45 / 56
拝見させていただきます
しおりを挟む
さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。進学にお仕事に、新しい環境で疲れていませんか? ストレスも溜まるし、気温差や花粉も相まって体調を崩しがちな季節ですよね。自分が慣れていないことももちろん理由としてはありますが、学校や会社って外側からはわからない変な慣習や風習が存在するんですよね。私は田舎の中学校出身ですが、入学早々、鞄の使い方を噂で聞いたんですね。学校指定の鞄はチャックで閉めてからさらに、パチンと嵌めるタイプの留め具が2箇所についていたんです。留め具は必ずしも留めなくても中身が出ることはないので、そこをアレンジして使うのがお年頃の流行だったわけですね。留め具をひとつ外すのは彼氏彼女募集中、ふたつ外すのは彼氏彼女ありの目印、そしてご多分に漏れず一年生はどちらも留めなければ先輩に目をつけられる。なんじゃそりゃって感じですよね、今思うと。当時は素直な女の子でしたから、実際にそうだったのかはともかく、私は先輩たちの鞄を見て「へえ~いるんだ~」なんてぼんやりと考えておりました。かと思えば、これはいいの? なんてこともあるんですよね。私は一年生の頃ショルダータイプのその指定の鞄を、肩紐を長くして、よもや引き摺る勢いで使っていたのですが、部活の先輩たちに「こうして使いなよ」と思いっきり短くされました。確かに垢抜けて今時の、まぁ当時の今時ですから今からすれば時代遅れなのかもしれませんが、ともかく野暮ったい印象のない使い方になったわけですね。何かと拘束されがちな一年生事情ですが、それはありなんだと不思議に思ったことを覚えています。慣習と呼ばれるものには付き物ですが、良いと悪いの基準が至極曖昧で外から見ていると「なんじゃそりゃ」と思うようなことばかりです。
部活動が最たるもので、私はバレーボール部でしたが、当時ひとつ上の先輩たちと私たちの学年は何かとそりが合わなかったんですね。先輩が重い道具を持っていたら「代わります」って言うんでしょ!なんて怒られたことがあったので、次に見かけた時にその通りにしたら「いいから違うことやって」なんて言われて。理不尽だなぁと子供心に感じたものです。「違うことやって」も理屈としてはわかるし、「代わります」もわかりますよ。大人になってからもそういう気遣いって大事ですよね。でもね、当時中学生ですよ。先輩たちにだってそんな高尚な意図があったとは思えません。単純に、その時の状況や気分からの発言でしょう。突き詰めれば、結局は私に周りが見えていなかったということなのかもしれませんしね。ただ、そのとき思ったんです。その一件で私が本当に学んだのは、気遣いではなく、この社会の理不尽さと厳しさだったのだと。そして私は、絶対にそんな先輩やそんな大人にはならないと誓いました。いいじゃないですか。何事もやれる人がやる、で。何がいけないのでしょう。代わりますと言われたら、じゃあお願いって言えばいい。他にもやることがあるなら、私がそれをすればいいだけです。もし、後輩に他のことをして欲しいなら「大丈夫だから、あっちお願いできる?」と言えばいいのです。そもそも私は「代わります」って言うんだよなんてどうでもいいことは教えませんが。
とはいえ、部活動では本当に大人になってからも大切なことも教わりました。体育会系の方なら心当たりがあるでしょう。部活終わりに先生のところに集合して、挨拶して解散という流れは今でもどこも同じかと思います。ある練習試合の日、その集合のタイミングで他校の先生が近くに座っていたことがあったんですね。先にそちらに挨拶をして、顧問の先生の周りに集まっていたら、「人にお尻を向けるな!」と激怒されたんです。私だとは気づかずにいたのですが、確かに後ろに他校の先生がいたんですね。角度的にお尻を向けているかどうかは微妙なところでしたが、それこそ屁理屈というものでしょう。相手にそう見えたなら、きっとそうだったのです。二十年ほど経った今でも鮮明な記憶として頭に残っています。大人になった今こそ、そんな自分を恥ずかしく思います。ですから、「人にお尻を向ける」という行為には何かと敏感になってしまうんですね。もしもそうせざるを得ない時や、気づかなかった時などは「すみません、お尻を向けて」と一言声をかけるようにしていますし、片手で物を受け渡しする時なんかも「すみません、片手で」と言うようにしています。そうしておけば、大概の人は「いいんだよ」って返してくれますから。そういう意味で言えば、中学生の頃のあの出来事は、私の人生を変えたと言っても過言ではないのでしょうね。
かといって、そういう学びは学生のうちに限らないですよね。大人になってからも『御中』と『様』の使い方に悩んだり、別にお世話になっていなくてもとりあえず「お世話になっております」という挨拶をしたり。多くの人はおそらく、「みんながやっているからこれでいいんだ」という感覚だと思います。たとえば、返信用の封筒やFAXに会社名と少し離れたところに小さく担当者の判子が押してあったとして、会社名のところに『御中』と書かなくてはと思いつつ、これは『様』だけでいいのかも? なんて考え始めたらどつぼに嵌るのは目に見えています。仕事が進まないので、結局はどっちにもつけちゃえと送ってしまいませんか? 正直に言うと、私にも正解はわかりません。ただ、自分はこれが正解と知っていたとしても、相手も同じく正解と思ってくれるとは限りませんから、失礼だと思われないかななんて考えて、間違っていると知りつつ、相手に合わせることもありますよね。
このように『正しいこと』と『常識』は似て非なる概念です。『常識』とは多くの人がそう感じていることに対して使いますから、たとえ本当に正しいことでも、『私だけの正しいこと』と『みんなの常識』とでは多勢に無勢です。正しいを正しいと言えなかったり、間違っていることを知りながら抜け出せなかったり、皆さんもそういう経験ありますよね。『常識』の中には、多くの人がこれは違うよねと感じていることでも、うまく正されずになあなあで済まされていることもたくさんあるのでしょう。
けれど、これが『正しい』のだと主張できなくても、正しさを追求することは悪いことではありません。よく「拝見させていただきます」なんて言葉を耳にしますが、『拝見』の時点で既に『見る』の謙譲語ですから、『させていただきます』は不要のはずです。「拝見します」が言葉遣いとしては正しいのですが、「拝見させていただきます」という言い回しが世に広まってしまった今、なぜか正しいほうが失礼だと思われがちです。国語の授業が好きだった私は、小説家としてのある種プライドもあって、普段から言葉遣いには気をつけるようにしています。小説の中でもそうですね。『犯罪を犯す』、ミステリではよく耳にしますが、『頭痛が痛い』と同じですよね。私も恥ずかしながら大人になってから、好きな作家さんのエッセイを読んで気がつきました。言葉を扱う人間として、何気ない台詞も実は正しくないのだとしたら、やっぱり正しさを極めてみたくなるものです。私の持論ですが、本当に恥ずかしいのは、正しさを主張できないことではなく、正しさを正しいと知らない、気づかない、認めないことなのではないでしょうか。「これは正しくない」と声に出して言うには、とても勇気がいります。それこそ、世界が変わらなければ変えられないことだってあります。それでも、あなたがあなたの正しさを求める行為を、誰にも邪魔する権利はありません。私は「拝見させていただきます」とは言わないし、「犯罪を犯す」も使いませんが、それがあくまで私の中の正しさであることも理解しています。誰かに押しつけようとは思いません。私は私、あなたはあなたです。
さて、そろそろお別れの時間です。とはいえ私も、正しくないけれど多くの場合そうだから、というただそれだけの理由でどうしても変えられないことがあります。それは小説の登場人物の台詞で、『い抜き』言葉を使うこと。「今、何してるの?」「テレビ観てたよ」。正しくは「何をしているの?」「テレビを観ていたよ」のはずですが、そういうキャラクター性でない限り、なんだかくどいというか、あまり普段の生活では聞き慣れないので、「そんな会話しないだろう」と読者に思われてしまうわけですね。もちろん今の私も、その読者なら思うでしょう。こんなふうに、何事もそうですが「そこまでしなくてもいいよね」と妥協する方は、私も含め多いことでしょう。いいんですよ、それで。正しさだけを見ていると、どうしてか疲れてしまうことがあります。正しいことは正しいです。でも、間違っているからと言って、必ずしも悪ではありません。『みんなで渡れば怖くない』とも言います。若干、ニュアンスは違いますが、こんな時、私はやっぱり独りで生きているんじゃないんだなぁとしみじみ思います。皆さんも、そうですよね、きっと。また来週お会いしましょう。深見小夜子でした。
部活動が最たるもので、私はバレーボール部でしたが、当時ひとつ上の先輩たちと私たちの学年は何かとそりが合わなかったんですね。先輩が重い道具を持っていたら「代わります」って言うんでしょ!なんて怒られたことがあったので、次に見かけた時にその通りにしたら「いいから違うことやって」なんて言われて。理不尽だなぁと子供心に感じたものです。「違うことやって」も理屈としてはわかるし、「代わります」もわかりますよ。大人になってからもそういう気遣いって大事ですよね。でもね、当時中学生ですよ。先輩たちにだってそんな高尚な意図があったとは思えません。単純に、その時の状況や気分からの発言でしょう。突き詰めれば、結局は私に周りが見えていなかったということなのかもしれませんしね。ただ、そのとき思ったんです。その一件で私が本当に学んだのは、気遣いではなく、この社会の理不尽さと厳しさだったのだと。そして私は、絶対にそんな先輩やそんな大人にはならないと誓いました。いいじゃないですか。何事もやれる人がやる、で。何がいけないのでしょう。代わりますと言われたら、じゃあお願いって言えばいい。他にもやることがあるなら、私がそれをすればいいだけです。もし、後輩に他のことをして欲しいなら「大丈夫だから、あっちお願いできる?」と言えばいいのです。そもそも私は「代わります」って言うんだよなんてどうでもいいことは教えませんが。
とはいえ、部活動では本当に大人になってからも大切なことも教わりました。体育会系の方なら心当たりがあるでしょう。部活終わりに先生のところに集合して、挨拶して解散という流れは今でもどこも同じかと思います。ある練習試合の日、その集合のタイミングで他校の先生が近くに座っていたことがあったんですね。先にそちらに挨拶をして、顧問の先生の周りに集まっていたら、「人にお尻を向けるな!」と激怒されたんです。私だとは気づかずにいたのですが、確かに後ろに他校の先生がいたんですね。角度的にお尻を向けているかどうかは微妙なところでしたが、それこそ屁理屈というものでしょう。相手にそう見えたなら、きっとそうだったのです。二十年ほど経った今でも鮮明な記憶として頭に残っています。大人になった今こそ、そんな自分を恥ずかしく思います。ですから、「人にお尻を向ける」という行為には何かと敏感になってしまうんですね。もしもそうせざるを得ない時や、気づかなかった時などは「すみません、お尻を向けて」と一言声をかけるようにしていますし、片手で物を受け渡しする時なんかも「すみません、片手で」と言うようにしています。そうしておけば、大概の人は「いいんだよ」って返してくれますから。そういう意味で言えば、中学生の頃のあの出来事は、私の人生を変えたと言っても過言ではないのでしょうね。
かといって、そういう学びは学生のうちに限らないですよね。大人になってからも『御中』と『様』の使い方に悩んだり、別にお世話になっていなくてもとりあえず「お世話になっております」という挨拶をしたり。多くの人はおそらく、「みんながやっているからこれでいいんだ」という感覚だと思います。たとえば、返信用の封筒やFAXに会社名と少し離れたところに小さく担当者の判子が押してあったとして、会社名のところに『御中』と書かなくてはと思いつつ、これは『様』だけでいいのかも? なんて考え始めたらどつぼに嵌るのは目に見えています。仕事が進まないので、結局はどっちにもつけちゃえと送ってしまいませんか? 正直に言うと、私にも正解はわかりません。ただ、自分はこれが正解と知っていたとしても、相手も同じく正解と思ってくれるとは限りませんから、失礼だと思われないかななんて考えて、間違っていると知りつつ、相手に合わせることもありますよね。
このように『正しいこと』と『常識』は似て非なる概念です。『常識』とは多くの人がそう感じていることに対して使いますから、たとえ本当に正しいことでも、『私だけの正しいこと』と『みんなの常識』とでは多勢に無勢です。正しいを正しいと言えなかったり、間違っていることを知りながら抜け出せなかったり、皆さんもそういう経験ありますよね。『常識』の中には、多くの人がこれは違うよねと感じていることでも、うまく正されずになあなあで済まされていることもたくさんあるのでしょう。
けれど、これが『正しい』のだと主張できなくても、正しさを追求することは悪いことではありません。よく「拝見させていただきます」なんて言葉を耳にしますが、『拝見』の時点で既に『見る』の謙譲語ですから、『させていただきます』は不要のはずです。「拝見します」が言葉遣いとしては正しいのですが、「拝見させていただきます」という言い回しが世に広まってしまった今、なぜか正しいほうが失礼だと思われがちです。国語の授業が好きだった私は、小説家としてのある種プライドもあって、普段から言葉遣いには気をつけるようにしています。小説の中でもそうですね。『犯罪を犯す』、ミステリではよく耳にしますが、『頭痛が痛い』と同じですよね。私も恥ずかしながら大人になってから、好きな作家さんのエッセイを読んで気がつきました。言葉を扱う人間として、何気ない台詞も実は正しくないのだとしたら、やっぱり正しさを極めてみたくなるものです。私の持論ですが、本当に恥ずかしいのは、正しさを主張できないことではなく、正しさを正しいと知らない、気づかない、認めないことなのではないでしょうか。「これは正しくない」と声に出して言うには、とても勇気がいります。それこそ、世界が変わらなければ変えられないことだってあります。それでも、あなたがあなたの正しさを求める行為を、誰にも邪魔する権利はありません。私は「拝見させていただきます」とは言わないし、「犯罪を犯す」も使いませんが、それがあくまで私の中の正しさであることも理解しています。誰かに押しつけようとは思いません。私は私、あなたはあなたです。
さて、そろそろお別れの時間です。とはいえ私も、正しくないけれど多くの場合そうだから、というただそれだけの理由でどうしても変えられないことがあります。それは小説の登場人物の台詞で、『い抜き』言葉を使うこと。「今、何してるの?」「テレビ観てたよ」。正しくは「何をしているの?」「テレビを観ていたよ」のはずですが、そういうキャラクター性でない限り、なんだかくどいというか、あまり普段の生活では聞き慣れないので、「そんな会話しないだろう」と読者に思われてしまうわけですね。もちろん今の私も、その読者なら思うでしょう。こんなふうに、何事もそうですが「そこまでしなくてもいいよね」と妥協する方は、私も含め多いことでしょう。いいんですよ、それで。正しさだけを見ていると、どうしてか疲れてしまうことがあります。正しいことは正しいです。でも、間違っているからと言って、必ずしも悪ではありません。『みんなで渡れば怖くない』とも言います。若干、ニュアンスは違いますが、こんな時、私はやっぱり独りで生きているんじゃないんだなぁとしみじみ思います。皆さんも、そうですよね、きっと。また来週お会いしましょう。深見小夜子でした。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
黒蜜先生のヤバい秘密
月狂 紫乃/月狂 四郎
ライト文芸
高校生の須藤語(すとう かたる)がいるクラスで、新任の教師が担当に就いた。新しい担任の名前は黒蜜凛(くろみつ りん)。アイドル並みの美貌を持つ彼女は、あっという間にクラスの人気者となる。
須藤はそんな黒蜜先生に小説を書いていることがバレてしまう。リアルの世界でファン第1号となった黒蜜先生。須藤は先生でありファンでもある彼女と、小説を介して良い関係を築きつつあった。
だが、その裏側で黒蜜先生の人気をよく思わない女子たちが、陰湿な嫌がらせをやりはじめる。解決策を模索する過程で、須藤は黒蜜先生のヤバい過去を知ることになる……。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
深見小夜子のいかがお過ごしですか?2
花柳 都子
ライト文芸
小説家・深見小夜子の深夜ラジオは「たった一言で世界を変える」と有名。日常のあんなことやこんなこと、深見小夜子の手にかかれば180度見方が変わる。孤独で寂しくて眠れないあなたも、夜更けの静かな時間を共有したいご夫婦も、勉強や遊びに忙しいみんなも、少しだけ耳を傾けてみませんか?安心してください。このラジオはあなたの『主観』を変えるものではありません。「そういう考え方もあるんだな」そんなスタンスで聴いていただきたいお話ばかりです。『あなた』は『あなた』を大事に、だけど決して『あなたはあなただけではない』ことを忘れないでください。
さあ、眠れない夜のお供に、深見小夜子のラジオはいかがですか?
※不定期更新しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる