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前編
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こんなところで死ぬのか。
まだやることがあるのだ。やらなければならないことが。
うるさい。そんな叫び声をあげるくらいなら、斬り込んで来い。
苦しい。まだだ。まだ死ねない。
呼吸の音が邪魔だ。鉄の味が不味い。
いつもいつも、邪魔なんだよ。
志を、いつもこの躯が邪魔をする。
「はぁっ……はぁっ……」
クソッ! なんじゃこれっ!
衝撃と激しい剣跋に上がる息と、制御の利かない、余裕を許さない鼓動。目の前を塞ぐ人間を、命の重みなんて知らぬまま、ただ斬り崩す。心情を覆うのは理不尽な怒りだけだった。
なんで此処に……壬生狼の野郎が来やがるんじゃ……!
元治元年六月五日、池田屋。
京に火を掛け、天皇を長州に連れ去る。朝敵の汚名を着せられて京への出入りを禁じられた長州藩士に取り、苦肉の策であった。
しかし、その決死の作戦決行を談合中の旅籠・池田屋に、招かれざる客が現れた。当時京都守護職を任じられていた会津藩主松平容保公御預・新撰組……徳川幕府最後の砦である。
「ナギ……ッ二階はわしらに任せろっ」
息を吸う度に乾いた咥内に入り込む、不快な生暖かい空気にむっとする。
「ばっ……! わしはよう逃げん!」
僅かな蝋燭の灯を闖入者に吹き消され、辺りは真っ暗。月明かりが白々と浮かび上がらせるのは、味方か敵かも見分けのつかない人間の肌だけだ。
「階下の奴手伝いしちゃれっちゅうんじゃ!」
敵の数は明らかに少ない。二階に突入してきたのはたったの二人だった。
突如に開いた襖から、背景を塞ぐ仁王立ちの男・新撰組局長近藤勇が大音声を上げた時には文字通りの乱闘が始まっていた。正しくは慌てふためいて刀を取ろうとごった返した。旅籠の気楽さに油断し誰も傍らに置いておらず、隅の方にまとめてしまっていたからだ。
姿さえ朧な斬り合いでは人数の少ない方が有利かもしれない。味方を傷付ける心配もなく思い切りやれる。それをさらに助けるのが先程の二人、特に近藤の甲高い気合である。これでは味方を間違えようもない。
「……翔野、死んだらいけんぞ!」
「たりめぇじゃ! わしらの志を幕府の走狗に阻まれて堪るかっ」
生き残る気だった。だから互いに目線も合わせぬまま、互いに守る背中が離れた。
喧騒の中でなお音も荒く階段を降りると、浅葱のダンダラ羽織を着けた長身痩躯の男が三人の相手に囲まれているのに出くわした。
その、一目で判る刺すような装束。
壬生狼じゃ……!
……!?
な……っなんじゃあいつ?
言葉のまま、あっという間に、三人の男達は目にも留まらぬ速さで疾走する剣に倒れた。
強ぇ……っ! いや、強いなんてもんじゃねぇ。
人間か? “あれ”
身の毛が弥立つ程の殺気を当てられながらも、向かって行かずには居られない。
わしも剣客の一人じゃ。
あの“鬼”を倒して、絶対に仲間を守る。
お前等に……邪魔はさせん……!
抜刀し、男の視界に躍り出た。
「長州藩士・葦原柳!」
“鬼”は、チラリと目配せすると、クッと口角を歪ませた。
「わざわざ名乗るなんて、余裕じゃないですか。……もう、僕の間合いですよ」
言い終えるより先に、構えた剣は一瞬で空しく宙に踊り、火花が散る束の間、
既に赤く血飛沫が舞う。
「新撰組一番隊隊長・沖田総司」
そう言い捨てると、時間が惜しいとまでに近藤の甲高い気合が響く二階に駆け上がって行った。
葦原は目で追う間さえ与えられず、暗闇の中に倒れ込んだ。
……痛ぇ……。
意識が戻ると、痛みしか頭に浮かばない。葦原の全神経は斬傷に向かって集中する。
あの刹那、正眼に構えた刀を擦り上げられ、袈裟掛けに斬られた。あれだけの腕前の男に斬られたのに、生きているのが不思議だ。
まさか……手加減でもしちょったんじゃねぇだろうのう。
顔も、見えなかった。
……!
傷口が……熱い……っ!
「葦原っ大丈夫か!?」
荒々しく抱き起こされるので、余計傷に堪える。
「んなに……深くはねぇっ」
「ここはもうダメじゃっ! 撤退せるぞ!」
「翔野が……まだ上にっ」
「アイツは……沖田総司に……」
……嘘じゃろ……。
「さあ、行くぞっ」
……わしの所為じゃ!
わしが……簡単に斬られたけぇ……!
「やめ……っ逃げたくねぇッ!」
上手く息をする事も出来ない。
物凄い騒動の中、葦原は肩を担がれて、池田屋を後にした。
暗がりの中、敗走する二つの影は必死に駆けたが、その脚は鉛の様に重い。そして真夏の今夜、動かずとも汗が吹き出る、茹だるような暑さ。まだ慣れぬ京の夏は、盆地特有のねっとりとした厭な暑さだ。
担がれた男は、斬傷による高熱で意識も朦朧としている。目指すは長州藩邸。池田屋から只管に進む。
「待て」
小路の闇から低い声が通る。この熱帯夜に凡そそぐわない、冷たい声。
仲間を担いで逃げる男が振り返ると、目が覚める様な役者顔の男の姿が“誠”一文字が光る提灯に映し出されていた。その男の上背の高さと、負う人間の重みで腰が曲がっているから、だけの理由ではなく涼しげな目で見下ろしてくる。
「壬生狼……っ!」
呻く様な声が響くと同時に、ダンダラ羽織の男が凄まじい殺気と共に抜き放った。
佩刀、和泉守兼定・二尺八寸。月光に煌めく刀身が、妖しくも美しい。
その姿には目もくれず、瞬時に担いだ男を肩から外した。しかし慌てて刀を構えた腕は、甲斐なく宙を飛んで離れる。斬られた肉塊が落ちると、担がれていた男の身体も膝から倒れた。
まるで獣そのものの呻き声を搾り、仲間の熱い身体を残し我武者羅に逃げ出したが、逃げるのを心得ていたように待ち構えた別のダンダラ羽織に数間先で捕らえられた。
既に気絶していた残された男・葦原は見下す視線を感じながら、その時やっと意識が戻った。
……なんじゃ……?
顔を上げた先には、鮮血と脂で光る刀が見えた。
纏う色は浅葱。
瞬間、血が燃えた。それこそ、目が覚める念いだ。
「死に損ない。屯所まで来てもらおうか」
序盤は決死に斬りまくるしかできなかった、というのも妙だがそれ程ただ荒いばかりの新撰組だが援軍が来てやっと落ち着いたのか、なるべく殺さずに捕縛と手法を切り替えたらしい。
「……誰……がっ……」
息も絶え絶えになりながら、斬り離された仲間の腕先に放られた刀を取り、濁った血で湿った土に突き刺した。
躯を支えるその姿を、余裕の所作で提灯を扱い、男は照らす。役者顔は伊達ではない。芝居の一場面の様に、優雅な仕草。
「……総っ!?」
しかし照らされた恨み顔を見止めると、嘲笑さえ浮かべていた表情が一変、驚愕の色を隠せない、その時。
「土方、すぐ戻れ! ……総司が!」
後ろから息を切らせた新撰組隊士の声がした途端、造り物のような美しい顔が蒼白した。
……隙じゃ!
白銀が月光を受けて風を切る。片脚で立て膝を付き、右手の剣先を相手の、女のような白い首筋に据えた。動かない筈の熱い身体が嘘の様に反応した。
火事場の馬鹿力ってこれじゃか?
どうでもいい事が思いつく程、それこそ嘘のように頭は冷えていた。だが、捉らえた気になっていた男は誰にも構っていられるかと言わんばかりに一瞥だけ残して去った。
ナメんなや……!
遠ざかる影に、流れる黒髪に舌打ちをした。
一心に池田屋へ急ぐ男。
対して逃げる男の脚は、長州藩邸にはもう向かわなかった。
どうして……わしが生き残ったんじゃ……?
この躯が、どんなに疾く駆けようと。
この躯が、どんなに力強く薙ぎようと。
志が空では意味が無い。
葦原は順調に回復していた。医者で手当を受けた後は旅籠に泊まっている。だがそこは以前の長州贔屓の宿では無く、佐幕派・討幕派どっち付かずの宿だ。
あの夜……池田屋以来、知り合いには誰にも会っていない。
毎日を抜け殻のまま過ごした。傷が痛む度、自分を責め続けた。
……わしの生きる意味ってなんじゃ?
自問を繰り返す。
葦原が尊王攘夷派として奔走していたのは、真に国を憂いての事では無かった。仲間が居たから……。翔野が居たから、加わっていただけの事。
一応父は武士だが、自分としてはこの日本がどうなろうと、はっきり言って知った事では無い。そんな事を本気で思いながら、幼馴染みで、義兄弟の契りまで交わした翔野に連いて来た。
自分の志なんて有りはしない。仲間ももういないのに、戻る気なんて更々起こらなかった。
……わしの生きる意味ってなんじゃ?
――……
「アイツは……沖田総司に……」
――……
何度も心の底で繰り返した、あの時の言葉。
……沖田……総司。
そうじゃ……奴がいた……。
……奴を……仇を討つ……!
あっさりと、それが葦原の生きる目的となった。
襖の外から女将に声を掛けられた。
「葦原はーん? お客はんがおこしどすぅ」
普通、武士が泊まっている宿に客が来れば、斬り合いでも始めるのでは……と警戒される所だが、倒幕派の定宿ではない為か女将はすんなり二階に通した様だ。
客……?
わしがここに居る事は誰も知らん筈じゃ。仲間に来られても、わしはもう……。
「いいご身分だなぁ? 何泊する気だ?」
……!? 新選組の……っ!
すらりと襖を開け現れたのは、あの日……対面した新選組副長だった。
葦原は空かさず刀を手に取り、鯉口を切る。
あまりの慌てぶりに刀台が仰向けに倒れた。
確か……新撰組副長の……土方……とか呼ばれちょったのう。
「おいおい、今日は斬り合いに来たんじゃねぇよ」
そう空中で掌を振って見せ、刀を自分の右手に持った。
これでは、一度持ち替えなければ刀を抜く事が出来ない。つまり争う気が無い事を態度で表している。
「何……の用じゃ……」
部屋は二階。窓には格子。
唯一の出口は入口でもあるので、土方が塞いでいる。
逃げ場は……無い……。
相手に取って、葦原は捕らえるべき討幕の志士。無論、抵抗すれば殺す気だろう。
「まぁ、そう硬くなるな。取り敢えず中に入れてくれ」
そう言うと襖を閉め、腰を降ろした。右手に持った刀は、そのまま自分の右側に置いている。
げに何しに来たんじゃコイツ。
表情も声も何食わぬ様子で変わらず、狙いが全然わからない。
葦原も腰を落ち着け、相手の事は全く信用出来ないが一応の礼儀として刀を右側に置いた。
「さて……」
しかも正面に居ると、づっと威圧感あろーがや……。
「お前……沖田総司になれ」
……は?
何……言っちょるんじゃ?
「よし、じゃあ行くぞ」
「ああ!? ……ちょい……待てーや! なんじゃそれっ」
一言だけ言うとすぐに腰を上げる相手に、葦原は慌ただしく食い下がった。
「なんだ、落ち着けよ」
いや、お前が落ち着け!
冗談みたいな事を言い、当然のような顔でさっさと出て行こうとする相手に心の中でツッコミつつ続けた。
「どういう意味じゃ! 何言っちょるんかさっぱりじゃ!」
すると、
「ふー」
と長い溜息を吐き、心底面倒そうにまた胡座をかいた。
なんでそこで逆ギレじゃ!
だが、取り敢えず説明する気にはなった様だ。
「お前、今何してんだ?」
「は? ……別に……」
別に攘夷活動する気は無ぇが、お前んとこの沖田は……。
「討つか」
「! ……ああ。沖田総司……わしの親友の仇じゃ」
人の心読むなよ気持ち悪ぃな。
その仇んとこの副長に宣言するわしもわしゃが。
「無理だ」
「んなの……戦んなきゃわかんねぇじゃろ……」
目を伏せながら呟いた。
いくら鬼みてぇに強ぇ奴だからって、てめぇの部下を過大評価すんなよ。
「やれねぇ……って言ってんだ。」
「なっ……!」
葦原がカッとなり顔を上げると、土方の様子が明らかにおかしい。
思わず、恥ずかしいくらいにキョトンとしてしまう。
葦原の視線を感じると、先程とは反対に土方が目を伏せながら言った。
「死んだ。……総司は……死んだ。」
死……んだ……?
「……斬られたのか……?」
“あの”沖田が?
まさか。
「……労咳だ。」
……!
肺に開いた穴から血が噴き出しその血が喉に絡まり、息が出来ないから咳をしながら血を吐く。
日毎夜毎に咳が止まらない。
日毎夜毎に微熱が続く。
幕末当時、不治であった其の病に……髄一の天才剣士が若い命を奪われた。
「アイツには……“沖田総司”にはまだ死なれちゃ困るんだ。」
池田屋の夜にも目にした……あの……冷たく光る切れ長の双瞳。
「討幕派に取って、鬼神みてぇな沖田総司の強さは恐怖の象徴其の物なんだろう? アイツが死んだなんて知られてみろ。新選組がナメられる。……だからお前が代わりを……」
「……厭じゃ」
「……お前に……選択する余地は無ぇ筈だぜ?」
口の端が、ニヤリと上がる。
“沖田総司”の振りをして、新選組隊士として生きるか。
志士のまま、此処で捕らえられるか。
「そうか? 一番いい方法があるぜ」
白昼に火花が散る。
実は、葦原は両手利きである。
一人の剣士に一回しか見せない、殺す気で放つ隠し技・右側の刀での居合い
抜きを土方は鞘に納まったままの刀で受け止めた。
両者、凄まじい早業。
右利きと思わせて、相手の不意を突く。
葦原のこの技が受け止められたのは、初めてだった。
……畜生……ッ
葦原が更に力を込めると、刃と鞘がガチガチと音を起てる。
その姿勢でも尚、土方は冷笑っている。
「なるほどな」
土方は、此の選択に今気が付いた風で愉快そうに呟いた。
……嘗めんなよ。
「わしゃあ一応、免許皆伝じゃ」
「奇遇だなぁ。俺もだぜ」
葦原が刀を擦り上げた一瞬で土方は抜刀し、二の太刀が胴に来るのを又も受け止めた。一斉に離れた隙に土方は立ち上がり、刀を上段に構え直した。
部屋ん中で上段じゃと……。
この自信家め。
そう思いながら、葦原は正眼。
次に仕掛けたのは土方。葦原が上段からの正面を払い、鼻と鼻がぶつかる程の鍔迫り合いで刀が震える。その、一触即発の緊張の中。
「いってぇ……!」
なんと、土方は頭突きをかました。しかも、怯む葦原に透かさず足払いを掛
けた。
まるで悪餓鬼の喧嘩だ。
ただし、互いに遣うは真剣。
勝負は決した。倒れたのは葦原。その躯を跨ぎ、首筋を掠める様に刀を畳に
突き刺したのは土方。
「殺……すならッ……殺せ……」
荒い息で喘ぎながら言葉を吐いた。
「殺したぜ? “長州の葦原柳”は」
今断ったら、本当に殺られる。
今度こそ本当に、選択の余地が無い。
「どこにだって行ってやるよ」
そう、言うしか無かった。
その後話したのは、 他愛の無い事。
さっきの、頭突きの後に足払いは狡い……とか。どうやって自分の事を調べたのか……とか。なんで……自分に頼んだのか……とか。
その質問に土方はこう答えた。
「別に。顔がすげぇ似てるからだ」
腕が立つからとかじゃねぇのかよ……。
そう拍子抜けしながらも、あの夜対峙した天武の顔が自分と似ている、という事にも驚いた。
そして、土方があの男を“総司”と呼ぶ事にも。
大事にしていた様だが、“新選組の為”という理由で代わりの者を使うか?
まるで茶番じゃ。
わしには、死んだ仲間の代わりなんて考えられねぇがな。
あの男の話をする時の、多分無意識でしている温かい表情。
普段の、能面宛らに整った冷たい表情。
どっちが本性じゃ?
つか、こいつ……いつわしが斬り付けてくるかとか、もっと現実的に、間者
にならねぇかとか考えねぇのかよ。わしがそう考えていても、自分なら防ぎきれる……返り討ちにしてやる、とか高をくくってんのか?
まぁ、わしには自分の目標なんて無ぇし、故郷に帰ってもする事が無ぇ。
しばらく……この茶番に付き合ってやるよ。
お前の首を、昼夜狙いながらな。
土方にとってあの夜は、まるで目が覚めたまま脳裏に焼きつく悪夢だった。
残党狩りも粗方片付いてやっと静かになり始めた池田屋の中、その光景だけが浮かび上がるように全身を揺さぶった。
――……
「総司……っ!」
「……ケホッ……ケホッ……と……しぞ、さ……」
抱き起こした躯は余りに軽過ぎた。
いつのまに……こんなに病んだ……?
蒼白な顔。
痩せ細った躯。
鮮やかな血。
止まらない咳。
喘ぐ……息。
総司……お前……死ぬのか……?
――……
伝法に捲し立てる永倉に、土方は言葉を返さなかった。
「土方、冗談は止せ! ……総司の代わりだと? 第一そいつは長州者だろう? いつ寝首を掻かれるかわかったもんじゃねぇ!」
新八……あんたは“まとも”だな。
俺はあの夜……あいつの血の匂いを嗅ぎながら、一息に狂ってしまったらしい。
自らの狂気を知りながらも、この衝動を止める事が出来ないのだ。
あいつの苦しみに、死の間際まで気付いてやれなかった。
最期まで師・近藤勇の為に剣を振るおうと、誰にも……俺にさえ言えずに我慢
を重ねた、痛ましい程の忠義心。
お前が死ぬだなんて……耐えられない……。
葦原と土方が壬生に在る新撰組屯所に着いた早々、十番隊隊長・原田左之助が
豪快に迎えた。
「そぉーじぃー! おまっ……どこ行ってたんだよぉっ?」
大きな手の平で、葦原の肩をバンバン叩く。
イテッ! コイツ、力強っ!
葦原の頬が引き攣るのを余所に、原田の大声を聞いた他の隊士もどや
どやと揃った。
「一体何していたんだ? 総司」
「サボりぃ? 総司くぅん」
続いて声を掛けるのは、六番隊隊長・井上源三郎、八番隊隊長・藤堂平助。
何れも沖田とは上洛前からの長い付き合いだが、全く気が付かない。
かつての仲間は既に亡く、目の前に居るのは有ろう事か長州藩士だと。
うげぇえ! どこ見ても壬生狼ばっかじゃあ!
当たり前な感想を持つ葦原の横には、
「何か言え」
と言わんばかりに睨んでくる土方。
仕方無ぇ。適当に言い訳でも考えるか。
沖田がどんな男かは知らないので真似しようもないが、最低限、故郷の訛りは出ないように一応、気は遣ったようだ。
「あー、すまねぇ。俺ちょっと島原から離れらんなくてな」
『……は?』
……なんじゃ? 静まり返って……どうしたんじゃ、この空気。
大の男達が目を真ん丸にし、口をぽかんと開けて驚愕しているなか、葦原が思ったのも束の間、怒涛の様な、歓声にも似た騒ぎになった。
「うっそだろぉ!」
「総司ぃ! お前も遂にっ」
……は?
今度は葦原がこう言う番だった。
“なんだ、そうだったのか”ぐらいの返事が返って来る答をしたつもりだった。しかしその判断が間違っているらしい事は、隣に居る男の表情が物語っている。
「冗談だ。こいつ、俺の用で大坂に行っていたんだ」
さらりと訂正した後、
「総司、俺の部屋来い。永倉、山崎もだ」
と、目配せした。
「……ッてめぇ、死にてぇのか!」
うわぁ……。
心中だけで思うのに止まらず、まんまとビビる葦原。
こざっぱりとした部屋に着くと、正しく鬼の形相で怒鳴りつけてくる土方を、さっき“山崎”と呼ばれていた男が宥めた。
「まぁまぁ、仕様が無いですわ。副長やって、詳しい事は何も言わんと連れて来たんですやろ?」
「道中こいつがくだらねぇ話ばっかするからだ」
てめぇわしのせいかよ。
「まぁまぁまぁ。お仲間になるんやから喧嘩せんでください」
「……これからしっかり叩き込むしかねぇな」
そういう台詞吐いて含み笑いすんのやめろよな。
うんざりする葦原に、土方はやっと二人の男を紹介した。
まず、葦原と会ってから終始無言を貫く男を“永倉新八”と呼んだ。二番隊隊
長であり、幕府の実戦部隊・新撰組の中でも一、二を争う剣客で、池田屋の夜、沖田の急を告げに土方の元へ走った男でもある。
そして小柄な、大坂の商人風の男は自ら名乗った。
「山崎烝ぅいいますぅ。監察やっとります。あんたの事調べさしてもろたんも、実は俺ですぅ。どうぞよろしゅう」
そして葦原の肩を担いで逃げていた、土方に腕を斬り落とされた男を捕らえたのも山崎だった。
こいつが! どう見てもヘラヘラらした野郎じゃが。
葦原は、自分が調べられた標的であったことはそっちのけで忘れて感心してしまった。
仲間達さえ消息も知らない自分を、一体どうやって調べたのか。葦原はその疑問をそのまま投げ掛けた。
「そっれは企業秘密ですわぁ。何でも知ってまっせー! 長州藩出身、葦原柳。通称“ナギ”。天保十五年生まれ。男三人兄弟の末弟。佩刀は、業物・黒叡志隆二尺五寸。鏡新明智流目録。初恋は九歳の時、隣村の色白美人・ゆいちゃん!」
「っ……てめぇ!」
葦原が掴み掛かろうとすると、山崎はひらりと身を躱した。
土方は……というと、
「ほーぅ。流石だな山崎」
と態とらしく感心顔を作っている。明らかに最後の“情報”だけしっかり覚えている様子だ。
そして葦原の恨みがましい目付きに応え、今度は土方が遅ればせながら驚いて尋ねた。
「……お前も、目録だったのか?」
やべっ! ……って……
「お前“も”って事は……」
土方も天然理心流、実は目録までの剣の腕だった。
しかしそれは竹刀を遣う道場剣法に置いてはであって、互いに実戦には相当の自信と、勿論実力を備えている。
「馬ぁ鹿。俺は“土方喧嘩流”皆伝なんだよ」
「はぁ? ……なんっじゃそれ」
……と、またも肝心な話が進まない内に、永倉の二番隊が巡察に出る時刻になり、土方は会津公に呼ばれていた近藤局長がそろそろ戻る頃だ、と部屋から出て行った。
池田屋の一件で討幕派志士の中心を担う人物が新撰組によって殺された為、残された多くの過激派志士達が一層活発に動いていた。
後の世に“池田屋事変”と名指される、新撰組最大の偉業。
明治維新を二年遅らせた……と、或る意味“名声”高いが、二年早めたと度々皮肉られる。
土方は、帰った局長を掴まえて今後の話を詰める気の様だ。
葦原の演技指導は、探索の為なら変装も熟す山崎に任された。
「ほな、“沖田総司”になってもらいまひょかー」
インチキ臭い関西弁の山崎がニヤリと笑った。
まず山崎は新撰組隊内の鉄の掟……後世俗にいう“局中法度”について説明した。
隊士は外泊出来ない事になっているのだ。という事よりも、その法度の厳しさに、葦原は自分の耳を疑った。
一、 士道ニ背キ間敷キ事
一、 局ヲ脱スルヲ不許
一、 勝手ニ金策致不可
一、 勝手ニ訴訟取扱不可
一、 私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者
切腹申付ベク候也
武士道に背くな。
隊を抜けるな。
勝手に金の貸し借りはするな。
勝手に罪を罰するな。
喧嘩をするな。
破ったら腹を切らせる。
その次にそれぞれの人物と沖田の関係等を詳しく説明された葦原は、“奴等の仲良しごっこには興味も無い”“ただ沖田総司として隊務とやらを熟せばいいのだろう”などと捻くれつつ話半分に聞いていた。
要は面倒臭かった。
しかしそんな葦原の心境を、山崎は安々と見抜く。
「……さっきの副長の科白やけど。あれ、ホンマの話や」
「? ……なんじゃ」
何気なく聞き返す葦原に、山崎は居住まいを正し向き直った。
「“死にてぇのか”っつうの。……あんた、正体バレたら死ぬで」
“規律違反を侵した隊士は切腹”
充分に厳しい隊規だが、それでさえ建前だ。
新撰組隊内粛清の恐るべき実状。それは闇討ちであった。
表立って処刑出来ない隊士……例えば隊内での地位の高い者、そして間者達の多くは、過激派浪士達の仕業と見せかけて暗殺されている。かつての巨魁局長・芹沢鴨までもがその一人だった。
「あんたなんて、長州者やってバレでもしたら、自分でも知らん内に首と胴が離れてまうで?」
「わしは間者じゃねぇ!」
当然、葦原は憤慨した。その様を見ても山崎は全く動じず、嘲笑う。
「そやけど、いざバレても俺ら誰も助けへんで? 影で糸引いてるのが副長やなんて知れてみい。それこそ一大事や」
「……っざけんな! んなのやってられっかよ!」
葦原は立ち上がり、部屋から出ようとした。その様に身動きもせず、
山崎は口だけを動かした。
「あんた、逃げるんか?」
背後から響く声。葦原はぴたりと脚が動かせない。
「んじゃと……?」
「そやろが。一旦引き受けたんや。最後までやり通さへんのは男のする事やない
わな」
無言のまま、勢いよく音を立てて胡座をかく。
不服気に睨み付ける葦原に山崎は、
「精進せぇやー。“一応”武士の息子なんやろ? 折角覚えさせられた切腹の作法、無駄にせえへんようにな」
と再びニヤリ、笑って見せた。
「あとなぁ、“沖田総司”は遊郭には行かへんで」
「マジかよ!」
葦原は目を剥いて、幾つだよ奴はと驚いた。
「歳はあんたの二つ上ぇでっせぇ。元々女にはあんま興味無さそうやったか
らなぁ」
その答を聞き、葦原は誰もが抱きそうな疑問をぶつけた。
「……なぁ、沖田って……衆道?」
「……なんや。知ってて来たんとちゃうんか」
……知らねぇーよ!
山崎は呆気に取られて口を開ける葦原に、さらに追い撃ちを掛ける。
「あんた、ほんまに隊士として浪士共の相手するつもりやったんか? ……あんなぁ、するんは、うちの副長はんの相手やで」
……ッ無理無理無理無理!
「おっとぉ、どこ行くんや!?」
またも立ち上がる葦原の袴を山崎は、はっしと掴んだ。
「離せっ! やっぱ帰る!」
「ちょっ……あきまへんって!」
どたばたと暴れる葦原を山崎が取り押さえる。
「いでででで!」
山崎がつい、得意の柔術技を掛けた時、跳ね返る程に勢いよく障子が開き、怒号が響いた。
「るせえ! 何騒いでやがる!」
『ぎゃあああ! 出たぁー!』
声を揃えて恐怖する二人がどんな話をしていたのかも知らず、土方が入って来た。
「ははは、なんだ? どうした二人共」
「お帰りなさい! お疲れ様です、近藤局長」
さっき迄フザケていた山崎は、すぐ様座り直し一礼した。
新撰組局長・近藤勇。人を威嚇する空気は全く発していないのに、何とも言えない重圧感がある。
「ご苦労だったな、総司。ゆっくり休め」
その威厳漂う佇まいと、慈しみに満ちた瞳とが相まった男を、葦原はもう一人知っていた。
……親父に似ている。
漠然と、そう思った。
―…
「はいっ! 先生も!」
―…
土方も山崎も、目を見張った。
その丁寧気な言葉遣いも、元々似ている声色も、そして子どもの様に純粋に笑う表情までもが。
何もかもが、“沖田総司”そのものだった。不自然なくらいに。
「ははは。そうだな」
そう笑い、仕事に戻る近藤と、怪訝そうに葦原を一瞥する土方は部屋を去った。
「なーんやぁ! やれば出来るやんかあ!」
山崎は驚きを込めて賞賛した。
「……わし、なんかやったか?」
葦原は、自分の言動を全く覚えていなかった。
そう“まるで”取り憑かれたかのように。
「またまたぁ。照れんでもええって! その調子やでっ“沖田総司”!」
あ……“俺”、そういや訊くの忘れてた。
沖田の部屋……つまり当面の自分の部屋に入った葦原は心の中で呟いた。
屯所に着いた時、迎えた隊士の中に永倉と山崎は居なかった。遠くの方で窺う様に見つめていたのだ。
それは当然の行動。彼らは、かつての仲間に瓜二つの、その男の正体を知っていたのだから。
しかし同じ行動をとる者がもう一人居たのを、葦原は見逃さなかった。
三番隊隊長・斉藤一。
流麗な眉と細い双瞳の間が狭く、只でさえ睨んでいる様な顔の男が人混みに寄り付きもせず、がっしり腕を組んで壁に凭れ掛かっていた。鋭い目線の先には葦原が居る。
その視線に気付きながら、
「あいつもわしの事知ってるんだろうな……つかそんな睨むなや」
と考えていた。
しかし斉藤は、土方には呼ばれていない。集まったあの部屋で、知っているのはこの四人だけだと聞かされた。
葦原は、山崎にでも斉藤の事を訊くつもりでいた。あの男は本当に知らないのか、と。
明日にでも話してみるか。
しかし、他人の部屋ってのはどうも落ち着かねぇな……天敵のだと尚更だぜ。
そう思い、葦原は池田屋以来の長い長い一日に、瞼を閉じた。
京女風に妙な科を作りながら障子の向こうに声を掛ける山崎に、中の永倉は
「おーう。入んなよ山崎さん」
と感じ良く応えた。
「永倉はぁーん。おばんどすぅ」
葦原の……というより土方の前での無言っぷりとは大層な違いだ。
「遅くにすんません。少しお話が」
急に声を潜める、そう話とは葦原の事。葦原が間者であるか否か、である。
新撰組随一の観察眼・山崎烝の出した答えは、
「心配せえへんでも大丈夫ですわ。葦原柳は間者ではありまへん」
の、からっとした一言だった。
山崎は無論、
「間者じゃねぇ」
という葦原の言葉を鵜呑みにした訳では無い。
試したのはあの時。
土方と沖田が念友だなどと真っ赤な嘘だった。
間者なら、新撰組副長の“好み”という剰りにも恵まれた容姿で、この隊内
の実質的な支配者を誑かし、閨事で技を駆使しようが思うがままに情報を引き出せるおいし過ぎる状態に、自分の色香に磨きをかければよい所だ。
だが葦原は、笑える程に本気で逃げようとしていた。
それにその前にも、バレたら死ぬと聞かされて直ぐに出て行こうとした。
間者というもの、拷問にかけられる前に自ら命を絶ち、主と仲間を守るぐらいの覚悟は当然の如く持っている。
ところがあの男、そういう根性が全くない。
そこで一応は疑いを弛めたが、まぁ、反応が面白そうだからさらに探りを入れ
たのだ。
「……そうかい。山崎さんが言うなら信じるよ」
にこりと永倉は微笑みを返すが、山崎の腹の中は今後の自らの使命で固まっていた。
これから先も、目を離しはしない。
地の言葉が、つい出てしまうくらいの本音だった。
翌朝、激しい掛け声に合わせ、葦原は敷布団ごと下から引っ括り返された。
「ぅらあっ! 起きやがれ!」
哀れ葦原は顔面を畳に打ち付け、天変地異にでも遭ったかの様に目を白黒させながら、赤くなった鼻っ面を手で覆った。
「何しやがんだ! って、うわ! 土方!」
その驚愕と憤怒も束の間、今度は別の驚異に襲われる。
葦原は、土方と沖田が念友だという山崎の無責任な発言を、まだ信じてしまっていた。
今は亡き沖田に似ているという自分の顔を、こんなに憎んだ事は無い。
「朝っぱらから騒ぐんじゃねえ! さっさと朝稽古に行け!」
てめぇに言われたかねぇよ。
前半の言葉には心の中でささやかに反発しながら、後半の言葉に抗った。
「その“朝っぱら”から稽古なんかしたらメシ吐いちまうだろ」
つか、面倒くせぇ。
本音を腹に、躰は寝具に仕舞った。
その葦原に土方はしゃがみ込み、優しげに説いた。
「ナニ吐こうが稽古しとけ。後悔すんのはお前だぜ?」
ぐぁっ……近っ!
「なななっ何でだよっ」
衆道っ気のあるらしい男に間近に迫られ、明らかに拒否反応を示す葦原。
“俺が弱いとでも言うのか”等の、お決まりだが少しはまともな返事も出来ないでいる。
そして“なぜ”と聞かれた土方は待っていたとばかりに、にやりと形のいい唇を上げ、ついでに葦原の顎を軽く持ち上げた。
「新撰組隊内で、衆道が流行ってんの知ってるか?」
マジでか! つかコイツ俺のこと口説いてんのか!?
葦原の疑問、口にしていたら前半は肯定されるだろう。近藤が故郷に宛てた手紙に深刻な悩みとして記しており、現代にまで残ってしまっている。
絶句。葦原はその手を払いのけるのも忘れ、呆然とした。
「……ふっ」
その様子に土方が鼻で笑うと、葦原は転瞬我に還り、目の前の細身を突き飛ばした。
「触んじゃねえ! 俺は沖田の代わりにf××kされんのはゴメンだ!」
「……山崎の奴、随分と怯えさせたらしい」
尻で餅を付いても粋がる上に恰好がついてしまうのが小憎らしい所で、そのまま続けた。
「“この俺”が、何が悲しくて総司と念友やんなきゃならねぇんだ」
その言葉に、葦原は顔を明るくする。
「へ……? じゃあ、嘘!?」
ほっとする余り、知っていてからかった土方への怒りも、諸悪の根源・山崎への恨みも、そして
「“女にモテまくってる”この俺が」
と言い放つ男へのツッコミも思いつかなかった。
「だがな、隊内で修道が大流行りってのはマジだ。いくら新撰組でも“沖田総司”に手ぇ出す程の命知らずは居なかったが。……お前、その面引っ下げて弱いときたら、さぞ大人気だろうぜ?」
……こうして、沖田総司に匹敵する戦力を目論む土方の望み通り、葦原は暇さえあれば稽古に励むことになった。
“ふぁっく”ってどういう意味だ? ……南蛮被れめ。
土方に若干の疑問を残しつつ。
土方……?
平隊士も連れねぇでどこ行くんだ?
新撰組が居候している八木邸の庭で隊士達と共に葦原が稽古していると、一人
で外に出かけて行く土方を見つけた。心持ち、人目を憚る様な雰囲気を漂わせている。
……女か?
葦原は、ふつふつと沸き上がる好奇心を“奴の弱みを握る為だ”などと自分を誤魔化して、慣れない尾行を試みた。
あいつ脚早っ!
少し目を離すと見失いそうな背中を追いながら、葦原は額に汗した。
土方は“韋駄天”とか呼ばれる程、普段から早足だった。
少年の時、遠く江戸いとう松坂屋呉服店の奉公先から飛び出した夜も、一晩中歩き続けて武州多摩石田村の実家に帰ってきたという、恐るべき健脚の持ち主だ。それはただ、本人は絶対に明かさないような、そこまでして帰りたい程に厭な事が有ったからだが。
地の“鬼脚”ぶりをまだ知らない葦原が、こんな急ぐ程に惚れてる女なのかよと、かなりわくわくとしながらもかなり疲れてきた所で、土方はやっと立ち止まった。
……ん? ここは……。
寺かよ!
ヤケに渋い所で逢い引きしやがる……まぁ、異様に静かな落ち着いた場所だよな、と葦原は連いて行った。
少し離れた場所から土方を見やると、或る墓の前で手を合わせている。
“沖田 宗治郎”
墓石には、そう刻まれていた。見つめたまま声を掛けられずにいる葦原を、土方は振り返った。
「……ッ! ……ああ、葦原か」
立ち尽くす姿を、土方は一瞬、亡き面影と見違え狼狽した。だが、それ以上に目に見えて狼狽えるのは葦原の方だった。
「てめぇ付けてやがったのか!」
などと、怒鳴られるのは想像に容易いからだ。
しかし、その通りにはならなかった。
「総司の……墓だ」
“宗治郎”とは、沖田の幼名“宗次郎”の当て字である。
誰にもわからないように、敢えてこの名が墓に刻まれた。
また静かに向き直り背中を見せる隣に、葦原は同じ様に膝を付き片手を顔の前に出すと、短い間だが目を閉じた。
「俺はあいつに……何もしてやれなかったからな」
瞼を開けたかと思うと、少し前の問いの答えを出した。
「俺はなぁ、あいつの病気を全く知らないでは無かった。信じたくねぇ俺の我儘と、新撰組を大きくしたい俺のあざとさをあいつは見抜いていたんだ。だから療養しろと言うのも聞かず、刀を振り続けた」
土方は、額を掌で支え瞑目した。
「俺が……殺したようなもんだ」
艶やかな黒髪が垂れるのを、掠れた吐息が揺らした。
土方の奴……一人で背負おうとしているのか。
―…
「……いっつも、そうなんだからなぁ……。歳三さんは」
土方は眩しそうに双瞳を顰め、重たげに顔を上げた。
「……葦……原?」
先程まで押し黙っていた葦原が、幼子の様な微笑を湛えて話し出す。その姿は、土方にこう、思わせた。
いや……総司、なのか……?
二度目だった。
初めて局長・近藤勇に逢った時にも、葦原は沖田そのままに立ち回った。
馬鹿な……!
総司はあの夜、俺の腕の中で息を引き取ったのだ!
土方は自らの考えを振り払う。
とても演技には見えないその様子を表す言葉は一つ。
“沖田総司が憑いている”
「僕が最期まであなたの側にいたのは、“僕の”ワガママです。まったくぅ、なんでも自分のお手柄にしちゃうんだからなぁ」
最後は少し頬を膨らませて、刮目する土方の反応を愉しむように歯列を見せた。
―…
「……土方? ナニぼーっとしてんだよ?」
戻……った?
けろっとする葦原に、土方は何と問い質すか思い巡らせた。
だが葦原の行動は何なのか……確信が全く無い。
それ所が当の葦原さえ、自分の行動を知らないのではないか?
様子を窺うしかない。
“三度目”がいつなのかすら、予測も出来ないのに。
「帰るぞ、ナギ」
「……っ勝手に人の名前縮めんじゃねぇ!」
さっさと歩き出す土方に、葦原はまた必死に連いて行く。
――……
「行くぞ、ソージ」
「宗次郎ですってば!」
――……
土方が懐かしい遣り取りを心の中で重ねるのを余所に、葦原もまた、自分を“ナギ”と呼んだ親友を思い出していた。
葦原が新撰組屯所に来てから数日が過ぎ、鬼教師・山崎にとくと仕込まれた沖田の真似事も板に付いてきた。
「おはようございます! 沖田先生!」
すっかり、他の隊士の出自や性格等も覚えてしまった。
「おはようございます。……それ、と。“先生”っていうのはやめてくださいね?」
我ながらウマイ返しだな、と満足した。
山崎曰く、沖田は基本的に誰にでも、なんと敵にでさえ感じの良い笑顔と丁寧
な言葉で接するとの事。葦原に言わせれば気色悪ぃの一蹴である。
斬り合いの最中で笑顔を見せる等、“一般の剣士”には出来え無い。
“天武”の成せるその余裕は、残念ながら“一般”の葦原にとっては奇妙以外の何物でも無かった。
それにしてはあの夜の沖田はヤケに嫌味だったがな、と葦原は池田屋で初めて……そして最後に沖田に逢ったのを思い出す。
「わざわざ名乗るなんて、余裕じゃないですか」
こ憎らしい科白が聞こえたかと思った瞬間、
「もう、僕の間合いですよ」
の時にはその声が葦原の耳元で響いた。
人の善さなど微塵も感じる事は無かった。しかし沖田が嫌味だったのも、思えば当然である。
沖田の躰は労咳に侵され、普通の人間なら寝ていても辛い程だった。それが当時の労咳の末期である。
沖田には、そんな余裕は無かったのだ。笑顔で人を斬る余裕など無かった。
だが、それでさえ、あの腕である。葦原はこれから、“一般”の腕ながら余裕で、笑顔で人を斬らなければならない。それが出来なければ、沖田では無いのだ。その思いが一層、葦原を剣術へと駆り立てる。
沖田になりきる為……だけではない。葦原はこれまで真面目に稽古などした事が無かった。道場へだって、親友の翔野が入ったのにただ雛鳥のように連いていっただけなのだ。そんな葦原が次第に変わっていった。
「総司くん、今朝も早いねー」
……藤堂平助。北辰一刀流の遣い手だ。
幹部隊士の中では最も若く、沖田の二つ下……つまり葦原と同い年である。普段は若者らしく朗らかだが、隊務となると常に先陣を切って斬り込む為、“魁先生”の異名をとる。
また、津藩主藤堂和泉守の御落胤だ……との噂が囁かれている。眉唾話の様だが、藤堂の佩刀が名刀・上総之介兼重という津藩主お抱えの刀鍛冶の作である事、そして時折見せる“ご子息風”の気品が信憑性を高めている。
「おはよう、沖田くん。毎朝剣術指導ご苦労様」
……山南敬介。仙台藩脱藩で北辰一刀流免許皆伝の腕前。その上に博識で思慮深い、正に文武両道。
隊士からの信頼が厚い、もう一人の新撰組副長……“鬼の副長”に対し“仏の副長”などと呼ぶ者も居る。
その名の通り、平隊士達は彼が怒っているのを見た事が無い。だが、現新撰組幹部が江戸から浪士隊として上洛する道中、同行していた幕府の役人にひどく腹を立て、執念深く中々許さなかった……という過去もある。
やはり普段穏やかな人物に恨まれると怖いと云うのは今も昔も常識で、山南もその一人なのだ。それも、永倉が“火の玉”と称するくらいの人物なのだから相当である。
「あれっ? 左之さん! “今朝は”早いですね?」
「んっ……おぅ、非番だからちょっと出てくるわ」
……原田左之助。伊予松山藩脱藩の種田宝蔵院流槍術の遣い手。
大食らいで豪快な性格に似合わず、京でも評判の美男子である。幹部の会合中に白熱すると二言目には
「斬れ斬れ!」
と口走る、という喧嘩っ早い所がある。最下級の武士・中間だった頃、上級武士との諍いの末に
「切腹の作法も知らぬ下郎が」
と馬鹿にされ、
「それくらいやってやる」
とその場で腹を一文字にかっ捌いた。
何とか一命を取り留め、“死損ねの左之助”と渾名されるが、当の本人は記念に紋を“丸に一ツ引”に変えて今でも使っている。そして酔うとその傷を得意気に見せびらかす……などかなりの自慢にしている。
「どーもー、沖田はん」
……山崎烝。諸士調役兼監察であり、香取流棒術の遣い手。
山崎は自分の事は全くと言っていい程語らない為に葦原は知らないが、鍼医者
の息子で、第一次隊士募集の時に入隊した。
「すすむさん! おはようございます」
葦原が山崎に言われたまま沖田の真似をすると、山崎は吹き出すのを堪える仕草をする。“葦原の目”で睨み付けると、
「そうそう、俺達“知っている者”の前でも常に“沖田総司”に成りきってもらわんとな」
と、囁いた。
葦原が道場に着くと、一同一斉に“沖田総司”に挨拶をした。
その中には、永倉新八がいる。松前藩脱藩で神道無念流免許皆伝。
本名は長倉新八。幕末に活躍した志士には脱藩者が多いが、実は当時の大罪である。永倉は自分の罪が家族に及ばないよう、名を変えた。
からっとした江戸っ子で粋な上、非番の日には平隊士を連れ立って遊郭に行くという気前の良さ。そして曲がった事が嫌いで、誰にでもどんどん意見するが全くイヤミが無い、という好人物である。
「ヘバってんな! とっとと立て!」
膝を付き、ゴホゴホと咳をする隊士に剣術師範の永倉が怒鳴る。
隊内の稽古の激しさは半端では無い。大素振り、跳躍早素振り、技の鍛錬、集団戦の訓練、係り稽古、試合、居合い……。錚々たる内容を、とことん実戦を想定して休憩をほとんど入れずに行う。
「総司くん! 斎藤と試合の手本を見せてよ!」
「はぁーい」
「……承知」
永倉が市中に出ている間に、遅めの稽古に入った藤堂が浮き浮きと言ったので、平隊士達は面を外し、稽古中だと忘れてしまう程の“催し物”に、並んで正座した。
両者、竹刀を手に一定の距離で離れる。そして道場に引かれた白線から一歩、
内側に入った。互いに目を合わせ、一礼。
マジ目付き悪ィなコイツ。
葦原は気持ち睨み返したい所だが、俺は沖田だと自分に言い聞かせて、穏やかな顔を何とか保つ。
そのスカした面を崩してやる。
心意気だけは喧嘩腰で、互いの付く位置を示す白線に三歩で近付いた。抜刀する姿勢をとり、蹲踞。
「藤堂さんもお人が悪い。隊内随一の剣客二人を勝負させて、“魁先生”は高見の見物……いやいや審判とは」
この時にはもう、冗談粧しながらもその勝負に期待する林信太郎達の騒めき声も耳に入らない程に、集中している。
「始め!」
藤堂の真面目ぶった声が朝の道場に響いた。
何考えとるんや! あんッの阿呆!
山崎の頭に浮かぶのは葦原のへらへら顔だった。
「はあ? 沖田はんと斎藤はんが試合ぃ?」
「ええ。山崎さんも見に行きませんか?」
似なくていいところまで似てはるわ。
顔どころか、あまり深く物事を考えないところまで。
沖田信者の隊士の前ではとても口に出来ない事を思いつつ、早足で道場に向かう。
葦原も剣の腕は上がってきてはいるが、沖田とは太刀筋が全然違う。
考え無しに突っ込んでいく……という性格そのままの剣を振るう葦原と、普段は穏やかな優しさを纏っているが、剣に関しては更に緻密に計算を重ね、素早い動きで残酷なまでに相手を弄ぶ沖田。
斎藤程の剣客が立ち合えば、気付かれる。
まさか沖田が死んで、長州藩士が演じている……とまでは思わないだろうが。
だが確実に、別人だとは解るだろう。
やめさせなあかん!
危機迫る山崎が道場の扉を開けた時には、二人は鍔迫り合いの格好となっていた。
山崎の心配を余所に、葦原は斎藤の絶妙な……まるで名門道場の手本そのものの剣技にいっぱいいっぱいだった。
クソッ……マジ強えッ!
鍔を押し返し、そして離れる寸暇で斎藤が耳打ちをした。
「沖田さんらしくない」
ゾクリとする様な不敵な声。
斎藤の顔を見返すと、薄く笑っていた。
真顔以外初めて見た。
そんな感傷に浸る隙も無く、左面を打たれた。
「面あり!」
藤堂が赤旗を上げると同時に、やっと山崎が白線に入って来た。
「稽古中にすんません。沖田はん、副長が呼んではります」
葦原と山崎は逃げる様に、というか本当に土方の部屋に逃げていった。
その後の道場には無論、
「沖田先生が負けた!?」
というどよめきと、斎藤の……少しは嬉しそうにすればいいものを、“当然”だとでも言う様な平静な表情が残った。
あの仏頂面の斎藤はどこまで気付いたのか……それは驚異の観察眼を持つ山崎にもわからなかった。
葦原が山崎に
「こんのあほんだらが!」
などとドスの利いたインチキ関西弁で怒鳴られながら土方の部屋に入ると、意外な言葉に迎えられた。
「良い所に来たな」
「どないしました?」
すると山崎は一気に“新撰組監察・山崎烝”の仕事の顔になる。
こんの猫っ被りが、と葦原は悪態付く。この男らしく、やはり心の中だけで。
「長州が挙兵するぞ」
へらへらしていた頭の中に急遽、現実が突き付けられた。
そうだ……俺は長州の人間だったんだ。
産んでくれた親、育ててくれた親、導いてくれた師、そして仲間。
何にも代えられない……人生に置いて最も大切な全てを裏切り、俺はここへ来た。
それが意味するのは、“故郷”と対峙することなのだと。
そんなことなど、必死に稽古する毎日に、予想を裏切る程に“イイ奴ら”な新撰組隊士との毎日に楽しいとさえ感じ始めていた葦原は、すっかり考え付きもしなかった。
そうか……“こういうこと”なんだよなぁ。
「ナギ! ボーっとすんな!」
ぼんやりとしながらも生返事をする葦原だが、その後も土方の話は耳に入ってこなかった。ただ、本格的な戦に熱の入る談合も終盤に差し掛かると急に、しかしぼんやりと空耳かというような呟きを落とした。
「……俺、戦には出ねぇ」
「は? 何言っとるんや、斬り込み隊長が」
厭きれ気味の山崎の尤もな科白を、溜息混じりに土方が制する。
「放って置け」
その、優しさなのか諦めなのか……見限ったのか、微妙な言葉を背に受けながら葦原は障子を閉めた。いつものような勢いは無く、音だけはお茶会かとでもツッコミたくなるような、お上品振り漂う閉め方で。
ここから、少し前の歴史に遡る。
当時に尊王攘夷を掲げていた藩の代表と呼ばれるのに相応しい大藩・長州の内では、考え方が二分されていた。
尊攘派諸侯が京を去る“七卿落ち”の因となった、八・一八の政変以後「徳川家に成り代わる」との野望を秘め、朝廷と幕府を取り持つ薩摩藩国父・島津久光を始め、公武合体派大名が入れ替わるように上洛。
幕藩体制の中でも無視できる筈の無い権威を持つ朝廷の命により、現将軍・徳川家茂とその座を争った一橋慶喜、新撰組を預かる会津藩主・松平容保らの参預会議が招集された。
その大層な会議の議題は目下、「長州藩対策」だった。
長州と険悪な薩摩は、激論の中で強硬に「長州討つべし」を叫んだ。
対する長州は会津藩をも憎み、「薩賊会奸」とあしらわれた草履を履いていた程、互いに目の敵、犬猿の仲だった。
さて置き会議は、穏便に済ませようとする一橋等の論と平行線を辿り、結局解散に終わった。
議論の的・長州は会議の分解に乗じて、八・一八政変以後追放された京に再び潜入し、天皇の御心を取り戻そうと画策。
それが来島又兵衛と、吉田松蔭門下の秀才・久坂玄瑞らが煽る進発論であり、賛同しない「慎重派」の代名詞・桂小五郎、長州一の暴れ志士・高杉晋作らの自重論とで、長州は大きく割れたのだ。
しかしその中、過激尊攘派が談合を開いていた池田屋で、長州は吉田稔麿に広岡浪秀など、存命ならば後世必ずや政の中心となったであろうと惜しまれる程の人物を新選組により討ち果たされた。
若手ながらに無駄に目立っていたという葦原柳も、亡骸は見つからないが斬られてしまったのだろう、と悼まれていた。
まさか、仇敵・新選組の人斬り屋筆頭沖田総司に成り代わっているとは、夢にも思わない。
沖田を見たことの無い者達は皆、その剣を振るう為に生まれたような神業から、鬼の様な形相で筋骨隆々の荒くれを想像し、二人の風貌が写し取った様に似ているなど、誰も知らなかった。
葦原の余談で話が逸れたが、その後世で呼ぶ池田屋事変により長州の進発論者は憤慨し、遂に軍を結集し入京。
会津、桑名、薩摩諸藩の兵を集め応戦する幕府に、この新選組も呼ばれた。
重装備で揚々と初の本格的な戦に加わる新選組隊士に、葦原は本当に置いて行かれてしまった。
故郷の敵軍一の実戦部隊・新選組の屯所で、不毛の留守番だ。
戦はもう、始まっている。どちら側のものともわからない大砲の音が響いていた。
俺は……どうしたいんだ?
そう、それが一番の問題だ。
あの池田屋の夜までは、親友の翔野の後を追うだけだった。
正しいのかどうかも知らず、ただなんとなく。
アイツがいない今。
道を示してくれる奴はいない。
俺が、自分で選ぶんだ。
このまま……新選組の沖田として生きるのか。
それなら故郷も俺の人生も捨てて、専念するべきだ。
こんな戦の時には、迷い無く長州兵を斬れる程の信念を以て。
それとも長州の葦原に戻り、間者として死ぬのか。
沖田の振りを辞めれば、どんなに逃げても山崎に見つけられ、斬られるだろう。
そう解っていても、俺の人生を貫くのか……。
邸外で繰り広げられる戦いを余所に柄にもなく黄昏ていた葦原は、耳を突き 裂く様な何人もの人間の悲鳴で現実に引き戻された。
机に付いていた肘が、ガクンと落ちた。反射的にパッと周囲を見回すが、ここ、八木家の人々はとうに京市外の親戚の所に行って誰も居ない。外からの声だ。
一応、武士の癖として刀を引っ掴み、外に飛び出した。
「うぉあ……っ!」
遠く向こうは大火事だった。空が真っ赤に怒っている。その方角に一目散に駆け出した。
近付くに連れ、目の前に地獄絵図が広がる。優雅で壮麗な京の町が、無惨にも炎に包まれていた。
逃げ惑う市民の波を掻き分けて、戦場へと進む。
だがそこで、一人の女の頭上に向かって燃えた家の梁が崩れ落ちるのが目に飛び込んできた。
「……危ねぇ!」
すかさず葦原は女を突き飛ばした。
「大丈夫か……!?」
普通にカッコいい風情の葦原だが、途端、額を押さえながらゆっくりと身を起こす横顔の女に目を奪われた。
清らかな艶の漆黒の結い髪が乱れて、真雪程の白い肌に掛かる。唇が、牡丹を咲かせたように赤い。
「ありがとう……ございます……」
その声は鈴がコロコロと鳴るように愛らしい。
目を……というよりも、心を奪われた。
そんな葦原の心を知らず、黒真珠の瞳は驚きに見開かれた。
「……ナギちゃん……?」
少年の頃からの綽名を呼ばれ、ついまじまじと、正面から女の顔を見た。
「ゆい……!」
その名を呼ぶだけで、怖い程に胸が高鳴る。
唯希。
山崎が調べ上げた葦原情報に登場する初恋の女“ゆいちゃん”だ。
人間は生涯一度、永遠に忘れられない恋をするという。
故郷を離れ、会えなくなって気が付いた。
その相手に、まだ自我が芽生えたばかりの幼少に出逢うなんて。
この幼なじみ以来、本気の恋愛なんて出来ずにいた。
人間とは一番愛した人とは結ばれない悲しいイキモノだ……という世間の常識が身に沁みていた頃だった。
不意に、二人は再会を果たした。
「ナギちゃん……生きちょったんだね……っ!」
零れそうな大きな瞳を、涙の膜が覆う。
蝶が孵ったように美しく成長したかと思いきや、中身はあの頃の、どこか子どもっぽさが残る“ゆいちゃん”だ。
尤も葦原も唯希と離れてから、心に居る忘れ得ぬ女を恋しがってか、中身の成長を止めていたような男なので丁度良い。
「池田屋に居たっちゅうからてっきり……」
きゅっと葦原の両手を両手で握る。
握手の習慣が無い当時、これは再会の挨拶とは言えない。
抱き合える仲ではない二人ができる、唯一つの、互いの体温を確かめる行為だった。
「お前どうしてここに?」
幼なじみの変わらない内面に安心したのか、いつもの調子を取り戻して訊いた。
すると透き通る白さの頬がパッと朱に染まる。
「父が……仕事で京に上るけぇ付いて来たの」
俯きながら答える様子は、鈍感な葦原から見ても何となく、嘘なのかと疑わせる。
女は嘘を吐く時に相手の目を捉える……と言うから、騙そうとしてのことではないのだろうなと、それ以上葦原は追求しなかった。
事実小さい時から唯希は、医者である父の手伝いをしていた。
「突っ立ってんな!」
薄い背中に逃げ走る市民が当たると、唯希は葦原の胸に、高く短い声を上げて倒れ込んだ。
「ナギちゃ……ごめ……」
「いや。早く行くぞ」
パッと離れようと伸ばしたその手を取り、戦火から逃れた。
国も政も戦争も、新選組も、生まれ育った故郷さえ忘れ、ただ腕の幼なじみの無事だけは守りたかった。
遠く忘れかけていた感情。
一目触れた刹那でどうしようも無く、この底の無い淵に足を踏み入れていた。
「ここなの!」
洛外に住んでいるという唯希の家まで歩いていると、彼女は広い庭と診療室らしき白い建物が付いた大きな邸を指さし、さっと駆けていった。
「唯希! いけんじゃないか、こねーな時に外に出ては……」
「お父様聞いて! ナギちゃんがっ」
息を切らして嬉しそうに振り向くと、そこにはもう、葦原の姿は無かった。
「ナギがどうしたんじゃ? まさか、生きちょったのか?」
「……ううんっ! 人違いだったみたい」
理由なんて全くわからなくても、自分の存在を知られたくないんだと理解した。
ナギちゃんが生きていた……!
それだけで、人生に光が射し込んだ。
辛さが救われた。
打ち明けられることはきっと無いけれど。
ねぇ、ナギちゃん……。
わたし、あなたに逢う為に、京に来たの。
子どもの頃に戻ったみたいに笑い合って。
懐かしい話をしてみたり。
「あなたが好き」
と、あの瞳を見つめたかった。
でも、逢いたい理由は歪み、脆く消えて。
“最後のお別れを言う為”に変わっていた。
何も無かったかのように配置に加わった所を、隊士達に迎えられる。
「総―司―! 来て大丈夫なのか?」
「ええ。遅れてすみません」
前列で指揮を執っていた土方が心底意外そうに目を見張り、なんと側まで来て息を殺した。
「ナギ、もう帰って来ねぇかと思ったぜ」
「何言うんです? ……僕は、総司ですよ」
一瞬“三度目”が来たかと。
そう、期待とも危惧ともわからないものが頭を過った。
しかしその瞳は“葦原柳”のものだった。演技かと含み笑うと、土方はさっさと戻っていった。それとは入れ違いで、隣にはいつの間にか斎藤がふらりと立っていた。
「……ぅわあっ! なっなんですかっ?」
面白いくらい驚く相手に顔色も変えず、ボソリと呟いた。
「随分雰囲気が変わったものだな。俺一人ぐらいには正体を見せたらどうだ?」
「何の事だかさっぱりわかりませんねぇ」
斎藤は、この男は沖田総司と別人では……という所まで気付いているようだ。
「マグレで勝ったからって、そんな喜々としなくったって良いでしょう?」
などと口調はあくまで沖田のまま、自分では絶対言わない科白を演じながら、内心は不安だった。
「やぁっと来よったぁ」
次々と声を掛けに来る最後は山崎だ。
そのいつものニヤケ顔に、ボソリと宣言した。
「今日から本気でやってやるよ。……俺は……沖田総司として生きる……!」
「……! ……ほんなら“葦原”と話すんはこれで仕舞やな。」
決心の言葉に慣れぬ驚きに目を見開いたが、すぐに上目でニヤリと答えた。
「たりめぇだ。わかったらさっさと持ち場に戻れよ」
あの時に唯希を選ばなかったからには、それだけの事をやってやる。そう、葦原は前髪を掻き上げた。
「へえ。失礼しますぅ、沖田隊長」
平隊士の集団に……勿論戦闘中なので隊列を組んでの事だが、声を掛けると一斉に居住まいを更に正した。
「すみませぇん。あのぉ、今どういった状況なんですかぁ?」
「……っあ! 沖田隊長! お疲れ様です!」
「いえいえ。お疲れなのはあなた達でしょう? 僕は今来たばっかりなんですよぉ。どっちが優勢なんですかねぇ?」
本物の沖田が、恐らく無意識に築いた平隊士からの絶大な支持を顕著に表す尊敬と憧れの眼差しを向けながら、一人が応えた。
「それがまだ……堺町御門での戦いには我らも参戦したのですが、既に長州勢は撤退していて、新撰組にはこれといった活躍は……」
流石、副長土方指揮の下で扱かれている連中だ。
全体の戦況、ましてや政治情勢などには関心無く、只己等の手柄を欲している。屯所に引き籠もっていた葦原に言えた事でも無いが、厭きれ顔を隠せない。そこで別の隊士が遠慮がちに口を挟んだ。
「でもその戦いで、あの久坂玄端が切腹しました」
久坂先生が……!?
大いに動揺したが、すぐに落ち着かせた。
俺は……沖田総司だ……!
さらに新参にしては意外と詳しい隊士が、得意げに付け加える。
「ついに、長州は“朝敵”ですよ」
「……なっなんで……っ」
周りも、葦原自身さえ気付かない間に握っていた拳が震えた。その驚き様を感心していると見ると隊士は、残酷にも揚々と応えた。
「中立売御門を突破した長州勢が、蛤御門で会津・薩摩藩と戦ったのです。かなり激しい戦闘で、長州の奴らの撃った砲弾が、なんと御所の中にも飛んだんです。御所に向けて撃ったのですから、これで長州は終わりですよ!」
地の底から抜けて、足下が真っ暗闇になった。葦原が着替えた衣の名は“裏切り者”で、捨てた故郷が重ねた衣は“賊軍”だった。
「本当に……もうダメですね……」
自分の口……もしかすると、沖田の口をついて出る言葉が、憎かった。
「あ……っ隊列が動きましたよ!」
……どこへ向かうのか……。
新撰組が。
自分が。
……故郷が。
いや単に、今この隊列が。
明らかにする為に葦原は、先頭で指揮を執る土方の元へ走った。
「土方さん!」
「おお、総司」
この男と話していると時々葦原は、コイツは俺が葦原だという事を忘れているのではないかと錯覚をした。
それ程に、この冷血に見られ勝ちな風情の男の葦原を見る目は、哀しくなるくらいに、幼い頃から知っている弟のような存在に向ける眼差しだった。ただ土方らしいのは、下手をすれば女にも、誰にも見せないであろう光を瞳に宿しながら、口から出るのは憎まれ口だと言うことだ。
「テメェいつまでほっつき歩いてやがる。天王山だ。俺の隊に加われ」
素直になれない性分なのだ、と“懐かしく”微笑む。
“相変わらず”
「天王山っ! 太閤殿下の合戦場ですね!」
来た……! 三度目だ。
何もこんな時にとの思い反面、土方の胸に込み上げるのは郷愁にも似た深い感傷だった。
しかしそれは束の間消える。
今度いつ遇えるかも、わかる事は無い。
確かめてはいないのに、土方は既に信じていた。
葦原の身に、一時的に“沖田総司”の魂が宿る。
「どうしました? 土方さん」
言葉遣いは懸命に似せて沖田そのものだが、この様な演技とは明らかに違う。
「さっき、何て言った?」
「へ? 何も……」
そう、葦原本人が全く憶えていないのだ。
「山麓を守るのでしょう?」
くるりとした瞳で訊ねてもその奥は、
「んだよ気持ち悪ぃ」
と怪訝の色を湛えている。
全部で三度だ。
何がキッカケで入れ替わるんだ?
それとも総司のことだ、単に気まぐれか?
何より総司……お前、何が未練なんだ。
向こうには、お前が空蝉の心で焦がれ続けた両親が居ただろうに。
やっぱ怒ってんのか。
代役なんて立てたこと。
……! まさか……。
まさか総司……。
「先生達の隊はもう動いちゃいましたよ、土方さんっ」
総司……この葦原に成り代わるつもりか……?
「ちょっ……ホントに早く行かないとっ」
……バカか俺は……芝居の観過ぎだ。
土方は自分の考えを振り切り長く垂れた髪を翻すと、やっと指揮を始めた。
次は必ず、“総司本人”に訊いてやる。
だがもし、万が一にも総司が“そのつもり”なら……俺は止めるのか……それとも。
目指すは天王山。
局長が率いる隊と挟み撃ちにする作戦だ。
葦原……沖田等の土方隊は山麓から攻め登った。
一方天王山に追いやられた長州勢は、侍大将の一人・真木和泉の決意に心を震わせた。この天王山で、討ち死にを果たすと。
そして残らない者は馬関へ落ち、再生の時機を狙えと……帰国もまた決心だと一同に促す。その言葉に多くの壮士が運命を共にと居残るが、真木の考え通り、奮戦した他の三大将・宍戸備後、国司信濃、益田右衛門介の率いる藩兵は長州路へと落ち、戦場の軍勢は二十人。
敗北は目に見えて明らかだった。
轟音を上げて大砲が放たれる。
余裕たっぷりで開戦を挑む、新撰組は容赦しない。次々と山上目指して進軍した。
すると目の前には、真木和泉率いる長州藩兵がズラリと待ち構えていた。
当然、葦原の知った顔も混ざっている。思わず葦原は、自らの姿を隊列に隠した。
真木は名乗りの大音声を響かせた。まるで戦国の世の合戦を、この目で見るかの様だ。
近藤も全く劣らぬ武士らしさで、
「それがしは、新撰組局長・近藤勇!」
と大口を開く。
一斉の鬨の声を合図に、鉄砲を用いての文字通り大合戦となった。
しかし勝敗の決するのに多くの時間はかからない。
「退けぇー!」
真木の声に長州勢は直ちに陣小屋へ駆け込み、殆ど同時に火を放った。
「馬鹿っ! 総司危ねぇ!」
引き寄せられるかの様にふらりと足を動かした葦原の呆然とした腕が、土方に掴まれ正気に戻る。
眼の内の、今出来たばかりとは見えない血筋の走った痛々しさと、子どものそれのように人目を憚らず零れ落ちる何粒もの滴が、土方を捉えた。
コイツ、涙流しながら戦ってたのか。
葦原は籠手を外し、腫れた目元を隠す。
「戦場は埃っぽくていけないですね」
訊かれる前に言い訳を呟く、そんな細かな内面までよく似通っている、と土方はふと思い出した。
一方、炎上する小屋の中で長州兵は辞世を吟じ、切腹して果てていく。
「なんと見事な最期だ」
近藤は、頻りに感動していた。
その後、黒焦げの屍を丁重に埋葬し、新撰組隊士は壬生の屯所への帰路に着いた。
まだまだ夏の気だるさが残る昼下がり、葦原は山崎の袖をはっしと掴んで半ば誘拐の格好を取った
「山崎っ! ちょっと来い!」。
連れ去った先は、今は葦原が使っている沖田の部屋だ。
「なんや、葦原と話すんはアレが最後や無かったんかい」
掴まれていたクシャクシャになった袖をパンパン伸ばしながら、山崎が溜息を吐いた。
「それ所じゃねぇんだよ! バレちまってる! 斎藤に!」
「はぁあ!?」
葦原は物凄い形相に怯みながら、本当はかなり決定的なのに
「いや……ちょーっと疑われてるくらい……」
と、誤魔化しを計る。
「なっ何があったんや!?」
やっぱり、というか山崎にはそれは効かず、葦原は例の道場試合で感付かれたらしく斎藤に鎌を掛けられて否定もせずに寧ろ挑発した、という経緯をバカ正直に科白付きで打ち明けた。
「ああーもうめんどくさぁ……殺ってまうか……」
「どっちを?!」
「冗談や。さて、どないしょー」
自分か斎藤を暗殺する気かと大目大口でビビる葦原を視界の隅に入れつつ、
山崎は腕組みをした。
しばらくして
「よし」
と少しオヤジ臭くペチンと膝を叩いた。
「アレやな。ここは定番、“相手の弱みも握ってまえ作戦”で行こ」
「奴に弱みなんてあんのかよ」
ふためく様を、山崎は睨み付ける。
「それを探るんがお前の仕事や。叩いて埃の上がらん奴はおらんて。ほな、いってらっしゃーい!」
つまりテメェのケツはテメェで拭け、ド素人だろうがまずは自分で尾行でもなんでもやってみろということだ。
しかし予想通り、葦原のほぼ元々共に連れ立っているかのような尾行はすぐにバレ、失敗に終わる。
「俺の勝ちが“まぐれ”かどうか、試してみるか?」
端から冷ややかに喧嘩腰の斎藤を前に早々に退散した。
「はぁ!? フザケんな!」
またもバカ正直に尾行に気付かれたことを山崎に話すと、案の定激怒された。
「……しょうがねぇだろ……」
「お前なんかにさせた俺もあかんかった」
逆ギレ仕掛ける葦原を無視し、山崎は立ち上がった。
「俺が行くわ」
常に冷静で無駄を嫌い他人との過剰な接触を拒む。
小野派一刀流皆伝で居合い抜きの達人。故郷で過って人を殺してしまい、浪士組には遅れて参加。
だがこの経歴に証人はいない。
「隊長! 三番隊、揃いました!」
「……出動」
こない調べ甲斐のあるんわ久し振りや。
山崎は一流の監察としての腕が鳴る感触を味わいながら、お庭番も手本にしたいような神業の尾行に精を出した。
「死番」
「……は、はい!」
浪士潜伏が見込まれるあばら家の前で覚悟を決める死番に対して、顔色一つ変えずに扉を開けて斬り込めとの意で斎藤は指示をする。
今日は運が悪かった。
扉を開けた瞬間待ち受けていた浪人に腹部を突かれた死番は、刀を抱え込むように前屈みに蹲る。
しかし浪人も迂闊だった。恐らく実戦慣れはしていないのだろう。
突き技をしたら直ぐに刀を引かなければ肉が食い込み、刀は抜けなくなる余程の、かの沖田総司並の手練でなければ遣わない“死に技”である。案の定慌てた浪人は斎藤に斬られるが、中には更に数名が構えている。
口汚く罵るのを耳に入れながらの乱闘を、山崎は高見の見物と決め込んだ。
「……クソッ……! ……どうして……どうしてアイツが……っ!」
大乱闘に当たり前のように勝利した後だが、三番隊隊士達は深い悲しみと後悔のやるせなさに、身を捩らせていた。
その眼下には腹に刀を突き刺したまま横たわる、かつての仲間が居る。
断末魔の表情は苦悶。
新撰組に入れば……武士として生きるならば、死に場所は戦いの中で潔くと本気で望む。そういう教育を、頭の先から叩き込まれている。しかし本気で割り切れるかと問われたら……それができたなら、機械仕掛けの殺戮人形だ。
手馴れた作業を熟す程の軽い仕草で斎藤が屍の横に片膝を付き、刀をズッと一気に抜く。
うわー……すごい力やな。
その離れ技に本当に見ているだけで何もしない山崎が唯一、密かに感心した。
「……後は任せた」
あちゃー……。
山崎の懸念通り帰路へと背を向ける斎藤に、一人の隊士が食ってかかる。
「隊長待って下さい! ……何か……何か言うことは無いんですか!?」
周りには
「おいっ止せ!」
と口々に押さえる隊士ばかりだが、心境は全員一致だろう。
「……後ろを振り返るな」
いい格言やけど今はそれあかんやろ。
まんまと軽くずっ転ける山崎の、予想外の言動に隊士は出る。
「……死番なんてあるからいけないんですよ! ……俺が隊長だったら……アイツを……誰も死なせない!」
「バカ! ヤメろ!」
死んだ隊士と同期入隊の新参だった。目に涙を溜めていた者達も、誰の所為とは思っていない。その言葉を浴びながら、斎藤はなおも歩みを進めていった。
張り裂ける叫び声の中、突如現れた人物は脇差しを納めた。
「……や! 山崎さん!」
大木の上からフワリと落ちてきたその者は、さっきまで元気に斎藤を罵っていた隊士を正面から斬りつけた。
一同、これがあの内部粛正かと顔を見合わせる。
「阿呆。死なへん。……このガキ、背中にしか傷が無かったやろ。切腹になるで」
あっと息を飲む顔をふと笑い、山崎は斎藤を追った。
「憎まれ役は副長はんに任せとったらええんやないですか?」
「……山崎……私の心の臓を止める気か?」
突如現れた山崎の背後からの気配に、意外にも斎藤は驚いたらしい。憎々しさを込めてゆっくりと振り返る。
「そんなぁ! 会津藩士殿に向かって滅相もないことですわ」
その視線の先には、ニヤリと唇を傾ける山崎がいる。
「……何のことだ」
決定的な場面を捉えた訳では無いが、かなり前からそう睨んでいた。
斎藤に倣い、鎌を掛けたのだ。
「……。これは“お返事”と思てもええんですか?」
ふぅと小さく息を吐き、山崎は上目を上げた。
二人の間には視線ではない、本当の火花が散った後。
斎藤が突然抜き放ったのだ。
だが、山崎にとってそれは突然ではなかった。
当たり前にその一撃を予測していた山崎は、余裕を持って脇差しで受け止めた。尤も予測できていなければ……できる山崎でなければ、何せ新撰組屈指の居合い抜きの達人だ、呆気なく胴体は二つに分かれていただろう。
斎藤にしては、信じ難いくらいの失態だった。軽く受け流せばいいものを、殺る気満々の勢いで斬りかかってしまった。
相手が悪かった。監察としての鋭い腕前を知る“仲間”だからこそ、その一言は調べ尽くした上での確信に満ちたものだと錯覚をしたのだ。まさか、引っかけられたとは思わない。
ギリリと一旦刀に力を込めると、急にスッと鞘に納めた。
「何故……それを?」
って、うわ! ホンマやったんかい!
その心境を全く表に出さず、山崎は重々しく応えた。
「巧い化けっぷりやと思いますけど……まぁ、反面隙が無さ過ぎですわ」
山崎も脇差しをパチンと軽く音を立てて納めた。
「せやから。俺みたいな輩に疑われてまう」
真面目ぶった顔を意図的にニヤ付かせると、斎藤は不気味さに引き吊った。
「会津様に何を言われてるんか……だいたい予想は付きますわ。どないです? 新撰組はええとこですやろ?」
かなり山崎の波長に巻き込まれかけるが、斎藤も負けてはいられない。何とか反撃に出たいところだ。
「“沖田総司”は、どうしたのだ?」
斎藤は起死回生の一撃を放つ。
“ホンモノ”はどうしたのか。
あの“ニセモノ”は誰なのか。
斎藤にしても、山崎が動いたことで自分の疑いが正しいと確信しながら、尚更新しい疑問が深まる。
「そっれは言わないお約束ですやん!」
そんな科白で煙に巻こうとしても、やはり斎藤は動じない。
「詳しく話すなら、協力しないでもないが」
まるで狐の化かし合いだ。両者一歩も譲らずよく考えれば条件は同じなのにも関わらず、少しでも優位に立とうとする。
「すんませんけど、簡単には明かせませんわ」
山崎は僅かに楽し気に……いや、半分くらいは喜々としながら歯を見せる。
「何せ、黒幕は……」
『………』
山崎が斎藤の背後の人物に絶句し、斉藤が言葉の続きを期待して待っている無言の間が揃った。
あの娘ぉは……!
山崎が目を剥くと斎藤も振り返る。
そこには、カラコロとぽっくりを響かせる小柄な女が居た。
唯希だ。
“ゆいちゃん”やないか!?
葦原を調べ尽くした山崎は、当然唯希の顔を知っていた。それでもまさか京に来ているとは知らなかった。
何しに来たんや!?
山崎とつられて斎藤まで唯希を見つめると、下を向いて歩いていた唯希も二人に気が付いた。
次の瞬間、唯希は振り返り駆け出した。
……逃げた!?
その理由として思い付くのは一点。斎藤が、隊服を着ている。
しばらくその背中を見つめていた山崎に斎藤が声を掛けようとするが、山崎はひたひたと歩き始めた。
「すんません……この話はまた今度」
足の速さの差ではすぐに追い付けた山崎だが、わざと人が居ない所で唯希の腕を掴んだ。
「きゃあぁぁあ!」
「ぅわっ!」
耳にキーンとくるような叫び声を上げられ、山崎は苦笑いした。
「ちょっ……堪忍してやー……まるで変態やないかぁ」
「何なんですかっ! あなた!」
腕を振り解こうともがきながら涙目になる唯希を見て山崎は、こういうワタワタしたところが葦原に似てるなと思った。
「つれないやないかぁ……俺はあんたを知ってるで? ゆいちゃん」
目を見開く唯希にさらに告げる。
「葦原柳もな」
「なんで……っ」
「せやから企業秘密ですってー」
何度も何人にも同じ科白を言ってきた山崎は、初めて会う唯希にまで喜々として言った。
「あー……でも何で逃げたんか話してくれるんやったら、教えたってもええですよ?」
黙り込む唯希を眺めると、逆にその大きな瞳に見入ってしまいそうになる。
天然の“悪女”はんやなこの娘。
山崎は、そう賛美した。
男を不幸にして、こんなつもりではなかったと泣くんや、きっと。
「ご存じかもしれませんが……わたしは、長州の者です。あの池田屋で、たくさんの知人が命を落としました。新撰組の方を見て反射的に逃げたのがお気に障ったのでしたら、謝ります」
物怖じせずに真っ直ぐと挑戦的な瞳で、唯希は語った。山崎も負けてはいられない。
「そら、追っかけたりしてもうて、こっちこそすんません。ただ、一つ聞きとうて……」
「なんでしょう?」
と、無言で唯希は小首を傾いだ。
「葦原柳……生きとるらしいんやけど……知りまへんか?」
「……知りません」
……残念……ハズレや、ゆいちゃん。
そこは
「えっ! 本当ですか?」
とか喜ばなアカンとこや。
それやったら、
「知ってます。会いました」
て言っとるようなもんや。
さっき逃げたんも、俺に聞かれるんやないか思とったからやろ?
やっぱ……会っとったんか……。
「そうでっかー? わかりましたっほな、さいならー」
山崎は、後ろ手で手を振った。
なーんで俺のカンてこない当たってまうんやろ。
次はあっちを問い詰める番や、とワクワクしながら屯所に帰った。
ナギちゃん……!
新撰組の人に……っ生きちょるって疑われちょるよ!
きっと、長州藩士と見たら斬るような人達なんじゃ。
ナギちゃんに知らせにゃあ。
見つかったらどうなるか……考えとうないよ!
唯希は葦原を捜した。
あの日なぜ葦原が姿を消したのかも、本当はずっと訊きたかった。
新撰組屯所内の道場では、珍しく時間の空いた土方といつも暇さえあればバカの一つ覚えの葦原が秘密の特訓をしていた。
「うわっ! 待っ! ぐぁ!」
「お前なぁ……やる気あんのか?」
葦原は三撃連続で打ち込まれ、壁まで追い込まれた。
「いっ? ……てぇー……」
葦原は、目を押さえながら軽く屈んだ。
「どうした?」
「や、なんか目に入った……」
「総司……! 擦るな!」
何やっとんのやあの二人?
土方が葦原を覗き込む後ろ姿を、山崎は何とも言えない角度で目撃した。
いやーヤッバイもん見たわぁー。
見なかった振りをして立ち去ろうとした自分を、……じゃのうて……とツッコミ、山崎はあらゆる意味で勇気を出して道場に入った。
「お二人さーん、仲良う稽古中ですかー?」
山崎が意を決して道場に入ると、二人は一斉にそちらを向いた。
「あっ! 山崎ー! コイツ、ササクレ立った竹刀遣うんだぜー! 超卑怯!」
「ああ! お前なんかにそんな手口遣うか!」
なんや、むっちゃ機嫌ええやんか二人とも。こら、そろそろ言っとかんとアカンか。お楽しみはオアズケやな。
山崎は真面目な顔を作って、土方の方を向いた。
「副長。お話が」
土方はその様に、仕事の話とまんまと騙された。
ある意味、間違ってはいないが。
「どうした山崎、伊東の正体が掴めたか」
伊東大蔵。
局長が永倉、藤堂らと松前藩主に面会。
長州征伐の為、将軍・徳川家茂公上洛の要請と隊士の補充が目的だった。その後近藤は、藤堂と親交の深い北辰一刀流道場主・伊東大蔵と出会う。
藤堂の思惑通り二人は意気投合し、異例の好待遇で伊東は入隊、じきに上洛する。同い年のその男を胡散臭がる土方の命で、山崎は身辺を調べていたのだ。
「大体、無駄に学のある野郎にろくな奴はいねぇんだ」
と、土方は天井を睨み付けた。
「なんや、むっちゃ男前らしいですしねぇ」
わざわざにこやかな視線を送ると、土方はその睨み付けを山崎に向けた。
「もちろん大方調べは付いてますけど、それよか重大な問題があるんですわ」
山崎にも、土方にでさえ、その新しい隊士が引き金となるとは予知しなかった。
新撰組を暗く追い詰める日々の、引き金になるとは。
「何だ?」
「こないなことは言いたくないんですけど……」
心にも無い前置きをしてから、山崎は言った。
「副長……“あれ”は“沖田総司”じゃありまへんで」
二人の視線が交錯した。
土方は睨み付けのままで、その上やや憮然として言った。
「……そのつもりだが?」
「それがどぉも、そうは見えへんのですわ」
口火を切ると、山崎は土方に入り込ませる余地を与えず鋭い眼光に怯むことなく、続け様に演説した。
「最初っから思っとったんですけど。副長の葦原への眼差しが沖田先生へのそれと同じに見えるんですわ。……まぁ、態度も全部ですけど。さっきかて、目ぇに塵が入ったぐらいであないに慌てて。咄嗟に“総司”て呼んではり
ましたよね?」
「……馬鹿馬鹿しい。考え過ぎだ……つか山崎は、あいつを疑ってんのか?」
土方は僅かに視線を外して、文机の上の帳面に目を落とした。
「……どうですやろ。ただ、信じ過ぎるのもあかんと思いますよ?」
山崎は何となくその帳面を伺いながら言った。彼からは見えないが、それには何も書かれていない。
土方の“どうでもいい”という態度の、これ見よがしの表し方だった。
加えて動揺があった。
本当に、区別が付いているのか。
その眼差しに、声音に。
惑わされているのかもしれない。
区別が付いているのか。
自分の態度は。
「心配いらねぇ……あいつが間者にでもなったら、死ぬ」
山崎が
「は?」
という表情をすると、土方は続けた。
「あいつの中の“総司”が、あいつを殺す。」
山崎は輪をかけて意味が分からない、という状態だ。
「お前といる時は出てこねぇのか……」
「……なんのことですか?」
「葦原に……総司が取り憑いてる」
山崎は秋になりかけの今、時季外れな怪談話に身震いがした。外では夏の名残を惜しむ蝉の最後の声。
「……ははっ冗談キツいですわ」
冗談であってほしいと願うのは、沖田総司が葦原に取り憑いていると言う眉唾話よりむしろ、そんな話を真面目な顔でする土方への気持ちだった。
「俺が冗談を言うと思うか?」
土方が何も書かれていない帳面から目を離す。視界には、やっと山崎が入った。まるで“狂った人間”を見る様子の山崎が。
気ぃでも違ったんか?
目の前の上司について、こんな感情は初めてだった。
そこまで辛かったんか……あの人の死は。
次には哀れにも思えてくる。
「信じねぇなら、いい」
第一自分でさえ、証拠も無いのに何故そう思い込むか不思議なくらいだ、と自嘲気味に確認した。
「何なら調べてみましょうか?」
あなたの狂気が晴れるのなら。
そんな“モノ”は居ないと、証明して差し上げますよ。
山崎は一礼すると、忙しそうに出て行った。事実、最近の山崎は“趣味”に忙しかった。
一方道場では、葦原や斎藤一らが師範を務めての稽古が行われていた。真面目に鍛錬に励む様に見える隊士達は、隙有らば噂話に精を出していた。その内容は斎藤と沖田……つまり葦原のどちらが強いのか、であった。
意見はほぼ半数に分かれた。
だが先日の試合で斎藤が一本取ったので今までの定説を覆し、実は斎藤が隊内で一番の腕なのではと囁かれることが多い。
正に知らぬが仏の葦原だが、こうなっては形無しだ。
「もう一回見たいよなぁ、お二人の試合」
口々に噂すると、それを目掛けて斎藤が厳かに睨みを利かせる。
「そこ、素振り五百本。係り稽古」
顔色も変えずに猛稽古を告げられるとその一団は文句を言える筈もなく、始める前からげっそりとした雰囲気になった。
「あららぁ……怒られちゃいましたねぇ」
沖田風情の葦原は助け船も出さず、ケラケラ笑っている。
どちらが強いかと同時に、どちらが怖いかも話題にならずとも隊士は測っていた。
「おっ! やっとりますねぇー」
「ススムさん、こんにちはぁ」
山崎が道場に入ると大抵葦原はすぐに寄って来る。なんだかんだ言いながら懐いているのかもしれない。
「山崎、稽古して行くか?」
と、斎藤までが声を掛ける。
だが彼の場合機嫌や愛想がいい訳では無く、ただ山崎に少しでも接近し何とか“ニセ沖田”の正体を掴もうとしているのが見え見えだ。
なんやモテモテやな、と苦笑いしながら山崎は片手を振った。
「いやぁ、遠慮しときますわ。ちょっと沖田センセにお話があるんですけど……ええですか?」
との台詞に葦原は
「俺またなんかやったか?」
という“ヤバい感”漂う顔つきになり、斎藤は普段滅多に表情に出さないのにこの時ばかりは
「気になる!」
と顔に書いてあるかのようだった。
そんな斎藤を、山崎は半ば嬉々として置いて道場を出た。
「お前いっつも俺が稽古中に邪魔しに来るよな」
「いや、あんたがしょっちゅうアホの一つ覚えに稽古しとるからやろ」
我慢しきれず山崎は、真っ先に本題に入った。
「ゆいちゃんて……めちゃかわええ娘ぉやなぁ?」
稽古で火照った躰に水分補給をさせていた葦原の反応を、山崎は口に含んだ水を勢いよく吹き出すのではと期待していたが大いに裏切られた。
吹き出す所か飲み込むのさえ忘れたように、固まってしまった。
そして
「ゴクン」
と喉を鳴らしてから山崎を凝視した。
「イヤやなぁ! 誰も手ぇ付けたりしまへんって!」
山崎は茶化すように葦原の肩をバンバン叩いた。葦原は、なおも固まっていた。すっかり凝固していたが、やっと口を開いた。
「……会ったのか? 唯希に」
反対に無情にも山崎は、寸分の隙も与えずに返す。
「それはこっちの科白や」
すると葦原は滅多に無いような真摯な表情を赤く紅潮させ、必死に訴えた。まるで山崎に対してではなく、他の存在にでも弁解をするように。
「偶々会っただけだ! 俺のことも沖田のことも、新撰組のことも話してねぇ! あいつは何も知らねぇんだ!」
全く介さないように山崎は瞑目した。常にフザケて、喜々と人を追い詰める調子は一切消える。
「その科白も……あんたに返すわ。……何も知らへんのはあんたや」
疑わしげに視線を送る葦原に山崎は告げた。
「あの女はやめた方がええ。……人妻や」
沈痛な面持ちの山崎を前に、冗談では無いと葦原は悟る。
それでも、嘘だと打ち消したい。
「そんなこと……あいつ一言も……っ」
もう会わないことを覚悟していた筈が、その決心が脆くも揺れ、崩れる。
これだけ動揺さしても出て来ぃへんやんか。
残酷にも“沖田総司の亡霊”とやらの出現に期待していた山崎は、やはり副長の勘違いかと、自分の考えは正しかったと確認した。
唯希が結婚を“控えている”ということはとうに調べが付いていたがまさか二人が会っていたとは知らないし、とっておきのネタとして温めていた。
こんなに早くお披露目するとは、山崎も予想し得なかった。
葦原の気持ちは余所に、それとも単に動揺させるだけではなく、何か細かい条件でもあるのかと、自分の任務で頭がいっぱいだった。
山崎が葦原を無視した隙に、葦原はもう、走り出していた。
「どこ行く気や!」
予想は付いていたがやはりその通り、
「唯希に会う」
との応えが返ってきた。
「あかん! あの女には会うなって!」
腕をひっ掴み止める山崎の行動は、道を外れた恋を追い詰める葦原を心配してでは無い。
いずれ葦原が外部の人間・唯希に自身の現状況を打ち明ける可能性。
土方の計略が露見し、あわや新撰組崩壊の危機を予測してのことだ。
その時の知謀は、鈍感な葦原でさえにわかに感じる程だった。
山崎……お前はいつも、隊務に“囚われ”過ぎだぜ。
「大丈夫ですよっ! 何も言ったりしませんからっ!」
山崎の普段は俊敏な躯が、凍り付いた様に固まった。
足が地に張り付いて動かせない。
沖田総司……!?
現実主義の山崎が、葦原の異変を前にそう感じさせられた。
まさか……! 演技やろ?
打ち消しても、変装と演技の達人だからこそわかってしまう。
目の色が……違う……。
吸い込まれそうな笑顔に山崎は思いきり恐怖した。
山崎が怯(ひる)んだ隙に、歩こうとするその背中に呼びかけた。
「……沖田先生……ですか?」
逃がさへん……。との、気迫に満ちた声が風に渇く。
「……はぁ? ……わかってる……“葦原柳”はもう捨てた」
……葦原に、戻った!?
「じゃあ、行ってくる」
こんな一瞬で戻ってしまうんか!?
山崎はもう、葦原の“中”にいる沖田の存在を信じざるを得なかった。
ただその目的が見当も付かない。
葦原を、どうしようと言うのだ。
「……なーんちゃってぇ」
駆け足の男は、ちらりと赤い舌を見せた。
屯所を出ようとする後ろ姿を土方が呼び止めた。
「総司!」
「はいはーいっと」
驚かされたのは土方だ。
総司だ……!
いつの間に切り替わったんだ?
どのくらいそのままなんだ?
葦原を心配する気も勿論あったが、沖田本人と話し葦原の躯に宿っている理由と目的を突き止める、この上ない好機だ。
「総司……お前、“ここ”で何してる」
「……」
沖田は目線だけを向けてはいるが、土方の言葉に全く応えようとしない。
こいつがこんな黙ってんの初めて見たぜ。
土方は苦笑いを返した。
「歳三さん……」
話す気は無いのかと諦めかけた土方は不意にその名を呼ばれ、懐かしさに込み上げる嬉しさに……そして哀れさに胸が一杯になった。
自らの嘲笑に首を項垂れていた所で声を掛けられ、眩しい陽を恐々
見詰めるように顔を上げた。
そこには、ただ微笑みがあった。
「……っ総司!」
引き寄せられる躰を、止める術は無かった。
その骨張った腕に縋り付き、膝ま着いた。
「意外と……泣き虫なんだからなぁ」
沖田は葦原の手の平で、嗚咽に震えるその背を撫でた。
土方は糾問するつもりが、その気は全て消え失せていた。
ただ泪が次々溢れ出す眼を閉じ、ズルズルと沖田の気配を発する葦原の躰……腕をなぞり伝った手を落とし土に付けた。
「……っ俺の……せいで……長く、生きられた筈のお前は……」
慣れない泪に濁った声は、子どもに話しかけるようにしゃがみ込んだ“沖田”の真っ直ぐに、畏怖を感じる程に澄んだ眸で吐息ごと飲み込まれた。
見上げた目の前に、怜悧な笑顔。
「……じゃあ……、このカラダ……もらってもいいですか……?」
「……っ!?」
土方はその姿勢のまま、文字通り固まった。
ほんの数秒の沈黙であるが、土方にとっては幾星霜にも例えられる。
瞬きさえ許されず、眼が乾ききった。
「……総……」
「っ……うわあぁぁあぁあああ!」
途端、思いっきりバシバシ瞬きをした……というより眼が白黒、な状態にさせられた。
「……ひっ土方! ってナニ泣いてんだ!」
負けじとアタフタする様は、紛れも無く葦原・本人だ。
「つか俺なんでココにいんだ?」
そして前例に漏れず、“沖田”の間の記憶は一切消えていた。
葦原は気が付いたら目の前に涙に濡れる土方の顔があり、驚きで仰け反った。
しかし今は一刻も早く唯希に会わなければならないことを思い出した。ただ、
やっと涙が止まったばかりという感じの土方を放っては置けなかった。
「おい……いい大人がそんな大泣きすんなよ」
まだ無言で自分を通り越した何かを見上げているような土方を見て、葦原は思い当たる原因を探した。
こいつでも泣くんだ、と。まさに“鬼の目にも涙”だと、少しおかしがりながら。
「あっ! お前が隠し持ってた“豊玉”とかいう奴の句集破っちまったの、あれ、ワザとじゃねぇから!」
この一言で霞んでいた双瞳がギラリと光ったのに、葦原は気が付かなかった。
葦原は知らないが……というより隊内でもあの沖田以外は知らないくらいの機密情報だが、土方は故郷・多摩時代から、次兄の影響もあり俳句が趣味だった。
号は豊玉。
その句は可愛らしいくらいの下手さで、句を捻るのを沖田に見つかっては思いっきりからかわれていた。
「つか意外だぜ……お前が俳句好きなんて。でも趣味はどうかと思うぜ? 豊玉とかド下手じゃねぇか」
土方が目を血走らせながらブツブツ呟いたのに、葦原が
「あ? 何だ?」
と聞き返すと大怒号が響いた。
「お前かーーーー!!」
「ぎゃーーーーー!?」
葦原は得意の逃げ足で唯希の元へ向かった。
葦原が破いたのは、土方が浪士隊として上洛する想いを綴った句。
さし向かう
心は清き
水鏡
沖田が返句を返していることから後世では、沖田に宛てた句ではとも解釈されている。
俺はあの時……何を言おうとしたんだ?
葦原が戻る直前、俺は……。
少し前の俺ならば、総司が戻ってくる為にどんなことでもしただろう。
誰かが……命を落としても厭わない程に。
だが同じく少し前の総司ならば……他人の人生を奪ってまで生きようとしたか?
あれは……本当に総司か?
俺の知っている総司とは、違う人間を見るようだ。
そして土方の頭には、故郷・長州の兵を斬りながら涙を流す葦原の姿が焼き付いていた。
あいつの存在を消すことは……殺すような真似は、できない。
一方唯希は医者である結婚を控えた相手の、その仕事を手伝っていた。
「唯希さん、すみません手伝っていただいて……」
「いいえ」
「そうしていると、もう夫婦のようじゃなぁ」
微笑う父の顔さえ、唯希には残酷な仕打ちだった。
夫になる男は穏和で物腰柔らかく、生涯の伴侶としては申し分のない相手だ。
ただそれは、心に想う男が居なければ、の話である。
葦原を追って京に上った唯希は池田屋で葦原戦死との誤報を耳にし、失意のまま父の薦める婚約を承諾したのだ。
唯希は耐え切れず、薬や包帯等を買いに行くと出かけた。
結婚してしまえば、それが毎日続くのに。
誰も気が付かない。
唯希の辛さ、胸に秘めた恋を。
「唯希!」
町中で不意にその名を呼ぶのは、婚約者では無く葦原柳……唯希の想い人だった。
「ナギちゃ……っダメ! 隠れてっ!」
久し振りの再会を喜ぶ間も無く、唯希は物陰に葦原を引っ張り込んだ。
「わっ! 何?」
葦原は何を勘違いしたのか、頬どころか耳まで赤く染めて慌てた。
「新撰組の人がっナギちゃんが生きちょることを知っちょるの! 探しちょるのっ!」
居並ぶ家々の狭間で壁に背を付けた葦原の腕を掴み、唯希は必死に訴えた。
葦原が“沖田総司”として新撰組にいる等とは、知らなくて当然……寧ろ打ち明けても俄には信じられないだろう。
葦原は少し困惑気味に、しかしここまで自分の身を案じてくれる事に密かな嬉しさを噛みしめながら、他の男のものになってしまう幼なじみの小さな頭に手を置いた。
「新撰組は、俺を殺さねぇ」
“沖田総司”を全うする限りはな……との科白は自らに宛てた。
「本当? ……だって……ナギちゃん、わたしになんにも話してくれない……京へだって、わたしに“行ってきます”も言わないで行ってしまったでしょう?」
美しく成長していても、上目でゆっくり話す癖やまるで小川の澄んだ心は幼少から変わらず、さらに葦原を辛く追いやる。
移り気で周りの仲間に流されてきた葦原の、唯一不変の感情……それは希望の姿を装った背徳の熱情だった。
どんなに打ち消そうとしても、唯希を“愛おしい”としか思えない。
「唯希は……俺に何でも話すのか?」
「……話しちょるよ?」
唯希はひたすら素直な性分で、自分の言葉への躊躇いがすぐに表情に映る。その目を逸らす仕草でさえ、葦原には眉を顰めてしまう程に可愛らしく感じられた。
困らせたくない……悩みなんて見つからないくらい、いつでも笑顔でいてほしいのに、確かめたい。
他の男になど、抱かせたくない。
「唯希……嫁になんか……いくなよ……」
葦原は感情……独占欲を抑えるように、拳を眉間にあてた。
唯希は、“知っていたの?”とは口に出さなかった。
ただ涙が次々溢れて、こぼれ落ちた。
その涙の先は葦原の胸の中だった。
きつく、抱き寄せて。
このまま、さらってしまいたい。
かつて馬鹿にしていた、祝福されない恋のこんな在り来たりの感情を自分が抱くなんて、葦原は思いもしなかった。
「……ッナギちゃん……わたし……結婚なんてしたくない!」
「させねぇよ……!」
いつの間にか唯希の手は葦原にしっかりとしがみ付いていた。
今夜、誰にも見つからない場所で。
二人きりで。
初めて重ね触れた愛しい肌を求める程に、罪の味を纏った毒に酔わされた。
唯希はすぅっと、一条の涙を流した。
後悔しているのか?
罪悪感か?
肯定を畏れ、問えなかった。
そんな葦原に、唯希は察したように微笑んだ。
「違うの……嬉しいの……」
葦原は夢現、不思議な程に、はっきり思った。
どうなってもいい……唯希さえ、傍にいてくれれば。
それが、ただ一つの、のぞみだと。
「お前の罰なら、全部俺がもらってやるよ」
在り来たり過ぎる科白と感情で。
葦原が帰らない。
既に夜半。
新撰組の支配者・俗名“局中法度”では、隊士の外泊を許していない。
隊内は“沖田”の心配をする不安に満ちていた。
沖田の、局長・近藤と土方に対する不変の忠誠心を火を見るより明らかに感じていた隊士達はまさか脱走ではと疑う者は無く、闇討ちにでも遭い帰られないのではないか、捜しに行かせて下さいと各隊長に懇願する者ばかりだった。
その中で、“ニセ沖田”の正体を知る土方、永倉は苦味走った顔を止められなかった。
山崎は既に、探索に出ていた。永倉が、土方だけに聞こえる声で低く言った。
「寝返ったんじゃねぇか?」
土方は無言。彼の考えは別にあった。
“沖田”が何かしたのではないか、帰られないのではと。
永倉は、
「だからヤメろっつったんだ」
と聞こえよがしに舌打ちをした。
探索中の山崎の予測が現実に最も近く、唯希と一緒に逃げたかと、葦原に揺さぶりをかけた自分の浅はかさに今更後悔を感じていた。
寝呆け眼で虚ろに腕を伸ばした先には、唯希の姿は無かった。
夢の中でまでその温もりを覚えているのに、残されたのは空蝉と、確かな答えだけだった。
「唯希……っ!」
唯希は、用意された運命を選んだ。
心から望んでの答えでは無いにしても、葦原が追いかけてくることも望んではいない。
「俺、あいつに……好きだっつってねぇや……」
親が決めた結婚に自分が割り込めば、唯希の不幸は見えている。
葦原は壬生へ“帰る”道すがら、ぼんやりと考えた。
切腹って……どうやるんだっけ?
「総、司……!?」
「……じゃなくてワリかったな」
明六ツ、葦原は厳重警備の屯所でどうやったのか土方の部屋に潜入した。
「……夜這いならマシな格好で来やがれ」
葦原は、よく持っていたなと言われそうだが曲がりなりにも武家の倅、切腹裃を着けていた。
誰が夜這うか! つか朝だし! と言う大声は飲み込んで、土方の調子に合わせて静かに言った。
「せめて夜襲とか言えよ」
「夜襲じゃ洒落になんねぇだろうが」
土方はニヤリと不敵に笑いながら、既に敷いてあった寝床に入ろうと掛け蒲団を片手で持ち上げた。
一晩中、起きていたのだ。
「ッオイ!」
「うるっせぇな……寝かせやがれ」
剰りにしゃあしゃあと言われ、葦原は呆気にとられた。
「……ちょっフザケんな! 人が切腹しに来たってのによ!」
やっと怒ることを思い出し、寝る気満々で目を瞑っている土方を揺すった。
「ああ? おめぇがフザケんな!」
瞑目のまま眉間に皺を寄せ、まるで般若だ。葦原としてはビビるしかない。
「お前“沖田総司の代わり”の癖に何抜かしてんだ」
やっと真面目に話す気になったのか、土方は人形のように整った二重の刻まれた瞼を開けた。
身を起こし折り曲げた膝に肘を付くと、手の平に額を乗せた。
“眠ぃんだよ俺は”と、全身が語っている。
「お前の切腹は“新撰組の沖田”の切腹だ。代役になったワケ、忘れたか?」
――……
アイツには……“沖田総司”にはまだ死なれちゃ困るんだ。
――……
鬼神の剣技を失った新撰組は倒幕派にナメられると、かつて二度目に遭った土方は言っていた。
つまり、そういうワケだった。
隊士達も起き出すと、葦原が初めて新撰組屯所に来た日と同じに“沖田”は、土方の密命で出張していたことになっていた。
しかし、このまま日常に戻ることを許さない男が居た。
「……ってぇー……」
永倉新八が葦原をひっ掴み、渡り廊下の壁に叩きつけた。
「ナニすんだよテメェ!」
二人で話すのも初めてなぐらいの相手に突き飛ばされ、葦原は眼が痛くなるくらい睨みつけた。
「同じ顔のくせに、中身は全然違ぇな」
永倉はちっとも悪びれずに、感心したように言った。
「沖田とか? ったりめぇだろ」
中身っておい! と心の中でツッコミながら、葦原は敵意丸出しだ。
「俺ぁお前を認めた覚えは無ぇ」
永倉は一転鋭い眼を向け、手を刀の柄に乗せている。
コイツ……渋く見えんのに意外と喧嘩っ早いのな……って俺丸腰だし!
つられて手をやった腰元がスカスカだった為慌てる葦原だが、永倉に本気で斬り合う気は無かった。
葦原は精一杯強気に言った。
「で? どうすんだ」
永倉はぶっきらぼうに、そっぽを向いた。
「今はどうもしねぇ。次は、斬る」
自分の腕に絶対の自信があるその後ろ姿を、初めて話した永倉に訊いてみたかったことで呼び止めた。
「沖田の死……そんな辛かったか?」
ここに居ると、誰もが沖田を慕っているのが伝わってくる。
永倉の表情の端々からも隠された心情が滲み出ていた。永倉は振り返らずに言った。
「あいつを弟みてぇに思ってたのは、土方だけじゃねぇよ」
屯所の庭先で木刀を削っていた葦原は、見知らぬ男に突然話しかけられた。
「お噂通り、かわいらしいですね」
沖田の演技も忘れ無茶苦茶に顔を歪ませた。
だが、誰だよあんた気色悪ぃ! とか怒鳴りつけるのは堪え、引き吊り気味に笑顔を作った。
「ダメですよぉ? 勝手に入っちゃ。コワーいお兄さん達に斬られちゃいますよ?」
男はひどく整った顔をした、けれど土方とは違う系統の美男子だ。ぱっと華やかな微笑みを携え役者のような美声で言った。
「それは困る。匿ってくれないかい? 沖田総司くん」
沖田の知り合いかと一瞬思ったが、それにしては“噂通りかわいい”の鳥肌が立つような台詞はおかしい。つか誰だよカワイイとか大ボラ吹いてやがんのはと、葦原は遅ればせながらムカついた。
初対面なのにこっちはあんたを知ってるぞ、とか言いたいわけだ。
「そういうあなたも、“お噂通り”歌舞伎役者さんみたいですね」
負けず嫌いな自分が恨めしい。誰なんだよコイツ! と内心喚きながら続けた。
「匿ってあげましょうか? うちの役者さんの部屋にでも」
土方の所に放り込んでやるつもりだ。本当に土方の部屋に向かう途中、白粉をしたような顔の男は問いかけてきた。
「君は今の新撰組に満足しているのかな?」
「……どういう、意味ですか?」
妙な奴だ。何が、目的でここへ来た?
「隊長なんかでなければなぁ……私の小姓に欲しいくらいです」
「……はっ?」
「失礼。剰りにもかわいいから、つい」
ぅわ逃げてぇー!
葦原は心底半泣きになりながら早く土方の前に引きずり出して軽口叩けなくしてやると意気込み、自然と早歩きになった。
本気で言っているのか、それとも先の質問を濁らせる為かはわからないが。
「土方さん、総司です」
葦原は土方の部屋の前で一言掛けると、返事を待たずカラリと障子を開けた。
「お前な。それじゃ意味無ぇだろ」
土方は苦々しく眼をやるがピタリと表情が消えた原因、葦原の連れてきた男はニコリと微笑みを作っていた。
「このアヤシい人、屯所に侵入してましたよっ」
「酷いですねぇ……匿っていただけるのではなかったのですか?」
土方も負けじと余所行き用の、心が全く読まれない笑顔を貼り付けた。
「……伊東、大蔵殿」
土方の知り合いかよ……と、葦原は伊東と呼ばれた男を振り返った。
「土方歳三くん! あなたも噂通り美麗ですねぇ!」
そしてつい、その姿勢のままゲンナリとした顔になった。
「ご冗談を」
……って全然眼が笑えてねぇから! と土方にツッコミながら、葦原はその不気味な会話に割って入った。
「あなた一体何者なんですか?」
「総司、慎め。この方は……」
「残念……“総司くん”は副長のお気に入りでしたか。たまには私にも貸して下さいね!」
こりゃ殴っても許されっだろと拳を握る葦原と勿論伊東も無視し、土方は続けた。
「この方は、江戸北辰一刀流道場主・伊東大蔵殿。新撰組に参謀として入隊いただく」
これから毎日顔合わせんのか、と葦原は今から窶れそうな気がした。
「一つ訂正が。念願の新撰組入隊と、見目麗しいお二人とのお近付きを果たした今年、甲子の年に因み、甲子太郎、と改名いたします」
同日、伊東の実弟・鈴木三木三郎、門人・中西登、同志・篠原泰之進、加納鷲雄、佐野七五三之助らも入隊。
何れも幹部級の好待遇で、隊内で伊東派が築かれていくのも時間の問題だった。
半ば神憑りな土方の直感により行動を起こし始める所か入隊前から本性を疑われていた伊東甲子太郎の動向を、文字通り隅から隅まで調査していた山崎は呟いた。
「あかん……全っ然尻尾見せへん」
標的の行動は、気楽者そのものだ。
大抵暇さえ有ればこれも文字通り、葦原のケツを追っ掛けている。
「こりゃあ……副長得意の直感も、ハズレやないか?」
と、溜め息で見詰めた伊東の先には唯希がいた。
「……変な縁でもあるんかな」
今更だが、尾行中は独り言が多くなる。少し笑ってから、近付いた。
「ゆーいーちゃん?」
山崎の予測通り、唯希はビクッと肩を躍らせた。
だが、誰? という顔で見つめ返してくるので、山崎も今度はハッとして
「俺や俺!」
と尾行用の変装を解いた。
「……なんの……ご用でしょうか」
「ツレナー!」
大きな目で懸命に睨む唯希の言葉を流し、山崎は笑った。
「ツレナいでゆいちゃん!」
するとプイッと走ろうとする唯希だがその目の前の人混みにぶつかり、あわや転びそうな所を山崎は軽々と受け止めた。
「……ありがとうございます」
後ろ姿をただ見送った山崎は呟いた。
「嘘やろ?」
転びそうになった一瞬、唯希は咄嗟に腹を庇っていた。
思い当たる理由は一つ。唯希は、子を宿しているのではないか。
「まさか……葦原の子ぉちゃうやろな」
といっても唯希自身、既に他の旦那がいる。
葦原と関係を持ったにしても、どっちの子どもかなんてわからないのではないか。
しかしDNA鑑定など無いこの時代、父親が誰かは母親の言葉に委ねられていた。
「どないする気やろ……なんや、かわいそになるわ」
流石の山崎も今回ばかりは面白がって首を突っ込む気にはなれなかった。
伊東が入隊してからというものほとんどと言っていい程付き纏われている葦原は、必死に“沖田節”を作りながらも迷惑そうに溜め息した。
「伊東さーん……なーんでいっつも僕についてくるんですかぁ?」
「そんな……仲良くなりたいからに決まっているでしょう?」
だって可愛らしく生まれてしまった貴方が悪いと、伊東はにっこー! なんて効果音がしそうなくらいに笑った。
くっそー! 殴りてぇー!
沖田のふりをしていなければこんな奴に振り回されたりしねぇのにと、せめて早歩きをした。
「妙ですねぇ……」
するとピッタリと後ろに続く伊東はわざとらしく独り言を言い出した。
「……やっぱりおかしいです!」
うっぜぇー!
内心叫びながら、葦原は背中を向けて歩き続けながらも訊いてやった。
「……何がです?」
「どうも腑に落ちないのです」
「だから何がです?」
生来短気な葦原は、立ち止まり様に振り向いた。
「あなたが」
伊東は腕を組み、葦原を指差す。
「沖田総司と言えば、気味が悪いくらいに人懐こいと聞きましたが」
……しまった……!
葦原は明らかに、というより馬鹿正直に狼狽した。
沖田の演技指導者・山崎に、散々教えられたことだった。沖田は初対面の相手でも気さくに接し、不思議と誰からも好かれると。
んなヤツいるかよと話し半分に聞いていたツケが、よりによってという相手の前で回ってきた。
偽者と疑われてんのか!?
実際“沖田の偽者”な葦原は、嫌な汗が手に滲むのを感じた。
「……だから、私もすぐ仲良くなれると楽しみにしていましたのに」
その虫酸が走る台詞で、不覚にも救われた思いで葦原は言った。
「僕も、人を選ぶ……ということです」
コイツは気付いてもないし疑ってさえいない、と安堵したのだ。
「手厳しい! でもそんなことを言われたら益々燃えてしまいます」
葦原がまだ故郷の長州にいた頃に偶然出会った金髪碧眼の異人を彷彿とさせる、片目を瞑る仕草、ウィンクをせんばかりの伊東に葦原は辟易とした。
周囲の人々の意見に影響されるばかりだった葦原が一つ、あまり意識しないにも持っていた考え……それは異人も悪いヤツばかりではない、だった。
葦原は伊東とのことを、溜め息吐きながら
「またか」
と呆れる山崎に話した。
「そんならあの人に頼るしかないやないか」
「誰だよ?」
なんでも山崎に逐一報告するのは気が引けるが、言わないでおいてバレたらと想像するとゾッとなる。
「うちの三番隊隊長はんや」
「……ゲッ! 斎藤一?」
同い年ではあるが、やはり斎藤は仲良くなりやすい男ではなかった。
「伊東はんは斎藤はんにお任せするようになったからな」
山崎は葦原の反応を用意していたように無視した。
「山崎お払い箱?」
「うるさいわ!」
朝陽が程好く射し込む、副長・土方の部屋。
この閑散とするくらいの小綺麗さには少し慣れてきたが、土方・斎藤と三人きりにされた葦原は頗る居心地が悪そうだ。
「瓜二つ……ですね」
稽古試合ぶりの熟練過ぎる斎藤から見れば剰りの毛色違いから、最近の沖田はおかしい、まるで偽者の様だと疑いはしていたが、斎藤なりにかなり信頼を寄せていた土方から真実を打ち明けられ、しかも寄りに寄って“偽沖田”の正体が新撰組の宿敵ともいえる長州藩士だと知らされた斎藤は虚ろに、普段は言いそうもないことを呟いた。
斎藤にマジマジと視線を当てられ、葦原は強気に睨み返す……ことはできず、恥じらう少女のように俯いた。
“この男の名は葦原柳。元・長州藩士だ”とだけ事務的に告げられた斎藤は、葦原の無意識に尖らせた家鴨唇の、その仕草に面影を見た。
「沖田さん……は……、どうしたのですか?」
「死んだ」
聞き返すような表情で眉間を寄せる斎藤に、土方は目も合わせず繰り返した。
土方の長い睫毛に縁取られた蠱惑的ともいうべき眼は、頭を垂れた葦原の首筋に向けられていた。
そこに沖田の気配を感じているかのように。
「労咳だ。俺の目の前で。血を喀いた。死んだ」
斎藤は普段、意外に童顔なのを気付かれないようにする為か眉をしかめているが、衝撃的に目を見開いた。
それさえ視界に入れず、土方は喉を鳴らしてしまいそうなのを堪える。
声色も変えずに一息に辛い言葉を並べる土方を、葦原が心配するように横目で軽く、視線に応えたからだ。
「沖田さんの……代わりと言うわけですか」
斎藤は、信じられないという表情を隠さず表した。
「そうだ」
「……何の為に!」
葦原もそして土方さえも、ここまで感情的に声を荒げる斎藤を見るのは初めてだ。土方は内心驚きながらも引き続き、事務的に言った。
「武田信玄の死と、同じ理屈だ」
戦国の世、病に伏した武田信玄は自分の死を一年間隠すようにと命じた。大黒柱を失ったその期に付け込まれ、敵国に侵略されるのを危惧したからだ。
斎藤は盛大な音を立てて立ち上がった。
「こんなことをして……沖田さんは決して喜びはしない!」
葦原を鋭く睨み付けて、乱暴に障子を開ける。
「待て!」
むしろ土方の一喝に、渡り廊下の向こう庭先に集まる雀は散り散りになった。
「俺ぁお前に説教垂れさせる為に話したんじゃねぇよ」
ピシリと伸びた背中を向けたままの斎藤に、土方は命じた。
「伊東が勘付いてやがるらしい。見張れ」
斎藤は返事も無しに、後ろ手で障子を閉めた。
むっちゃ気まずいし!
葦原の心境だ。
斎藤が惜し気も無く立腹した後の土方と二人きりの部屋に残された葦原は、これぞまさに居たたまれないといった様子で土方をチラリと盗み見た。
“沖田は喜ばない”の言葉がかなり堪えている風情で珍しくぼんやりしている。
しかし自分の命令に返事もしなかった斎藤を咎めもしない土方は、それでも斎藤ならば任務を熟すと見込んでいた。
葦原がソワソワ落ち着かないのに気付き、土方は言った。
「いつまで居る気だ」
葦原はムッとした。
何でこんな天の邪鬼なんだコイツ。
無意識に、瞬きをした。
「……うーん。あなたのご機嫌が直るまで……居てあげてもいいですよ?」
急な“沖田”の登場にはまだ慣れないが、土方は得意の演技でこれ見よがしの動じていない素振りだ。
「……へぇ。機嫌直させてみろよ」
葦原の躰の沖田は心底愉快そうに、ふふっと笑った。
「相変わらず強がりだなぁ……。僕が怖いくせに」
と言い終わる時には土方の正座をした足元に前のめりに、膝を付いた四つ足の格好で手を置き、上目遣いに表情を覗いた。
「ほら、怖いくせに」
ズイと近付く挑戦する微笑みに反射的に顔を後退させると、沖田は即座に付け加えた。
「総司、俺を怒ってんのか」
その姿勢を保ったまま土方は言うと、すぐに眼下にあるしなやかな腕を片手で掴んだ。
「……行くな。いっつもてめぇの都合で帰りやがって。機嫌が直るまで“居てくれる”んだろ」
“帰る”とは肉体的にでは無く、“沖田が葦原に戻る”という意味のつもりだ。
土方は沖田のこれまでの行動から、この問い掛けをすれば沖田は“帰る”と踏んで先手を取った。
素直に片腕を捉えられたまま、沖田は呟いた。
「歳三さんは……怒ってますか?」
死んだ自分が、他人の躰を借りて現れたりして。
「いっ!」
土方に額を弾かれ、沖田は涙目で潰れた声を出した。
「なっ……なんでデコピン?」
「話すっ変えんじゃねぇ!」
土方に鬱がれていない空いている方の手で、赤くなった額を擦りながら言った。
「しょうがないじゃないですかぁ……だってあの子が呼ぶんだもん」
答える気はねぇっつうわけか。
明らかに“怒ってますか?”の問いに“怒ってる”と答えた場合の、用意周到な言い訳にそう諦め悟った土方は受け合ってやった。
「……あの子って誰だよ」
沖田は“勝った!”という表情を隠しもせずに言った。
「イハラヤナギ」
驚かされた土方の、手の力が緩んだ。
「アイツが呼ぶ? どういう意味だ?」
「……はっ?」
帰りやがったあのクソガキ!
土方は苦虫を噛み締めたような形相で、年上といっても二つしか違わない沖田にあの子呼ばわりされた葦原に八つ当たりした。
「“居眠り”すんじゃねぇ! とっとと出てけ!」
伊東に変な探りを入れられないように土方の命令通り見ていてやるから屯所の部屋を一緒にするぞ、と斎藤が一方的に話を進めているところだ。
「守ってほしいのだろう? ならば言う事を聞け」
「……ざっけんなバカ!」
勝手に葦原の荷物の移動まで、つまり斎藤の部屋にだが、始めているらしい。斎藤は抵抗を無視し、既に勝ち誇った顔でニヤリと笑う。
「本当はそんな話し方なのだな。沖田さんが言っているみたいで変だ」
「るせえ! ゼッテェ、ヤだからな!」
斎藤が何を考えているかわからない。目の敵にされていると思っていたのだ。
つかイヤガラセか? と葦原は斎藤を怪訝に睨んだ。
「厭ならバラす。伊東にヤられてしまえ」
「なっ……んてこと言いやがるテメェ!」
葦原に、選択権は無かった。
斎藤と同じ部屋で迎えた初めての夜、葦原はろくに眠れず目を覚ました。
「おはようございまぁす、はじめさん。早く起きてくれないと“ついうっかり”眉毛と眉毛を繋げちゃいますよ?」
伊東のことだ、いつ聞いているかわからないから誰の前であっても地で話すのをやめろとの言い付けを守り、少しも姿勢を崩さずスヤスヤと寝息をたてる斎藤を嫌々ながら起こしていた。
ぅわっ! 半目開いてるし!
怖ぇよ! と内心突っ込みながら、もう面倒になった葦原は一人で朝稽古に向かった。
沖田さんと、同じようなことを言うのだな。
――……
「早く起きてくれないとぉ、瞼におめめ描いちゃおっかなぁ」
――……
「変な奴」
沖田の毎朝違う台詞の一つを思い出し狸寝入りの、同じ部屋の起き出した気配だけで起きる程に実は寝起きの良い斎藤は支度を始めた。
道場に着くと、中には入らないまま朝稽古に熱視線を送る伊東が居た。
「伊東参謀、お珍しい」
悪事を見つかったようにビクッと肩を揺らし、伊東はソロリと背後に眼をやった。
「これは斎藤さん。……いや、飛んだ裏技を使われましたね」
何事も無かったと誤魔化したいのか、当“者”比三割増しの気取った身振りで言った。
「裏技? 一体……」
何のことですか? と、すっとぼけるのを待たずに伊東は興奮気味だ。
「沖田くんと同室に変えたのでしょう? そんな技があるなら是非とも私が使いたかったですよ!」
一瞬、代わってあげましょうか? という葦原にとっては鬼のような提案が頭を過ったが、飲み込んだ。
「以前も同室だったのですよ。あなたならご存知かと」
どうせイヌを使って調べているのだろうと思っているが、どの程度か測るつもりで斎藤は言った。
「前からあの沖田くんと、ひっ、一つの部屋で? なんてうらやましい!」
「いえ、彼は寝相が悪くて……」
「贅沢な! むしろ萌えるではないですか!」
失神しそうな勢いの伊東の横を愛想の良い作り笑いですり抜け、斎藤は道場に入った。
やはりただの変人か? と、何も知らない様子の伊東に安心させられながら。
伊東は隊士の前とは全く性質の異なる低い声で、真の答えをその背中に囁く。
「いいえ? 何故部屋を別(わ)けたのかさえ、“ご存知”では無いですよ」
葦原が素振り稽古をする横に、斎藤はヌッと並んだ。
「……ちょっ……気配消して近付くのやめてくれます?」
葦原が手を止めて睨むと、斎藤は素振りを始めながら言った。
「伊東……奴は本当にヤバイ」
……どっちの意味で? と茶々を入れる気にはなれないくらい、斎藤の両眼は鋭い。
「俺はあんたの味方では無い。そんな縋るような顔をするな」
葦原が口を開こうとすると、山崎がやはりヌッと現れた。
「随分と仲ええやないですか。伊東に嫉妬させるっちゅう作戦です?」
「はじめさんなんて嫌いです」
山崎が、葦原イジケとるやないですか、という表情で斎藤を見ると彼は気にも掛けない様子で言った。
「山崎さんこの人、伊東を誘(おび)き寄せる餌にするのはどうだ?」
任務第一の鉄の監察・山崎でさえあんぐりと口を開けたのだから、葦原の衝撃は書くまでもない。
「マジで斬るぞ斎藤」
沖田の演技をすることなど頭にある筈も無く、葦原は凄んだ。
しかし冷酷さが売りの二人には、ちっとも怖くない。
“エサ”本人ここにあらずの状態で相談し出した。
「せやかて伊東の“アレ”は、俺らを油断させる手段ですわ。ウメはんっちゅうヨメがちゃんとおるんやし」
「先日離縁している。母が危篤だと謀り故郷に呼んだのを、今上、ひいては国の為仕事をしている時に不謹慎だと、一方的に」
「かわいそやなぁ! ヨメはんやって恋しがっての事やろに!」
「……妻がどうこうと言うより、奴は両刀ではないのか?」
話がずれたのを修正した斎藤の言葉に、一同ハッとした。
「ゼッテェ! ヤだ!」
不穏な空気を察知して大声をあげる葦原をまたも無視し、二人は早々に土方の部屋に相談に行った。
土方は稽古そっち退けの朝の大切なひととき、句作の最中だったらしく、猛抗議する為にくっついて来た葦原を入れた三人にドヤドヤと部屋に押しかけられ機嫌が悪い。
「やめておけ。危険過ぎる」
むしろ大賛成するのではと三人一致で思っていた土方の意外な即決に、一番驚いたのは葦原だ。抵抗する気満々だったのが拍子抜けした。
「このままでは危険なのは新撰組です。伊東は内部から腐らせようとしている。それを暴くのに相応しいのは……」
「コイツの正体がバレたらどうする?」
葦原の中の沖田に遭遇した山崎には手に取るように解る。
土方が心配しているのは、正体がどうのなんかではない。
「バレたら斬ればいい。所詮長州者でしょう」
「言ったろう。コイツの死は沖田総司の死だ」
葦原がカマを掘られるなんて半分冗談だった山崎が、まぁまぁお二人とも……なんて割って入れないくらい険悪な雰囲気だ。
斎藤は苛立っていた。
「それがなんですか? 新撰組には斎藤一がいる」
斬り合いになるんやないかと、山崎は気が気でない。
「知っている。だが総司には、んなことさせらんねぇ」
『俺(この人)は沖田(さん)じゃない!』
葦原と斎藤、声が揃った。
その胸中を占めるのも揃って嫉妬……葦原は言い捨てる形をとり、土方の部屋を走り出た。
「……副長は、あの人に甘過ぎる」
斎藤は葦原の事を言うのを装い、沖田を脳裏に浮かべた。
――……
「虫も殺さない様な顔の癖に、大した腕だな」
「あははっ、確かに虫とかは殺しませんねぇ。……意味のある“殺陣”しか、しませんから僕は」
――……
皮肉が通じているのかいないのかよくわからないが、恐ろしく腕が立つ。
残忍な人斬り……同類の筈なのに自分とはまるで陰陽だ、と感じていた。そして憧れに似たものを、感じていた。
斎藤が葦原には馴染めないまま数ヵ月が過ぎ、新撰組に事件が起きた。
葦原は土方に言い付けられ、もう一人の副長・山南敬介の部屋へ書類を運んだ。
「ったく人遣い粗ぇよな」
まるで待ち受けていたかのように、悲惨な現場に遭遇するとも知らずに。
「山南さん、沖田です」
人気が無い程に、シンと静まり返っている。
「さーんなーんさんっ!」
自分の声に吐き気がしたところで、入りますよ? とまた一声掛け、開けた。
一面、まさに血の海。
山南は部屋の中心、切腹して果てていた。
後退りをした背中に、襖が当たった。
「っだよコレ……」
どうしていいかわからない葦原から遺書を渡された土方は、苛々と舌打ちして低く声を吐き出した上にその紙を放り投げ、山南の部屋に走った。
葦原が拾った遺書は、人柄を表す流麗な文字で綴られていた。
“黒い狐に支配されるのは耐えられない”
その文字を追った葦原は意味が分からず呟いて、とうに姿の見えない土方の後に続いた。
「黒い……狐……?」
葦原が山南の部屋に続く廊下に出ると、土方は入り口で呆然と突っ立っていた。
葦原は声も掛けられず、その傍らに立つ。
「……ナギ……総司を出せ」
目線さえ向けないまま意味不明なことを口にする土方に、葦原は気味悪げに聞き返した。
「……はぁ?」
土方は当たり前のように、山南から目を外さないまま繰り返す。
「おめぇが呼んでんだろ。早くしろ」
葦原は無言。すると土方は、やっと葦原に目をやった。
「総司……出てこいって」
土方が腕を掴もうと伸ばした手を、葦原は反射的に払った。斬り合いの最中に、咄嗟に身を守るように。
「……ああ、悪ぃ」
正気を取り戻したらしい土方は葦原の肩にポンと手を置き、その横を通り過ぎようとした。
「……待てよ!」
葦原は、山南の死を近藤に伝えようと完全に副長の顔になり急ぐ土方を止めた。
「大丈夫だ。怖くねぇからな」
いや、別に怖かねぇよ!
いきなり切腹現場を目撃しその場に一人にされることを怖がるかと心配されたことに心に打撃を受けながら、葦原は続けた。
「オメェが大丈夫じゃねぇだろ! “総司を出せ”ってなんなんだよ!」
「お前もな。新撰組に来てから所々記憶が飛ぶことがあるだろ。変だと思わねぇのか」
「それが関係あんのかよ」
大アリだ。
お前に憑いている総司が、お前の躰で動いている。
総司が現れる頻度が多くなり、時間も長くなってきている。
お前に取って代わろうとしている。
土方は、言えない言葉を飲み込んだ。
葦原が沖田に乗っ取られるのを止めなければならない、剰りに可哀想だと思う気持ちは本当だ。
全く予期していなかったが、葦原に愛着心が湧いている。
沖田が出ないようにするには、まず葦原が沖田の企みを知り原因を知り、食い止めなければならない。
しかし沖田は、充分に療養させなかった自分のせいでたった二十二歳で……あんな若さで死んだのだ、という負い目があった。
そしてそれ以上に、沖田に会えなくなるのは、耐えられない。
矛盾を抱え、声が掠れる。
「もういい。忘れろ」
必ず話してやらなければならない……それはわかっていた。
遠ざかる土方の背中を睨みながら、葦原は苛ついた。
あんな言い方をされれば気になるのは当たり前だ。
確かに、自分も変だ。
記憶の途切れに、深い疑惑を抱かなかった。
「沖田が……関わってんのか?」
そして、土方は気が付いている。
葦原は急に、寒気がするようだった。
土方から報告を受けた局長・近藤勇は、四角い顔の中の両眼を丸くした。
「切腹……山南さんが……」
「俺のやり方が気に食わねぇんだと」
“黒い狐”に含まれた意味を、土方はすぐにわかっていた。
近藤をいずれは大名に、新撰組を大きくする為冷酷に策を巡らせる、鬼副長を揶揄したのだ。
「西本願寺への屯所移転、反対していたな……」
悲し気に目を遠くする近藤に、土方は付け加えた。
「それだけじゃねぇ。新撰組自体に疑問と時に反感を持ってきていた。所詮北辰一刀流は、倒幕の気質が強いからな」
冷たい視線で言葉を並べる土方に、近藤は悲哀の表情をそのまま向けた。
「歳ぃ……お前、なんでそんなに冷静でいられるんだ?」
あんたも……俺のこと狐だと思ってんのかよ。
それでもいい、と面倒そうに見えるよう、眼を閉じる。
「知ってるだろ? 俺は元々あの人とは合わねぇんだよ」
それは十分承知の近藤は、大きな拳を額に押し当てる。
「古くからの友人……幹部隊士が切腹だなど……新撰組はこれからどうなるのだ……」
土方は漸く、自分の心を正直に語った。
「かっちゃんは何も心配しねぇで、前だけ向いてりゃいいんだよ」
しかし近藤には虚しくも届かない。
それでは、俺は傀儡ではないか。
何故、全て独りで背負い込む?
近藤は多摩のガキ大将だった頃……二人で肩を並べて歩いた頃を、恋しく思い出した。
この後、山南の死を切っ掛けにしたように徳川幕府、そして新撰組の命運は急落していく。
隊内の、一体何人がこれを予測していただろうか。
土方に呼び出された葦原は斎藤の言い付けを律儀に守り、誰も居なくても沖田を演じた。
「一番隊に、坂本龍馬の探索を命ずる」
「それなら全隊で以前から続けてますけれど……なぜ急に?」
坂本龍馬……土佐脱藩浪人で元軍艦奉行安房守勝麟太郎……雅号・海舟に師事、船の操縦から日本のみならず海の向こうの世界の情勢まで学び、外国相手に貿易を行う日本初の商社・亀山社中……後の海援隊を設立した。
思想は朝廷と幕府が共存して政治を行う公武合体派で幕府、勿論新撰組とも同じだが、徳川幕府は一旦倒すという点で異なり、幕府直轄の見廻組からも追われている。
「最近の動きがどうも怪しい。薩摩・西郷と長州・桂の間を行き来しているようだ」
「なんですかそれ? まるで取り持つみたいな」
“桂”の名を懐かしく聞きながら、ありえねぇと葦原は坂本を嘲った。
薩摩と長州は、文久三年八月十八日の政変以来の仇敵だ。
「天才の考えるこたぁ凡人にはわからねぇからな」
ヤケに素直な感想を言う土方は続けて話そうとしたが、葦原が
「クッ」
と笑いを堪えたので照れ隠しに顔を歪めた。
「見付けたら連れて来い。斬るなよ」
土方の命をそのまま一番隊隊士に伝え最後に付け加えて笑いを取った葦原は、夢にも思わなかった。
「と言われても、僕も会ったこと無いんですけどね」
あの、人を惹き付ける“天才”に出会ってしまうとは。
町中をウロウロしていた葦原……実は唯希に一目会えないかと未練たらしく探していたのだが、如何にも小説のように突然見知らぬ男に腕を引かれ耳打ちされた。
「すまんき! 匿っちょくれ!」
案の定、数十秒後に息を切らして目を血走らせた追っ手が走ってくる。
「お……っ! これは沖田殿!」
「ご苦労さまでぇす、見廻組の皆さん」
一気に脱力させられる気の抜けた返事に目尻を引き吊らせながら、必死に感じ良く訊いた。
「坂本が現れたのです! この辺りを通りませんでしたか?」
坂本龍馬ぁ?
アイツが? と、お約束な展開ながらも驚いたが、自分でも誇らしいくらい表情には出さなかった。
匿おうとか味方になろうなどの気は更々無いが、見廻組に手柄をくれてやる気は微塵も無い。バックレる気満々だ。
「坂本龍馬がぁ? ええ? どんな人なんです?」
いっそ清々しいくらいの棒読み大根役者だが、やんごとない武家の次男三男が集められた見廻組の連中は育ちの良さが仇となり、まんまと騙された。
「異様にデカくて縮れ毛、夷人の履き物、あと声もデカイです」
「そんな人なら、あっちに曲がっていきましたよ!」
礼もそこそこ、ドヤドヤと走る見廻組の背中にパタパタ手を振りながら、後ろの狭い路地に身を隠す坂本に声を掛けた。
「待ちなさい」
葦原の言う通り、坂本は既に逃げの体勢に入っていた。
背中に冷や汗が伝るのを感じながら、坂本は動きを止めた。
見廻組の下ッ端より、新撰組随一の手練れ・沖田総司の方が格段にヤバいことは火を見るが如く明らかだ。
さっき葦原が驚いた少し前、坂本もまた“沖田総司ぃ?”の心境で、エライ奴に声を掛けたものだと自分が恨めしかった。
背後に葦原が立ったのを感じ、懐の愛銃・スミス&ウェッソンを意識しながら恐る恐る振り返る。
「お礼も言ってもらえないのですか?」
ここからが、坂本の坂本たる由縁だ。
誰とでも、瞬時に仲良くなろうとする本能を持っている。
「……っおまんが“あの”沖田総司か! どんなゴツい鬼神かち思っちょったが……“ぴーちぼーい(peach boy)”じゃのう!」
ぴーちって……オイ!
今度は葦原が冷や汗する番だ。
「やめてくださいよ、気持ち悪いで……」
葦原は、しまったと息を止めた。
ここは沖田なら、
「なんですかそれ」
とか、意味の分からない言葉を発するのを怪訝がるところだ。
反対に坂本は満面の笑みで三十過ぎ……ちなみに土方と同い年の大人の男とは思えないくらい眼をキラキラ輝かせた。
「おまん、“えんぐりっしゅ(English)”がわかるがか!」
葦原は心の口癖
「ヤッベェー!」
で、頭が真っ白になった。
まだ長州にいた頃に異人に言われた言葉で、本人はここまでは教えられていないが、衆道的意を含む可愛い男の子、という意味だと後から聞かされた。
葦原が知っている、しかも仲良くしていた異人はその一人だけだが、当然他にも英語を教わっていたので坂本よりもできるくらいだ。
「うーん……少しだけ……」
すると坂本は感嘆の大声を上げ、異人の真似事で両手をガッシリ掴んで握手をしてきた。
「新撰組に置いとくのは勿体無いのぉ! どうじゃ? わしのところに来て、世界中を船で回るっちゅうのは!」
コイツ……本気で言ってるならバカだな。
敵だと分かりきっている相手への手放しの懐っこさに戸惑いながら、葦原は流した眼を細め背を向けた。
「そのブーツ、似合ってますよ」
「待っとうせ! わしを見逃すがか?」
葦原は次の言葉の最後に坂本を更に喜ばせてしまう異人の仕草を真似し、人差し指を鼻の頭にチョンチョンと付け、坂本を指差した。
「今日は非番ですから」
葦原と坂本……互いにもう一度話したいと思いながらそれは叶わなかった。
この後、坂本は念願の薩長同盟を達成。
薩摩に裏切られた会津、幕府は転落の道を辿る。
新撰組もまた、共に。
江戸にて募集活動を行っていた土方、伊東、斎藤、藤堂は、五十人以上の新 入隊士を引き連れ帰隊した。
百五十人もの大所帯となり、土方は渾身の自信作・“軍中法度”を制定した。
どこか抽象的な俗名“局中法度”とは違う本格的な、幕府の下の一群としての辛辣な程の規則だった。
「ええー! “食物はいっさい美味禁制”……?」
得意満面の土方に軍中法度を見せられ、葦原は可哀想なくらいに表情を歪めた。他の者も賛同すると予想していた葦原だが、全員漏れ無くズッコケた。
「って、そこかよ総司!」
「よっく見てみなよ!」
原田、藤堂と立て続けに突っ込まれ、葦原は口を尖らせる。
「美味しいもの食べるななんてっ……じゃあ土方さんは沢庵食べちゃダメです
からねっ」
如何にも沖田っぽく拗ねながら葦原は胸中で、土方は食い物以外にオンナとか楽しみがあるからいいよなぁと悪態吐いた。
「んなことより“烈しき虎口において、始終その場を逃げず忠義を抽すべき事”とかってのは、俺達新撰組みんな当然覚悟してるが……」
原田が噛みそうになりながら法度書きを読み上げると、永倉が請け合う。
「“組頭討死におよび候時、その組衆、その場において戦死を遂ぐべし。もし臆病を構え、その虎口逃来る輩これあるにおいては、斬罪微罪その品に随ってこれ申し渡すべく候。かねて覚悟、未練の動きこれなきよう、あい嗜むべき事”ってのはどうもなぁ……」
遅ればせながらその条文を読んだ葦原は、目を剥いた。
「隊長が死んだら全員ソッコー死ねって?」
つい沖田風を失った大声を土方はギロリと睨み据え、葦原は正しく蛇に睨まれた蛙状態に口を塞いだ。
「おめぇら隊長が斬られなけりゃいい話だろうが」
自然な理屈だろう? とでも言いたげに、フンと鼻を鳴らす土方だった。
非番の日にはいつも、朝からいそいそと町に出掛ける葦原を山崎が呼び止めた。
「沖田はん、どこ行くんです?」
「ふぇっ? 内緒ですよう!」
と言いながらの、葦原の
「ヤベェのに見つかった」
という表情を山崎は見逃さない。
「俺も付いてってもええですか?」
「ぜぇったい、ヤですぅ」
甘ったるく微笑んで言いながら、葦原は
「マジ付いてくんなよ」
との気迫に満ちている。
普段ならそれでも気にせず尾行するであろう山崎は、ある直感によりそのまま見送った。
唯希に会うつもりだと、分かってしまった。
唯希が身籠っているかもしれないという疑惑は、山崎には珍しく胸に仕舞ったままだった。
葦原は何も知らず、既に人妻となった幼馴染みの実家の方へ向かった。
嫁ぎ先がどこかなど、近所の者に聞けばいいと考えていた。
町中を探しても見付かる気配すらないことにうんざりし、直接会いに行く決心をしたのだ。
奪う気など及ばず、ただ、顔が見たかった。
必死の葦原を余所に、唯希の方が先に葦原を見付けてしまった。
キョロキョロと首を動かしながら人混みをすり抜けていく後ろ姿に身を隠しながら、愛しさに、目が逸らせない。
擦れ違う何人もの女が、葦原の容姿を振り返る。葦原に憧れることに何の障害も持たない女達を、唯希は羨ましく感じた。
わたしを、捜してくれているの?
またあの目に見詰められあの声で名前を呼ばれたなら、もう夫になる人の元へは、父の元にさえ帰れないからとあなたが目覚める前に居なくなったわたしを?
叶うなら……あの背中に追い付いて、並んで歩きたい。
でもどんなに想っても、今生で結ばれてはいけない二人だから。
唯希は逆方向……夫と暮らす家への道を急いだ。
あの日、二度と会わないと誓ったのだから。
栄養が頭に回らず殆んど顔にいってしまったのだとよく冷やかされる葦原とはいっても、初対面の町人相手にいきなり本題を振っ掛けたりは、いくらなんでもしない。
「ここの家のお嬢さん、嫁がれたってのは本当ですか?」
話好きそうな、ふっくらとした如何にも近所のおばちゃん的な好人物に世間話を振り、以前は病弱でここのお医者様……つまり唯希の父には随分お世話になったと、無い悪知恵を働かせて同情も引いたところで持ち掛けた。
思惑通りこの界隈の噂通、井戸端会議の長は、お喋りな人に有りがちだが何故か誇らしげに演説した。
「あのかぁいらしい娘? よぉお父はんの手伝いするわ、いっつもコロコロ笑てはるわでええ娘やしぃ……あないに立派な旦那はんに嫁ぐの当たり前やわぁ。二人並んだトコなんて、なんやお雛さまみたいやで」
前半は全く同意見だが、後半になると葦原は来たことを後悔するくらい打ちのめされた。構わず息継ぎを終えた“長”が続ける。
「子ぉができたんやて! お医者さま、初孫やぁ言うて目尻下がりっ放しやったわ」
「嫁ぎ先を……教えてくれないか……?」
会って何を言うつもりか……わからないまま、素直な言葉が口をついた。
おばさんの方は何故ここまで切羽詰まった声で深刻がるのかがわからない、といった様子であっさりと唯希の居場所を聞かせた。
剰りにも走った為、帰り道の唯希に追い付いた。
「唯希!」
唯希は立ち止まり、肩を震わせて振り返る。
“他の男の妻”ならば、その愛しい声で呼ばれるからこそ走り逃げなければいけない。
そう、十分に知っていながら。
「……ナギちゃん……」
唯希の呼び声、最後の一声は、葦原の胸の中に籠った。
「ナギちゃ……ダメ……ッ!」
ギュッと腕に力を込め、細い首筋に顔を埋める。
「……ったかった……」
“会いたかった”
その吐息の途端、唯希の視界は涙で曇った。
“わたしも”
とは言えずに歯を食い縛る。
瞳を閉じ溜まった涙を、想いを振り払う。
「……っ離して! わたし……家族が……待ってるから!」
大きくなった腹を気遣いながらも、手を緩める気は起きなかった。
「厭だ。帰さない」
恋しくて、恋しくて仕方がないのに、その人を突き放したくてムキになる。
背中に添えることができない、下げたままだった手で二人の間を阻み、腕の中でもがく。
「……ごめんな……子ができたんだろ?」
ハッと唯希の動きが止まり、悲鳴のような声が響いた。
傍に誰も居ないかのように。
「あの人の子どもだもん!」
「俺の子だ」
「違う!」
やっと躰を離すと唯希は俯き、真の別れの言葉を口にした。
「子どもは、あの人と育てるの。もうあなたとは……会わないから。会いたくないの」
唯希は葦原の気持ちそのまま、葦原との子どもだと知っていながらも喜びの顔で夫に報告していた。
その表情は無理に作った訳ではない。
これでナギちゃんと、ずっと繋がっていられる。
誰にも言えない本心だった。愛という名の狂気だった。
自らの胸の内に潜む暗闇に罪悪感を覚えながら、だから葦原に会ってはいけないと思った。
後の唯希は葦原が新撰組の沖田を装っていることなど知らないまま、女児を出産。しかし生涯一緒にいられると信じていた葦原の面影は、病の中で早世する。
それでも葦原に生涯会わないという意思は貫いた。
この世のどこかで生きていてくれると思うだけで、救われた。
葦原が屯所の門を潜ると山崎が出迎えた。
「なんや、帰ってこないやろと思てましたわ」
冗談めかした台詞とは裏腹、冷やかしのニヤリ顔ではなく見慣れない真顔だ。
「……ええ? 帰ってきますよ、そりゃあ」
適当にあしらおうという雰囲気丸バレで素通りしたが、山崎が許す筈がない。
「葦原!」
一声大きく呼ぶだけで葦原はツカツカと逆戻りした。
「お前なぁ! 俺に死ねってのか!」
正体がバレたら殺されるだろと、抑えた声で怒鳴る。
知らぬ顔で無視すればいいのに、と内心可笑しがりながら山崎は耳打ちした。
「ゆいちゃんと、駆け落ちでもする気やなかったんか?」
すると葦原はその場にしゃがみ込んでしまい、膝に額を付けたまま呟いた。
「想い合うだけじゃ、一緒になれねぇ二人もいるんだよ」
「意気地の無いことやなぁ……そない弱音吐かんで、かっ拐ってまえ!」
顔を伏せたままの葦原を元気付けようと態と明るく言うと、葦原は急に立ち上がった。
「……できるかよ……あんな必死に、会いたくねぇって言われたんだ」
道場に向かって歩き出す。
「そんなん、本心やないって分かっとるやろ?」
歩きながら、付いてくる山崎に言った。
「俺は、一人の男である前に倒幕の志士だった。その俺が沖田を装ってでも生きると決めたんだ。一度決めたからには、死ぬまで新撰組隊士を全うする」
山崎はかつての頼りなさ気な葦原からは想像もつかない台詞に一瞬キョトンとし、後は自然と口の端が上がってしまうのを我慢できなかった。
「……えらいこっちゃ……オトナになったやないか!」
小煩いと思いながら、葦原はシッシッと言うように後ろ手を振った。
内心、自分でさえ気付かなかった隠された本心に驚きつつ、葦原は唯希と決別した。
これが、永遠の別れになるとも知らずに。
葦原はより一層稽古に励むようになった。
一方伊東甲子太郎も、山南の死後より一層隊内で暗躍を始める。
鬼の土方が厳しく叱咤するのに対し、それを見計らったように伊東が穏やかながらも皮肉に的を得た表現で励ます。そうして隊士達を取り込んでいった。
加えて、常に冷静な反面新撰組を愛し、幕府内で近藤の立場を大きくする為に躍起になっている土方を、何とか負かしてやりたいとの思惑があった。
「土方くん……よかったですね」
突然副長室を訪れ、にこやかに口を開いた。
「……何がですか」
まさかこの野郎、
「何かと反発する山南総長が消えて」
とか言うつもりじゃねぇだろうな。
伊東が自分の部屋に居るだけで気に食わない土方は、不機嫌さを隠すこと無くぶっきらぼうに言った。
「勿論、沖田くんのことですよ」
狐め……何が言いたい?
目線すら合わせなかった土方は眉間に皺を刻み、伊東の腹の底を窺おうと弛んだ顔を見つめ返す。
「あなたの美しい顔からそんな熱い視線を送られると、ドキリとしてしまいま
す」
土方は心中でここにはとても書けない悪態を吐きながら、ブチキレるのを抑えた。舌打ちの代わりに溜め息しながら話を戻す。
「うちの沖田がどうしました?」
伊東はクスリと笑う。
「大変な病だったのでしょう? “急に”元気になったようで……本当によかった」
してやったり。
無理に狼狽を隠しながらも表情を固める土方の様子を堪能しながら、伊東は心から微笑む。
「……ええ」
何故、総司の病を……というより、“本当の総司”を知ってやがるんだ。
新撰組の内部情報は調べているだろうとはわかっていたが、そんなことまで探ってどうする気だ。
直に訊く、という冒険を敢えて決行した。
「立派なイヌをお持ちのようですね」
どうやって調べやがった?
土方は互いに尊敬し合う新撰組の仲間同士、という仮面を思い切って剥ぎ捨てた。
「私のイヌを使ったなんてそんな行儀の悪い……“あなたの犬”を使っただけです」
隊内に、裏切り者が……?
あくまで微笑を絶やさずにはっきりと挑戦してくる伊東に、土方は最早冷静な副長を演じる気も失せた。
「そりゃあ、お上品だな。俺の女にも見習わせたいぐれぇだぜ」
あんなに懸命に、健康を装いながら隊務を続けた総司の異変に気付く程に親しく稀有な観察眼を持つ……つまり幹部隊士だ。
「あらら。妬けてしまいますね」
その中で伊東とも懇意の者と言えば……疑わしい人物はかなり限られる。
土方が、信じたくないと思うような人物だ。
慶応三年十一月十五日、一人で屯所の門を出て行く原田左之助を見つけた最近よく眠れずに廊下を歩いていた葦原はその後を追った。周囲に気を配りながら早々と、いつも五月蝿いぐらいの足音をヒタヒタと静かに忍ぶ原田に、葦原は背後から声を掛けた。
「左之助さぁん? 夜這いですかぁ?」
「……! 総司!? おまっ……ビックリさせんな! つかそのツラで夜這いとか言うんじゃねぇ!」
殺気すら漂わせていた筈の原田は、不自然なぐらいにいつも通りの様子で息だけで喚いた。
「じゃあこんな夜中にどこ行くんです?」
「ガキには言えねぇところぉ」
原田は隊内でも一、二を争う美形のくせに、おどけたような声で語尾を伸ばした。ムカッ腹を立てながら、葦原は意地悪気に首を傾(かし)げた。
「夜這いじゃないんなら連れてってください」
原田は態とではなく、本気で迷惑そうな顔をした。
「ゼッテェ駄目だ。帰って寝ろ」
またガキ扱いかよ。
その思考から一時、葦原の意識と記憶が中断する。
沖田が、現れた。
「僕でも、役に立たないですか?」
原田はハッと黙り込まされた。
葦原の双瞳の様変わりではなく、自分の目的に気付かれたことそして、沖田の手を借りる、という方法に目が醒めた。
ゆっくりと、試すように打ち明ける。
「中岡……彼奴を、斬る……!」
土佐の中岡慎太郎?
既に戻された葦原は記憶のずれを意識しないままその轟く“勇名”の志士に、それ以上に原田の決意に驚いた。一度会ったきりの坂本龍馬の盟友であることも知ってはいたし、反面公武合体派である坂本に対し実は倒幕派である人物だとも“有名”だった。
「……先生と……土方さんはご存知なんですか?」
土方に命じられた暗殺かとも考えた。
しかし隊士を死なせない為に万全の体制を整え、一人の相手に対しても大勢で斬り包む戦法……端から見れば卑怯とも言われる手段を使う土方らしくない、と葦原も気付いていた。
「いや、誰も知らねぇ。俺の私怨だ」
「……何が、あったんです?」
原田はもう躊躇わず、全て打ち明けた。
「奴は……」
“私ノ闘争ヲ不許”
局中法度に照らせば切腹必至だ。
しかし理由を聞いてしまったばかりに葦原は頭にすっかり血が上り、ノコノコ付いて行った。
坂本龍馬が身を隠す、止宿・近江屋。
後世にまで広く名を残す、坂本龍馬、中岡慎太郎終焉の地。
「龍馬、後藤象二郎に話したっちゅう“船中八策”……アレ本気がか?」
赤々と燃える囲炉裏火に手を翳し、パチパチと弾ける音と合わせて風邪気味な相方の咳を聞きながら、中岡は重々しく口を開いた。
船中八策とは坂本が発案した、現代にも通じる程に良く出来た近代日本政治の在り方の構想で、これを基に後藤は大政奉還の建白書を幕府に叩き付けた。
「新しい世に、徳川さんを残して置くっちことか?」
坂本は大欠伸をしながら聞き返す。
「そこがイカンのは当たり前じゃ! ……俺が言っちょるんは、江戸幕府崩壊後の政界役職……何でおまんの名がどこにも無いんじゃ!」
今度は耳を掻きながら、ゴロリと寝っ転がった。
「慎太は相っ変わらず細っかいのぉ! いらんいらん! わしに地位や名誉は重たいだけじゃ! 身動きがとれんき!」
当然のように言いながら銃声並みのクシャミを豪快に響かせ、
「寒いのぉー」
とブルブル身震いをして起き上がるとまた囲炉裏の前に固まった。
「乙女姉に約束しちゅう“日本のせんたく”……終わったら、わしは海を越えるんじゃ! 世界で海援隊をやっちゃる!」
中岡は堪らず
「はあぁー」
と深く息を吐き、大人になるにつれて固くでっかちになった頭を振った。
この捉え所の無い糸無し凧のような自由な男が羨ましく、憧れすらあった
「龍馬に……日本は狭いっちゅうことか……」
階下で鈍く大きな音がした。
「何っじゃ五月蝿いのぉ!」
「ほたえなや慎太……藤吉じゃ。軍鶏鍋が食いたいっち頼んだきに、買って帰ったんじゃ」
中岡の怒声で、その坂本の従者・藤吉の痛々しい悲鳴までは聞き取れなかった。
階段を騒がしく上がる音をそんなに急いで来てくれたのかと嬉しく思い、坂本は出迎えようと入り口前に立ち上がった。
襖を開けたのは、剣客の顔をした葦原。
「……っ坂本……!」
上りきった血が、一気に引いた。
坂本の方は一瞬
「おお!」
と顔を喜ばせた時だった。
「退けっ!」
立ち止まる葦原をイライラと押し退かし、原田が斬った。
「龍馬あ!」
中岡の絶叫が空を裂く中、葦原の目の前で坂本は俯せに倒れる。脳漿が出る程深く額を割られ、ピクリとも動かない。
……俺は、止めるべきだった……あの時原田を。
今は遠く、さながら鮮明な池田屋のあの時、沖田を斬らなければならなかったように。
俺の短慮、未熟さで……また人が死んだのか。
「中岡……貴様を斬りに来た。抜け!」
「よくも!」
言い終えるより先に、中岡は猛然と斬りかかる。
「こっなくそ!」
原田は血眼で応戦するが、ついさっきまでガックリと肩を落とし顔中に坂本の鮮血を浴びた葦原がスッと横合いから、いとも軽々と中岡を斬った。
茫然と、原田は背の高い葦原を見上げる。
「早く逃げますよ」
口の端に笑みさえ浮かべた、遊びに熱中する子どものような横顔……沖田総司だ。
何の因縁も恨みも無い坂本龍馬を目的の為に迷わず斬った自分を棚に上げ、心底不気味な恐怖を満喫しながら残像として脳裏が刻んだ。
二人の刺客は、惨劇の広がる近江屋を去った。
返り血の付いた羽織を脱ぎ捨てつつ、屯所への帰り道を只管に走る。
「……総司……っなんで中岡を斬りやがったっ!」
「だってッズルいですよっ左之さんばっかりっ」
狡いって……人の命をなんだと思ってやがる。
人間らしく息を切らしているのがそぐわないぐらいに涼しい顔だが、まさかその呼吸、態とじゃないだろうな……と寒気を感じながら原田は立ち止まった。
「言っただろうが! 中岡は……俺の女の仇だ!」
話した筈だろ……彼奴は俺が昔愛した芸妓を斬り捨てた。
遊郭で中岡が声高に新撰組批判をしたのを咎めた……というだけの理由で。
それからずっと、奴をこの手で斬ると墓前に誓って生きてきた。
沖田も立ち止まり、んんっと伸びをした。
「私怨絡みの相手には、気ばかりが先走りうまく実力が発揮できないものです。それに……万が一バレた時には、一緒に捕まってあげますからねっ」
“共犯”を全うしたってのか。
もう何も言えなくなった原田は、また走り出す。
「……久し振りで、我慢できなかったんです」
沖田は小さく消え入るような声で、本性を吐いた。
坂本は即死。
中岡は下手人の特徴を怨念混じりに遺し、二日後に死亡した。
真相は闇の中。
現代でさえ、真犯人は判明していない。
自分の知らぬ間に沖田が表に出ていることには気付いていたが、話しかけてもまた茶化されるだけだと放っておいた。
「総司、葦原はどうした?」
しかし三日経っても、葦原に戻らない。
こんなに長い時間入れ替わっているのは初めてだ。
「……毎回感心しちゃいます。よく僕だって判りますねぇ」
少しも悪びれず沖田は言う。
「一目瞭然だ。つか俺がお前を間違える訳無ぇだろうが」
なんであなたがそれを言うんですか。
先生に……言って欲しかったな……。
「あのコ、死んでしまったんですよねぇ。もしかしたら、ずぅっとこのままかも」
土方は沖田の頬を打った。
沖田は、軽く避けられるのに関わらずそれを受けた。
「バッカ! 当たっちまったじゃねぇか!」
思い切り裏拳をかましておいた土方が見る見る赤くなり始める頬に触れようとするのを、沖田は顔を背けて遮る。
「歳三さん、僕よりあのコがいいんだ」
「……どっちがいいとかじゃねぇだろ」
そんなヘマをしたことは無いから知らなかったが……浮気がバレた男か俺は! という心境で土方は言った。
だがこの場合は選ぶ以前に、片方は既に死んだ人間だ。
「別にいいですよーう。嫌われたってぇ」
「お前、口ん中切れてんじゃねぇか?」
すっかりヘソを曲げた沖田の口角には血が滲んでいた。
どうせ受ける気なら歯ぁぐれぇ食い縛っとけよと呆れながら顎を掴み、口を開けさせる。
今度はすんなり触らせるのを、なんて気まぐれな野郎だと思いながらもホッとした。
「……痛かっただろ」
ザックリとした血が次々出る傷口を顰めっ面で眺めると、沖田はされるがままの姿勢は崩さず土方を睨み付けた。
「……今の新撰組は、あのコの手には負えません。僕なら、先生のお役に立てる」
土方はつい直前まで傷を労っていたその手で、襟元を握った。
「まさか、葦原を殺したのか?」
それでも沖田は動こうともせずに言う。
「……ご想像にお任せします」
俺がもっと早く、葦原に告げていれば。
もっと早く解決していれば。
こんなことにはならなかった。
いや必ず、葦原を戻してみせる。
それが総司を消すことでも。
当然の道理だと加え、もう総司は休むべきだとも思うからだ。
あまり物事に執着しない性質であった筈の“剣術バカ”からの質問に原田が意外そうに目を丸くすると、
「原田さぁん、どうして中岡さんが近江屋に居るとわかったんですかぁ?」
沖田はもう一度言い直した。
「誰に、聞いたんです?」
原田は沖田の意図が全く読めず、何気無く答えた。
「平助だ。俺が中岡を斬ってやりてぇって話をしたら……」
途中、沖田は笑顔で遮った。
「ふぅん、わかりましたぁ」
その名を聞き沖田は、原田に居場所を知らせた者の裏に黒幕が居ると踏んだ。直接知らせたのは藤堂だとしても、それを指示した者が居ることは明白だった。そして藤堂にそんな指示をできる者は、ただ一人だ。
こんなに積極的に“暗躍”する沖田は初めてだ。
「はじめさぁん、ちょおっとお願いがぁ……」
呼び止められた斎藤は、外見や語尾を伸ばす甘い口調、口元で両手を合わせる仕草は沖田でも中身は葦原だと思っている為、かなりの寒気を覚えながら半ば睨み付けて応対した。
「なんですか気色悪い」
沖田は
「ヒドイッ」
と斎藤の肩を小突いてから言った。
「久し振りに、お相手してもらえませんかぁ?」
“久し振りに”……?
あの試合以後も何度か稽古してきたではないかと、斎藤からしては意味不明の申し出だった。
「あまり人前で敗けてばかりでは、“沖田さん”の立場が無くなると思うが」
葦原へならば、飛び切りの嫌味だ。
まだ斎藤には正体がバレていない沖田は、カラカラと声を上げて笑う。
「僕が負けたことがあるのは先生だけですよぅ」
ああ、演技を貫く気か。
そう気を取り直し、斎藤は持稽古を承諾した。
それを聞かれるのすら誇りが許さない……目一杯低く小さく舌打ちが漏れた。
刀を手にしながら腰を着けるのは、多摩・試衛館での稽古以来だ。
「ごめんなさぁい」
周りの平隊士達のざわめきと試合相手のはにかみ笑いの中、すんなり吹っ飛ばされたのは斎藤。
“他流を極めた永倉・斎藤をしても、てんで赤子扱いであった”と盛大に賞される、常人離れした沖田の腕前だ。
葦原……いつの間に腕を上げた?
「早く来て? はじめさん?」
認めなくないが、ほんの一瞬しか感じられなかったものの、相手の動きを読みきったこの太刀筋はまるで……沖田総司だ。
いや、剣の癖どころか対峙すると人格が変わるこの感じは……葦原、どうやってここまで沖田さんに近付いた?
斎藤は奥歯を噛み締めながら、立ち上がろうと片膝を付く。
「愉し」
見下ろす沖田は子どもの無邪気さで呟き、フッと吐息で笑った。
道場内は沖田の神業に圧倒されシンと静まっていた為、挑発的に聞かせようと言ったのではなかった“素直な感想”は斎藤の耳にも入った。
「……泣いても止めないからな」
立ち上がり様、斎藤は屈託の無い笑顔に向けて木刀を擦り上げたが弾かれる。
「ゼヒ、泣かせて、ください?」
沖田は連続して五度打ち込まれるが、全て軽く躱しながら今度はハッキリと言った。
そして妙技の合間を潜り、斎藤の首元に剣先を合わせた。
力が抜けて板間に吸われた木刀が落ちると、斎藤は背中を汗がスッと流れるのを冷たく感じた。
「“参りました”は?」
プイッと剣先を外した沖田は、信じられないという形相の斎藤に笑い掛ける。
この俺が、葦原に敗けたのか……?
その場に二人しか居ないかのように見物人の気配さえ消えた中、芝居染みた感嘆の声が上がる。
「お見事!」
パンパンと大きく両手を鳴らすのは、満面の笑みの伊東甲子太郎だ。
近付いてくるのを斎藤は一瞥して木刀を拾うが、次の言葉で米噛み辺りが更に引き吊った。
「流石は新撰組一の剣客! 素晴らしいですね! 思わず見とれてしまいます!」
沖田は“待ってました”の心境を押し殺し、恥ずかしそうな顔を作った。
今まで散々避けておきながら……伊東を毛嫌いしていたのは葦原だが……急に話し掛ければ何事かと構えられてしまう。
如何に向こうから声を掛けさせるか、全ては沖田の計略通りだ。
「またまたぁ! 北辰一刀流免許の方が何をおっしゃるんですかぁ」
幼少より近藤から学んだ天然理心流こそ実戦では最強だと誇りながらの台詞なので、内心では真っ赤な舌を出す。
「私の目の前でこんなに仲良くなさるなんて、見せつけてくださいますねぇ斎藤さん。私と代わってくださいませんか?」
伊東は、沖田にしては明らかに“この沖田総司はホンモノか”を確かめるという思惑があるように見える。
遂にここまで疑うのはやはり、不治の病からの異常な回復のせいだ。
土方も山崎も、演じさせるならそこまで演らせるべきだったのかもしれない。
しかし病にさえ気付いていない者が多かった故の油断が生じた上に、新撰組が見くびられない為の代替なのに目に見えて病弱では意味がない。
一方斎藤は、どこが仲良いんだと心中で苛立ちながら道場を出て行ってしまった。
「さぁ、始めましょうか」
沖田と伊東の試合何ぞに目もくれず、斎藤は山崎に訊ねた。
「山崎さん……いつの間にあんなに仕込んだのですか?」
伊東の粗探し権は斎藤に譲ったものの、諜報活動専門……殊に此処、念に念を入れて情報を集めたがる新撰組の、鬼副長が直接指揮する監察方山崎の仕事は多忙を極める。
若干忘れかけていた葦原の話題を振られ、キョトンとしてしまった。
「へぇ? あいつ、なんかやらかしましたか?」
「いや……、剣技の……ことです。足捌きまで瓜二つになっていた」
斎藤は自分の見立てでは鏡新明智流目録程度の相手……ちなみに見立ては当たっているが……格下であった相手に手も足も出なかったことを苦々しく思い起こしながら渋々言った。
「はぁ……ってそれ! ……“ホンモノ”ですやん!」
恥を忍んで訊いているのにイマイチ手応えの無い反応だった山崎が急に目を冷ましたように言うので、今度は斎藤が、想像以上に可愛らしくキョトンとした顔になった。
その様を見て、山崎は自らに突っ込んだ。
俺の阿呆! 斎藤はんはまだ知らんかったんや!
「“本物”……? ……どういう意味です」
「そぉんなこと言うてまへぇん」
などと誤魔化しの利く相手では勿論無いので、結構な度合いでアワアワしながらも、ええいと白状した。
「信じられへんと思いますけど……葦原に、取り憑いてるんですわ」
「……沖田、総司が……!?」
予測外れず斎藤は小芝居並に驚いたが、すぐにフンッと鼻で笑った。
「……怪談話の時期ではないですよ」
山崎は態と“ガーン”という演技で応戦する。
「ちょっ! なんですかその目ぇは!」
と、言われる斎藤は“世迷い言を”という疑惑の目付きだ。
「俺かて最初は信じられへんかったですよ? 副長はんが言い出したんです」
「副長が?」
今度は斎藤が、しかも地で“ガーン”とする番だった。
「……冗談は句作だけにしてほしいものだ」
土方の、お世辞でやっと“素朴でいい”と言える俳句を思い出しながら斎藤は苦笑した。
豊玉宗匠・土方本人は近藤・沖田しか知らないと信じているが、沖田は唯一、斎藤にだけは心底嬉しそうにバラしていた。
口調は小バカにしていたが、少し自慢げにも見えたものだ。冷たく血の滴る鬼を演じているが、根は優しい気性のどこか可愛らしい人なのだと……そして自分はそれを知っていると。
一方どこから調べたのかその句を脳裏に浮かべた山崎は、爆笑したいのをなんとか堪えて言った。
「信じられへんのでしたら、沖田はん本人に聞いてみればええですよ」
そういう自分もまだ半信半疑なんですけど、という言葉は言わずに置いた。
つい瞬きまでざわめきに満ちていた。
立ち込めるのは身を縮ませるような殺気。
その主は紛れもなく沖田総司。
向かい合った沖田と伊東は、ピクリとも動かない。
両者全く打ち込まずに剣先を重ねている。
息を吐くのも躊躇う空間だ。
互いに、臆しているわけではなく出方を窺っている。
気だけで闘っている。
京に潜む倒幕派を震え上がらせた笑う死神・沖田総司と言えども、若造ではないですか。
ビリビリと伝わってくる剣気を受け、これは“本物”……自分の考え違いであったと伊東は、しかし青いと嘲笑する。
反面、手にしているのが真剣ならば立っていられないかもしれない、とも感じた。
天然理心流が道場試合に不向きで助かったのは、私ではなく君の方ですね。
「……伊東さぁん? 僕、腕が痺れちゃうんですけどぉ」
この状況でよく軽口がきけるものだと、満場一致の空気が流れた。
幼少から鍛練した腕は疲れている筈が無く、早く打ってこいと誘ったのは誰の目にも明らかだ。
ならばそちらからどうぞ? という余裕の微笑みを見せる伊東は、剣先を右にずらし態と隙を作り挑発する。
気に入らないな。
沖田はグッと目を細める。
始めから自ら攻める気は無く伊東が打ち込む瞬間を狙い、躱して一本を取る気だった。
攻撃に出る時に隙が出るからという理由ではなく、伊東の高い鼻をポッキリ折ってやりたい。
定石では、面に来た相手への出小手。
抜き出た素早さがなければできない技だ。
次に分かりやすい隙としては相手の呼吸。
必ずと言って良いだろう、攻撃に出る前には空気を吸い込む。
やり過ごしてきたが、次の隙には打とうと思っていた。
誘って油断させたつもりの伊東が、息をスウッと吸ったのを見逃さない。
斎藤の時と同様、ここぞと言う必殺技・天然理心流平突き。
態々相手の木刀を掠って、首の皮一枚で止めた。
「取ぉった!」
「参りました」
クスリと笑う沖田と同様の顔付きで、伊東は穏やかに微笑んだ。
道場内に沸き出る拍手の中、沖田の横目は静かに伊東を捉える。
敗ける気だった?
「オモシロイ人だなぁ」
この試合を切っ掛けに伊東に興味を持った振りをして、取り入るつもりだったが……演技など不要。
本音で、そう言った。
寒さに足裏の感覚も薄い、廊下を渡る沖田の手首を乱暴に掴むのは永倉。
「……あ……おはよぉござぁまぁ……」
「葦原キサマ、“また”寝返る気か」
朝稽古の道場に入るまで中々目が覚めずボケッとする、現代で言う低血圧な沖田を容赦無く捻上げる。
「ッいたぁい!」
まだまだ寝ている隊士も多い中、なんだなんだとドキドキ無理矢理起こされてしまいそうな艶声が響く。
「その調子で伊東に媚売ってんのか」
気にも留めずに、いや永倉までドキドキされても困るが、それどころかかなりムカムカとドスの利いた声を出す。
「……離して」
スルリと腕を回して、容易く永倉の手を解いた。
呼び止めるのを完全無視で沖田が走り去った後、やはり低血圧っぽい土方が背後から現れる。
「ナニ朝っぱらから騒いでんだ」
いつから見てたんだよ、と余計苛ついて永倉は腕を組む。
「葦原の野郎、ここんとこ伊東にベッタリじゃねぇか」
「ああ……」
そのことか、と土方は納得した。
「だから言っただろ。その内、寝首をかかれるぜ」
斎藤同様永倉も、沖田の存在に気付いていない。
「……あいつは、近藤勇を裏切るぐれぇならテメェが死ぬだろうよ」
とは、沖田のことである。
土方は永倉から見たら何の根拠も無いのに、自信たっぷりに言った。
当の沖田は死んでいるとは、土方の頭を過りさえしなかった。
かつていつも一番乗りだった沖田が道場に入ると、既に斎藤が素振りをしていた。
乱れの無い律動で、風を切る音が響く。
「居ないと思ったら、やっぱりここでしたかぁ」
沖田が健康であった時と同じように、二人は同室。
―…
「起きてくれないとぉ、オデコに“肉”って書いちゃおっかなぁ」
―…
本当にやりそうで怖い冗談で起こすのが沖田の日課で、沖田は知らないが狸寝入りを続けるのが斎藤の日課だった。
斎藤は見向きもせず無言のまま力強く木刀を振る。
この男に無視されるのなんて、慣れっこだった
「おじゃましまぁす」
―キシッ
一歩道場内に入り剣道の礼法通りに一礼すると、沖田はツカツカと斎藤に近寄る。
「……邪魔」
「そんなぁ」
斎藤は顔色だけ歪め、あくまで躰を休めない。
―ヒュッ!
―ヒュッ!
―パシッ
……この野郎……。
斎藤がガラにもなく心中で悪態吐いた原因は、素振り中の木刀をなんと片手で掴まれたからである。
斎藤の瞬発的な速さに加え、適度に腕を絞り力の込められた素振り中の木刀をもしも喰らったら、腕の一本や二本は軽く折れる。
仮に葦原にやらせれば、ビビりまくるのは想像に容易い。
……有り得ないだろ。
斎藤の悪態通り、常人ではない。
“剣道三倍段”……木刀を持っていない者が持っている者に勝つには三倍の段を有する程の実力が必要との法則からすれば、哀しいことに沖田の腕前は少なくとも斎藤の三倍である。
「僕に言いたいことがありますよねぇ? 黙ってられると気持ちワルいんですけどぉ」
木刀を握ったまま微笑む沖田から顔を伏せながら、斎藤は聞こえよがしに大きく溜め息した。
「訊いて、あんたが答えるなら訊く」
ちゃんと本当のことを、真面目に答えるのなら。
斎藤はかなり力ずくに、沖田の手から木刀を抜いた。
「う~ん……どうしましょう?」
ふふっとはぐらかされるのは、まぁ予想通りだと聞き流した。
「……沖田さん……なのか?」
笑顔は消え、沖田は真顔で言い返す。
「そんなに僕に会いたかった? しょおがないですねぇ」
せめて冗談らしく、笑って言ってくれ。
「勝手に死ぬなど……あんまりだ」
斎藤は目を閉じる。
毎日のように繰り広げられる豪剣犇めく激戦の中、唯一安心して背中を預けられる、競い合える、共に戦いたいと思える相手だった。
会津の殿……京都守護職松平容保公に命じられ、上洛する直前当時の試衛館を浪士隊志願者が居る何十もの道場を数人係りで廻ったのと同様、身分を明かさず偵察した。
腕を測る為だけの筈が当時道場主であった近藤局長の……言いたくはないが、泰平に甘んじる幕臣らなどとは比較にすらならない大樹公への忠心、そして沖田さんの剣技に打ちのめされた。
裏切り狸の浪士隊発案者・清河八郎から分隊し、京に残留すると言う浪人達の動向を報告するからと、自ら志願して入隊した新撰組に対する信念なら俺も負けない……局長を、そして幕府の土台を支えていけると信じていたのに。
「……池田屋で血を喀いて……肺腑から上ってきた血が喉に詰まって、咳が止まらなくて息ができなくて……駆け付けてくれた土方さんの胸は泣きたいくらいに温かだったけれど、僕の躰……どんどん冷たくなっていくんですよねぇ……。固まった手足……動かしたくても、動かないんだもん」
葦原の手を朝陽に翳(かざ)し、甲に平にくるくる引っくり返す。
「イヤになっちゃいますよねぇ?」
涙の一つでも溢しながら言うべき科白を、何気無く笑う。
「……それで悔しくて……葦原柳に取り憑いたと?」
まるで気になる女の子の気を引く学童だ。
こう言ったら傷付くか、なんて心配するのはいつも後の祭り。
「イッジワルゥ。……あのコが悪いんですよ? 僕とそっくりの顔で、“僕のマネするから”」
「おはようございます! 沖田隊長! 斎藤隊長!」
ぷくっと膨れるのを
「はぁ?」
と呆れると、ガヤガヤと平隊士達が入ってきた。
「……遅い。素振り五百本」
地獄でも見たような阿鼻叫喚の中、
「オジサマが早過ぎなんですよねぇ?」
と末端隊士らにはどうしても同意し難い味方してくれているんだか微妙な愚痴を聞かせてから、沖田は
「僕もやろぉっと」
と木刀をブンブン振り出した。
なんでこう……相変わらず会話ができないんだ、あんたは。
不可解な“沖田語”を恨みつつ……いや、あんた俺より二つも年上だろう、と馬鹿正直に突っ込んだ。
一方沖田は、少し喋り過ぎたかもと頭を掻きたい心情で、素振りに専念していた。
かつての沖田の病名を知りながらも伊東は、偽者と入れ替わったのではなく本当に治ったのだとあっさりと信じ切ってしまった。
幕末当時の労咳……肺結核と言えば不治の病という印象が強いが、抗生物質・ストレプトマイシンが発見され特効薬が開発される以前でも完治する例はあった。
両親、姉を労咳で亡くしている土方も幼少時に感染していたが、すっかり治っている。
その土方にしては好都合にも、沖田は伊東に接近し腹を探る。
紅顔で小姓向きとでも言いたくなる容姿な分、仏頂面が板に付いた斎藤よりも適任である。
とは言っても色っぽい展開は無く、巧みな言葉だけで薩摩藩との繋がりをむしろ得意気に吐かせた。
長州藩に対し幕府を支持していた雄藩は坂本龍馬の仲介で寝返り、あくまで武力討幕に執着するのに邪魔になった坂本の暗殺を企てていた。
西郷隆盛の腰巾着・中村半次郎という、難無く成功を収められる人斬りもいる。
しかし直接手を下してもしも明るみになったら、海援隊どころか土佐藩にも怨まれ戦にまでなりかねない。
最良の策は、なんとか佐幕派にやらせること。
そこへ魚心に水心、狐がネギ背負って現れた。
新撰組参謀・伊東甲子太郎。
熱心な勤王家であった伊東はいつしか討幕派に傾倒し、幕府の大隊・新撰組隊士を巻き込んだ分隊を企てていた。
そこで、間接的にではあるが薩摩藩と接触。
分隊後の筋道を手探りする。
「新撰組の原田左之助が、中岡慎太郎を亡き者にしようと画策しているようです」
薩摩としてはこれを、利用しない手はない。
元々承知していた坂本の潜伏場所、いとも簡単に調べた中岡が訪れる日時を教えた。
原田の意思、薩摩からの情報を仲介したのは、江戸試衛館からの古参・藤堂平助であった。
「納得しました。あなたが新撰組を“とってもよく”ご存知なのは、平助くんが筒抜けにしていたからなんですねぇ」
藤堂は仲の良かった永倉や原田、沖田を避けたまま伊東と共に御陵衛士……表向きには、先日崩御した孝明天皇の御陵を警護する隊として新撰組から分離。
伊東は熱心に沖田を誘ったが土方がそれを許す筈がなく、斎藤が間者となり御陵衛士に溶け込み、その動きを綿密に報告した。
斎藤が副長独断の密命を受けて御陵衛士に加わる前夜、ふと漏らされた言葉に整った眉をピクリと動かしたのは土方だ。
大したことを言った気がしない斎藤は、その反応に逆に驚かされた。
―…
「僕のマネするから」
―…
「……総司が言ったのか?」
重大な意味を持つのではと愕然としたのは、土方の直感だ。
「どうしました? 顔色が蒼白ですが」
沖田が葦原と入れ替わる理由に……沖田がこの世に現れ出る理由に近付いたのでは、と思うと迂濶に追求できない。
解決すれば葦原が戻ってくるとしても、沖田とはもう、会えなくなる。
まだ迷っているのか……俺は。
「あまり思い詰めるとハゲますよ」
何故だか機嫌のいい斎藤が、腹の底では含み笑いをしながらクソ真面目な顔で言う。
「テメッ! とっとと行きやがれ!」
土方がそこら中の物を何かしら投げ付けようと瞬時に物色し始めるが、綺麗好きが仇となりあまり散らかっていない為に手間取り、斎藤はそそくさと副長室を出てしまった。
一方で沖田は真実に辿り着くのを待っている気がして、聞かずにはいられなかった。
と、いうわけで伊東や斎藤らが出て行った後に早速土方は沖田を探すが、やはり道場にいた。
暇さえあれば稽古している点は葦原と同じである。
試衛館の頃から変わらない特徴的な……土方程ではないが、右側に少し剣先が寄った構え。
子どもの頃は左利きに悩まされた癖に、何故だか右手に力が入ってしまっている。
―ダァン!
「あ~あ……だ~らしないですねぇ」
当たりがキツ過ぎて軽く壁まで吹っ飛んだ新人隊士に溜め息する、相変わらずの普段とは別人のような荒々しい稽古の付け方だ。
どんなに格下の相手でも、少しの手抜きもしない。
本人の実戦の為にならないからとの良心的な理由というより、数々の技を難無く習得してきた彼は、手加減という技だけはずっと使えずにいた。
「あっ! 土方さんだぁ! 久し振りに僕と稽古しましょうよう!」
沖田が入り口手前に立つぼんやりと懐かしがる姿にパタパタ手を振ると、平隊士が一気に意義を正して歯切れよく挨拶する中、土方は渋々といった様子ながらも可愛らしく几帳面に揃えて下駄を脱いだ。
ちょっと笑ってしまいそうになる沖田に、土方はわざわざ道場に入ってきて腕を組んだ。
「やなこった。坊やの遊び相手なんざできるか」
特に新人隊士にしては笑うに笑えないのだから、こんな所で新撰組名物夫婦漫才をおっ始めるのは勘弁して欲しい。
「まったまたぁ! 僕にコテンパンにされるのが怖いんでしょ~?」
「こんのクソガキ! 足腰立たねぇようにしてやる!」
「ヤだぁ! 土方さんの変態!」
冷徹に先を見て人を操る巧みな話術・土方十八番もこの相手には勝ったためしがなく、まだまだ続く痴話喧嘩は割愛して、土方はまたこの調子に嵌められた!とハッとしつつ本題を思い出した。
勿論土方から手を出した、いつの間にやらの取っ組み合いというかじゃれあいに平隊士達はかなりオロオロだったのも勿論だが漸く収まりを付け、着衣の乱れをまたも几帳面に正しながら土方は言った。
「お前ちょっと話があるから、俺の部屋来い」
「……仕事の話ならここで聞きます」
すぐに内容を察した沖田は再び別人のように憮然とするが、土方が
「お前の躰の話だ」
と付け足すと、
「ええ? ちょっ……ホント手籠めとかやめてくださいね!? 返り討ちにしちゃいますよ?」
と減らず口を叩きながらも、毎度ながら大人げ無くガミガミ怒鳴り付けてくる土方に従って道場を出た。
「相変わらずなんにも無いお部屋ですねぇ」
部屋に入った初っぱなから、沖田は熱心に話を本題から逸らそうとする。
土方は無視を決め込んで口を開いた。
「お前……躰を葦原に返す気はねぇのか?」
どこかに書き散らした、土方の密かな趣味・俳句がないか物色を始めつつあった沖田は、はたと動きを止める。
「……返してほしいですか?」
またウロウロし出す沖田の手首を、土方はきつく掴み上げた。
「痛いですって」と、沖田は眉間を寄せる。
「何て言って欲しい?」
土方はその表情を覗き込んだ。
長い沈黙が続く。
二人はずっと、目線すら動かさなかった。
「黙ってちゃわかんねぇ。俺に、どうして欲しい?」
尚、沖田は黙りこくる。
だからつい、言い過ぎてしまうのだ。
「そうやって、ガキん頃から言いてぇこと言わねぇから思い通りに生きらんねぇんだよ」
「“宗次郎”はっ……関係無いじゃないですか!」
沖田はかつて、自ら名前を変えている。
その理由は、現代では先輩剣士・原田忠司の影響だと広く伝わっているが、定かではない。
家督を継ぐことも家族を支えることも……何もできない、と思い込んでいた幼い自分との訣別の為だったのかもしれない。
沖田は手を振り払おうとするが、土方が中々それを許さない。
「ヤダッてば!」
無理矢理振り外し、沖田は部屋を出て行こうと障子を開ける。
「話は終わってねぇよ」
余計に腹立たしい落ち着いた声を出して左肩に手をやり、自分の方を向かせた。
「大ッキライです!」
「知るかよ俺は大スキだ」
恋人同士のケンカか! と突っ込みたいのは山々だが、土方は何気無い顔付きで続ける。
「“マネするから”ってのはどういう意味だ?」
沖田はプイッと口を尖らせる。
「だからぁ、それを知ったら土方さんは僕をどうするんですか?」
この反応で確信した。
やはりあの言葉は沖田と葦原の入れ替わりに関係していると。
単に斎藤を翻弄して、困らせようと言った戯れ言では無いと。
しかし土方は、さも面倒そうに舌打ちをする。
「ったく……埒開かねぇな」
ハッキリ言わなければ、いつまでも堂々巡りの押し問答だ。
「お前は“此処”に居るべき存在じゃ無ぇだろ」
反応が気になり過ぎておかしくなりそうだが、その顔を直視できないまま続ける。
「俺があの世に送ってやるよ」
目線がぶつかると、沖田は口角を上げた。
硝子玉のような目が笑っていない。
「ふぅん……できるものならどうぞ?」
肩に乗った土方の手を、躰を逸らせて外す。
トンッと軽い音を落として廊下に出てから背中越し、流し目を送る。
「じゃあ、一つだけ。僕から“助言”をあげます」
土方は
「ああ?」
とかガラ悪く言いそうな表情だ。
「僕とあのコは、正反対のようで実はすごぉく似ているんですよねぇ。あ。とっくにお気付きでしたぁ?」
俺、こんな意地の悪ぃガキに育てた覚え無ぇんだけど。
とか、いろいろなことを後悔しながら土方はまた、その意味に頭を悩ませた。
“本当はイイ奴”なんて評価、俺には当てはまらない。
伊東先生に付いてきたのも……試衛館の皆を裏切ったのも、元同門という義理を通す為等では無く総て、俺の意思だ。
藤堂平助は、真摯な眼差しで持ちかける。
「近藤勇は、殺すべきです」
新撰組から“分隊”した伊東らは高台寺に本陣を置いており、その一室に暗く響いた声だった。
斎藤も流石に我が耳を疑う。
この男から、こんな言葉を聞こうとは。
以前もちらりと書いたことだが、かつて市中巡察の折りには隊長でありながら真っ先に現場に斬り込むので、冗談と尊敬を込めた“魁先生”の愛称で呼ばれ、津藩藤堂和泉守のご落胤という噂を裏付けるような立ち居振舞いに漂う品の良さ、そして何より明るく素直な気質で愛される試衛館仲間の弟的存在であった。
密偵として侵入していながら高台寺党に微塵も疑われず、送り込んだ土方でさえ新撰組に戻ってこないのではないかと不安になったぐらいだといわれる斎藤の敏腕仕事人ぶりはその動揺では崩れることなく、息も乱さず話の続きに集中する。
伊東は
「よくぞ言ってくれた」
という顔付きを隠しもせず、策士の眼光を向けている。
「新撰組が幕府にある限り、日本一新には邪魔なだけです。しかし所詮素性怪しい浪人の寄せ集め……近藤を失えば、いとも簡単に瓦解します」
斎藤から見れば試す気丸出しの伊東が、全く思ってもいないだろうことを言う。
「わたしとしては、彼らとは話し合いにより手を取り合いたいと考えているのだがね……」
この狐が、と顔にも出さずに我慢している斎藤に誰も気付かず、藤堂は伊東の思惑通りに反論する。
「意のままにならない者は排除するのが新撰組のやり方です。捨て置けばこちらが狙われます」
山南総長のことを言っているのか? と、斎藤は察する。
当然この後は近藤暗殺の企てに会議は進む。
斎藤は新撰組に戻ったが、それでも間者と疑われることはなかったという。
「ご苦労だった」
斎藤から全ての報告を受けた土方は、短く言った。
藤堂が言い出したということは近藤に伝えるなと、斎藤ならば重々承知しているだろうと敢えて指示しなかった。
近藤がどれ程の衝撃を受けるかは想像に容易く、あの平助が、との気持ちは二人の心に留め置かれた。
斎藤の働きにより、先手を取ったのは新撰組だった。
近藤は妾宅にて、伊東と二人きりの会談を持つ。
何故こんな状況で伊東がノコノコと供も付けずにやって来たのか定かでないが、活動資金の要請をしそれを受け取りに来たようだ。
武士の意地により、護衛など付けられなかったのかもしれない。
散々酔わせた後の帰り道に刺客数人で包み斬り、油小路に屍を晒して御陵衛士を誘い込む。
そして沖田率いる一番隊、永倉の二番隊、原田の十番隊という新撰組屈指の実戦部隊が、遺体を引き取りに来るのを先回りして迎え討つ計略だ。
「新八さぁん、平助くんなんですけどぉ、僕に任せてもらってもいいですかぁ?」
雪のちらつく暗闇に紛れ血で血を洗う戦場に迎い走る途中、沖田はヒソと耳打ちする。
「お前がアイツを斬るってのか?」
同年代で、試衛館の頃から特に仲が良かった二人だろうにと驚く反面、せめて自分の手でと望むのだろうかと、永倉は死んだ筈の沖田が目の前にいるとは知りもしない上で、“ホンモノ”かと錯覚した。
「僕も怒っちゃったんですよねぇ。先生を裏切った上に命を狙うなんて、許せます?」
“人斬り”の形相ながらも笑う沖田は、さらに念を押した。
「絶対に、誰も寄せ付けないで下さいね?」
同じようなやり取りを原田とも行う内に、伊東の屍が転がる小路に着いた。
身を潜め、高台寺党が到着するのを待つ。
新撰組の遣り口を重々理解している藤堂であるがそれでも行かずにいられない性分で、永倉らの願い虚しく籠を担いで現れた。
高台寺党の方も予感していた通り、池田屋事変以後の新撰組の象徴・黒尽くめの隊士が抜刀状態で囲む。
唯一、刀を納めたままの沖田が怖ろしく、はにかんだような笑みを浮かべた。
「こんばんはぁ、新撰組でぇす。もう仲直りなんてできませんもんねぇ……“いざ尋常に勝負”?」
お決まりの怒声響き合う中、大乱闘の中で、沖田は作戦通り真っ先に藤堂の元に走る。
「沖田先生!?」
藤堂の周りにいた隊士達を押し退ける。
―キィン!
無言のまま、沖田の居合い抜きが放たれた。
「さっすが。受けられちゃった」
一瞬の鍔迫り合いから離れると、鋭い目で構える藤堂に対して沖田は顔を綻ばせる。
「俺の相手は総司くんか」
「よろしくお願いしまぁす」
―シュッ!
言うなり足を払うように刀を水平に振るので、藤堂は後ろに飛び退いた。
その後も避ける度に、乱闘が続く集団からどんどん離される。
「俺とサシがいいってこと?」
沖田は無言で応えるように、平突きの構えに出る。
言わずと知れた沖田必殺の技・三段突きを予測し、
「殺られる」
と藤堂はハッとして防御の体勢になった。
「………っ」
躰を強張らせ、衝撃に耐える準備をする。
しかし沖田はそのまま動かなかった。
藤堂にしてみれば、相当気味が悪い。
「あれぇ? 逃げないんですかぁ?」
高台寺党もかなりの剣客揃いで新撰組と言えども苦戦中の為、誰一人、沖田の声に気付く者はいなかった。
「は? 何言ってんの!?」
藤堂は怒り気味に、姿勢を戻す。
「だからぁ、逃げてってば。それとも見送ってほしい?」
堪えきれず、藤堂は沖田に剣先を向ける。
「ありえないから。斬る気が無いなら俺から行くよ?」
―ガツッ
数撃攻められるが、沖田は一貫して受けるだけだ。
「早く逃げてよ、平助くん」
しかも話し掛けながらの余裕振りである。
―キンッ!
ついに藤堂の刀が宙を舞い、後方にカランと落ちた。
「はい。ばいばぁい、元気でね」
ヒラヒラと手を振られても、藤堂は斬れと言わんばかりに動かない。
これを告げれば沖田は必ずや激昂し、自分を斬るだろうとの確信があった。
「バカじゃない!? 近藤さんを斬ると言い出したのは俺なんだよ!」
しかし沖田は、ケロリとして刀を肩に置く。
「うん。関係無い。平助くんを逃がすのは、先生の意思だから」
―…
「総司!」
御陵衛士討伐隊の先頭に立つ沖田を近藤が呼び止めた。
「はい、先生」
沖田は永倉に隊伍を任せ、すぐに近藤の側に従く。
「頼む……。平助だけは、なんとか助けてやってくれないか」
誰にも聞こえぬ、土方さえ知らない極秘の指示だ。
実力を見込んでの大任を敬愛してやまない近藤から受けた沖田は、不謹慎にも嬉々として、ついつい饒舌になる。
「頼むだなんて……先生が僕にするのはお願いではなく、命令です。先生に一言言っていただければ、命に換えても全うしますよ……ご存じでしょう?」
近藤は
「そうだよな」
と言うように少しホッとしながら微笑み、しっかり生真面目に“局長”の顔を作る。
「藤堂を逃がせ」
―…
「……嘘だ……」
「“連れ戻せ”じゃないのが先生らしいですよねぇ?」
近藤は、一度志を持って出て行った所に情けを掛けられて戻って来られるような男ではないと藤堂を見込んでいた。
それでも命は助けたいと、自分から離れてしまってもかつてと同じように仲間として気に掛けていた。
これが近藤勇という男だと、藤堂は瞑目する。
「でも総司くんは……さ、俺が許せないだろう? 近藤さんに命じられたら、自分の気持ちなんて“関係無い”んだ? そこまでの忠誠心……感心するよ」
藤堂は転がった刀を取り腰に差す。
「どっちがぁ? 平助くんこそ“こう”なることをわかってたんでしょう?」
パチンと音を立てて沖田も納刀する。
「……え?」
そう、藤堂は新撰組のやり方を熟知している。
“局を脱するを許さず”の鉄の掟が曲げられることは無い。
そして間者も付けずに離隊させるなんて、土方がする筈が無い。
その上、局長が狙われているとあっては黙っている筈が無いのだ。
藤堂は自らの命をも懸けて、伊東を罠に掛けた。
「伊東さん派の方々を、一掃しちゃう為でしょ?」
藤堂は観念して、少し微笑みながら溜め息する。
「……ちぇっ……お見通しかぁ。……近藤さんはさ、父上さえも認めなかった……俺が落とし胤だなんて話を普通に信じてくれて、この刀を与えられるだけだった俺にとって、本当の父上みたいだった」
長曾弥虎徹に次ぐと言われる、津藩藤堂家お抱えの刀鍛冶が鍛えた愛刀・上総介兼重の柄に手を乗せる。
「僕の忠誠心なんて……コドモみたいなものです」
僕なら、先生の為になることだとしても先生に嫌われるかもしれない道なんて……選べないから。
「……えっ? なに?」
呟く声に耳を傾けても、沖田は手を振るだけだった。
「じゃあね、平助くん」
「あっ。ねぇ総司くん、ちょっと俺の背中斬っておいてよ。“裏切者”の証ぃ」
藤堂は振り向きながら背中を親指で差す。
「ええ? ……困ったなぁ……手加減は苦手なんですけど……。死んじゃったらごめんね?」
こうして藤堂は逃げ切った。
後年、幼少期に藤堂平助と名乗る男に風呂に入れてもらったと語る人が現れる。
その人は、背中に薄く刀傷があったらしい。
出迎えた近藤の視線に応え、沖田は少し口角を上げる。
「成功した」
と、しっかり伝わった。
屯所に帰るとしばらく普段通りを装っていた近藤は、こっそりと土方・沖田を自室に呼んだ。
時たま彼は、生真面目に畏まった雰囲気を作りたがる。
それに合わせて、呼ばれた二人もきちんと正座をした。
「ご苦労だったな」
沖田は得意そうにはにかむ。
「先生に誉めてもらいたくてがんばっちゃいました~」
珍しく正直な台詞に土方はギョッとするが、近藤は追い詰められたような表情で本題に入る。
「……総司。もう、疲れただろう。休んでも、いいんだぞ」
指令通り、そして自らの希望でもあった藤堂逃亡を成功させ上機嫌の沖田は態と膨れる。
「もぉう! 子ども扱いはやめてくださいよう! まだおネムじゃないですぅ」
土方は不覚にもノって
「子守唄でもなきゃ寝られねぇもんなあ」
を、言い掛けた。
「……そうじゃないんだ。……総司、もう……」
近藤は尚更顔面中を強張らせ、声を詰まらせたまま下を向き、言葉を続けられなくなっている。
まさか、かっちゃん……!
土方は心の中で呼び掛ける。
全部……知っていたってのか……!?
沖田は近藤の様子に、ぼぉっと空間を見ていた。
どう思ってる、総司。
土方が目線も向けないまま気にすると、沖田が沈黙を破った。
「先生……僕のこと……」
近藤も無言のまま頷く。
堰を切ったように、沖田の双瞳から涙が零れ落ちた。
「総司……っ!」
隣に座っていた土方は驚き過ぎてつい、沖田に滅法甘い本性が出てしまっている。
顔も覆わず涙を次々流し続ける沖田の肩に手を添える。
「かっちゃん、なんで黙っていた? いつから……」
すべて知っていながら消えろだなんて、酷くないか。
土方は心の中で近藤を責める。
涙の理由を勘違いしていた。
沖田の涙は、嬉しさゆえだった。
「池田屋の後からだろう? 別人だったではないか」
二人ともに理由を悟られないまま涙に頬を濡らし、膝で握った手の甲にポタポタと雫を落とす沖田を前に近藤は続けた。
「また、帰ってきてくれてありがとうな」
沖田は声さえ出せず、フルッと首を横に振った。
「歳、俺が判らない筈無いだろう?」
―タンッ
「ごめんなさいッ……僕、失礼します!」
堪えきれず沖田は立ち上がり、部屋から出た。
話はちっとも終わっていないのだが、こんな涙声で言われては止められない。
「身代わりなんか使った俺を……なんで、やめさせなかったんだ」
沖田が去った後、土方は苦々しい後悔にも見える面持ちで近藤に問い掛ける。
近藤が止めてくれれば葦原は躰を失わなかったし、そしてこの世を去ってまで尚更、沖田を苦しませることもなかった。
「別人だと思いながら……総司が死んだなどと認めたくなかった」
正しく本音だが、恐らく土方の智謀策略でのことだから任せて置けばいいとも考えていた。
それ以上に、瓜二つの姿は僅かでも悲しみを和らげ、現実の方が虚実かもしれないとも思った。
思えば新撰組が最も華やいだ池田屋の夜、多勢に無勢を自ら望み会津藩らの援兵を待ち切れず出陣を命じたのに、怯えるどころか大喜びして敵地に飛び込んでくれた。
あれも土方の機転だったのであろうが、“副長の使い”を終えて数日遅れて屯所に帰ってきた総司に感謝と労いの言葉を掛け、確か……
「ゆっくり休め」
とでも暢気に笑っていた時、明るく
「先生も」
と応えたのは総司だったが、その後は全く違う人間になっていた。
それからずっと総司は姿を現さず、漠然と、ああ……死んでしまったのだと考えた。
嫌な咳をしていたものな、と懐かしむ。
また急に姿を現したのは、土佐の坂本・中岡が暗殺された後からだったなぁ、と近藤は思い起こした。
近藤の推察通り、“沖田が”近藤の前で言葉を発したのは、その一度だけだった。
「だが、もう限界だろう。……京を出よとの命が下った。死んでまで無理をさせたくはない」
王政復古の大号令により将軍の座を奪われ一大名となった徳川慶喜と共に、会津・桑名ら佐幕派、そして新撰組は大坂に下ることとなる。
これから先は、旧体制を飲み込まんとする激流に抗う道。
誠の旗を悠々翻して豪快に剣技をひけらかす、その黒尽くめの二本差しが通るだけでそこら中にトグロを巻く討幕派志士が蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れして戦慄した、新撰組の黄金期は終わりを迎えていた。
「歳が決断できず、総司も厭がるようなら……俺が、総司に……どんな酷いことでも言う」
冥府へ帰れと。
「それじゃあ……また、総司が泣く」
「承知の上だ」
本気の、大将の顔。
この器に惚れ、生涯……喩え一人になっても支え続けると誓ったのだ。
「あんたは……どっしりと構えていてくれと、言っただろう? 俺が必ず総司を助ける。」
嫌われ役は全て、喜んで引き受ける。
と言うより、何をされても沖田が近藤を嫌う筈がないのだから、自分が言った方が沖田の悲愴も軽減されるだろうと考えていた。
はい、と言わせるのは甚だ難しいが。
有言“即”実行、土方は沖田を捜しに出る。
それを見送る近藤は付け加えた。
「“身代わり”でいてくれた方も、早々に隊から離れてもらわねばならないな」
先生が、僕に気付いてくれていた。
僕を見ていてくれた。
充分だ。
沖田は、多摩川を思い出すような和やかな川辺で脚を伸ばす。
後ろに手を付いて空を仰ぐと、眩しげに歪めた顔に影が出来た。
「よぉ、ベソっかき」
土方が仁王立ち状態で見下ろしていた。
「土方さんには言われたくなぁい」
「俺がいつ泣いたってんだよ」とプリプリしながら隣に腰を落ち着ける。
「だから近藤さんに言われる前にやめときゃ良かったんだ」
沖田は一瞬、意味がわからなかった。
ああ。僕が、悲しがって泣いたと思ったんだ。
先生の、もう役目を終えろ、という言葉に。
ハッとして、土方の袖に縋った。
「ちがっ……違います! 僕、全然傷付いてなんかいないです! ……先生も……そう思っているんですか!?」
僕は……“強くて明るい総司”でいなければ。
また、大好きな人に疎まれてしまうのに。
でも本当の理由なんて言えるわけがない。
こんな考え方を、先生に知られたくない。
「バカ野郎……誰もお前を邪魔にしやしねぇよ」
土方は、沖田の頭を愛おしそうにクシャッと撫でた。
その言葉を慰めだと半信半疑に受け止めながら目線は、子ども扱いはやめてくださいと、イヤそうに見上げる。
「ガキん頃から他人の気ばっか窺って……見てるこっちも、結構キツかったんだぜ」
土方が目を細める。
沖田はヘラッと冗談めかして手を払い除けた。
「そんなこと、してません。土方さんの考え過ぎですよ」
「そうかよ」と土方は川の方を眺める方向で、ドサッと座り直した。
「お前が、葦原の野郎と入れ代わっちまう理由(わけ)、わかったんだ」
視線を合わせようとしたがらない土方の横顔に、沖田は見入る。
「アイツが、お前と同じことを思うと……だろ?」
当てたらどうなるんだと、思っていた。
二度と沖田は現れない。
本当に、死ぬ。
「かっちゃんの前では……そうだな、アイツ、親父みたいだとでも思ったんだろ」
沖田はずっと、近藤を父と慕ってきた。
最初の呼応は、それだった。
「おめでとうございます。正解ですよ」
沖田はピョンッと立ち上がり、砂やら草やらの付いた腰をポンポン叩いた。
「……行くのかよ」
「あなたの、お望み通りでしょう?」
相変わらずの言い様に二の句も継げずに顰めっ面をするのに対し笑っている沖田は、土方が当てられなくても葦原に躰を返す気だった。
近藤の言葉に、また救われた。
「じゃ……さようなら、土方さん」
「かっちゃんに、挨拶していかないのかよ」
土方は、あっさりし過ぎだろと、座ったまま呼び止める。
「僕は、池田屋で死にました。これ以上の我儘は、したくありません」
また泣いて困らせたくない、という気持ちもあった。
「次にお会いするときは、ヨッボヨボでしょうねぇ……土方さん?」
沖田は性悪そうに微笑みながら、パタパタ手を振る。
「うるせぇな!」
…………
「平気かよ? ……土方」
一瞬で入れ替わった。
別れを惜しむ間も、与えてくれなかった。
「お前、記憶があるのか?」
戻ってきた葦原に何の感慨の言葉も掛けず土方は頸を垂れ、地面に眼を凝らしながら訊いた。
「あ? ……ああ、ずっと見えていた」
今回が最初で最後、沖田が現れている時でも葦原には記憶が残っていた。
沖田を通して見る世界は、どうしようもない、憧れと悲哀。
健康で好きなだけ動ける頑強な躰、真っ直ぐな仲間、そして、近藤に一番に頼られる土方への憧れ。
どんなに打ち消しても、自分を卑下してやまない心の悲哀。
こちらの気がおかしくなりそうな程に伝わってきて、恐ろしく剣の立つ“ただの天才”だと羨ましくさえ思ってきた沖田が、迷子になって引く手を求める小さな子どもに見えてきた。
今でも胴にくっきりと深く傷跡が残る斬り合いをした上に親友を殺され、かつては憎んだけれど今では、ひどく近くに感じている。
「沖田は……バカだな……。テメェの“大好き”な近藤勇が、少しぐらい我を通したり、仮に剣が握れなくなったからって見捨てるわけ無ぇのに」
土方はなるべくもう、沖田のことは考えたくなかった。
残像になって消えない面影は、頭を振っても変わらない。
眼を開けても居心地悪そうに、中々普段は利かない気を遣いながら突っ立つ同じ顔の男がいるものだから土方はもう必死で感情的にならないように、得意の冷ややかな重低音で告げる。
「なら、近藤局長の言葉も聞いていただろう?」
正面に立ち、生き写しの顔を視覚だけで捉え、他の感覚は一切閉じる。
「お前は、新撰組を出ろ」
予測はついていた。
だから実際に告げられた時の気持ちも土方の表情を殺した様子も、想像通りだった。
そしてこの言葉も、用意されていたものだ。
「厭だ」
駄々ぁ捏ねるところまで一緒かよ。
碌でも無ぇことばっか似てんだな、と内心苦笑いしながら土方は続ける。
「用無しだって、言われなきゃわかんねぇか?」
葦原は土方の横にしゃがみ、荒々しく掴みかかる。
「用はあるだろ!? これからが戦だろうが! ……俺を使えよ! ちょっとやそっとじゃ死にゃしねぇよ!」
「もう、沖田総司の代わりは要らねぇんだよ」
土方は葦原の躰を突っぱねる。
「やっと新撰組から出られるんだろうが。喜んで出て行けよ」
葦原が遂に立ち上がってしまっても、土方は目線すら上げない。
「……俺が、長州に戻って……敵になってもいいってのかよ」
出来得る限りの冷たさを持ってしなければ、元々佐幕派でも無い葦原を、崩れ行く幕府の櫓に巻き込まれないよう逃がすことなどできない。
土方は
「はっ」
と息を吐いて笑った。
「屁でも無ぇな」
「……わかった」
葦原は、新撰組を去った。
自分がこれからどうなるのか。
どうしたいのか。
無理矢理に天才剣士の仮面を被せられて、こんな処は自分の居場所ではないともがいた日々。
その間求めた場所。
故郷、長州。
仲間のいる倒幕派。
……唯希。
今では、どれを思い描いてもピンと来ない。
「追ってきやしねぇし」
刀一つ……ただ早足に遠ざかる、やっと見つけた居場所。
一部始終、絵に描いたような仏頂面の土方が事情を知る者達に事務的に連絡した。
「なんや……二人とも挨拶もようせんと、いってしもたんですか」
素直に寂しがる山崎とは対照的に、斎藤は殆んど同じ意見を持ちながらも無言で部屋を出ていった。
「……見送り、ご苦労だった」
近藤は局長として土方を労う。
この後、数々の歴史的局面を経て新撰組は大坂に転陣。
葦原は未だ、京に居た。
「Wa~O! Sweet boy!」
ショボくれた葦原の神経を更に逆撫でする、嫌に陽気な異人の声が背後で聞こえた。
普通に賑わう京洛なので日本人はたくさんいたが、意味を理解できるのは葦原だけらしい。
鬼に出会したように、
「うわっ」
とでも言いたげな表情でそそくさと二人から遠ざかっていく。
その間も、異人は何がそんなに楽しいんだというくらいまだまだ揚々と、徹底的に無視されようが熱心に声を掛けてくる。
なんて可愛らしいんだとか一緒に遊ぼうとか甘い英語で口説かれて、全部意味が判ってしまうのだから葦原としてはこの一言に尽きる。
ああーウゼェッ! この腐れYankee!
「F××k off(失せろ)!」
振り返り様にポーズ付きで啖呵を切る葦原は、あっと顔色を変えた。
「ダメでスゥ! ソんなコトバー! キズツキますぅ!」
泣き真似のオーバーリアクションの異人に、葦原は途端笑い掛けた。
「レットー! おまっ! どうしたんだよっこんなところで!」
「ナギー! ヤッとキヅいタ―! pretty!」
ガバッと巨体に抱き付かれて満足に息ができない状態ながらも、葦原はバシバシデカイ背中を叩いて懐かしがった。
「のわっ! kissはヤメロって!」
危うく唇を奪われそうになるがこの男……葦原がかつて故郷で偶々会い意気投合して以来それぞれの国の言葉を教え合うなど、周囲の視線も気にせず仲睦まじく交流した男である。
眩しいくらいのゴージャスブロンドに白磁の肌、海のように深く透き通った碧眼にスラリと長い手足と、現代なら日本女性の典型的な憧れの的であろう容貌、そして基本いつでも陽気だが紳士的な一面もあり如何にもモテそうな男だが、当時では逆に“異人”の典型で、事ある毎に怖がられた。
何しろ、海の向こうの夷狄は人間を取って食う、と信じられていた時代である。
「vacationでスゥ! キョウトbeautiful!」
「マジで! どんだけ暇なんだよ!」
高度なタメ口はやはり通じなかったらしくハハハーとニカニカ笑っているが、この外国人・レットは歴としたイギリス外交官であり、一時帰国の前の休暇を過ごしに京都を訪れたという大変な日本贔屓である。
「ナギーはナニしてたんデスか? ニンジャ? サムラーイ? ゲイシャ?」
お前わざと異人臭くしゃべってるだろとの突っ込みは敢えてする気も起きず、葦原は言った。
「新撰組……ってとこにいたんだ」
「……シンセン……Ah! “Wings”?」
「“Wings”……そう、呼ばれてるのか……」
“翼”
浅葱にダンダラの隊服を見た異人が付けた愛称だ。
「随分カッコイイ名前だな」
空にはばたく羽根のようだと例えられたことがなんだか嬉しく、半ば照れながら言った。
「ナギ、かえりタイ?」
何もかも見透かされそうな青い瞳で問い掛けられると、嘘を吐くなんてできなかった。
「……Very well.」
それから数日の間、葦原は観光案内がてらレットと行動を共にした。
そしてレットが故国へと帰る日、思わぬ未来を目の前に示されたのだ。
見送りのつもりの横浜の波止場、両手を取って真摯に誘惑された。
「ナギ、わたしとイッショに、Britainへいきマセンか?」
―…
「どうだ? わしのところに来て、世界中を船で回るッちゅうのは!」
―…
坂本龍馬の言葉を、底抜けの笑顔と共に思い出した。
途方もない夢物語だと笑っていたが、急に現実として突き付けられた。
「せっかくEnglishデキルの、ツカイなさイ」
確かにあの夢物語を熱く語る坂本を羨ましくも思ったし、英語を習いイギリス人と交流するのはとても楽しく、彼らがどんな風に生活してどんな風に感じるのか興味があった。
「“ココであったがヒャクネンメ”ゼヒイキましョウ」
って、いや、お約束の間違いすんなよ。
他の日本人が当たり前に持っている異人への恐怖が全く無い自分には、合っている道だとも思う。
ただ周りの人……親友だった翔野に付いて行き流されるのでは無く、初めて選ぶ独自の道だ。
しかし、このまま日本を離れていいのか。
「ナギーはもう、オキタソウジのfakeではありマセン」
わかってるよ……でも……。
葦原の耳にも最近の新撰組の敗走の様子は入ってきていた。
近藤が言ったように“身代わり”として“捲き込まれる”気はさらさら無い。
ただ仲間として、共に戦いたい。
「レット……やっぱ俺、新撰組に戻る」
レットはいつもの無駄なオーバーリアクションを控えて広く厚い肩を落として溜め息し、父が息子を諭すように言い聞かせた。
「“死”は、ケッシテcoolでもbeautifulでもナイですよ」
この考え方が、第二次世界大戦まで引き継がれる欧米人と日本人の大きな違いである。
死に華を咲かす……という発想は武士独特のものだ。
「わかってる。生きる為に、戦うんだ。」
この時期ちょうど伏見・大坂と敗れ続けた新撰組も江戸に引き上げていた事を知り、葦原もそれを追った。
「待て。沖田総司」
新撰組の仮屯所・品川建場茶屋釜屋に走り向かう葦原の足取りを止めたのは、聞き間違う筈もない、懐かしくも信じがたい声。
ただ長く続く土埃の道、夕闇の直前。
ハッとして振り返ると、傘を深々と被った真っ黒い着流しの男が早々に抜刀していた。
……翔野……!
生きて……生きていたのかよ!
すぐにでも駆け寄りたかった。
しかし彼が呼んだのは“沖田総司”の名である。
翔野はいっそわかりやすいくらいの仇敵を見る形相だ。
元治元年盛夏、幕府転覆の為、志の為……追放された京の町に再び寄り集った長州浪人を含む倒幕派志士が、旅籠池田屋にて会合を開いた。
肥後の宮部鼎蔵、長州の桂小五郎、松下村塾の吉田稔麿……という錚々たる顔が揃う。
幾度も激論交わしてきた日本の行く末、幕府の弱腰、旧制の非難……実力行使として、新撰組に捕らえられた古高の奪還、京洛放火、京都守護職暗殺、最終目的は今上帝の動座。
その緊迫した場の中に葦原と、幼馴染みで何をするにもくっつかせてもらった翔野がいた。
そしてその場に、新撰組が踏み込んだ。
階下に降りた葦原が沖田に斬られ、いつも慣れた仕草のように、二階に残っていた翔野も斬られた。
他の仲間に翔野は死んだと聞かされた葦原は、絶望のまま池田屋を後にしたのだ。
「その何も考えてないような面で、幾人を斬ってきた」
翔野にウザったそうに落とされた笠は、強めの風に煽られてスルスルと後退する。
「友の仇だ。貴様の首を寄越せ」
友って……俺のことかよ。
抜き身の相手と対峙しながら、鯉口を切ることすらできなかった。
なんだよこれ……俺に選べってのか……?
翔野は、沖田が死んでいることも、葦原が生きていることも知らない。
かつて自分もした発想と全く同じに、仇を討とうとしている。
ここで翔野に、違う、俺は葦原だと、今までの経緯……池田屋での傷を癒している時に新撰組副長に出会い、見た目が死んだ沖田総司に生き写しだと言われ強制的に身代わりになっていたのだと告げれば、同い年の癖に兄みたいだった翔野は
「お前、大変だったなぁ」
とか笑うだろう。
しかし。
真実を打ち明ければ、二度と新撰組には戻れない。
翔野とまた親友にはなれるだろうが、そうすれば討幕派に回るのが自然の流れだろう。
新撰組を追い出される時、苦し紛れに思い切り土方に拗ねて吐いた捨て台詞
「敵になる」
が現実になる。
葦原の目前に憎悪の剣先と、自らの行き先の二択が向けられた。
決断しろ。
殺気を以て構えられた、翔野の人柄を表すが如くの直刃を前に、躊躇する余裕も待ったを言える雰囲気も無い。
葦原柳として討幕志士に……故郷に帰るか、翔野の前で沖田総司を演じ、新撰組隊士になるか。
いや、翔野と斬り合って勝てるのか?
そして勝つと言うことはつまり、翔野を殺すことだろう?
「早く抜け。“沖田総司”が刀も抜けぬまま斬られたなどと……そこまでの恥を掻かせるつもりはない」
翔野は得意の八双に構え直し、一歩、足を滑らせる。
葦原は脇差しを抜いた。
元服時よりの愛刀・黒叡志隆を遣えば、バレる。
そう……自分が本当は葦原柳だと、バレてしまう。
脇差しでも対等にやり合える相手だなんて見縊られたと、懐かしい短気さで怒鳴りかけようとする翔野に、葦原は笑った。
「あなたが僕を斬る……? 冗談でしょう?」
言葉だけはある意味、本心だった。
自分の癖が出ないよう気を付けながら、正眼に構える。
新撰組では、大刀が折れたり刃こぼれで役に立たなくなった場合に備えて、代わりに使える程に長めの脇差しを佩いていた。
葦原もそれに倣い、今でも続けていた為十分に使える。
「遊んであげる。お兄さんからどうぞ?」
性格はまるで正反対じゃねぇか。
とは、腹立ち紛れの翔野の心境である。
京都でその姿を見掛けた時、葦原が生きていたと“錯覚”しそうになった。
しかし身に付けていたのは浅葱のダンダラと
「沖田隊長」
という隊士達の呼び声。
今は息を吸い込み、この外見を目の前にしても手加減などしないことは数年に渡り、頭の中で確認済みだ。
天然理心流を躰に叩き込んだ為、懐かしくすら思える翔野の鏡新明智流は、以前にも増して息を飲む程の見事さで、高々と挑発した筈の葦原が
「勝てる気しねぇ」
と思うのも無理はなかった。
しかし早々に決着を付けなければならない。
長期戦になって疲れが出る毎に、自分の癖が滲むからだ。
一本目は受けた。
次はない。
素早さが売りで小技を得意とする翔野は、まず小手を狙い、その腕を地に落とそうと試みる。
これは昔からの決まり技だった。
だから一度しか立ち合ったことのない……と、翔野は思っている“沖田”相手に使おうとしたのだ。
しかし相手の真の姿は、その定石を知り尽くす葦原。
鋭い金属音と共に擦り上げて、動きの続きで左肩目掛けて降り下ろした。
地に伏す翔野を見下ろして、脇差しを納めた。
既に心は、戻りたい場所にある。
「……じゃあね、さよぉならぁ」
明るい声に、少しの涙も混じりはしない。
「……まっ……待てよ!」
足元で翔野が呻く。
「やぁですよぉ」
強靭な目付きとは別に、上半身すら動かせずにいる翔野は峰打ちを喰らっていた。
「……なんで斬らねぇ!?」
それは答えられなかった。
骨折しない程度に、自分が立ち去るまでの間動けない程度に打った。
秘かにガクガクと震える手を握り締め、足を止めさせようと声を搾る親友を置き去りに葦原は走る。
その行き着く先が、決して明るくなくとも。
「うわっ! すっげぇ~!」
「つか気色悪っ!」
仮屯所にて、新撰組最後となる新入隊士募集が行われた。
日没の旧幕軍にも関わらず多くの者が集まる中、選抜を任せられた古参隊士達が騒然としていた。
注目の的は一人の入隊希望者。
その様子はすぐに副長・土方に伝わる。
「新八、あいつらは黙って目利きもできねぇのか」
部屋に入ってきた永倉に、土方は早速溜息を聞かせた。
「……葦原が、来ている」
その後はもう血相を変えて“ガラピシャ”と部屋を飛び出していった。
土方が姿を現すと、一気にその場が引き締まった。
ざわめく余裕など持てるわけなく、所々冷却された動作のように辞儀をする。
葦原だけが少し遅れ気味に一礼した。
「おはようございます“土方副長”」
土方は傍若無人にズンズンと葦原の目前に進み、地に響く声を聞かせた。
「お前……何してやがる」
周りを憚る大人振りをやっと備えた葦原は、対して声を抑える。
「……沖田総司の身代わりは死んだ。俺は葦原柳として新撰組に入る。これなら文句無ぇだろう」
これから続く激戦と敗走の遍歴。
どこに行こうと、どうなろうと……その背中を守り抜き、離れはしない。
そう、自分と同じ顔をした男に誓ったんだ。
お前の代わり、いやそれ以上に支えてみせると。
本当の新撰組隊士としての道は、呆れ気味に嘆息しながらも密かに微笑む、この言葉から始まった。
「……ったく……マジでバカだな」
まだやることがあるのだ。やらなければならないことが。
うるさい。そんな叫び声をあげるくらいなら、斬り込んで来い。
苦しい。まだだ。まだ死ねない。
呼吸の音が邪魔だ。鉄の味が不味い。
いつもいつも、邪魔なんだよ。
志を、いつもこの躯が邪魔をする。
「はぁっ……はぁっ……」
クソッ! なんじゃこれっ!
衝撃と激しい剣跋に上がる息と、制御の利かない、余裕を許さない鼓動。目の前を塞ぐ人間を、命の重みなんて知らぬまま、ただ斬り崩す。心情を覆うのは理不尽な怒りだけだった。
なんで此処に……壬生狼の野郎が来やがるんじゃ……!
元治元年六月五日、池田屋。
京に火を掛け、天皇を長州に連れ去る。朝敵の汚名を着せられて京への出入りを禁じられた長州藩士に取り、苦肉の策であった。
しかし、その決死の作戦決行を談合中の旅籠・池田屋に、招かれざる客が現れた。当時京都守護職を任じられていた会津藩主松平容保公御預・新撰組……徳川幕府最後の砦である。
「ナギ……ッ二階はわしらに任せろっ」
息を吸う度に乾いた咥内に入り込む、不快な生暖かい空気にむっとする。
「ばっ……! わしはよう逃げん!」
僅かな蝋燭の灯を闖入者に吹き消され、辺りは真っ暗。月明かりが白々と浮かび上がらせるのは、味方か敵かも見分けのつかない人間の肌だけだ。
「階下の奴手伝いしちゃれっちゅうんじゃ!」
敵の数は明らかに少ない。二階に突入してきたのはたったの二人だった。
突如に開いた襖から、背景を塞ぐ仁王立ちの男・新撰組局長近藤勇が大音声を上げた時には文字通りの乱闘が始まっていた。正しくは慌てふためいて刀を取ろうとごった返した。旅籠の気楽さに油断し誰も傍らに置いておらず、隅の方にまとめてしまっていたからだ。
姿さえ朧な斬り合いでは人数の少ない方が有利かもしれない。味方を傷付ける心配もなく思い切りやれる。それをさらに助けるのが先程の二人、特に近藤の甲高い気合である。これでは味方を間違えようもない。
「……翔野、死んだらいけんぞ!」
「たりめぇじゃ! わしらの志を幕府の走狗に阻まれて堪るかっ」
生き残る気だった。だから互いに目線も合わせぬまま、互いに守る背中が離れた。
喧騒の中でなお音も荒く階段を降りると、浅葱のダンダラ羽織を着けた長身痩躯の男が三人の相手に囲まれているのに出くわした。
その、一目で判る刺すような装束。
壬生狼じゃ……!
……!?
な……っなんじゃあいつ?
言葉のまま、あっという間に、三人の男達は目にも留まらぬ速さで疾走する剣に倒れた。
強ぇ……っ! いや、強いなんてもんじゃねぇ。
人間か? “あれ”
身の毛が弥立つ程の殺気を当てられながらも、向かって行かずには居られない。
わしも剣客の一人じゃ。
あの“鬼”を倒して、絶対に仲間を守る。
お前等に……邪魔はさせん……!
抜刀し、男の視界に躍り出た。
「長州藩士・葦原柳!」
“鬼”は、チラリと目配せすると、クッと口角を歪ませた。
「わざわざ名乗るなんて、余裕じゃないですか。……もう、僕の間合いですよ」
言い終えるより先に、構えた剣は一瞬で空しく宙に踊り、火花が散る束の間、
既に赤く血飛沫が舞う。
「新撰組一番隊隊長・沖田総司」
そう言い捨てると、時間が惜しいとまでに近藤の甲高い気合が響く二階に駆け上がって行った。
葦原は目で追う間さえ与えられず、暗闇の中に倒れ込んだ。
……痛ぇ……。
意識が戻ると、痛みしか頭に浮かばない。葦原の全神経は斬傷に向かって集中する。
あの刹那、正眼に構えた刀を擦り上げられ、袈裟掛けに斬られた。あれだけの腕前の男に斬られたのに、生きているのが不思議だ。
まさか……手加減でもしちょったんじゃねぇだろうのう。
顔も、見えなかった。
……!
傷口が……熱い……っ!
「葦原っ大丈夫か!?」
荒々しく抱き起こされるので、余計傷に堪える。
「んなに……深くはねぇっ」
「ここはもうダメじゃっ! 撤退せるぞ!」
「翔野が……まだ上にっ」
「アイツは……沖田総司に……」
……嘘じゃろ……。
「さあ、行くぞっ」
……わしの所為じゃ!
わしが……簡単に斬られたけぇ……!
「やめ……っ逃げたくねぇッ!」
上手く息をする事も出来ない。
物凄い騒動の中、葦原は肩を担がれて、池田屋を後にした。
暗がりの中、敗走する二つの影は必死に駆けたが、その脚は鉛の様に重い。そして真夏の今夜、動かずとも汗が吹き出る、茹だるような暑さ。まだ慣れぬ京の夏は、盆地特有のねっとりとした厭な暑さだ。
担がれた男は、斬傷による高熱で意識も朦朧としている。目指すは長州藩邸。池田屋から只管に進む。
「待て」
小路の闇から低い声が通る。この熱帯夜に凡そそぐわない、冷たい声。
仲間を担いで逃げる男が振り返ると、目が覚める様な役者顔の男の姿が“誠”一文字が光る提灯に映し出されていた。その男の上背の高さと、負う人間の重みで腰が曲がっているから、だけの理由ではなく涼しげな目で見下ろしてくる。
「壬生狼……っ!」
呻く様な声が響くと同時に、ダンダラ羽織の男が凄まじい殺気と共に抜き放った。
佩刀、和泉守兼定・二尺八寸。月光に煌めく刀身が、妖しくも美しい。
その姿には目もくれず、瞬時に担いだ男を肩から外した。しかし慌てて刀を構えた腕は、甲斐なく宙を飛んで離れる。斬られた肉塊が落ちると、担がれていた男の身体も膝から倒れた。
まるで獣そのものの呻き声を搾り、仲間の熱い身体を残し我武者羅に逃げ出したが、逃げるのを心得ていたように待ち構えた別のダンダラ羽織に数間先で捕らえられた。
既に気絶していた残された男・葦原は見下す視線を感じながら、その時やっと意識が戻った。
……なんじゃ……?
顔を上げた先には、鮮血と脂で光る刀が見えた。
纏う色は浅葱。
瞬間、血が燃えた。それこそ、目が覚める念いだ。
「死に損ない。屯所まで来てもらおうか」
序盤は決死に斬りまくるしかできなかった、というのも妙だがそれ程ただ荒いばかりの新撰組だが援軍が来てやっと落ち着いたのか、なるべく殺さずに捕縛と手法を切り替えたらしい。
「……誰……がっ……」
息も絶え絶えになりながら、斬り離された仲間の腕先に放られた刀を取り、濁った血で湿った土に突き刺した。
躯を支えるその姿を、余裕の所作で提灯を扱い、男は照らす。役者顔は伊達ではない。芝居の一場面の様に、優雅な仕草。
「……総っ!?」
しかし照らされた恨み顔を見止めると、嘲笑さえ浮かべていた表情が一変、驚愕の色を隠せない、その時。
「土方、すぐ戻れ! ……総司が!」
後ろから息を切らせた新撰組隊士の声がした途端、造り物のような美しい顔が蒼白した。
……隙じゃ!
白銀が月光を受けて風を切る。片脚で立て膝を付き、右手の剣先を相手の、女のような白い首筋に据えた。動かない筈の熱い身体が嘘の様に反応した。
火事場の馬鹿力ってこれじゃか?
どうでもいい事が思いつく程、それこそ嘘のように頭は冷えていた。だが、捉らえた気になっていた男は誰にも構っていられるかと言わんばかりに一瞥だけ残して去った。
ナメんなや……!
遠ざかる影に、流れる黒髪に舌打ちをした。
一心に池田屋へ急ぐ男。
対して逃げる男の脚は、長州藩邸にはもう向かわなかった。
どうして……わしが生き残ったんじゃ……?
この躯が、どんなに疾く駆けようと。
この躯が、どんなに力強く薙ぎようと。
志が空では意味が無い。
葦原は順調に回復していた。医者で手当を受けた後は旅籠に泊まっている。だがそこは以前の長州贔屓の宿では無く、佐幕派・討幕派どっち付かずの宿だ。
あの夜……池田屋以来、知り合いには誰にも会っていない。
毎日を抜け殻のまま過ごした。傷が痛む度、自分を責め続けた。
……わしの生きる意味ってなんじゃ?
自問を繰り返す。
葦原が尊王攘夷派として奔走していたのは、真に国を憂いての事では無かった。仲間が居たから……。翔野が居たから、加わっていただけの事。
一応父は武士だが、自分としてはこの日本がどうなろうと、はっきり言って知った事では無い。そんな事を本気で思いながら、幼馴染みで、義兄弟の契りまで交わした翔野に連いて来た。
自分の志なんて有りはしない。仲間ももういないのに、戻る気なんて更々起こらなかった。
……わしの生きる意味ってなんじゃ?
――……
「アイツは……沖田総司に……」
――……
何度も心の底で繰り返した、あの時の言葉。
……沖田……総司。
そうじゃ……奴がいた……。
……奴を……仇を討つ……!
あっさりと、それが葦原の生きる目的となった。
襖の外から女将に声を掛けられた。
「葦原はーん? お客はんがおこしどすぅ」
普通、武士が泊まっている宿に客が来れば、斬り合いでも始めるのでは……と警戒される所だが、倒幕派の定宿ではない為か女将はすんなり二階に通した様だ。
客……?
わしがここに居る事は誰も知らん筈じゃ。仲間に来られても、わしはもう……。
「いいご身分だなぁ? 何泊する気だ?」
……!? 新選組の……っ!
すらりと襖を開け現れたのは、あの日……対面した新選組副長だった。
葦原は空かさず刀を手に取り、鯉口を切る。
あまりの慌てぶりに刀台が仰向けに倒れた。
確か……新撰組副長の……土方……とか呼ばれちょったのう。
「おいおい、今日は斬り合いに来たんじゃねぇよ」
そう空中で掌を振って見せ、刀を自分の右手に持った。
これでは、一度持ち替えなければ刀を抜く事が出来ない。つまり争う気が無い事を態度で表している。
「何……の用じゃ……」
部屋は二階。窓には格子。
唯一の出口は入口でもあるので、土方が塞いでいる。
逃げ場は……無い……。
相手に取って、葦原は捕らえるべき討幕の志士。無論、抵抗すれば殺す気だろう。
「まぁ、そう硬くなるな。取り敢えず中に入れてくれ」
そう言うと襖を閉め、腰を降ろした。右手に持った刀は、そのまま自分の右側に置いている。
げに何しに来たんじゃコイツ。
表情も声も何食わぬ様子で変わらず、狙いが全然わからない。
葦原も腰を落ち着け、相手の事は全く信用出来ないが一応の礼儀として刀を右側に置いた。
「さて……」
しかも正面に居ると、づっと威圧感あろーがや……。
「お前……沖田総司になれ」
……は?
何……言っちょるんじゃ?
「よし、じゃあ行くぞ」
「ああ!? ……ちょい……待てーや! なんじゃそれっ」
一言だけ言うとすぐに腰を上げる相手に、葦原は慌ただしく食い下がった。
「なんだ、落ち着けよ」
いや、お前が落ち着け!
冗談みたいな事を言い、当然のような顔でさっさと出て行こうとする相手に心の中でツッコミつつ続けた。
「どういう意味じゃ! 何言っちょるんかさっぱりじゃ!」
すると、
「ふー」
と長い溜息を吐き、心底面倒そうにまた胡座をかいた。
なんでそこで逆ギレじゃ!
だが、取り敢えず説明する気にはなった様だ。
「お前、今何してんだ?」
「は? ……別に……」
別に攘夷活動する気は無ぇが、お前んとこの沖田は……。
「討つか」
「! ……ああ。沖田総司……わしの親友の仇じゃ」
人の心読むなよ気持ち悪ぃな。
その仇んとこの副長に宣言するわしもわしゃが。
「無理だ」
「んなの……戦んなきゃわかんねぇじゃろ……」
目を伏せながら呟いた。
いくら鬼みてぇに強ぇ奴だからって、てめぇの部下を過大評価すんなよ。
「やれねぇ……って言ってんだ。」
「なっ……!」
葦原がカッとなり顔を上げると、土方の様子が明らかにおかしい。
思わず、恥ずかしいくらいにキョトンとしてしまう。
葦原の視線を感じると、先程とは反対に土方が目を伏せながら言った。
「死んだ。……総司は……死んだ。」
死……んだ……?
「……斬られたのか……?」
“あの”沖田が?
まさか。
「……労咳だ。」
……!
肺に開いた穴から血が噴き出しその血が喉に絡まり、息が出来ないから咳をしながら血を吐く。
日毎夜毎に咳が止まらない。
日毎夜毎に微熱が続く。
幕末当時、不治であった其の病に……髄一の天才剣士が若い命を奪われた。
「アイツには……“沖田総司”にはまだ死なれちゃ困るんだ。」
池田屋の夜にも目にした……あの……冷たく光る切れ長の双瞳。
「討幕派に取って、鬼神みてぇな沖田総司の強さは恐怖の象徴其の物なんだろう? アイツが死んだなんて知られてみろ。新選組がナメられる。……だからお前が代わりを……」
「……厭じゃ」
「……お前に……選択する余地は無ぇ筈だぜ?」
口の端が、ニヤリと上がる。
“沖田総司”の振りをして、新選組隊士として生きるか。
志士のまま、此処で捕らえられるか。
「そうか? 一番いい方法があるぜ」
白昼に火花が散る。
実は、葦原は両手利きである。
一人の剣士に一回しか見せない、殺す気で放つ隠し技・右側の刀での居合い
抜きを土方は鞘に納まったままの刀で受け止めた。
両者、凄まじい早業。
右利きと思わせて、相手の不意を突く。
葦原のこの技が受け止められたのは、初めてだった。
……畜生……ッ
葦原が更に力を込めると、刃と鞘がガチガチと音を起てる。
その姿勢でも尚、土方は冷笑っている。
「なるほどな」
土方は、此の選択に今気が付いた風で愉快そうに呟いた。
……嘗めんなよ。
「わしゃあ一応、免許皆伝じゃ」
「奇遇だなぁ。俺もだぜ」
葦原が刀を擦り上げた一瞬で土方は抜刀し、二の太刀が胴に来るのを又も受け止めた。一斉に離れた隙に土方は立ち上がり、刀を上段に構え直した。
部屋ん中で上段じゃと……。
この自信家め。
そう思いながら、葦原は正眼。
次に仕掛けたのは土方。葦原が上段からの正面を払い、鼻と鼻がぶつかる程の鍔迫り合いで刀が震える。その、一触即発の緊張の中。
「いってぇ……!」
なんと、土方は頭突きをかました。しかも、怯む葦原に透かさず足払いを掛
けた。
まるで悪餓鬼の喧嘩だ。
ただし、互いに遣うは真剣。
勝負は決した。倒れたのは葦原。その躯を跨ぎ、首筋を掠める様に刀を畳に
突き刺したのは土方。
「殺……すならッ……殺せ……」
荒い息で喘ぎながら言葉を吐いた。
「殺したぜ? “長州の葦原柳”は」
今断ったら、本当に殺られる。
今度こそ本当に、選択の余地が無い。
「どこにだって行ってやるよ」
そう、言うしか無かった。
その後話したのは、 他愛の無い事。
さっきの、頭突きの後に足払いは狡い……とか。どうやって自分の事を調べたのか……とか。なんで……自分に頼んだのか……とか。
その質問に土方はこう答えた。
「別に。顔がすげぇ似てるからだ」
腕が立つからとかじゃねぇのかよ……。
そう拍子抜けしながらも、あの夜対峙した天武の顔が自分と似ている、という事にも驚いた。
そして、土方があの男を“総司”と呼ぶ事にも。
大事にしていた様だが、“新選組の為”という理由で代わりの者を使うか?
まるで茶番じゃ。
わしには、死んだ仲間の代わりなんて考えられねぇがな。
あの男の話をする時の、多分無意識でしている温かい表情。
普段の、能面宛らに整った冷たい表情。
どっちが本性じゃ?
つか、こいつ……いつわしが斬り付けてくるかとか、もっと現実的に、間者
にならねぇかとか考えねぇのかよ。わしがそう考えていても、自分なら防ぎきれる……返り討ちにしてやる、とか高をくくってんのか?
まぁ、わしには自分の目標なんて無ぇし、故郷に帰ってもする事が無ぇ。
しばらく……この茶番に付き合ってやるよ。
お前の首を、昼夜狙いながらな。
土方にとってあの夜は、まるで目が覚めたまま脳裏に焼きつく悪夢だった。
残党狩りも粗方片付いてやっと静かになり始めた池田屋の中、その光景だけが浮かび上がるように全身を揺さぶった。
――……
「総司……っ!」
「……ケホッ……ケホッ……と……しぞ、さ……」
抱き起こした躯は余りに軽過ぎた。
いつのまに……こんなに病んだ……?
蒼白な顔。
痩せ細った躯。
鮮やかな血。
止まらない咳。
喘ぐ……息。
総司……お前……死ぬのか……?
――……
伝法に捲し立てる永倉に、土方は言葉を返さなかった。
「土方、冗談は止せ! ……総司の代わりだと? 第一そいつは長州者だろう? いつ寝首を掻かれるかわかったもんじゃねぇ!」
新八……あんたは“まとも”だな。
俺はあの夜……あいつの血の匂いを嗅ぎながら、一息に狂ってしまったらしい。
自らの狂気を知りながらも、この衝動を止める事が出来ないのだ。
あいつの苦しみに、死の間際まで気付いてやれなかった。
最期まで師・近藤勇の為に剣を振るおうと、誰にも……俺にさえ言えずに我慢
を重ねた、痛ましい程の忠義心。
お前が死ぬだなんて……耐えられない……。
葦原と土方が壬生に在る新撰組屯所に着いた早々、十番隊隊長・原田左之助が
豪快に迎えた。
「そぉーじぃー! おまっ……どこ行ってたんだよぉっ?」
大きな手の平で、葦原の肩をバンバン叩く。
イテッ! コイツ、力強っ!
葦原の頬が引き攣るのを余所に、原田の大声を聞いた他の隊士もどや
どやと揃った。
「一体何していたんだ? 総司」
「サボりぃ? 総司くぅん」
続いて声を掛けるのは、六番隊隊長・井上源三郎、八番隊隊長・藤堂平助。
何れも沖田とは上洛前からの長い付き合いだが、全く気が付かない。
かつての仲間は既に亡く、目の前に居るのは有ろう事か長州藩士だと。
うげぇえ! どこ見ても壬生狼ばっかじゃあ!
当たり前な感想を持つ葦原の横には、
「何か言え」
と言わんばかりに睨んでくる土方。
仕方無ぇ。適当に言い訳でも考えるか。
沖田がどんな男かは知らないので真似しようもないが、最低限、故郷の訛りは出ないように一応、気は遣ったようだ。
「あー、すまねぇ。俺ちょっと島原から離れらんなくてな」
『……は?』
……なんじゃ? 静まり返って……どうしたんじゃ、この空気。
大の男達が目を真ん丸にし、口をぽかんと開けて驚愕しているなか、葦原が思ったのも束の間、怒涛の様な、歓声にも似た騒ぎになった。
「うっそだろぉ!」
「総司ぃ! お前も遂にっ」
……は?
今度は葦原がこう言う番だった。
“なんだ、そうだったのか”ぐらいの返事が返って来る答をしたつもりだった。しかしその判断が間違っているらしい事は、隣に居る男の表情が物語っている。
「冗談だ。こいつ、俺の用で大坂に行っていたんだ」
さらりと訂正した後、
「総司、俺の部屋来い。永倉、山崎もだ」
と、目配せした。
「……ッてめぇ、死にてぇのか!」
うわぁ……。
心中だけで思うのに止まらず、まんまとビビる葦原。
こざっぱりとした部屋に着くと、正しく鬼の形相で怒鳴りつけてくる土方を、さっき“山崎”と呼ばれていた男が宥めた。
「まぁまぁ、仕様が無いですわ。副長やって、詳しい事は何も言わんと連れて来たんですやろ?」
「道中こいつがくだらねぇ話ばっかするからだ」
てめぇわしのせいかよ。
「まぁまぁまぁ。お仲間になるんやから喧嘩せんでください」
「……これからしっかり叩き込むしかねぇな」
そういう台詞吐いて含み笑いすんのやめろよな。
うんざりする葦原に、土方はやっと二人の男を紹介した。
まず、葦原と会ってから終始無言を貫く男を“永倉新八”と呼んだ。二番隊隊
長であり、幕府の実戦部隊・新撰組の中でも一、二を争う剣客で、池田屋の夜、沖田の急を告げに土方の元へ走った男でもある。
そして小柄な、大坂の商人風の男は自ら名乗った。
「山崎烝ぅいいますぅ。監察やっとります。あんたの事調べさしてもろたんも、実は俺ですぅ。どうぞよろしゅう」
そして葦原の肩を担いで逃げていた、土方に腕を斬り落とされた男を捕らえたのも山崎だった。
こいつが! どう見てもヘラヘラらした野郎じゃが。
葦原は、自分が調べられた標的であったことはそっちのけで忘れて感心してしまった。
仲間達さえ消息も知らない自分を、一体どうやって調べたのか。葦原はその疑問をそのまま投げ掛けた。
「そっれは企業秘密ですわぁ。何でも知ってまっせー! 長州藩出身、葦原柳。通称“ナギ”。天保十五年生まれ。男三人兄弟の末弟。佩刀は、業物・黒叡志隆二尺五寸。鏡新明智流目録。初恋は九歳の時、隣村の色白美人・ゆいちゃん!」
「っ……てめぇ!」
葦原が掴み掛かろうとすると、山崎はひらりと身を躱した。
土方は……というと、
「ほーぅ。流石だな山崎」
と態とらしく感心顔を作っている。明らかに最後の“情報”だけしっかり覚えている様子だ。
そして葦原の恨みがましい目付きに応え、今度は土方が遅ればせながら驚いて尋ねた。
「……お前も、目録だったのか?」
やべっ! ……って……
「お前“も”って事は……」
土方も天然理心流、実は目録までの剣の腕だった。
しかしそれは竹刀を遣う道場剣法に置いてはであって、互いに実戦には相当の自信と、勿論実力を備えている。
「馬ぁ鹿。俺は“土方喧嘩流”皆伝なんだよ」
「はぁ? ……なんっじゃそれ」
……と、またも肝心な話が進まない内に、永倉の二番隊が巡察に出る時刻になり、土方は会津公に呼ばれていた近藤局長がそろそろ戻る頃だ、と部屋から出て行った。
池田屋の一件で討幕派志士の中心を担う人物が新撰組によって殺された為、残された多くの過激派志士達が一層活発に動いていた。
後の世に“池田屋事変”と名指される、新撰組最大の偉業。
明治維新を二年遅らせた……と、或る意味“名声”高いが、二年早めたと度々皮肉られる。
土方は、帰った局長を掴まえて今後の話を詰める気の様だ。
葦原の演技指導は、探索の為なら変装も熟す山崎に任された。
「ほな、“沖田総司”になってもらいまひょかー」
インチキ臭い関西弁の山崎がニヤリと笑った。
まず山崎は新撰組隊内の鉄の掟……後世俗にいう“局中法度”について説明した。
隊士は外泊出来ない事になっているのだ。という事よりも、その法度の厳しさに、葦原は自分の耳を疑った。
一、 士道ニ背キ間敷キ事
一、 局ヲ脱スルヲ不許
一、 勝手ニ金策致不可
一、 勝手ニ訴訟取扱不可
一、 私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者
切腹申付ベク候也
武士道に背くな。
隊を抜けるな。
勝手に金の貸し借りはするな。
勝手に罪を罰するな。
喧嘩をするな。
破ったら腹を切らせる。
その次にそれぞれの人物と沖田の関係等を詳しく説明された葦原は、“奴等の仲良しごっこには興味も無い”“ただ沖田総司として隊務とやらを熟せばいいのだろう”などと捻くれつつ話半分に聞いていた。
要は面倒臭かった。
しかしそんな葦原の心境を、山崎は安々と見抜く。
「……さっきの副長の科白やけど。あれ、ホンマの話や」
「? ……なんじゃ」
何気なく聞き返す葦原に、山崎は居住まいを正し向き直った。
「“死にてぇのか”っつうの。……あんた、正体バレたら死ぬで」
“規律違反を侵した隊士は切腹”
充分に厳しい隊規だが、それでさえ建前だ。
新撰組隊内粛清の恐るべき実状。それは闇討ちであった。
表立って処刑出来ない隊士……例えば隊内での地位の高い者、そして間者達の多くは、過激派浪士達の仕業と見せかけて暗殺されている。かつての巨魁局長・芹沢鴨までもがその一人だった。
「あんたなんて、長州者やってバレでもしたら、自分でも知らん内に首と胴が離れてまうで?」
「わしは間者じゃねぇ!」
当然、葦原は憤慨した。その様を見ても山崎は全く動じず、嘲笑う。
「そやけど、いざバレても俺ら誰も助けへんで? 影で糸引いてるのが副長やなんて知れてみい。それこそ一大事や」
「……っざけんな! んなのやってられっかよ!」
葦原は立ち上がり、部屋から出ようとした。その様に身動きもせず、
山崎は口だけを動かした。
「あんた、逃げるんか?」
背後から響く声。葦原はぴたりと脚が動かせない。
「んじゃと……?」
「そやろが。一旦引き受けたんや。最後までやり通さへんのは男のする事やない
わな」
無言のまま、勢いよく音を立てて胡座をかく。
不服気に睨み付ける葦原に山崎は、
「精進せぇやー。“一応”武士の息子なんやろ? 折角覚えさせられた切腹の作法、無駄にせえへんようにな」
と再びニヤリ、笑って見せた。
「あとなぁ、“沖田総司”は遊郭には行かへんで」
「マジかよ!」
葦原は目を剥いて、幾つだよ奴はと驚いた。
「歳はあんたの二つ上ぇでっせぇ。元々女にはあんま興味無さそうやったか
らなぁ」
その答を聞き、葦原は誰もが抱きそうな疑問をぶつけた。
「……なぁ、沖田って……衆道?」
「……なんや。知ってて来たんとちゃうんか」
……知らねぇーよ!
山崎は呆気に取られて口を開ける葦原に、さらに追い撃ちを掛ける。
「あんた、ほんまに隊士として浪士共の相手するつもりやったんか? ……あんなぁ、するんは、うちの副長はんの相手やで」
……ッ無理無理無理無理!
「おっとぉ、どこ行くんや!?」
またも立ち上がる葦原の袴を山崎は、はっしと掴んだ。
「離せっ! やっぱ帰る!」
「ちょっ……あきまへんって!」
どたばたと暴れる葦原を山崎が取り押さえる。
「いでででで!」
山崎がつい、得意の柔術技を掛けた時、跳ね返る程に勢いよく障子が開き、怒号が響いた。
「るせえ! 何騒いでやがる!」
『ぎゃあああ! 出たぁー!』
声を揃えて恐怖する二人がどんな話をしていたのかも知らず、土方が入って来た。
「ははは、なんだ? どうした二人共」
「お帰りなさい! お疲れ様です、近藤局長」
さっき迄フザケていた山崎は、すぐ様座り直し一礼した。
新撰組局長・近藤勇。人を威嚇する空気は全く発していないのに、何とも言えない重圧感がある。
「ご苦労だったな、総司。ゆっくり休め」
その威厳漂う佇まいと、慈しみに満ちた瞳とが相まった男を、葦原はもう一人知っていた。
……親父に似ている。
漠然と、そう思った。
―…
「はいっ! 先生も!」
―…
土方も山崎も、目を見張った。
その丁寧気な言葉遣いも、元々似ている声色も、そして子どもの様に純粋に笑う表情までもが。
何もかもが、“沖田総司”そのものだった。不自然なくらいに。
「ははは。そうだな」
そう笑い、仕事に戻る近藤と、怪訝そうに葦原を一瞥する土方は部屋を去った。
「なーんやぁ! やれば出来るやんかあ!」
山崎は驚きを込めて賞賛した。
「……わし、なんかやったか?」
葦原は、自分の言動を全く覚えていなかった。
そう“まるで”取り憑かれたかのように。
「またまたぁ。照れんでもええって! その調子やでっ“沖田総司”!」
あ……“俺”、そういや訊くの忘れてた。
沖田の部屋……つまり当面の自分の部屋に入った葦原は心の中で呟いた。
屯所に着いた時、迎えた隊士の中に永倉と山崎は居なかった。遠くの方で窺う様に見つめていたのだ。
それは当然の行動。彼らは、かつての仲間に瓜二つの、その男の正体を知っていたのだから。
しかし同じ行動をとる者がもう一人居たのを、葦原は見逃さなかった。
三番隊隊長・斉藤一。
流麗な眉と細い双瞳の間が狭く、只でさえ睨んでいる様な顔の男が人混みに寄り付きもせず、がっしり腕を組んで壁に凭れ掛かっていた。鋭い目線の先には葦原が居る。
その視線に気付きながら、
「あいつもわしの事知ってるんだろうな……つかそんな睨むなや」
と考えていた。
しかし斉藤は、土方には呼ばれていない。集まったあの部屋で、知っているのはこの四人だけだと聞かされた。
葦原は、山崎にでも斉藤の事を訊くつもりでいた。あの男は本当に知らないのか、と。
明日にでも話してみるか。
しかし、他人の部屋ってのはどうも落ち着かねぇな……天敵のだと尚更だぜ。
そう思い、葦原は池田屋以来の長い長い一日に、瞼を閉じた。
京女風に妙な科を作りながら障子の向こうに声を掛ける山崎に、中の永倉は
「おーう。入んなよ山崎さん」
と感じ良く応えた。
「永倉はぁーん。おばんどすぅ」
葦原の……というより土方の前での無言っぷりとは大層な違いだ。
「遅くにすんません。少しお話が」
急に声を潜める、そう話とは葦原の事。葦原が間者であるか否か、である。
新撰組随一の観察眼・山崎烝の出した答えは、
「心配せえへんでも大丈夫ですわ。葦原柳は間者ではありまへん」
の、からっとした一言だった。
山崎は無論、
「間者じゃねぇ」
という葦原の言葉を鵜呑みにした訳では無い。
試したのはあの時。
土方と沖田が念友だなどと真っ赤な嘘だった。
間者なら、新撰組副長の“好み”という剰りにも恵まれた容姿で、この隊内
の実質的な支配者を誑かし、閨事で技を駆使しようが思うがままに情報を引き出せるおいし過ぎる状態に、自分の色香に磨きをかければよい所だ。
だが葦原は、笑える程に本気で逃げようとしていた。
それにその前にも、バレたら死ぬと聞かされて直ぐに出て行こうとした。
間者というもの、拷問にかけられる前に自ら命を絶ち、主と仲間を守るぐらいの覚悟は当然の如く持っている。
ところがあの男、そういう根性が全くない。
そこで一応は疑いを弛めたが、まぁ、反応が面白そうだからさらに探りを入れ
たのだ。
「……そうかい。山崎さんが言うなら信じるよ」
にこりと永倉は微笑みを返すが、山崎の腹の中は今後の自らの使命で固まっていた。
これから先も、目を離しはしない。
地の言葉が、つい出てしまうくらいの本音だった。
翌朝、激しい掛け声に合わせ、葦原は敷布団ごと下から引っ括り返された。
「ぅらあっ! 起きやがれ!」
哀れ葦原は顔面を畳に打ち付け、天変地異にでも遭ったかの様に目を白黒させながら、赤くなった鼻っ面を手で覆った。
「何しやがんだ! って、うわ! 土方!」
その驚愕と憤怒も束の間、今度は別の驚異に襲われる。
葦原は、土方と沖田が念友だという山崎の無責任な発言を、まだ信じてしまっていた。
今は亡き沖田に似ているという自分の顔を、こんなに憎んだ事は無い。
「朝っぱらから騒ぐんじゃねえ! さっさと朝稽古に行け!」
てめぇに言われたかねぇよ。
前半の言葉には心の中でささやかに反発しながら、後半の言葉に抗った。
「その“朝っぱら”から稽古なんかしたらメシ吐いちまうだろ」
つか、面倒くせぇ。
本音を腹に、躰は寝具に仕舞った。
その葦原に土方はしゃがみ込み、優しげに説いた。
「ナニ吐こうが稽古しとけ。後悔すんのはお前だぜ?」
ぐぁっ……近っ!
「なななっ何でだよっ」
衆道っ気のあるらしい男に間近に迫られ、明らかに拒否反応を示す葦原。
“俺が弱いとでも言うのか”等の、お決まりだが少しはまともな返事も出来ないでいる。
そして“なぜ”と聞かれた土方は待っていたとばかりに、にやりと形のいい唇を上げ、ついでに葦原の顎を軽く持ち上げた。
「新撰組隊内で、衆道が流行ってんの知ってるか?」
マジでか! つかコイツ俺のこと口説いてんのか!?
葦原の疑問、口にしていたら前半は肯定されるだろう。近藤が故郷に宛てた手紙に深刻な悩みとして記しており、現代にまで残ってしまっている。
絶句。葦原はその手を払いのけるのも忘れ、呆然とした。
「……ふっ」
その様子に土方が鼻で笑うと、葦原は転瞬我に還り、目の前の細身を突き飛ばした。
「触んじゃねえ! 俺は沖田の代わりにf××kされんのはゴメンだ!」
「……山崎の奴、随分と怯えさせたらしい」
尻で餅を付いても粋がる上に恰好がついてしまうのが小憎らしい所で、そのまま続けた。
「“この俺”が、何が悲しくて総司と念友やんなきゃならねぇんだ」
その言葉に、葦原は顔を明るくする。
「へ……? じゃあ、嘘!?」
ほっとする余り、知っていてからかった土方への怒りも、諸悪の根源・山崎への恨みも、そして
「“女にモテまくってる”この俺が」
と言い放つ男へのツッコミも思いつかなかった。
「だがな、隊内で修道が大流行りってのはマジだ。いくら新撰組でも“沖田総司”に手ぇ出す程の命知らずは居なかったが。……お前、その面引っ下げて弱いときたら、さぞ大人気だろうぜ?」
……こうして、沖田総司に匹敵する戦力を目論む土方の望み通り、葦原は暇さえあれば稽古に励むことになった。
“ふぁっく”ってどういう意味だ? ……南蛮被れめ。
土方に若干の疑問を残しつつ。
土方……?
平隊士も連れねぇでどこ行くんだ?
新撰組が居候している八木邸の庭で隊士達と共に葦原が稽古していると、一人
で外に出かけて行く土方を見つけた。心持ち、人目を憚る様な雰囲気を漂わせている。
……女か?
葦原は、ふつふつと沸き上がる好奇心を“奴の弱みを握る為だ”などと自分を誤魔化して、慣れない尾行を試みた。
あいつ脚早っ!
少し目を離すと見失いそうな背中を追いながら、葦原は額に汗した。
土方は“韋駄天”とか呼ばれる程、普段から早足だった。
少年の時、遠く江戸いとう松坂屋呉服店の奉公先から飛び出した夜も、一晩中歩き続けて武州多摩石田村の実家に帰ってきたという、恐るべき健脚の持ち主だ。それはただ、本人は絶対に明かさないような、そこまでして帰りたい程に厭な事が有ったからだが。
地の“鬼脚”ぶりをまだ知らない葦原が、こんな急ぐ程に惚れてる女なのかよと、かなりわくわくとしながらもかなり疲れてきた所で、土方はやっと立ち止まった。
……ん? ここは……。
寺かよ!
ヤケに渋い所で逢い引きしやがる……まぁ、異様に静かな落ち着いた場所だよな、と葦原は連いて行った。
少し離れた場所から土方を見やると、或る墓の前で手を合わせている。
“沖田 宗治郎”
墓石には、そう刻まれていた。見つめたまま声を掛けられずにいる葦原を、土方は振り返った。
「……ッ! ……ああ、葦原か」
立ち尽くす姿を、土方は一瞬、亡き面影と見違え狼狽した。だが、それ以上に目に見えて狼狽えるのは葦原の方だった。
「てめぇ付けてやがったのか!」
などと、怒鳴られるのは想像に容易いからだ。
しかし、その通りにはならなかった。
「総司の……墓だ」
“宗治郎”とは、沖田の幼名“宗次郎”の当て字である。
誰にもわからないように、敢えてこの名が墓に刻まれた。
また静かに向き直り背中を見せる隣に、葦原は同じ様に膝を付き片手を顔の前に出すと、短い間だが目を閉じた。
「俺はあいつに……何もしてやれなかったからな」
瞼を開けたかと思うと、少し前の問いの答えを出した。
「俺はなぁ、あいつの病気を全く知らないでは無かった。信じたくねぇ俺の我儘と、新撰組を大きくしたい俺のあざとさをあいつは見抜いていたんだ。だから療養しろと言うのも聞かず、刀を振り続けた」
土方は、額を掌で支え瞑目した。
「俺が……殺したようなもんだ」
艶やかな黒髪が垂れるのを、掠れた吐息が揺らした。
土方の奴……一人で背負おうとしているのか。
―…
「……いっつも、そうなんだからなぁ……。歳三さんは」
土方は眩しそうに双瞳を顰め、重たげに顔を上げた。
「……葦……原?」
先程まで押し黙っていた葦原が、幼子の様な微笑を湛えて話し出す。その姿は、土方にこう、思わせた。
いや……総司、なのか……?
二度目だった。
初めて局長・近藤勇に逢った時にも、葦原は沖田そのままに立ち回った。
馬鹿な……!
総司はあの夜、俺の腕の中で息を引き取ったのだ!
土方は自らの考えを振り払う。
とても演技には見えないその様子を表す言葉は一つ。
“沖田総司が憑いている”
「僕が最期まであなたの側にいたのは、“僕の”ワガママです。まったくぅ、なんでも自分のお手柄にしちゃうんだからなぁ」
最後は少し頬を膨らませて、刮目する土方の反応を愉しむように歯列を見せた。
―…
「……土方? ナニぼーっとしてんだよ?」
戻……った?
けろっとする葦原に、土方は何と問い質すか思い巡らせた。
だが葦原の行動は何なのか……確信が全く無い。
それ所が当の葦原さえ、自分の行動を知らないのではないか?
様子を窺うしかない。
“三度目”がいつなのかすら、予測も出来ないのに。
「帰るぞ、ナギ」
「……っ勝手に人の名前縮めんじゃねぇ!」
さっさと歩き出す土方に、葦原はまた必死に連いて行く。
――……
「行くぞ、ソージ」
「宗次郎ですってば!」
――……
土方が懐かしい遣り取りを心の中で重ねるのを余所に、葦原もまた、自分を“ナギ”と呼んだ親友を思い出していた。
葦原が新撰組屯所に来てから数日が過ぎ、鬼教師・山崎にとくと仕込まれた沖田の真似事も板に付いてきた。
「おはようございます! 沖田先生!」
すっかり、他の隊士の出自や性格等も覚えてしまった。
「おはようございます。……それ、と。“先生”っていうのはやめてくださいね?」
我ながらウマイ返しだな、と満足した。
山崎曰く、沖田は基本的に誰にでも、なんと敵にでさえ感じの良い笑顔と丁寧
な言葉で接するとの事。葦原に言わせれば気色悪ぃの一蹴である。
斬り合いの最中で笑顔を見せる等、“一般の剣士”には出来え無い。
“天武”の成せるその余裕は、残念ながら“一般”の葦原にとっては奇妙以外の何物でも無かった。
それにしてはあの夜の沖田はヤケに嫌味だったがな、と葦原は池田屋で初めて……そして最後に沖田に逢ったのを思い出す。
「わざわざ名乗るなんて、余裕じゃないですか」
こ憎らしい科白が聞こえたかと思った瞬間、
「もう、僕の間合いですよ」
の時にはその声が葦原の耳元で響いた。
人の善さなど微塵も感じる事は無かった。しかし沖田が嫌味だったのも、思えば当然である。
沖田の躰は労咳に侵され、普通の人間なら寝ていても辛い程だった。それが当時の労咳の末期である。
沖田には、そんな余裕は無かったのだ。笑顔で人を斬る余裕など無かった。
だが、それでさえ、あの腕である。葦原はこれから、“一般”の腕ながら余裕で、笑顔で人を斬らなければならない。それが出来なければ、沖田では無いのだ。その思いが一層、葦原を剣術へと駆り立てる。
沖田になりきる為……だけではない。葦原はこれまで真面目に稽古などした事が無かった。道場へだって、親友の翔野が入ったのにただ雛鳥のように連いていっただけなのだ。そんな葦原が次第に変わっていった。
「総司くん、今朝も早いねー」
……藤堂平助。北辰一刀流の遣い手だ。
幹部隊士の中では最も若く、沖田の二つ下……つまり葦原と同い年である。普段は若者らしく朗らかだが、隊務となると常に先陣を切って斬り込む為、“魁先生”の異名をとる。
また、津藩主藤堂和泉守の御落胤だ……との噂が囁かれている。眉唾話の様だが、藤堂の佩刀が名刀・上総之介兼重という津藩主お抱えの刀鍛冶の作である事、そして時折見せる“ご子息風”の気品が信憑性を高めている。
「おはよう、沖田くん。毎朝剣術指導ご苦労様」
……山南敬介。仙台藩脱藩で北辰一刀流免許皆伝の腕前。その上に博識で思慮深い、正に文武両道。
隊士からの信頼が厚い、もう一人の新撰組副長……“鬼の副長”に対し“仏の副長”などと呼ぶ者も居る。
その名の通り、平隊士達は彼が怒っているのを見た事が無い。だが、現新撰組幹部が江戸から浪士隊として上洛する道中、同行していた幕府の役人にひどく腹を立て、執念深く中々許さなかった……という過去もある。
やはり普段穏やかな人物に恨まれると怖いと云うのは今も昔も常識で、山南もその一人なのだ。それも、永倉が“火の玉”と称するくらいの人物なのだから相当である。
「あれっ? 左之さん! “今朝は”早いですね?」
「んっ……おぅ、非番だからちょっと出てくるわ」
……原田左之助。伊予松山藩脱藩の種田宝蔵院流槍術の遣い手。
大食らいで豪快な性格に似合わず、京でも評判の美男子である。幹部の会合中に白熱すると二言目には
「斬れ斬れ!」
と口走る、という喧嘩っ早い所がある。最下級の武士・中間だった頃、上級武士との諍いの末に
「切腹の作法も知らぬ下郎が」
と馬鹿にされ、
「それくらいやってやる」
とその場で腹を一文字にかっ捌いた。
何とか一命を取り留め、“死損ねの左之助”と渾名されるが、当の本人は記念に紋を“丸に一ツ引”に変えて今でも使っている。そして酔うとその傷を得意気に見せびらかす……などかなりの自慢にしている。
「どーもー、沖田はん」
……山崎烝。諸士調役兼監察であり、香取流棒術の遣い手。
山崎は自分の事は全くと言っていい程語らない為に葦原は知らないが、鍼医者
の息子で、第一次隊士募集の時に入隊した。
「すすむさん! おはようございます」
葦原が山崎に言われたまま沖田の真似をすると、山崎は吹き出すのを堪える仕草をする。“葦原の目”で睨み付けると、
「そうそう、俺達“知っている者”の前でも常に“沖田総司”に成りきってもらわんとな」
と、囁いた。
葦原が道場に着くと、一同一斉に“沖田総司”に挨拶をした。
その中には、永倉新八がいる。松前藩脱藩で神道無念流免許皆伝。
本名は長倉新八。幕末に活躍した志士には脱藩者が多いが、実は当時の大罪である。永倉は自分の罪が家族に及ばないよう、名を変えた。
からっとした江戸っ子で粋な上、非番の日には平隊士を連れ立って遊郭に行くという気前の良さ。そして曲がった事が嫌いで、誰にでもどんどん意見するが全くイヤミが無い、という好人物である。
「ヘバってんな! とっとと立て!」
膝を付き、ゴホゴホと咳をする隊士に剣術師範の永倉が怒鳴る。
隊内の稽古の激しさは半端では無い。大素振り、跳躍早素振り、技の鍛錬、集団戦の訓練、係り稽古、試合、居合い……。錚々たる内容を、とことん実戦を想定して休憩をほとんど入れずに行う。
「総司くん! 斎藤と試合の手本を見せてよ!」
「はぁーい」
「……承知」
永倉が市中に出ている間に、遅めの稽古に入った藤堂が浮き浮きと言ったので、平隊士達は面を外し、稽古中だと忘れてしまう程の“催し物”に、並んで正座した。
両者、竹刀を手に一定の距離で離れる。そして道場に引かれた白線から一歩、
内側に入った。互いに目を合わせ、一礼。
マジ目付き悪ィなコイツ。
葦原は気持ち睨み返したい所だが、俺は沖田だと自分に言い聞かせて、穏やかな顔を何とか保つ。
そのスカした面を崩してやる。
心意気だけは喧嘩腰で、互いの付く位置を示す白線に三歩で近付いた。抜刀する姿勢をとり、蹲踞。
「藤堂さんもお人が悪い。隊内随一の剣客二人を勝負させて、“魁先生”は高見の見物……いやいや審判とは」
この時にはもう、冗談粧しながらもその勝負に期待する林信太郎達の騒めき声も耳に入らない程に、集中している。
「始め!」
藤堂の真面目ぶった声が朝の道場に響いた。
何考えとるんや! あんッの阿呆!
山崎の頭に浮かぶのは葦原のへらへら顔だった。
「はあ? 沖田はんと斎藤はんが試合ぃ?」
「ええ。山崎さんも見に行きませんか?」
似なくていいところまで似てはるわ。
顔どころか、あまり深く物事を考えないところまで。
沖田信者の隊士の前ではとても口に出来ない事を思いつつ、早足で道場に向かう。
葦原も剣の腕は上がってきてはいるが、沖田とは太刀筋が全然違う。
考え無しに突っ込んでいく……という性格そのままの剣を振るう葦原と、普段は穏やかな優しさを纏っているが、剣に関しては更に緻密に計算を重ね、素早い動きで残酷なまでに相手を弄ぶ沖田。
斎藤程の剣客が立ち合えば、気付かれる。
まさか沖田が死んで、長州藩士が演じている……とまでは思わないだろうが。
だが確実に、別人だとは解るだろう。
やめさせなあかん!
危機迫る山崎が道場の扉を開けた時には、二人は鍔迫り合いの格好となっていた。
山崎の心配を余所に、葦原は斎藤の絶妙な……まるで名門道場の手本そのものの剣技にいっぱいいっぱいだった。
クソッ……マジ強えッ!
鍔を押し返し、そして離れる寸暇で斎藤が耳打ちをした。
「沖田さんらしくない」
ゾクリとする様な不敵な声。
斎藤の顔を見返すと、薄く笑っていた。
真顔以外初めて見た。
そんな感傷に浸る隙も無く、左面を打たれた。
「面あり!」
藤堂が赤旗を上げると同時に、やっと山崎が白線に入って来た。
「稽古中にすんません。沖田はん、副長が呼んではります」
葦原と山崎は逃げる様に、というか本当に土方の部屋に逃げていった。
その後の道場には無論、
「沖田先生が負けた!?」
というどよめきと、斎藤の……少しは嬉しそうにすればいいものを、“当然”だとでも言う様な平静な表情が残った。
あの仏頂面の斎藤はどこまで気付いたのか……それは驚異の観察眼を持つ山崎にもわからなかった。
葦原が山崎に
「こんのあほんだらが!」
などとドスの利いたインチキ関西弁で怒鳴られながら土方の部屋に入ると、意外な言葉に迎えられた。
「良い所に来たな」
「どないしました?」
すると山崎は一気に“新撰組監察・山崎烝”の仕事の顔になる。
こんの猫っ被りが、と葦原は悪態付く。この男らしく、やはり心の中だけで。
「長州が挙兵するぞ」
へらへらしていた頭の中に急遽、現実が突き付けられた。
そうだ……俺は長州の人間だったんだ。
産んでくれた親、育ててくれた親、導いてくれた師、そして仲間。
何にも代えられない……人生に置いて最も大切な全てを裏切り、俺はここへ来た。
それが意味するのは、“故郷”と対峙することなのだと。
そんなことなど、必死に稽古する毎日に、予想を裏切る程に“イイ奴ら”な新撰組隊士との毎日に楽しいとさえ感じ始めていた葦原は、すっかり考え付きもしなかった。
そうか……“こういうこと”なんだよなぁ。
「ナギ! ボーっとすんな!」
ぼんやりとしながらも生返事をする葦原だが、その後も土方の話は耳に入ってこなかった。ただ、本格的な戦に熱の入る談合も終盤に差し掛かると急に、しかしぼんやりと空耳かというような呟きを落とした。
「……俺、戦には出ねぇ」
「は? 何言っとるんや、斬り込み隊長が」
厭きれ気味の山崎の尤もな科白を、溜息混じりに土方が制する。
「放って置け」
その、優しさなのか諦めなのか……見限ったのか、微妙な言葉を背に受けながら葦原は障子を閉めた。いつものような勢いは無く、音だけはお茶会かとでもツッコミたくなるような、お上品振り漂う閉め方で。
ここから、少し前の歴史に遡る。
当時に尊王攘夷を掲げていた藩の代表と呼ばれるのに相応しい大藩・長州の内では、考え方が二分されていた。
尊攘派諸侯が京を去る“七卿落ち”の因となった、八・一八の政変以後「徳川家に成り代わる」との野望を秘め、朝廷と幕府を取り持つ薩摩藩国父・島津久光を始め、公武合体派大名が入れ替わるように上洛。
幕藩体制の中でも無視できる筈の無い権威を持つ朝廷の命により、現将軍・徳川家茂とその座を争った一橋慶喜、新撰組を預かる会津藩主・松平容保らの参預会議が招集された。
その大層な会議の議題は目下、「長州藩対策」だった。
長州と険悪な薩摩は、激論の中で強硬に「長州討つべし」を叫んだ。
対する長州は会津藩をも憎み、「薩賊会奸」とあしらわれた草履を履いていた程、互いに目の敵、犬猿の仲だった。
さて置き会議は、穏便に済ませようとする一橋等の論と平行線を辿り、結局解散に終わった。
議論の的・長州は会議の分解に乗じて、八・一八政変以後追放された京に再び潜入し、天皇の御心を取り戻そうと画策。
それが来島又兵衛と、吉田松蔭門下の秀才・久坂玄瑞らが煽る進発論であり、賛同しない「慎重派」の代名詞・桂小五郎、長州一の暴れ志士・高杉晋作らの自重論とで、長州は大きく割れたのだ。
しかしその中、過激尊攘派が談合を開いていた池田屋で、長州は吉田稔麿に広岡浪秀など、存命ならば後世必ずや政の中心となったであろうと惜しまれる程の人物を新選組により討ち果たされた。
若手ながらに無駄に目立っていたという葦原柳も、亡骸は見つからないが斬られてしまったのだろう、と悼まれていた。
まさか、仇敵・新選組の人斬り屋筆頭沖田総司に成り代わっているとは、夢にも思わない。
沖田を見たことの無い者達は皆、その剣を振るう為に生まれたような神業から、鬼の様な形相で筋骨隆々の荒くれを想像し、二人の風貌が写し取った様に似ているなど、誰も知らなかった。
葦原の余談で話が逸れたが、その後世で呼ぶ池田屋事変により長州の進発論者は憤慨し、遂に軍を結集し入京。
会津、桑名、薩摩諸藩の兵を集め応戦する幕府に、この新選組も呼ばれた。
重装備で揚々と初の本格的な戦に加わる新選組隊士に、葦原は本当に置いて行かれてしまった。
故郷の敵軍一の実戦部隊・新選組の屯所で、不毛の留守番だ。
戦はもう、始まっている。どちら側のものともわからない大砲の音が響いていた。
俺は……どうしたいんだ?
そう、それが一番の問題だ。
あの池田屋の夜までは、親友の翔野の後を追うだけだった。
正しいのかどうかも知らず、ただなんとなく。
アイツがいない今。
道を示してくれる奴はいない。
俺が、自分で選ぶんだ。
このまま……新選組の沖田として生きるのか。
それなら故郷も俺の人生も捨てて、専念するべきだ。
こんな戦の時には、迷い無く長州兵を斬れる程の信念を以て。
それとも長州の葦原に戻り、間者として死ぬのか。
沖田の振りを辞めれば、どんなに逃げても山崎に見つけられ、斬られるだろう。
そう解っていても、俺の人生を貫くのか……。
邸外で繰り広げられる戦いを余所に柄にもなく黄昏ていた葦原は、耳を突き 裂く様な何人もの人間の悲鳴で現実に引き戻された。
机に付いていた肘が、ガクンと落ちた。反射的にパッと周囲を見回すが、ここ、八木家の人々はとうに京市外の親戚の所に行って誰も居ない。外からの声だ。
一応、武士の癖として刀を引っ掴み、外に飛び出した。
「うぉあ……っ!」
遠く向こうは大火事だった。空が真っ赤に怒っている。その方角に一目散に駆け出した。
近付くに連れ、目の前に地獄絵図が広がる。優雅で壮麗な京の町が、無惨にも炎に包まれていた。
逃げ惑う市民の波を掻き分けて、戦場へと進む。
だがそこで、一人の女の頭上に向かって燃えた家の梁が崩れ落ちるのが目に飛び込んできた。
「……危ねぇ!」
すかさず葦原は女を突き飛ばした。
「大丈夫か……!?」
普通にカッコいい風情の葦原だが、途端、額を押さえながらゆっくりと身を起こす横顔の女に目を奪われた。
清らかな艶の漆黒の結い髪が乱れて、真雪程の白い肌に掛かる。唇が、牡丹を咲かせたように赤い。
「ありがとう……ございます……」
その声は鈴がコロコロと鳴るように愛らしい。
目を……というよりも、心を奪われた。
そんな葦原の心を知らず、黒真珠の瞳は驚きに見開かれた。
「……ナギちゃん……?」
少年の頃からの綽名を呼ばれ、ついまじまじと、正面から女の顔を見た。
「ゆい……!」
その名を呼ぶだけで、怖い程に胸が高鳴る。
唯希。
山崎が調べ上げた葦原情報に登場する初恋の女“ゆいちゃん”だ。
人間は生涯一度、永遠に忘れられない恋をするという。
故郷を離れ、会えなくなって気が付いた。
その相手に、まだ自我が芽生えたばかりの幼少に出逢うなんて。
この幼なじみ以来、本気の恋愛なんて出来ずにいた。
人間とは一番愛した人とは結ばれない悲しいイキモノだ……という世間の常識が身に沁みていた頃だった。
不意に、二人は再会を果たした。
「ナギちゃん……生きちょったんだね……っ!」
零れそうな大きな瞳を、涙の膜が覆う。
蝶が孵ったように美しく成長したかと思いきや、中身はあの頃の、どこか子どもっぽさが残る“ゆいちゃん”だ。
尤も葦原も唯希と離れてから、心に居る忘れ得ぬ女を恋しがってか、中身の成長を止めていたような男なので丁度良い。
「池田屋に居たっちゅうからてっきり……」
きゅっと葦原の両手を両手で握る。
握手の習慣が無い当時、これは再会の挨拶とは言えない。
抱き合える仲ではない二人ができる、唯一つの、互いの体温を確かめる行為だった。
「お前どうしてここに?」
幼なじみの変わらない内面に安心したのか、いつもの調子を取り戻して訊いた。
すると透き通る白さの頬がパッと朱に染まる。
「父が……仕事で京に上るけぇ付いて来たの」
俯きながら答える様子は、鈍感な葦原から見ても何となく、嘘なのかと疑わせる。
女は嘘を吐く時に相手の目を捉える……と言うから、騙そうとしてのことではないのだろうなと、それ以上葦原は追求しなかった。
事実小さい時から唯希は、医者である父の手伝いをしていた。
「突っ立ってんな!」
薄い背中に逃げ走る市民が当たると、唯希は葦原の胸に、高く短い声を上げて倒れ込んだ。
「ナギちゃ……ごめ……」
「いや。早く行くぞ」
パッと離れようと伸ばしたその手を取り、戦火から逃れた。
国も政も戦争も、新選組も、生まれ育った故郷さえ忘れ、ただ腕の幼なじみの無事だけは守りたかった。
遠く忘れかけていた感情。
一目触れた刹那でどうしようも無く、この底の無い淵に足を踏み入れていた。
「ここなの!」
洛外に住んでいるという唯希の家まで歩いていると、彼女は広い庭と診療室らしき白い建物が付いた大きな邸を指さし、さっと駆けていった。
「唯希! いけんじゃないか、こねーな時に外に出ては……」
「お父様聞いて! ナギちゃんがっ」
息を切らして嬉しそうに振り向くと、そこにはもう、葦原の姿は無かった。
「ナギがどうしたんじゃ? まさか、生きちょったのか?」
「……ううんっ! 人違いだったみたい」
理由なんて全くわからなくても、自分の存在を知られたくないんだと理解した。
ナギちゃんが生きていた……!
それだけで、人生に光が射し込んだ。
辛さが救われた。
打ち明けられることはきっと無いけれど。
ねぇ、ナギちゃん……。
わたし、あなたに逢う為に、京に来たの。
子どもの頃に戻ったみたいに笑い合って。
懐かしい話をしてみたり。
「あなたが好き」
と、あの瞳を見つめたかった。
でも、逢いたい理由は歪み、脆く消えて。
“最後のお別れを言う為”に変わっていた。
何も無かったかのように配置に加わった所を、隊士達に迎えられる。
「総―司―! 来て大丈夫なのか?」
「ええ。遅れてすみません」
前列で指揮を執っていた土方が心底意外そうに目を見張り、なんと側まで来て息を殺した。
「ナギ、もう帰って来ねぇかと思ったぜ」
「何言うんです? ……僕は、総司ですよ」
一瞬“三度目”が来たかと。
そう、期待とも危惧ともわからないものが頭を過った。
しかしその瞳は“葦原柳”のものだった。演技かと含み笑うと、土方はさっさと戻っていった。それとは入れ違いで、隣にはいつの間にか斎藤がふらりと立っていた。
「……ぅわあっ! なっなんですかっ?」
面白いくらい驚く相手に顔色も変えず、ボソリと呟いた。
「随分雰囲気が変わったものだな。俺一人ぐらいには正体を見せたらどうだ?」
「何の事だかさっぱりわかりませんねぇ」
斎藤は、この男は沖田総司と別人では……という所まで気付いているようだ。
「マグレで勝ったからって、そんな喜々としなくったって良いでしょう?」
などと口調はあくまで沖田のまま、自分では絶対言わない科白を演じながら、内心は不安だった。
「やぁっと来よったぁ」
次々と声を掛けに来る最後は山崎だ。
そのいつものニヤケ顔に、ボソリと宣言した。
「今日から本気でやってやるよ。……俺は……沖田総司として生きる……!」
「……! ……ほんなら“葦原”と話すんはこれで仕舞やな。」
決心の言葉に慣れぬ驚きに目を見開いたが、すぐに上目でニヤリと答えた。
「たりめぇだ。わかったらさっさと持ち場に戻れよ」
あの時に唯希を選ばなかったからには、それだけの事をやってやる。そう、葦原は前髪を掻き上げた。
「へえ。失礼しますぅ、沖田隊長」
平隊士の集団に……勿論戦闘中なので隊列を組んでの事だが、声を掛けると一斉に居住まいを更に正した。
「すみませぇん。あのぉ、今どういった状況なんですかぁ?」
「……っあ! 沖田隊長! お疲れ様です!」
「いえいえ。お疲れなのはあなた達でしょう? 僕は今来たばっかりなんですよぉ。どっちが優勢なんですかねぇ?」
本物の沖田が、恐らく無意識に築いた平隊士からの絶大な支持を顕著に表す尊敬と憧れの眼差しを向けながら、一人が応えた。
「それがまだ……堺町御門での戦いには我らも参戦したのですが、既に長州勢は撤退していて、新撰組にはこれといった活躍は……」
流石、副長土方指揮の下で扱かれている連中だ。
全体の戦況、ましてや政治情勢などには関心無く、只己等の手柄を欲している。屯所に引き籠もっていた葦原に言えた事でも無いが、厭きれ顔を隠せない。そこで別の隊士が遠慮がちに口を挟んだ。
「でもその戦いで、あの久坂玄端が切腹しました」
久坂先生が……!?
大いに動揺したが、すぐに落ち着かせた。
俺は……沖田総司だ……!
さらに新参にしては意外と詳しい隊士が、得意げに付け加える。
「ついに、長州は“朝敵”ですよ」
「……なっなんで……っ」
周りも、葦原自身さえ気付かない間に握っていた拳が震えた。その驚き様を感心していると見ると隊士は、残酷にも揚々と応えた。
「中立売御門を突破した長州勢が、蛤御門で会津・薩摩藩と戦ったのです。かなり激しい戦闘で、長州の奴らの撃った砲弾が、なんと御所の中にも飛んだんです。御所に向けて撃ったのですから、これで長州は終わりですよ!」
地の底から抜けて、足下が真っ暗闇になった。葦原が着替えた衣の名は“裏切り者”で、捨てた故郷が重ねた衣は“賊軍”だった。
「本当に……もうダメですね……」
自分の口……もしかすると、沖田の口をついて出る言葉が、憎かった。
「あ……っ隊列が動きましたよ!」
……どこへ向かうのか……。
新撰組が。
自分が。
……故郷が。
いや単に、今この隊列が。
明らかにする為に葦原は、先頭で指揮を執る土方の元へ走った。
「土方さん!」
「おお、総司」
この男と話していると時々葦原は、コイツは俺が葦原だという事を忘れているのではないかと錯覚をした。
それ程に、この冷血に見られ勝ちな風情の男の葦原を見る目は、哀しくなるくらいに、幼い頃から知っている弟のような存在に向ける眼差しだった。ただ土方らしいのは、下手をすれば女にも、誰にも見せないであろう光を瞳に宿しながら、口から出るのは憎まれ口だと言うことだ。
「テメェいつまでほっつき歩いてやがる。天王山だ。俺の隊に加われ」
素直になれない性分なのだ、と“懐かしく”微笑む。
“相変わらず”
「天王山っ! 太閤殿下の合戦場ですね!」
来た……! 三度目だ。
何もこんな時にとの思い反面、土方の胸に込み上げるのは郷愁にも似た深い感傷だった。
しかしそれは束の間消える。
今度いつ遇えるかも、わかる事は無い。
確かめてはいないのに、土方は既に信じていた。
葦原の身に、一時的に“沖田総司”の魂が宿る。
「どうしました? 土方さん」
言葉遣いは懸命に似せて沖田そのものだが、この様な演技とは明らかに違う。
「さっき、何て言った?」
「へ? 何も……」
そう、葦原本人が全く憶えていないのだ。
「山麓を守るのでしょう?」
くるりとした瞳で訊ねてもその奥は、
「んだよ気持ち悪ぃ」
と怪訝の色を湛えている。
全部で三度だ。
何がキッカケで入れ替わるんだ?
それとも総司のことだ、単に気まぐれか?
何より総司……お前、何が未練なんだ。
向こうには、お前が空蝉の心で焦がれ続けた両親が居ただろうに。
やっぱ怒ってんのか。
代役なんて立てたこと。
……! まさか……。
まさか総司……。
「先生達の隊はもう動いちゃいましたよ、土方さんっ」
総司……この葦原に成り代わるつもりか……?
「ちょっ……ホントに早く行かないとっ」
……バカか俺は……芝居の観過ぎだ。
土方は自分の考えを振り切り長く垂れた髪を翻すと、やっと指揮を始めた。
次は必ず、“総司本人”に訊いてやる。
だがもし、万が一にも総司が“そのつもり”なら……俺は止めるのか……それとも。
目指すは天王山。
局長が率いる隊と挟み撃ちにする作戦だ。
葦原……沖田等の土方隊は山麓から攻め登った。
一方天王山に追いやられた長州勢は、侍大将の一人・真木和泉の決意に心を震わせた。この天王山で、討ち死にを果たすと。
そして残らない者は馬関へ落ち、再生の時機を狙えと……帰国もまた決心だと一同に促す。その言葉に多くの壮士が運命を共にと居残るが、真木の考え通り、奮戦した他の三大将・宍戸備後、国司信濃、益田右衛門介の率いる藩兵は長州路へと落ち、戦場の軍勢は二十人。
敗北は目に見えて明らかだった。
轟音を上げて大砲が放たれる。
余裕たっぷりで開戦を挑む、新撰組は容赦しない。次々と山上目指して進軍した。
すると目の前には、真木和泉率いる長州藩兵がズラリと待ち構えていた。
当然、葦原の知った顔も混ざっている。思わず葦原は、自らの姿を隊列に隠した。
真木は名乗りの大音声を響かせた。まるで戦国の世の合戦を、この目で見るかの様だ。
近藤も全く劣らぬ武士らしさで、
「それがしは、新撰組局長・近藤勇!」
と大口を開く。
一斉の鬨の声を合図に、鉄砲を用いての文字通り大合戦となった。
しかし勝敗の決するのに多くの時間はかからない。
「退けぇー!」
真木の声に長州勢は直ちに陣小屋へ駆け込み、殆ど同時に火を放った。
「馬鹿っ! 総司危ねぇ!」
引き寄せられるかの様にふらりと足を動かした葦原の呆然とした腕が、土方に掴まれ正気に戻る。
眼の内の、今出来たばかりとは見えない血筋の走った痛々しさと、子どものそれのように人目を憚らず零れ落ちる何粒もの滴が、土方を捉えた。
コイツ、涙流しながら戦ってたのか。
葦原は籠手を外し、腫れた目元を隠す。
「戦場は埃っぽくていけないですね」
訊かれる前に言い訳を呟く、そんな細かな内面までよく似通っている、と土方はふと思い出した。
一方、炎上する小屋の中で長州兵は辞世を吟じ、切腹して果てていく。
「なんと見事な最期だ」
近藤は、頻りに感動していた。
その後、黒焦げの屍を丁重に埋葬し、新撰組隊士は壬生の屯所への帰路に着いた。
まだまだ夏の気だるさが残る昼下がり、葦原は山崎の袖をはっしと掴んで半ば誘拐の格好を取った
「山崎っ! ちょっと来い!」。
連れ去った先は、今は葦原が使っている沖田の部屋だ。
「なんや、葦原と話すんはアレが最後や無かったんかい」
掴まれていたクシャクシャになった袖をパンパン伸ばしながら、山崎が溜息を吐いた。
「それ所じゃねぇんだよ! バレちまってる! 斎藤に!」
「はぁあ!?」
葦原は物凄い形相に怯みながら、本当はかなり決定的なのに
「いや……ちょーっと疑われてるくらい……」
と、誤魔化しを計る。
「なっ何があったんや!?」
やっぱり、というか山崎にはそれは効かず、葦原は例の道場試合で感付かれたらしく斎藤に鎌を掛けられて否定もせずに寧ろ挑発した、という経緯をバカ正直に科白付きで打ち明けた。
「ああーもうめんどくさぁ……殺ってまうか……」
「どっちを?!」
「冗談や。さて、どないしょー」
自分か斎藤を暗殺する気かと大目大口でビビる葦原を視界の隅に入れつつ、
山崎は腕組みをした。
しばらくして
「よし」
と少しオヤジ臭くペチンと膝を叩いた。
「アレやな。ここは定番、“相手の弱みも握ってまえ作戦”で行こ」
「奴に弱みなんてあんのかよ」
ふためく様を、山崎は睨み付ける。
「それを探るんがお前の仕事や。叩いて埃の上がらん奴はおらんて。ほな、いってらっしゃーい!」
つまりテメェのケツはテメェで拭け、ド素人だろうがまずは自分で尾行でもなんでもやってみろということだ。
しかし予想通り、葦原のほぼ元々共に連れ立っているかのような尾行はすぐにバレ、失敗に終わる。
「俺の勝ちが“まぐれ”かどうか、試してみるか?」
端から冷ややかに喧嘩腰の斎藤を前に早々に退散した。
「はぁ!? フザケんな!」
またもバカ正直に尾行に気付かれたことを山崎に話すと、案の定激怒された。
「……しょうがねぇだろ……」
「お前なんかにさせた俺もあかんかった」
逆ギレ仕掛ける葦原を無視し、山崎は立ち上がった。
「俺が行くわ」
常に冷静で無駄を嫌い他人との過剰な接触を拒む。
小野派一刀流皆伝で居合い抜きの達人。故郷で過って人を殺してしまい、浪士組には遅れて参加。
だがこの経歴に証人はいない。
「隊長! 三番隊、揃いました!」
「……出動」
こない調べ甲斐のあるんわ久し振りや。
山崎は一流の監察としての腕が鳴る感触を味わいながら、お庭番も手本にしたいような神業の尾行に精を出した。
「死番」
「……は、はい!」
浪士潜伏が見込まれるあばら家の前で覚悟を決める死番に対して、顔色一つ変えずに扉を開けて斬り込めとの意で斎藤は指示をする。
今日は運が悪かった。
扉を開けた瞬間待ち受けていた浪人に腹部を突かれた死番は、刀を抱え込むように前屈みに蹲る。
しかし浪人も迂闊だった。恐らく実戦慣れはしていないのだろう。
突き技をしたら直ぐに刀を引かなければ肉が食い込み、刀は抜けなくなる余程の、かの沖田総司並の手練でなければ遣わない“死に技”である。案の定慌てた浪人は斎藤に斬られるが、中には更に数名が構えている。
口汚く罵るのを耳に入れながらの乱闘を、山崎は高見の見物と決め込んだ。
「……クソッ……! ……どうして……どうしてアイツが……っ!」
大乱闘に当たり前のように勝利した後だが、三番隊隊士達は深い悲しみと後悔のやるせなさに、身を捩らせていた。
その眼下には腹に刀を突き刺したまま横たわる、かつての仲間が居る。
断末魔の表情は苦悶。
新撰組に入れば……武士として生きるならば、死に場所は戦いの中で潔くと本気で望む。そういう教育を、頭の先から叩き込まれている。しかし本気で割り切れるかと問われたら……それができたなら、機械仕掛けの殺戮人形だ。
手馴れた作業を熟す程の軽い仕草で斎藤が屍の横に片膝を付き、刀をズッと一気に抜く。
うわー……すごい力やな。
その離れ技に本当に見ているだけで何もしない山崎が唯一、密かに感心した。
「……後は任せた」
あちゃー……。
山崎の懸念通り帰路へと背を向ける斎藤に、一人の隊士が食ってかかる。
「隊長待って下さい! ……何か……何か言うことは無いんですか!?」
周りには
「おいっ止せ!」
と口々に押さえる隊士ばかりだが、心境は全員一致だろう。
「……後ろを振り返るな」
いい格言やけど今はそれあかんやろ。
まんまと軽くずっ転ける山崎の、予想外の言動に隊士は出る。
「……死番なんてあるからいけないんですよ! ……俺が隊長だったら……アイツを……誰も死なせない!」
「バカ! ヤメろ!」
死んだ隊士と同期入隊の新参だった。目に涙を溜めていた者達も、誰の所為とは思っていない。その言葉を浴びながら、斎藤はなおも歩みを進めていった。
張り裂ける叫び声の中、突如現れた人物は脇差しを納めた。
「……や! 山崎さん!」
大木の上からフワリと落ちてきたその者は、さっきまで元気に斎藤を罵っていた隊士を正面から斬りつけた。
一同、これがあの内部粛正かと顔を見合わせる。
「阿呆。死なへん。……このガキ、背中にしか傷が無かったやろ。切腹になるで」
あっと息を飲む顔をふと笑い、山崎は斎藤を追った。
「憎まれ役は副長はんに任せとったらええんやないですか?」
「……山崎……私の心の臓を止める気か?」
突如現れた山崎の背後からの気配に、意外にも斎藤は驚いたらしい。憎々しさを込めてゆっくりと振り返る。
「そんなぁ! 会津藩士殿に向かって滅相もないことですわ」
その視線の先には、ニヤリと唇を傾ける山崎がいる。
「……何のことだ」
決定的な場面を捉えた訳では無いが、かなり前からそう睨んでいた。
斎藤に倣い、鎌を掛けたのだ。
「……。これは“お返事”と思てもええんですか?」
ふぅと小さく息を吐き、山崎は上目を上げた。
二人の間には視線ではない、本当の火花が散った後。
斎藤が突然抜き放ったのだ。
だが、山崎にとってそれは突然ではなかった。
当たり前にその一撃を予測していた山崎は、余裕を持って脇差しで受け止めた。尤も予測できていなければ……できる山崎でなければ、何せ新撰組屈指の居合い抜きの達人だ、呆気なく胴体は二つに分かれていただろう。
斎藤にしては、信じ難いくらいの失態だった。軽く受け流せばいいものを、殺る気満々の勢いで斬りかかってしまった。
相手が悪かった。監察としての鋭い腕前を知る“仲間”だからこそ、その一言は調べ尽くした上での確信に満ちたものだと錯覚をしたのだ。まさか、引っかけられたとは思わない。
ギリリと一旦刀に力を込めると、急にスッと鞘に納めた。
「何故……それを?」
って、うわ! ホンマやったんかい!
その心境を全く表に出さず、山崎は重々しく応えた。
「巧い化けっぷりやと思いますけど……まぁ、反面隙が無さ過ぎですわ」
山崎も脇差しをパチンと軽く音を立てて納めた。
「せやから。俺みたいな輩に疑われてまう」
真面目ぶった顔を意図的にニヤ付かせると、斎藤は不気味さに引き吊った。
「会津様に何を言われてるんか……だいたい予想は付きますわ。どないです? 新撰組はええとこですやろ?」
かなり山崎の波長に巻き込まれかけるが、斎藤も負けてはいられない。何とか反撃に出たいところだ。
「“沖田総司”は、どうしたのだ?」
斎藤は起死回生の一撃を放つ。
“ホンモノ”はどうしたのか。
あの“ニセモノ”は誰なのか。
斎藤にしても、山崎が動いたことで自分の疑いが正しいと確信しながら、尚更新しい疑問が深まる。
「そっれは言わないお約束ですやん!」
そんな科白で煙に巻こうとしても、やはり斎藤は動じない。
「詳しく話すなら、協力しないでもないが」
まるで狐の化かし合いだ。両者一歩も譲らずよく考えれば条件は同じなのにも関わらず、少しでも優位に立とうとする。
「すんませんけど、簡単には明かせませんわ」
山崎は僅かに楽し気に……いや、半分くらいは喜々としながら歯を見せる。
「何せ、黒幕は……」
『………』
山崎が斎藤の背後の人物に絶句し、斉藤が言葉の続きを期待して待っている無言の間が揃った。
あの娘ぉは……!
山崎が目を剥くと斎藤も振り返る。
そこには、カラコロとぽっくりを響かせる小柄な女が居た。
唯希だ。
“ゆいちゃん”やないか!?
葦原を調べ尽くした山崎は、当然唯希の顔を知っていた。それでもまさか京に来ているとは知らなかった。
何しに来たんや!?
山崎とつられて斎藤まで唯希を見つめると、下を向いて歩いていた唯希も二人に気が付いた。
次の瞬間、唯希は振り返り駆け出した。
……逃げた!?
その理由として思い付くのは一点。斎藤が、隊服を着ている。
しばらくその背中を見つめていた山崎に斎藤が声を掛けようとするが、山崎はひたひたと歩き始めた。
「すんません……この話はまた今度」
足の速さの差ではすぐに追い付けた山崎だが、わざと人が居ない所で唯希の腕を掴んだ。
「きゃあぁぁあ!」
「ぅわっ!」
耳にキーンとくるような叫び声を上げられ、山崎は苦笑いした。
「ちょっ……堪忍してやー……まるで変態やないかぁ」
「何なんですかっ! あなた!」
腕を振り解こうともがきながら涙目になる唯希を見て山崎は、こういうワタワタしたところが葦原に似てるなと思った。
「つれないやないかぁ……俺はあんたを知ってるで? ゆいちゃん」
目を見開く唯希にさらに告げる。
「葦原柳もな」
「なんで……っ」
「せやから企業秘密ですってー」
何度も何人にも同じ科白を言ってきた山崎は、初めて会う唯希にまで喜々として言った。
「あー……でも何で逃げたんか話してくれるんやったら、教えたってもええですよ?」
黙り込む唯希を眺めると、逆にその大きな瞳に見入ってしまいそうになる。
天然の“悪女”はんやなこの娘。
山崎は、そう賛美した。
男を不幸にして、こんなつもりではなかったと泣くんや、きっと。
「ご存じかもしれませんが……わたしは、長州の者です。あの池田屋で、たくさんの知人が命を落としました。新撰組の方を見て反射的に逃げたのがお気に障ったのでしたら、謝ります」
物怖じせずに真っ直ぐと挑戦的な瞳で、唯希は語った。山崎も負けてはいられない。
「そら、追っかけたりしてもうて、こっちこそすんません。ただ、一つ聞きとうて……」
「なんでしょう?」
と、無言で唯希は小首を傾いだ。
「葦原柳……生きとるらしいんやけど……知りまへんか?」
「……知りません」
……残念……ハズレや、ゆいちゃん。
そこは
「えっ! 本当ですか?」
とか喜ばなアカンとこや。
それやったら、
「知ってます。会いました」
て言っとるようなもんや。
さっき逃げたんも、俺に聞かれるんやないか思とったからやろ?
やっぱ……会っとったんか……。
「そうでっかー? わかりましたっほな、さいならー」
山崎は、後ろ手で手を振った。
なーんで俺のカンてこない当たってまうんやろ。
次はあっちを問い詰める番や、とワクワクしながら屯所に帰った。
ナギちゃん……!
新撰組の人に……っ生きちょるって疑われちょるよ!
きっと、長州藩士と見たら斬るような人達なんじゃ。
ナギちゃんに知らせにゃあ。
見つかったらどうなるか……考えとうないよ!
唯希は葦原を捜した。
あの日なぜ葦原が姿を消したのかも、本当はずっと訊きたかった。
新撰組屯所内の道場では、珍しく時間の空いた土方といつも暇さえあればバカの一つ覚えの葦原が秘密の特訓をしていた。
「うわっ! 待っ! ぐぁ!」
「お前なぁ……やる気あんのか?」
葦原は三撃連続で打ち込まれ、壁まで追い込まれた。
「いっ? ……てぇー……」
葦原は、目を押さえながら軽く屈んだ。
「どうした?」
「や、なんか目に入った……」
「総司……! 擦るな!」
何やっとんのやあの二人?
土方が葦原を覗き込む後ろ姿を、山崎は何とも言えない角度で目撃した。
いやーヤッバイもん見たわぁー。
見なかった振りをして立ち去ろうとした自分を、……じゃのうて……とツッコミ、山崎はあらゆる意味で勇気を出して道場に入った。
「お二人さーん、仲良う稽古中ですかー?」
山崎が意を決して道場に入ると、二人は一斉にそちらを向いた。
「あっ! 山崎ー! コイツ、ササクレ立った竹刀遣うんだぜー! 超卑怯!」
「ああ! お前なんかにそんな手口遣うか!」
なんや、むっちゃ機嫌ええやんか二人とも。こら、そろそろ言っとかんとアカンか。お楽しみはオアズケやな。
山崎は真面目な顔を作って、土方の方を向いた。
「副長。お話が」
土方はその様に、仕事の話とまんまと騙された。
ある意味、間違ってはいないが。
「どうした山崎、伊東の正体が掴めたか」
伊東大蔵。
局長が永倉、藤堂らと松前藩主に面会。
長州征伐の為、将軍・徳川家茂公上洛の要請と隊士の補充が目的だった。その後近藤は、藤堂と親交の深い北辰一刀流道場主・伊東大蔵と出会う。
藤堂の思惑通り二人は意気投合し、異例の好待遇で伊東は入隊、じきに上洛する。同い年のその男を胡散臭がる土方の命で、山崎は身辺を調べていたのだ。
「大体、無駄に学のある野郎にろくな奴はいねぇんだ」
と、土方は天井を睨み付けた。
「なんや、むっちゃ男前らしいですしねぇ」
わざわざにこやかな視線を送ると、土方はその睨み付けを山崎に向けた。
「もちろん大方調べは付いてますけど、それよか重大な問題があるんですわ」
山崎にも、土方にでさえ、その新しい隊士が引き金となるとは予知しなかった。
新撰組を暗く追い詰める日々の、引き金になるとは。
「何だ?」
「こないなことは言いたくないんですけど……」
心にも無い前置きをしてから、山崎は言った。
「副長……“あれ”は“沖田総司”じゃありまへんで」
二人の視線が交錯した。
土方は睨み付けのままで、その上やや憮然として言った。
「……そのつもりだが?」
「それがどぉも、そうは見えへんのですわ」
口火を切ると、山崎は土方に入り込ませる余地を与えず鋭い眼光に怯むことなく、続け様に演説した。
「最初っから思っとったんですけど。副長の葦原への眼差しが沖田先生へのそれと同じに見えるんですわ。……まぁ、態度も全部ですけど。さっきかて、目ぇに塵が入ったぐらいであないに慌てて。咄嗟に“総司”て呼んではり
ましたよね?」
「……馬鹿馬鹿しい。考え過ぎだ……つか山崎は、あいつを疑ってんのか?」
土方は僅かに視線を外して、文机の上の帳面に目を落とした。
「……どうですやろ。ただ、信じ過ぎるのもあかんと思いますよ?」
山崎は何となくその帳面を伺いながら言った。彼からは見えないが、それには何も書かれていない。
土方の“どうでもいい”という態度の、これ見よがしの表し方だった。
加えて動揺があった。
本当に、区別が付いているのか。
その眼差しに、声音に。
惑わされているのかもしれない。
区別が付いているのか。
自分の態度は。
「心配いらねぇ……あいつが間者にでもなったら、死ぬ」
山崎が
「は?」
という表情をすると、土方は続けた。
「あいつの中の“総司”が、あいつを殺す。」
山崎は輪をかけて意味が分からない、という状態だ。
「お前といる時は出てこねぇのか……」
「……なんのことですか?」
「葦原に……総司が取り憑いてる」
山崎は秋になりかけの今、時季外れな怪談話に身震いがした。外では夏の名残を惜しむ蝉の最後の声。
「……ははっ冗談キツいですわ」
冗談であってほしいと願うのは、沖田総司が葦原に取り憑いていると言う眉唾話よりむしろ、そんな話を真面目な顔でする土方への気持ちだった。
「俺が冗談を言うと思うか?」
土方が何も書かれていない帳面から目を離す。視界には、やっと山崎が入った。まるで“狂った人間”を見る様子の山崎が。
気ぃでも違ったんか?
目の前の上司について、こんな感情は初めてだった。
そこまで辛かったんか……あの人の死は。
次には哀れにも思えてくる。
「信じねぇなら、いい」
第一自分でさえ、証拠も無いのに何故そう思い込むか不思議なくらいだ、と自嘲気味に確認した。
「何なら調べてみましょうか?」
あなたの狂気が晴れるのなら。
そんな“モノ”は居ないと、証明して差し上げますよ。
山崎は一礼すると、忙しそうに出て行った。事実、最近の山崎は“趣味”に忙しかった。
一方道場では、葦原や斎藤一らが師範を務めての稽古が行われていた。真面目に鍛錬に励む様に見える隊士達は、隙有らば噂話に精を出していた。その内容は斎藤と沖田……つまり葦原のどちらが強いのか、であった。
意見はほぼ半数に分かれた。
だが先日の試合で斎藤が一本取ったので今までの定説を覆し、実は斎藤が隊内で一番の腕なのではと囁かれることが多い。
正に知らぬが仏の葦原だが、こうなっては形無しだ。
「もう一回見たいよなぁ、お二人の試合」
口々に噂すると、それを目掛けて斎藤が厳かに睨みを利かせる。
「そこ、素振り五百本。係り稽古」
顔色も変えずに猛稽古を告げられるとその一団は文句を言える筈もなく、始める前からげっそりとした雰囲気になった。
「あららぁ……怒られちゃいましたねぇ」
沖田風情の葦原は助け船も出さず、ケラケラ笑っている。
どちらが強いかと同時に、どちらが怖いかも話題にならずとも隊士は測っていた。
「おっ! やっとりますねぇー」
「ススムさん、こんにちはぁ」
山崎が道場に入ると大抵葦原はすぐに寄って来る。なんだかんだ言いながら懐いているのかもしれない。
「山崎、稽古して行くか?」
と、斎藤までが声を掛ける。
だが彼の場合機嫌や愛想がいい訳では無く、ただ山崎に少しでも接近し何とか“ニセ沖田”の正体を掴もうとしているのが見え見えだ。
なんやモテモテやな、と苦笑いしながら山崎は片手を振った。
「いやぁ、遠慮しときますわ。ちょっと沖田センセにお話があるんですけど……ええですか?」
との台詞に葦原は
「俺またなんかやったか?」
という“ヤバい感”漂う顔つきになり、斎藤は普段滅多に表情に出さないのにこの時ばかりは
「気になる!」
と顔に書いてあるかのようだった。
そんな斎藤を、山崎は半ば嬉々として置いて道場を出た。
「お前いっつも俺が稽古中に邪魔しに来るよな」
「いや、あんたがしょっちゅうアホの一つ覚えに稽古しとるからやろ」
我慢しきれず山崎は、真っ先に本題に入った。
「ゆいちゃんて……めちゃかわええ娘ぉやなぁ?」
稽古で火照った躰に水分補給をさせていた葦原の反応を、山崎は口に含んだ水を勢いよく吹き出すのではと期待していたが大いに裏切られた。
吹き出す所か飲み込むのさえ忘れたように、固まってしまった。
そして
「ゴクン」
と喉を鳴らしてから山崎を凝視した。
「イヤやなぁ! 誰も手ぇ付けたりしまへんって!」
山崎は茶化すように葦原の肩をバンバン叩いた。葦原は、なおも固まっていた。すっかり凝固していたが、やっと口を開いた。
「……会ったのか? 唯希に」
反対に無情にも山崎は、寸分の隙も与えずに返す。
「それはこっちの科白や」
すると葦原は滅多に無いような真摯な表情を赤く紅潮させ、必死に訴えた。まるで山崎に対してではなく、他の存在にでも弁解をするように。
「偶々会っただけだ! 俺のことも沖田のことも、新撰組のことも話してねぇ! あいつは何も知らねぇんだ!」
全く介さないように山崎は瞑目した。常にフザケて、喜々と人を追い詰める調子は一切消える。
「その科白も……あんたに返すわ。……何も知らへんのはあんたや」
疑わしげに視線を送る葦原に山崎は告げた。
「あの女はやめた方がええ。……人妻や」
沈痛な面持ちの山崎を前に、冗談では無いと葦原は悟る。
それでも、嘘だと打ち消したい。
「そんなこと……あいつ一言も……っ」
もう会わないことを覚悟していた筈が、その決心が脆くも揺れ、崩れる。
これだけ動揺さしても出て来ぃへんやんか。
残酷にも“沖田総司の亡霊”とやらの出現に期待していた山崎は、やはり副長の勘違いかと、自分の考えは正しかったと確認した。
唯希が結婚を“控えている”ということはとうに調べが付いていたがまさか二人が会っていたとは知らないし、とっておきのネタとして温めていた。
こんなに早くお披露目するとは、山崎も予想し得なかった。
葦原の気持ちは余所に、それとも単に動揺させるだけではなく、何か細かい条件でもあるのかと、自分の任務で頭がいっぱいだった。
山崎が葦原を無視した隙に、葦原はもう、走り出していた。
「どこ行く気や!」
予想は付いていたがやはりその通り、
「唯希に会う」
との応えが返ってきた。
「あかん! あの女には会うなって!」
腕をひっ掴み止める山崎の行動は、道を外れた恋を追い詰める葦原を心配してでは無い。
いずれ葦原が外部の人間・唯希に自身の現状況を打ち明ける可能性。
土方の計略が露見し、あわや新撰組崩壊の危機を予測してのことだ。
その時の知謀は、鈍感な葦原でさえにわかに感じる程だった。
山崎……お前はいつも、隊務に“囚われ”過ぎだぜ。
「大丈夫ですよっ! 何も言ったりしませんからっ!」
山崎の普段は俊敏な躯が、凍り付いた様に固まった。
足が地に張り付いて動かせない。
沖田総司……!?
現実主義の山崎が、葦原の異変を前にそう感じさせられた。
まさか……! 演技やろ?
打ち消しても、変装と演技の達人だからこそわかってしまう。
目の色が……違う……。
吸い込まれそうな笑顔に山崎は思いきり恐怖した。
山崎が怯(ひる)んだ隙に、歩こうとするその背中に呼びかけた。
「……沖田先生……ですか?」
逃がさへん……。との、気迫に満ちた声が風に渇く。
「……はぁ? ……わかってる……“葦原柳”はもう捨てた」
……葦原に、戻った!?
「じゃあ、行ってくる」
こんな一瞬で戻ってしまうんか!?
山崎はもう、葦原の“中”にいる沖田の存在を信じざるを得なかった。
ただその目的が見当も付かない。
葦原を、どうしようと言うのだ。
「……なーんちゃってぇ」
駆け足の男は、ちらりと赤い舌を見せた。
屯所を出ようとする後ろ姿を土方が呼び止めた。
「総司!」
「はいはーいっと」
驚かされたのは土方だ。
総司だ……!
いつの間に切り替わったんだ?
どのくらいそのままなんだ?
葦原を心配する気も勿論あったが、沖田本人と話し葦原の躯に宿っている理由と目的を突き止める、この上ない好機だ。
「総司……お前、“ここ”で何してる」
「……」
沖田は目線だけを向けてはいるが、土方の言葉に全く応えようとしない。
こいつがこんな黙ってんの初めて見たぜ。
土方は苦笑いを返した。
「歳三さん……」
話す気は無いのかと諦めかけた土方は不意にその名を呼ばれ、懐かしさに込み上げる嬉しさに……そして哀れさに胸が一杯になった。
自らの嘲笑に首を項垂れていた所で声を掛けられ、眩しい陽を恐々
見詰めるように顔を上げた。
そこには、ただ微笑みがあった。
「……っ総司!」
引き寄せられる躰を、止める術は無かった。
その骨張った腕に縋り付き、膝ま着いた。
「意外と……泣き虫なんだからなぁ」
沖田は葦原の手の平で、嗚咽に震えるその背を撫でた。
土方は糾問するつもりが、その気は全て消え失せていた。
ただ泪が次々溢れ出す眼を閉じ、ズルズルと沖田の気配を発する葦原の躰……腕をなぞり伝った手を落とし土に付けた。
「……っ俺の……せいで……長く、生きられた筈のお前は……」
慣れない泪に濁った声は、子どもに話しかけるようにしゃがみ込んだ“沖田”の真っ直ぐに、畏怖を感じる程に澄んだ眸で吐息ごと飲み込まれた。
見上げた目の前に、怜悧な笑顔。
「……じゃあ……、このカラダ……もらってもいいですか……?」
「……っ!?」
土方はその姿勢のまま、文字通り固まった。
ほんの数秒の沈黙であるが、土方にとっては幾星霜にも例えられる。
瞬きさえ許されず、眼が乾ききった。
「……総……」
「っ……うわあぁぁあぁあああ!」
途端、思いっきりバシバシ瞬きをした……というより眼が白黒、な状態にさせられた。
「……ひっ土方! ってナニ泣いてんだ!」
負けじとアタフタする様は、紛れも無く葦原・本人だ。
「つか俺なんでココにいんだ?」
そして前例に漏れず、“沖田”の間の記憶は一切消えていた。
葦原は気が付いたら目の前に涙に濡れる土方の顔があり、驚きで仰け反った。
しかし今は一刻も早く唯希に会わなければならないことを思い出した。ただ、
やっと涙が止まったばかりという感じの土方を放っては置けなかった。
「おい……いい大人がそんな大泣きすんなよ」
まだ無言で自分を通り越した何かを見上げているような土方を見て、葦原は思い当たる原因を探した。
こいつでも泣くんだ、と。まさに“鬼の目にも涙”だと、少しおかしがりながら。
「あっ! お前が隠し持ってた“豊玉”とかいう奴の句集破っちまったの、あれ、ワザとじゃねぇから!」
この一言で霞んでいた双瞳がギラリと光ったのに、葦原は気が付かなかった。
葦原は知らないが……というより隊内でもあの沖田以外は知らないくらいの機密情報だが、土方は故郷・多摩時代から、次兄の影響もあり俳句が趣味だった。
号は豊玉。
その句は可愛らしいくらいの下手さで、句を捻るのを沖田に見つかっては思いっきりからかわれていた。
「つか意外だぜ……お前が俳句好きなんて。でも趣味はどうかと思うぜ? 豊玉とかド下手じゃねぇか」
土方が目を血走らせながらブツブツ呟いたのに、葦原が
「あ? 何だ?」
と聞き返すと大怒号が響いた。
「お前かーーーー!!」
「ぎゃーーーーー!?」
葦原は得意の逃げ足で唯希の元へ向かった。
葦原が破いたのは、土方が浪士隊として上洛する想いを綴った句。
さし向かう
心は清き
水鏡
沖田が返句を返していることから後世では、沖田に宛てた句ではとも解釈されている。
俺はあの時……何を言おうとしたんだ?
葦原が戻る直前、俺は……。
少し前の俺ならば、総司が戻ってくる為にどんなことでもしただろう。
誰かが……命を落としても厭わない程に。
だが同じく少し前の総司ならば……他人の人生を奪ってまで生きようとしたか?
あれは……本当に総司か?
俺の知っている総司とは、違う人間を見るようだ。
そして土方の頭には、故郷・長州の兵を斬りながら涙を流す葦原の姿が焼き付いていた。
あいつの存在を消すことは……殺すような真似は、できない。
一方唯希は医者である結婚を控えた相手の、その仕事を手伝っていた。
「唯希さん、すみません手伝っていただいて……」
「いいえ」
「そうしていると、もう夫婦のようじゃなぁ」
微笑う父の顔さえ、唯希には残酷な仕打ちだった。
夫になる男は穏和で物腰柔らかく、生涯の伴侶としては申し分のない相手だ。
ただそれは、心に想う男が居なければ、の話である。
葦原を追って京に上った唯希は池田屋で葦原戦死との誤報を耳にし、失意のまま父の薦める婚約を承諾したのだ。
唯希は耐え切れず、薬や包帯等を買いに行くと出かけた。
結婚してしまえば、それが毎日続くのに。
誰も気が付かない。
唯希の辛さ、胸に秘めた恋を。
「唯希!」
町中で不意にその名を呼ぶのは、婚約者では無く葦原柳……唯希の想い人だった。
「ナギちゃ……っダメ! 隠れてっ!」
久し振りの再会を喜ぶ間も無く、唯希は物陰に葦原を引っ張り込んだ。
「わっ! 何?」
葦原は何を勘違いしたのか、頬どころか耳まで赤く染めて慌てた。
「新撰組の人がっナギちゃんが生きちょることを知っちょるの! 探しちょるのっ!」
居並ぶ家々の狭間で壁に背を付けた葦原の腕を掴み、唯希は必死に訴えた。
葦原が“沖田総司”として新撰組にいる等とは、知らなくて当然……寧ろ打ち明けても俄には信じられないだろう。
葦原は少し困惑気味に、しかしここまで自分の身を案じてくれる事に密かな嬉しさを噛みしめながら、他の男のものになってしまう幼なじみの小さな頭に手を置いた。
「新撰組は、俺を殺さねぇ」
“沖田総司”を全うする限りはな……との科白は自らに宛てた。
「本当? ……だって……ナギちゃん、わたしになんにも話してくれない……京へだって、わたしに“行ってきます”も言わないで行ってしまったでしょう?」
美しく成長していても、上目でゆっくり話す癖やまるで小川の澄んだ心は幼少から変わらず、さらに葦原を辛く追いやる。
移り気で周りの仲間に流されてきた葦原の、唯一不変の感情……それは希望の姿を装った背徳の熱情だった。
どんなに打ち消そうとしても、唯希を“愛おしい”としか思えない。
「唯希は……俺に何でも話すのか?」
「……話しちょるよ?」
唯希はひたすら素直な性分で、自分の言葉への躊躇いがすぐに表情に映る。その目を逸らす仕草でさえ、葦原には眉を顰めてしまう程に可愛らしく感じられた。
困らせたくない……悩みなんて見つからないくらい、いつでも笑顔でいてほしいのに、確かめたい。
他の男になど、抱かせたくない。
「唯希……嫁になんか……いくなよ……」
葦原は感情……独占欲を抑えるように、拳を眉間にあてた。
唯希は、“知っていたの?”とは口に出さなかった。
ただ涙が次々溢れて、こぼれ落ちた。
その涙の先は葦原の胸の中だった。
きつく、抱き寄せて。
このまま、さらってしまいたい。
かつて馬鹿にしていた、祝福されない恋のこんな在り来たりの感情を自分が抱くなんて、葦原は思いもしなかった。
「……ッナギちゃん……わたし……結婚なんてしたくない!」
「させねぇよ……!」
いつの間にか唯希の手は葦原にしっかりとしがみ付いていた。
今夜、誰にも見つからない場所で。
二人きりで。
初めて重ね触れた愛しい肌を求める程に、罪の味を纏った毒に酔わされた。
唯希はすぅっと、一条の涙を流した。
後悔しているのか?
罪悪感か?
肯定を畏れ、問えなかった。
そんな葦原に、唯希は察したように微笑んだ。
「違うの……嬉しいの……」
葦原は夢現、不思議な程に、はっきり思った。
どうなってもいい……唯希さえ、傍にいてくれれば。
それが、ただ一つの、のぞみだと。
「お前の罰なら、全部俺がもらってやるよ」
在り来たり過ぎる科白と感情で。
葦原が帰らない。
既に夜半。
新撰組の支配者・俗名“局中法度”では、隊士の外泊を許していない。
隊内は“沖田”の心配をする不安に満ちていた。
沖田の、局長・近藤と土方に対する不変の忠誠心を火を見るより明らかに感じていた隊士達はまさか脱走ではと疑う者は無く、闇討ちにでも遭い帰られないのではないか、捜しに行かせて下さいと各隊長に懇願する者ばかりだった。
その中で、“ニセ沖田”の正体を知る土方、永倉は苦味走った顔を止められなかった。
山崎は既に、探索に出ていた。永倉が、土方だけに聞こえる声で低く言った。
「寝返ったんじゃねぇか?」
土方は無言。彼の考えは別にあった。
“沖田”が何かしたのではないか、帰られないのではと。
永倉は、
「だからヤメろっつったんだ」
と聞こえよがしに舌打ちをした。
探索中の山崎の予測が現実に最も近く、唯希と一緒に逃げたかと、葦原に揺さぶりをかけた自分の浅はかさに今更後悔を感じていた。
寝呆け眼で虚ろに腕を伸ばした先には、唯希の姿は無かった。
夢の中でまでその温もりを覚えているのに、残されたのは空蝉と、確かな答えだけだった。
「唯希……っ!」
唯希は、用意された運命を選んだ。
心から望んでの答えでは無いにしても、葦原が追いかけてくることも望んではいない。
「俺、あいつに……好きだっつってねぇや……」
親が決めた結婚に自分が割り込めば、唯希の不幸は見えている。
葦原は壬生へ“帰る”道すがら、ぼんやりと考えた。
切腹って……どうやるんだっけ?
「総、司……!?」
「……じゃなくてワリかったな」
明六ツ、葦原は厳重警備の屯所でどうやったのか土方の部屋に潜入した。
「……夜這いならマシな格好で来やがれ」
葦原は、よく持っていたなと言われそうだが曲がりなりにも武家の倅、切腹裃を着けていた。
誰が夜這うか! つか朝だし! と言う大声は飲み込んで、土方の調子に合わせて静かに言った。
「せめて夜襲とか言えよ」
「夜襲じゃ洒落になんねぇだろうが」
土方はニヤリと不敵に笑いながら、既に敷いてあった寝床に入ろうと掛け蒲団を片手で持ち上げた。
一晩中、起きていたのだ。
「ッオイ!」
「うるっせぇな……寝かせやがれ」
剰りにしゃあしゃあと言われ、葦原は呆気にとられた。
「……ちょっフザケんな! 人が切腹しに来たってのによ!」
やっと怒ることを思い出し、寝る気満々で目を瞑っている土方を揺すった。
「ああ? おめぇがフザケんな!」
瞑目のまま眉間に皺を寄せ、まるで般若だ。葦原としてはビビるしかない。
「お前“沖田総司の代わり”の癖に何抜かしてんだ」
やっと真面目に話す気になったのか、土方は人形のように整った二重の刻まれた瞼を開けた。
身を起こし折り曲げた膝に肘を付くと、手の平に額を乗せた。
“眠ぃんだよ俺は”と、全身が語っている。
「お前の切腹は“新撰組の沖田”の切腹だ。代役になったワケ、忘れたか?」
――……
アイツには……“沖田総司”にはまだ死なれちゃ困るんだ。
――……
鬼神の剣技を失った新撰組は倒幕派にナメられると、かつて二度目に遭った土方は言っていた。
つまり、そういうワケだった。
隊士達も起き出すと、葦原が初めて新撰組屯所に来た日と同じに“沖田”は、土方の密命で出張していたことになっていた。
しかし、このまま日常に戻ることを許さない男が居た。
「……ってぇー……」
永倉新八が葦原をひっ掴み、渡り廊下の壁に叩きつけた。
「ナニすんだよテメェ!」
二人で話すのも初めてなぐらいの相手に突き飛ばされ、葦原は眼が痛くなるくらい睨みつけた。
「同じ顔のくせに、中身は全然違ぇな」
永倉はちっとも悪びれずに、感心したように言った。
「沖田とか? ったりめぇだろ」
中身っておい! と心の中でツッコミながら、葦原は敵意丸出しだ。
「俺ぁお前を認めた覚えは無ぇ」
永倉は一転鋭い眼を向け、手を刀の柄に乗せている。
コイツ……渋く見えんのに意外と喧嘩っ早いのな……って俺丸腰だし!
つられて手をやった腰元がスカスカだった為慌てる葦原だが、永倉に本気で斬り合う気は無かった。
葦原は精一杯強気に言った。
「で? どうすんだ」
永倉はぶっきらぼうに、そっぽを向いた。
「今はどうもしねぇ。次は、斬る」
自分の腕に絶対の自信があるその後ろ姿を、初めて話した永倉に訊いてみたかったことで呼び止めた。
「沖田の死……そんな辛かったか?」
ここに居ると、誰もが沖田を慕っているのが伝わってくる。
永倉の表情の端々からも隠された心情が滲み出ていた。永倉は振り返らずに言った。
「あいつを弟みてぇに思ってたのは、土方だけじゃねぇよ」
屯所の庭先で木刀を削っていた葦原は、見知らぬ男に突然話しかけられた。
「お噂通り、かわいらしいですね」
沖田の演技も忘れ無茶苦茶に顔を歪ませた。
だが、誰だよあんた気色悪ぃ! とか怒鳴りつけるのは堪え、引き吊り気味に笑顔を作った。
「ダメですよぉ? 勝手に入っちゃ。コワーいお兄さん達に斬られちゃいますよ?」
男はひどく整った顔をした、けれど土方とは違う系統の美男子だ。ぱっと華やかな微笑みを携え役者のような美声で言った。
「それは困る。匿ってくれないかい? 沖田総司くん」
沖田の知り合いかと一瞬思ったが、それにしては“噂通りかわいい”の鳥肌が立つような台詞はおかしい。つか誰だよカワイイとか大ボラ吹いてやがんのはと、葦原は遅ればせながらムカついた。
初対面なのにこっちはあんたを知ってるぞ、とか言いたいわけだ。
「そういうあなたも、“お噂通り”歌舞伎役者さんみたいですね」
負けず嫌いな自分が恨めしい。誰なんだよコイツ! と内心喚きながら続けた。
「匿ってあげましょうか? うちの役者さんの部屋にでも」
土方の所に放り込んでやるつもりだ。本当に土方の部屋に向かう途中、白粉をしたような顔の男は問いかけてきた。
「君は今の新撰組に満足しているのかな?」
「……どういう、意味ですか?」
妙な奴だ。何が、目的でここへ来た?
「隊長なんかでなければなぁ……私の小姓に欲しいくらいです」
「……はっ?」
「失礼。剰りにもかわいいから、つい」
ぅわ逃げてぇー!
葦原は心底半泣きになりながら早く土方の前に引きずり出して軽口叩けなくしてやると意気込み、自然と早歩きになった。
本気で言っているのか、それとも先の質問を濁らせる為かはわからないが。
「土方さん、総司です」
葦原は土方の部屋の前で一言掛けると、返事を待たずカラリと障子を開けた。
「お前な。それじゃ意味無ぇだろ」
土方は苦々しく眼をやるがピタリと表情が消えた原因、葦原の連れてきた男はニコリと微笑みを作っていた。
「このアヤシい人、屯所に侵入してましたよっ」
「酷いですねぇ……匿っていただけるのではなかったのですか?」
土方も負けじと余所行き用の、心が全く読まれない笑顔を貼り付けた。
「……伊東、大蔵殿」
土方の知り合いかよ……と、葦原は伊東と呼ばれた男を振り返った。
「土方歳三くん! あなたも噂通り美麗ですねぇ!」
そしてつい、その姿勢のままゲンナリとした顔になった。
「ご冗談を」
……って全然眼が笑えてねぇから! と土方にツッコミながら、葦原はその不気味な会話に割って入った。
「あなた一体何者なんですか?」
「総司、慎め。この方は……」
「残念……“総司くん”は副長のお気に入りでしたか。たまには私にも貸して下さいね!」
こりゃ殴っても許されっだろと拳を握る葦原と勿論伊東も無視し、土方は続けた。
「この方は、江戸北辰一刀流道場主・伊東大蔵殿。新撰組に参謀として入隊いただく」
これから毎日顔合わせんのか、と葦原は今から窶れそうな気がした。
「一つ訂正が。念願の新撰組入隊と、見目麗しいお二人とのお近付きを果たした今年、甲子の年に因み、甲子太郎、と改名いたします」
同日、伊東の実弟・鈴木三木三郎、門人・中西登、同志・篠原泰之進、加納鷲雄、佐野七五三之助らも入隊。
何れも幹部級の好待遇で、隊内で伊東派が築かれていくのも時間の問題だった。
半ば神憑りな土方の直感により行動を起こし始める所か入隊前から本性を疑われていた伊東甲子太郎の動向を、文字通り隅から隅まで調査していた山崎は呟いた。
「あかん……全っ然尻尾見せへん」
標的の行動は、気楽者そのものだ。
大抵暇さえ有ればこれも文字通り、葦原のケツを追っ掛けている。
「こりゃあ……副長得意の直感も、ハズレやないか?」
と、溜め息で見詰めた伊東の先には唯希がいた。
「……変な縁でもあるんかな」
今更だが、尾行中は独り言が多くなる。少し笑ってから、近付いた。
「ゆーいーちゃん?」
山崎の予測通り、唯希はビクッと肩を躍らせた。
だが、誰? という顔で見つめ返してくるので、山崎も今度はハッとして
「俺や俺!」
と尾行用の変装を解いた。
「……なんの……ご用でしょうか」
「ツレナー!」
大きな目で懸命に睨む唯希の言葉を流し、山崎は笑った。
「ツレナいでゆいちゃん!」
するとプイッと走ろうとする唯希だがその目の前の人混みにぶつかり、あわや転びそうな所を山崎は軽々と受け止めた。
「……ありがとうございます」
後ろ姿をただ見送った山崎は呟いた。
「嘘やろ?」
転びそうになった一瞬、唯希は咄嗟に腹を庇っていた。
思い当たる理由は一つ。唯希は、子を宿しているのではないか。
「まさか……葦原の子ぉちゃうやろな」
といっても唯希自身、既に他の旦那がいる。
葦原と関係を持ったにしても、どっちの子どもかなんてわからないのではないか。
しかしDNA鑑定など無いこの時代、父親が誰かは母親の言葉に委ねられていた。
「どないする気やろ……なんや、かわいそになるわ」
流石の山崎も今回ばかりは面白がって首を突っ込む気にはなれなかった。
伊東が入隊してからというものほとんどと言っていい程付き纏われている葦原は、必死に“沖田節”を作りながらも迷惑そうに溜め息した。
「伊東さーん……なーんでいっつも僕についてくるんですかぁ?」
「そんな……仲良くなりたいからに決まっているでしょう?」
だって可愛らしく生まれてしまった貴方が悪いと、伊東はにっこー! なんて効果音がしそうなくらいに笑った。
くっそー! 殴りてぇー!
沖田のふりをしていなければこんな奴に振り回されたりしねぇのにと、せめて早歩きをした。
「妙ですねぇ……」
するとピッタリと後ろに続く伊東はわざとらしく独り言を言い出した。
「……やっぱりおかしいです!」
うっぜぇー!
内心叫びながら、葦原は背中を向けて歩き続けながらも訊いてやった。
「……何がです?」
「どうも腑に落ちないのです」
「だから何がです?」
生来短気な葦原は、立ち止まり様に振り向いた。
「あなたが」
伊東は腕を組み、葦原を指差す。
「沖田総司と言えば、気味が悪いくらいに人懐こいと聞きましたが」
……しまった……!
葦原は明らかに、というより馬鹿正直に狼狽した。
沖田の演技指導者・山崎に、散々教えられたことだった。沖田は初対面の相手でも気さくに接し、不思議と誰からも好かれると。
んなヤツいるかよと話し半分に聞いていたツケが、よりによってという相手の前で回ってきた。
偽者と疑われてんのか!?
実際“沖田の偽者”な葦原は、嫌な汗が手に滲むのを感じた。
「……だから、私もすぐ仲良くなれると楽しみにしていましたのに」
その虫酸が走る台詞で、不覚にも救われた思いで葦原は言った。
「僕も、人を選ぶ……ということです」
コイツは気付いてもないし疑ってさえいない、と安堵したのだ。
「手厳しい! でもそんなことを言われたら益々燃えてしまいます」
葦原がまだ故郷の長州にいた頃に偶然出会った金髪碧眼の異人を彷彿とさせる、片目を瞑る仕草、ウィンクをせんばかりの伊東に葦原は辟易とした。
周囲の人々の意見に影響されるばかりだった葦原が一つ、あまり意識しないにも持っていた考え……それは異人も悪いヤツばかりではない、だった。
葦原は伊東とのことを、溜め息吐きながら
「またか」
と呆れる山崎に話した。
「そんならあの人に頼るしかないやないか」
「誰だよ?」
なんでも山崎に逐一報告するのは気が引けるが、言わないでおいてバレたらと想像するとゾッとなる。
「うちの三番隊隊長はんや」
「……ゲッ! 斎藤一?」
同い年ではあるが、やはり斎藤は仲良くなりやすい男ではなかった。
「伊東はんは斎藤はんにお任せするようになったからな」
山崎は葦原の反応を用意していたように無視した。
「山崎お払い箱?」
「うるさいわ!」
朝陽が程好く射し込む、副長・土方の部屋。
この閑散とするくらいの小綺麗さには少し慣れてきたが、土方・斎藤と三人きりにされた葦原は頗る居心地が悪そうだ。
「瓜二つ……ですね」
稽古試合ぶりの熟練過ぎる斎藤から見れば剰りの毛色違いから、最近の沖田はおかしい、まるで偽者の様だと疑いはしていたが、斎藤なりにかなり信頼を寄せていた土方から真実を打ち明けられ、しかも寄りに寄って“偽沖田”の正体が新撰組の宿敵ともいえる長州藩士だと知らされた斎藤は虚ろに、普段は言いそうもないことを呟いた。
斎藤にマジマジと視線を当てられ、葦原は強気に睨み返す……ことはできず、恥じらう少女のように俯いた。
“この男の名は葦原柳。元・長州藩士だ”とだけ事務的に告げられた斎藤は、葦原の無意識に尖らせた家鴨唇の、その仕草に面影を見た。
「沖田さん……は……、どうしたのですか?」
「死んだ」
聞き返すような表情で眉間を寄せる斎藤に、土方は目も合わせず繰り返した。
土方の長い睫毛に縁取られた蠱惑的ともいうべき眼は、頭を垂れた葦原の首筋に向けられていた。
そこに沖田の気配を感じているかのように。
「労咳だ。俺の目の前で。血を喀いた。死んだ」
斎藤は普段、意外に童顔なのを気付かれないようにする為か眉をしかめているが、衝撃的に目を見開いた。
それさえ視界に入れず、土方は喉を鳴らしてしまいそうなのを堪える。
声色も変えずに一息に辛い言葉を並べる土方を、葦原が心配するように横目で軽く、視線に応えたからだ。
「沖田さんの……代わりと言うわけですか」
斎藤は、信じられないという表情を隠さず表した。
「そうだ」
「……何の為に!」
葦原もそして土方さえも、ここまで感情的に声を荒げる斎藤を見るのは初めてだ。土方は内心驚きながらも引き続き、事務的に言った。
「武田信玄の死と、同じ理屈だ」
戦国の世、病に伏した武田信玄は自分の死を一年間隠すようにと命じた。大黒柱を失ったその期に付け込まれ、敵国に侵略されるのを危惧したからだ。
斎藤は盛大な音を立てて立ち上がった。
「こんなことをして……沖田さんは決して喜びはしない!」
葦原を鋭く睨み付けて、乱暴に障子を開ける。
「待て!」
むしろ土方の一喝に、渡り廊下の向こう庭先に集まる雀は散り散りになった。
「俺ぁお前に説教垂れさせる為に話したんじゃねぇよ」
ピシリと伸びた背中を向けたままの斎藤に、土方は命じた。
「伊東が勘付いてやがるらしい。見張れ」
斎藤は返事も無しに、後ろ手で障子を閉めた。
むっちゃ気まずいし!
葦原の心境だ。
斎藤が惜し気も無く立腹した後の土方と二人きりの部屋に残された葦原は、これぞまさに居たたまれないといった様子で土方をチラリと盗み見た。
“沖田は喜ばない”の言葉がかなり堪えている風情で珍しくぼんやりしている。
しかし自分の命令に返事もしなかった斎藤を咎めもしない土方は、それでも斎藤ならば任務を熟すと見込んでいた。
葦原がソワソワ落ち着かないのに気付き、土方は言った。
「いつまで居る気だ」
葦原はムッとした。
何でこんな天の邪鬼なんだコイツ。
無意識に、瞬きをした。
「……うーん。あなたのご機嫌が直るまで……居てあげてもいいですよ?」
急な“沖田”の登場にはまだ慣れないが、土方は得意の演技でこれ見よがしの動じていない素振りだ。
「……へぇ。機嫌直させてみろよ」
葦原の躰の沖田は心底愉快そうに、ふふっと笑った。
「相変わらず強がりだなぁ……。僕が怖いくせに」
と言い終わる時には土方の正座をした足元に前のめりに、膝を付いた四つ足の格好で手を置き、上目遣いに表情を覗いた。
「ほら、怖いくせに」
ズイと近付く挑戦する微笑みに反射的に顔を後退させると、沖田は即座に付け加えた。
「総司、俺を怒ってんのか」
その姿勢を保ったまま土方は言うと、すぐに眼下にあるしなやかな腕を片手で掴んだ。
「……行くな。いっつもてめぇの都合で帰りやがって。機嫌が直るまで“居てくれる”んだろ」
“帰る”とは肉体的にでは無く、“沖田が葦原に戻る”という意味のつもりだ。
土方は沖田のこれまでの行動から、この問い掛けをすれば沖田は“帰る”と踏んで先手を取った。
素直に片腕を捉えられたまま、沖田は呟いた。
「歳三さんは……怒ってますか?」
死んだ自分が、他人の躰を借りて現れたりして。
「いっ!」
土方に額を弾かれ、沖田は涙目で潰れた声を出した。
「なっ……なんでデコピン?」
「話すっ変えんじゃねぇ!」
土方に鬱がれていない空いている方の手で、赤くなった額を擦りながら言った。
「しょうがないじゃないですかぁ……だってあの子が呼ぶんだもん」
答える気はねぇっつうわけか。
明らかに“怒ってますか?”の問いに“怒ってる”と答えた場合の、用意周到な言い訳にそう諦め悟った土方は受け合ってやった。
「……あの子って誰だよ」
沖田は“勝った!”という表情を隠しもせずに言った。
「イハラヤナギ」
驚かされた土方の、手の力が緩んだ。
「アイツが呼ぶ? どういう意味だ?」
「……はっ?」
帰りやがったあのクソガキ!
土方は苦虫を噛み締めたような形相で、年上といっても二つしか違わない沖田にあの子呼ばわりされた葦原に八つ当たりした。
「“居眠り”すんじゃねぇ! とっとと出てけ!」
伊東に変な探りを入れられないように土方の命令通り見ていてやるから屯所の部屋を一緒にするぞ、と斎藤が一方的に話を進めているところだ。
「守ってほしいのだろう? ならば言う事を聞け」
「……ざっけんなバカ!」
勝手に葦原の荷物の移動まで、つまり斎藤の部屋にだが、始めているらしい。斎藤は抵抗を無視し、既に勝ち誇った顔でニヤリと笑う。
「本当はそんな話し方なのだな。沖田さんが言っているみたいで変だ」
「るせえ! ゼッテェ、ヤだからな!」
斎藤が何を考えているかわからない。目の敵にされていると思っていたのだ。
つかイヤガラセか? と葦原は斎藤を怪訝に睨んだ。
「厭ならバラす。伊東にヤられてしまえ」
「なっ……んてこと言いやがるテメェ!」
葦原に、選択権は無かった。
斎藤と同じ部屋で迎えた初めての夜、葦原はろくに眠れず目を覚ました。
「おはようございまぁす、はじめさん。早く起きてくれないと“ついうっかり”眉毛と眉毛を繋げちゃいますよ?」
伊東のことだ、いつ聞いているかわからないから誰の前であっても地で話すのをやめろとの言い付けを守り、少しも姿勢を崩さずスヤスヤと寝息をたてる斎藤を嫌々ながら起こしていた。
ぅわっ! 半目開いてるし!
怖ぇよ! と内心突っ込みながら、もう面倒になった葦原は一人で朝稽古に向かった。
沖田さんと、同じようなことを言うのだな。
――……
「早く起きてくれないとぉ、瞼におめめ描いちゃおっかなぁ」
――……
「変な奴」
沖田の毎朝違う台詞の一つを思い出し狸寝入りの、同じ部屋の起き出した気配だけで起きる程に実は寝起きの良い斎藤は支度を始めた。
道場に着くと、中には入らないまま朝稽古に熱視線を送る伊東が居た。
「伊東参謀、お珍しい」
悪事を見つかったようにビクッと肩を揺らし、伊東はソロリと背後に眼をやった。
「これは斎藤さん。……いや、飛んだ裏技を使われましたね」
何事も無かったと誤魔化したいのか、当“者”比三割増しの気取った身振りで言った。
「裏技? 一体……」
何のことですか? と、すっとぼけるのを待たずに伊東は興奮気味だ。
「沖田くんと同室に変えたのでしょう? そんな技があるなら是非とも私が使いたかったですよ!」
一瞬、代わってあげましょうか? という葦原にとっては鬼のような提案が頭を過ったが、飲み込んだ。
「以前も同室だったのですよ。あなたならご存知かと」
どうせイヌを使って調べているのだろうと思っているが、どの程度か測るつもりで斎藤は言った。
「前からあの沖田くんと、ひっ、一つの部屋で? なんてうらやましい!」
「いえ、彼は寝相が悪くて……」
「贅沢な! むしろ萌えるではないですか!」
失神しそうな勢いの伊東の横を愛想の良い作り笑いですり抜け、斎藤は道場に入った。
やはりただの変人か? と、何も知らない様子の伊東に安心させられながら。
伊東は隊士の前とは全く性質の異なる低い声で、真の答えをその背中に囁く。
「いいえ? 何故部屋を別(わ)けたのかさえ、“ご存知”では無いですよ」
葦原が素振り稽古をする横に、斎藤はヌッと並んだ。
「……ちょっ……気配消して近付くのやめてくれます?」
葦原が手を止めて睨むと、斎藤は素振りを始めながら言った。
「伊東……奴は本当にヤバイ」
……どっちの意味で? と茶々を入れる気にはなれないくらい、斎藤の両眼は鋭い。
「俺はあんたの味方では無い。そんな縋るような顔をするな」
葦原が口を開こうとすると、山崎がやはりヌッと現れた。
「随分と仲ええやないですか。伊東に嫉妬させるっちゅう作戦です?」
「はじめさんなんて嫌いです」
山崎が、葦原イジケとるやないですか、という表情で斎藤を見ると彼は気にも掛けない様子で言った。
「山崎さんこの人、伊東を誘(おび)き寄せる餌にするのはどうだ?」
任務第一の鉄の監察・山崎でさえあんぐりと口を開けたのだから、葦原の衝撃は書くまでもない。
「マジで斬るぞ斎藤」
沖田の演技をすることなど頭にある筈も無く、葦原は凄んだ。
しかし冷酷さが売りの二人には、ちっとも怖くない。
“エサ”本人ここにあらずの状態で相談し出した。
「せやかて伊東の“アレ”は、俺らを油断させる手段ですわ。ウメはんっちゅうヨメがちゃんとおるんやし」
「先日離縁している。母が危篤だと謀り故郷に呼んだのを、今上、ひいては国の為仕事をしている時に不謹慎だと、一方的に」
「かわいそやなぁ! ヨメはんやって恋しがっての事やろに!」
「……妻がどうこうと言うより、奴は両刀ではないのか?」
話がずれたのを修正した斎藤の言葉に、一同ハッとした。
「ゼッテェ! ヤだ!」
不穏な空気を察知して大声をあげる葦原をまたも無視し、二人は早々に土方の部屋に相談に行った。
土方は稽古そっち退けの朝の大切なひととき、句作の最中だったらしく、猛抗議する為にくっついて来た葦原を入れた三人にドヤドヤと部屋に押しかけられ機嫌が悪い。
「やめておけ。危険過ぎる」
むしろ大賛成するのではと三人一致で思っていた土方の意外な即決に、一番驚いたのは葦原だ。抵抗する気満々だったのが拍子抜けした。
「このままでは危険なのは新撰組です。伊東は内部から腐らせようとしている。それを暴くのに相応しいのは……」
「コイツの正体がバレたらどうする?」
葦原の中の沖田に遭遇した山崎には手に取るように解る。
土方が心配しているのは、正体がどうのなんかではない。
「バレたら斬ればいい。所詮長州者でしょう」
「言ったろう。コイツの死は沖田総司の死だ」
葦原がカマを掘られるなんて半分冗談だった山崎が、まぁまぁお二人とも……なんて割って入れないくらい険悪な雰囲気だ。
斎藤は苛立っていた。
「それがなんですか? 新撰組には斎藤一がいる」
斬り合いになるんやないかと、山崎は気が気でない。
「知っている。だが総司には、んなことさせらんねぇ」
『俺(この人)は沖田(さん)じゃない!』
葦原と斎藤、声が揃った。
その胸中を占めるのも揃って嫉妬……葦原は言い捨てる形をとり、土方の部屋を走り出た。
「……副長は、あの人に甘過ぎる」
斎藤は葦原の事を言うのを装い、沖田を脳裏に浮かべた。
――……
「虫も殺さない様な顔の癖に、大した腕だな」
「あははっ、確かに虫とかは殺しませんねぇ。……意味のある“殺陣”しか、しませんから僕は」
――……
皮肉が通じているのかいないのかよくわからないが、恐ろしく腕が立つ。
残忍な人斬り……同類の筈なのに自分とはまるで陰陽だ、と感じていた。そして憧れに似たものを、感じていた。
斎藤が葦原には馴染めないまま数ヵ月が過ぎ、新撰組に事件が起きた。
葦原は土方に言い付けられ、もう一人の副長・山南敬介の部屋へ書類を運んだ。
「ったく人遣い粗ぇよな」
まるで待ち受けていたかのように、悲惨な現場に遭遇するとも知らずに。
「山南さん、沖田です」
人気が無い程に、シンと静まり返っている。
「さーんなーんさんっ!」
自分の声に吐き気がしたところで、入りますよ? とまた一声掛け、開けた。
一面、まさに血の海。
山南は部屋の中心、切腹して果てていた。
後退りをした背中に、襖が当たった。
「っだよコレ……」
どうしていいかわからない葦原から遺書を渡された土方は、苛々と舌打ちして低く声を吐き出した上にその紙を放り投げ、山南の部屋に走った。
葦原が拾った遺書は、人柄を表す流麗な文字で綴られていた。
“黒い狐に支配されるのは耐えられない”
その文字を追った葦原は意味が分からず呟いて、とうに姿の見えない土方の後に続いた。
「黒い……狐……?」
葦原が山南の部屋に続く廊下に出ると、土方は入り口で呆然と突っ立っていた。
葦原は声も掛けられず、その傍らに立つ。
「……ナギ……総司を出せ」
目線さえ向けないまま意味不明なことを口にする土方に、葦原は気味悪げに聞き返した。
「……はぁ?」
土方は当たり前のように、山南から目を外さないまま繰り返す。
「おめぇが呼んでんだろ。早くしろ」
葦原は無言。すると土方は、やっと葦原に目をやった。
「総司……出てこいって」
土方が腕を掴もうと伸ばした手を、葦原は反射的に払った。斬り合いの最中に、咄嗟に身を守るように。
「……ああ、悪ぃ」
正気を取り戻したらしい土方は葦原の肩にポンと手を置き、その横を通り過ぎようとした。
「……待てよ!」
葦原は、山南の死を近藤に伝えようと完全に副長の顔になり急ぐ土方を止めた。
「大丈夫だ。怖くねぇからな」
いや、別に怖かねぇよ!
いきなり切腹現場を目撃しその場に一人にされることを怖がるかと心配されたことに心に打撃を受けながら、葦原は続けた。
「オメェが大丈夫じゃねぇだろ! “総司を出せ”ってなんなんだよ!」
「お前もな。新撰組に来てから所々記憶が飛ぶことがあるだろ。変だと思わねぇのか」
「それが関係あんのかよ」
大アリだ。
お前に憑いている総司が、お前の躰で動いている。
総司が現れる頻度が多くなり、時間も長くなってきている。
お前に取って代わろうとしている。
土方は、言えない言葉を飲み込んだ。
葦原が沖田に乗っ取られるのを止めなければならない、剰りに可哀想だと思う気持ちは本当だ。
全く予期していなかったが、葦原に愛着心が湧いている。
沖田が出ないようにするには、まず葦原が沖田の企みを知り原因を知り、食い止めなければならない。
しかし沖田は、充分に療養させなかった自分のせいでたった二十二歳で……あんな若さで死んだのだ、という負い目があった。
そしてそれ以上に、沖田に会えなくなるのは、耐えられない。
矛盾を抱え、声が掠れる。
「もういい。忘れろ」
必ず話してやらなければならない……それはわかっていた。
遠ざかる土方の背中を睨みながら、葦原は苛ついた。
あんな言い方をされれば気になるのは当たり前だ。
確かに、自分も変だ。
記憶の途切れに、深い疑惑を抱かなかった。
「沖田が……関わってんのか?」
そして、土方は気が付いている。
葦原は急に、寒気がするようだった。
土方から報告を受けた局長・近藤勇は、四角い顔の中の両眼を丸くした。
「切腹……山南さんが……」
「俺のやり方が気に食わねぇんだと」
“黒い狐”に含まれた意味を、土方はすぐにわかっていた。
近藤をいずれは大名に、新撰組を大きくする為冷酷に策を巡らせる、鬼副長を揶揄したのだ。
「西本願寺への屯所移転、反対していたな……」
悲し気に目を遠くする近藤に、土方は付け加えた。
「それだけじゃねぇ。新撰組自体に疑問と時に反感を持ってきていた。所詮北辰一刀流は、倒幕の気質が強いからな」
冷たい視線で言葉を並べる土方に、近藤は悲哀の表情をそのまま向けた。
「歳ぃ……お前、なんでそんなに冷静でいられるんだ?」
あんたも……俺のこと狐だと思ってんのかよ。
それでもいい、と面倒そうに見えるよう、眼を閉じる。
「知ってるだろ? 俺は元々あの人とは合わねぇんだよ」
それは十分承知の近藤は、大きな拳を額に押し当てる。
「古くからの友人……幹部隊士が切腹だなど……新撰組はこれからどうなるのだ……」
土方は漸く、自分の心を正直に語った。
「かっちゃんは何も心配しねぇで、前だけ向いてりゃいいんだよ」
しかし近藤には虚しくも届かない。
それでは、俺は傀儡ではないか。
何故、全て独りで背負い込む?
近藤は多摩のガキ大将だった頃……二人で肩を並べて歩いた頃を、恋しく思い出した。
この後、山南の死を切っ掛けにしたように徳川幕府、そして新撰組の命運は急落していく。
隊内の、一体何人がこれを予測していただろうか。
土方に呼び出された葦原は斎藤の言い付けを律儀に守り、誰も居なくても沖田を演じた。
「一番隊に、坂本龍馬の探索を命ずる」
「それなら全隊で以前から続けてますけれど……なぜ急に?」
坂本龍馬……土佐脱藩浪人で元軍艦奉行安房守勝麟太郎……雅号・海舟に師事、船の操縦から日本のみならず海の向こうの世界の情勢まで学び、外国相手に貿易を行う日本初の商社・亀山社中……後の海援隊を設立した。
思想は朝廷と幕府が共存して政治を行う公武合体派で幕府、勿論新撰組とも同じだが、徳川幕府は一旦倒すという点で異なり、幕府直轄の見廻組からも追われている。
「最近の動きがどうも怪しい。薩摩・西郷と長州・桂の間を行き来しているようだ」
「なんですかそれ? まるで取り持つみたいな」
“桂”の名を懐かしく聞きながら、ありえねぇと葦原は坂本を嘲った。
薩摩と長州は、文久三年八月十八日の政変以来の仇敵だ。
「天才の考えるこたぁ凡人にはわからねぇからな」
ヤケに素直な感想を言う土方は続けて話そうとしたが、葦原が
「クッ」
と笑いを堪えたので照れ隠しに顔を歪めた。
「見付けたら連れて来い。斬るなよ」
土方の命をそのまま一番隊隊士に伝え最後に付け加えて笑いを取った葦原は、夢にも思わなかった。
「と言われても、僕も会ったこと無いんですけどね」
あの、人を惹き付ける“天才”に出会ってしまうとは。
町中をウロウロしていた葦原……実は唯希に一目会えないかと未練たらしく探していたのだが、如何にも小説のように突然見知らぬ男に腕を引かれ耳打ちされた。
「すまんき! 匿っちょくれ!」
案の定、数十秒後に息を切らして目を血走らせた追っ手が走ってくる。
「お……っ! これは沖田殿!」
「ご苦労さまでぇす、見廻組の皆さん」
一気に脱力させられる気の抜けた返事に目尻を引き吊らせながら、必死に感じ良く訊いた。
「坂本が現れたのです! この辺りを通りませんでしたか?」
坂本龍馬ぁ?
アイツが? と、お約束な展開ながらも驚いたが、自分でも誇らしいくらい表情には出さなかった。
匿おうとか味方になろうなどの気は更々無いが、見廻組に手柄をくれてやる気は微塵も無い。バックレる気満々だ。
「坂本龍馬がぁ? ええ? どんな人なんです?」
いっそ清々しいくらいの棒読み大根役者だが、やんごとない武家の次男三男が集められた見廻組の連中は育ちの良さが仇となり、まんまと騙された。
「異様にデカくて縮れ毛、夷人の履き物、あと声もデカイです」
「そんな人なら、あっちに曲がっていきましたよ!」
礼もそこそこ、ドヤドヤと走る見廻組の背中にパタパタ手を振りながら、後ろの狭い路地に身を隠す坂本に声を掛けた。
「待ちなさい」
葦原の言う通り、坂本は既に逃げの体勢に入っていた。
背中に冷や汗が伝るのを感じながら、坂本は動きを止めた。
見廻組の下ッ端より、新撰組随一の手練れ・沖田総司の方が格段にヤバいことは火を見るが如く明らかだ。
さっき葦原が驚いた少し前、坂本もまた“沖田総司ぃ?”の心境で、エライ奴に声を掛けたものだと自分が恨めしかった。
背後に葦原が立ったのを感じ、懐の愛銃・スミス&ウェッソンを意識しながら恐る恐る振り返る。
「お礼も言ってもらえないのですか?」
ここからが、坂本の坂本たる由縁だ。
誰とでも、瞬時に仲良くなろうとする本能を持っている。
「……っおまんが“あの”沖田総司か! どんなゴツい鬼神かち思っちょったが……“ぴーちぼーい(peach boy)”じゃのう!」
ぴーちって……オイ!
今度は葦原が冷や汗する番だ。
「やめてくださいよ、気持ち悪いで……」
葦原は、しまったと息を止めた。
ここは沖田なら、
「なんですかそれ」
とか、意味の分からない言葉を発するのを怪訝がるところだ。
反対に坂本は満面の笑みで三十過ぎ……ちなみに土方と同い年の大人の男とは思えないくらい眼をキラキラ輝かせた。
「おまん、“えんぐりっしゅ(English)”がわかるがか!」
葦原は心の口癖
「ヤッベェー!」
で、頭が真っ白になった。
まだ長州にいた頃に異人に言われた言葉で、本人はここまでは教えられていないが、衆道的意を含む可愛い男の子、という意味だと後から聞かされた。
葦原が知っている、しかも仲良くしていた異人はその一人だけだが、当然他にも英語を教わっていたので坂本よりもできるくらいだ。
「うーん……少しだけ……」
すると坂本は感嘆の大声を上げ、異人の真似事で両手をガッシリ掴んで握手をしてきた。
「新撰組に置いとくのは勿体無いのぉ! どうじゃ? わしのところに来て、世界中を船で回るっちゅうのは!」
コイツ……本気で言ってるならバカだな。
敵だと分かりきっている相手への手放しの懐っこさに戸惑いながら、葦原は流した眼を細め背を向けた。
「そのブーツ、似合ってますよ」
「待っとうせ! わしを見逃すがか?」
葦原は次の言葉の最後に坂本を更に喜ばせてしまう異人の仕草を真似し、人差し指を鼻の頭にチョンチョンと付け、坂本を指差した。
「今日は非番ですから」
葦原と坂本……互いにもう一度話したいと思いながらそれは叶わなかった。
この後、坂本は念願の薩長同盟を達成。
薩摩に裏切られた会津、幕府は転落の道を辿る。
新撰組もまた、共に。
江戸にて募集活動を行っていた土方、伊東、斎藤、藤堂は、五十人以上の新 入隊士を引き連れ帰隊した。
百五十人もの大所帯となり、土方は渾身の自信作・“軍中法度”を制定した。
どこか抽象的な俗名“局中法度”とは違う本格的な、幕府の下の一群としての辛辣な程の規則だった。
「ええー! “食物はいっさい美味禁制”……?」
得意満面の土方に軍中法度を見せられ、葦原は可哀想なくらいに表情を歪めた。他の者も賛同すると予想していた葦原だが、全員漏れ無くズッコケた。
「って、そこかよ総司!」
「よっく見てみなよ!」
原田、藤堂と立て続けに突っ込まれ、葦原は口を尖らせる。
「美味しいもの食べるななんてっ……じゃあ土方さんは沢庵食べちゃダメです
からねっ」
如何にも沖田っぽく拗ねながら葦原は胸中で、土方は食い物以外にオンナとか楽しみがあるからいいよなぁと悪態吐いた。
「んなことより“烈しき虎口において、始終その場を逃げず忠義を抽すべき事”とかってのは、俺達新撰組みんな当然覚悟してるが……」
原田が噛みそうになりながら法度書きを読み上げると、永倉が請け合う。
「“組頭討死におよび候時、その組衆、その場において戦死を遂ぐべし。もし臆病を構え、その虎口逃来る輩これあるにおいては、斬罪微罪その品に随ってこれ申し渡すべく候。かねて覚悟、未練の動きこれなきよう、あい嗜むべき事”ってのはどうもなぁ……」
遅ればせながらその条文を読んだ葦原は、目を剥いた。
「隊長が死んだら全員ソッコー死ねって?」
つい沖田風を失った大声を土方はギロリと睨み据え、葦原は正しく蛇に睨まれた蛙状態に口を塞いだ。
「おめぇら隊長が斬られなけりゃいい話だろうが」
自然な理屈だろう? とでも言いたげに、フンと鼻を鳴らす土方だった。
非番の日にはいつも、朝からいそいそと町に出掛ける葦原を山崎が呼び止めた。
「沖田はん、どこ行くんです?」
「ふぇっ? 内緒ですよう!」
と言いながらの、葦原の
「ヤベェのに見つかった」
という表情を山崎は見逃さない。
「俺も付いてってもええですか?」
「ぜぇったい、ヤですぅ」
甘ったるく微笑んで言いながら、葦原は
「マジ付いてくんなよ」
との気迫に満ちている。
普段ならそれでも気にせず尾行するであろう山崎は、ある直感によりそのまま見送った。
唯希に会うつもりだと、分かってしまった。
唯希が身籠っているかもしれないという疑惑は、山崎には珍しく胸に仕舞ったままだった。
葦原は何も知らず、既に人妻となった幼馴染みの実家の方へ向かった。
嫁ぎ先がどこかなど、近所の者に聞けばいいと考えていた。
町中を探しても見付かる気配すらないことにうんざりし、直接会いに行く決心をしたのだ。
奪う気など及ばず、ただ、顔が見たかった。
必死の葦原を余所に、唯希の方が先に葦原を見付けてしまった。
キョロキョロと首を動かしながら人混みをすり抜けていく後ろ姿に身を隠しながら、愛しさに、目が逸らせない。
擦れ違う何人もの女が、葦原の容姿を振り返る。葦原に憧れることに何の障害も持たない女達を、唯希は羨ましく感じた。
わたしを、捜してくれているの?
またあの目に見詰められあの声で名前を呼ばれたなら、もう夫になる人の元へは、父の元にさえ帰れないからとあなたが目覚める前に居なくなったわたしを?
叶うなら……あの背中に追い付いて、並んで歩きたい。
でもどんなに想っても、今生で結ばれてはいけない二人だから。
唯希は逆方向……夫と暮らす家への道を急いだ。
あの日、二度と会わないと誓ったのだから。
栄養が頭に回らず殆んど顔にいってしまったのだとよく冷やかされる葦原とはいっても、初対面の町人相手にいきなり本題を振っ掛けたりは、いくらなんでもしない。
「ここの家のお嬢さん、嫁がれたってのは本当ですか?」
話好きそうな、ふっくらとした如何にも近所のおばちゃん的な好人物に世間話を振り、以前は病弱でここのお医者様……つまり唯希の父には随分お世話になったと、無い悪知恵を働かせて同情も引いたところで持ち掛けた。
思惑通りこの界隈の噂通、井戸端会議の長は、お喋りな人に有りがちだが何故か誇らしげに演説した。
「あのかぁいらしい娘? よぉお父はんの手伝いするわ、いっつもコロコロ笑てはるわでええ娘やしぃ……あないに立派な旦那はんに嫁ぐの当たり前やわぁ。二人並んだトコなんて、なんやお雛さまみたいやで」
前半は全く同意見だが、後半になると葦原は来たことを後悔するくらい打ちのめされた。構わず息継ぎを終えた“長”が続ける。
「子ぉができたんやて! お医者さま、初孫やぁ言うて目尻下がりっ放しやったわ」
「嫁ぎ先を……教えてくれないか……?」
会って何を言うつもりか……わからないまま、素直な言葉が口をついた。
おばさんの方は何故ここまで切羽詰まった声で深刻がるのかがわからない、といった様子であっさりと唯希の居場所を聞かせた。
剰りにも走った為、帰り道の唯希に追い付いた。
「唯希!」
唯希は立ち止まり、肩を震わせて振り返る。
“他の男の妻”ならば、その愛しい声で呼ばれるからこそ走り逃げなければいけない。
そう、十分に知っていながら。
「……ナギちゃん……」
唯希の呼び声、最後の一声は、葦原の胸の中に籠った。
「ナギちゃ……ダメ……ッ!」
ギュッと腕に力を込め、細い首筋に顔を埋める。
「……ったかった……」
“会いたかった”
その吐息の途端、唯希の視界は涙で曇った。
“わたしも”
とは言えずに歯を食い縛る。
瞳を閉じ溜まった涙を、想いを振り払う。
「……っ離して! わたし……家族が……待ってるから!」
大きくなった腹を気遣いながらも、手を緩める気は起きなかった。
「厭だ。帰さない」
恋しくて、恋しくて仕方がないのに、その人を突き放したくてムキになる。
背中に添えることができない、下げたままだった手で二人の間を阻み、腕の中でもがく。
「……ごめんな……子ができたんだろ?」
ハッと唯希の動きが止まり、悲鳴のような声が響いた。
傍に誰も居ないかのように。
「あの人の子どもだもん!」
「俺の子だ」
「違う!」
やっと躰を離すと唯希は俯き、真の別れの言葉を口にした。
「子どもは、あの人と育てるの。もうあなたとは……会わないから。会いたくないの」
唯希は葦原の気持ちそのまま、葦原との子どもだと知っていながらも喜びの顔で夫に報告していた。
その表情は無理に作った訳ではない。
これでナギちゃんと、ずっと繋がっていられる。
誰にも言えない本心だった。愛という名の狂気だった。
自らの胸の内に潜む暗闇に罪悪感を覚えながら、だから葦原に会ってはいけないと思った。
後の唯希は葦原が新撰組の沖田を装っていることなど知らないまま、女児を出産。しかし生涯一緒にいられると信じていた葦原の面影は、病の中で早世する。
それでも葦原に生涯会わないという意思は貫いた。
この世のどこかで生きていてくれると思うだけで、救われた。
葦原が屯所の門を潜ると山崎が出迎えた。
「なんや、帰ってこないやろと思てましたわ」
冗談めかした台詞とは裏腹、冷やかしのニヤリ顔ではなく見慣れない真顔だ。
「……ええ? 帰ってきますよ、そりゃあ」
適当にあしらおうという雰囲気丸バレで素通りしたが、山崎が許す筈がない。
「葦原!」
一声大きく呼ぶだけで葦原はツカツカと逆戻りした。
「お前なぁ! 俺に死ねってのか!」
正体がバレたら殺されるだろと、抑えた声で怒鳴る。
知らぬ顔で無視すればいいのに、と内心可笑しがりながら山崎は耳打ちした。
「ゆいちゃんと、駆け落ちでもする気やなかったんか?」
すると葦原はその場にしゃがみ込んでしまい、膝に額を付けたまま呟いた。
「想い合うだけじゃ、一緒になれねぇ二人もいるんだよ」
「意気地の無いことやなぁ……そない弱音吐かんで、かっ拐ってまえ!」
顔を伏せたままの葦原を元気付けようと態と明るく言うと、葦原は急に立ち上がった。
「……できるかよ……あんな必死に、会いたくねぇって言われたんだ」
道場に向かって歩き出す。
「そんなん、本心やないって分かっとるやろ?」
歩きながら、付いてくる山崎に言った。
「俺は、一人の男である前に倒幕の志士だった。その俺が沖田を装ってでも生きると決めたんだ。一度決めたからには、死ぬまで新撰組隊士を全うする」
山崎はかつての頼りなさ気な葦原からは想像もつかない台詞に一瞬キョトンとし、後は自然と口の端が上がってしまうのを我慢できなかった。
「……えらいこっちゃ……オトナになったやないか!」
小煩いと思いながら、葦原はシッシッと言うように後ろ手を振った。
内心、自分でさえ気付かなかった隠された本心に驚きつつ、葦原は唯希と決別した。
これが、永遠の別れになるとも知らずに。
葦原はより一層稽古に励むようになった。
一方伊東甲子太郎も、山南の死後より一層隊内で暗躍を始める。
鬼の土方が厳しく叱咤するのに対し、それを見計らったように伊東が穏やかながらも皮肉に的を得た表現で励ます。そうして隊士達を取り込んでいった。
加えて、常に冷静な反面新撰組を愛し、幕府内で近藤の立場を大きくする為に躍起になっている土方を、何とか負かしてやりたいとの思惑があった。
「土方くん……よかったですね」
突然副長室を訪れ、にこやかに口を開いた。
「……何がですか」
まさかこの野郎、
「何かと反発する山南総長が消えて」
とか言うつもりじゃねぇだろうな。
伊東が自分の部屋に居るだけで気に食わない土方は、不機嫌さを隠すこと無くぶっきらぼうに言った。
「勿論、沖田くんのことですよ」
狐め……何が言いたい?
目線すら合わせなかった土方は眉間に皺を刻み、伊東の腹の底を窺おうと弛んだ顔を見つめ返す。
「あなたの美しい顔からそんな熱い視線を送られると、ドキリとしてしまいま
す」
土方は心中でここにはとても書けない悪態を吐きながら、ブチキレるのを抑えた。舌打ちの代わりに溜め息しながら話を戻す。
「うちの沖田がどうしました?」
伊東はクスリと笑う。
「大変な病だったのでしょう? “急に”元気になったようで……本当によかった」
してやったり。
無理に狼狽を隠しながらも表情を固める土方の様子を堪能しながら、伊東は心から微笑む。
「……ええ」
何故、総司の病を……というより、“本当の総司”を知ってやがるんだ。
新撰組の内部情報は調べているだろうとはわかっていたが、そんなことまで探ってどうする気だ。
直に訊く、という冒険を敢えて決行した。
「立派なイヌをお持ちのようですね」
どうやって調べやがった?
土方は互いに尊敬し合う新撰組の仲間同士、という仮面を思い切って剥ぎ捨てた。
「私のイヌを使ったなんてそんな行儀の悪い……“あなたの犬”を使っただけです」
隊内に、裏切り者が……?
あくまで微笑を絶やさずにはっきりと挑戦してくる伊東に、土方は最早冷静な副長を演じる気も失せた。
「そりゃあ、お上品だな。俺の女にも見習わせたいぐれぇだぜ」
あんなに懸命に、健康を装いながら隊務を続けた総司の異変に気付く程に親しく稀有な観察眼を持つ……つまり幹部隊士だ。
「あらら。妬けてしまいますね」
その中で伊東とも懇意の者と言えば……疑わしい人物はかなり限られる。
土方が、信じたくないと思うような人物だ。
慶応三年十一月十五日、一人で屯所の門を出て行く原田左之助を見つけた最近よく眠れずに廊下を歩いていた葦原はその後を追った。周囲に気を配りながら早々と、いつも五月蝿いぐらいの足音をヒタヒタと静かに忍ぶ原田に、葦原は背後から声を掛けた。
「左之助さぁん? 夜這いですかぁ?」
「……! 総司!? おまっ……ビックリさせんな! つかそのツラで夜這いとか言うんじゃねぇ!」
殺気すら漂わせていた筈の原田は、不自然なぐらいにいつも通りの様子で息だけで喚いた。
「じゃあこんな夜中にどこ行くんです?」
「ガキには言えねぇところぉ」
原田は隊内でも一、二を争う美形のくせに、おどけたような声で語尾を伸ばした。ムカッ腹を立てながら、葦原は意地悪気に首を傾(かし)げた。
「夜這いじゃないんなら連れてってください」
原田は態とではなく、本気で迷惑そうな顔をした。
「ゼッテェ駄目だ。帰って寝ろ」
またガキ扱いかよ。
その思考から一時、葦原の意識と記憶が中断する。
沖田が、現れた。
「僕でも、役に立たないですか?」
原田はハッと黙り込まされた。
葦原の双瞳の様変わりではなく、自分の目的に気付かれたことそして、沖田の手を借りる、という方法に目が醒めた。
ゆっくりと、試すように打ち明ける。
「中岡……彼奴を、斬る……!」
土佐の中岡慎太郎?
既に戻された葦原は記憶のずれを意識しないままその轟く“勇名”の志士に、それ以上に原田の決意に驚いた。一度会ったきりの坂本龍馬の盟友であることも知ってはいたし、反面公武合体派である坂本に対し実は倒幕派である人物だとも“有名”だった。
「……先生と……土方さんはご存知なんですか?」
土方に命じられた暗殺かとも考えた。
しかし隊士を死なせない為に万全の体制を整え、一人の相手に対しても大勢で斬り包む戦法……端から見れば卑怯とも言われる手段を使う土方らしくない、と葦原も気付いていた。
「いや、誰も知らねぇ。俺の私怨だ」
「……何が、あったんです?」
原田はもう躊躇わず、全て打ち明けた。
「奴は……」
“私ノ闘争ヲ不許”
局中法度に照らせば切腹必至だ。
しかし理由を聞いてしまったばかりに葦原は頭にすっかり血が上り、ノコノコ付いて行った。
坂本龍馬が身を隠す、止宿・近江屋。
後世にまで広く名を残す、坂本龍馬、中岡慎太郎終焉の地。
「龍馬、後藤象二郎に話したっちゅう“船中八策”……アレ本気がか?」
赤々と燃える囲炉裏火に手を翳し、パチパチと弾ける音と合わせて風邪気味な相方の咳を聞きながら、中岡は重々しく口を開いた。
船中八策とは坂本が発案した、現代にも通じる程に良く出来た近代日本政治の在り方の構想で、これを基に後藤は大政奉還の建白書を幕府に叩き付けた。
「新しい世に、徳川さんを残して置くっちことか?」
坂本は大欠伸をしながら聞き返す。
「そこがイカンのは当たり前じゃ! ……俺が言っちょるんは、江戸幕府崩壊後の政界役職……何でおまんの名がどこにも無いんじゃ!」
今度は耳を掻きながら、ゴロリと寝っ転がった。
「慎太は相っ変わらず細っかいのぉ! いらんいらん! わしに地位や名誉は重たいだけじゃ! 身動きがとれんき!」
当然のように言いながら銃声並みのクシャミを豪快に響かせ、
「寒いのぉー」
とブルブル身震いをして起き上がるとまた囲炉裏の前に固まった。
「乙女姉に約束しちゅう“日本のせんたく”……終わったら、わしは海を越えるんじゃ! 世界で海援隊をやっちゃる!」
中岡は堪らず
「はあぁー」
と深く息を吐き、大人になるにつれて固くでっかちになった頭を振った。
この捉え所の無い糸無し凧のような自由な男が羨ましく、憧れすらあった
「龍馬に……日本は狭いっちゅうことか……」
階下で鈍く大きな音がした。
「何っじゃ五月蝿いのぉ!」
「ほたえなや慎太……藤吉じゃ。軍鶏鍋が食いたいっち頼んだきに、買って帰ったんじゃ」
中岡の怒声で、その坂本の従者・藤吉の痛々しい悲鳴までは聞き取れなかった。
階段を騒がしく上がる音をそんなに急いで来てくれたのかと嬉しく思い、坂本は出迎えようと入り口前に立ち上がった。
襖を開けたのは、剣客の顔をした葦原。
「……っ坂本……!」
上りきった血が、一気に引いた。
坂本の方は一瞬
「おお!」
と顔を喜ばせた時だった。
「退けっ!」
立ち止まる葦原をイライラと押し退かし、原田が斬った。
「龍馬あ!」
中岡の絶叫が空を裂く中、葦原の目の前で坂本は俯せに倒れる。脳漿が出る程深く額を割られ、ピクリとも動かない。
……俺は、止めるべきだった……あの時原田を。
今は遠く、さながら鮮明な池田屋のあの時、沖田を斬らなければならなかったように。
俺の短慮、未熟さで……また人が死んだのか。
「中岡……貴様を斬りに来た。抜け!」
「よくも!」
言い終えるより先に、中岡は猛然と斬りかかる。
「こっなくそ!」
原田は血眼で応戦するが、ついさっきまでガックリと肩を落とし顔中に坂本の鮮血を浴びた葦原がスッと横合いから、いとも軽々と中岡を斬った。
茫然と、原田は背の高い葦原を見上げる。
「早く逃げますよ」
口の端に笑みさえ浮かべた、遊びに熱中する子どものような横顔……沖田総司だ。
何の因縁も恨みも無い坂本龍馬を目的の為に迷わず斬った自分を棚に上げ、心底不気味な恐怖を満喫しながら残像として脳裏が刻んだ。
二人の刺客は、惨劇の広がる近江屋を去った。
返り血の付いた羽織を脱ぎ捨てつつ、屯所への帰り道を只管に走る。
「……総司……っなんで中岡を斬りやがったっ!」
「だってッズルいですよっ左之さんばっかりっ」
狡いって……人の命をなんだと思ってやがる。
人間らしく息を切らしているのがそぐわないぐらいに涼しい顔だが、まさかその呼吸、態とじゃないだろうな……と寒気を感じながら原田は立ち止まった。
「言っただろうが! 中岡は……俺の女の仇だ!」
話した筈だろ……彼奴は俺が昔愛した芸妓を斬り捨てた。
遊郭で中岡が声高に新撰組批判をしたのを咎めた……というだけの理由で。
それからずっと、奴をこの手で斬ると墓前に誓って生きてきた。
沖田も立ち止まり、んんっと伸びをした。
「私怨絡みの相手には、気ばかりが先走りうまく実力が発揮できないものです。それに……万が一バレた時には、一緒に捕まってあげますからねっ」
“共犯”を全うしたってのか。
もう何も言えなくなった原田は、また走り出す。
「……久し振りで、我慢できなかったんです」
沖田は小さく消え入るような声で、本性を吐いた。
坂本は即死。
中岡は下手人の特徴を怨念混じりに遺し、二日後に死亡した。
真相は闇の中。
現代でさえ、真犯人は判明していない。
自分の知らぬ間に沖田が表に出ていることには気付いていたが、話しかけてもまた茶化されるだけだと放っておいた。
「総司、葦原はどうした?」
しかし三日経っても、葦原に戻らない。
こんなに長い時間入れ替わっているのは初めてだ。
「……毎回感心しちゃいます。よく僕だって判りますねぇ」
少しも悪びれず沖田は言う。
「一目瞭然だ。つか俺がお前を間違える訳無ぇだろうが」
なんであなたがそれを言うんですか。
先生に……言って欲しかったな……。
「あのコ、死んでしまったんですよねぇ。もしかしたら、ずぅっとこのままかも」
土方は沖田の頬を打った。
沖田は、軽く避けられるのに関わらずそれを受けた。
「バッカ! 当たっちまったじゃねぇか!」
思い切り裏拳をかましておいた土方が見る見る赤くなり始める頬に触れようとするのを、沖田は顔を背けて遮る。
「歳三さん、僕よりあのコがいいんだ」
「……どっちがいいとかじゃねぇだろ」
そんなヘマをしたことは無いから知らなかったが……浮気がバレた男か俺は! という心境で土方は言った。
だがこの場合は選ぶ以前に、片方は既に死んだ人間だ。
「別にいいですよーう。嫌われたってぇ」
「お前、口ん中切れてんじゃねぇか?」
すっかりヘソを曲げた沖田の口角には血が滲んでいた。
どうせ受ける気なら歯ぁぐれぇ食い縛っとけよと呆れながら顎を掴み、口を開けさせる。
今度はすんなり触らせるのを、なんて気まぐれな野郎だと思いながらもホッとした。
「……痛かっただろ」
ザックリとした血が次々出る傷口を顰めっ面で眺めると、沖田はされるがままの姿勢は崩さず土方を睨み付けた。
「……今の新撰組は、あのコの手には負えません。僕なら、先生のお役に立てる」
土方はつい直前まで傷を労っていたその手で、襟元を握った。
「まさか、葦原を殺したのか?」
それでも沖田は動こうともせずに言う。
「……ご想像にお任せします」
俺がもっと早く、葦原に告げていれば。
もっと早く解決していれば。
こんなことにはならなかった。
いや必ず、葦原を戻してみせる。
それが総司を消すことでも。
当然の道理だと加え、もう総司は休むべきだとも思うからだ。
あまり物事に執着しない性質であった筈の“剣術バカ”からの質問に原田が意外そうに目を丸くすると、
「原田さぁん、どうして中岡さんが近江屋に居るとわかったんですかぁ?」
沖田はもう一度言い直した。
「誰に、聞いたんです?」
原田は沖田の意図が全く読めず、何気無く答えた。
「平助だ。俺が中岡を斬ってやりてぇって話をしたら……」
途中、沖田は笑顔で遮った。
「ふぅん、わかりましたぁ」
その名を聞き沖田は、原田に居場所を知らせた者の裏に黒幕が居ると踏んだ。直接知らせたのは藤堂だとしても、それを指示した者が居ることは明白だった。そして藤堂にそんな指示をできる者は、ただ一人だ。
こんなに積極的に“暗躍”する沖田は初めてだ。
「はじめさぁん、ちょおっとお願いがぁ……」
呼び止められた斎藤は、外見や語尾を伸ばす甘い口調、口元で両手を合わせる仕草は沖田でも中身は葦原だと思っている為、かなりの寒気を覚えながら半ば睨み付けて応対した。
「なんですか気色悪い」
沖田は
「ヒドイッ」
と斎藤の肩を小突いてから言った。
「久し振りに、お相手してもらえませんかぁ?」
“久し振りに”……?
あの試合以後も何度か稽古してきたではないかと、斎藤からしては意味不明の申し出だった。
「あまり人前で敗けてばかりでは、“沖田さん”の立場が無くなると思うが」
葦原へならば、飛び切りの嫌味だ。
まだ斎藤には正体がバレていない沖田は、カラカラと声を上げて笑う。
「僕が負けたことがあるのは先生だけですよぅ」
ああ、演技を貫く気か。
そう気を取り直し、斎藤は持稽古を承諾した。
それを聞かれるのすら誇りが許さない……目一杯低く小さく舌打ちが漏れた。
刀を手にしながら腰を着けるのは、多摩・試衛館での稽古以来だ。
「ごめんなさぁい」
周りの平隊士達のざわめきと試合相手のはにかみ笑いの中、すんなり吹っ飛ばされたのは斎藤。
“他流を極めた永倉・斎藤をしても、てんで赤子扱いであった”と盛大に賞される、常人離れした沖田の腕前だ。
葦原……いつの間に腕を上げた?
「早く来て? はじめさん?」
認めなくないが、ほんの一瞬しか感じられなかったものの、相手の動きを読みきったこの太刀筋はまるで……沖田総司だ。
いや、剣の癖どころか対峙すると人格が変わるこの感じは……葦原、どうやってここまで沖田さんに近付いた?
斎藤は奥歯を噛み締めながら、立ち上がろうと片膝を付く。
「愉し」
見下ろす沖田は子どもの無邪気さで呟き、フッと吐息で笑った。
道場内は沖田の神業に圧倒されシンと静まっていた為、挑発的に聞かせようと言ったのではなかった“素直な感想”は斎藤の耳にも入った。
「……泣いても止めないからな」
立ち上がり様、斎藤は屈託の無い笑顔に向けて木刀を擦り上げたが弾かれる。
「ゼヒ、泣かせて、ください?」
沖田は連続して五度打ち込まれるが、全て軽く躱しながら今度はハッキリと言った。
そして妙技の合間を潜り、斎藤の首元に剣先を合わせた。
力が抜けて板間に吸われた木刀が落ちると、斎藤は背中を汗がスッと流れるのを冷たく感じた。
「“参りました”は?」
プイッと剣先を外した沖田は、信じられないという形相の斎藤に笑い掛ける。
この俺が、葦原に敗けたのか……?
その場に二人しか居ないかのように見物人の気配さえ消えた中、芝居染みた感嘆の声が上がる。
「お見事!」
パンパンと大きく両手を鳴らすのは、満面の笑みの伊東甲子太郎だ。
近付いてくるのを斎藤は一瞥して木刀を拾うが、次の言葉で米噛み辺りが更に引き吊った。
「流石は新撰組一の剣客! 素晴らしいですね! 思わず見とれてしまいます!」
沖田は“待ってました”の心境を押し殺し、恥ずかしそうな顔を作った。
今まで散々避けておきながら……伊東を毛嫌いしていたのは葦原だが……急に話し掛ければ何事かと構えられてしまう。
如何に向こうから声を掛けさせるか、全ては沖田の計略通りだ。
「またまたぁ! 北辰一刀流免許の方が何をおっしゃるんですかぁ」
幼少より近藤から学んだ天然理心流こそ実戦では最強だと誇りながらの台詞なので、内心では真っ赤な舌を出す。
「私の目の前でこんなに仲良くなさるなんて、見せつけてくださいますねぇ斎藤さん。私と代わってくださいませんか?」
伊東は、沖田にしては明らかに“この沖田総司はホンモノか”を確かめるという思惑があるように見える。
遂にここまで疑うのはやはり、不治の病からの異常な回復のせいだ。
土方も山崎も、演じさせるならそこまで演らせるべきだったのかもしれない。
しかし病にさえ気付いていない者が多かった故の油断が生じた上に、新撰組が見くびられない為の代替なのに目に見えて病弱では意味がない。
一方斎藤は、どこが仲良いんだと心中で苛立ちながら道場を出て行ってしまった。
「さぁ、始めましょうか」
沖田と伊東の試合何ぞに目もくれず、斎藤は山崎に訊ねた。
「山崎さん……いつの間にあんなに仕込んだのですか?」
伊東の粗探し権は斎藤に譲ったものの、諜報活動専門……殊に此処、念に念を入れて情報を集めたがる新撰組の、鬼副長が直接指揮する監察方山崎の仕事は多忙を極める。
若干忘れかけていた葦原の話題を振られ、キョトンとしてしまった。
「へぇ? あいつ、なんかやらかしましたか?」
「いや……、剣技の……ことです。足捌きまで瓜二つになっていた」
斎藤は自分の見立てでは鏡新明智流目録程度の相手……ちなみに見立ては当たっているが……格下であった相手に手も足も出なかったことを苦々しく思い起こしながら渋々言った。
「はぁ……ってそれ! ……“ホンモノ”ですやん!」
恥を忍んで訊いているのにイマイチ手応えの無い反応だった山崎が急に目を冷ましたように言うので、今度は斎藤が、想像以上に可愛らしくキョトンとした顔になった。
その様を見て、山崎は自らに突っ込んだ。
俺の阿呆! 斎藤はんはまだ知らんかったんや!
「“本物”……? ……どういう意味です」
「そぉんなこと言うてまへぇん」
などと誤魔化しの利く相手では勿論無いので、結構な度合いでアワアワしながらも、ええいと白状した。
「信じられへんと思いますけど……葦原に、取り憑いてるんですわ」
「……沖田、総司が……!?」
予測外れず斎藤は小芝居並に驚いたが、すぐにフンッと鼻で笑った。
「……怪談話の時期ではないですよ」
山崎は態と“ガーン”という演技で応戦する。
「ちょっ! なんですかその目ぇは!」
と、言われる斎藤は“世迷い言を”という疑惑の目付きだ。
「俺かて最初は信じられへんかったですよ? 副長はんが言い出したんです」
「副長が?」
今度は斎藤が、しかも地で“ガーン”とする番だった。
「……冗談は句作だけにしてほしいものだ」
土方の、お世辞でやっと“素朴でいい”と言える俳句を思い出しながら斎藤は苦笑した。
豊玉宗匠・土方本人は近藤・沖田しか知らないと信じているが、沖田は唯一、斎藤にだけは心底嬉しそうにバラしていた。
口調は小バカにしていたが、少し自慢げにも見えたものだ。冷たく血の滴る鬼を演じているが、根は優しい気性のどこか可愛らしい人なのだと……そして自分はそれを知っていると。
一方どこから調べたのかその句を脳裏に浮かべた山崎は、爆笑したいのをなんとか堪えて言った。
「信じられへんのでしたら、沖田はん本人に聞いてみればええですよ」
そういう自分もまだ半信半疑なんですけど、という言葉は言わずに置いた。
つい瞬きまでざわめきに満ちていた。
立ち込めるのは身を縮ませるような殺気。
その主は紛れもなく沖田総司。
向かい合った沖田と伊東は、ピクリとも動かない。
両者全く打ち込まずに剣先を重ねている。
息を吐くのも躊躇う空間だ。
互いに、臆しているわけではなく出方を窺っている。
気だけで闘っている。
京に潜む倒幕派を震え上がらせた笑う死神・沖田総司と言えども、若造ではないですか。
ビリビリと伝わってくる剣気を受け、これは“本物”……自分の考え違いであったと伊東は、しかし青いと嘲笑する。
反面、手にしているのが真剣ならば立っていられないかもしれない、とも感じた。
天然理心流が道場試合に不向きで助かったのは、私ではなく君の方ですね。
「……伊東さぁん? 僕、腕が痺れちゃうんですけどぉ」
この状況でよく軽口がきけるものだと、満場一致の空気が流れた。
幼少から鍛練した腕は疲れている筈が無く、早く打ってこいと誘ったのは誰の目にも明らかだ。
ならばそちらからどうぞ? という余裕の微笑みを見せる伊東は、剣先を右にずらし態と隙を作り挑発する。
気に入らないな。
沖田はグッと目を細める。
始めから自ら攻める気は無く伊東が打ち込む瞬間を狙い、躱して一本を取る気だった。
攻撃に出る時に隙が出るからという理由ではなく、伊東の高い鼻をポッキリ折ってやりたい。
定石では、面に来た相手への出小手。
抜き出た素早さがなければできない技だ。
次に分かりやすい隙としては相手の呼吸。
必ずと言って良いだろう、攻撃に出る前には空気を吸い込む。
やり過ごしてきたが、次の隙には打とうと思っていた。
誘って油断させたつもりの伊東が、息をスウッと吸ったのを見逃さない。
斎藤の時と同様、ここぞと言う必殺技・天然理心流平突き。
態々相手の木刀を掠って、首の皮一枚で止めた。
「取ぉった!」
「参りました」
クスリと笑う沖田と同様の顔付きで、伊東は穏やかに微笑んだ。
道場内に沸き出る拍手の中、沖田の横目は静かに伊東を捉える。
敗ける気だった?
「オモシロイ人だなぁ」
この試合を切っ掛けに伊東に興味を持った振りをして、取り入るつもりだったが……演技など不要。
本音で、そう言った。
寒さに足裏の感覚も薄い、廊下を渡る沖田の手首を乱暴に掴むのは永倉。
「……あ……おはよぉござぁまぁ……」
「葦原キサマ、“また”寝返る気か」
朝稽古の道場に入るまで中々目が覚めずボケッとする、現代で言う低血圧な沖田を容赦無く捻上げる。
「ッいたぁい!」
まだまだ寝ている隊士も多い中、なんだなんだとドキドキ無理矢理起こされてしまいそうな艶声が響く。
「その調子で伊東に媚売ってんのか」
気にも留めずに、いや永倉までドキドキされても困るが、それどころかかなりムカムカとドスの利いた声を出す。
「……離して」
スルリと腕を回して、容易く永倉の手を解いた。
呼び止めるのを完全無視で沖田が走り去った後、やはり低血圧っぽい土方が背後から現れる。
「ナニ朝っぱらから騒いでんだ」
いつから見てたんだよ、と余計苛ついて永倉は腕を組む。
「葦原の野郎、ここんとこ伊東にベッタリじゃねぇか」
「ああ……」
そのことか、と土方は納得した。
「だから言っただろ。その内、寝首をかかれるぜ」
斎藤同様永倉も、沖田の存在に気付いていない。
「……あいつは、近藤勇を裏切るぐれぇならテメェが死ぬだろうよ」
とは、沖田のことである。
土方は永倉から見たら何の根拠も無いのに、自信たっぷりに言った。
当の沖田は死んでいるとは、土方の頭を過りさえしなかった。
かつていつも一番乗りだった沖田が道場に入ると、既に斎藤が素振りをしていた。
乱れの無い律動で、風を切る音が響く。
「居ないと思ったら、やっぱりここでしたかぁ」
沖田が健康であった時と同じように、二人は同室。
―…
「起きてくれないとぉ、オデコに“肉”って書いちゃおっかなぁ」
―…
本当にやりそうで怖い冗談で起こすのが沖田の日課で、沖田は知らないが狸寝入りを続けるのが斎藤の日課だった。
斎藤は見向きもせず無言のまま力強く木刀を振る。
この男に無視されるのなんて、慣れっこだった
「おじゃましまぁす」
―キシッ
一歩道場内に入り剣道の礼法通りに一礼すると、沖田はツカツカと斎藤に近寄る。
「……邪魔」
「そんなぁ」
斎藤は顔色だけ歪め、あくまで躰を休めない。
―ヒュッ!
―ヒュッ!
―パシッ
……この野郎……。
斎藤がガラにもなく心中で悪態吐いた原因は、素振り中の木刀をなんと片手で掴まれたからである。
斎藤の瞬発的な速さに加え、適度に腕を絞り力の込められた素振り中の木刀をもしも喰らったら、腕の一本や二本は軽く折れる。
仮に葦原にやらせれば、ビビりまくるのは想像に容易い。
……有り得ないだろ。
斎藤の悪態通り、常人ではない。
“剣道三倍段”……木刀を持っていない者が持っている者に勝つには三倍の段を有する程の実力が必要との法則からすれば、哀しいことに沖田の腕前は少なくとも斎藤の三倍である。
「僕に言いたいことがありますよねぇ? 黙ってられると気持ちワルいんですけどぉ」
木刀を握ったまま微笑む沖田から顔を伏せながら、斎藤は聞こえよがしに大きく溜め息した。
「訊いて、あんたが答えるなら訊く」
ちゃんと本当のことを、真面目に答えるのなら。
斎藤はかなり力ずくに、沖田の手から木刀を抜いた。
「う~ん……どうしましょう?」
ふふっとはぐらかされるのは、まぁ予想通りだと聞き流した。
「……沖田さん……なのか?」
笑顔は消え、沖田は真顔で言い返す。
「そんなに僕に会いたかった? しょおがないですねぇ」
せめて冗談らしく、笑って言ってくれ。
「勝手に死ぬなど……あんまりだ」
斎藤は目を閉じる。
毎日のように繰り広げられる豪剣犇めく激戦の中、唯一安心して背中を預けられる、競い合える、共に戦いたいと思える相手だった。
会津の殿……京都守護職松平容保公に命じられ、上洛する直前当時の試衛館を浪士隊志願者が居る何十もの道場を数人係りで廻ったのと同様、身分を明かさず偵察した。
腕を測る為だけの筈が当時道場主であった近藤局長の……言いたくはないが、泰平に甘んじる幕臣らなどとは比較にすらならない大樹公への忠心、そして沖田さんの剣技に打ちのめされた。
裏切り狸の浪士隊発案者・清河八郎から分隊し、京に残留すると言う浪人達の動向を報告するからと、自ら志願して入隊した新撰組に対する信念なら俺も負けない……局長を、そして幕府の土台を支えていけると信じていたのに。
「……池田屋で血を喀いて……肺腑から上ってきた血が喉に詰まって、咳が止まらなくて息ができなくて……駆け付けてくれた土方さんの胸は泣きたいくらいに温かだったけれど、僕の躰……どんどん冷たくなっていくんですよねぇ……。固まった手足……動かしたくても、動かないんだもん」
葦原の手を朝陽に翳(かざ)し、甲に平にくるくる引っくり返す。
「イヤになっちゃいますよねぇ?」
涙の一つでも溢しながら言うべき科白を、何気無く笑う。
「……それで悔しくて……葦原柳に取り憑いたと?」
まるで気になる女の子の気を引く学童だ。
こう言ったら傷付くか、なんて心配するのはいつも後の祭り。
「イッジワルゥ。……あのコが悪いんですよ? 僕とそっくりの顔で、“僕のマネするから”」
「おはようございます! 沖田隊長! 斎藤隊長!」
ぷくっと膨れるのを
「はぁ?」
と呆れると、ガヤガヤと平隊士達が入ってきた。
「……遅い。素振り五百本」
地獄でも見たような阿鼻叫喚の中、
「オジサマが早過ぎなんですよねぇ?」
と末端隊士らにはどうしても同意し難い味方してくれているんだか微妙な愚痴を聞かせてから、沖田は
「僕もやろぉっと」
と木刀をブンブン振り出した。
なんでこう……相変わらず会話ができないんだ、あんたは。
不可解な“沖田語”を恨みつつ……いや、あんた俺より二つも年上だろう、と馬鹿正直に突っ込んだ。
一方沖田は、少し喋り過ぎたかもと頭を掻きたい心情で、素振りに専念していた。
かつての沖田の病名を知りながらも伊東は、偽者と入れ替わったのではなく本当に治ったのだとあっさりと信じ切ってしまった。
幕末当時の労咳……肺結核と言えば不治の病という印象が強いが、抗生物質・ストレプトマイシンが発見され特効薬が開発される以前でも完治する例はあった。
両親、姉を労咳で亡くしている土方も幼少時に感染していたが、すっかり治っている。
その土方にしては好都合にも、沖田は伊東に接近し腹を探る。
紅顔で小姓向きとでも言いたくなる容姿な分、仏頂面が板に付いた斎藤よりも適任である。
とは言っても色っぽい展開は無く、巧みな言葉だけで薩摩藩との繋がりをむしろ得意気に吐かせた。
長州藩に対し幕府を支持していた雄藩は坂本龍馬の仲介で寝返り、あくまで武力討幕に執着するのに邪魔になった坂本の暗殺を企てていた。
西郷隆盛の腰巾着・中村半次郎という、難無く成功を収められる人斬りもいる。
しかし直接手を下してもしも明るみになったら、海援隊どころか土佐藩にも怨まれ戦にまでなりかねない。
最良の策は、なんとか佐幕派にやらせること。
そこへ魚心に水心、狐がネギ背負って現れた。
新撰組参謀・伊東甲子太郎。
熱心な勤王家であった伊東はいつしか討幕派に傾倒し、幕府の大隊・新撰組隊士を巻き込んだ分隊を企てていた。
そこで、間接的にではあるが薩摩藩と接触。
分隊後の筋道を手探りする。
「新撰組の原田左之助が、中岡慎太郎を亡き者にしようと画策しているようです」
薩摩としてはこれを、利用しない手はない。
元々承知していた坂本の潜伏場所、いとも簡単に調べた中岡が訪れる日時を教えた。
原田の意思、薩摩からの情報を仲介したのは、江戸試衛館からの古参・藤堂平助であった。
「納得しました。あなたが新撰組を“とってもよく”ご存知なのは、平助くんが筒抜けにしていたからなんですねぇ」
藤堂は仲の良かった永倉や原田、沖田を避けたまま伊東と共に御陵衛士……表向きには、先日崩御した孝明天皇の御陵を警護する隊として新撰組から分離。
伊東は熱心に沖田を誘ったが土方がそれを許す筈がなく、斎藤が間者となり御陵衛士に溶け込み、その動きを綿密に報告した。
斎藤が副長独断の密命を受けて御陵衛士に加わる前夜、ふと漏らされた言葉に整った眉をピクリと動かしたのは土方だ。
大したことを言った気がしない斎藤は、その反応に逆に驚かされた。
―…
「僕のマネするから」
―…
「……総司が言ったのか?」
重大な意味を持つのではと愕然としたのは、土方の直感だ。
「どうしました? 顔色が蒼白ですが」
沖田が葦原と入れ替わる理由に……沖田がこの世に現れ出る理由に近付いたのでは、と思うと迂濶に追求できない。
解決すれば葦原が戻ってくるとしても、沖田とはもう、会えなくなる。
まだ迷っているのか……俺は。
「あまり思い詰めるとハゲますよ」
何故だか機嫌のいい斎藤が、腹の底では含み笑いをしながらクソ真面目な顔で言う。
「テメッ! とっとと行きやがれ!」
土方がそこら中の物を何かしら投げ付けようと瞬時に物色し始めるが、綺麗好きが仇となりあまり散らかっていない為に手間取り、斎藤はそそくさと副長室を出てしまった。
一方で沖田は真実に辿り着くのを待っている気がして、聞かずにはいられなかった。
と、いうわけで伊東や斎藤らが出て行った後に早速土方は沖田を探すが、やはり道場にいた。
暇さえあれば稽古している点は葦原と同じである。
試衛館の頃から変わらない特徴的な……土方程ではないが、右側に少し剣先が寄った構え。
子どもの頃は左利きに悩まされた癖に、何故だか右手に力が入ってしまっている。
―ダァン!
「あ~あ……だ~らしないですねぇ」
当たりがキツ過ぎて軽く壁まで吹っ飛んだ新人隊士に溜め息する、相変わらずの普段とは別人のような荒々しい稽古の付け方だ。
どんなに格下の相手でも、少しの手抜きもしない。
本人の実戦の為にならないからとの良心的な理由というより、数々の技を難無く習得してきた彼は、手加減という技だけはずっと使えずにいた。
「あっ! 土方さんだぁ! 久し振りに僕と稽古しましょうよう!」
沖田が入り口手前に立つぼんやりと懐かしがる姿にパタパタ手を振ると、平隊士が一気に意義を正して歯切れよく挨拶する中、土方は渋々といった様子ながらも可愛らしく几帳面に揃えて下駄を脱いだ。
ちょっと笑ってしまいそうになる沖田に、土方はわざわざ道場に入ってきて腕を組んだ。
「やなこった。坊やの遊び相手なんざできるか」
特に新人隊士にしては笑うに笑えないのだから、こんな所で新撰組名物夫婦漫才をおっ始めるのは勘弁して欲しい。
「まったまたぁ! 僕にコテンパンにされるのが怖いんでしょ~?」
「こんのクソガキ! 足腰立たねぇようにしてやる!」
「ヤだぁ! 土方さんの変態!」
冷徹に先を見て人を操る巧みな話術・土方十八番もこの相手には勝ったためしがなく、まだまだ続く痴話喧嘩は割愛して、土方はまたこの調子に嵌められた!とハッとしつつ本題を思い出した。
勿論土方から手を出した、いつの間にやらの取っ組み合いというかじゃれあいに平隊士達はかなりオロオロだったのも勿論だが漸く収まりを付け、着衣の乱れをまたも几帳面に正しながら土方は言った。
「お前ちょっと話があるから、俺の部屋来い」
「……仕事の話ならここで聞きます」
すぐに内容を察した沖田は再び別人のように憮然とするが、土方が
「お前の躰の話だ」
と付け足すと、
「ええ? ちょっ……ホント手籠めとかやめてくださいね!? 返り討ちにしちゃいますよ?」
と減らず口を叩きながらも、毎度ながら大人げ無くガミガミ怒鳴り付けてくる土方に従って道場を出た。
「相変わらずなんにも無いお部屋ですねぇ」
部屋に入った初っぱなから、沖田は熱心に話を本題から逸らそうとする。
土方は無視を決め込んで口を開いた。
「お前……躰を葦原に返す気はねぇのか?」
どこかに書き散らした、土方の密かな趣味・俳句がないか物色を始めつつあった沖田は、はたと動きを止める。
「……返してほしいですか?」
またウロウロし出す沖田の手首を、土方はきつく掴み上げた。
「痛いですって」と、沖田は眉間を寄せる。
「何て言って欲しい?」
土方はその表情を覗き込んだ。
長い沈黙が続く。
二人はずっと、目線すら動かさなかった。
「黙ってちゃわかんねぇ。俺に、どうして欲しい?」
尚、沖田は黙りこくる。
だからつい、言い過ぎてしまうのだ。
「そうやって、ガキん頃から言いてぇこと言わねぇから思い通りに生きらんねぇんだよ」
「“宗次郎”はっ……関係無いじゃないですか!」
沖田はかつて、自ら名前を変えている。
その理由は、現代では先輩剣士・原田忠司の影響だと広く伝わっているが、定かではない。
家督を継ぐことも家族を支えることも……何もできない、と思い込んでいた幼い自分との訣別の為だったのかもしれない。
沖田は手を振り払おうとするが、土方が中々それを許さない。
「ヤダッてば!」
無理矢理振り外し、沖田は部屋を出て行こうと障子を開ける。
「話は終わってねぇよ」
余計に腹立たしい落ち着いた声を出して左肩に手をやり、自分の方を向かせた。
「大ッキライです!」
「知るかよ俺は大スキだ」
恋人同士のケンカか! と突っ込みたいのは山々だが、土方は何気無い顔付きで続ける。
「“マネするから”ってのはどういう意味だ?」
沖田はプイッと口を尖らせる。
「だからぁ、それを知ったら土方さんは僕をどうするんですか?」
この反応で確信した。
やはりあの言葉は沖田と葦原の入れ替わりに関係していると。
単に斎藤を翻弄して、困らせようと言った戯れ言では無いと。
しかし土方は、さも面倒そうに舌打ちをする。
「ったく……埒開かねぇな」
ハッキリ言わなければ、いつまでも堂々巡りの押し問答だ。
「お前は“此処”に居るべき存在じゃ無ぇだろ」
反応が気になり過ぎておかしくなりそうだが、その顔を直視できないまま続ける。
「俺があの世に送ってやるよ」
目線がぶつかると、沖田は口角を上げた。
硝子玉のような目が笑っていない。
「ふぅん……できるものならどうぞ?」
肩に乗った土方の手を、躰を逸らせて外す。
トンッと軽い音を落として廊下に出てから背中越し、流し目を送る。
「じゃあ、一つだけ。僕から“助言”をあげます」
土方は
「ああ?」
とかガラ悪く言いそうな表情だ。
「僕とあのコは、正反対のようで実はすごぉく似ているんですよねぇ。あ。とっくにお気付きでしたぁ?」
俺、こんな意地の悪ぃガキに育てた覚え無ぇんだけど。
とか、いろいろなことを後悔しながら土方はまた、その意味に頭を悩ませた。
“本当はイイ奴”なんて評価、俺には当てはまらない。
伊東先生に付いてきたのも……試衛館の皆を裏切ったのも、元同門という義理を通す為等では無く総て、俺の意思だ。
藤堂平助は、真摯な眼差しで持ちかける。
「近藤勇は、殺すべきです」
新撰組から“分隊”した伊東らは高台寺に本陣を置いており、その一室に暗く響いた声だった。
斎藤も流石に我が耳を疑う。
この男から、こんな言葉を聞こうとは。
以前もちらりと書いたことだが、かつて市中巡察の折りには隊長でありながら真っ先に現場に斬り込むので、冗談と尊敬を込めた“魁先生”の愛称で呼ばれ、津藩藤堂和泉守のご落胤という噂を裏付けるような立ち居振舞いに漂う品の良さ、そして何より明るく素直な気質で愛される試衛館仲間の弟的存在であった。
密偵として侵入していながら高台寺党に微塵も疑われず、送り込んだ土方でさえ新撰組に戻ってこないのではないかと不安になったぐらいだといわれる斎藤の敏腕仕事人ぶりはその動揺では崩れることなく、息も乱さず話の続きに集中する。
伊東は
「よくぞ言ってくれた」
という顔付きを隠しもせず、策士の眼光を向けている。
「新撰組が幕府にある限り、日本一新には邪魔なだけです。しかし所詮素性怪しい浪人の寄せ集め……近藤を失えば、いとも簡単に瓦解します」
斎藤から見れば試す気丸出しの伊東が、全く思ってもいないだろうことを言う。
「わたしとしては、彼らとは話し合いにより手を取り合いたいと考えているのだがね……」
この狐が、と顔にも出さずに我慢している斎藤に誰も気付かず、藤堂は伊東の思惑通りに反論する。
「意のままにならない者は排除するのが新撰組のやり方です。捨て置けばこちらが狙われます」
山南総長のことを言っているのか? と、斎藤は察する。
当然この後は近藤暗殺の企てに会議は進む。
斎藤は新撰組に戻ったが、それでも間者と疑われることはなかったという。
「ご苦労だった」
斎藤から全ての報告を受けた土方は、短く言った。
藤堂が言い出したということは近藤に伝えるなと、斎藤ならば重々承知しているだろうと敢えて指示しなかった。
近藤がどれ程の衝撃を受けるかは想像に容易く、あの平助が、との気持ちは二人の心に留め置かれた。
斎藤の働きにより、先手を取ったのは新撰組だった。
近藤は妾宅にて、伊東と二人きりの会談を持つ。
何故こんな状況で伊東がノコノコと供も付けずにやって来たのか定かでないが、活動資金の要請をしそれを受け取りに来たようだ。
武士の意地により、護衛など付けられなかったのかもしれない。
散々酔わせた後の帰り道に刺客数人で包み斬り、油小路に屍を晒して御陵衛士を誘い込む。
そして沖田率いる一番隊、永倉の二番隊、原田の十番隊という新撰組屈指の実戦部隊が、遺体を引き取りに来るのを先回りして迎え討つ計略だ。
「新八さぁん、平助くんなんですけどぉ、僕に任せてもらってもいいですかぁ?」
雪のちらつく暗闇に紛れ血で血を洗う戦場に迎い走る途中、沖田はヒソと耳打ちする。
「お前がアイツを斬るってのか?」
同年代で、試衛館の頃から特に仲が良かった二人だろうにと驚く反面、せめて自分の手でと望むのだろうかと、永倉は死んだ筈の沖田が目の前にいるとは知りもしない上で、“ホンモノ”かと錯覚した。
「僕も怒っちゃったんですよねぇ。先生を裏切った上に命を狙うなんて、許せます?」
“人斬り”の形相ながらも笑う沖田は、さらに念を押した。
「絶対に、誰も寄せ付けないで下さいね?」
同じようなやり取りを原田とも行う内に、伊東の屍が転がる小路に着いた。
身を潜め、高台寺党が到着するのを待つ。
新撰組の遣り口を重々理解している藤堂であるがそれでも行かずにいられない性分で、永倉らの願い虚しく籠を担いで現れた。
高台寺党の方も予感していた通り、池田屋事変以後の新撰組の象徴・黒尽くめの隊士が抜刀状態で囲む。
唯一、刀を納めたままの沖田が怖ろしく、はにかんだような笑みを浮かべた。
「こんばんはぁ、新撰組でぇす。もう仲直りなんてできませんもんねぇ……“いざ尋常に勝負”?」
お決まりの怒声響き合う中、大乱闘の中で、沖田は作戦通り真っ先に藤堂の元に走る。
「沖田先生!?」
藤堂の周りにいた隊士達を押し退ける。
―キィン!
無言のまま、沖田の居合い抜きが放たれた。
「さっすが。受けられちゃった」
一瞬の鍔迫り合いから離れると、鋭い目で構える藤堂に対して沖田は顔を綻ばせる。
「俺の相手は総司くんか」
「よろしくお願いしまぁす」
―シュッ!
言うなり足を払うように刀を水平に振るので、藤堂は後ろに飛び退いた。
その後も避ける度に、乱闘が続く集団からどんどん離される。
「俺とサシがいいってこと?」
沖田は無言で応えるように、平突きの構えに出る。
言わずと知れた沖田必殺の技・三段突きを予測し、
「殺られる」
と藤堂はハッとして防御の体勢になった。
「………っ」
躰を強張らせ、衝撃に耐える準備をする。
しかし沖田はそのまま動かなかった。
藤堂にしてみれば、相当気味が悪い。
「あれぇ? 逃げないんですかぁ?」
高台寺党もかなりの剣客揃いで新撰組と言えども苦戦中の為、誰一人、沖田の声に気付く者はいなかった。
「は? 何言ってんの!?」
藤堂は怒り気味に、姿勢を戻す。
「だからぁ、逃げてってば。それとも見送ってほしい?」
堪えきれず、藤堂は沖田に剣先を向ける。
「ありえないから。斬る気が無いなら俺から行くよ?」
―ガツッ
数撃攻められるが、沖田は一貫して受けるだけだ。
「早く逃げてよ、平助くん」
しかも話し掛けながらの余裕振りである。
―キンッ!
ついに藤堂の刀が宙を舞い、後方にカランと落ちた。
「はい。ばいばぁい、元気でね」
ヒラヒラと手を振られても、藤堂は斬れと言わんばかりに動かない。
これを告げれば沖田は必ずや激昂し、自分を斬るだろうとの確信があった。
「バカじゃない!? 近藤さんを斬ると言い出したのは俺なんだよ!」
しかし沖田は、ケロリとして刀を肩に置く。
「うん。関係無い。平助くんを逃がすのは、先生の意思だから」
―…
「総司!」
御陵衛士討伐隊の先頭に立つ沖田を近藤が呼び止めた。
「はい、先生」
沖田は永倉に隊伍を任せ、すぐに近藤の側に従く。
「頼む……。平助だけは、なんとか助けてやってくれないか」
誰にも聞こえぬ、土方さえ知らない極秘の指示だ。
実力を見込んでの大任を敬愛してやまない近藤から受けた沖田は、不謹慎にも嬉々として、ついつい饒舌になる。
「頼むだなんて……先生が僕にするのはお願いではなく、命令です。先生に一言言っていただければ、命に換えても全うしますよ……ご存じでしょう?」
近藤は
「そうだよな」
と言うように少しホッとしながら微笑み、しっかり生真面目に“局長”の顔を作る。
「藤堂を逃がせ」
―…
「……嘘だ……」
「“連れ戻せ”じゃないのが先生らしいですよねぇ?」
近藤は、一度志を持って出て行った所に情けを掛けられて戻って来られるような男ではないと藤堂を見込んでいた。
それでも命は助けたいと、自分から離れてしまってもかつてと同じように仲間として気に掛けていた。
これが近藤勇という男だと、藤堂は瞑目する。
「でも総司くんは……さ、俺が許せないだろう? 近藤さんに命じられたら、自分の気持ちなんて“関係無い”んだ? そこまでの忠誠心……感心するよ」
藤堂は転がった刀を取り腰に差す。
「どっちがぁ? 平助くんこそ“こう”なることをわかってたんでしょう?」
パチンと音を立てて沖田も納刀する。
「……え?」
そう、藤堂は新撰組のやり方を熟知している。
“局を脱するを許さず”の鉄の掟が曲げられることは無い。
そして間者も付けずに離隊させるなんて、土方がする筈が無い。
その上、局長が狙われているとあっては黙っている筈が無いのだ。
藤堂は自らの命をも懸けて、伊東を罠に掛けた。
「伊東さん派の方々を、一掃しちゃう為でしょ?」
藤堂は観念して、少し微笑みながら溜め息する。
「……ちぇっ……お見通しかぁ。……近藤さんはさ、父上さえも認めなかった……俺が落とし胤だなんて話を普通に信じてくれて、この刀を与えられるだけだった俺にとって、本当の父上みたいだった」
長曾弥虎徹に次ぐと言われる、津藩藤堂家お抱えの刀鍛冶が鍛えた愛刀・上総介兼重の柄に手を乗せる。
「僕の忠誠心なんて……コドモみたいなものです」
僕なら、先生の為になることだとしても先生に嫌われるかもしれない道なんて……選べないから。
「……えっ? なに?」
呟く声に耳を傾けても、沖田は手を振るだけだった。
「じゃあね、平助くん」
「あっ。ねぇ総司くん、ちょっと俺の背中斬っておいてよ。“裏切者”の証ぃ」
藤堂は振り向きながら背中を親指で差す。
「ええ? ……困ったなぁ……手加減は苦手なんですけど……。死んじゃったらごめんね?」
こうして藤堂は逃げ切った。
後年、幼少期に藤堂平助と名乗る男に風呂に入れてもらったと語る人が現れる。
その人は、背中に薄く刀傷があったらしい。
出迎えた近藤の視線に応え、沖田は少し口角を上げる。
「成功した」
と、しっかり伝わった。
屯所に帰るとしばらく普段通りを装っていた近藤は、こっそりと土方・沖田を自室に呼んだ。
時たま彼は、生真面目に畏まった雰囲気を作りたがる。
それに合わせて、呼ばれた二人もきちんと正座をした。
「ご苦労だったな」
沖田は得意そうにはにかむ。
「先生に誉めてもらいたくてがんばっちゃいました~」
珍しく正直な台詞に土方はギョッとするが、近藤は追い詰められたような表情で本題に入る。
「……総司。もう、疲れただろう。休んでも、いいんだぞ」
指令通り、そして自らの希望でもあった藤堂逃亡を成功させ上機嫌の沖田は態と膨れる。
「もぉう! 子ども扱いはやめてくださいよう! まだおネムじゃないですぅ」
土方は不覚にもノって
「子守唄でもなきゃ寝られねぇもんなあ」
を、言い掛けた。
「……そうじゃないんだ。……総司、もう……」
近藤は尚更顔面中を強張らせ、声を詰まらせたまま下を向き、言葉を続けられなくなっている。
まさか、かっちゃん……!
土方は心の中で呼び掛ける。
全部……知っていたってのか……!?
沖田は近藤の様子に、ぼぉっと空間を見ていた。
どう思ってる、総司。
土方が目線も向けないまま気にすると、沖田が沈黙を破った。
「先生……僕のこと……」
近藤も無言のまま頷く。
堰を切ったように、沖田の双瞳から涙が零れ落ちた。
「総司……っ!」
隣に座っていた土方は驚き過ぎてつい、沖田に滅法甘い本性が出てしまっている。
顔も覆わず涙を次々流し続ける沖田の肩に手を添える。
「かっちゃん、なんで黙っていた? いつから……」
すべて知っていながら消えろだなんて、酷くないか。
土方は心の中で近藤を責める。
涙の理由を勘違いしていた。
沖田の涙は、嬉しさゆえだった。
「池田屋の後からだろう? 別人だったではないか」
二人ともに理由を悟られないまま涙に頬を濡らし、膝で握った手の甲にポタポタと雫を落とす沖田を前に近藤は続けた。
「また、帰ってきてくれてありがとうな」
沖田は声さえ出せず、フルッと首を横に振った。
「歳、俺が判らない筈無いだろう?」
―タンッ
「ごめんなさいッ……僕、失礼します!」
堪えきれず沖田は立ち上がり、部屋から出た。
話はちっとも終わっていないのだが、こんな涙声で言われては止められない。
「身代わりなんか使った俺を……なんで、やめさせなかったんだ」
沖田が去った後、土方は苦々しい後悔にも見える面持ちで近藤に問い掛ける。
近藤が止めてくれれば葦原は躰を失わなかったし、そしてこの世を去ってまで尚更、沖田を苦しませることもなかった。
「別人だと思いながら……総司が死んだなどと認めたくなかった」
正しく本音だが、恐らく土方の智謀策略でのことだから任せて置けばいいとも考えていた。
それ以上に、瓜二つの姿は僅かでも悲しみを和らげ、現実の方が虚実かもしれないとも思った。
思えば新撰組が最も華やいだ池田屋の夜、多勢に無勢を自ら望み会津藩らの援兵を待ち切れず出陣を命じたのに、怯えるどころか大喜びして敵地に飛び込んでくれた。
あれも土方の機転だったのであろうが、“副長の使い”を終えて数日遅れて屯所に帰ってきた総司に感謝と労いの言葉を掛け、確か……
「ゆっくり休め」
とでも暢気に笑っていた時、明るく
「先生も」
と応えたのは総司だったが、その後は全く違う人間になっていた。
それからずっと総司は姿を現さず、漠然と、ああ……死んでしまったのだと考えた。
嫌な咳をしていたものな、と懐かしむ。
また急に姿を現したのは、土佐の坂本・中岡が暗殺された後からだったなぁ、と近藤は思い起こした。
近藤の推察通り、“沖田が”近藤の前で言葉を発したのは、その一度だけだった。
「だが、もう限界だろう。……京を出よとの命が下った。死んでまで無理をさせたくはない」
王政復古の大号令により将軍の座を奪われ一大名となった徳川慶喜と共に、会津・桑名ら佐幕派、そして新撰組は大坂に下ることとなる。
これから先は、旧体制を飲み込まんとする激流に抗う道。
誠の旗を悠々翻して豪快に剣技をひけらかす、その黒尽くめの二本差しが通るだけでそこら中にトグロを巻く討幕派志士が蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れして戦慄した、新撰組の黄金期は終わりを迎えていた。
「歳が決断できず、総司も厭がるようなら……俺が、総司に……どんな酷いことでも言う」
冥府へ帰れと。
「それじゃあ……また、総司が泣く」
「承知の上だ」
本気の、大将の顔。
この器に惚れ、生涯……喩え一人になっても支え続けると誓ったのだ。
「あんたは……どっしりと構えていてくれと、言っただろう? 俺が必ず総司を助ける。」
嫌われ役は全て、喜んで引き受ける。
と言うより、何をされても沖田が近藤を嫌う筈がないのだから、自分が言った方が沖田の悲愴も軽減されるだろうと考えていた。
はい、と言わせるのは甚だ難しいが。
有言“即”実行、土方は沖田を捜しに出る。
それを見送る近藤は付け加えた。
「“身代わり”でいてくれた方も、早々に隊から離れてもらわねばならないな」
先生が、僕に気付いてくれていた。
僕を見ていてくれた。
充分だ。
沖田は、多摩川を思い出すような和やかな川辺で脚を伸ばす。
後ろに手を付いて空を仰ぐと、眩しげに歪めた顔に影が出来た。
「よぉ、ベソっかき」
土方が仁王立ち状態で見下ろしていた。
「土方さんには言われたくなぁい」
「俺がいつ泣いたってんだよ」とプリプリしながら隣に腰を落ち着ける。
「だから近藤さんに言われる前にやめときゃ良かったんだ」
沖田は一瞬、意味がわからなかった。
ああ。僕が、悲しがって泣いたと思ったんだ。
先生の、もう役目を終えろ、という言葉に。
ハッとして、土方の袖に縋った。
「ちがっ……違います! 僕、全然傷付いてなんかいないです! ……先生も……そう思っているんですか!?」
僕は……“強くて明るい総司”でいなければ。
また、大好きな人に疎まれてしまうのに。
でも本当の理由なんて言えるわけがない。
こんな考え方を、先生に知られたくない。
「バカ野郎……誰もお前を邪魔にしやしねぇよ」
土方は、沖田の頭を愛おしそうにクシャッと撫でた。
その言葉を慰めだと半信半疑に受け止めながら目線は、子ども扱いはやめてくださいと、イヤそうに見上げる。
「ガキん頃から他人の気ばっか窺って……見てるこっちも、結構キツかったんだぜ」
土方が目を細める。
沖田はヘラッと冗談めかして手を払い除けた。
「そんなこと、してません。土方さんの考え過ぎですよ」
「そうかよ」と土方は川の方を眺める方向で、ドサッと座り直した。
「お前が、葦原の野郎と入れ代わっちまう理由(わけ)、わかったんだ」
視線を合わせようとしたがらない土方の横顔に、沖田は見入る。
「アイツが、お前と同じことを思うと……だろ?」
当てたらどうなるんだと、思っていた。
二度と沖田は現れない。
本当に、死ぬ。
「かっちゃんの前では……そうだな、アイツ、親父みたいだとでも思ったんだろ」
沖田はずっと、近藤を父と慕ってきた。
最初の呼応は、それだった。
「おめでとうございます。正解ですよ」
沖田はピョンッと立ち上がり、砂やら草やらの付いた腰をポンポン叩いた。
「……行くのかよ」
「あなたの、お望み通りでしょう?」
相変わらずの言い様に二の句も継げずに顰めっ面をするのに対し笑っている沖田は、土方が当てられなくても葦原に躰を返す気だった。
近藤の言葉に、また救われた。
「じゃ……さようなら、土方さん」
「かっちゃんに、挨拶していかないのかよ」
土方は、あっさりし過ぎだろと、座ったまま呼び止める。
「僕は、池田屋で死にました。これ以上の我儘は、したくありません」
また泣いて困らせたくない、という気持ちもあった。
「次にお会いするときは、ヨッボヨボでしょうねぇ……土方さん?」
沖田は性悪そうに微笑みながら、パタパタ手を振る。
「うるせぇな!」
…………
「平気かよ? ……土方」
一瞬で入れ替わった。
別れを惜しむ間も、与えてくれなかった。
「お前、記憶があるのか?」
戻ってきた葦原に何の感慨の言葉も掛けず土方は頸を垂れ、地面に眼を凝らしながら訊いた。
「あ? ……ああ、ずっと見えていた」
今回が最初で最後、沖田が現れている時でも葦原には記憶が残っていた。
沖田を通して見る世界は、どうしようもない、憧れと悲哀。
健康で好きなだけ動ける頑強な躰、真っ直ぐな仲間、そして、近藤に一番に頼られる土方への憧れ。
どんなに打ち消しても、自分を卑下してやまない心の悲哀。
こちらの気がおかしくなりそうな程に伝わってきて、恐ろしく剣の立つ“ただの天才”だと羨ましくさえ思ってきた沖田が、迷子になって引く手を求める小さな子どもに見えてきた。
今でも胴にくっきりと深く傷跡が残る斬り合いをした上に親友を殺され、かつては憎んだけれど今では、ひどく近くに感じている。
「沖田は……バカだな……。テメェの“大好き”な近藤勇が、少しぐらい我を通したり、仮に剣が握れなくなったからって見捨てるわけ無ぇのに」
土方はなるべくもう、沖田のことは考えたくなかった。
残像になって消えない面影は、頭を振っても変わらない。
眼を開けても居心地悪そうに、中々普段は利かない気を遣いながら突っ立つ同じ顔の男がいるものだから土方はもう必死で感情的にならないように、得意の冷ややかな重低音で告げる。
「なら、近藤局長の言葉も聞いていただろう?」
正面に立ち、生き写しの顔を視覚だけで捉え、他の感覚は一切閉じる。
「お前は、新撰組を出ろ」
予測はついていた。
だから実際に告げられた時の気持ちも土方の表情を殺した様子も、想像通りだった。
そしてこの言葉も、用意されていたものだ。
「厭だ」
駄々ぁ捏ねるところまで一緒かよ。
碌でも無ぇことばっか似てんだな、と内心苦笑いしながら土方は続ける。
「用無しだって、言われなきゃわかんねぇか?」
葦原は土方の横にしゃがみ、荒々しく掴みかかる。
「用はあるだろ!? これからが戦だろうが! ……俺を使えよ! ちょっとやそっとじゃ死にゃしねぇよ!」
「もう、沖田総司の代わりは要らねぇんだよ」
土方は葦原の躰を突っぱねる。
「やっと新撰組から出られるんだろうが。喜んで出て行けよ」
葦原が遂に立ち上がってしまっても、土方は目線すら上げない。
「……俺が、長州に戻って……敵になってもいいってのかよ」
出来得る限りの冷たさを持ってしなければ、元々佐幕派でも無い葦原を、崩れ行く幕府の櫓に巻き込まれないよう逃がすことなどできない。
土方は
「はっ」
と息を吐いて笑った。
「屁でも無ぇな」
「……わかった」
葦原は、新撰組を去った。
自分がこれからどうなるのか。
どうしたいのか。
無理矢理に天才剣士の仮面を被せられて、こんな処は自分の居場所ではないともがいた日々。
その間求めた場所。
故郷、長州。
仲間のいる倒幕派。
……唯希。
今では、どれを思い描いてもピンと来ない。
「追ってきやしねぇし」
刀一つ……ただ早足に遠ざかる、やっと見つけた居場所。
一部始終、絵に描いたような仏頂面の土方が事情を知る者達に事務的に連絡した。
「なんや……二人とも挨拶もようせんと、いってしもたんですか」
素直に寂しがる山崎とは対照的に、斎藤は殆んど同じ意見を持ちながらも無言で部屋を出ていった。
「……見送り、ご苦労だった」
近藤は局長として土方を労う。
この後、数々の歴史的局面を経て新撰組は大坂に転陣。
葦原は未だ、京に居た。
「Wa~O! Sweet boy!」
ショボくれた葦原の神経を更に逆撫でする、嫌に陽気な異人の声が背後で聞こえた。
普通に賑わう京洛なので日本人はたくさんいたが、意味を理解できるのは葦原だけらしい。
鬼に出会したように、
「うわっ」
とでも言いたげな表情でそそくさと二人から遠ざかっていく。
その間も、異人は何がそんなに楽しいんだというくらいまだまだ揚々と、徹底的に無視されようが熱心に声を掛けてくる。
なんて可愛らしいんだとか一緒に遊ぼうとか甘い英語で口説かれて、全部意味が判ってしまうのだから葦原としてはこの一言に尽きる。
ああーウゼェッ! この腐れYankee!
「F××k off(失せろ)!」
振り返り様にポーズ付きで啖呵を切る葦原は、あっと顔色を変えた。
「ダメでスゥ! ソんなコトバー! キズツキますぅ!」
泣き真似のオーバーリアクションの異人に、葦原は途端笑い掛けた。
「レットー! おまっ! どうしたんだよっこんなところで!」
「ナギー! ヤッとキヅいタ―! pretty!」
ガバッと巨体に抱き付かれて満足に息ができない状態ながらも、葦原はバシバシデカイ背中を叩いて懐かしがった。
「のわっ! kissはヤメロって!」
危うく唇を奪われそうになるがこの男……葦原がかつて故郷で偶々会い意気投合して以来それぞれの国の言葉を教え合うなど、周囲の視線も気にせず仲睦まじく交流した男である。
眩しいくらいのゴージャスブロンドに白磁の肌、海のように深く透き通った碧眼にスラリと長い手足と、現代なら日本女性の典型的な憧れの的であろう容貌、そして基本いつでも陽気だが紳士的な一面もあり如何にもモテそうな男だが、当時では逆に“異人”の典型で、事ある毎に怖がられた。
何しろ、海の向こうの夷狄は人間を取って食う、と信じられていた時代である。
「vacationでスゥ! キョウトbeautiful!」
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高度なタメ口はやはり通じなかったらしくハハハーとニカニカ笑っているが、この外国人・レットは歴としたイギリス外交官であり、一時帰国の前の休暇を過ごしに京都を訪れたという大変な日本贔屓である。
「ナギーはナニしてたんデスか? ニンジャ? サムラーイ? ゲイシャ?」
お前わざと異人臭くしゃべってるだろとの突っ込みは敢えてする気も起きず、葦原は言った。
「新撰組……ってとこにいたんだ」
「……シンセン……Ah! “Wings”?」
「“Wings”……そう、呼ばれてるのか……」
“翼”
浅葱にダンダラの隊服を見た異人が付けた愛称だ。
「随分カッコイイ名前だな」
空にはばたく羽根のようだと例えられたことがなんだか嬉しく、半ば照れながら言った。
「ナギ、かえりタイ?」
何もかも見透かされそうな青い瞳で問い掛けられると、嘘を吐くなんてできなかった。
「……Very well.」
それから数日の間、葦原は観光案内がてらレットと行動を共にした。
そしてレットが故国へと帰る日、思わぬ未来を目の前に示されたのだ。
見送りのつもりの横浜の波止場、両手を取って真摯に誘惑された。
「ナギ、わたしとイッショに、Britainへいきマセンか?」
―…
「どうだ? わしのところに来て、世界中を船で回るッちゅうのは!」
―…
坂本龍馬の言葉を、底抜けの笑顔と共に思い出した。
途方もない夢物語だと笑っていたが、急に現実として突き付けられた。
「せっかくEnglishデキルの、ツカイなさイ」
確かにあの夢物語を熱く語る坂本を羨ましくも思ったし、英語を習いイギリス人と交流するのはとても楽しく、彼らがどんな風に生活してどんな風に感じるのか興味があった。
「“ココであったがヒャクネンメ”ゼヒイキましョウ」
って、いや、お約束の間違いすんなよ。
他の日本人が当たり前に持っている異人への恐怖が全く無い自分には、合っている道だとも思う。
ただ周りの人……親友だった翔野に付いて行き流されるのでは無く、初めて選ぶ独自の道だ。
しかし、このまま日本を離れていいのか。
「ナギーはもう、オキタソウジのfakeではありマセン」
わかってるよ……でも……。
葦原の耳にも最近の新撰組の敗走の様子は入ってきていた。
近藤が言ったように“身代わり”として“捲き込まれる”気はさらさら無い。
ただ仲間として、共に戦いたい。
「レット……やっぱ俺、新撰組に戻る」
レットはいつもの無駄なオーバーリアクションを控えて広く厚い肩を落として溜め息し、父が息子を諭すように言い聞かせた。
「“死”は、ケッシテcoolでもbeautifulでもナイですよ」
この考え方が、第二次世界大戦まで引き継がれる欧米人と日本人の大きな違いである。
死に華を咲かす……という発想は武士独特のものだ。
「わかってる。生きる為に、戦うんだ。」
この時期ちょうど伏見・大坂と敗れ続けた新撰組も江戸に引き上げていた事を知り、葦原もそれを追った。
「待て。沖田総司」
新撰組の仮屯所・品川建場茶屋釜屋に走り向かう葦原の足取りを止めたのは、聞き間違う筈もない、懐かしくも信じがたい声。
ただ長く続く土埃の道、夕闇の直前。
ハッとして振り返ると、傘を深々と被った真っ黒い着流しの男が早々に抜刀していた。
……翔野……!
生きて……生きていたのかよ!
すぐにでも駆け寄りたかった。
しかし彼が呼んだのは“沖田総司”の名である。
翔野はいっそわかりやすいくらいの仇敵を見る形相だ。
元治元年盛夏、幕府転覆の為、志の為……追放された京の町に再び寄り集った長州浪人を含む倒幕派志士が、旅籠池田屋にて会合を開いた。
肥後の宮部鼎蔵、長州の桂小五郎、松下村塾の吉田稔麿……という錚々たる顔が揃う。
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その緊迫した場の中に葦原と、幼馴染みで何をするにもくっつかせてもらった翔野がいた。
そしてその場に、新撰組が踏み込んだ。
階下に降りた葦原が沖田に斬られ、いつも慣れた仕草のように、二階に残っていた翔野も斬られた。
他の仲間に翔野は死んだと聞かされた葦原は、絶望のまま池田屋を後にしたのだ。
「その何も考えてないような面で、幾人を斬ってきた」
翔野にウザったそうに落とされた笠は、強めの風に煽られてスルスルと後退する。
「友の仇だ。貴様の首を寄越せ」
友って……俺のことかよ。
抜き身の相手と対峙しながら、鯉口を切ることすらできなかった。
なんだよこれ……俺に選べってのか……?
翔野は、沖田が死んでいることも、葦原が生きていることも知らない。
かつて自分もした発想と全く同じに、仇を討とうとしている。
ここで翔野に、違う、俺は葦原だと、今までの経緯……池田屋での傷を癒している時に新撰組副長に出会い、見た目が死んだ沖田総司に生き写しだと言われ強制的に身代わりになっていたのだと告げれば、同い年の癖に兄みたいだった翔野は
「お前、大変だったなぁ」
とか笑うだろう。
しかし。
真実を打ち明ければ、二度と新撰組には戻れない。
翔野とまた親友にはなれるだろうが、そうすれば討幕派に回るのが自然の流れだろう。
新撰組を追い出される時、苦し紛れに思い切り土方に拗ねて吐いた捨て台詞
「敵になる」
が現実になる。
葦原の目前に憎悪の剣先と、自らの行き先の二択が向けられた。
決断しろ。
殺気を以て構えられた、翔野の人柄を表すが如くの直刃を前に、躊躇する余裕も待ったを言える雰囲気も無い。
葦原柳として討幕志士に……故郷に帰るか、翔野の前で沖田総司を演じ、新撰組隊士になるか。
いや、翔野と斬り合って勝てるのか?
そして勝つと言うことはつまり、翔野を殺すことだろう?
「早く抜け。“沖田総司”が刀も抜けぬまま斬られたなどと……そこまでの恥を掻かせるつもりはない」
翔野は得意の八双に構え直し、一歩、足を滑らせる。
葦原は脇差しを抜いた。
元服時よりの愛刀・黒叡志隆を遣えば、バレる。
そう……自分が本当は葦原柳だと、バレてしまう。
脇差しでも対等にやり合える相手だなんて見縊られたと、懐かしい短気さで怒鳴りかけようとする翔野に、葦原は笑った。
「あなたが僕を斬る……? 冗談でしょう?」
言葉だけはある意味、本心だった。
自分の癖が出ないよう気を付けながら、正眼に構える。
新撰組では、大刀が折れたり刃こぼれで役に立たなくなった場合に備えて、代わりに使える程に長めの脇差しを佩いていた。
葦原もそれに倣い、今でも続けていた為十分に使える。
「遊んであげる。お兄さんからどうぞ?」
性格はまるで正反対じゃねぇか。
とは、腹立ち紛れの翔野の心境である。
京都でその姿を見掛けた時、葦原が生きていたと“錯覚”しそうになった。
しかし身に付けていたのは浅葱のダンダラと
「沖田隊長」
という隊士達の呼び声。
今は息を吸い込み、この外見を目の前にしても手加減などしないことは数年に渡り、頭の中で確認済みだ。
天然理心流を躰に叩き込んだ為、懐かしくすら思える翔野の鏡新明智流は、以前にも増して息を飲む程の見事さで、高々と挑発した筈の葦原が
「勝てる気しねぇ」
と思うのも無理はなかった。
しかし早々に決着を付けなければならない。
長期戦になって疲れが出る毎に、自分の癖が滲むからだ。
一本目は受けた。
次はない。
素早さが売りで小技を得意とする翔野は、まず小手を狙い、その腕を地に落とそうと試みる。
これは昔からの決まり技だった。
だから一度しか立ち合ったことのない……と、翔野は思っている“沖田”相手に使おうとしたのだ。
しかし相手の真の姿は、その定石を知り尽くす葦原。
鋭い金属音と共に擦り上げて、動きの続きで左肩目掛けて降り下ろした。
地に伏す翔野を見下ろして、脇差しを納めた。
既に心は、戻りたい場所にある。
「……じゃあね、さよぉならぁ」
明るい声に、少しの涙も混じりはしない。
「……まっ……待てよ!」
足元で翔野が呻く。
「やぁですよぉ」
強靭な目付きとは別に、上半身すら動かせずにいる翔野は峰打ちを喰らっていた。
「……なんで斬らねぇ!?」
それは答えられなかった。
骨折しない程度に、自分が立ち去るまでの間動けない程度に打った。
秘かにガクガクと震える手を握り締め、足を止めさせようと声を搾る親友を置き去りに葦原は走る。
その行き着く先が、決して明るくなくとも。
「うわっ! すっげぇ~!」
「つか気色悪っ!」
仮屯所にて、新撰組最後となる新入隊士募集が行われた。
日没の旧幕軍にも関わらず多くの者が集まる中、選抜を任せられた古参隊士達が騒然としていた。
注目の的は一人の入隊希望者。
その様子はすぐに副長・土方に伝わる。
「新八、あいつらは黙って目利きもできねぇのか」
部屋に入ってきた永倉に、土方は早速溜息を聞かせた。
「……葦原が、来ている」
その後はもう血相を変えて“ガラピシャ”と部屋を飛び出していった。
土方が姿を現すと、一気にその場が引き締まった。
ざわめく余裕など持てるわけなく、所々冷却された動作のように辞儀をする。
葦原だけが少し遅れ気味に一礼した。
「おはようございます“土方副長”」
土方は傍若無人にズンズンと葦原の目前に進み、地に響く声を聞かせた。
「お前……何してやがる」
周りを憚る大人振りをやっと備えた葦原は、対して声を抑える。
「……沖田総司の身代わりは死んだ。俺は葦原柳として新撰組に入る。これなら文句無ぇだろう」
これから続く激戦と敗走の遍歴。
どこに行こうと、どうなろうと……その背中を守り抜き、離れはしない。
そう、自分と同じ顔をした男に誓ったんだ。
お前の代わり、いやそれ以上に支えてみせると。
本当の新撰組隊士としての道は、呆れ気味に嘆息しながらも密かに微笑む、この言葉から始まった。
「……ったく……マジでバカだな」
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【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
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