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至近距離の最大幸福
素顔の散歩
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綿貫千春は、地図とにらめっこする妹の慈美に業を煮やし、口を開いた。
「……なんで地図回すんだよ」
「えっ? だって、今自分がどっち向いてるかわかんないじゃん」
「わかるよ」
「わかんないよ! ここ、どっち? 右? 左?」
そう聞いてきた彼女と千春は、未だスタート地点から一歩も動いていない。
妹が事前に調べてきた目的地は、Y県の北東側で、海に面した北西側に位置する空港から約1時間ほど。千春と風月七緒が舟下りを体験した時に乗船した場所に近いところにあった。
ここでは地図を見ながら、特定の場所にある土地ゆかりの問題を解いて、プレゼントをゲットしようというような、ミステリーツアーならぬミステリー散策企画が展開されているらしい。
七緒によると『スタンプラリー』の一種だろうという。
山城優一が妹に通だと言ったのは、地元の人でも知る人ぞ知る企画だからで、彼の視点ではお目が高いという意味らしかった。
紙タイプのもの以外に、今時らしくスマートフォンとも連動していて、老若男女が楽しめる工夫が凝らされているにも関わらずもったいないのだと嘆いていた。
「まぁPRがうまくいかないのは、私たち県の観光課にも責任の一端はありますがね……」
などと、休日のお父さんふうながら、やはり仕事のことは忘れられないようで、ひとりごちている。
妹はスマートフォンを使えないので、その専用の紙を用意している店からもらって、一斉にスタートすることにした。
さすがに全員で移動するのは人数が多すぎるので、ペアを組んでそれぞれ別の場所目指して出発、どのペアが一番最初に全ての問題を解いてゴールに着けるか競争しようということになった。
車の中では涙も見せた妹だったが、車を降りると同時に率先して場を盛り上げ始めた。
『いつも通りにして欲しい』という合図だと、きっとその場の誰もが受け取っただろう。
千春たちは慈美を先頭に、ペアを組んでミステリー散策に出発したのだが──。
まずは、千春と慈美の兄妹ペア。
妹は兄にスマートフォンを預けているとはいえ、一応、警察からの連絡を絶ってはいけない身である。必然的に行動を共にすることとなった。
そして、綿貫家の父母である、千慈と春美の夫婦ペア。
言わずもがな、他の組み合わせを考えられないからだが、ふたりは一番ウキウキと出かけて行った。スタート地点に置いていく兄妹のことなど、振り返りもしない。
最後に、七緒と山城のペア。
ミステリーと名のつくものに俄然強そうな七緒と、この中では最も土地勘のある山城の組み合わせに、千春は勝てる気がしない。
解く問題はどこからでも構わないし、全員が同じ場所を目的地にしたら競争にならないので、3組のペアは三手にわかれる。
「左……というか、東──かな」
「出た! なにそれ、東西南北使わないでよ!」
「…………現役の高校生だろ、お前」
「理系科目は苦手なの」
「はいはい」
もう埒があかないので、千春は自分が地図を持って先を歩くことにした。
ふたりはしばらく、黙って歩いていた。
千春としては特に話すこともないし、十数年間共に過ごしていても未だに妹との距離感がわからないからだが、妹が声を発さないのは珍しかった。
いつもは千春からの返事などあってもなくても意にも介さず、好き勝手に話し続けるのだが。
後ろからついてくる気配はするので、ただ話したくない気分なだけかもしれない。
「……ねえ」
千春は返事をせず、首を軽く向けることで返事をした。
「……聞かないの、何があったか」
「聞いて欲しいんだったら、聞くけど」
「あーあ、お兄ちゃんもお父さんとお母さんとおんなじ。なんで? 怒ればいいじゃん。警察に捕まったんだよ?」
「……捕まったんじゃなくて、保護だろ?」
「でも、一晩家に帰らなかった」
「理由があるんじゃないの」
感情のこもらない声で、千春は返す。
ぴたりと妹の歩みが止まった。
なんとなく雰囲気でそれがわかって、千春は振り向いた。
もう立派な夏の風が、ふたりの間を吹き抜ける。
「──理由があったら、何してもいいの?」
千春は発言の意図が察せず、沈黙した。
「保護っていう正しそうな名前があったら、何しても怒られないの?」
「…………怒られるようなことしたの」
「してないよ。でも、本当にしてないかどうかなんて私にしかわからないじゃん。一晩あったら、万引きしてるかもよ? 友達と怪しい店で怪しいお兄さんたちと遊んだかも」
そんなこと、優等生のお前がするわけない──。
と、千春は思ったが、きっと慈美の欲しい答えではないのだろう。
「…….じゃあ、そういうことしたとして、慈美はそれをどうしたいの」
「……えっ?」
険しい顔をしていた妹は、予想外の問いかけに肩透かしを食らったように、怪訝な瞳で声を裏返した。
「隠しておきたいの? 怒って止めて欲しいの? それとも、もっと自由に、そういうの全部捨ててなんでも好きにやってみたいの?」
「…………わかんないよ」
今度は千春が黙る番だった。
「………………どうしていいか、わかんないんだよ」
しゃがみ込んでしまう慈美に、千春は戸惑う。
けれど、脳内は思いの外冷静だった。
近くに小さな公園があって、そこの東屋に妹を座らせる。
ゆるやかな坂道が続いていたが、もうこんなに高くまで登っていたとは気づかなかった。
心なしか車を置いてきた場所よりほんの少しだけ涼しい気がする。
まるで、自分が好きだったあの、街を見下ろせる高台のようだった。
「──七緒さんが、よく言うんだよね」
時折、鼻を啜りながら黙ったままの慈美に、ぽつりと千春が呟く。
「旅も、仕事も、愛の形も──全部、『千の選択肢』があっていいんだって」
返事はない。けれど、耳を傾けているのはわかる。
「最初はさ、人によって違うんだと思ってた。みんな違う人間なんだから、『千の選択』──千人いたら千通りの答えがあるんだって」
「…………うん」
ずいぶん鼻声だったが、はっきりと聞こえた。
「でも、別に人によってとは限らないんだなって、最近思うよ」
「それ以外になんかあるの?」
「……たとえば、時間とか周りの環境とか、相手との距離感とかで、自分の立ち位置がちょっとずつ変わってるとして、その一秒一秒に『千の選択』があっていいんじゃないかなって。父さんがお前を怒りたいと思ってもそうしなかったのもそう。母さんがお前を心配してるって言いたくてもはっきり言わなかったのもそう。俺が、お前に何があったか聞かないのもそうで、選択肢の一つとしてあってもいい、と思わない?」
「それって…………言い訳?」
うっ、と思わず声が出る。
「あはは、嘘。わかってる」
うーん、と立ち上がった慈美が眼下を望みながら伸びをした。
「それが──『愛の形』だって言うんでしょ」
「…………そこまでは言ってない」
「言ったよ」
「言ってない」
「もう」
むくれたように言った慈美はしかし、どこか吹っ切れたように笑っていた。
「…………じゃあさ、私がやってきたことも、そうなんだよね? 危ないことに巻き込まれそうな友達放っておけなかったのも、私がいい子にしてれば誰も傷つかなくて済むって考えるのも、写真を撮れなくなったお兄ちゃんが否定されるのが怖くて悔しくてSNSでこっそり復讐してやろうって思ったのも──。これが私の愛の形…………でも」
「でも?」
「それがだんだん違う気がしてくるの。友達を放っておけない自分はただのお人よし。別に望まれてるわけじゃないのかもって。私がいい子にしてても世界の誰かが誰かを傷つける日はなくならないし、お兄ちゃんを──私の居場所を否定する声は、やっぱり今でもある。お兄ちゃんの──放火犯と疑われた男子高校生の──写真を、何も知らずに綺麗美しいって言う人たちに、最初は皮肉を言ってる気分だった。けど、何も知らない人たちが否定するのを見ると、今度は『何にも知らないくせに』って思う。矛盾してるよね。だんだんね、自分が自分じゃなくなる気がするの。私の思い描いていた私はどこにいっちゃったんだろう──ううん、どこにいるんだろうって。結局、私の妄想の中にしか理想の私はいなくて、私が現実で目指してきたなりたい私はどこにも存在しないんじゃないかって」
それが、『今は何もないだけだから』の真意らしかった。
千春は背を向ける慈美に、カメラを向けた。
シャッターを切ると、慈美が驚いたように振り向く。
「ちょっと、撮るんなら言ってよね!」
「言ったらポーズつけるだろ、笑うだろ」
「うん」
「それじゃ違うから」
「──何が?」
「俺の知ってるお前じゃなくて、お前の知ってるお前は、ちゃんとここにいるよ」
今撮った写真を慈美に見せる。
彼女の背中は、女子高生らしく、小さく儚く、けれど不思議な凜とした強さを持っていて。
「いいんじゃないの。お前の生き方にだって『千の選択肢』があるよ、って七緒さんなら絶対にそう言うから」
「…………七緒さんは、私のことお前なんて言わない」
「そこは別にいいだろ」
「よくない」
「じゃあ七緒さんに直接言ってもらえよ」
「…………ありがとね、お兄ちゃん」
「──こちらこそ」
七緒が前に教えてくれた通り、彼女は自分を、そして自分の好きな写真を守ろうとしてくれていたのだ。
「私は、世界を救える人になりたい」
「…………それはでかすぎ」
「なんで? 『千の選択肢』があるんでしょ? 私だけの力じゃ無理だけど、私と同じ思いの人が千人いる可能性だってあるじゃない。たくさん集まれば、救えるかもしれないでしょ」
思わず丸め込まれそうになって、千春は頷くか首を傾げるかの、ちょうど中間くらいで動きを止める。
「それに、何もこのでっかい世界を救おうっていうんじゃないの。私の、近くの、手が届く範囲の、私の世界にいる人の幸せを願うのは、当たり前のことだよね?」
「…………それを当たり前って言えるのは、簡単なことじゃないけど、ね」
普通の人間はそこまで考えていないし、知らず嫉妬や羨望を抱くことがある。
人間としてある程度はおそらく仕方のないことで、それ自体が一概に悪いと決めつけるつもりはない。
ただ、そういうものに縁がなさそうな妹を見ると、やっぱりなんだか安心する。
「──七緒さん、『SNSの使い方』にも千の選択肢がある、って言ってたよ」
「…………愚痴言ったり、嫌なこと吐き出したりするのも、悪口書くのもその中に入るのかな」
「それは七緒さんに聞けば。でも、たぶん──」
彼は肯定するだろう。
それがいいか悪いか、というよりも、そういう事実があること、そしてそれで心の安寧を感じる人がいることを否定しはしないだろう。
たとえその在り方が健全ではないとしても、こういう世界である以上、あって然るべきなのだとすら言いそうだ。
解決方法は、こういう世界を創り変えるしかないのだろうか。
いや、きっと──。
彼ならきっと、『千の選択肢』を信じる彼ならきっと、それ以外にもたくさんの選択肢を見つけることだろう。
そして、なぜか実行までできてしまうだろう、などと根拠もないのに考えてしまう。
「ねえ、お兄ちゃん。そろそろ行こうよ!」
「…………元気だな」
「うん。早く早く、七緒さんたちに先越されちゃう!」
それはもはや手遅れというものではないだろうか。
千春はそう思ったが声には出さず、慈美の後をついていった。
ついでにカメラの調子を確認していると、立ち止まる妹の背中にぶつかりそうになる
「……なんだよ急に」
「──どっちから来たんだっけ?」
あーだこーだと言い合うふたりが、ようやく正しい方向に歩を進めた時、彼らの背後からまるで追いかけるように踏み出した足が見える。
兄妹たちは迫り来るその何かに気づくこともなく、目的地を目指して歩き始めた。
「……なんで地図回すんだよ」
「えっ? だって、今自分がどっち向いてるかわかんないじゃん」
「わかるよ」
「わかんないよ! ここ、どっち? 右? 左?」
そう聞いてきた彼女と千春は、未だスタート地点から一歩も動いていない。
妹が事前に調べてきた目的地は、Y県の北東側で、海に面した北西側に位置する空港から約1時間ほど。千春と風月七緒が舟下りを体験した時に乗船した場所に近いところにあった。
ここでは地図を見ながら、特定の場所にある土地ゆかりの問題を解いて、プレゼントをゲットしようというような、ミステリーツアーならぬミステリー散策企画が展開されているらしい。
七緒によると『スタンプラリー』の一種だろうという。
山城優一が妹に通だと言ったのは、地元の人でも知る人ぞ知る企画だからで、彼の視点ではお目が高いという意味らしかった。
紙タイプのもの以外に、今時らしくスマートフォンとも連動していて、老若男女が楽しめる工夫が凝らされているにも関わらずもったいないのだと嘆いていた。
「まぁPRがうまくいかないのは、私たち県の観光課にも責任の一端はありますがね……」
などと、休日のお父さんふうながら、やはり仕事のことは忘れられないようで、ひとりごちている。
妹はスマートフォンを使えないので、その専用の紙を用意している店からもらって、一斉にスタートすることにした。
さすがに全員で移動するのは人数が多すぎるので、ペアを組んでそれぞれ別の場所目指して出発、どのペアが一番最初に全ての問題を解いてゴールに着けるか競争しようということになった。
車の中では涙も見せた妹だったが、車を降りると同時に率先して場を盛り上げ始めた。
『いつも通りにして欲しい』という合図だと、きっとその場の誰もが受け取っただろう。
千春たちは慈美を先頭に、ペアを組んでミステリー散策に出発したのだが──。
まずは、千春と慈美の兄妹ペア。
妹は兄にスマートフォンを預けているとはいえ、一応、警察からの連絡を絶ってはいけない身である。必然的に行動を共にすることとなった。
そして、綿貫家の父母である、千慈と春美の夫婦ペア。
言わずもがな、他の組み合わせを考えられないからだが、ふたりは一番ウキウキと出かけて行った。スタート地点に置いていく兄妹のことなど、振り返りもしない。
最後に、七緒と山城のペア。
ミステリーと名のつくものに俄然強そうな七緒と、この中では最も土地勘のある山城の組み合わせに、千春は勝てる気がしない。
解く問題はどこからでも構わないし、全員が同じ場所を目的地にしたら競争にならないので、3組のペアは三手にわかれる。
「左……というか、東──かな」
「出た! なにそれ、東西南北使わないでよ!」
「…………現役の高校生だろ、お前」
「理系科目は苦手なの」
「はいはい」
もう埒があかないので、千春は自分が地図を持って先を歩くことにした。
ふたりはしばらく、黙って歩いていた。
千春としては特に話すこともないし、十数年間共に過ごしていても未だに妹との距離感がわからないからだが、妹が声を発さないのは珍しかった。
いつもは千春からの返事などあってもなくても意にも介さず、好き勝手に話し続けるのだが。
後ろからついてくる気配はするので、ただ話したくない気分なだけかもしれない。
「……ねえ」
千春は返事をせず、首を軽く向けることで返事をした。
「……聞かないの、何があったか」
「聞いて欲しいんだったら、聞くけど」
「あーあ、お兄ちゃんもお父さんとお母さんとおんなじ。なんで? 怒ればいいじゃん。警察に捕まったんだよ?」
「……捕まったんじゃなくて、保護だろ?」
「でも、一晩家に帰らなかった」
「理由があるんじゃないの」
感情のこもらない声で、千春は返す。
ぴたりと妹の歩みが止まった。
なんとなく雰囲気でそれがわかって、千春は振り向いた。
もう立派な夏の風が、ふたりの間を吹き抜ける。
「──理由があったら、何してもいいの?」
千春は発言の意図が察せず、沈黙した。
「保護っていう正しそうな名前があったら、何しても怒られないの?」
「…………怒られるようなことしたの」
「してないよ。でも、本当にしてないかどうかなんて私にしかわからないじゃん。一晩あったら、万引きしてるかもよ? 友達と怪しい店で怪しいお兄さんたちと遊んだかも」
そんなこと、優等生のお前がするわけない──。
と、千春は思ったが、きっと慈美の欲しい答えではないのだろう。
「…….じゃあ、そういうことしたとして、慈美はそれをどうしたいの」
「……えっ?」
険しい顔をしていた妹は、予想外の問いかけに肩透かしを食らったように、怪訝な瞳で声を裏返した。
「隠しておきたいの? 怒って止めて欲しいの? それとも、もっと自由に、そういうの全部捨ててなんでも好きにやってみたいの?」
「…………わかんないよ」
今度は千春が黙る番だった。
「………………どうしていいか、わかんないんだよ」
しゃがみ込んでしまう慈美に、千春は戸惑う。
けれど、脳内は思いの外冷静だった。
近くに小さな公園があって、そこの東屋に妹を座らせる。
ゆるやかな坂道が続いていたが、もうこんなに高くまで登っていたとは気づかなかった。
心なしか車を置いてきた場所よりほんの少しだけ涼しい気がする。
まるで、自分が好きだったあの、街を見下ろせる高台のようだった。
「──七緒さんが、よく言うんだよね」
時折、鼻を啜りながら黙ったままの慈美に、ぽつりと千春が呟く。
「旅も、仕事も、愛の形も──全部、『千の選択肢』があっていいんだって」
返事はない。けれど、耳を傾けているのはわかる。
「最初はさ、人によって違うんだと思ってた。みんな違う人間なんだから、『千の選択』──千人いたら千通りの答えがあるんだって」
「…………うん」
ずいぶん鼻声だったが、はっきりと聞こえた。
「でも、別に人によってとは限らないんだなって、最近思うよ」
「それ以外になんかあるの?」
「……たとえば、時間とか周りの環境とか、相手との距離感とかで、自分の立ち位置がちょっとずつ変わってるとして、その一秒一秒に『千の選択』があっていいんじゃないかなって。父さんがお前を怒りたいと思ってもそうしなかったのもそう。母さんがお前を心配してるって言いたくてもはっきり言わなかったのもそう。俺が、お前に何があったか聞かないのもそうで、選択肢の一つとしてあってもいい、と思わない?」
「それって…………言い訳?」
うっ、と思わず声が出る。
「あはは、嘘。わかってる」
うーん、と立ち上がった慈美が眼下を望みながら伸びをした。
「それが──『愛の形』だって言うんでしょ」
「…………そこまでは言ってない」
「言ったよ」
「言ってない」
「もう」
むくれたように言った慈美はしかし、どこか吹っ切れたように笑っていた。
「…………じゃあさ、私がやってきたことも、そうなんだよね? 危ないことに巻き込まれそうな友達放っておけなかったのも、私がいい子にしてれば誰も傷つかなくて済むって考えるのも、写真を撮れなくなったお兄ちゃんが否定されるのが怖くて悔しくてSNSでこっそり復讐してやろうって思ったのも──。これが私の愛の形…………でも」
「でも?」
「それがだんだん違う気がしてくるの。友達を放っておけない自分はただのお人よし。別に望まれてるわけじゃないのかもって。私がいい子にしてても世界の誰かが誰かを傷つける日はなくならないし、お兄ちゃんを──私の居場所を否定する声は、やっぱり今でもある。お兄ちゃんの──放火犯と疑われた男子高校生の──写真を、何も知らずに綺麗美しいって言う人たちに、最初は皮肉を言ってる気分だった。けど、何も知らない人たちが否定するのを見ると、今度は『何にも知らないくせに』って思う。矛盾してるよね。だんだんね、自分が自分じゃなくなる気がするの。私の思い描いていた私はどこにいっちゃったんだろう──ううん、どこにいるんだろうって。結局、私の妄想の中にしか理想の私はいなくて、私が現実で目指してきたなりたい私はどこにも存在しないんじゃないかって」
それが、『今は何もないだけだから』の真意らしかった。
千春は背を向ける慈美に、カメラを向けた。
シャッターを切ると、慈美が驚いたように振り向く。
「ちょっと、撮るんなら言ってよね!」
「言ったらポーズつけるだろ、笑うだろ」
「うん」
「それじゃ違うから」
「──何が?」
「俺の知ってるお前じゃなくて、お前の知ってるお前は、ちゃんとここにいるよ」
今撮った写真を慈美に見せる。
彼女の背中は、女子高生らしく、小さく儚く、けれど不思議な凜とした強さを持っていて。
「いいんじゃないの。お前の生き方にだって『千の選択肢』があるよ、って七緒さんなら絶対にそう言うから」
「…………七緒さんは、私のことお前なんて言わない」
「そこは別にいいだろ」
「よくない」
「じゃあ七緒さんに直接言ってもらえよ」
「…………ありがとね、お兄ちゃん」
「──こちらこそ」
七緒が前に教えてくれた通り、彼女は自分を、そして自分の好きな写真を守ろうとしてくれていたのだ。
「私は、世界を救える人になりたい」
「…………それはでかすぎ」
「なんで? 『千の選択肢』があるんでしょ? 私だけの力じゃ無理だけど、私と同じ思いの人が千人いる可能性だってあるじゃない。たくさん集まれば、救えるかもしれないでしょ」
思わず丸め込まれそうになって、千春は頷くか首を傾げるかの、ちょうど中間くらいで動きを止める。
「それに、何もこのでっかい世界を救おうっていうんじゃないの。私の、近くの、手が届く範囲の、私の世界にいる人の幸せを願うのは、当たり前のことだよね?」
「…………それを当たり前って言えるのは、簡単なことじゃないけど、ね」
普通の人間はそこまで考えていないし、知らず嫉妬や羨望を抱くことがある。
人間としてある程度はおそらく仕方のないことで、それ自体が一概に悪いと決めつけるつもりはない。
ただ、そういうものに縁がなさそうな妹を見ると、やっぱりなんだか安心する。
「──七緒さん、『SNSの使い方』にも千の選択肢がある、って言ってたよ」
「…………愚痴言ったり、嫌なこと吐き出したりするのも、悪口書くのもその中に入るのかな」
「それは七緒さんに聞けば。でも、たぶん──」
彼は肯定するだろう。
それがいいか悪いか、というよりも、そういう事実があること、そしてそれで心の安寧を感じる人がいることを否定しはしないだろう。
たとえその在り方が健全ではないとしても、こういう世界である以上、あって然るべきなのだとすら言いそうだ。
解決方法は、こういう世界を創り変えるしかないのだろうか。
いや、きっと──。
彼ならきっと、『千の選択肢』を信じる彼ならきっと、それ以外にもたくさんの選択肢を見つけることだろう。
そして、なぜか実行までできてしまうだろう、などと根拠もないのに考えてしまう。
「ねえ、お兄ちゃん。そろそろ行こうよ!」
「…………元気だな」
「うん。早く早く、七緒さんたちに先越されちゃう!」
それはもはや手遅れというものではないだろうか。
千春はそう思ったが声には出さず、慈美の後をついていった。
ついでにカメラの調子を確認していると、立ち止まる妹の背中にぶつかりそうになる
「……なんだよ急に」
「──どっちから来たんだっけ?」
あーだこーだと言い合うふたりが、ようやく正しい方向に歩を進めた時、彼らの背後からまるで追いかけるように踏み出した足が見える。
兄妹たちは迫り来るその何かに気づくこともなく、目的地を目指して歩き始めた。
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