プリンスの魔術師は出来損ない

春羅

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第二章 戦禍と地動

戦禍と地動

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 きっかけはサラエボ事件。セルビア人による、オーストリア皇太子夫妻の暗殺です。

 オーストリアがセルビアに宣戦布告した後次々と諸外国も参戦し、世界総力戦となった戦争は四年もの間続きましたが、そのうち日本が参戦したのは終戦間際の頃です。

 大正三年七月の開戦後、戦車や戦闘機や潜水艦が戦場に現れ、毒ガスによる攻撃も行われるなど、多くの新兵器が登場し、今までは武士や騎士、軍人によるものだった戦争が、国民すべてを巻き込むものに変わったのです。

 イギリスとの同盟を理由に参戦を決めた日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの植民地であった中国の青島に攻め込み勝利、海軍はドイツ領諸島を占領する為に太平洋へと進出しました。

 その後、連合国軍にヨーロッパへの派兵を要求され、護衛や救助活動などに大活躍し、戦勝国として列強五大国の一員となりました。

 歴史の教科書とかにざっとあらすじ程度を載せるとしたら、こんな感じでしょうか。

 日本は勝ち、もう閉ざされた小さな島国ではない、世界と肩を並べてやり合える大国なのだと胸を張りますけど、この世界戦争が後に第一次世界大戦と呼ばれるのが表す通り、第二次世界大戦の切っ掛けとなったのです。

 そしてこの戦争は、水無月家にも大きな悲しみを残したのでした。

 修一郎さんが、帰らなかったのです。

 エナさんの帰国より随分前に、訃報は届いていました。もう葬送も済んでいましたが、やはりエナさんのお顔を見たら修一郎さんを思い出して、もうお会いすることもできないのだとまた深い喪失感に包まれるのでした。

 邸中皆さんが、同じ気持ちだったと思います。

 お出迎えの時には茉莉さんが駆け寄って、お二人で抱き合いながら、茉莉さんは切なくて耳を塞ぎたくなるような声を上げて泣きました。

 でもエナさんは、ずっとその背を撫でたまま、嗚咽どころか一筋の涙も流さずにいました。

 いつも無表情な冷たいひとだからじゃない、お兄さんだから妹さんの前で泣けない、当主さんだから、皆さんの前で泣けないのですよね。

 勝手にもぼくは、そう思いました。

 またすぐに支度して軍議に出掛けるとのことでしたので、当然護衛としてお連れくださるのでしたら馬車の中でお話できるのですが、ぼくはおとなしく待っていることなんてできずに、エナさんのお部屋をノックしました。

「来ると思っていた。おいで」

 って、まだ名乗っていないのですが。まぁ、お言葉に甘えますけど。

「……ぼくじゃないかもしれないですよ」

 カチャリと軽く音を立ててそっとドアから覗くと、さっきまで着ていた焦茶色の軍服から白い軍服に着替えていました。どちらもとってもお似合いです。

「メオのノックは弾むような奇妙なリズムだからな。すぐにわかる」

 そうでしょうか? 全然無意識だったので、なんとなく恥ずかしいです。

「おかえりなさいませ。大勝と無事のご帰還、おめでとうございます」

 さっき、皆さんと声を揃えて言った言葉を、改めてもう一度言いました。

 もう幾度も泣いて泣いて、涙は枯れてしまったのかと思ったのですが、エナさんが帰って来てくれて本当に嬉しいのに、修一郎さんのことも、同じようにお迎えしたかったとどうしても考えてしまい、また涙が湧いてくるんです。

 出逢ってから一年にも満たないぼくですけど、それでも修一郎さんの笑顔と優しさに何度も癒されて、救われていました。ましてや大事な弟さんを亡くしたエナさんのお気持ちはどれ程でしょう。

 いけない。エナさんは戦地では上官さんや部下さんの手前、お邸でも立場上わんわん泣いたりできない筈だから、ぼくがほんの少しでも慰めることができたらと思って来たのに、自分が泣いてしまってはまたエナさんは我慢しちゃいますよね。

 泣きやめ! 涙止まれ止まれ!

 俯いて眼をゴシゴシ擦っていると両腕で包まれて、ひととき息をするのを忘れてしまいました。

「男達は皆、出払っていたからな。メオが居てくれて心強かった。礼を言う」

 ぼくへのお気遣いなんていいんです。実際、何度か妖怪は現れましたけど、たいして苦戦なんてしてませんので。

 こんな風に優しくされると、また泣いてしまいます。

 どこかでまだ、信じ切れていなかったのかもしれません。でもエナさんと一緒に帰って来てくれませんでしたから。突き付けられた現実を思うと、やっぱり涙が止まりません。

「メオ、全く背丈が伸びていないな」

 っそんな、頭を撫でながら言わないでください!

「ひとこと余計すぎませんか!?」

 前にもこんなことを言いましたね。あの時は、修一郎さんも一緒に怒ってくれました。お顔は笑いを堪えてましたけど。

「……よく、できた弟だった。聡明で穏やかで、私と違い、誰にでも朗らかで優しく、誰からも好かれる。当主には修一郎の方が向いているのではと、悩んだことさえあった。そんな私の心を知っていたのか、いつでも私を立て、影のように支えてくれていた」

 手を伸ばして、エナさんの背中をポンポンと撫でました。

 ぼくはあなたの家族でも部下でもないですから、ぼくの前では泣いても大丈夫ですよ、と伝えようとしたつもりでした。少しだけ、気のせいかもしれませんが、背中が震えていました。




 
 完全にぼくの力不足なんですけど、未だに茉莉さんには嫌われたままで、前に言われていた通り、ぼくを追い出したくて堪らないのだと思います。

 戦時中とはいえなんとか仲直りするとか努力できなかったのか、と自分でも思いますが、言い訳させていただくと、ぼくはずっとこのお邸にいてたまに現れる妖怪を討伐していたのですが、茉莉さんは大嫌いなぼくを避ける為か、東京を離れて別荘に移っていたんです。

 なので先日久しぶりにお会いして、まだいたの? なんて睨まれてしまいました。

 ぼくの祖母の犯した罪については、やっぱりこのまま知らんぷりはできません。と、ぼくは思っているのですが、戦争で有耶無耶になってしまい、肝心のエナさんがぼくを気遣ってか本当にどうでもいいと考えているのか微妙ですが、何も気にしていない風なので、どうしたらいいのかわからずにいました。

 そんなことをモヤモヤ悩んでいる時に、またさらにぼくの心を揺さぶるようなお話を聞いてしまいました。

 藤川公爵家さんが、エナさんとの婚約を解消したいとの申し出で、彩羽さんの希望だというのです。

 理由は、彩羽さんの持病の悪化だそうです。戦争から無事帰還されたので、晴れてご成婚か、という噂のほうを先に聞いていたのですが、その矢先のことでした。

 このまま嫁いでも公爵夫人としての役目を全うできないでしょうと、涙ながらの御辞退だそうです。

 ぼくは……複雑な気持ちでした。

 自分でもなんて表現したらいいかわからなくて、とにかく複雑としか言いようがありません。

 戦地にエナさんが行ってしまい、いつ帰って来るのだろう、無事だろうか、おケガはしていないか、病気をしていないか、戦地から届く様々なニュースに一喜一憂しながら、それでも決して会えない状況で過ごしているからこそ、何度も何度も、気持ちを自覚しました。

 この分不相応で、疚しくて浅ましい想いを。

 けれど、容貌も身分も非の打ちどころのない一ミリも勝ち目のない女性との婚約が白紙となっても、手放しで喜ぶ気になんて全くなれないのです。イイコぶっているわけじゃありません。

 だってそれをきっかけに、数多の女性からのご家族ぐるみの猛アプローチが始まったんです。

 それはそうですよね。

 名門水無月公爵家の若き当主かつ、容姿端麗、頭脳明晰で、大勝利した戦争では指揮官として活躍、特別な恋人さんもいないのですから、笑顔を見せない冷徹な氷のプリンスだなんて評判は些末なことですよね。

 毎日のように何通もラブレターが届きます。え、エナさんですか? もちろん想定通りの無反応ですよ。

 というか、おモテになりますねーとか声を掛けてみたんですけど、むしろ睨まれたくらいです。

 イジ、享楽的な柏葉公爵のことですから、この状況をおもしろがってか、また舞踏会のお誘いがありました。

 前の舞踏会は、エナさん同様に完璧な彩羽さんに遠慮してでしょうがエナさんの周りは穏やかでしたが、今回はダンスの申し込み合戦で血を見るような惨状となるのは火を見るよりも明らかです。

 これも予想通りですが、また招待状にはぼくの名前も載っていて、また悩まされるところだったのですが、その前にもうひとつ、ありがたくも緊張するお誘いがあったのです。

 彩羽さんにお茶のお誘いをいただきました。

 別れ際に、今度ゆっくりお話ししましょうと声を掛けてくれていましたが、社交辞令でもぼくなんかに優しいな、としか受け止めていなかったので、本当にお誘いいただけるなんてびっくりです。

 あまりにも柔らかい雰囲気の素敵な女性ですから、図々しくも仲良くなりたいなと思っていましたので、一も二もなく行きますと即答、したいところですが、ぼくは曲がりなりにもエナさんの専属魔術師ですので、なんとなく気まずいですがエナさんの許可がなくては決められません。

 なんだかいつも当たり前のように一緒に乗せていただいているけど、本当にいいのかなと今更ながらに不安になる馬車の中で訊いてみました。

「彩羽が? ああ、行くと良い」

 彩羽! 呼び捨て! 

 って、一瞬白目で時が止まったのですが、何をこんなことでショックを受けているのでしょう。当たり前ですよね、二人は元婚約者なんですから。

 護衛のことなら気にするな、普段より多くしておく、とか続けてくださったのですが、しばし顔の筋肉が固まってしまいました。





 藤川公爵家は、同じ豪邸でも水無月公爵家とは全然違う、純和風のお邸です。

 武家屋敷のような大きな門を潜ると、大きな池が中心にある庭園が広がり、三つ浮いている小島と小島には小さな架け橋が掛かっていて、梅や桃や牡丹など、淡いピンクの花々が可愛らしく咲いています。

 まずはちょっとだけ安心しました。ドレスもワンピ―スも持っていませんので、紅椿柄の振袖を着て来たのです。

 あ、袴は穿いていませんし、レイピアも担いでません。ぼくがレイピアを遣うのはエナさんをお守りする時だけですからね。

「ごきげんよう。うふふ、かわいらしい」

「お招きありがとうございます!」

 彩羽さんは真っ白のワンピースが肌の白さにピッタリで、とってもよくお似合いです。

 ぼくが気軽に話せるようにとのお気遣いか、お邸とは少し離れた場所にある茶室で、まずは彩羽さん自らお茶を点ててくれました。

 言わずもがな、ぼくはお茶のお作法なんてさっぱりわからないのですが、彩羽さんはふわりと、

「お作法なんて気にしなくてもいいのよー。いろはしかいないのですから。おいしく召し上がってもらえたら充分よ」

なんて笑ってくれました。

 ひとくちいただくと、ほんのり苦みのあるまろやかな味で、とても幸せな気持ちになりました。抹茶ってただ苦いものみたいなイメージがあったのに、こんなにおいしいものだったなんて。それとも、彩羽さんの点て方がとっても上手だからでしょうか。

 ぼくはすぐに顔に出てしまうので、彩羽さんはにこにこと、お菓子を勧めてくれました。

 なんて細かい手作業でしょうと目を見張るような、小さく色とりどりのお花に丸く覆われたお菓子で、崩すのが勿体ないですけどちょっとだけ口に入れると中にはみっちりと餡子が入っていて、甘さが絶妙です。

 本当に、優しくて素敵な女性です。彩羽さんがエナさんの奥様になっていたら、ぼくは喜んで一緒にお守りしたのに。なんて、がっかりさえしました。

 強がりじゃありませんよ。だって、エナさんは公爵さまですから。周知の事実ですが、必ずどこかのお嬢様と結婚します。それはお家同士の繋がりや繁栄、社交など様々なことを考えれば当然です。

 いつか近い未来に、必ず他の女性と結ばれてしまうのなら、ぼくも迷わず命を懸けてお守りできるような女性がいいな、なんて思ってしまって、ぼくとしたことがつい溜め息を吐いてしまいました。

「あら、どうかして?」

「ご、ごめんなさい!」

 こんなに良くしていただいているのに最悪だ。ぼくはいつでもバカ正直すぎる自分を恨めしく思いました。

「今日はとっておきの内緒話をしましょ。いろはに聞かせて?」

 さり気ない上目遣いで、胸の前で両手を合わせる様子は何でも言うことを聞きたくなります。

「……ぼくは、エナさんの専属魔術師ですから。エナさんのご家族も一緒にお守りするつもりです。彩羽さんのような女性が奥様なら喜んでお仕えするのにって……ごめんなさい、こんなことを」

 だから打ち明けてしまいましたが、彩羽さんだって、エナさんを嫌って婚約解消したわけじゃないのに。病気のせい……一番つらいのは彩羽さんなのに、たかが護衛がこんなことを勝手に望むなんて図々しいにも程があります。

 エナさんも彩羽さんも柏葉さんもそして修一郎さんも、本来は雲の上の方々なのに、家族とかお友達みたいに接してくださるから、こんな身の程知らずな希望まで持ってしまいます。

「うふふ。ありがとう、嬉しいわ。……いろはも、芽央さんに伝えたいことがあるの」

 約束通り、ゆっくりお話しする機会を作ってくれたのは、この為かもしれないと後から思いました。

「いろはね、恵那さんのこと大好きよ。でもね、恋をしたのは修一郎さんだったの」

 真正面に正座する彩羽さんは、その名を口にするだけで、涙を一筋流しました。お顔は変わらず微笑んでいましたけど。

「華族の娘なんて、見ず知らずの男性に突然嫁がされること、よくあるのよ。でも、いろはは幼馴染で仲良しで、あんなに素敵な恵那さんのお嫁さんになれるのですから幸せって思っていたわ。それに、他の男性のところに片付けられてしまったら、修一郎さんと会うことさえできないもの」

 白いレースのハンカチで目許を押さえながら、それでも微笑みは崩れません。優しいだけじゃない、なんて強い女性だろう。

「けれど永遠に会えなくなってしまうのなら、想いだけでも届けておけば良かったわ。お返事なんてわかっているけれど、この気持ちを知っていてほしかったの」

 相思相愛だったとしても、あの修一郎さんが公爵たる兄の婚約者を奪うわけがない、それはぼくだってわかります。

 でも、結果はどうあれ、想いをまるで無かったみたいに、心に留め続けるのは苦し過ぎます。ぼくはきっと、その道しか選べないけれど。

「いろはの身体が快くならないのは本当よ。でも、これからの限りある人生は、修一郎さんのお弔いに使いたいわ」

 しばらく後に、彩羽さんは出家します。尼さまになって、きっとお祈りは想いは、修一郎さんに届くはずです。

「……いろはの言いたいこと、わかるかしら?」

 ハンカチを膝に置いて、彩羽さんはワントーンくらい声を低くしました。怒られているとかじゃないですけど、胸元がヒュッと寒くなりました。

「芽央さんは、ちゃんと伝えてね。毎日当たり前のように会えるひとと、明日もまた会えるなんて保証、どこにもないのよ」

 戦争で、痛感したはずでした。

 この空の下のどこかで生きていてくれると、ただ信じているだけで、泣こうが喚こうが、一目でさえも姿を見ることすらできなかった日々。

 お邸に戻れば、お部屋に行けば会うことができて、明日も朝から一緒にいられることは、当たり前なんかじゃない、奇跡みたいに大切な瞬間の連続なんですよね。

「龍臣さんの舞踏会、招待されているのでしょう?」

 またいつもの囀りみたいな声で首を傾げます。あ、前にたっちゃん呼びを拒否しましたが、龍臣さんって柏葉公爵ですよね。

 はい。ですが、また護衛としてお供するつもりです。と、答えようとしたのですが。

「いろはのドレス、着て行ってくださらない? また倒れても、修一郎さんに送っていただけないもの、いろはは欠席しようと思っているの。もう社交界に出ることもないつもりなのだけれど、この前仕立てたばかりのドレスがあるのよ。袖も通さずに眠らせてしまうのは可哀想でしょう?」

 緩やかな口調ながら、反論する余地もなく言われてしまいました。

 なんだか、話の流れ的に薄々気付いてましたが、もしかして、彩羽さんにバレてます? 舞踏会に着ていくドレスなんてないことも、そしてぼくの気持ちまで。

 ひぃい! 恥ずかし過ぎる! こんなチンチクリンなチビで、平民どころか魔力皆無の魔術師とかいう最下層のガキンチョが、身の程知らずに公爵さまに恋なんて!

「えっ、えっと、」

「龍臣さんも喜ぶわよ?」

「そっちじゃありま、」

「うふふ、やっぱりね」

 ひぃいいいい! バカバカ!

 もう、彩羽さんおひとりに知られてしまうだけでこんなに恥ずかしいのに……彩羽さんのお話は充分過ぎるくらいに身に沁みたのですけど、打ち明けるなんてやっぱり一生できない気がします。

 彩羽さんのドレスなら、裾はお引きずり状態、胸はガバガバかもとか冷静な心配はすぐには思いつかず、余裕で微笑む美しいお顔の前で、ただあたふたするしかできませんでした。





 いざ舞踏会に出掛けようという時、たまには遠慮したほうがいいのかもと思ったりもしますけど、また一緒に馬車に乗せてもらうことになっています。

 気持ちが良いくらい少しひんやりとした空気で、ここ数日天気がいいので夕焼けがとっても綺麗です。

 彩羽さんのせっかくのお気持ちに甘えてドレスをお借りして、着方も教えていただいたんですけど、招待客として参加するつもりにはなれませんし、エナさんの護衛を疎かにはできません。ものすごい組み合わせですが、いつも通りレイピアを背負っています。

 胸元パックリじゃなくて心底ホッとしたのですが、鹿鳴館で流行したバッスルスタイルの後のアールヌーヴォースタイルというらしく、首元や手首、腰がキュッとしまっていて、肩の袖がふんわりと盛り上がり、裾がベルみたいに広がっている、サーモンピンクを基調としたドレスです。つばが狭く、ふわりとリボンがついた帽子までお借りしました。

 なんとなく恥ずかしくて、ドレスを着ることはエナさんに伝えずにいました。いつもお出掛け前にはそうしているように馬車の前で待機していると、家令の山岡さんの珍しい大きめの声がしました。

「おやおや芽央さん! なんて愛らしい!」

「ありがとうございます!」

と、お辞儀しながらも、お隣のエナさんが何も言ってくれないのが気になります。

 褒められるのを期待するなんて、図々しいにも程がありますよね。どうせ、

「馬子にも衣装、ですか?」

って、また思われてるに決まってます。

「……いや、」

 え、まさかの、憎まれ口すら返してくれないのですが。

 でも、いつも馬車に乗る時は御者さんが手を貸してくれるのですが、今夜は恐縮にもエナさんが手を繋いでくれました。けど、馬車の中ではずっと無言で、ぼくも緊張していたのであまりベラベラお話しする気になれないまま着いてしまいました。

 もしかして、ただの護衛の分際で、って思われているのかも……って考えたら泣きそうです。

「私から離れるな」

 はい、こんな格好でもあなたの専属魔術師なので離れません。

 また馬車を降りる時にも手を繋いでもらいながら念を押されて、すぐに返事をしかけたのですが、待ち伏せしてたんですかのタイミングで柏葉さんの盛大な歓迎を受けました。

「芽央ちゃん、すっごく可愛いよ! やっと俺のお嫁さんに来てくれる気になった?」

 すぐからかうんですから。婚約者さんともうすぐご結婚されるって有名な噂ですよ。

「柏葉、私の同伴者に妙なことを言うな」

『えっ』

 前にも柏葉さんと声が揃ってしまったことがあるんですけど……ええと、もしかして女性避けですか?

 柏葉さんがそうなるだろうと期待しておもしろがっているように、今夜の舞踏会ではたくさんの女性達が血眼でエナさんにアプローチをするはずです。

 数多のラブレターへの対応を見ると、エナさんって女好きという印象が全然ないので、言い寄られまくるのを防ぐ為に、ぼくをエスコートしてくれるつもりでしょうか。

 せっかくのお役目に申し訳ないのですが、ぼくでは効果半減いえ、三分の一にも満たないですよ、きっと。

 だって、エナさんを射止めようとしている女性達はぼくが単なる護衛だってご存知のかたも多いでしょうし、知らないとしてもこんなチンチクリンがエナさんの側にいるからって遠慮しようとか思いませんよ。このドレスの持ち主の彩羽さんならともかく。

 女性からも妖怪からもお守りしますって言えたらいいのに。

 ぼくはエナさんに促されるままに腕に手を添えて、会場に入りました。

 二回目とはいえ全然慣れません。前はひとりでちょこまかとお菓子を摘まんだりしていて、声を掛けられることもなく紛れ込んでいたのですが、今回は一気に会場中の視線が集まるのを妖怪の殺気以上にビシビシ、痛いくらいに感じます。

 もちろん理由は言わずもがなのエナさんです。

 エナさんへの熱い視線と、ぼくへの冷たい視線が入り混じっていて、もう、入場数秒で目が回りそうです。

「言い忘れていた」

 ぼくとは反対に、そんな状況なんてまるで無視で、少し顔を傾けます。内緒話をするみたいに、耳許に近付かれて

「美しい。よく似合っている」

と囁かれたので、なんというか、ぼくのこと、卒倒でもさせるおつもりでしょうか。

「……っエナさんまで、からかわないでください」

 あ、やっぱり笑ってますよね? 気のせいじゃないと思うんですけど。ぼく以外のひとでエナさんが笑っているのを見たとは聞いたことがありませんが。

 修一郎さんが教えてくれた、スイがエナさんに掛けた呪い……笑顔を奪う呪いと聞いていましたけど、本当にそうなのでしょうか。

 魔術師が掛けた呪いは、その魔術師よりも強い魔力を持つ魔術師でなければ解くことができません。

 だからこそ、ぼくは絶対に魔力が欲しいですし、その為に全力を尽くすつもりです。

 だからこそ、ただこうしてお話をしているだけで、相変わらず魔力皆無のぼくが、特に意識してさぁこれから呪いを解くぞと意気込んでも、魔術師の杖に憧れて、その代わりのつもりのレイピアを振るうでもなくエナさんの“笑顔かも?”という表情を見ることができるなんて変なんですよね。

 あ、レイピアが杖の代わりなんておかしいですか? だって細長い形が似ているじゃないですか。

 もしかして、呪いは他のものなのではないでしょうか? 修一郎さんが嘘を言ったなんて考えられないので、本当の呪いが何なのか、誰も知らないのではないでしょうか?

 それにしてはエナさんが滅多に笑わないのは、やっぱりエナさんご本人がものすごく気難しいから、ということになってしまいますが。

 途中から参加していますので今が何曲目かはわかりませんが、次の曲が始まると、エナさんを遠巻きにチラチラ見ていた女性達の中から我こそはというかた達三人がこちらへ向かって来ます。

 近付くに従って、ぼくへの視線から、何あの小さいの、なんであんなのが一緒にいるわけ? という声が聞こえて来そうな気がしました。

 に、逃げたい……妖怪なんかよりよっぽど恐い……。

「こんばんは。鏡野侯爵家の紗織と申します。一曲お相手お願いできますか?」

 護衛なら少し離れていようが同じ広間の中に居れば充分ですよね、どうやってここから離れようかな、とか考えていたので他のお二人のご挨拶は全然覚えていません。

 すすすーっとドサクサに紛れて遠ざかればいいのにと思われるかも知れませんが、組んでいる腕から手を離そうとしたらエナさんに不思議そうに見られてしまって、いけないことをしているような気になったんですよね。

 よく考えればそうですよね、護衛なんですから、断りもなしに勝手に離れてはいけませんよね。でも、ぼくがくっついていたら踊りたくても踊れませんし。

 それにしても、日本女性も随分積極的になりましたね。と、いうより舞踏会そのものに慣れてきたのかもしれませんね。

「あの、壁際で待機してますね。なにかあればすぐに参ります」

 全部言わせてもらえていたら、こういう台詞を言うつもりでした。

「申し訳ないが、パートナーは決まっている」

 途中で遮られてしまいました。

「へっ!? エナさんっ!」

 女性達ものすごい怒ってますし、周りで様子を窺っていた女性達も波打つような勢いで囁き合ってます。そしてしっかり一部始終を見ていたらしい柏葉さんはひとりで大笑いしてるんですけど。

 それらを聞くつもりは端からないように、ぼくと腕を組んだままスタコラと会場を出て、柏葉公爵家独特の和洋折衷のお庭に戻りました。

 薔薇のアーチまで来たところで、ぼくは堪え切れず勢い任せに手を離しました。

「ちょっとエナさん! もうっ冗談はやめてください!」

 エナさんも柏葉さんも、からかってばっかりなんですから。お二人はおもしろいかもしれませんけど、ぼくはただでさえ生まれながらの憎まれっ子なのに、これ以上たくさんのひとに嫌われたくないですよ。

 だいたい、エナさんは新しいお相手を探さなければならない大事な舞踏会なんですから。

「冗談? 私は冗談を好まぬが」

 知ってますけど! だからなんであんなこと言うんですか!

「メオ、私は、」

 柏葉公爵邸の屋根、というには大き過ぎる気がしますが二階の天井部分で爆発音がしました。

 崩れたドーム状の屋根を見上げると、一本歯の下駄に赤ら顔に黒い翼、そして長い鼻が有名な妖怪とも神とも言われる姿が羽団扇を掲げています。

「天狗だ!」

「閣下、お逃げください!」

 舞踏会は華族さまがたくさん集まる場所なので、専属魔術師もたくさん集まっていますが、それでも二の足を踏んでしまうような相手です。

 それも、華族さまでも専属魔術師が付くのは御当主だけです。御令嬢や奥様も集まるこの場所では、魔術師によっては普段の仕事量の倍にも三倍にもなるでしょう。

 のんびりしている場合じゃないですね。

 他にも魔術師がいる時ならぼくはエナさんを守ることにのみ専念していることが多いのですが、そうもいきません。それに、未だに専属魔術師がいない柏葉さんもいますし、ここに現れるということは、狙いは柏葉さんかもしれません。

 ぼくは身を屈めて背中からレイピアを抜きます。

「エナさん、最速で終わらせますので、待っててくださいね」

 いつもはなるべく、エナさんから離れたりしないのに。

 驕りと慢心ですね。ここにいる誰よりも強いのはぼくです、だからぼくがやらなきゃって、勝手に意気込んでしまっていました。つまり、天狗になっていたんですね。

 ぼくは言うが早いか屋根に向かって飛んだり駆けたりして、斬りやすそうな長い鼻を狙って一振りしました。このくらいの攻撃、避けられるのは想定内です。天狗は重心を後ろにして愉快そうに笑います。

「なんだ、わらわが相手か」

 天狗は言葉が話せるっていう噂、本当だったんですね。

「よろしくおねがいしまぁす」

 ドレスの両端を少し摘まんで膝をチョコンと曲げました。あ、借り物のドレスなの忘れかけてました! 絶対汚せないじゃないですか。

「水無月公爵家の専属魔術師だ!」

「援護しろ!」

 下にいる他家の魔術師さん達が様々趣向を凝らして遠距離魔術を放ってくれています。

 嬉しい……こんな風に誰かに、それも魔術師の皆さんに認められて、協力してもらえる日が来るなんて。

 飛び交う攻撃の数々をヒラリヒラリと避けつつ、ぼくが連続して振るうレイピアも羽団扇で往なされます。

「ダンスがお上手ですねっ」

 下駄目掛けて足払いをした瞬間、天狗は大きく飛び上がりました。

 しまった! って慌ててる場合じゃありません。

 ぼくも飛び降りながら、背を向けた黒い翼を斬りつけました。ぼくが水無月家の魔術師だとわかってるから、下にいるエナさんを狙ったのだと思います。でもぼくは、エナさんをお守りする時が一番速いんです。

 イジワルにはイジワルを。片翼を奪うまでにはいきませんでしたが、かなりたくさんの羽根が一気に散りました。バランスを崩しながらも一応まだ宙に浮いてはいます。

 ぼくは羽根なんてないのでカッコつけて落ちるだけです。そのまま片足屈伸みたいな姿勢で着地しました。

「小娘が調子に乗りおるわ」

 呼び方が昇格してる気がしますが、ものすごく怒ってますね。

 でもここまで来てくれたら後は他の魔術師さん達の攻撃も充分届きますし、こっちのものです。幸い、ぼくに怒ってくれてるのでオトリになれます。

「オジサマ、一曲お相手いただけますか?」

 右手を差し出してニッコリ微笑むと、天狗オジサマは正面からぼくに太刀を振るってくれました。

 待ってましたでレイピアで受け留め、鍔迫り合いになります。

「今です皆さん!」

 ここで、ぼくの記憶は途絶えます。エナさんの呼び声が聞こえたような気がしますが、自分に都合の良い夢かもしれません。

 この後、他の魔術師さん達の一斉攻撃で天狗は討伐することができたのですが、わかってはいましたけどぼくにも流れ弾的なものは当たりますので、倒れてしまったんですよね。

 ちゃんと魔力がある魔術師なら回避できるのでしょうし、皆さんもまさかぼくが魔力皆無なんて知りませんからね、手加減されてしまっては勝てない強敵でしたからぼくは全然構わないんですけど、思いっきり攻撃受けてしまいました。

 うーん……さすがにバレてしまったかもしれませんね、魔力がないこと。

 エナさんをお守りする為に、見縊られてしまっては困るんですけど。

 え? 今ですか?

 三日間眠ったままだったらしく、眼を醒ましたベッドの横にエナさんが座っていたので、また気絶しそうになったところです。

「え、エナさん……あの、お仕事は、」

 少し上げかけた半身を抱きしめられて、胸のなかに声が篭りました。

 自分の力を過信して突っ込んで行って無茶をしたこと、エナさんから離れて危険に晒してしまったこと、魔力がないのがバレるような悪目立ちをしたこと、怒られるかと思いました。

 でもエナさんは何も言わず、髪を撫でてくれました。しばらくしてハッとしたようにまた優しく寝かせてくれたので、ぼくは初めて感じる幸せな気持ちでいっぱいになって、眼にどんどん涙が溜まってしまいました。

 あの時、天狗を倒さなきゃ、エナさんはもちろん、ここにいる皆さんを守らなきゃって夢中でしたけど、一瞬だけ、死んでしまうかもって思いました。

 専属魔術師の責務は、命懸けで華族さまを護衛すること。けれど命懸けなんて、易々と言葉にするものじゃありません。

 二度と、会えなくなってしまう。そうしたら、広い背に手を触れることも、こうして涙を掬ってもらうことも叶いませんでした。

「このまま起きなかったらと……生きた心地がしなかった」

 誰よりも大切なひとに、こんなに心配をかけてしまうなんて。

「……ごめんなさい」

「謝ることではない」

 寝ているぼくに前屈みになっているので、お顔が近いです。この距離で見間違うわけありません。やっぱり笑ってますよね、エナさん。

 ぼくの前髪をふわりと梳かしてから、ベッドの隣のスツールに座りました。ずっと、ここに居てくれたのでしょうか。

「……メオ、専属魔術師の任を解く」

 ぼくは、力一杯自分の両頬を叩きました。

「こら、なにを、」

 二回目は、エナさんに両手首を掴まれて阻まれました。

 でも一回で充分痛いのはわかります。夢ではないんですね。

「い、イヤです……ぼく、もっと、もっと強くなります……二度とエナさんに危険な想いをさせてしまったり、心配されてしまわないように、がんばります……」

 涙が止まらなくて、今だって心配そうなお顔をさせてしまっているけれど。

「だから、お願いです……ッぼくのこと、追い出さないで、」

 ここから追い出されたら、どこにも行く場所がないからとか、そんな理由じゃないんです。

 ずっと一緒にいたい、あなたをずっと守りたい。

 途中で言葉を止めたのは、この気持ちが偽りだからじゃありません。

 額にキスされたからです。

 手首を掴まれていなかったら、また自分の頬を叩いていたところです。

「もう決めたことだ」

 ズルいです。そんな、聞き分けがない子どもにするみたいに。

 そんな風にしないでください。ぼくの早鐘ばかりが口から出そうなくらい苦しいです。

 そのくせ、また優しく頭を撫でてから部屋を出てしまうなんて。

 エナさんはこれからお仕事に行くのだと思います。それならぼくが護衛として付いて行かなければならないのに、ほぼ入れ替わりで執事の佐々木さんが、まだ休んでいるようにと何かあったら呼ぶようにと言い残してドアの外側に出て行きました。

 たぶんぼくは嫌われているので、こうおとなしくしていても苦々しい顔でしたけど、見張り、ですよね。エナさんは、勝手にぼくが出て行ったりしたら佐々木さんが怒られてしまうから出られないだろうと踏んでいるのでしょうけど、狙い通りです。

 あのキスは、ぼくを黙らせる為と、お別れのキス……だったのでしょうか。

 どれだけ悩んでも、誰かに相談なんてできません。お見舞いと言って来てくださった柏葉さんは一部のみご存知でしたけど。

「恵那の魔術師やめるんだって?」

「……なんで」

 知ってるんですか。もう決定事項だということ、エナさんにも言われてしまいましたが、改めて聞くとまた泣きたくないのに視界がぼやけてしまいます。

「さっき山岡に聞いたよー。あーあー、泣かないでー?」

 どこをどうケガしたのかあまりわかってないのですが、とにかく身体中がバキバキに痛いですけど寝てばかりもいられません。エナさんの何倍かの勢いで頭をくしゃくしゃと撫でられました。子どもにするのを通り越して、ペットにでもするみたい。

柏葉家うちにおいでー。俺の魔術師になればいいよー」

 生まれつきの落ちこぼれのぼくは、どこへも行くあてなんてないんです。それが悲しいわけじゃないんです。それにニコニコ笑いかけてくれる柏葉さんも、きっとがっかりします。

「……ぼく本当は、魔力なんてないんです」

 前に言われましたね。メオは他家に誘われても、バカ正直に魔力がないことを打ち明けるだろうと。だってどうせ後から知られること、騙しておいて後から恨まれる方がツラいです。

「だから? 関係なくない? あれだけ強いんだし」

 ずっと、そう思われたくて認められたくてがんばってきました。

 魔力がなくても専属魔術師になれる、大切なひとを守ることはできるって。

「俺も身を固めたことだし、もうお嫁にきてとかは言わないから、安心しておいで」

 水無月家を出ても、実家には帰れません。厄介払いで出されたようなものですから。柏葉さんなら前から知っているひとですし、こうして優しくしてくれますし。たまにはエナさんの姿を見ることもできるかもしれません。

 大きなかまぼこみたいな形の窓枠から、夕方の暖かい日差しが橙色を床に落としています。

 そろそろ馬車ではなくて自動車に乗り換えると聞きました。

 より速く便利にはなりますけど、僅かな揺れとゆっくりと流れる景色が好きでしたから、なんだか寂しいです。

「……ありがとうございます、柏葉さん」

「油断も隙も無いな」

 驚きすぎて、反射的に言う筈のおかえりなさいませが喉奥に引っ込んで飲み込みました。

「恵那おかえりーって、顔すごい怖いよ」

 柏葉さんお得意の冗談ではなく、本当に怖いです。

「メオは渡さぬと言った筈だ」

「でも専属魔術師やめさせちゃうんでしょ? 家内がさー、護衛がいないのは心細いって言うんだよねー」

 やっぱりぼくは、柏葉家に行った方がいいのかもしれません。奥様が不安がるのは当然です。天狗の襲撃を受けたばかりですから。

 彩羽さんの言葉を思い出します。明日も同じように、会えるとは限らない。それは生きていても同じことですね。

「それともさ、護衛をやめさせても、芽央ちゃんはどこへもやらないってこと?」

 お二人が喧嘩を始めてしまうのではないかという一触即発の険悪なムードでしたが、柏葉さんは小憎らしくニヤリと笑います。

「えっ? そうなんですか?」

 そうだとも違うともエナさんは言ってくれません。柏葉さんは相変わらずニヤニヤしています。

「恵那は、言葉が足りなすぎ。ただでさえ顔に出ないんだから、ハッキリ言わないと」

 柏葉さんは言いにくいことハッキリ言いすぎな気もしますけど、エナさんはというと怒りもしないでまだ黙っています。明け透けに物を言う柏葉さんと、それに怒りもしないエナさん……以前からこの様子なので、お二人って仲が良いんですね。

「んじゃ、モリモリ食べて早く元気になるんだよー」

 お見舞いに持って来て下さった見たこともない高級そうなフルーツが盛り合わせになっている籠を指差して颯爽と出て行ってしまいますけど、何だかんだいいひとですよね柏葉さんって。

 エナさんは疲れたような溜め息を吐きながら、さっきまで柏葉さんが座っていたスツールに腰を降ろしました。

 護衛をやめても水無月家にいる……それが本当だとしたら、ただの穀潰しなのでは。

 だって、護衛の他のお仕事って、メイドさんとかですかね? ぼく、恥ずかしながら家事とか全然できないんです。聞き苦しい言い訳ですけど、寝ても覚めても修業しかしてきませんでしたので。それに、もしまた妖怪が現れたらただじっと見てるなんてできませんよ。やめろと言われても絶対レイピア振り回しちゃいます。

「あの……エナさん」

 ぐるぐる考え巡らせてもしょうがない、直接訊くしかありません。

 ぼくは、ここにいてもいいのでしょうか。

「メオ」

「えっ、は、はい」

 急に見つめられるので、一気にまた顔が熱く、代わりに緊張しているせいか手がヒヤリと冷たいです。冷たいと自覚したのは、この手がエナさんの手と繋がれているからですが。

 こんな風に、ぼくをまるで普通の女のこみたいにドキドキさせたり、喜ばせたり悲しませたりするのはエナさんだけなのですけど、そんなこと、エナさんは思いもしないのでしょうね。

 もしも望んでもいいのなら、この鼓動が尽きるまでずっと、あなたに翻弄され続けていたいです。絶対に許されることではないのですけど。

「お前が傷ついたり、危ない目に遭うのはもう、耐えられそうにない。だから私の護衛など、専属魔術師などはやめてほしい」

 それはやっぱりぼくに魔力がなくて、弱いから、不十分だから、名ばかりの魔術師だからですよね。でも、信じてほしいんです。

「ぼくはあなたの呪いを解く為にもきっと魔力を手に入れて、もっと強くなります。だから、」

 まるで子どもの機嫌を取ってあやしているみたいにするんですねと、何度か感じていた時とは違う、指先から伝えるようにゆっくり、髪に頬にと触れられて見つめ返すあなたの瞳の語る想いは、あなたのお望みに反して命を懸けて守りたいと誓いを立てるのには充分過ぎます。

「魔力がなくても、強くなくてもいい。メオがいてくれれば、なにもいらない」

 それにその言葉は、ぼくには甘すぎます。

「いいえ、エナさん。ぼくは、あなたの呪いを解いて、きっとあなたを笑顔にしてみせます」

 何にも縛られずに、笑ってほしいんです。

 あなたのことが、大好きだから。

 そう伝えたくて、生涯秘めておこうと決めた気持ちを一大決心して伝えたつもりなのに、エナさんはまた、今度はやれやれというように深く溜め息を吐きました。

「……聞き分けのない」

「ひ、ヒドイ! エナさんも協力してくださいよ!」

 ぼくから手を離して立ち上がると、すっかりいつも通りの少し仏頂面なエナさんに戻ったみたいです。少しくらいは甘くてもいいのに。

「では協力するが。ひとつ勘違いをしているようなので、訂正する」

 それはぼくだけではなくて、修一郎さんも茉莉さんも、そう聞かされていたということらしいのです。

「私にかけられた呪いは、表情を封じるものではない。喜怒哀楽の度合いによって高鳴る鼓動が、常人よりも早められている。故に、感情の昂りによっては最悪、死に至ることもある」

 つまり世間に広く知られては、その呪いを利用することによって命さえ奪われる危険がある為に隠されていたのですね。

「以前、私に持病があると話したのはこのことだ。齢五つの頃から、極力感情を殺して生きるよう、父と山岡に諭されて訓練してきた」

 だからエナさんは、どんなに嬉しくても楽しくても大笑いなんてしませんし、怒りを感じても怒鳴ったりしません、そして哀しい時でさえ、声を上げて泣くこともできないのですね。

 それも、呪いをかけられたほんの子どもの頃から。

「そんな顔をするな。呪いなどなかろうが、公爵たる者がいちいち感情的になっていては沽券に関わる。当然の教育だ」

 柏葉さんがお見舞いに来てくださってると聞いて、急いでここに来てくださったんですね、まだお仕事が残っているのでしょう、ドアノブに手を掛けながらの捨て台詞でした。

「お前はどうせ聞かぬであろうから、専属魔術師は続けるがいい。しかし、無茶をするな。あまり私に心配を掛けると死んでしまうからな」

「は、はいいっ! 肝に銘じます!」

 って、なんて笑えない冗談ですか! 

 ぼくとは対照的にほんの少し目を細めていて、やっぱり今までそうかもと思っていたのは間違いなく笑顔だったんですね。

 やっぱり、呪いのことを初めとする水無月家の過去について、本気で向き合う為にはぼくは何も知らなさ過ぎます。

 水無月家でお話しを聞けるかたでは、家令の山岡さんが一番詳しくご存知なのでしょうけど、長年の秘密にしてきたこと、それもきっとかつてのご主人様つまりエナさんのお父様から命じられて隠して来たことでしょうから、ぼくなんかに簡単に話してくれるとは思えません。

 それでも、挑戦してみないことには始まらないのですけど。

 ぼくの数少ない取柄で、ケガとか傷の回復が早いので、二日後にはピンピンして護衛のお仕事に復帰することができそうです。

 休むと思われているようで、佐々木さんは今日の予定を伝えに来てはくれませんでしたので、久しぶりに諜報活動つまりメイドさん達の噂話にひたすら耳を傾けるとかを行い、帝国陸軍の軍議があるとのことがわかりました。即刻、御者さんが馬車を準備している門へ急ぎました。

 でも、いつもの場所には誰もいませんし、あの大きな馬車すらありません。よもや、ぼくの探索が失敗していて、エナさんは先に行ってしまったのでしょうか。

「メオ、もういいのか」

 ぼくの諜報手腕はまだ鈍っていなかったですね。振り返るとエナさんが、よく見る呆れたような感心したような様子で、今日は臙脂色の軍服を着ていました。

 何度見ても見慣れずに、伝えるのは恥ずかしくて無理ですけどとってもお似合いで素敵です。他の兵士さん達は帝国軍の制服的なカーキ色の軍服を着ているのに対して、エナさんや柏葉さんの将校さん達の一部はオリジナルに仕立てた軍服を着ているんですよね。

「はい、もう大丈夫です! 今日からまたお供させていただきます」

 ムキッと力こぶを作るポーズをすると、エナさんの少し後ろにいる山岡さんは、こちらは見慣れた優しい微笑み顔です。このお顔を見ると、話してくれそうと期待したくなるのですけどね。

「ちょうどよかった。今日から自動車で行く」

「やったー! 乗せてくださるんですか?」

「走って来いと言う程に私は鬼ではないつもりだが」

 出逢ったばかりの頃のエナさんなら余裕で言いそうですけど、とは飲み込んでおきます。初めてだからぼくも乗せてやりたいって思ってくれてたんですよね?

 国産自動車の製造が始まるのも大衆向け乗用車が開発されるのももう少し先の話ですが、裕福な一部の華族は自家用車を持っていて、馬車に代わる移動手段として使われていました。

 馬車に懐かしみを感じていますが、新しい乗り物にはワクワクしてしまいます。

「どなたが運転するんですか?」

「私だと言いたいところだが、山岡が心臓の心配をして聞かぬので運転させる」

 それはそうですね、ぼくとしては帝国軍に所属されていることさえ心配でたまりませんからと納得したのですが、山岡さんは驚いていました。

「なんと、芽央さんはご存知なのですね」

 まずかったかな、と一瞬ヒヤリとしました。呪いの真実を知っていること、こんな名ばかりの魔術師風情がと憤慨されてもおかしくない状況かもしれません。他人に知られれば知られる程、エナさんの命が狙われる危険が増えるのですから。

 けれど満足そうに頷いてもいたので、一先ずは気にしなくても良さそうです。ひょっとして、ぼくなら知られても問題ないと信用されているのかなと思うと嬉しいです。

 何度か街で見かけたことがありましたが、実際これから乗ることが出来ると思うと感動も一入ひとしおです。

 アメリカで半分ものシェアを誇るフォード・モデルT、日本での通称はT型フォードの真っ黒な車体が新しい車庫で光っています。

「かっこいいー!」

 もしもこんな風に素直に、エナさんの軍服姿にも伝えられていたら、エナさんはどんな反応をするでしょうか。あ、どうせ今みたいな苦笑いのような呆れたようなお顔かもしれませんね。

「まるで子どもだな」

「だって! こんなにピカピカなんですよ? ぅわあー! これがハンドルですか?」

「おとなしく後ろに座りなさい」

 運転席のドアを開けてハンドルを握ってみたら、脇から抱き上げられてしまいました。

「お二人は本当に仲がよろしいのですね。そうなさっていると、」

 恋人同士みたいですか?

「まるで親子のようですね」

 ぼくもちょっと思ってましたけど! だって高い高いするみたいに抱っこされるから! さすがに客観的に言われるとショックです!

 この後、山岡さんの安全運転で軍議に出かけましたが、また楽観視する癖なのですけど、山岡さんはぼくなら話してもいいと見込んでくれたのでしょうか。

 その夜、少しお話よろしいでしょうか、と丁寧に声を掛けられてもちろんと入った部屋には先にエナさんがいて、否応なく、山岡さんは大事なお話をしてくださろうとしていることがわかりました。

 というのも、エナさんが山岡さんを問い詰めたみたいなのですよね。

「ぼっちゃ、ご主人様がどうしてもとおっしゃるので。御承知かと思いますが、この話はどうか内密に」

 坊ちゃまって言おうとしましたよね。今でも二人きりの時はそう呼んでいるのかな。

 ここは初めて入る部屋で、壁一面にズラリと分厚い洋書が並ぶ書庫のようです。お二人で内緒話をする時にでも使っているお部屋なのでしょうか。

 それにしても、どうしてエナさんは過去のことを改めて確認しようと思ったのでしょう。ぼくが協力してくださいと言ったのを実践してくださっているのかな。

「メオがこの様子なのでな。祖母君のしたことが単なる凶行とは考えにくい」

 この様子……というのを思いっきり好意的に解釈すると、ぼくを信じてくれるのと同じように、祖母のことも見直そうとしてくれている、ということですか?

 血の繋がった孫のぼくでさえ、話を聞いた途端に恨みさえもしたのに。

 会ったこともない、顔も知らない、幼い時からあのスイの孫なのにと比べられてばっかりいた祖母のことを。

 ぼくは促されて、エナさんの隣の大きなソファに身を沈めました。リラックスする場面ではないのにあまりにフカフカで、もし疲れている時に気を抜いたら寝てしまいそうです。向かい合う山岡さんは浅く腰掛け、いつもそうしているようにピンと姿勢を正しています。

「ご主人様のご推察通りでございます。スイ様……芽央さんのお祖母様は、先々代を拐かしたわけでも、ましてや殺めたわけでもございません。そして呪いも、ご主人様に掛けようとしたのではございませんでした」

 ホッとしているのか、嬉しいのか悲しいのか、よくわからない気持ちになりました。

 じゃあどうして。なぜエナさんのおじいさまとぼくの祖母は二人とも亡くなってしまったのでしょう、そしてなぜ、事実が湾曲されて伝わってしまっているのでしょう……ぼくのおばあさんが、ただの極悪な殺人犯ではなかったこと、歴代随一ともいわれる強大な魔力を子どもに使うような魔術師ではなかったことを、手放しに喜ぶ気持ちにはなれませんでした。

「お二人はお若い頃に偶然出逢い、恋に落ちたのです。しかし当時次期公爵であった先々代と、いくら由緒正しい家柄とはいえ魔術師とでは結ばれることは許されません」

 ぼくは勝手にも、足元に穴が空いて、奈落のような深い穴が空いて、そこに吸い込まれていくような感覚になりました。正気でこの後のお話を聞けていたのが、自分でも不思議なくらいです。

 愚かにも浅はかにも、エナさんを想うぼくの気持ちを、二人に重ねてしまっていました。

 怖くて近くに、隣にいるエナさんをチラリとも見ることはできませんでした。

 全身が震えるような気持ちでいるぼくに対して、エナさんがいつも通り、何も気にしていない風でいたら、ううんきっとそうだと思うから、それを知るのが怖かったのです。

 けれど臆病なぼくとは違います。

 本当に震えてしまっていた手を、エナさんはそっと繋いでくれました。

 妖怪を前にした時でさえ感じたことのない怯懦に冷たくなった指先は、伝わる熱と安心感で徐々に温かくなっていきます。

 山岡さんは気付いていたでしょうが、そのまま終始一定の速度で続けました。

「それぞれ別のお相手と結婚し、お子様もお生まれになり、二十年以上の時が流れたのです」

 そうですよね。そうでなければ、エナさんもエナさんのお父様も、そしてぼくもこの世に生まれていないのですから。

「ところが不意に再会された時、恋が再燃した、というよりはお二人とも諦めてなどいなかったのでしょうね、運命の赤い糸で結ばれている、とはお二人のことをいうのでしょう、駆け落ちを計画なさったのです」

 二人とも、それぞれの伴侶と子と孫と家族のすべて、社会のすべてを元の人生すべてを捨ててまで想いを遂げたかった、ということですよね。その気持ちは苦しくもわからなくはないのですけど、そうまでしなければ、公爵さまと魔術師とでは結ばれない、のですよね。

 わかっていたようで、全然わかっていませんでした。恋する前から、決して結ばれるのは許されないと、決まっていることを。

「邸内ですぐに追手が付きました。先々代の専属魔術師を筆頭に徹底抗戦しましたが、スイ様の前ではてんで歯が立ちませんでした。しかし子ども好きな魔術師でして、坊ちゃまも大層お気に入りでした。坊ちゃまは魔術師が虐められていると思われたのでしょう、止めに入られて、魔術が当たってしまったのです。我々が盾となりお守りするべきところを、お詫びしてもし足りません」

 山岡さんは深々とお辞儀をし、心からの後悔に息を詰まらせていました。

「過ぎたことだ。いや、私の愚行であり、山岡のせいではない」

 実際幼い時から何度も山岡さんは謝ってきたのでしょう、エナさんはいつも通りの平坦な調子で返しました。

「スイ様ともお若い頃に何度かお会いしたことがありますが、芽央様と同じように、溌剌として明朗でそして優しいおかたでしたよ。あの時も、坊ちゃまに気付かれて術を逸らそうとなさっていましたが……命中していたなら心臓が止まる術だと、後に見立てた先々代魔術師が申しておりましたから」

 自分の無力のせいで比較されて、長年疎ましくすら思っていたおばあさんのこと、ずっと全然違う、足元にも及ばないと言われてきましたけれど、似ているところがあると言われるとくすぐったいような嬉しさがあります。

「その後、邸を出てからも追われ続け、ついにお二人は心中をなさったのです」

 こんな顛末を、そのまま世間に知られるわけにはいきませんよね。

 二人の恋愛も駆け落ちも心中も、エナさんの呪いもすべてなかったことに。

 人は隠された秘密を探る時、真実味のある話を手に入れれば探求心は満たされるもの、真相を隠す為のカモフラージュとしてほんの少しだけ、誘拐事件の噂を流したのですね。

 でもどうして山岡さんは、急に真実をお話ししてくれたのでしょう。

 エナさんに訊かれたからと言ってましたけど、きっとぼくの気持ちに気付いていますよね。ただでさえぼくは感情が表に出やすいと言われているのに、山岡さんのような細やかな気遣いができるかたなら手に取るようにわかるはずです。

 公爵さまと魔術師が結ばれるなんてことは有り得ない、身分を弁えて早々に諦めなさい、それができないのなら出て行きなさい、そして先々代の二の舞は絶対に許しません、もし駆け落ちなど画策したら今度は必ず公爵さまを守り切ります、命を絶つのならお前だけにしなさい。

 生まれた時から見守り育てて来た大切なエナさんを、因縁深いスイの孫なんかに奪われてなるものか。

 およそ山岡さんが言いそうにもない程の、悪魔の囁きのような声が頭の中で去来して反芻しました。

「長年隠蔽しておりましたこと、重ねてお詫びいたします。ぼっちゃ、ご主人様に、今の主人は誰かと問われ、ハッといたしました」

 また優し気に微笑む山岡さんの真意は、ぼくにとっては霞の中で手探りをするようなものです。

 求めていた真相を知っても、知ったからこそ煩悶しながら書庫を出て、鬱々としながらもまた明日も護衛のお仕事があるので、一旦自分の部屋に向かいましょう。

 ぼく、このままでいいのでしょうか。

 エナさんを、生涯お守りしたい。

 その気持ちは真実で、心からそう望んでいるのに、ぼくにそれ以上の、ううん、別の欲がないなんて言い切れるでしょうか。

 エナさんを、エナさんの将来の奥さまも、エナさんのお子さまもお守りしたい。

 ……本当に?

 本当にそれで満足?

 例えば、美しい奥さまを愛おしそうに見つめるエナさんの傍らで、ぼくには一切羨望心も嫉妬心も浮かばないと?

 偽善者。

 また悪魔の囁きが、頭の奥底で鳴る警鐘のように聞こえるのでした。

「……ぅわ、エナさん!? え、あれ?」

 なんでいるんですかと口を滑らせる勢いですが、大きな間違いです。

 ぼーっと歩いているうちに、書庫から自分の部屋ではなく、エナさんのお部屋の前までついてきてしまいました。

 ここでぼくが頭の回るタイプなら、如何にも護衛の為にここまでお供してきましたよ風を装えばいいのですが、思いっきり動揺してしまいました。

 完全な責任転嫁ですけど、途中、付いて来るなとか言ってくださいよ。

「夜這いかと思ってな」

 ヒィイ声に出てた! というか夜這いませんさすがに! というか尚のこと嫌がるとかしてください!

「どうぞ中へ、送り狼さん」

「人聞きが悪すぎます!」

 慌てながらもドアを開けられ、ちゃっかりお部屋に入ってしまうのですから、何と言われても文句が言える立場ではありませんね。

「知らなかったとはいえ、魔術師を敵視してきたこと、すまなかった」

 謝ってくれようと、ここまで付いて来ても文句も言わず、しかもお部屋に入れてくれたんですね。そうとわかるとヨコシマな自分が恥ずかしいです。

「いいえ! あの、ぼくのこと、ぼくの祖母のこと、信じてくれてありがとうございます!」

 それにエナさんはいつも、憎い魔術師の一員としてではなくて、いつだって、ぼくをひとりのぼくとして見ていてくれました。

「メオがあまりに真っ直ぐだからだ。信じさせてくれて、ありがとう」

 そんなエナさんだから、ぼくは惹かれてしまったんだと思います。

 ……こんなことを考えていたらまた、自分でも頬の熱さを感じるくらいです。多分今、顔がというか耳まで真っ赤ですよね。

「あの、エナさん……これ、ダメです」

 優しく髪を撫でてくれているのも、こうして見つめてくれているのも。

「だめ?」

 ええと、顎を持ち上げないでください!

「は、はい。えっと、あまりにドキドキしてしまうので……その、」

 ぼくには動悸の呪いなんてかかっていないのに……それにエナさんは大丈夫なんでしょうか。いつもの、どこか子ども扱いするみたいな時と違いますよね。

「私はメオに触れていると安らぐ」

 だからって距離が! 近過ぎますし、腰にも手が触れてます!

「で、でもぼくは、いけないのに……こうしていると下心が、」

「シタゴコロ」

 間違えました! 恋心です! 訂正するのも変ですけど! すでにエナさん軽く吹き出してますし!

「……私はメオには下心しかないが」

 言い方! 

 ぼくだって本当は、エナさんに触れたいですし、触れられたら嬉しいですし、それに他の誰も見てほしくないですし、触れてほしくないです。

 恋する心が理性を捨てて、暴走してしまいそうです。

 でも、ぼくじゃダメなんです。あなたのお相手は、ぼくではいけないんです。

 誘拐も人殺しも勿論重罪ですけど、あまりに身分違いの恋愛だって、駆け落ちや心中をしなければならない程の罪です。

「他の女にはしなくとも?」

 許可を取るおつもりなんてないのに、語尾を上げるのはズルくないですか。そんな可愛らしげに言われても、ぼくは目を合わせることもできないです。

「いけないことなら、私が勝手にしたことにすればよい。メオは無理強いされ、命ぜられ、拒むことができなかったと、眼を瞑っていればよい」

 そんなこと、できません。

 この想いが罪ならば、絶対に許されなくても、どんな罰でも全部全部、ぼくだけにください。だからお願いです。

 ずっとずっと、ぼくじゃない誰かに、いけないことしないでください。

「約束する」

 触れる唇と唇で、熱で罪の意識が溶けてしまいそうです。

 でも必ず、罰は受けなければなりません。

 公爵さまの伴侶になんて、一生涯なれません。

 そうと知っているのに、誓いであなたを縛るぼくは、妖怪みたいな鬼みたいな、まるでケダモノです。

 だからどうか、罰ならば、償いきれない大きな罰でも、ぼくだけに。






 
 佐々木さんはやっぱり少し怒ったような顔で、今朝もエナさんの予定を伝えに来てくれます。

 過去の真相を知るのは、山岡さんだけ。嫌われていても当然ですね。

「おはようございます。今日の軍議は午後からとのことです。よろしくお願いします」

 相変わらず茉莉さんは今すぐ追い出したいというくらいに嫌われていますし……でも最近、ちょっといいこともあったんです。

 諦めが悪いぼくの日課で、師匠に教わった通りの魔術の稽古は続けていたのですが、妖怪の気配を感じるようになってきたんです。

 以前までは、武術の鍛錬の成果か、妖怪や人間の殺気みたいなものは感じることができたんですけど、魔術師なら当然感じる筈の妖怪が現れるかも、みたいな気配は全然わからなくて、なのでいつも不意打ちで驚いて対処する、ということばかりだったのですが、今は現れる少し前に気配を感じるようになってきました。

 もしかすると、魔力が付いてきたのか、その前兆かもしれないのです。師匠や他の魔術師と交流する機会もないので確認する方法はないのですが。

 師匠が、あのスイの孫なのだから必ず大きな力を持っているはずだと、きっと芽央は大器晩成型なのだと励ましてくれていたことを思い出します。

 過去を知り、前よりさらに身近に感じるようになったおばあさんみたいに、立派な魔術師になりたいです。

 この日のお仕事が午後からだったこと、思い返せば大きな不幸の中の、一筋の幸いでした。

 もしもと想像するのも怖ろしいですが、もしもぼくがこの邸に留まっていなければ、茉莉さんと二度とお会いすることができなかったかもしれません。

 ここ数日は恥ずかしながら今更にも、全く家事ができないのもどうかと思いまして、メイドさん達のお手伝いという名目で実は家事の段取りやコツを教えてもらおうと、いろいろとお仕事させてもらっていました。

 朝は洗濯をして干し、11時過ぎにはもう乾いていましたので取り込むために物干し場に出ていました。

 洗濯物を干すのにもコツがあること、干し方によって乾く速さに差が出ることや、皺にならないようにしっかり振り捌いてから干すことなど教えてもらったのですが、確かに全然皺にならずにピンと乾いているのを感心していると地面の下から妖怪大鯰が蠢くような気配を感じました。

 そう、地震を引き起こすとされている妖怪です。

 ここは頭上に落ちて来るような家財道具がない代わりに、身を守る物もありません。

「皆さん伏せて! 頭を守ってください!」

 ぼくがあまりの剣幕だったからか、訳も分からないながらも皆さんが従って動いてくれた直後に、立っていられない程の大揺れがありました。

 ぼくはチビな身体を精一杯伸ばして大声を上げていたので、言い出した張本人なのに横っ飛びに転がってしまいました。

「きゃあああ!」

「地震だ!」

 マグニチュード7.9と推定される関東大地震です。関東で発生した大地震は元禄地震以来なので、誰しもが生まれて初めて経験するような揺れでした。

 物干し竿すべてが軽い音を立てて落ちましたが気にならないくらい、地震発生前には地鳴りの不気味な音が響きましたし、邸自体がミシミシと音を立てました。

 震源地近くの横浜市には水無月家同様石造りの洋館が多く、一瞬で倒壊したそうです。

 ぼくが真っ先に考えたのはエナさんのご無事です。お出かけ前でもお仕事をしているはずなので、揺れが収まったと同時にお部屋へ駆けだそうとしました。

「火事だ! 厨房から火が出た!」

 地震発生時間は午前11時58分。多くの家が昼食の炊事中で竈や七輪を使っていた為に、大規模な火災がありました。木造建築の住宅同士や避難する人々の持ち出した家財道具で燃え広がり、この地震でたくさんの人が亡くなりましたが、9割は焼死だといわれています。

「ご主人様はご無事です! 皆、庭へ避難するように!」

 執事の皆さんが各所に指示をしているようですが、ここへ来てくれたのは佐々木さんです。

 それにしても、当たり前といえばそうですが、真っ先に考えることは皆さん同じのようですね。

 倒れた家具や割れた硝子などを避けながら、皆さんと手を取り合ってお庭まで向かいました。

「茉莉さま! 茉莉さま!」

 広い廊下を、四人のメイドさんが必死の形相で走っています。天井の方はかなり煙が充満していて、さっきのぼくみたいに背を伸ばして呼んでいたのでしょう、皆さん激しく咳き込んでいます。

「どうしたのですか!?」

 メイドさん達は煤だらけの頬を涙で濡らしています。

「茉莉さまがいらっしゃらないのです……お部屋にもどこにも!」

 だから少しでも仲良くさせていただくべきでした。こんな時、どこにいるのか全然見当も付きません。

「あなた達は皆さんとお庭へ避難してください! あとはぼくに任せて! 佐々木さんはこのまま皆さんの誘導をお願いします!」

 そのくせ、こんな大口叩いてしまうなんて。だってこのままじゃメイドさん達が助かりません。

 特に止められそうな佐々木さんにいちいち了承をとっていては、危ないですとかそれはできませんとか反論されてしまいそうなので、すぐに身を屈めて走りました。

「芽央さんを必ずお連れするよう命じられておりますので無理です」

 ヒェッ!? 追いつかれました!

 それはエナさんに、ということでしょうか。ぼくなんかのことより大事な妹さんの心配をしてくださいよ。逃げ遅れてしまっているかもなんて知らないのでしょうけど。

「じゃあ一緒に茉莉さん捜してください!」

 背が高いので腰とか痛めそうですけど、ぼくと同じく身を出来るだけ屈めて走って来てくれた佐々木さんは、居場所の見当がつくらしく

「こちらです」

と、ぼくの腕を引っ張ってくれました。

 急な方向転換に足が縺れそうになりながら向かったのは中庭です。

 西洋の宮殿にもよくありますが、水無月家の中庭は食事や娯楽に使われているのではなく、ただ美しく色とりどりの草木が植えられた空間でした。

 普段からよくこの中庭で花を愛でているのでしょうか、茉莉さんは小さく咳をしながら蹲っていました。

「茉莉さん!」

 近くに大きな木が倒れています。避けようとして挫いてしまったのでしょうか、足首を押さえています。この木が当たらなくて本当に良かったです。

 庭の四方を囲む柱の向こうがまた屋内の廊下に繋がっているのですが、さっきまで走っていた廊下よりも厨房に近いので、その二つの奥には火の手が見えます。

「は!? なに助けに来てるのよ!? バカじゃないの? さっさと逃げなさいよ!」

 真っ赤に腫れあがった足首の茉莉さんに何を言われても戸惑っている場合ではありません。

 それにしても、茉莉さんって優しいですよね。ケガをして動けない自分を置いて逃げてだなんて。見つけるのが遅いではないか、さっさと自分を担いで外へ連れ出せとか、平気で命じる権力者もいると思うんですよ。切羽詰まった土壇場って、人間の本性がでますよね。

「佐々木さん! 茉莉さんをおんぶしてください!」

 チビのぼくではいくら華奢な茉莉さんでもおんぶして走れないので、遠慮なくお願いします。それにぼくより余程おとなしくおんぶされてくれそうですし、佐々木さんが付いて来てくれて助かりました。

「失礼します」

 佐々木さんが一言断ってから軽々と背負った時です。二人の頭上に火事で崩れた瓦礫が落ちて来ました。

 ……はずですが、空中で大きな破裂音をさせて砕けました。

「え、」

 多分、一番驚いたのはぼくです。

 ぼくが咄嗟に掲げた手の平の先で、砂のように散ったのですから。

 えっと、これは……もしかしてぼく、魔術使えるかもです。

 ぼくが一番驚いたというか、お二人とも姿が消えてしまい、ここにいるのはぼくだけになってしまいました。

 生まれてこのかたの悲願達成ですが、全然喜べる状況ではありません。お二人が安全な場所に行っているならいいのですが、火元の厨房なんかに飛ばしてしまっていたら最悪です。

 東京中で火災被害が多かったのは木造家屋が多いことと、風の強さも原因でした。

 このお邸も基本的に石造りですが、他の西洋建築同様に屋根の一部などには木も使われていました。火がどんどん燃え拡がっているのでしょう。さっきまで夢中で意識してませんでしたが、あちらこちらで壁などが倒壊する轟音や熱風が吹き荒ぶ音が聞こえます。

 たくさんの音に邪魔されないよう、耳を澄まします。魔法陣も魔法の杖も呪文のひとつも扱えません。さっきは無意識で使えてしまった奇跡のような魔術を、今度はしっかり自分の意志で活かさなければ。

「茉莉さま! よくぞご無事で!」

「佐々木さん、さすがです!」

 お二人の様子を知りたい。一心に集中して声を聞こうとすると、耳の奥で詰まったような感じで微かに聞こえました。

 良かったー! あ、この魔術ならエナさんの様子もわかるかも!

 けれど直後に、足元がぐらつきました。

 小さい背丈をさらに縮めてなるべく煙を吸わないようにしていたつもりでしたが、長居し過ぎたようです。

 ひどい頭痛がして、軽い眩暈もします。

 逃げなきゃ。ここから出なきゃ。

 さっきとは全然違って、一生懸命念じても身体からふらふらと力が抜けていくだけです。魔術って、自分自身には使うことができないんでしょうか? ううん、そんなことは聞いたことがありません。

「メオ!」

 耳の奥で籠って小さく聞こえます。お庭の方で、ぼくを心配して呼んでくれているのでしょうか。

 どうしよう。この前は冗談めかして言っていたけれど、エナさん、ぼくのこと心配しすぎて死んじゃうかもしれません。

 それにこのままじゃ、ぼくは二度とエナさんに会えません。

 そんなの絶対イヤです。絶対に逃げます。

 でも身体がいうことを聞きません。せっかく魔術が使えるようになったのに。

 朦朧とする意識で、いつの間にか倒れていたみたいです、伸びた腕の先にはたくさんの色のダリアが揺れています。

 目の前からダリアが消えて、中庭の上の小さな空が見えました。

「メオ!」

 抱き上げてもらったから、空が近付いたのです。

「……っエナさん!」

 助けにきてくださったこと、お礼を言うべきなのに、素直に喜べないぼくは責めるような言葉が飛び出そうになってしまいました。

 あなたは公爵さまなのに、こんな危険を冒してぼくなんかを助けに来てしまっては本末転倒です。ぼくが喩え命を落とそうが、あなただけは絶対に守らなければならないのに。

 と、いう気持ちが、エナさんとは反対に感情がすぐに顔に出てしまうぼくなので伝わってしまったみたいです。

「そんな泣きそうな顔をするな。ここは水無月公爵家だ、抜け道くらいある」

 抜け道!? 忍者屋敷!?

 ……後から冷静になって考えると、水無月家は宮殿のような西洋建築です。公然の秘密ですが、有名な宮殿って大抵は隠し通路とか隠し部屋とかありますよね。

 日記とはいえ詳しい入口というか出口は書けませんが、中庭と玄関前が繋がっているのです。他にもいろんな通路がありそうですが、とにかく申し訳ないのですが抱き上げられたまま隠し通路を抜け、大きな噴水があるお庭まで出ることができました。

「お兄さま! 芽央さん!」

 佐々木さんに背負われたままの茉莉さんは激怒している程の様子で、ぼくを見た瞬間に

「あなたってホントにマヌケね! 少しは身の安全を考えたらどうなの?」

と、涙目で訴えられましたが、図々しくもエナさんの腕の中で気を失ってしまいました。

 甚大な被害をもたらした関東大震災ですが、三日間も火災が続いた原因のひとつは、先述に加えて水道管の破裂により消火活動が遅れたからというのもあります。

 意識が混濁していて気付きませんでしたが、水無月家の大噴水も水が止まっていました。

 国家機能が麻痺しているなか、警察でも消防でもなく帝国軍が組織的な震災救護を行いました。もちろん、エナさんも。

 東京府と神奈川県での被害が特に多く、見渡す限りの建物が全壊や全焼、死者や行方不明者は10万人以上といわれている惨状ですが、ぼくは一週間も目を覚ますことなく眠り続けてしまっていたので知らずにいました。

 倒れる前にひどい倦怠感があったぼく自身もエナさん達たくさん心配してくださったかた達も火事による一酸化炭素中毒かと思っていましたが、入院までさせてもらって診てくださったお医者さんが検査をしても原因がわからず首を捻っていたそうです。

 と、なると情けなくて申し訳なくて皆さんに言い出しにくいのですが、奇跡みたいに少し手にしたばかりの魔力を一気に使いすぎたせい……ですよね、きっと。

 半端者がとても迷惑をかけてしまいました。ちゃんとした魔術師は、呪文等を用いつつ、これをこうしようと明確な目的を持って魔術を使いますが、ぼくはまるで無意識で暴走的に偶然魔術が飛び出したのですから、正しく乱用です。

 せっかくの力も制御できないようでは何の役にも立ちませんし、エナさんの呪いを解くこともできませんから、これから一層修業に励まなければなりません。

 さらに申し訳ないことに、目が回るくらいの忙しさでしょうエナさんと松葉杖をついた茉莉さんがぼくの様子を見に来てくださいました。

 お医者さんが言うには、エナさんは何度も病院へ来てくれて、容体はどうだ、目を覚ますのかと、とても心配してくださっていたと聞きました。

 一週間も寝たきりだったので余程の重症と思われてしまっていたようで、ぼくは個室の白いベッドで身を起こしました。

「寝ていなさいよ! また倒れられたら迷惑だわ」

「は、はい、すみません」

 お言葉に甘えておとなしく、また横になりました。清潔さが際立つ、真っ白な壁と天井です。

 脚の包帯が痛々しい茉莉さんは松葉杖をコツコツと鳴らしてベッドの近くまで来てくれながら、一週間ぼくに言いたいことを溜めていたのでしょう、一息に言われてしまいました。

「どうしてわたくしを助けてくれたのよ? わたくし、あなたにちっとも優しくなんてなかったわ。いいえ、イジワルをしたこともあるわ。壁が崩れて燃えていたのに、一瞬も躊躇わらずにわたくしを捜しに走ったのですって? お兄さまならまだしもわたくしにそこまでするなんて、バカもマヌケもいいところよ!」

「え、っと。申し訳ござ、」

「そうじゃないのよ!」

「え? えっと、」

 捲し立てたきり、真っ赤な顔のまま俯いてしまいました。少し後ろにいたエナさんが口を開きかける時まで。

「あ、ありがとう……」

「え、は、はい!」

 もっと気の利いたお返事ができればいいのですが、ぼくのこれだけの返事ですら後姿を追い掛けるような速さで、茉莉さんは出て行ってしまいました。

 どうして、と問われても、ぼくはエナさん同様ご家族もお守りするつもりですし、咄嗟に身体が動いていたので理由とか思いつきません、というか無いんですよね。

 でも、ずっと嫌われてきた茉莉さんにありがとうと言われると、それだけで充分報われた気持ちです。

 それに結局自分が逃げ遅れて、あろうことかエナさんを危険に晒して助けていただいたような体たらくですので、むしろお詫びしなければいけません。

「我儘で素直ではないが、大切な妹だ。ありがとう」

「あ、いえ!」

「寝ていろと言うのに」

 つい、また身体を起こしかけて、エナさん手ずから寝かせられてしまいました。

 ええと、この近さでこの体勢で見つめられると心臓に悪いのですが。

「……メオは、余程私の心臓を止めたいようだ」

 こっちの台詞です! じゃなくて。というか、全然冗談じゃない冗談やめてください。

「あの、たくさんのご心配をおかけしました。それにヘマをして助けていただき、こちらこそ、ありがとうございます」

「冗談だ」

 え? えっと、はい。不謹慎にも真実味篭った先程の言葉、冗談のおつもりだとはわかっていますけど。

 未曽有の大地震のうえに火災、邸じゅうの皆さんの避難指示、茉莉さんの行方不明、そしてぼくがヘタレにも逃げそびれてしまって助けに来てくださったんですから、エナさんの心臓は痛いくらいの動悸がしたはずです。それに今だって、帝国軍指揮官のひとりとして先頭に立って復興支援に当たって寝る間もない程の忙しさらしいのです。

 わざとではないにしても、おばあさんのかけた呪いには違いないので申し訳ない想いでいっぱいですが、いつどうにかなってしまうかと考えると狂おしいくらいです。

「おそらくだが、呪いが解けている」

「……え?」

 いくら魔力を持たずに生まれたぼくでさえ、むしろ人一倍勉強したつもりですから知っていますけど、呪いとは掛けた術者よりも強力な魔力を持つ者が解こうとしなければ解けるものではありません。エナさんの呪いのように、術者が亡くなっても、自然に消えたりするものではないのです。

「先程メオが考えたようなことがあった中、」

 あ、ぼくの考えることなんか丸わかりですかそうですか。

「特段、異常な動悸というものがなかった」

 寝かせてもらって、別にもう逆らって起き上がったりしませんのに頬の脇に置かれたままだった手のひらと逆の方の指で、前髪に触れられました。エナさんが片膝を載せたので、病室のベッドは簡単に軋み音を鳴らします。

「解けていなかったら……あの崩れかけの、火の海の邸内にメオがいると知った時点で止まっている」

 重ね重ね、本当にご心配おかけして申し訳ございません。

 でもそれはあくまで推測ですよね? 呪いが解けた証明にはならないと思うのですが。

 きっとものすごく怪訝そうな顔してましたよね、今度は思いっきり寄ってしまった眉間の皺を軽く押されました。

「証拠を見せろというのなら、まぁ、胸の刻印が消えているが、」

 軍服の襟元に手を掛けるエナさんの首に両腕を巻き付けて、ぎゅっと抱きしめる、という大胆な行動を、ぼくは嬉しさのあまりにしてしまっていました。

 身体に関する呪いが掛けられると、その部位に術者の紋が刻まれます。書物の絵でしか見たことありませんけど、それが消えているということは、

「やったー! 良かったですね、エナさん!」

おそらくとかじゃなくて、呪いが完全に解けている、ということです。

「って、すみませ、」

 いくら嬉しいからって、思い出しても身体じゅうが煮える程に大胆なことをしてしまいました。ぼくが離れようとすると、一層強く抱きしめられました。

「解いた本人が、よく言う」

 耳許で囁かれる吐息のくすぐったさで内容が吹き飛びそうですけど、この前たまたま魔術を使えただけで、文字通り火事場の馬鹿力でしかなかったぼくに、しかも特別何もしてないのに解けるわけないですよ。

「ぼく、なにもしてません」

 エナさんの呪いだから、力不足で烏滸がましくもぼくが解きたいと思ってましたけど、解けたのはもちろん嬉しいですが身に覚えがありません。

 この距離でも聞こえないくらい小さく何か呟いて、エナさんはぼくから離れました。

「さぁ、私にはわかるが、」

 ぼくにはわからない、ということですか?

 同じ遣り取りを、戦争の前にしましたね。

 ぼくはいろいろと未熟者過ぎて、エナさんを困らせてしまっていることがたくさんあるのかもしれません。





第二章  戦禍と地動    了


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