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季節の匂い

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。春の匂いも色濃くなって、時折うっすら夏の香りさえ感じる今日この頃、と思えばなんだか肌寒い日もあって、暖房をつけてしまう日もありますね。過去に一度だけ、ある夏の早朝のことでした。涼しいというより寒くて寒くて、ストーブの電源を入れた日がありました。もちろん日中は気温が上がりましたけれど、朝とはいえ、まさか夏真っ盛りにストーブをつけて平気だとは思いもよりませんでした。ストーブといえば、つける時や消す時に匂いがしますよね。ガソリンスタンドも独特の匂いがして苦手という方もいるかもしれません。毎日のように車を運転していると、ガソリンを当然ながら消費しますからあまり気にしてもいられなくなるのですが。つまりは“慣れ“ですね。匂いというのは、他の五感に比べてすぐに慣れるそうです。高校生の頃、窓を開けていたので夏のことでしょうか、外をバキュームカーでも通ったのかすごい臭いが教室まで漂ってきたんです。その時の先生が、嫌がる私たちに「大丈夫、すぐに慣れるから」と言ったんですね。その言葉通り、あんなに嫌だと思っていた臭いを全く感じなくなりました。動物は嗅覚に敏感ですが、人間の鼻というのは案外、鈍感にできているのかもしれませんね。
 匂いといえば、『懐かしい匂い』って皆さん感じた経験はありますか? これもどこかで聞いた話ですが、過去の記憶と匂いとは密接に関係しているそうですね。他の五感に比べて過去を想起しやすい感覚でもあるということです。たとえば、縁側に座って祖父母とスイカを食べたあの日の匂いがするとか、お祭りに行って屋台の匂いに包まれると友達と回った思い出が鮮明に蘇るとか。そう考えると、私たちの鼻ってやっぱり敏感なのかなとも思いますね。どちらかというと、鼻そのものというよりも、鼻から感じる匂いに刺激された脳のほうが敏感に反応するのでしょうね。
 季節の匂い、過去の匂い、誰かには説明しづらい感覚です。視覚も聴覚も、味覚や触覚もつまるところは主観によるものなので、完全に誰かと共有することは不可能でしょう。とはいえ、嗅覚以外の感覚はなんとなく表現する言葉がありますよね。微妙にニュアンスが違ったとしても、近い感覚は伝えることができるでしょう。では、嗅覚はというと、過去の匂いや季節の匂いをはじめ、自分がどれだけはっきり感じていても、当てはまる言葉が見つからないものです。強いていうなら「ほら、あの懐かしい匂い」とか「ほら、春の匂いがする」とかでしょうか。でも、あまりに抽象的で感じたことのない人からするとなんじゃそりゃとなってしまいます。匂いの感覚を共有するには、全く同じ経験をしないといけないのかもしれません。
 私は桜の匂いが好きで、ハンドクリームとか入浴剤とか、シャンプーにボディソープ、化粧品などなど、春になると必ず店頭に並ぶラインナップを片っ端から買ってしまう習性があります。なんでしょうね、あの少し癖のある独特な香りが心地良いんですよね。百合や薔薇などもそうですが、花の香りは強すぎずふわりと香るくらいがちょうどいいですね。たとえがピンポイント? いえいえ、決して隠語ではなく、言葉通りの意味ですよ?
 それはともかく、レモンとかキンモクセイとか、メジャーな香りはすぐにそれと気がつきますが、日常生活の中で「あ、この匂い好き」と感じたとして、それが一体何の香りなのかわからないことってありますよね。私は昔、キンモクセイの香りがわからなくて、「あぁこれがキンモクセイの香りなんだ」と感覚と名前が一致したのは、わりと大人に近くなってからだと思います。美容院で、仕上げにワックスを使ってもらうことがあるのですが、その香りが好きで美容師さんに「何の香りですか?」なんて聞いたこともあります。でも、コンビニのお手洗いなんかによく設置されている、楕円形の、上に向かって手のひらで押すと出てくるタイプのハンドソープの香りが好きだと思っても、まさか店員さんに「トイレの石鹸の香りは何ですか?」と聞くわけにもいかないし、かといって市販のハンドソープを全て試しみるわけにもいきません。そもそも、業務用のハンドソープだとしたら、見つけようがありませんよね。幼い頃、近くにある科学館が好きで、よく通っていたのですが、そこで香水を作ることができたんです。実際には"香水"ではなかったのでしょうが、お母さんの化粧品に憧れるが如く、当時の私は"香水“という存在に惹かれていたのでそう覚えているのでしょう。その香りがとても好きでね、何かの拍子に感じたりすると、幼い頃の思い出がぶわぁっと蘇ってきます。そういえば、思い出が蘇る感覚と匂いが花開く感覚ってよく似ているのかもしれません。匂いを感じなくなると、思い出も急速に萎んでいって、「あれ、今何を考えていたんだっけ」となるのも常です。人間の感覚って不思議なものですね。
 高校生の頃、同じクラスの女の子に「いい匂いがする」と言われたことがあります。それがシャンプーやボディソープの香りだったのか、はたまた『私』の香りだったのかはわかりません。『私』の香りってなんぞやと思いましたか? たとえば、家に入った瞬間、寝室に入った瞬間の香りが、『私』の香りです。たぶん、自分の香りですから「いい香り」と認識することが多いと思います。でも、自分の香りですから普段の生活で自分自身が感じることは極端に少ないでしょう。そう、香りはすぐに慣れてしまうものでもありますから。逆に、他人の香りはすぐにわかりますよね。私のことをいい匂いと言ってくれたように、友達の家にお邪魔すると、その子の家の香りがする。「◯◯ちゃんの香りだ~」なんて思いながら、家に上がるんですよね。お父さんお母さんと友達の会話を耳にすると、幸せそうな家庭だななんて、ちょっと羨ましく感じたりもしますね。でも、その後で自分の家に帰ると、幸せ以上に安心を感じるものです。やっぱり自分の家が一番落ち着くよねとほっとするんですね。意識していないだけで、実は匂いが密接に関係しているのではないでしょうか。
 そろそろお別れの時間です。夕方、学校帰り仕事帰りに、帰り道を歩いていると、どこかのお家からふわりと夕食の香りが鼻を掠めることがあります。今夜はカレーだなとか今夜は肉じゃがかしらなんて考えながら、うちのご飯は何だろなと想像しながら帰るのが楽しいんですよね。「ただいま」「おかえり」の会話と共に、優しく漂う夕飯の香り。私はしばらくそんな光景とは縁のない生活を送っていますが、一人暮らしの方も今日は何を食べようかなとうきうきしながら帰路を辿るのは、みんな同じかと思います。あなたの五感は総じてあなただけのものですが、とりわけ嗅覚は個人の裁量に任されるので、文章ではなかなか表現できないのが難点ですね。けれど、だからこそ、あなたの思い出とともにずっとあなたと一緒に存在してくれるものだとも思います。私は季節の匂いを感じた日には、深呼吸をするようにしています。あぁ夏が来るなぁなんて考えながら、一歩を踏み出すとなんだか明日が明るく見えるような気がするから不思議です。皆さんも素敵な明日にしてくださいね。また来週お会いしましょう。深見小夜子でした。



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