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心配の真髄
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綿貫慈美は、警察署にいた。
一緒に保護された友達は、別の部屋で事情聴取みたいなものを受けている。
ドアの開いた会議室のようなところで、女性警察官と共に待っていた慈美のところへ、コンコンとノックの音と共にスーツ姿の男性が現れた。
「おはよう、慈美ちゃんだったかな」
「…………浅葱さん」
「覚えててくれたんだね。お兄さんは元気?」
「……まあ、はい」
2年ほど前、兄が疑われた放火事件を担当していた、あの中性的な若いほうの刑事だった。
明るいというより、優しげな口調ではあった。表情も笑っているより、困ったように眉が下がった『申し訳なさ』のほうが強く感じられた。
それでも彼には、慈美が怒っているように思えたかもしれない。
「そう。写真は? あれからも撮ってる?」
きっと彼は共通の話題──自分がしたことを棚に上げて──で、場を和ませようとしたのだと慈美にもわかっていた。
けれど、やっぱりそんな何でもない顔で、語らないで欲しかった。
兄はあれから一枚も撮らなくなった、正確に言うと撮れなくなった。
カメラを持って出かけることも、撮った写真を眺めることも、帰って来たところを自分に「見せて見せて」とせがまれることもなくなった。
「…………じゃ、ありません」
「ん?」
小さくて聞き取れなかったのか、目を合わせようとしない慈美の顔を覗き込むように、彼は聞き返した。
慈美は思い切り顔を上げる。
「あれからもじゃありません。兄はこの2年間一枚も、写真を撮っていません」
睨みつけるような慈美の表情に、ハッと浅葱が身を引いた。
「何も知らないくせに、兄から写真を奪ったくせに、まるで当たり前みたいに、今もあの頃と変わらないみたいに言わないで!」
自分でもどうしてそんなに激昂したのか、慈美にはわからなかった。
それでもフレンドリーな態度でいようとした浅葱は、中途半端な笑顔のまま固まる。
ちょうどその時、別室にいた友達と入れ替わりで今度は慈美の名前が呼ばれた。
一緒に会議室にいた付き添いの女性警察官が、怪訝そうにしながらも、どちらかというと慈美を気遣うように、肩に手を置いて別室へと誘っていく。
目の端から伝った涙を拭う姿を見てか、友達が驚いたように慈美のほうを振り返る。
「……慈美?」
何でもない、というように首を振り、慈美は会議室を出た。
別室に通され、会議室の人とは別の女性警察官と斜めに向き合う形で、椅子に腰を下ろした。
事情聴取とは確か言わなかったが、少なくとも慈美は似たようなものだと認識していた。
あの時の、兄を放火犯と疑った時の、浅葱と同じ雰囲気だったからだ。
警察が民間人と話をする時、大抵はこんな状況なのだろう。こちらだって、相手が刑事だと知れば、大抵が事件絡みだと考える。
身構える民間人と、犯人相手でなくとも何かを聞き出そうとする刑事たちとの間には、相応の隔たりが生まれるのかもしれなかった。
あの日、二度目に綿貫家を訪れた刑事たちは、千春の出て行った和室で深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。千春くんが放火犯でないことは、一度目にお邪魔した時にほとんどわかっていたんです」
「でも!」
当時中学生の慈美が立ち上がって抗議しようとすると、母の春美が制止した。文句を言おうと母のほうを見ると、低い声で代わりに刑事たちを威圧するところだった。
「でも、千春を問い詰めましたよね? 君がやったのかと、聞きましたよね?」
「……あの時点で、千春くんを無実とする証拠はありませんでした。念の為、千春くん自身の否定を確認する必要があったんです」
「──犯人はどんな奴だったんでしょうか」
納得がいった様子は、父にも母にもなかった。慈美も同じだった。
けれど、父は静かにそう訊ねたのだ。
「全てをお答えすることはできませんが、いずれマスコミにも発表されます。まず容疑者は、放火があった町に住む男子大学生でした。動機はただ一言──」
浅葱は一度言葉を切った。
「──SNSでバズりたかったから、だと」
はあ? と誰もが思った。
そんな理由で放火をして、そんな理由で目的を果たして、挙句の果てにそんな理由で兄は疑われたのかと。
唖然とする家族3人の前で、浅葱は淡々と語った。
それは後日、新聞やニュースで瞬く間に広がった内容とほとんど同じだったが、浅葱本人は今思えば自分の口で伝えに来た分、見どころのある人ではあったのかもしれない。
彼の話によると、その大学生は自己顕示欲が強く、なかなか増えないフォロワー数や閲覧数に痺れを切らして、過激な投稿をするようになったという。
ある日、アルバイト先でのやや不謹慎な投稿が物議を醸し、良くも悪くも注目されることの悦びを知ってしまった。
そして、それならば自分が『正義のヒーロー』になれる投稿をすればいいと気がついた。
放火を自分の手で行い、放火犯をでっち上げて、その人物の姿をSNSにあげれば、今度は正反対の意味で一躍時の人となれる。
「それに利用されたのが、千春だということですか」
はい、と浅葱が頷く。
「千春くんが自転車で通って、街のいろいろなところの景色を写真に収めていた時、たまたま見かけたそうです。こいつが撮った場所に放火すれば、無作為に火を放つより、でっち上げた物語に真実味が出ると。そして、あの夜。私たちが千春くんを訪ねるきっかけとなった、あの夜のことです。夜十時頃、小さな小火騒ぎがありました。当時は放火が頻発していた為もあってか、地域の警戒度も高かったのでしょう。すぐに発見されたんです。そして、地域住民の手によって小火の時点で消火された。ところが、容疑者の大学生は、その日も千春くんが例の高台にいることを知っていたんです。ですから、放火したすぐ後に、あの高台に向かえば、決定的な瞬間が撮れると期待したそうです。ただし、今申し上げたように、消防に通報はあったもののすぐに鎮火しましたから、あの高台からでも火のようなものは見えなかったでしょう。消防車のサイレンの音も、千春くんはおそらく聞くこともなかった。大学生の計画では、放火のすぐ後、高台で消防車や野次馬などがてんやわんやに集まった場面を、写真に撮る千春くんを、自分がスマートフォンで撮ってSNSに載せれば、放火犯の出来上がり、そしてそれを見つけた自分が『正義のヒーロー』になれるはずだと」
地域住民に思いの外はやく発見されたことで、彼の計画は狂ったわけですが、彼にそれを知る術はありません。なぜなら、彼は千春くんの姿を撮るために現場を後にしたから──。
彼は千春くんの姿をSNSに載せました。
最初は反響がそれはもうたくさんあったそうです。称賛の声から、「お前は何してるんだ? 写真なんて撮ってないで早く捕まえろ」といったものまで、多種多様の声があったようです。
暗かったことと、千春くんに気取られないよう気を遣った為か、ほとんど顔は写っていません。けれど、千春くんを知る人が見れば、彼だと気がつく程度には効果がありました。
SNSを見た人から警察に寄せられた情報には、綿貫千春くんではないかとはっきり記されたものもありました。
そこで、我々が確かめに参上した次第です。
とはいえ、千春くんに写真を見せてもらった際に、どこにも火のようなものが見受けられなかったこと──千春くんが犯人だとしたら、これまで放火があった場所のことも考えて、必ず火を写そうとするはずだからです──、そして地元住民なら誰もが知っているあの高台の通称を知らなかったことや少し遠回りをすれば急坂を登らなくて済む道があると知らなかったこと、あの日写真を撮った場所を地図で示せるか聞いた時もそれができなかったことなどを鑑みて、土地勘がないだろうと推測もできました。
もちろん放火ですし、写真を撮ったところがポイントであって、土地勘のあるなしというのは問題にならないかもしれません。とはいえ、土地勘がなければ5件も放火を犯して、近隣住民に見咎められずに逃げ切れたとは思えません。
「それはここに来た時のお話ですよね? その前から千春が犯人でないとわかっていたと仰ったのでは?」
「ええ。そもそも、千春くんが犯人だとしたら、先ほども申し上げた通り、その場面を写真に収めることが目的だったと考えられます。けれど、彼はあの夜以外の前4件について、目撃情報が一切ありませんでした。
他の日や、5件目の時には、道中で必ず一人以上に見られているにも関わらずです。
ちなみに、千春くんは身長175センチ程度、細身や骨太という感じでもなく、ごく平均的な高校生の体格かとお見受けします。
件の容疑者である大学生は千春くんより身長もかなり低く、小太りです。似ても似つきません。
もしも千春くんに土地勘があれば人気のない道や時間帯を選ぶことができたかもしれません。けれど、そうであれば5件目の時だって誰かに見られることを避けたはず。
これは結果論と言いますか、容疑者の大学生によれば、最初は自分ででっち上げた放火そのものを、自ら糾弾するつもりだったから、適当な日を選んでいたと。その後、ほとんど毎日のように見かける千春くんに罪をなすりつける為にやったが、そういう日に限って千春くんを見つけられずに写真を撮ることができなかったと。
千春くんの土地勘のなさが幸いしたのか、おそらく地元住民の当たり前とは違った道を選んでいたことで、発見されにくかったのでしょう。もしくは、たまたま放火のあった日にはあの街や高台に行かなかったのかもしれません。
今日はそういった裏付けも予定していたのですが、全面的に容疑者が自白した為、事実をお伝えにだけ参りました。
そう言って、浅葱は話を締め括った。
確かに、その大学生とやらが一番憎い。
実を言うと、慈美は最初に浅葱がやって来た夜、自分のSNSアカウントで兄を庇う発言をした。
夕焼けの綺麗な写真を載せて、「こんなあったかい写真を撮る人が、そんなことするわけない」。身内だと明かしたわけではもちろんないが、それでもコメント欄は荒れに荒れた。
「あったかいってwww あついの間違いじゃない?」
「身内参上乙~! 兄は放火、妹は炎上! 火が大好き一家でぇす」
などと、どう考えても自分と兄の関係を把握している者までいた。
それから慈美は誰のことも信用できなかった。
クラスの友達は皆心配そうだったり、不安そうだったりしながらも、慈美のことをあからさまに邪険にはしなかった。
それでも自分がいないところで噂されていることや、他のクラスや学年に至ってはもっと大胆に悪口を言われていることもなぜか知ってしまっていた。
ニュースや新聞で報道されても、SNSはもちろん、あまつさえ現実世界でも、誰も謝るどころかその件に触れる者はいなかった。
どういう心境なのか聞いてみたかった。
自分は悪いことをしたと思ってもいないのか、思っていてばつが悪いからそうするのか、はたまた彼らにとって見知らぬ世界のことは全く無かったことにできてしまうのか──。
慈美は自分のSNSの使い方が間違っていたのだと思った。
匿名で庇っても、身内だと簡単に突き止められてしまう。
ならば、匿名は匿名のまま、兄の写真を使って世間に知らしめてやろう。
こんなに美しい世界があることを、こんなに素敵な写真があることを、私は私じゃなく、存在もしない誰かとして、こんなにも素晴らしい世界に生きているんだと、悪口や陰口で汚く濁ったその瞳を、もう一度輝かせてやるんだと──。
もしかしたら、自分は昔からそういう自分を求めていたのかもしれなかった。
幼い頃から友達は多かった。楽しかった。
それなのに、なぜか世界は空虚だった。
千春の写真は、そんな慈美に世界の美しさを教えてくれた。
御伽話か何かのように、見知らぬ街で生活する自分ではない自分を想像することに明け暮れた。
最初は目を覚まさせてやろうと思って始めた、兄の写真を使った今のSNSも、高校生になって何の不満もない学校生活に嫌気がさしてくると、なんだか自分の居場所はここだと思えてきてしまう。
こんなに素敵なところにいられたら、どんなに幸せだろうと思う。
慈美は兄が羨ましかった。
無愛想で不器用で生き方はど下手くそだったけれど、兄の千春はいつでも綿貫千春だった。
自分を大きく見せることも無理に飾ることもしなかったし、妹に対して『お兄ちゃん』らしいところを見せることもしなかった。
兄がどう考えていたのかはわからないが、そういう等身大の、自分らしさみたいなものを持っている兄が羨ましかった。と同時に、楽しくなくても笑って、無駄に優等生ぶって、社交的な女子を演じている自分が馬鹿らしかった。
それでも今更やめられるはずもなくて、誰も知らないところで、今度は『自分じゃない自分』を探しに行った。それは裏を返せば、『自分が思う自分』であって、理想の自分の姿だった。
今のところ、それは兄の写真の中にしかない。
ブラコンだと言われたらそれまでだけれど、幼い頃から一定の距離があったからこそ、慈美は兄のことが好きだった。
一緒に遊んでくれた記憶もなければ、颯爽と助けに来てくれたこともないし、勉強や運動を教えてくれた実績もない。
それが妙に心地よかったのだと思う。
お互いに兄妹なんてこんなものだと思っていた。
実際、他の家族のことはよく知らないのだ。
別に自分たちがこうであっても、誰にも文句を言われる筋合いはない。
だからこそ、兄から写真を、兄の世界を、そして『自分』が生きる世界を、奪った人たちが許せなかった。
それでも誰かや何かを傷つけるのは違う気がして、というより自分もそっち側になる気がして、慈美は頑なに今でも、SNSで恐ろしく遠回しに伝えようとしているのだ。
『自分が生きる世界はこんなにも美しい』──。
だからあなたも、自分の世界を、自分の生きる居場所を、あなたの言葉や何かで──自分の手で汚すなんてことは、しないでよ。
一緒に保護された友達は、別の部屋で事情聴取みたいなものを受けている。
ドアの開いた会議室のようなところで、女性警察官と共に待っていた慈美のところへ、コンコンとノックの音と共にスーツ姿の男性が現れた。
「おはよう、慈美ちゃんだったかな」
「…………浅葱さん」
「覚えててくれたんだね。お兄さんは元気?」
「……まあ、はい」
2年ほど前、兄が疑われた放火事件を担当していた、あの中性的な若いほうの刑事だった。
明るいというより、優しげな口調ではあった。表情も笑っているより、困ったように眉が下がった『申し訳なさ』のほうが強く感じられた。
それでも彼には、慈美が怒っているように思えたかもしれない。
「そう。写真は? あれからも撮ってる?」
きっと彼は共通の話題──自分がしたことを棚に上げて──で、場を和ませようとしたのだと慈美にもわかっていた。
けれど、やっぱりそんな何でもない顔で、語らないで欲しかった。
兄はあれから一枚も撮らなくなった、正確に言うと撮れなくなった。
カメラを持って出かけることも、撮った写真を眺めることも、帰って来たところを自分に「見せて見せて」とせがまれることもなくなった。
「…………じゃ、ありません」
「ん?」
小さくて聞き取れなかったのか、目を合わせようとしない慈美の顔を覗き込むように、彼は聞き返した。
慈美は思い切り顔を上げる。
「あれからもじゃありません。兄はこの2年間一枚も、写真を撮っていません」
睨みつけるような慈美の表情に、ハッと浅葱が身を引いた。
「何も知らないくせに、兄から写真を奪ったくせに、まるで当たり前みたいに、今もあの頃と変わらないみたいに言わないで!」
自分でもどうしてそんなに激昂したのか、慈美にはわからなかった。
それでもフレンドリーな態度でいようとした浅葱は、中途半端な笑顔のまま固まる。
ちょうどその時、別室にいた友達と入れ替わりで今度は慈美の名前が呼ばれた。
一緒に会議室にいた付き添いの女性警察官が、怪訝そうにしながらも、どちらかというと慈美を気遣うように、肩に手を置いて別室へと誘っていく。
目の端から伝った涙を拭う姿を見てか、友達が驚いたように慈美のほうを振り返る。
「……慈美?」
何でもない、というように首を振り、慈美は会議室を出た。
別室に通され、会議室の人とは別の女性警察官と斜めに向き合う形で、椅子に腰を下ろした。
事情聴取とは確か言わなかったが、少なくとも慈美は似たようなものだと認識していた。
あの時の、兄を放火犯と疑った時の、浅葱と同じ雰囲気だったからだ。
警察が民間人と話をする時、大抵はこんな状況なのだろう。こちらだって、相手が刑事だと知れば、大抵が事件絡みだと考える。
身構える民間人と、犯人相手でなくとも何かを聞き出そうとする刑事たちとの間には、相応の隔たりが生まれるのかもしれなかった。
あの日、二度目に綿貫家を訪れた刑事たちは、千春の出て行った和室で深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。千春くんが放火犯でないことは、一度目にお邪魔した時にほとんどわかっていたんです」
「でも!」
当時中学生の慈美が立ち上がって抗議しようとすると、母の春美が制止した。文句を言おうと母のほうを見ると、低い声で代わりに刑事たちを威圧するところだった。
「でも、千春を問い詰めましたよね? 君がやったのかと、聞きましたよね?」
「……あの時点で、千春くんを無実とする証拠はありませんでした。念の為、千春くん自身の否定を確認する必要があったんです」
「──犯人はどんな奴だったんでしょうか」
納得がいった様子は、父にも母にもなかった。慈美も同じだった。
けれど、父は静かにそう訊ねたのだ。
「全てをお答えすることはできませんが、いずれマスコミにも発表されます。まず容疑者は、放火があった町に住む男子大学生でした。動機はただ一言──」
浅葱は一度言葉を切った。
「──SNSでバズりたかったから、だと」
はあ? と誰もが思った。
そんな理由で放火をして、そんな理由で目的を果たして、挙句の果てにそんな理由で兄は疑われたのかと。
唖然とする家族3人の前で、浅葱は淡々と語った。
それは後日、新聞やニュースで瞬く間に広がった内容とほとんど同じだったが、浅葱本人は今思えば自分の口で伝えに来た分、見どころのある人ではあったのかもしれない。
彼の話によると、その大学生は自己顕示欲が強く、なかなか増えないフォロワー数や閲覧数に痺れを切らして、過激な投稿をするようになったという。
ある日、アルバイト先でのやや不謹慎な投稿が物議を醸し、良くも悪くも注目されることの悦びを知ってしまった。
そして、それならば自分が『正義のヒーロー』になれる投稿をすればいいと気がついた。
放火を自分の手で行い、放火犯をでっち上げて、その人物の姿をSNSにあげれば、今度は正反対の意味で一躍時の人となれる。
「それに利用されたのが、千春だということですか」
はい、と浅葱が頷く。
「千春くんが自転車で通って、街のいろいろなところの景色を写真に収めていた時、たまたま見かけたそうです。こいつが撮った場所に放火すれば、無作為に火を放つより、でっち上げた物語に真実味が出ると。そして、あの夜。私たちが千春くんを訪ねるきっかけとなった、あの夜のことです。夜十時頃、小さな小火騒ぎがありました。当時は放火が頻発していた為もあってか、地域の警戒度も高かったのでしょう。すぐに発見されたんです。そして、地域住民の手によって小火の時点で消火された。ところが、容疑者の大学生は、その日も千春くんが例の高台にいることを知っていたんです。ですから、放火したすぐ後に、あの高台に向かえば、決定的な瞬間が撮れると期待したそうです。ただし、今申し上げたように、消防に通報はあったもののすぐに鎮火しましたから、あの高台からでも火のようなものは見えなかったでしょう。消防車のサイレンの音も、千春くんはおそらく聞くこともなかった。大学生の計画では、放火のすぐ後、高台で消防車や野次馬などがてんやわんやに集まった場面を、写真に撮る千春くんを、自分がスマートフォンで撮ってSNSに載せれば、放火犯の出来上がり、そしてそれを見つけた自分が『正義のヒーロー』になれるはずだと」
地域住民に思いの外はやく発見されたことで、彼の計画は狂ったわけですが、彼にそれを知る術はありません。なぜなら、彼は千春くんの姿を撮るために現場を後にしたから──。
彼は千春くんの姿をSNSに載せました。
最初は反響がそれはもうたくさんあったそうです。称賛の声から、「お前は何してるんだ? 写真なんて撮ってないで早く捕まえろ」といったものまで、多種多様の声があったようです。
暗かったことと、千春くんに気取られないよう気を遣った為か、ほとんど顔は写っていません。けれど、千春くんを知る人が見れば、彼だと気がつく程度には効果がありました。
SNSを見た人から警察に寄せられた情報には、綿貫千春くんではないかとはっきり記されたものもありました。
そこで、我々が確かめに参上した次第です。
とはいえ、千春くんに写真を見せてもらった際に、どこにも火のようなものが見受けられなかったこと──千春くんが犯人だとしたら、これまで放火があった場所のことも考えて、必ず火を写そうとするはずだからです──、そして地元住民なら誰もが知っているあの高台の通称を知らなかったことや少し遠回りをすれば急坂を登らなくて済む道があると知らなかったこと、あの日写真を撮った場所を地図で示せるか聞いた時もそれができなかったことなどを鑑みて、土地勘がないだろうと推測もできました。
もちろん放火ですし、写真を撮ったところがポイントであって、土地勘のあるなしというのは問題にならないかもしれません。とはいえ、土地勘がなければ5件も放火を犯して、近隣住民に見咎められずに逃げ切れたとは思えません。
「それはここに来た時のお話ですよね? その前から千春が犯人でないとわかっていたと仰ったのでは?」
「ええ。そもそも、千春くんが犯人だとしたら、先ほども申し上げた通り、その場面を写真に収めることが目的だったと考えられます。けれど、彼はあの夜以外の前4件について、目撃情報が一切ありませんでした。
他の日や、5件目の時には、道中で必ず一人以上に見られているにも関わらずです。
ちなみに、千春くんは身長175センチ程度、細身や骨太という感じでもなく、ごく平均的な高校生の体格かとお見受けします。
件の容疑者である大学生は千春くんより身長もかなり低く、小太りです。似ても似つきません。
もしも千春くんに土地勘があれば人気のない道や時間帯を選ぶことができたかもしれません。けれど、そうであれば5件目の時だって誰かに見られることを避けたはず。
これは結果論と言いますか、容疑者の大学生によれば、最初は自分ででっち上げた放火そのものを、自ら糾弾するつもりだったから、適当な日を選んでいたと。その後、ほとんど毎日のように見かける千春くんに罪をなすりつける為にやったが、そういう日に限って千春くんを見つけられずに写真を撮ることができなかったと。
千春くんの土地勘のなさが幸いしたのか、おそらく地元住民の当たり前とは違った道を選んでいたことで、発見されにくかったのでしょう。もしくは、たまたま放火のあった日にはあの街や高台に行かなかったのかもしれません。
今日はそういった裏付けも予定していたのですが、全面的に容疑者が自白した為、事実をお伝えにだけ参りました。
そう言って、浅葱は話を締め括った。
確かに、その大学生とやらが一番憎い。
実を言うと、慈美は最初に浅葱がやって来た夜、自分のSNSアカウントで兄を庇う発言をした。
夕焼けの綺麗な写真を載せて、「こんなあったかい写真を撮る人が、そんなことするわけない」。身内だと明かしたわけではもちろんないが、それでもコメント欄は荒れに荒れた。
「あったかいってwww あついの間違いじゃない?」
「身内参上乙~! 兄は放火、妹は炎上! 火が大好き一家でぇす」
などと、どう考えても自分と兄の関係を把握している者までいた。
それから慈美は誰のことも信用できなかった。
クラスの友達は皆心配そうだったり、不安そうだったりしながらも、慈美のことをあからさまに邪険にはしなかった。
それでも自分がいないところで噂されていることや、他のクラスや学年に至ってはもっと大胆に悪口を言われていることもなぜか知ってしまっていた。
ニュースや新聞で報道されても、SNSはもちろん、あまつさえ現実世界でも、誰も謝るどころかその件に触れる者はいなかった。
どういう心境なのか聞いてみたかった。
自分は悪いことをしたと思ってもいないのか、思っていてばつが悪いからそうするのか、はたまた彼らにとって見知らぬ世界のことは全く無かったことにできてしまうのか──。
慈美は自分のSNSの使い方が間違っていたのだと思った。
匿名で庇っても、身内だと簡単に突き止められてしまう。
ならば、匿名は匿名のまま、兄の写真を使って世間に知らしめてやろう。
こんなに美しい世界があることを、こんなに素敵な写真があることを、私は私じゃなく、存在もしない誰かとして、こんなにも素晴らしい世界に生きているんだと、悪口や陰口で汚く濁ったその瞳を、もう一度輝かせてやるんだと──。
もしかしたら、自分は昔からそういう自分を求めていたのかもしれなかった。
幼い頃から友達は多かった。楽しかった。
それなのに、なぜか世界は空虚だった。
千春の写真は、そんな慈美に世界の美しさを教えてくれた。
御伽話か何かのように、見知らぬ街で生活する自分ではない自分を想像することに明け暮れた。
最初は目を覚まさせてやろうと思って始めた、兄の写真を使った今のSNSも、高校生になって何の不満もない学校生活に嫌気がさしてくると、なんだか自分の居場所はここだと思えてきてしまう。
こんなに素敵なところにいられたら、どんなに幸せだろうと思う。
慈美は兄が羨ましかった。
無愛想で不器用で生き方はど下手くそだったけれど、兄の千春はいつでも綿貫千春だった。
自分を大きく見せることも無理に飾ることもしなかったし、妹に対して『お兄ちゃん』らしいところを見せることもしなかった。
兄がどう考えていたのかはわからないが、そういう等身大の、自分らしさみたいなものを持っている兄が羨ましかった。と同時に、楽しくなくても笑って、無駄に優等生ぶって、社交的な女子を演じている自分が馬鹿らしかった。
それでも今更やめられるはずもなくて、誰も知らないところで、今度は『自分じゃない自分』を探しに行った。それは裏を返せば、『自分が思う自分』であって、理想の自分の姿だった。
今のところ、それは兄の写真の中にしかない。
ブラコンだと言われたらそれまでだけれど、幼い頃から一定の距離があったからこそ、慈美は兄のことが好きだった。
一緒に遊んでくれた記憶もなければ、颯爽と助けに来てくれたこともないし、勉強や運動を教えてくれた実績もない。
それが妙に心地よかったのだと思う。
お互いに兄妹なんてこんなものだと思っていた。
実際、他の家族のことはよく知らないのだ。
別に自分たちがこうであっても、誰にも文句を言われる筋合いはない。
だからこそ、兄から写真を、兄の世界を、そして『自分』が生きる世界を、奪った人たちが許せなかった。
それでも誰かや何かを傷つけるのは違う気がして、というより自分もそっち側になる気がして、慈美は頑なに今でも、SNSで恐ろしく遠回しに伝えようとしているのだ。
『自分が生きる世界はこんなにも美しい』──。
だからあなたも、自分の世界を、自分の生きる居場所を、あなたの言葉や何かで──自分の手で汚すなんてことは、しないでよ。
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