君に愛は囁けない

しーしび

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後編

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「これは新手の嫌がらせか? 」

 ジルベールはセシルの手首を掴んだまま詰め寄ってくる。
 セシルはいつもの彼らしい柔らかみも思いやりもないその物言いに顔を上げることさえできずにいた。

──なんで、怒ってるの・・・

 いくらわがままを言おうともおおらかに受け入れてくれた彼が、こんな凍りつくような声をセシルに浴びせるなんて信じられなかった。
 けれど、これは紛れもなくジルベールで、自分は何か彼の琴線に触れてしまったのだということだけは分かった。
 ただ、何が彼をこんなふうにしてしまったのか、セシルには見当もつかない。

「姿が見えないと思えば、一言もなしに勝手に帰って、今度は婚約破棄をして修道院に入るって? 」
「っ・・・」

 全部聞かれていたのかという驚きと共に、セシルの手首に痛みが走った。
 俯きながら横目で見れば、手首を掴む彼の手がグッと固くなっているのが見える。

「離して・・・」
「離すものか」

 知らないジルベールの姿に怖気づきながら小さな声で懇願したセシルだったが、彼はすぐさまそれを跳ね除け、もう片方の手も拘束し、セシルを逃さまいと一歩踏み出してくる。
 セシルはそれに慄いて後退ろうとするも、後ろは壁で逃げ場はなかった。

「ちゃ、ちゃんと話すから・・・。落ち着いて・・・痛い」

 セシルはカラカラになった喉で彼に訴え、掴まれた手で彼を押し返そうとした。
 きっと勝手に進めたから怒っているだけで、彼を自由にするための事だと言えば、彼は納得してくれる。
 だから、セシルはそれを説明しようと、詰め寄ってくる彼をなんとか落ち着かせたかった。

 それが伝わったのか、彼はそっとセシルを掴む手を緩めた。

「すまない」

 恐る恐るセシルが見上げると、彼は悲痛をあらわにした目でセシルの赤くなった手首を見つめていた。
 痛いのはセシルなのに、なぜ彼がこんな辛そうな顔をするのか。
 その理由はセシルには分からなかったが、その表情に胸が締め付けられて、セシルはすぐに腕を体の後ろに回した。
 彼を苦しめるものはこの世から消えてしまえばいいのにとセシルは思う。

「声もかけずに帰った事なら、謝るわ。確かに配慮が足りてなかったもの」
「違う」

 セシルが説明しようと話し始めれば、彼がそれを遮った。
 彼は相変わらず隠して見えなくなった手首の方へ痛ましげに目を向けたままだったが、ゆっくりと顔を上げ、目の前にいるセシルに視線を落とす。
 エメラルドの瞳はどこか悲しげで、その奥には冷たい何かが蠢いているように思えた。

「配慮なんて。君は私への遠慮の塊だろ」

 そう吐くように言った彼の顔は今にも泣きそうで、セシルは思わず手を差し伸べたい衝動に駆られた。
 こんな彼の表情はリーナが亡くなった時以来だ。

 リーナの葬儀中苦しそうに顔を歪めながらも、決して涙は流さなかったジルベール。
 けれど、彼の背中はどこか頼りささげで、セシルはリーナの最後と似た空気を感じてしまって、葬儀後一人リーナの墓の前に佇む彼に抱き付かずにはいられなかった。
 彼にしがみつきながら顔を覗いてみれば、耐え忍ぶように顔をくしゃりと歪め、そのエメラルドの瞳にはみるみる潤んでいき、大きな一粒がこぼれ落ちた。
 それを見るのが息苦しくて、セシルは彼の胸に顔を埋めて震えが止まるのをひたすら待っていた。

「君はしおらしく私の後を付いて歩くだけの人間か? 文句も言わず頷くだけの、そんな玉じゃないだろ」

 彼はセシルをなんだと思っているのか。
 らしくないと分かっていてもジルベールの婚約者として恥じぬようせい一般やってきた。
 彼が批判されないよう、彼がセシルのせいで不快にならないように。
 なのにと反論しようと顎を上げるも、細めた彼の目が潤んでいるように見えて、言葉が詰まってしまい、勢いは消えてしまう。

「いつもは我慢なんて嫌いなくせに」
「私だって・・・大人になるわ。いつまでも子どもではいられないもの」
「子どものようにしがらみなく生きたいと伯爵に言ったのは嘘か? 」
「それは・・・」

 確かに、勢いで言ったなと口ごもるセシル。

「あれだけ私を振り回しておいて、今更すぎる」

 泣きそうな彼の顔には懐かしさが滲んでいた。

──そうだったわ

 セシルは思い出した。
 セシルにとってジルベールが生まれた時から当たり前にいる存在ならば、彼だってずっとセシルを見てきた。
 17年、セシルの成長を見届けたジルベールに嘘が通用するわけがない。

──本当、私、何をしてるのよ

 何も考えずに彼に甘えていた時の自分が今は恨めしい。
 けれど、それだけ彼が自分を見てくれていたということに昂るものがあって、口を一文字にしてセシルは出ていきそうな感情を噛み締めた。

「婚約破棄をすれば貴方は自由よ」

 セシルは熱っぽい息を吐きながらジルベールに伝える。

「爵位だって気にしないで。私が修道院に入れば、貴方がここを継ぐことになるだけよ。そうなれば、貴方は誰でも結婚することができるわ。公爵令嬢とだって・・・」

 覚悟を決めたはずなのに、セシルは言葉を発するたびに勢いが削がれていき、最後は尻すぼみになり言い切ることができなかった。
 口にすることでこれで本当に終わりなんだと突きつけられる。
 鼻の奥がツンとして、それは絶対に彼には悟られてはいけないとセシルは顔を背け、手の甲で口元を隠した。

「私に君以外を娶れと? 」

 憤りを露わにした声。
 セシルはもう彼の顔を見る勇気もなく頷いて答える。

「何を誤解している」
「誤解ではないわ。貴方は引く手数多だと聞いただけ。だから、わざわざ私なんかと結婚する必要もないの」
「その言葉は私を貶しているのか? 」
「そんなんじゃないわ」

 セシルはフルフルとかぶりを振った。

「私が貴方に相応しくないだけ。だから貴方は貴方に似合った人に・・・」
「それが貶していると言っているんだ」

 ジルベールは耐えきれないと言わんばかりに、セシルの背後にある壁に勢いよく手をつく。
 ドンと鈍い音が聞こえ、セシルは思わず顔を上げた。
 顔の横にある彼の腕を目で辿っていけば、美しい彼の顔が憂いを帯びてセシルを見つめていた。

「他の者の言葉などに振り回されるな。私はそんな事口にしたことも思ったこともない」

 熱のこもった彼の声がゾクリとセシルの背中を痺れさす。
 そんな声をしないでくれとセシルは心の中で懇願する。
 それは自分には毒でしかない。

「私はこの婚約が煩わしかったことなどない。放棄する気もない」
「それはこれが事業も絡んで・・・」
「仕方なくではない。君との婚約で何も問題ないと思ったからだ」

 ジルベールはセシルに否定させまいと言葉を重ね、強く言い切る。
 彼の言葉はセシルの胸を叩いてくる。
 その振動はだんだんとセシルの奥深くまで響いてくるかのようで──

「妥協などではない。この婚約は他の誰でもない君だから──」
「やめて! 」

 セシルは耐えきれなくて叫んだ。
 それ以上は聞きたくないと両手で耳を塞いだ。

「この部屋でそんなことを言わないでっ・・・」

 2年前に改装したばかりの新しい部屋はセシルを息苦しくさせる。

 本当は知っている。
 彼は婚約者以外にうつつを抜かすような人ではないと。
 彼はどこまで誠実で、セシルにとって十分すぎる、幼い頃夢見た理想の婚約者だった。
 だからあの公爵令嬢と何もないことだってよく知っている。
 たとえ彼女が彼に想いを寄せていようととも、彼は思わせぶりな態度も何もしているわけない。
 それだけセシルだって彼を信用し切っている。

 けれど、セシルはどうしてもこれ以上彼の婚約者ではいたくない。

「貴方だけは言わないで・・・」

 セシルは崩れ落ちながらジルベールに懇願した。
 何も聞きたくなくて、見たくもなくて、セシルは身を縮こませる。

 彼が割れ物に触れるかのように優しくセシルの手を取る度。
 彼が愛しいものを見るかのように笑いかけてくれる度。
 彼が穏やかな声でセシルに囁く度。

 その一挙手一投足に、セシルは揺さぶられ、込み上げる熱と胸の焦れた痛みに狂わされる。
 熱や痛みは決してきれてくれなくて、違う形でセシルの中に積み重なり、それはいつの間に簡単に口にすることができないものへと変わっていた。

 それを自覚してしまえば、セシルの脳裏に現れるのは16歳のリーナの姿。
 痩せこけた彼女がギョロッと自分を睨んでいるようで、セシルはこれは自分の中で生まれるその感情を否定しなければならない気がしていた。

 そして気づいてしまった。

 いつの間にか父達はリーナの事を口にしなくなってしまった。
 思い出話も、まるでセシルしかいなかったかのように語る。
 リーナの部屋だったここも、彼女の私物が少しずつ倉庫へ仕舞われて行き、ついには彼女の存在自体を消すように改装されてしまった。

 いや、何よりも怖かったのは、自分の中にあるリーナの記憶が朧げになっていく事。
 あんなに大好きだった姉の笑顔がどんどん色褪せていき、恋しいと思っていた彼女の温もりさえ忘れそうで、彼への想いが募るたび記憶が上書きされて行くように思えた。

「いやよ。これ以上、お姉様を忘れたくない・・・」

 セシルは抑えきれず言葉をこぼす。

 たった一人の大切な姉。
 両親とはまた違った愛情をセシルに注いでくれて、セシルの憧れだった。

 けれど、記憶の中の姉は16歳から変わることはない。
 そうやってもその先の姉を想像できない。
 いつの間にか彼女の歳を超えてしまった自分は、きっとこれから先、現実と頭の中のリーナの姿はだんだんと乖離していくのだろう。

 そんな考えに行き着いた時、セシルの頭は凍りついてしまった。

 何もかも忘れていしまい、リーナを置いていく自分の将来がおぞましかった。
 リーナはいつだってセシルを置いてけぼりにしたことなんてなかった。
 わがままなセシルを彼と一緒に手を引いてくれていたはずなのに、今では彼の手ばかり思い出して彼女の姿が朧げ。

「セシル・・・」

 ジルベールが痛ましげな声を出す。
 その声はすぐにセシルの胸に染み込んでいってしまう。

 だから、彼だけはダメだった。
 リーナと8年も婚約し、想いを通じ合わせていた彼だけはダメ。
 既に彼との婚約は9年目を迎えてしまった。
 リーナが叶うことのないその先がセシルには待っている。

 そういうものだと人は言うかもしれない。
 けれど、セシルは忘れたくなどなかった。
 皆の記憶からリーナが薄れていってしまうのなら。
 それならば自分だけは彼女を忘れずにいたかった。

 8年間でセシルは沢山のものを姉から贈られたから。
 それのお返しも何もできずに彼女はいってしまったから。
 だから、セシルだけは彼女を想い続けていたかった。
 それぐらいしかセシルにできることはない。
 まるで彼女のように生き代わってしまった自分を保つ術でもあった。

 けれど、それをジルベールに強要することはできない。
 ジルベールは、亡くなった者にいつまでも縛られることなく自由に生きてもいい。
 だから、セシルは彼を──

「なぜ言わせない」

 言葉と共にジルベールの温もりがセシルに降ってきた。

「君はいつもそうだ。9年も経つのに君は私に大切な言葉を口にするのを拒んでばかりだ。君が許すまで待とうと大人しくてしていれば、婚約破棄などと・・・。私にだって限界がある」

 彼はそう吐きながら自分の胸にセシルの顔を埋もらす。

「やめてっ・・・」

 苦しいほどに彼に抱きしめられ、セシルはこのまま溺れそうになる感情を跳ね除けようと足掻く。
 けれど、彼は決して離してはくれなかった。

「貴方は、お姉さまの──」
「そうだ。私は婚約者の妹と平然と婚約できる愚か者だ」

 セシルに回された彼の手が肩を強く掴む。
 両手の自由さえ奪われたセシルは抵抗もできず彼の胸に抱かれる。
 明らかにリーナと違う温もりと匂い。
 でもそれらはセシルの奥底をくすぐり、そして荒ぶる感情を押さえつけてしまう。

──だから嫌よ・・・

 その想いはもう声にならず、大きな粒になって頬を濡らした。

「恨むなら恨めばいい」

 こんなにも嬉しいのに、苦しい。
 姉への罪悪感は込み上げるのに、ジルベールを求めようとする自分がいる。

「だから、愛していると言わせてくれ」

 ジルベールの甘く切ない囁きがセシルを包み込む。

 いくらセシルの頭が整理がつかぬとも、もう動き始めてしまった想いがある。

 もう手遅れだとセシルも知っていた。

 だから、彼の背に自分の手をそっとそわせた。
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