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しおりを挟む「お前の婚約は破棄された」
ベアトリーチェは真っ直に伸ばした背筋を正したまま、父──ラドア伯爵から告げられた言葉に呆然としていた。
滅多に屋敷に姿を見せない父が、帰宅した途端に自分を呼び出した時から、ベアトリーチェは嫌な予感がしていた。
父はベアトリーチェに興味がない。
ベアトリーチェの教育だって家庭教師に任せっきりで、仕事を理由に顔を合わせることなどほとんどないし、ここ数年は彼から叱責を浴びるばかり。
そんな彼が自分に用事があるとすれば、また領地の仕事を自分に押し付ける気だろうと高を括っていたのだが──
「お父様、それは──・・・」
「お前に拒否権はない。これは既に決定したことだ」
いつもよりも更に鋭い目を向ける父にベアトリーチェは息を呑む。
昔から彼はベアトリーチェに厳しかったが、それと比べものにならない程の圧が感じられた。
4年前からベアトリーチェには彼が決めた婚約者がいる。
ベアトリーチェも貴族の娘である以上、政略結婚から逃れる事はできないと分かっていた。
だから、そこに愛はなかったものの、婚約者としての義務は果たしてきたつもりだった。
「それは、彼も承知でのことでしょうか? 」
ベアトリーチェは確認せずにはいられなかった。
淑女教育の賜物で、表情には出さなかったが焦りがなかったとはいえない。
「破棄だと言っているだろっ! 」
しかしラドア伯爵はベアトリーチェが納得のいく説明をするどころか、顔を真っ赤にして声を荒げた。
あまりの品のなさにベアトリーチェは顔を顰めると、彼はそれが気に入らないとばかりに激昂する。
「これが何を意味するのか貴様はわかっているのかっ! 我が家の信頼を損ねたのだぞっ! 」
父が何を焦っているのか、ベアトリーチェはすぐさま理解した。
──きっと借金のことね
ベアトリーチェはこの家の経済状況をよく知っている。
3年前、長年この家に仕えている家令に「このままでは領地経営がままならない」と泣きつかれた時から父に代わって仕事をしてきた。
その時に知った家族の散財。
ベアトリーチェがその額に愕然としたのは記憶に新しい。
ベアトリーチェの婚約はその借金を補うための父なりに頭を絞っての案だった。
相手の家は、かなりの資産家の家柄。
爵位も侯爵と、こちらよりも格上。
その為、ベアトリーチェはいつだって彼に頭が上がらなかった。
──お母様が生きていれば・・・
ベアトリーチェはそう思うも、どうする事も出来ない。
6年前、ベアトリーチェの母が亡くなると、1年も経たぬうちに父が再婚したのが全ての始まりだった。
それまでは、父はベアトリーチェに対して穏やかだったと記憶している。
ところが、父は当時12歳になったばかりのベアトリーチェの反対などお構いなしに、再婚を強行し、あろうことかその連れ子を養女として迎えた。
しかも、父の再婚相手というのが、数年前に未亡人になった、ベアトリーチェにとっては叔母にあたる、母の妹。
父の暴挙はそれにとどまらず、彼女達を受け入れると、生まれつき病弱な彼女の為にとお金を厭わず様々なものを買い与えるようになった。
おかげで義妹の方が父の本当の娘なのかと思うほど、彼女の部屋は様々な高価なもので溢れかえっている。
反対にベアトリーチェの部屋は、無駄遣いを嫌う彼女の性格もあって最低限のものしかない簡素なものとなってしまった。
その事に父は見向きもしない。
いや気づきもしていないのだろう。
1つ年下の義妹、レオノーラは、誰もが羨む艶やかなプラチナブロンドに、お人形のように整った愛らしい少女。
真っ直ぐな黒髪黒目に母ゆずりの吊り目で冷たい印象のあるベアトリーチェとは対照的だった。
性格だって、上手く甘えることの出来ないベアトリーチェと異なって、レオノーラは天使のような笑みを振り撒き、皆の注目を一瞬にして奪って行った。
「聞いているのかっ! 」
悔しさで俯いていたベアトリーチェに伯爵が唾を飛ばしながら叫ぶ。
ずっと放置してきたくせにと反発心が湧くものの、それに対抗する気力はベアトリーチェにはなかった。
ただ無表情に父の罵声を浴びるだけ。
「お前はしばらく謹慎だっ! 部屋で反省しろっ!! 」
父にそう命令され、ベアトリーチェはそれに大人しく従う以外の選択肢など持ち合わせていなかった。
*
そして、数日後。
「今、なんと? 」
謹慎が解けたベアトリーチェの元に婚約破棄したはずの婚約者が訪れてきた。
もしかしたら何かの間違いなのかもしれないと急いで支度したベアトリーチェは、彼から飛び出した一言が信じられず、目を丸めてもう一度尋ねる。
感情を表に出さないようにしている彼女にしては珍しいことだった。
「君との婚約は破棄し、レオノーラと婚約する運びとなった」
ベアトリーチェの目の前に座っていた男、シリウスは目を合わせることなく、その整った顔から一語一句同じ言葉を口にする。
「君の4年間を無駄にさせて、申し訳ないとは思う」
事務的に言葉を続けるシリウス。
彼の感情が読み取れない。
彼はいつだってベアトリーチェの前ではこうだった。
──本当に申し訳ないと思うのならこんな言い方しないわ・・・
破棄するのだってまずは本人同士の話し合いだって出来たはず。
ベアトリーチェは悔しさでスカートの裾を握りしめる。
──なんでよりによってあの子なの?
ベアトリーチェが聞きたかったのは謝罪の言葉などではなかった。
何故、自分と義妹が入れ替わるように彼と婚約することになったのか。
ただその理由が知りたかっただけ。
この婚約は家同士の利益の為で──
──ああ、そういう事なのね・・・
ベアトリーチェの頭の中で全ての点が繋がった。
家同士のことだから、相手を変えても問題はないのか、と。
そして、何故彼と目が合わないのかその理由も悟った。
「無論、こちらの一方的な破棄の為、慰謝料は払わせてもらう。希望するならば君の縁談も──」
「結構ですわ」
ベアトリーチェは最後の矜持と言わんばかりに、彼の言葉を遮る。
その声にはもう動揺はない。
いつも心がけている凛とした貴族らしい声色だった。
──義妹に心を寄せる貴方なんて…
きっとそういう事なのだろうとベアトリーチェは理解した。
ずっと知っていたけど知らんぷりしていた事実。
定期的にベアトリーチェの家にやってくる彼は、自分よりも義妹と楽しげに会話していた。
彼が来たと知らされ、勉強を止めて下りてくれば、目の前には見たことのない笑顔で義妹と向かい合う彼。
『お姉様、遅かったですね』
毎回のように白々しくそう口にする妹。
体調が優れないといつも部屋にこもっているはずの彼女は、彼が来れば、ネグリジェと大して変わらない薄着でやってきて、彼にすり寄る。
見るに耐えかねたベアトリーチェがそれを指摘すれば、義妹はいかにも傷つきましたといわんばかりに顔を歪め「ごめんなさい」「そんなつもりはなかったの」と目に涙を浮かべて長々と言い訳だらけ。
それを見た使用人達は、ベアトリーチェが病弱な義妹をいじめていると陰口を叩くし、継母は義妹を叱責するどころか、ベアトリーチェに「話があります」と詰め寄り、シリウスに関しては「もっと寛容になるべきだ」などとあろうことか義妹を肩をもつ始末。
それ以来、義妹は彼が来ても部屋から出てこないようになったが、逆に彼が挨拶だと義妹の部屋に訪れるようになった。
それについてだってベアトリーチェは世間体を考えてくれと彼を説得しようとした。
しかしながら、彼は「彼女は病弱だから」と濁すばかりでその行動を改めようとはしないばかりか、ベアトリーチェに隠れて会うようになる始末。
確かにベアトリーチェは婚約者としての義務を果たしてきた。
彼も貴族の子息であるなら、政略結婚だと割り切っていると思っていた。
別に、会っているだけだから問題ないと、思っていたのに──・・・
その相手である彼、シリウスにその気がなければ、それはどうしようもない問題。
彼はついに我慢できなくなり、婚約破棄などという暴挙にでた。
しかも、それを侯爵も父も誰も止めようとはしない。
だって家同士の結びつきはそのままに愛する2人が結ばれるのだから。
──とんだ茶番ね
きっとここでベアトリーチェが意義を唱えた所で、2人の間を邪魔する悪女だと罵られるに決まっている。
『ほんと、悪女みたいな方よね』
陰口を叩く侍女の1人がそう言った。
それに誰も否定することなく、キャタキャタと笑っていた。
──私の矜持は奪わせない・・・
ベアトリーチェは更に声に力を込める。
「流石に元婚約者である貴方の手を煩わせるわけにはいきませんもの」
そう言ってやっと彼は顔をベアトリーチェに向けた。
彼のヘーゼルの瞳は罪悪感からか、頼りなさげに揺れている。
「あら、未来の義弟という方が宜しかったでしょうか? 」
「べ、ベア──」
「婚約者でもないのに名を呼ばないで下さい」
もう彼に隙を見せる事はありません。
戸惑う声色を出す彼のことなどもう知る必要などない。
「後は父と、レオノーラとお話しください。失礼します」
私は彼に主導権を渡さまいと、声に力を入れたまま言い切ると、立ち上がり客間を後にする。
シリウスの慌てる声が後ろから聞こえたが、ベアトリーチェは振り返らなかった。
そして、そのまま父の書斎へと足を運んだ。
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