上 下
2 / 23
SIDE:B

B -1

しおりを挟む




「お前の婚約は破棄された」




 ベアトリーチェは真っ直に伸ばした背筋を正したまま、父──ラドア伯爵から告げられた言葉に呆然としていた。

 滅多に屋敷に姿を見せない父が、帰宅した途端に自分を呼び出した時から、ベアトリーチェは嫌な予感がしていた。
 父はベアトリーチェに興味がない。
 ベアトリーチェの教育だって家庭教師に任せっきりで、仕事を理由に顔を合わせることなどほとんどないし、ここ数年は彼から叱責を浴びるばかり。
 そんな彼が自分に用事があるとすれば、また領地の仕事を自分に押し付ける気だろうと高を括っていたのだが──

「お父様、それは──・・・」
「お前に拒否権はない。これは既に決定したことだ」

 いつもよりも更に鋭い目を向ける父にベアトリーチェは息を呑む。
 昔から彼はベアトリーチェに厳しかったが、それと比べものにならない程の圧が感じられた。

 4年前からベアトリーチェには彼が決めた婚約者がいる。
 ベアトリーチェも貴族の娘である以上、政略結婚から逃れる事はできないと分かっていた。
 だから、そこに愛はなかったものの、婚約者としての義務は果たしてきたつもりだった。

「それは、彼も承知でのことでしょうか? 」

 ベアトリーチェは確認せずにはいられなかった。
 淑女教育の賜物で、表情には出さなかったが焦りがなかったとはいえない。

だと言っているだろっ! 」

 しかしラドア伯爵はベアトリーチェが納得のいく説明をするどころか、顔を真っ赤にして声を荒げた。
 あまりの品のなさにベアトリーチェは顔をしかめると、彼はそれが気に入らないとばかりに激昂する。

「これが何を意味するのか貴様はわかっているのかっ! 我が家の信頼を損ねたのだぞっ! 」

 父が何を焦っているのか、ベアトリーチェはすぐさま理解した。

 ──きっと借金のことね

 ベアトリーチェはこの家の経済状況をよく知っている。
 3年前、長年この家に仕えている家令に「このままでは領地経営がままならない」と泣きつかれた時から父に代わって仕事をしてきた。
 その時に知った家族の散財。
 ベアトリーチェがその額に愕然としたのは記憶に新しい。

 ベアトリーチェの婚約はその借金を補うための父なりに頭を絞っての案だった。
 相手の家は、かなりの資産家の家柄。
 爵位も侯爵と、こちらよりも格上。
 その為、ベアトリーチェはいつだって彼に頭が上がらなかった。

 ──お母様が生きていれば・・・

 ベアトリーチェはそう思うも、どうする事も出来ない。

 6年前、ベアトリーチェの母が亡くなると、1年も経たぬうちに父が再婚したのが全ての始まりだった。
 それまでは、父はベアトリーチェに対して穏やかだったと記憶している。
 ところが、父は当時12歳になったばかりのベアトリーチェの反対などお構いなしに、再婚を強行し、あろうことかその連れ子を養女として迎えた。
 しかも、父の再婚相手というのが、数年前に未亡人になった、ベアトリーチェにとっては叔母にあたる、母の妹。
 父の暴挙はそれにとどまらず、彼女達を受け入れると、生まれつき病弱な彼女の為にとお金を厭わず様々なものを買い与えるようになった。

 おかげで義妹の方が父の本当の娘なのかと思うほど、彼女の部屋は様々な高価なもので溢れかえっている。
 反対にベアトリーチェの部屋は、無駄遣いを嫌う彼女の性格もあって最低限のものしかない簡素なものとなってしまった。

 その事に父は見向きもしない。
 いや気づきもしていないのだろう。

 1つ年下の義妹、レオノーラは、誰もが羨む艶やかなプラチナブロンドに、お人形のように整った愛らしい少女。
 真っ直ぐな黒髪黒目に母ゆずりの吊り目で冷たい印象のあるベアトリーチェとは対照的だった。
 性格だって、上手く甘えることの出来ないベアトリーチェと異なって、レオノーラは天使のような笑みを振り撒き、皆の注目を一瞬にして奪って行った。

「聞いているのかっ! 」

 悔しさで俯いていたベアトリーチェに伯爵が唾を飛ばしながら叫ぶ。
 ずっと放置してきたくせにと反発心が湧くものの、それに対抗する気力はベアトリーチェにはなかった。
 ただ無表情に父の罵声を浴びるだけ。

「お前はしばらく謹慎だっ! 部屋で反省しろっ!! 」

 父にそう命令され、ベアトリーチェはそれに大人しく従う以外の選択肢など持ち合わせていなかった。



 *



 そして、数日後。

「今、なんと? 」

 謹慎が解けたベアトリーチェの元に婚約破棄したはずの婚約者が訪れてきた。
 もしかしたら何かの間違いなのかもしれないと急いで支度したベアトリーチェは、彼から飛び出した一言が信じられず、目を丸めてもう一度尋ねる。
 感情を表に出さないようにしている彼女にしては珍しいことだった。

「君との婚約は破棄し、レオノーラと婚約する運びとなった」

 ベアトリーチェの目の前に座っていた男、シリウスは目を合わせることなく、その整った顔から一語一句同じ言葉を口にする。

「君の4年間を無駄にさせて、申し訳ないとは思う」

 事務的に言葉を続けるシリウス。
 彼の感情が読み取れない。
 彼はいつだってベアトリーチェの前ではこうだった。

 ──本当に申し訳ないと思うのならこんな言い方しないわ・・・

 破棄するのだってまずは本人同士の話し合いだって出来たはず。
 ベアトリーチェは悔しさでスカートの裾を握りしめる。

 ──なんでよりによってあの子なの?

 ベアトリーチェが聞きたかったのは謝罪の言葉などではなかった。
 何故、自分と義妹が入れ替わるように彼と婚約することになったのか。
 ただその理由が知りたかっただけ。
 この婚約は家同士の利益の為で──

 ──ああ、そういう事なのね・・・

 ベアトリーチェの頭の中で全ての点が繋がった。
 家同士のことだから、相手を変えても問題はないのか、と。
 そして、何故彼と目が合わないのかその理由も悟った。

「無論、こちらの一方的な破棄の為、慰謝料は払わせてもらう。希望するならば君の縁談も──」
「結構ですわ」

 ベアトリーチェは最後の矜持と言わんばかりに、彼の言葉を遮る。
 その声にはもう動揺はない。
 いつも心がけている凛とした貴族らしい声色だった。

 ──義妹に心を寄せる貴方なんて…

 きっとそういう事なのだろうとベアトリーチェは理解した。
 ずっと知っていたけど知らんぷりしていた事実。

 定期的にベアトリーチェの家にやってくる彼は、自分よりも義妹と楽しげに会話していた。
 彼が来たと知らされ、勉強を止めて下りてくれば、目の前には見たことのない笑顔で義妹と向かい合う彼。

『お姉様、遅かったですね』

 毎回のように白々しくそう口にする妹。
 体調が優れないといつも部屋にこもっているはずの彼女は、彼が来れば、ネグリジェと大して変わらない薄着でやってきて、彼にすり寄る。

 見るに耐えかねたベアトリーチェがそれを指摘すれば、義妹はいかにも傷つきましたといわんばかりに顔を歪め「ごめんなさい」「そんなつもりはなかったの」と目に涙を浮かべて長々と言い訳だらけ。
 それを見た使用人達は、ベアトリーチェが病弱な義妹をいじめていると陰口を叩くし、継母は義妹を叱責するどころか、ベアトリーチェに「話があります」と詰め寄り、シリウスに関しては「もっと寛容になるべきだ」などとあろうことか義妹を肩をもつ始末。

 それ以来、義妹は彼が来ても部屋から出てこないようになったが、逆に彼が挨拶だと義妹の部屋に訪れるようになった。
 それについてだってベアトリーチェは世間体を考えてくれと彼を説得しようとした。
 しかしながら、彼は「彼女は病弱だから」と濁すばかりでその行動を改めようとはしないばかりか、ベアトリーチェに隠れて会うようになる始末。

 確かにベアトリーチェは婚約者としての義務を果たしてきた。
 彼も貴族の子息であるなら、政略結婚だと割り切っていると思っていた。
 別に、会っているだけだから問題ないと、思っていたのに──・・・

 その相手である彼、シリウスにその気がなければ、それはどうしようもない問題。

 彼はついに我慢できなくなり、婚約破棄などという暴挙にでた。
 しかも、それを侯爵も父も誰も止めようとはしない。
 だって家同士の結びつきはそのままに愛する2人が結ばれるのだから。

 ──とんだ茶番ね

 きっとここでベアトリーチェが意義を唱えた所で、2人の間を邪魔する悪女だと罵られるに決まっている。

『ほんと、悪女みたいな方よね』

 陰口を叩く侍女の1人がそう言った。
 それに誰も否定することなく、キャタキャタと笑っていた。

 ──私の矜持は奪わせない・・・

 ベアトリーチェは更に声に力を込める。

「流石にである貴方の手を煩わせるわけにはいきませんもの」

 そう言ってやっと彼は顔をベアトリーチェに向けた。
 彼のヘーゼルの瞳は罪悪感からか、頼りなさげに揺れている。

「あら、未来のという方が宜しかったでしょうか? 」
「べ、ベア──」
「婚約者でもないのに名を呼ばないで下さい」

 もう彼に隙を見せる事はありません。
 戸惑う声色を出す彼のことなどもう知る必要などない。

「後は父と、レオノーラとお話しください。失礼します」

 私は彼に主導権を渡さまいと、声に力を入れたまま言い切ると、立ち上がり客間を後にする。
 シリウスの慌てる声が後ろから聞こえたが、ベアトリーチェは振り返らなかった。
 そして、そのまま父の書斎へと足を運んだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

リアンの白い雪

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
その日の朝、リアンは婚約者のフィンリーと言い合いをした。 いつもの日常の、些細な出来事。 仲直りしていつもの二人に戻れるはずだった。 だがその後、二人の関係は一変してしまう。 辺境の地の砦に立ち魔物の棲む森を見張り、魔物から人を守る兵士リアン。 記憶を失くし一人でいたところをリアンに助けられたフィンリー。 二人の未来は? ※全15話 ※本作は私の頭のストレッチ第二弾のため感想欄は開けておりません。 (全話投稿完了後、開ける予定です) ※1/29 完結しました。 感想欄を開けさせていただきます。 様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。 ただ、皆様に楽しんでいただける場であって欲しいと思いますので、 いただいた感想をを非承認とさせていただく場合がございます。 申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。 もちろん、私は全て読ませていただきます。 ※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。

溺愛される妻が記憶喪失になるとこうなる

田尾風香
恋愛
***2022/6/21、書き換えました。 お茶会で紅茶を飲んだ途端に頭に痛みを感じて倒れて、次に目を覚ましたら、目の前にイケメンがいました。 「あの、どちら様でしょうか?」 「俺と君は小さい頃からずっと一緒で、幼い頃からの婚約者で、例え死んでも一緒にいようと誓い合って……!」 「旦那様、奥様に記憶がないのをいいことに、嘘を教えませんように」 溺愛される妻は、果たして記憶を取り戻すことができるのか。 ギャグを書いたことはありませんが、ギャグっぽいお話しです。会話が多め。R18ではありませんが、行為後の話がありますので、ご注意下さい。

ガネス公爵令嬢の変身

くびのほきょう
恋愛
1年前に現れたお父様と同じ赤い目をした美しいご令嬢。その令嬢に夢中な幼なじみの王子様に恋をしていたのだと気づいた公爵令嬢のお話。 ※「小説家になろう」へも投稿しています

[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜

日向はび
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」 二人は再び手を取り合うことができるのか……。 全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)

「あなたのことはもう忘れることにします。 探さないでください」〜 お飾りの妻だなんてまっぴらごめんです!

友坂 悠
恋愛
あなたのことはもう忘れることにします。 探さないでください。 そう置き手紙を残して妻セリーヌは姿を消した。 政略結婚で結ばれた公爵令嬢セリーヌと、公爵であるパトリック。 しかし婚姻の初夜で語られたのは「私は君を愛することができない」という夫パトリックの言葉。 それでも、いつかは穏やかな夫婦になれるとそう信じてきたのに。 よりにもよって妹マリアンネとの浮気現場を目撃してしまったセリーヌは。 泣き崩れ寝て転生前の記憶を夢に見た拍子に自分が生前日本人であったという意識が蘇り。 もう何もかも捨てて家出をする決意をするのです。 全てを捨てて家を出て、まったり自由に生きようと頑張るセリーヌ。 そんな彼女が新しい恋を見つけて幸せになるまでの物語。

私の恋が消えた春

豆狸
恋愛
「愛しているのは、今も昔も君だけだ……」 ──え? 風が運んできた夫の声が耳朶を打ち、私は凍りつきました。 彼の前にいるのは私ではありません。 なろう様でも公開中です。

私はただ一度の暴言が許せない

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
厳かな結婚式だった。 花婿が花嫁のベールを上げるまでは。 ベールを上げ、その日初めて花嫁の顔を見た花婿マティアスは暴言を吐いた。 「私の花嫁は花のようなスカーレットだ!お前ではない!」と。 そして花嫁の父に向かって怒鳴った。 「騙したな!スカーレットではなく別人をよこすとは! この婚姻はなしだ!訴えてやるから覚悟しろ!」と。 そこから始まる物語。 作者独自の世界観です。 短編予定。 のちのち、ちょこちょこ続編を書くかもしれません。 話が進むにつれ、ヒロイン・スカーレットの印象が変わっていくと思いますが。 楽しんでいただけると嬉しいです。 ※9/10 13話公開後、ミスに気づいて何度か文を訂正、追加しました。申し訳ありません。 ※9/20 最終回予定でしたが、訂正終わりませんでした!すみません!明日最終です! ※9/21 本編完結いたしました。ヒロインの夢がどうなったか、のところまでです。 ヒロインが誰を選んだのか?は読者の皆様に想像していただく終わり方となっております。 今後、番外編として別視点から見た物語など数話ののち、 ヒロインが誰と、どうしているかまでを書いたエピローグを公開する予定です。 よろしくお願いします。 ※9/27 番外編を公開させていただきました。 ※10/3 お話の一部(暴言部分1話、4話、6話)を訂正させていただきました。 ※10/23 お話の一部(14話、番外編11ー1話)を訂正させていただきました。 ※10/25 完結しました。 ここまでお読みくださった皆様。導いてくださった皆様にお礼申し上げます。 たくさんの方から感想をいただきました。 ありがとうございます。 様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。 ただ、皆様に楽しんでいただける場であって欲しいと思いますので、 今後はいただいた感想をを非承認とさせていただく場合がございます。 申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。 もちろん、私は全て読ませていただきます。

最愛の婚約者に婚約破棄されたある侯爵令嬢はその想いを大切にするために自主的に修道院へ入ります。

ひよこ麺
恋愛
ある国で、あるひとりの侯爵令嬢ヨハンナが婚約破棄された。 ヨハンナは他の誰よりも婚約者のパーシヴァルを愛していた。だから彼女はその想いを抱えたまま修道院へ入ってしまうが、元婚約者を誑かした女は悲惨な末路を辿り、元婚約者も…… ※この作品には残酷な表現とホラーっぽい遠回しなヤンデレが多分に含まれます。苦手な方はご注意ください。 また、一応転生者も出ます。

処理中です...