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出会いと別れの概念
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さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。先日、電車の車内で何か小さなものが車両の揺れに合わせて転がっているのを見かけました。私は視力が良くないのでコンタクトレンズをしているのですが、その正体がよく見えなくて思わず拾い上げてみると、リップクリームでした。もう誰のものかもわからないし、拾った手前もう一度元の場所に戻すという行為も気が引けます。そもそもこの場合の元の場所というのはどこなのでしょう。また転がせばいいのでしょうか。それはそれで、私の倫理観が疑われそうです。たとえ落とした本人が近くにいたとしても、それが自分のものだと確信できないでしょうし、床に落ちたリップクリームはなんとなく使いたくありませんよね。かといって、落とし物センターのようなところに届けても、処理に困りますよね。現実的に考えれば、落とし主はすでに電車を降りてしまっていることでしょう。どこかで落としたと後で気がついたとしても、それが電車の中だということによしんば思い至ったとしても、わざわざ落とし物センターに届いていますか? と訊ねたりはしないと思います。だって、名前が書いてあるはずもなし、自分のものだと証明できませんからね。うっかり他人のものだった場合、気づかずに使ってしまうよりなら九分九厘、新品を買うほうを選ぶでしょう。スマートフォンや財布、社員証など個人情報が詰まっていて尚且つ日々の生活の必需品ならともかく、なきゃないで困るけどなくても問題ないもの、ライターやボールペンなども当てはまるかもしれませんね。それらはきっと、持ち主の元に帰ることのないまま、いずれ廃棄されるのでしょう。結局、私がそのリップクリームをどうしたかというと、自らの手で駅のゴミ箱に捨ててしまいました。人として正しいのは落とし物として届けることなのでしょう。でも、ここまで延々と述べたように、落とし主は永遠に現れないと思われます。私はね、行き場のない持ち主不明の忘れ物や落とし物を見るとなんだか居た堪れなくなるのです。だって、今まで生活を共にしてきた人に見捨てられて、かといって新しい人に同じように愛してもらえるわけではない。捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものですが、拾った私ができることといえば、潔くその役目を終わらせてあげることしかありません。私が勝手に決めることではもちろんないのでしょうが、せっかく拾った彼らの行く末を案じるより、私がある種の罪悪感と共にお別れしたほうが少しだけ心が軽くなります。きっと落とし主に再会できない彼らのことを思うと、心にちょっとした溝が生まれるのでしょう。それを埋めるために、良くも悪くも自己犠牲を払ってしまうのです。
相手が無機物だからその程度で済みますが、件の落とし物がもしも『人間』だったら、ひいては『私自身』だったらと考えると居ても立っても居られなくなります。そんな大げさなと思われるかもしれませんが、案外日常的に起こり得ることではないでしょうか。意識していないだけで、出会いと別れは日々繰り返されています。問題なのはその出会いと別れを私たち人間があまり意識していないということ。もちろん素敵な人と巡り会えれば嬉しいし、大切な人との別れは悲しいです。でも、それは『出会いと別れという概念』ではなく、あくまで出会った人別れた人個々人への『感情』にすぎませんよね。むしろ『概念』に関しては自分の現実より、フィクションに対してのほうが意識しているかもしれません。たとえばドラマや映画で、アニメやゲームで、「あぁこの登場人物たちの物語はここから始まるんだな」とか、「あぁこの子たちはもう一生話すことも笑い合うこともないんだな」とか。職業病のようなものかもしれませんが、物語というのはこの『出会いと別れの概念』をなくしては成立しないものです。私たちの生活において、日常的でありきたりだからこそ、その一人一人との関係性にクローズアップすることは皆さんの心にも届きやすい、響きやすいということでもありますから。皆さんも想像してみてください。もしもあなたの人生が一本の映画や一冊の小説だったとしたら、どこの部分をメインに描きますか? リア充・・・とはもう言わないのかもしれませんが、ともあれ遊びも恋もそして仕事も充実していた20代でしょうか。結婚に子育てに奔走した30代でしょうか。それとももっと前、もっと後でしょうか。自然と、あなた自身が思う人生のピークがメインになることでしょう。その中には、必ず印象的な出会いと別れがあると思いませんか? この人がいたから今の自分は在るとか、あるいはこの人がいなかったらもう少し自分の人生変わっていたのかななんて思う方もいるかもしれません。そんな時、その相手個人への見解を考え尽くすと、ふいに視界が開けることがあります。相手の性格や、自分との関係性に関わらず、誰かとの出会いや別れは時に自分の運命をも左右することがあるのだと。難儀なのは、作品の登場人物のように自分を客観視する領域にまで思考が到達しないと、自分自身のこととして受け入れられないことです。何事もそうですが、表面的に捉えるだけでなく、物事の本質に目を向けないとうまくはいかないものですよね。私はね、自分自身をつくりあげるのは最終的に『出会いと別れ』に終始すると思うのです。これは少し飛躍しているかもしれません。それだけじゃない、と皆さんも感じることでしょう。でも、私たちは常に誰かの意見に影響されて、あるいは影響されまいと生きていると思います。それこそ、そうとは意識せずに。それがたとえ、姿の見えない相手でも、たった一瞬すれ違った通りすがりの相手でも。ゲームで自分視点の画面を見ている時がいい例でしょうか。自分と、関係を重視したい相手以外のプレイヤーが視界に入ってきたとき、『一般通過◯◯』なんて表現しますよね。それはつまり、自分が主人公で、敵役との関係のみを重視しているということです。一般通過プレイヤーにしてみれば、彼には彼の視点があって、決して『一般』ではありませんし、むしろこちら側が『一般』と思われているわけですね。自分の中で緊迫したシーンに呑気に入り込んでくる『一般通過』プレイヤーには思わず笑ってしまうものですが、でもわがままなもので私自身が『一般通過』と称されることに対してはなんだか悔しい気持ちになります。私だって、私自身の物語を必死に生きているのに、と的外れにも程がありますが反論したくなってしまいますね。
さて、そろそろお別れの時間です。おっと、この文言も私自身、無意識になってきてしまっていますね。今日は少しだけ深みがあるように聞こえたら、嬉しいのですが。ともあれ、私がもしも自分の人生を物語にするとしたら、10代の頃をメインにするかもしれません。起承転結の『起』の部分というよりも『転』の部分とでも言えばいいでしょうか。今思えば、現在の私を作りあげているのはあの頃の経験と感情が半分以上を占めています。裏を返せば、人生のかなり前半でピークを迎え、その後の私の人生には特記すべき事項がないとも言えますね。いつか、私の人生が終盤を迎える頃には、10代の話が起承転結の『起』になっていると良いのですが。何より、今夜もこのラジオを聴いてくださった皆さんのこれからの物語にも、幸あれ! また来週お会いしましょう。深見小夜子でした。
相手が無機物だからその程度で済みますが、件の落とし物がもしも『人間』だったら、ひいては『私自身』だったらと考えると居ても立っても居られなくなります。そんな大げさなと思われるかもしれませんが、案外日常的に起こり得ることではないでしょうか。意識していないだけで、出会いと別れは日々繰り返されています。問題なのはその出会いと別れを私たち人間があまり意識していないということ。もちろん素敵な人と巡り会えれば嬉しいし、大切な人との別れは悲しいです。でも、それは『出会いと別れという概念』ではなく、あくまで出会った人別れた人個々人への『感情』にすぎませんよね。むしろ『概念』に関しては自分の現実より、フィクションに対してのほうが意識しているかもしれません。たとえばドラマや映画で、アニメやゲームで、「あぁこの登場人物たちの物語はここから始まるんだな」とか、「あぁこの子たちはもう一生話すことも笑い合うこともないんだな」とか。職業病のようなものかもしれませんが、物語というのはこの『出会いと別れの概念』をなくしては成立しないものです。私たちの生活において、日常的でありきたりだからこそ、その一人一人との関係性にクローズアップすることは皆さんの心にも届きやすい、響きやすいということでもありますから。皆さんも想像してみてください。もしもあなたの人生が一本の映画や一冊の小説だったとしたら、どこの部分をメインに描きますか? リア充・・・とはもう言わないのかもしれませんが、ともあれ遊びも恋もそして仕事も充実していた20代でしょうか。結婚に子育てに奔走した30代でしょうか。それとももっと前、もっと後でしょうか。自然と、あなた自身が思う人生のピークがメインになることでしょう。その中には、必ず印象的な出会いと別れがあると思いませんか? この人がいたから今の自分は在るとか、あるいはこの人がいなかったらもう少し自分の人生変わっていたのかななんて思う方もいるかもしれません。そんな時、その相手個人への見解を考え尽くすと、ふいに視界が開けることがあります。相手の性格や、自分との関係性に関わらず、誰かとの出会いや別れは時に自分の運命をも左右することがあるのだと。難儀なのは、作品の登場人物のように自分を客観視する領域にまで思考が到達しないと、自分自身のこととして受け入れられないことです。何事もそうですが、表面的に捉えるだけでなく、物事の本質に目を向けないとうまくはいかないものですよね。私はね、自分自身をつくりあげるのは最終的に『出会いと別れ』に終始すると思うのです。これは少し飛躍しているかもしれません。それだけじゃない、と皆さんも感じることでしょう。でも、私たちは常に誰かの意見に影響されて、あるいは影響されまいと生きていると思います。それこそ、そうとは意識せずに。それがたとえ、姿の見えない相手でも、たった一瞬すれ違った通りすがりの相手でも。ゲームで自分視点の画面を見ている時がいい例でしょうか。自分と、関係を重視したい相手以外のプレイヤーが視界に入ってきたとき、『一般通過◯◯』なんて表現しますよね。それはつまり、自分が主人公で、敵役との関係のみを重視しているということです。一般通過プレイヤーにしてみれば、彼には彼の視点があって、決して『一般』ではありませんし、むしろこちら側が『一般』と思われているわけですね。自分の中で緊迫したシーンに呑気に入り込んでくる『一般通過』プレイヤーには思わず笑ってしまうものですが、でもわがままなもので私自身が『一般通過』と称されることに対してはなんだか悔しい気持ちになります。私だって、私自身の物語を必死に生きているのに、と的外れにも程がありますが反論したくなってしまいますね。
さて、そろそろお別れの時間です。おっと、この文言も私自身、無意識になってきてしまっていますね。今日は少しだけ深みがあるように聞こえたら、嬉しいのですが。ともあれ、私がもしも自分の人生を物語にするとしたら、10代の頃をメインにするかもしれません。起承転結の『起』の部分というよりも『転』の部分とでも言えばいいでしょうか。今思えば、現在の私を作りあげているのはあの頃の経験と感情が半分以上を占めています。裏を返せば、人生のかなり前半でピークを迎え、その後の私の人生には特記すべき事項がないとも言えますね。いつか、私の人生が終盤を迎える頃には、10代の話が起承転結の『起』になっていると良いのですが。何より、今夜もこのラジオを聴いてくださった皆さんのこれからの物語にも、幸あれ! また来週お会いしましょう。深見小夜子でした。
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