
「薩長の鈍い弾なんざ当たらねぇ」
と豪語して憚らない彼であるが、味方の刃と弾ならどうか。
腕に覚えがなければ、わざわざ新政府に反抗しようとは思わない。
自信が無ければ、ただ長い物に巻かれていれば良いのだ。
「だろうな。んじゃあ、お前に盾になってもら……」
「俺がお前の代わりに死ぬわけねぇだろ」
土方と榎本、そして葦原それぞれが、この先も全ては自分の思惑通りであると確信している。
果たして、最後に嗤うのは誰か。
少なくとも、決行の期日が迫る宮古湾海戦では、悲惨な大敗が彼らを待っている。
つくづくツイていない。
どの国の歴史を見ても、敗ける側の境遇はとことんツイていない状況が繰り返し起こる。
そもそもの発端は、新政府軍を圧倒し、蝦夷全土を掌握した立役者、榎本の虎の子である無敵戦艦開陽が江差沖で座礁沈没したことだ。
損失は計り知れない。
現在も、それを見た土方が松の木を叩いて嘆き悲しんだという“歳三嘆きの松”が史跡として残っているが、実際は誰より悲しんだのは言わずもがな榎本だったであろう。
対して新政府軍は、元は幕府がアメリカに発注したフランス製最新鋭の軍艦甲鉄を手に入れ、これで海軍力が逆転したのだ。
元は幕府海軍の所有物なのも手伝い、悔しさも一入、奪い返したくなる心理も必定である。
開陽を失った翌年である明治二年三月二十五日、鍬ケ崎港に寄港中の新政府軍艦隊に奇襲をかけ、甲鉄を奪還する。
その為の作戦が歴史上では何度も用いられてきた、Abordage接舷襲撃である。
作戦名がフランス語なのには理由がある。
榎本不在の軍議で、回天艦長・甲賀源吾は甲鉄に至近距離で砲弾を撃ち込み、甲鉄を破壊する案を挙げたのだが、ニコールらが無傷の甲鉄を奪うのが得策として、Abordageという大胆不敵かつ危険極まりない作戦を提案してきた。
蟠竜と秋田藩から奪った高雄とで甲鉄の両側から接舷し移乗して襲撃、回天は後方から援護するというのが彼らの予定であった。
しかしどの時代も、天候が大きく勝敗を左右する。
決行予定日は大時化で、到底出航できる状況ではなかった。
彼らは焦っていた。
その筈だ。甲鉄が動かぬ的として停泊してくれている今しか好機はないのだ。
旗艦である回天には総司令官・新井郁之助、検分役として土方、添役・相馬主計と同添役介・野村利三郎、そして何の役職も無い割に常に態度がでかい葦原らが乗り込んだ。
各艦ほぼ平等に戦力が配置されており、新選組の多数は蟠竜に乗っていた。
しかし濃霧からの激しい暴風雨により三艦を繋ぐ大綱は切れ、離れ離れとなってしまう。
一方、新政府軍もこの嵐により出航が叶わなくなり、そのまま足止めを食らっていた。今となってはこれを幸運と思えないのは、後の結果を知っているからであろう。
回天と高雄は合流することができたが、蟠竜は待てども姿が見えない。土方らの心配は如何ばかりであっただろう。
さらに不運が重なる。高雄の機関が故障してしまったのだ。
そもそも、スクリュー式小型艦である蟠竜と高雄だから可能であった接舷移乗なのに、大型の外輪艦である回天だけが残ってしまった。
それでも彼らは作戦決行をする。
相手は相手で、掲げたアメリカ国旗をまんまと信用し、至近距離まで近付いても罐の火を落として煙突に覆いを掛け、のんびりと停泊している。その上、ほとんどの者が艦を離れ港に宿泊していたという。艦に残る者も、投錨の様子を見物しようなどと談笑しながら眺めていたのだ。
この状態では、突然の襲撃から逃げようにも二時間は身動きができない。
だが敵のお粗末さをいくら連ねても、少しも喜ぶことができない。
それでも彼らは敗けるのだ。
ちなみに、外国旗を掲げていても戦闘開始時に本来の旗に直せば、この時代に敵味方問わず気を遣った万国公法に違反しないことは、オランダ留学帰りの榎本直筆の手記にしっかりと書かれている。
日の出を背に受けた回天の姿は、新政府艦隊の春日に乗船していた東郷平八郎からは、美しい影のみが浮かび上がって見えたという。
長閑なのは風景ばかり。
慣れない大時化と散々の苦労で疲労困憊した蝦夷共和国軍はその鬱憤を晴らさんと、意気揚々と掲げた。
狡賢く利用された錦旗に対し、彰義隊、会津藩、奥羽越列藩同盟ら旧幕軍が、御国総標として用いてきた日章旗が、静かに青天を昇る。
宮古湾内竜ケ崎にて、二つの砲塔を持つ装甲艦甲鉄ら新政府艦隊を見つけた。
「ストーンウォールあり!」
甲鉄の原名だ。今更だが、甲鉄とは新政府軍が付けた名称であり、蝦夷共和国軍は専らストーンウォールと呼んでいた。
その姿を発見した回天艦内では歓声が上がったが、接舷の僅かに二分前のことである。
実は回天には面舵の利きが鈍いという癖があった。当然乗組員は熟知していたが、早めに舵を切るには発見が遅すぎた。その上、甲鉄は想定よりも右手前に停泊しており、対する回天は全速力で航行してきたのだ。
「面舵いっぱーい!」
即座に機関を停止させ、減速と同時に面舵を切った。
「わぁあ! どこいってんだ!」
それでも曲がり切れず、なんと甲鉄の艦首前を通り越してしまった。
「こっのオンボロめ!」
老朽化が原因で面舵が渋くなっていたとの説もあるが、それは誤りである。
再度試みる為に回天は一旦後進し、また十分に面舵を切って接舷を図る。
共和国軍がてんやわんやしているこの間、甲鉄を中心とした新政府艦隊も劣らず上を下への大騒ぎである。しかし軍艦の構造上、たったさっきまで煙筒に三角帽子を付けていたのではどう足掻いてもおいそれと出航はできない。
互いに、逃げるという選択肢は端からない。
甲鉄にガトリング砲が備え付けてあり、大活躍したのが勝因だとの説は誤りだし、アームストロング砲を格納する砲門があったのは事実だが開かれることもなく、両軍はひたすら小銃そして白刃で戦うのだ。
「へったくそ!」
またも不運が続く。
回天の槍出が甲鉄のメインマストから船端にかけて張られていた縄梯子に引っかかってしまった。槍出は折れたが艦首が縄梯子に引き込まれ、最早前進も後退もできない。
結果、回天は平行接舷ではなく、甲鉄の左舷中央付近に後方から乗り掛かり、突き刺さるようにして停船した。定説の、体当たりのような突撃接舷は誤りである。
そう、これでは、押し寄せるように乗り込み、襲撃するなど不可能だ。
移乗口は僅かであり、しかも甲鉄の甲板よりも、回天のほうが3メートルも高い。
「撃てー!」
不完全ながら、とうに賽は投げられた。
接舷と同時に船将・甲賀源吾が命じる。
甲鉄甲板の敵兵を一斉掃射する為であり、水夫らは我先にと海に飛び込んだ。
「アボルダージュ!」
砲撃が終わるや否や、無情にも移乗攻撃が宣言される。
いくら勇猛果敢な戦士揃いとはいえ、本能的にさすがに躊躇する間、甲鉄の乗組員も態勢を立て直し、臨戦の覚悟を決めたようだ。
少人数ずつしか降りられないし、まさか縄梯子など使ったら狙い撃ちにされるだけである。
京では非道の鬼と揶揄された土方は、現代には周知の通り根の優しい、心の篤い人物だ。この躊躇は実際には数秒であるが、早く飛び降りろとも言えず、海軍作戦中の陸軍検分役という微妙な立場故に自らが降りるわけにもいかない。
内心、移乗は諦め、このまま撃ち合いで決着を付けるべきかとも過った。
しかし葦原も属する船上小銃隊を指揮するその背後から、自慢の俊足で走り迫る男がいた。
「一番乗り、いっただきーい!」
助走をつけ、ひらりと宙を舞う、という表現は美化が過ぎる、大跳躍をかまして飛び込んだのは野村利三郎だ。
銃声入り乱れる中でさえわかる程、両艦どよめきに沸く。
小気味よく軽い音を立て、着地にも成功したようだ。
「新選組土方副長親衛隊・野村利三郎参上! 死にてぇ奴ぁかかってきやがれ!」
味方を鼓舞する為の小芝居も欠かさない。しかも掛かって来いと言いながら、また俊足で斬り迫っていく。
「利三郎め、先頭は俺だって言ったろ!」
続けて、かねてよりそう触れ回っていた一等測量士官・大塚浪次郎も飛び降りる。
「新選組土方副長親衛隊・相馬主計、推して参る」
ほぼ同じくして、本来移乗隊では無い筈の相馬もボソリと呟き、甲鉄に降り立つ。ちなみに土方にはしっかり聞こえるようにとの配慮も怠らない。
そしてまた一人、軍艦役・矢作沖麿が続こうと回天から身を乗り出した途端、胸そして立ち上がり様の眼に被弾し斃れた。
漸く本腰入れての反撃が始まったのだ。この後も三人が降りたが、以降が続かない。
敵弾が集中したのはまさにここ、甲鉄への移乗口である回天の艦首とそして、船将らが操船指揮を執る艦橋だった。
ニコール、伝令役・安藤太郎が被弾し船室に運び込まれたが、甲賀源吾は左脚と右腕を撃たれてもなお、指揮を続けていたのだ。
移乗攻撃の失敗、回天甲板上でも多くの死傷者が出た。ここからの立て直しは不可能であり、戦闘の継続すら困難であると判断し、撤退の指令を伝えようとした瞬間、そのこめかみを狙撃弾が撃ち抜いた。
一方で吠えるのは葦原だ。
「なんで殴んだよ!」
強かに拳を食らって尻をついている。敵にやられた訳ではなく、土方が忌々し気に見下ろす。
「でけぇ眼使ってよく見やがれ! この戦況じゃあ今から降りても無駄だ! 犬死してぇのか!」
葦原も甲鉄へ降りようとするのを、土方が激怒して止めたらしい。
血飛沫く舌打ちし様の葦原は立ち上がり、胸倉を掴む。
喧嘩上等の啖呵を準備していた葦原の先手を打ち、土方は呟いた。
「お前が死ぬのを、見たくねぇ」
元ニセモノの性か、そう感じると問答無用で元々沸点の低い頭に血が上る。
「俺は沖田じゃねぇって何回言やぁわかんだ!」
「んなこたぁわかってる!」
「だったら死ぬのはここだ、飛び込めって命じろ!」
「撤退ー!」
甲賀から操船指揮を引き継いだ新井郁之助が高らかに告げた。
戦闘時間は僅か三十分前後と伝わる。
これ以上の犠牲を出しては、回天まで失ったら、蝦夷共和国軍全体の敗戦は決定的だ。
総員がもっと早くと焦る中、回天はゆったりと後進を始める。
撤退命令を聞くや否や、ガキにかまってられるかと言わんばかりに手を振り払い、艦上から身を乗り出したのは土方だ。
「あっぶねっつの!」
今度は葦原が止める番である。こんな行動をする上官がいて、まさかそれがかつての新選組副長であり陸軍奉行並・土方歳三だと知れたら確実に狙撃手に狙われる。
「撤退だ! 上がって来い!」
縄梯子を下げ、必死に声を枯らす。
その声に反応できるのは、降りた者のうち半数にも満たない。
「副長がお待ちだ。行くぞ」
こんな時でもどこか涼し気な顔を向けると、野村は相変わらず刀を振るっている。
「上るお前が撃たれねぇよう援護する。さっさとしろ」
悟りきった表情からその身体を見ると、両脚と左腕に被弾していた。これでは縄梯子など上れない。
「……俺が背負っていく」
野村は吹き出すが、この状況で相手は相馬だ。無論、冗談ではない。
本気で涼しい顔のまま、そっちこそさっさとしろと言うように背を向けて片膝を付く。
「一緒に来いと言ったのはお前だろう。ならば帰る時も一緒だ」
「……違ぇよ。手柄は俺のもんだっつったんだ」
内容はどうあれ、野村の雄姿に引き込まれ、相馬は続いたのだ。
事あるごとに好敵手扱いされてきて辟易としていたが、実は相馬のほうもかなり意識していたらしい。
「馬鹿野郎ども! 早くしやがれ!」
緩々と退く回天から手を伸ばせるだけ伸ばし烈火の如くキレる土方を抑え、葦原は必死の形相で訴える。内容が内容だけに、口にはできない。
「ナギが、副長が撃たれちまう、早く来いってさ」
その言葉に、自身が雷に打たれたかのようにハッと艦上の姿に目を向ける。
「副長! マジで楽しかったっす! ありがとうございましたァ!」
わざと、その名前を大声で呼び、敵が犇めく真只中に進んでいった。ここに居ては、相馬は決して退かない。
「伏せとけって!」
その後姿を唖然と見送る土方を引っ掴み、無理やり、姿を隠れさせる。
短時間でも激しい戦闘故に敵味方にかなりの死傷者を出したが、その数には諸説あり一定しない。
しかし幕府が購入した船だからと、開陽を失ったからと甲鉄に固執したのが作戦失敗の遠因であることは間違いない。
会津藩御預新選組の副長から、今や旧幕府連合軍全体の陸軍士官となった。
自らを更に律する為の行動だと周りには思われているが、実は単に、酒が飲めない。
京だろうが箱館だろうが関係なしに、好き好んで飲む男ではないのだ。
しかし今夜は自室で密かに杯を傾けていた。
こんな時にお構いなしにズカズカ入ってこられるのは、葦原くらいのものだ。
「お前、異国かぶれの癖にノックの作法も知らねぇのか」
耳にタコのお決まりの小言である。
「したっつうの。シーンとしてっから……」
この男なりに心配してドアを開けたのだが、それは言わないでおく。
そしてやはりいつも通り、勝手に向い合せのソファに座り、深々と背を凭れて脚を組む。
これはイギリスに帰国してなお互いに親友と認識しあうレットと、異人に対して何の抵抗感もないので蝦夷共和国軍の中でも一番と言って良い程にフランス人軍事顧問団とも仲がいいが故に受けた影響からの癖というか礼儀である。
欧米では、相手に対して敵意がない、私はリラックスしていますとの表現で、公共の場でさえ態と足を組むのだ。
武士でいうと、座敷で正座する際に、腰間の刀を自分の右側に置くのとほぼ同意義であろうか。
脚を組んでいては相手に殴りかかることも相手の攻撃を避けることもできないし、刀を右側に置いては葦原のような両利きや斎藤一のような左利きでない限り抜刀できない。
しかも、日本人にしては背が高い葦原は、自覚しているくらいサマになる。
「また文句たれに来たのか」
大抵、ここに来る時の用件は決まっている。
駄弁ろうぜ、と追加の酒を持ってやってくるような関係ではないし、葦原も飲むほうではないので駆け付け一杯すら付き合おうともしない。
「……よく見ろ。俺は沖田じゃねぇ。ただ似てるだけだ」
色素が薄く、陽に透けると赤くなる髪は動きやすいなどの利便性を優先してと、単に流行物好きなのもあり短く切った。猫のような僅かな吊り目。整っているがキツめの顔の造りなので、笑っている時と真剣な時で別人程に表情が違う。長身痩躯にフランスの軍服を着けているが、暑がりなので白シャツでいることが多い。
似てる、というか、ゾッとする程に生き写しだ。
「しつけぇ。それはわかってる」
「じゃあ、死ぬのを見たくねぇってのはなんだ!」
怒鳴ると、殴られて切れた口端がまだピリリと痛む。
「俺が降りてたら、相馬と俺とで野村の両脇抱えて帰れたかも、」
土方は手の杯を一気に飲み干し、割れんばかりにテーブルに置いた。
「できるわけねぇだろ」
できると思ったら俺がやっていた、との続きが聞こえてきそうだ。
「……お前は、他の奴らとは違う」
土方は酒を煽って息を吐いたまま俯いている。
葦原はもう、脚を組んでいない。
「俺がお前を殺して、総司の身代わりにしたんだ」
――……
「お前……沖田総司になれ」
「殺したぜ。“長州の葦原柳”は」
――……
土方の言い分では、葦原は意志関係なく、無理強いされて連れてこられた被害者だ。
漸く上げた顔は、慣れない酒せいか赤く染まっている。
「あのまま討幕派にいれば、今となっては天下の官軍として活躍もできただろうし、これからの新政府でも要職に就けただろうお前を……」
考える人に似た体勢で額に拳を当てる仕草は、激しい後悔とも、飲酒故の頭痛とも見える。
「お前のすべてを奪っちまったのは……」
葦原から見れば、随分この男も丸くなったものである。というよりむしろ、近藤を喪った後の土方は、本来持つ性分に戻ってきている。
それをひしと感じる新選組隊士らは、京とは一変、中島登が自称するには赤子が母を慕うが如くと伝わるくらいの惚れ込みぶりで付き従っているのだ。
「……寝てやがる」
続きを待っても、聞こえてくるのは健やかな寝息だけとなってしまった。
葦原は立ち上がり、小ざっぱりと物の少ない部屋の中をざっと見渡す。
「しつっけぇのはどっちだよ……酔っぱらいめ」
何か掛ける物を探すが見つからない。小姓の市村にでも任せればいいかと思い直す。
「俺は俺の意志でここにいるんだって、前も言わなかったか?」
それは土方とて理解している。彼が言うのは、その切っ掛けを作ってしまったのは自分だということだ。
呼ぶと飛んできた市村鉄之助は、酒を飲んだことはもちろん、居眠りにもかなり驚きつつそっと毛布を掛ける。
この姿勢では後で身体を痛めるだろうと、葦原がソファに横たわらせたが、それでも起きなかった。
帰りの廊下で、待ち構えていたかのような、というか実際にそうなのであろうが、榎本に呼び止められる。
手痛い敗戦の後だというに、あまり気落ちしている様子ではない。
元来、あまり自分の感情を出さない、というか相手に悟らせないようにする男だ。
そもそも甲鉄が幕府の物であると初めに主張したのは榎本であり、生粋の軍艦好きかつ海軍育ちなので、歯噛みして地団駄踏む程に悔しい思いをしているかもしれないし、自分が部外者のように進められた作戦の失敗に、それ見たことかとほくそ笑む程に胸の空く思いをしているかもしれない。
深い緑のカーテンが掛かる大きな窓を背にして軽く手を挙げる姿に、無視してやろうかとも思ったが、さすがにやめておく。
「……俺は手を引く」
西洋風のだだっ広い廊下だ。誰が聞いているかもわからない。
長々と立ち話をする気は毛頭なく、すれ違い様に睨みつける。
榎本はいつもの大袈裟な素振りで肩を竦めた。
「手を引くも何も……土方歳三を殺したいのは君だろう?」
ランプの精よろしく、突然願いを叶えてやると言い出したのは榎本だ。殺したい程に憎らしい、という眼で土方を見ているとも。それにしても、
「声がでけぇ」
このまま通り過ぎようとしたのに、まんまと踵を返さざるを得ない。
新選組敏腕監察の諜報能力は痛い程に身に染みている。
そして全盛期の京都新選組も知る身としては、粛清されるのではという恐怖が自然に沸く。
髭で隠れる口元で少し笑い、葦原の怯えはあまり考慮されないまま話を続ける。
「彼はこう言っているそうだね。我が兵には限りがあるが、官軍は限りがない。一旦勝ちはしても、最後には必ず敗ける、と」
宮古湾海戦で勝利した新政府艦隊はこのままだと青森に入港する。そして上陸した後はいよいよ最終決戦に向けた戦いが始まるのだ。
その行く末を思い、陸軍奉行添役の大野右仲らに話したことだ。その場に葦原も居たが、この話し振りが表す通り、榎本は居なかった。
誰が、伝えたのだ。
つまりはこう言いたいのか。
土方歳三を殺してくれるのなら、誰でも構わない。もう手は打ってある。
「……沖田総司」
他人を翻弄するのが趣味なのか。
胸が跳ねる思いで顔を上げると、榎本は窓のほうに身体を向けている。
カーテンは閉まっているので、どんな顔でその名を出しているのかは想像するしかない。
「新選組局長の弟子で一番隊隊長だった彼は、病気療養中で東京に居るのだろう? 物凄い剣豪だと聞くけれど、彼は復帰できそうにないのかい?」
文久二年から慶応三年までオランダ留学していた榎本は、京中の討幕志士らを震え上がらせた、その恨み辛みを一手に引き受けて局長を斬首してもなお有り余る怨念を燃やされる、かつての新選組の活躍をよく知らない。
最近得た“飼い犬”からの情報により、喉から手が出る程に兵力が欲しい今、援軍が無いなら呼べばいいじゃないかと単純に思いついて話している。
と、いう様子を装って、何か裏の目的があるのではないかと警戒されるのは、普段の行いのせいであろう。
「……知らねぇよ。俺が入隊した時はもういなかったし、会ったこともねぇ」
背後に目でも付いていない限りこちらの顔色は見えないが、声色さえ一切変えないよう注意する。
「そうなのかい? 君と瓜二つだとも聞いたけれど」
「らしいな」
榎本はくるりと振り返る。やはり、他人の動揺する様を眺めるのが好きなのだろうか。
「てっきり、双子か何かかと、」
「んなわきゃねーだろ双子で堪るか! 俺の親は長州藩士でアイツの親は江戸住の白川藩士! つかアイツのほうが二つ歳上なんだよ!」
食い気味に言いかけたが、あまりに斜め上方向の推理をぶつけられて吹き出したおかげで、葦原にしては珍しく、言葉をぐっと飲み込んだ。
ちなみに沖田の生い立ちは鬼監督山﨑丞の演技指導により叩き込まれたものである。
「……んな、わけねぇ、だろ」
というより、合間に笑ってしまい碌に話せないだけだが。
わざと素っ頓狂な科白で緊張を解いたようにしか見えない、と密かに会話を聞く者は疑う。
単純な葦原は全く気付かないで散々笑ってから、ハァと嘆息した。
「この話は終いだ。どうせお前の犬が聞いてんだろ」
それどころか、いろんな飼い犬が聞き耳立てている。
「土方は最後まで戦う気だ」
その上、簡単には敗けてくれそうにないから邪魔に思う者が多いのだろうが。
「じゃねぇと、先に死んだ仲間に合わせる顔がねぇ。そういうヤツなんだよ」
榎本も十分わかっているであろうことを敢えて言った。
「俺も、同じだ。最後まで共に戦う」
だから土方を狙う者がいたら、容赦しない。
榎本はもちろん、しかと聞いているであろう密偵全員への宣戦布告だ。
さっさと行ってしまう葦原を引き留めもせず、榎本は確かな違和感を思う。
自分の直感はあまり外れないし、動揺させたいが為だけの科白でもなかった。
「……じゃあどうして、あんな眼で彼を見るんだい?」
榎本が又聞きをした土方の言葉には続きがある。
「わかっていても、敗けるのは武士の恥だ。任されたのなら、身を以て殉じるのみ」
唐津藩出身であり、今では土方直属の部下に就く程の信頼を得る大野右仲は、後に著す『箱館戦記』に
「元より言うまでもありません」
と、威勢良く応えたことを記録している。
明治二年四月五日に新政府軍が襲来するであろうとの報が届くと、戦火を恐れた箱舘市民は家財道具を持ち出し早々に避難を開始した。
負けじの早業で、翌六日には二十四時間以内に攻撃開始するとの通告があった。
蝦夷共和国軍は迎撃態勢を整え、伝習隊と箱館奉行配下の士官、そして新選組を含める凡そ百人は、相馬主計が陣将として率いて弁天台場を本陣とする。
予告通り、抵抗虚しく上陸を許してしまった新政府軍は、江差から松前を経て海岸線を箱館に向かう松前口と、江差から直線的に内陸部を突っ切る二股口とに攻略部隊を二分し、進軍を開始した。
二手に分かれるところが、池田屋事変を彷彿とさせる。
土方は衝鋒隊と伝習隊それぞれの一部と、当然の如く付き従う、葦原を含めた守衛新選組合わせて百三十人を統率して二股口へ出陣した。
北征新選組最後の大勝利を飾る、第一次二股口戦の始まりである。
陣を築いた台場山を攻めるには、人ひとりやっと通れるくらいの細く、しかも曲がりくねった一本道を進むしかない。右に登れば犇めくように木々が茂り、左に下れば川が流れ、攀じ登ることができない程の崖だらけという、正に天然の要塞であった。
それでもさらに準備を怠らないのが土方流だ。
同行していたフランス軍事顧問団フォルタンの指揮により、いくつもの胸壁を築いた。昼夜兼行で作業を行い、たったの二日で完成せたのだ。
いくつもというのは決して大袈裟ではない。
本陣である台場山の山上と中腹に十一か所、川岸に三か所、唯一の道の両側に一か所ずつ、前線基地とした天狗岳にも三か所という気合の入れようである。
新政府軍の進路にて待ち伏せしつつ撃ちまくるという、敵にとっては踏んだり蹴ったりの地獄絵図が想定される。
懸念しているのは物資の補給くらいだ。
そして土方が常に念頭に置いている通り、最も重要視されるのは、兵士達の士気の維持である。
これだけの条件が揃えば、確実に勝てると踏んでいた。
その確固たる自信は指揮にも表れる。敗ける気がしない。
覇気を肌で感じる兵士らは、名実共に常勝将軍とも軍神とも称される土方の下で戦える誇りと高揚感で満ちていた。
二股口を進軍してきた新政府軍は、胸壁の完成を待っていたかのように四月十二日に稲倉石に到着、十三日には天狗岳の攻略を始める。
ここはすぐに陥落した。
「将軍サマァ、あっさり負けちまったってよ」
市渡に下がっていた土方へ、葦原が憎たらしく報告する。
新政府軍到着後すぐに葦原は向かったが、土方に会う前には突破されていたぐらいの早さだ。
「いいんだよ。せっかくの本陣、見せびらかさねぇでどうする」
言うまでもなく、敵を誘い込む罠である。
喜々とラッパを吹きつつ進んできた新政府軍を、地獄の要塞が待ち受ける。
狙い通り、台場山を巡っての戦いとなり、近くて二百歩、遠くても五百歩という至近距離での撃ち合いとなった。
「どうだ、俺の教え子共の腕前は」
小銃師範頭である葦原がわざわざ胸を張りに来たが、土方は口元をニヤリと曲げただけで、さっさと持ち場に戻れと言う間も惜しんでシッシッと手を払う。
しかしその心境は
「最高だ」
と賛じていた。
信じて最後まで戦うと決めた葦原は、土方への態度が明らかに変わった。
もちろん、本人は自覚していないし、もしも他人に
「最近仲良しだね」
と指摘されれば、瞬間湯沸かし器である脳内直結の顔面を真っ赤にして否定するだろうが。
新選組に執着したのは、近藤勇の大将たる器に惚れたのと、沖田総司との約束があったからである。
懐かしい壬生の屯所に初めて足を踏み入れた時に、いつか寝首を掻いてやると隙を狙っていた。あの時のままに一線引いて見て、どこか隔たりがあった土方へ、本当の意味で心を開いていた。
自慢の小銃隊は夜までぶっ通しで撃ち続け、雨が降ってからは弾薬が湿気らないよう上着を弾薬箱に掛け、それでも湿ってしまった弾は懐に入れて乾かしながらも撃ちまくった。
やがて膠着状態となると、土方は大酒樽を携えた大野右仲を率いて、各胸壁に潜む兵士達に自ら酒を注いで回った。
天然でお得意の人心掌握術・飴と鞭の、飛び切り甘い飴である。一人ひとりに、しっかり声を掛けるのも忘れない。
兵士らは、その姿を見るだけで活気付くくらいだったので効果抜群だ。
一小隊を率いる指揮官でさえ、出陣してくれるだけでも兵の心は動くのだ。誰とは言わないが、ましてや某徳川幕府将軍が逃げずにいてくれたらと思うと、幕末動乱の流れは大きく変わっていただろう。
「酔っ払わせるわけにはいかねぇ。一杯で我慢してくれ」
「酔っぱらっちゃいけねぇなら、副長は一杯も飲めないっすね」
「違いない!」
一応人前では敬語のようなものを使う葦原が突っ込むと、酒樽を携えた大野まで揃って大声で笑う。
「皆今晩はゆっくり寝ていいぞ。ナギと右仲が一晩中見張りするらしい」
『あざーっす!』
「おいい!」
「副長そりゃないですよぉ」
その後、明朝六時まで戦闘は続き、およそ十六時間の戦いで自軍の費やした弾数はなんと三万五千発にも及んだという。
官軍の数は多いが、謀は我が軍が一枚も二枚も上手である、との土方の言葉通りに大勝利を収めた。
フォルタンは、五稜郭で待つ上官ブリュネへの公式報告として
「共和国軍の働きには驚かされました。たった一人も怠ける者はいませんでした」
と称賛しており、一方で日記には、硝煙で黒くなった彼らの顔を、まるで悪党のようだったとも書き残している。
勝利を飾った土方は、一旦五稜郭に戻っている。
どうしても、やっておかなければならない仕事があったのだ。
ちゃっかり同行していた葦原が大欠伸しながら自室を出てくると、小さな後姿が廊下を走って行くのが見えた。
「鉄!」
旅行李を斜めに背負い、刀を柄袋で覆っている。手甲に脚絆まで付けて、明らかに旅装束だ。
「……ここを、出るのか」
土方が怜悧と評した少年が見上げる瞳には涙が浮かんでいる。
大きな窓から降り注ぐ光に、少し眩しげに眼を細めると零れそうだ。
新選組最後の隊士募集で葦原と同期入隊した市村鉄之助は、小姓を務める年少兵士らの中でも土方附属として良く働いていた。
戊辰戦争全体で見ても決して少なくなかった少年兵達の中、途中で抜け出す者や病死する者も居たが、市村と似た立場にいる田村銀之助は土方の計らいで榎本附属となっており、近い未来に控える旧幕軍完全降伏となった後もきっと命は助かる。
しかし、市村はどうなる。
土方は、本人は元より葦原から見ても、生き残る気は無いようだ。そんな男に付いていては、助かる保証はない。
土方ならば、こうするのではと思っていた。
箱館総攻撃の前に、市村を逃がすかもしれないと。
なので、市村が勝手に脱走しようとしているとは当然思わないし、やっぱりな、という感想であった。
「僕……、僕は、さ、最後まで、先生とっ」
涙混じりに言うものだから、葦原は思わず頭を抱えるように、泣き顔を隠すように抱き締めた。
その途端に幼子のように声を上げて泣き始めるので、末っ子生まれで子どもをあやしたり宥めたりの経験がない葦原は内心慌てた。
きっと、土方の前ではこんな風に泣けなかったはずだ。
市村自身に以前話したことがあるが、どこか沖田の少年時代を彷彿とさせる。
当然、土方もそう感じていたであろう。
頭一つ分よりも少し小さな背を、ポンポンと叩いた。
「……洟つけんなよ」
土方に似た、黒羅紗に金ボタンのフランス式軍服を着けていた。尤も、面倒臭がりの彼の仕様では、ボタンの数が半分程に少ない。
「ううっ……ム、ムリですぅっ」
吹き出して笑ってからは、泣き止むまで、というか気合いで泣き止ませるまで黒髪の頭を撫でていた。
途中で通りかかった者達に
「うおっ! 何泣かせてんすか」
とか、
「こんな往来で逢い引きっすか」
とか、冷やかされる度にいちいち
「うるせぇ、あっち行け」
などと、反応してやりつつなので、市村は次第に気持ちが解れ、最終的には押し殺した忍び声で笑い始めた。
それでも葦原は、そのままの体勢で続ける。
「達者でな。道中気を付けろよ」
頭を軽く叩くと、上げた顔にまた光が差し込む。泣き腫れて真っ赤だ。
「先生からは、故郷へのお届け物を仰せつかりました」
つまりは遺品を預けたのだ。
ただ逃げろと言っても、この一本気で意外と頑固な少年が聞き分ける筈がない。
歴とした任務を与えてやらなければと土方が考えたのは想像に容易い。
命令に背けば斬るとでも言ったのであろうことも。
「葦原さんは、何か、」
葦原ならば土方から、新選組から離れず戦い続けるのだろうと羨ましく思っていた。
後世に、伝え遺したいことはないか。
言い掛けたのであろう額をペシりと叩く。
「最期の別れみてぇなこと言うんじゃねぇよ」
歯を見せてニカリと笑った。
「またな、鉄」
軽く手を挙げる。
またも市村は瞳を潤ませ、深々と辞儀をした。
こうして市村は、箱館を離れる。
土方の故郷・多摩郡日野宿にある実姉の嫁ぎ先に辿り着き、現在でも有名な土方の写真や手紙を届けた。
託したのは遺品だけではないことは、市村も十分に理解していた。
この後しばらく匿われたが、西南戦争に従軍し、命を落としたという。
第二次二股口戦が始まったのは、四月二十三日。懲りもせず新政府軍はラッパを吹き鳴らしつつの進軍である。松明を焚きつつ一旦台場山に殺到するが、すぐに背後に迂回をした。
この妙な動きだが、土方は僅かな動揺も許さない。
「怯むな。退いたら斬る」
などと、各胸壁を巡りながら、飴と鞭作戦の鞭の出番である。
しかも、この男の場合、単なる脅しではないことは皆重々承知だ。
夕方から本格的な撃ち合いとなったが、二日目の夜中までも小銃の音が鳴り止まないという激戦となった。
桶に川で汲んできた水を貯めて置いて、五発程撃つ度に銃身を冷やしながら撃ちまくったという逸話はこの時のものである。
ここでも、土方軍は大勝利を飾る。
しかし負け知らずの台場山の一方で陸軍奉行・大鳥圭介率いる松前口方面は、松前、木古内そして矢不来と負け続きであった。
矢不来陥落を切っ掛けに、五稜郭に控える榎本は全軍撤退を命じる。
有川へと進出した新政府軍が北上すれば、五稜郭から二股口を結ぶ補給路が絶たれてしまい、挟み撃ちの上で全滅の末路を辿るのが、目に見えているからだ。
土方軍は、無敗を誇る陣を手放すのに心底悔しがりながら、道中で憂さ晴らしの夜襲を展開しつつ、五稜郭に引き上げた。
箱館は、嵐の前の静けさである。
しばし戦が途絶えて後、新政府軍が箱館総攻撃を予告した日は、五月十一日。
前夜には、豊川町の武蔵野楼にて別盃を交わしたとされるが、幹部四十人程が集まったという酒宴の参加者の記録に、土方の名前は無かった。
新政府軍との最終決戦を前にして、愛想程度に少しだけ顔を出すということもせず、自室に篭りきりの土方を、葦原が訪ねた。
つまりこの男も、酒宴に出る気はない、もしくは途中で抜け出してきたようだ。
もしかしたら初めてかもしれないが、きちんとノックをしてから返事を待つ。
「俺」
ただし、どう贔屓目に見ても、上官の部屋に入る時の作法には遠く及ばない。
「……入れ」
少し間が空いたのは、不覚にも笑ってしまったからだ。
互いに飲まないので酒を用意してくるでもなく、手ぶらの葦原がズカズカと入ってきて、いつもならふてぶてしくドカりとソファに腰掛けるのだが、執務机に座る土方の前まで進んで来た。
「来ると思ってたぜ」
明日開戦というのは決まっているが、何時からかはわからない。
土方は既に準備万端で軍服を着ており、銀の懐中時計を胸に、あとは腰に愛刀・和泉守兼定を佩き、そしてカッコつけの白いマフラーを巻けば完璧、という状態だ。
「いや、お前が呼んだんだろが」
そう、葦原が酒宴の誘いを無視してここに来たのは、相馬を通して呼び出しがあったからだ。
それでも、土方としては少し意外だった。
蝦夷共和国軍の面子が揃って飲むなんて、これが最後であろう。
持ち前の人懐こさで、なんだかんだ上からも下からも好かれている葦原は、仲間と積もる話もあるだろうに。
しかし土方には、もし来なければ自ら迎えに行く気であった程の、話がある。
立ち上がり、ソファに向かって歩を進めた。
その何気ない動作の途中で、ごく何気ない会話として持ち掛ける。
「いい話が二つある」
特に楽し気な顔では全くない癖に、言葉だけは魅力的だ。
仏頂面を張り付けたまま、葦原のすぐ横を通り過ぎ、ゆっくりソファに座った。
葦原はその姿を追いかけ、身体の向きを傾ける。
室内は、柔らかな橙の灯がほんのりと灯っていた。
「この国を出ないか」
棒立ちのまま、話を聞き続けた。
「箱館で出稼ぎしているロシアの商人に、ロシアに渡って商売をしよう、と持ち掛けられた」
二つの案と提示しながら、こちらは冗談程度の前座話のつもりのようだ。しかし、ロシア軍に紛れて明治政府を叩いてやろうかとの思惑もあったので、強ち冗談とも言い切れないのだが。
本命はここからである。
「ブリュネに、フランス軍に誘われている」
ここで漸く、座りながら見上げてくる土方の顔を見た。
いいや何故か、見ているつもりで全く見えない。
眼の動きどころか、輪郭すら判然としない。
何を考えているのか、わからない。
こんなに近くで、見詰め合っているのに。
「お前も是非に、とのことだ」
土方が誘われるのはあっさりと合点が行く。京都新選組の評判そして箱館戦争全体での采配を目の当たりにした軍事顧問団に称賛され、この発展途上の小さな島国では勿体ない、フランス軍士官として活躍してほしいとの熱烈な勧誘だろう。
そして葦原は、その英語能力から窺える言語読解能力の高さと、自身の銃撃の腕、かつ指導能力の高さを見込まれて、若い彼の大幅な伸びしろを期待されての話だ。
「ロシアで大商売して一旗揚げるか、フランスでまたケンカ三昧か、どっちがいい?」
まるで、明日の朝食はご飯かパンのどっちがいいか、と選ばせるくらいの軽い口調で聞いてくる。
だから葦原は、同じようにごく軽く応えた。
「そりゃあ、ブリュネやカズさんとは仲良いし、フランスの方がいいな」
あまりにもスラスラと科白が出てきて、どんな顔をして、どんな声で話したのかわからない。無論、土方の反応も。
すべてが虚ろだ。
「同感だ。これ以上寒い場所になんか行けるか」
不敵な彼のことだ、土方はこの時、恐らく笑っていたのであろう。
何度も思い起こそうとしても“記憶が曖昧”だ。
新選組の鬼副長と隊士、そして最後の最後まで抵抗し続けた旧幕軍の幹部かつ何倍もの兵力を以てしても勝てない屈辱をしかと味わわされた常勝将軍と銃撃隊隊長の首級であれば、敵に奪われまいと亡骸を隠すのはごく一般的だ。
どう楽観的に考えても最終的には敗ける戦の後で消息不明となったとしても、国外へ逃亡したと考えたり、なおかつ探索しようとは思わないし、まず不可能だ。
勝っても敗けても、敵味方ともに、更なる大仕事が目白押しだ。二人の男の動向など、いちいち気にする暇人はいない。
かつ、そもそも計画の首謀者たるフランス軍の全面援助が約束されている。大混乱に乗じて、国外へ出るなど容易い。
葦原は確かな足取りで、土方の部屋を出た。
市村の涙を受け止めた日と同じ軍服を着け、当然の如く土方には嫌がられながらも真似をした白いマフラーを巻いているが、だらしないと小言を聞かされながらも、軽くひと巻き程度して長く背中に垂らしている。
今から酒宴に出る気はない。
抜け落ちそうな感覚で、自室に戻る。
「……約束が、違うじゃないですか」
仲介役の特権と言わんばかりに、相馬は密かに、二人の会話を聞いていたらしい。
またも土方としては、来ると思っていたと言いたくなる。
「副長、どういうおつもりですか」
ただし、入室の作法は完璧に熟している割に、この男としては感情剥き出しに、心底不満である心境を隠しもせずに問い掛ける。
「なんのことだ」
土方とて、聞かれているのも問い質されるのも承知の上で話したことだ。
その上で、性悪にもすっ呆ける。
「葦原に撃たれて、死ぬおつもりですか、と訊いております」
葦原と同じように、立ち尽くしたままポツリと言葉を落とす。
土方は無反応のまま、まだソファに身を埋めている。
榎本に土方国外逃亡の企てを聞かされ、暗殺を持ち掛けられた。
自ら拙いながらも調査し、榎本の談は降伏を決して認めない男を消したいが為の陰謀で真実とは異なり、土方はやはり最後まで新選組副長の誇りを胸に戦う気だ、盟友近藤局長の遺志を継ぐ男だと再確認し、もう一度、今度は心から信じた。
自分と同じ気持ちだと。そして共に戦うのだと。
しかし、それを裏切られたらどうなる。
全幅の信頼の裏返しの反動は、想像するに容易い。
死なせたくない葦原には別の世界で生きる道筋を立ててやり、土方自身は、箱館で死ぬ気だ。
「ただ俺は、フランスにもロシアにも、そしてクソッタレの明治政府にも、どこにも行く気はねぇってことだ」
忌み嫌い過ぎる相手故、異国よりもむしろ非現実的で、葦原に提案すらしなかった候補として、新政府からもちゃっかり誘いを受けていたことを明かす。
相馬には、しっかりその表情は見えている。
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「相馬、後は任せる」
真面目な顔も怒った顔も、そして笑顔も頗る美しい男だ。しかしそれが今は、憎たらしくすら思える。
「……私はあなた方のように、言動で相手を弄する術を知りません」
人聞きが悪いが、だから謙遜でもお世辞でもない、何の裏もない言葉だとの前置きだ。
「あなたの代わりなど、誰にも務まりません」
相馬は本心から、絞り出すように呼び掛ける。
「最後の武士、土方歳三」
そして応える土方も、本心を吐露する。
持ち上げて、その気にさせようとかの計略はまるでない。
「そんなんじゃねぇよ。俺は、ただの喧嘩バカ。バラガキだ」
しかし所作は、舞台上の主演俳優かのように美しく、風が波立つように立ち上がる。
「最後の武士にはお前がなれ。相馬主計」
鉾とりて 月見るごとに おもふ哉 あすはかばねの 上に照かと
両刃の剣を手に、月を見上げるたびに思う。明日は屍の上で、光り輝くのかと。
てっきり、辞世のつもりかと思っていた。
月が照らすのは、いったい誰の亡骸?
開戦は、夜明け前。
大川口と七重浜口からは陸軍が五稜郭目指して攻撃を始め、艦隊に乗った陸軍兵は箱館山背後の寒川と山背泊より上陸し、山を超えて市中に進軍している。
絵に描いたような挟み撃ちである。
最前線で戦うのは、やはりここでも新選組であった。
しかし大野が新選組本陣弁天台場に向かった時には既に敗走しており、市中から合流した相馬を筆頭に籠城戦へと移行する。
会津戦でも既知の事実だが、籠城とは、援軍が来るのを見越しての作戦である。いくら待っても味方が増えることのない賊軍には、とことん不向きな戦術だ。
こうなっては、土方が黙ってはいない。
一本木関門と五稜郭の中間に位置する千代ヶ岡陣屋で、葦原が駆け付けると土方は出陣の支度をしていた。
「お前が指揮する気かよ」
総大将榎本はもちろん幹部連中は皆、五稜郭に留まり、戦況を見ている。
彼らが臆病だとはいわない。
これが通常の判断だ。
自ら陣頭指揮を執るなど、異例中の異例である。
だからこそ、現代にまで誉として語り継がれ、一方榎本ら蝦夷共和国首脳陣は、懺悔なのか後悔なのか自責なのか、数十年経った後も土方の雄姿を語ろうとはしなかった。
史談会などが開かれる程に忘れ去られようとしても、彼の話になると皆一様に口を噤む。
「たりめぇだ。俺が行かねぇで誰が行くんだよ」
止めようと集まっていた額兵隊二小隊は、この状況で笑みを見せる様子に震えながらも、同行する決意を固めた、というか押し留めるのは無駄だとやっと悟ったようだ。
新選組の危機を、遠くで眺めているような男ではない。
それはわかりきったことだといっても、葦原は敢えて確認したのだ。
このまま、最期まで新選組副長として、戦ってくれるのではないかと。
馬上で鼓舞しながら向かうつもりだろう、ひらりと軽く馬に跨る。
「一緒に来い。時機を見て、身を隠せ」
ちらりと見向きもせず、殊更低い声で告げる。
「俺もすぐ合流する」
敗北は時間の問題だ。
これ以上にない程の好機。
混乱に乗じて、箱館を、日本を出る。
言われなくとも共に向かうつもりだった葦原は、同じく馬上で少し笑う。
「遅れんなよ」
すべての戦が終われば、何事もなかったかのように自国へ帰っていくフランス軍事顧問団の船に同乗する手筈は整えてある。
戦死を装い、逃亡する。
フランス軍人として活躍する、夢物語のような大事を達成する前にしては、ほんの些末な裏切りである。
類稀なる才能を活かしきらずに今生を終えることこそが、真の罪だ。
一本木関門へ早馬を走らせる途中、敗走してきた伝習隊と神木隊に遭遇する。彼らにとって、ここで会ってしまったのが運の尽き、また押し戻された。
土方の到着を切っ掛けにしたかのように、箱館港にて海戦の真只中であった蟠龍の砲弾が新政府艦朝陽の弾薬庫に命中し、沈没し始めた。
兵士達は勢い付く。
このままでは終わらせない。最後には敗けるとしても、それは今日ではない、と再度奮い立つ。
すかさず土方の大音声が響く。
「この機を逃すな! 士官隊進撃! 退く者は俺が斬る!」
ハッタリで斬るという言葉を遣ったことは一度もない。いつでも本気だ。
一本木関門の柵に手を掛け、地獄の門番の如く睨みを利かせた。
土方出陣の報せを聞き集結していた島田、相馬、大野ら守衛新選組の面々も、背後で双眸を光らせる土方の代わりに兵士らを率いて押し進んで行き、異国橋付近まで後退させた。
何しろこの戦で、土方指揮の下に戦えるのは最後だと、重々承知している。
あれ程凄まじく大喝されては、周囲に味方の姿は少ない。
忽然と、姿を消すなら今である。
葦原も土方から離れ、進軍していく。
かの、ように見えていた。誰の目からも。
いや、誰も見ていない。それ以外の行動をとるなど、まさか注視しているわけがない。
やはり葦原としても、この戦場からスッと消えても、そしてどんな行動に出ようと……気付かれない。
幼い頃から稽古に明け暮れた剣よりも数段早く上達した小銃を、当然この日も携えていた。
向ける銃口の先には、馬上の土方歳三。
僅かにも震えもせずに、沖天に昇ろうとする陽を受け真っ直ぐに煌めく。
なぁ、敵の弾には当たらねぇんだろ?
頼む、避けてくれ。
俺は、一発しか撃たねぇ。
お願いだ……当たらないでくれ。
当たるな、当たるな、当たるな。
「……やっぱり……僕には殺せないや、歳三さん」
銃口を、自らの下腹へと向きを変える。
――……
「自分以外の誰かのものになるくらいなら、頭ぶち抜いて死んでやる」
「武士の端くれなら、せめて切腹するぐらい言いやがれ」
――……
瞬間、土方は確かにその名を呼んだ。
どちらの名を口にしたかは届かなかった。
敗走した兵士らは土方に怒鳴られて泣く泣く戻ってくるであろうと踏んでいた相馬は、どんどん減り続けていく味方の数を不思議に思い始める。
まさかと思い一本木関門に馬首を返すと、そこに土方の姿はなかった。
そう、亡骸すらも。
血相を変え、手当たり次第に声を掛け、その行方を尋ねる。
漸く得た情報は、黒羅紗の軍服に白いマフラーの男は、下腹部を押さえ落馬したとのこと。
新選組の終焉の始まりに、天を仰ぐ。
シンセン 了
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