悋惜池田屋

春羅

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悋惜池田屋

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 逃げ出してしまいたい。
 私はあの、大きな武士の息子に相応しくない。
 誰に言われなくても、私が一番よくわかっているんです。
 私・近藤周平は、新撰組局長・近藤勇の養子になったばかり。このまだ慣れない名前も局長からいただいたもので、本名は谷昌武といいます。
 剣の腕前を何より重んじるこの武装集団の中、私は明らかに見劣りします。
 どこを気に入ってくれたのか、わかりません。
 ううん、考えないようにしています。
 秀でているとすれば兄・三十郎がしつこく宣伝した、備中松山藩主・板倉勝静公に仕えていたことがある谷家、だという今では無け無しの身分……そして私が、その主君の落胤であるという他愛のない噂だけ。
 それしか理由が考えられない。育ちの良さなんて、ここではなんの価値も無いのに。心のどこかで、いっそ邪魔だとも思います。
 いち隊士のままで居られたなら、こんな悋惜を知らずに済んだのに。
「もう。余裕だなぁ。ボーっとしちゃって、腕とか吹っ飛んでも知りませんよ?」
 べ、別に余裕なんかじゃ……。
「す、すみません!」
「えへっ冗談ですよう!」
 この“余裕な人”・沖田総司さんは、局長が上洛前に江戸で開いていた剣術道場・天然理心流試衛館に小さい頃から内弟子として入門していて、その剣技はまさに天武……大人でも最低で十年はかかるという免許皆伝を、元服さえする前に修めてしまったらしい。
 並外れた才能は自他共に認めるところで、隊士の方々から、もちろん局長からも信頼は篤い。何せ一番隊隊長を任されているひとです。
 もし剣神の類がいるとすれば、きっとこのひとは選ばれた剣士。
 そんなひとと自分を比べて悋惜に苛まれるなんて、どうかしてる。それすら身の程知らずなのに。
 私が出てこなければ、このひとが局長の養子にでもなって、道場か新撰組を継ぐはずだったんです、きっと。
 嫌われているんだろうなぁ、私。
 私に笑ってくれているわけではなくて、このひとの笑顔は癖というか貼り付いているみたい。ここは、それがあまりにも似合わない場所。
 元治元年六月五日。
 薪炭商を装った不逞浪士・古高俊太郎を捕らえて白状させた壮大な企み。強風の夜を選び、京市中に火を放つ。
この、人がたくさん住む町にです。
 そして新撰組を指揮する京都守護職(松平容保)ほか佐幕派有力者を弑逆し、天子様には長州へご動座いただくという。
 こんな暴挙を許しては、新撰組が存在する意味なんてないんです。それは、十分わかっているつもりだけれど。
 私は目の前にいるこのひとを始めとする、新撰組隊士の方達とは違います。
 粗野だとか悪く言っているのではなくて、痛感している通り私が、一歩下がって蚊帳の外にいる気がしてならないんです。
 超人みたいなひと達なんだ、本当に。
 恐れなど知らないように危険に飛び込んでいくひと達。みんな揃って当たり前の顔をしています。
 私なんて、ここにいても役に立ちません。
 “ここ”は東大路通り四条・祇園会所。
 蔓延りトグロを巻く倒幕志士が結集する中、その者達よりさらに気付かないよう平服で集まる討手達は軍備を整え、要請した会津桑名藩兵の到着を今かと待っています。沖田さんだけじゃなくて、他の誰もが笑い合いながら、出陣を前に武者震いをせんばかりです。
 何の為に、私は。
「土方、援軍はまだ来ないようだ……どうする?」
「クソッ……これだからアテになんねぇんだよ、坊ちゃん方は」
 呼ばれた副長は、忌々しげに腕を組みました。
 現れる気配がまるでないから。
 この徹底した“遅さ”がそのまま幕府と武士の世の終焉を吐露していた気がします。太平に慣れきった諸藩の役人達は、“育ちがいい”ばかりで人の斬り方も戦の仕方も、真剣の振り方すら知らないんです。
 実力なんかなくても、親の身分によってそれを引き継げるひと達。どんなに、愚鈍であっても。
 まるで、私そっくりに。
「こんなことをしていては、間に合わない」
 局長が低く呟くと、ざわついていた筈の場がシンと静まりました。
「俺達、新撰組だけで行こう!」
「はい、先生!」
 真っ先に沖田隊長が返事をすると、他の人達も待ち侘びたとばかりに早々に勝ち鬨を上げます。
 尻込みするのは私だけ。
「しかし、局長」
 意見する三番隊隊長・斎藤一さんも、臆病で言うわけでは絶対にないんです。
「ただでさえ人数が少ない上に、潜伏場所すら未だ掴めない状態で……危険過ぎます」
「大丈夫だよ! 俺がいるし!」
 明るく自信満々に胸を叩くのは八番隊隊長・藤堂平助さん。魁先生の異名をとる、怖いもの知らずの剣客です。
「心配性ですねぇ、オジサマは。白髪になっちゃいますよ?」
 沖田隊長も、こんな時によく冗談めかしていられる。
 みんな笑っているけれど、斎藤隊長の言うことが正しい。
 戦争気味に大それた計略を立てている相手は、何十人が潜んでいるかわからないんです。でも間に合わなければ、取り返しがつかないことも、よくわかってはいます。
 付いてこないのは、このどうにも怖がる、卑怯にも臆病な私の心。
「これから名を上げる者は、俺と一緒に池田屋方面へ。残りの者は土方副長と四国屋方面に行ってくれ」
 ただでさえ少ない人数をさらに半分に分ける……全員で虱潰しに捜す猶予もないということです。
「総司、永倉さん、平助、そして周平。以上だ」
 たったの五人……の中に、私が!
 なんで……自分で言うのも痛感しているのも皮肉だけれど、何故、戦力にならない私を? 二人の兄は種田槍術の名手だけれど、自信とその才能の片鱗と、上達の為の情熱すら受け継げなかった私を。
 ……特別扱いだ。
「なんで俺が精鋭部隊じゃねぇんだよ!」
 十番隊隊長・原田左之助さんが怒るのも無理はないです。
 私なんかが、局長の養子だという理由だけで選ばれてしまったのだから。


 未だ迷いの消えないまま、必死に走ります。背を追うので精一杯です。
 祗園祭りの宵宮で賑わう街中を、旅籠を一件一件。
 こんな、京中の人達がごった返しに集まった所に火を点けられては、大惨事になってしまいます。過激討幕派のひと達は、私達新撰組と同じ尊王攘夷の志を持ちながら、なんの罪もない住民を傷付けて平気なのでしょうか。
 京の夏は暑い。盆地特有の、蒸されるような暑さです。
 どんよりする重苦しい熱気の中を、いつどこに浪士達が潜伏しているかと緊張しながら走っていても、他の隊士の方達は息すら切らせず、誰一人として休みたいとも言いません。
「周平くん、大丈夫ですか?」
 やっぱり沖田さんは、微笑を湛えて話しかけてくれる程に余裕です。私は声を出す余力もなく、息を切らせてコクコク精一杯頷きました。
「平気ぃ。期待してないからぁ」
 全然大丈夫じゃないと、あからさまに伝えてしまっただけでした。……冗談じゃないな、目が笑ってないもの。
 散々走り続けて辿り着いた門には、池田屋と掲げてありました。
 後世に名高い、池田屋事変の舞台です。
 「御用改めである!」
 「神妙にしてりゃあ命は取らねぇ」
 局長に続いて二番隊隊長の永倉新八さんが、躙り出るようにしてヌッと中に入っていきました。
「なんか……ここ、アタリっぽくない?」
 藤堂隊長がヒソリと呟きました。
 腰を屈めて出てきた主人の顔色が、浅葱の隊服を前に蒼白へと一変します。
「お二階の皆様! 新撰組の御用改めでございます!」
 間違いない。
 局長はその呼び声を殴り飛ばしました。 
 階上うえは激論の最中なのかもしれません。声にも音にも、なんの反応もない程だから。
 「行くぞ総司! 永倉さん、平助は一階を頼む!」
 「はい先生!」
 私には指図さえくれないまま、局長は長い廊下を突っ切り、少し遠くではもう階段を上っていく音がしました。
養子という役回りをいただいた私の価値は、本当に身分だけだと、初めて実感しました。
 私だって武士だ。
 悔しい……この腕の揮わないのが、こんなにも。
 私だって、父上をお守りしたい。
 二人を追って、階段を駆け上がりました。父上はとうに勢いよく襖を開けて、仁王立ちをしています。
「新撰組局長・近藤勇! 御用改めである!」
「壬生狼じゃあ!」
「クソッ幕府の狗め!」
「返り討ちにしちゃる!」
 この訛りは長州に土佐まで……五十人はいるでしょうか。
 私は熱気に飲まれて、つい見失っていました。私の役目、ここに来た意味を。
 “つい”だなんて……私の悔しさなど形だけで、所詮はこの程度だということなのです。
「ありがとう総司!」
 乱闘中の父上の背後に迫っていた敵を、沖田隊長が斬り伏せました。
 それが当然のように自然に。そして見てしまった。その口元が誇らしげに緩むのを。
 途端、私の足は後退りを始めました。いいえ、階段を駆け下りていました。
 思考中を満たした動揺と衝撃で乱れ縺れる、床を踏み鳴らす音。それすら誰にも、父上にさえも気付かれず。
 決して加勢の為ではなく飛び込んだ一階は、少しの隙や窓から逃げた筈の浪士が、仲間を見捨て切れずか我武者羅の抵抗をしています。
 薄闇の中で行き交う斬り込みの掛け声、それぞれを助けようとする地方の言葉、断末魔。
 ああ私は、この場の誰にも劣る。
「ガキの壬生狼じゃ」
 物の数にも入らぬ、足手纏いにもなれずに卑怯をした私は、お誂え向きにも
 周りを囲まれていました。
「ナマッ白い、モヤシのようじゃのう」
 死ぬのなら、今かもしれない。
 このまま生き続けても、私を見つけてくれた父上を落胆させるだけ。それを傍で感じているなんて耐えられない。
 私なんかには立派過ぎる最期です。ここで斬られて、せめて闘いの中で。しかも五人もの敵を相手にして死ぬのなら、武士の中の武士である父上……あなたの息子になれますか。
「ガキじゃない……私は局長・近藤勇の息子だ!」
 勢いに任せ抜刀し、鞘を放り落とす。刀を納めることは、二度とないのだから。
「なんじゃと!」
「叩っ斬れぇ!」
 私一点に集中した殺気に、全身が揃って痙攣したように震えを感じる。祈るように、両手で握る刀に力を込める。
 どうか来世生れてくるときには、少しでもいいから勇気と、努力できる強くて清い心を置いてきませんように。
 大した抵抗もできずに、五人の大刀が私を狙う。
眼を瞑る。
 ううん……私みたいじゃなければ、なんでもいいや。
「おバカさんですねぇ」
 だから声が聞こえたのは暗闇だった。
 もう死んだものと思っていたから……後から思い出すと笑ってしまいそうですが、神様かと思ってしまいました。
 眼を開けたときには、倒れ伏した五人の骸があるばかり。
 ひとり勝手に静かに感じていたけれど、まだ私の生きているこの世・池田屋は、乱闘の最中でした。
「沖田隊長……」
 私はあらゆる謝辞を忘れ、呆然と呟きました。
 走り抜ける風のように人間を斬るこのひとは、私の方には視線のひとつもくれずに刀の血を払う。
 さっきの五人の前にも散々斬りまくっているでしょうに、まだ真っ直ぐのままの大刀はスルリと鞘に納まりました。
 それだけ太刀筋が美しいということ……包み隠さず言うと、骨の部分を避けて急所だけを切り裂く殺人剣だということ。
 私はこのひとに、なんの疑問も抱かず憧れています。そういう場所ですから、新撰組は。
「……どうして、僕なんか助けてくださるんですか?」
 本当に、バカなことを訊きました。だって、訊ねずにはいられなかったのです。
 あなたは……僕のこと、嫌いなはずなのに……。
 憎くて仕方がないでしょう? 誰に憚ることも無く、局長を父のように慕うあなただから。
 やっぱり沖田隊長は、私の必死であろう表情なんてお構いなしに、クッと特徴的な、喉を鳴らす笑い方をしながら私を見ました。
「さっきの。かっこよかったですよ」
 いつから見られていたのでしょう。
 イヤミだ。痛烈な。
 床だけを見詰めて、頬と耳に熱が溜まっていくのを耐えようとしました。その床は、人間の至る部位の肉片や髪の毛が散らばっていたけれど。
「だって……あなたに何かあったら、先生……あなたの父上が、哀しむでしょう?」
 あ……私が夢中で名乗った言葉。
 “局長・近藤勇の息子”
「……強くなれるまで、僕の後ろで震えていればいいんですよ」
 守ってくれる、という意味でしょうか。
 どうしてです。また訊きそうになるのを飲み込みました。
 どうしてあなたは、そんなにも。
「さ、行きましょうか。周平くん」
 じゃあ私は、近藤勇の息子でいられる間、精一杯生きてみます。
 そしてそれが叶わなくなったとき。そのときは、あなたが私を斬ってくださいね。
 池田屋は、始まりの日でした。
 新撰組の栄華と転落の、倒幕から討幕への変遷の、沖田隊長を蝕む病の、近藤周平という私の。
 当時の誰も、知らないことばかりですが。
 
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