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心配の真髄
尊厳の喪失
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高校生になった綿貫千春は、新しいカメラを手に入れ、一層写真の道にのめり込んでいった。
学校に行って、父に借りたカメラ代を返すためにアルバイトをして、アルバイトがない休日は日がな一日被写体を探し求めていた。
部活には所属しなかった。『帰宅部』という名前もないほど、放課後の生徒たちの活動はそれぞれの裁量に任されていた──と言えば聞こえはいいが、実際にはそれほど部活動に力を入れていなかったのかもしれない。
もちろん大会に出たり、優勝を目指したりする運動部もあったし、吹奏楽部や美術部などの文化部も充実していた。実を言うと、写真部も存在した。
けれど、千春はあえて避けたのだ。
部活紹介の時にちらりと覗いてみたが、写真部とは名ばかりのお喋りお菓子部と化していたからだ。ついでに言うと女子生徒ばかりだった。
興味のある素振りを見て取ったのか、彼女たちからは強引に誘われたが、千春お得意の無愛想でなんとか乗り切った──わけではなく、女子たちの圧が強すぎて何もできなかっただけだが。
ともあれ、学業成績も悪くなく、基本的に授業態度も良かったので、千春は先生たちから目をつけられることはなかった。アルバイトの許可が下りたのもそのおかげだろう。
教室の中では孤立──というより、休み時間に誰かと群れたり話したりしなかっただけで、別に周りが意図してそうなったわけではない、と思う。
普通に挨拶や会話をするクラスメイトは男女問わずいたが、千春は子供の頃から強く自己主張をしない子だった。
だからか、相手が自分にとって都合のいいことを誰かに伝える際、その内容に千春が利用されたことも実はたくさんある。
気分がいいとは言えなかったけれど、わざわざ角を立ててまで訂正するのも億劫だった。その話を聞いた誰かが、利用されているだろうことに気がついても、気がつかなくても、別に何かが大きく変わるわけでもない。
千春は授業中にぼんやり窓の外を見つめながら、この景色もこの教室からしか見られないとなれば、格好の被写体──タイトルをつけるなら『青春時代』とか『青写真』とか──だろうか、などと考えてみる。
かと言って、今まさに自分が『青春時代』を過ごしているという感覚はなく、「その写真を見た人がそう思うだろう」という想像に基づくものだった。
だから恥ずかしいとかダサいとかそういうことは感じることもなかった。どこかに発表するつもりもないし、そもそも学校にカメラは持って来ていなかった。
壊すのが嫌だったし、高校生にしては高価なカメラだったので、クラスメイトたちに触れられるのも遠慮したかった。
千春はアルバイトがない日は、一度家に帰って──ちなみに自転車で通っていた──、カメラを持って被写体探しの旅に毎日のように出ていた。
近所は知り合いも多いし、同じ時間に帰宅する同級生や同年代もいたので、できれば彼らと接触したくなかった。
ある日、少しいつもより早く帰宅できたので、家からも学校からも離れた高台まで自転車を走らせた。
初秋の風が爽やかな日だったと思う。
日は短くなってきていたが、男でもあるし、制服は一度帰った時に着替えている。多少帰りが遅くなっても、見咎められることはないだろう。
思ったよりも急な坂道を息を切らしながらも上り終え、ベンチ数台と簡素な外灯があるだけのそこに辿り着いた。
思わず声が出た。
あの時と同じだった。
中学の修学旅行、目的もなく入った美術館で出会った、あの朝焼けの写真──。
その日は天気もよく、夕焼けに紅く染まった街が一望できた。
綺麗だと思った。
そして、当たり前に存在している景色だと言うのに、周りには誰も人がいない。まさに千春にとって『まだ見ぬ世界』の一つとして、刻み込まれた瞬間だった。
公園というには何も遊具がなく、広場というほど開けてもいない。東屋のような屋根のある場所でもないし、千春も身をもって体験したように来るのも一苦労な場所だ。
いわゆる穴場というやつで、ここで寝転がってみたら星降る夜空が見られるかもしれない。百万ドルには程遠いが、千春が千春として──この街の近くに住むひとりの男子高校生という立場や、誰かや何かに気を遣わず本当の自分でいられるという意味で──この目で見て触れられる光景の中では随一の被写体になりそうな予感がした。
その日から余裕があれば、その場所を訪れて、絵日記か観察日記のように、日々の街の移り変わりを記録していった。
大きく何かが変わることはもちろんなかったけれど、たまにパラパラ漫画みたいにして見返すのが楽しかった。
被写体はそれだけではなく、そこに至るまでの道中に発見したユニークな看板だったり、小さな石ころだったり──。
あてもなく自転車を走らせていたので、そこがどこなのかもわからなかった。きっと二度とここを通ることはないだろうななどと考えつつ、だからこそ今この瞬間にしか撮れない写真を、捉えられない景色を焼き付けようと努めた。
一球入魂などと球技ではよく使うが、この場合は『一葉入魂』とでも言うのだろうか。なんだか一人でおかしくなって、ついつい笑ってしまう。
自分の日常に、昨日まで、いやついさっきまで知らなかったことが増えていくのが楽しかった。
──そう、あの頃は純粋に楽しいという気持ちを千春も持っていたのだ。
それから更に一年ほどが過ぎた。
高校2年生になった千春は、妹の慈美や母親の春美がどこからか見つけて来た写真コンテスト等の賞に応募して、もといさせられていた。
千春としてはそういったものに興味はなかった。
何せ、最初に憧れたのは無名の写真家である。
名誉も称賛も必要なかった。
ただ自分に撮れる写真が、自分にそして誰かにとっての『世界』であることがわかればそれで──。
「お兄ちゃん、また最優秀賞だよ! すごいね!」
二つ年下の妹にそう言われても、「あぁ」とか「うん」とか気のない返事ばかりしていた。照れ隠しなんかではなく、それが紛れもない本心だった。
両親──特に父親は──態度や言葉には出さなかったけれど、額を買って来て和室に飾る程度には嬉しかったと見える。
そういう扱いが嫌だったわけではないけれど、「なんか違う」と思っていたことも事実だった。
誰かに見て欲しい、この気持ちを伝えたい、という意思が皆無だったとは言えない。それでも、この時期はただ自分の世界が広がることが、ただ写真を撮ることそのものが楽しかった。それだけだ。
一年が経とうとしていても、あの離れた街の高台には定期的に足を運んでいた。
おかげで脚力と体力がついたらしく、そこそこの文武両道を謳っていた学校にはあるまじき、全員参加のミニミニマラソン大会──という名前だった──も余裕で完走した。
人並みの学校生活だったと思う。
たまにトラブルや厄介ごとに巻き込まれることもあったけれど、千春にとっては日常茶飯事だった。取り立てて非日常を語るほどのことはない。
友人は相変わらず少なかったけれど、周りは大体そんな奴ばかりだった。アルバイト先の一つ年上の女子生徒と交際したこともあるが、千春の連絡不精に呆れたのかやがて自然消滅した。
何度も言うが、学校生活も、アルバイト経験も、それからこの頃の『世界の広さ』も、全て人並みだったと思う。元々、千春の『世界』はそれほど広くはなかったのだから──。
そんなある日、家に警察が訪れた。
夕食後に思いの外星は降って来なかった夜景を見に行くこともあったが、その日は夕食前に高台から帰って来た時のことだった。
「綿貫千春くんだね」
「……はい」
父の千慈と同じくらいの年配の男性と、30歳前後くらいの若い男性の、若いほうが訊ねた。
ご丁寧に玄関先の千春に警察手帳を見せてくれる。巡査だか巡査部長だか、そこまでは覚えていないが、ほとんど口をきかなかった年配刑事より若い彼のほうが、質問役に適しているのは千春にもわかった。
訝しげに返事をする千春に、警察手帳をしまってメモを取り出しながら、若いほう──確か浅葱といったか──が続ける。
「まずは上がって──って僕が言うのも変だけど、座って、落ち着いて話そうか」
刑事とは思えない柔らかな口調と声音だった。
顔も強面ではなく、今風の髪型も相まってか中性的な雰囲気で、『事情聴取』といった感じは全くなかった。
父はまだ帰って来ていなかった。母親に促され、和室に向かう。既にしばらく待った後だったのか、テーブルの上にはほとんど中身の残っていない湯呑みがふたつ置かれていた。
「千春、何度も電話したのよ!」
母親が小声で嗜める。
普段は放任主義というか、千春や慈美に干渉しない主義の母親が、特に息子の千春に電話をしてくることは確かに珍しかった。
その時、「ごめん」と言ったのかそれとも無言だったのかも記憶していない。
ただ千春が座ったと同時に、少し真剣な顔で、鋭い言葉尻で、浅葱は切り出した。
やっぱりこの人も刑事なんだなと頭のどこか片隅で考えながら、千春は聞いていた。
「先週の金曜日、午後十時頃、君はどこにいたかな?」
「──隣町のちょっと先にある、高台です」
あの場所がどういう名前なのか千春は知らない。
公園のように入り口に書いてあるわけでもなく、誰かに訊ねられたり説明したりする機会もなかったので、千春は勝手に『一ドルの街』と呼んでいた。
別に住んでいる人たちを揶揄するわけではない。
そもそも他人に言うことも一生ないだろう。
『百万ドル』を『特別』『非日常』と表現するのなら、自分の住む世界、普通に『日常』として見られる世界なら、それくらいがちょうどいいと思ったから名付けただけだ。
最初は『街』でなく『夜景』にしようと思ったが、住んでいる人たちを蔑ろにするようで気が引けた。自分は『夜景』より『夜を過ごす街』を見たいのだと、その時に実感したから。
「その日の写真はあるかな?」
「──ありますけど」
「もしよければ見せて欲しいんだけど、どう?」
猫撫で声というほどではないが、アリバイらしきものを訊ねた時の険のある口調ではなく、どちらかと言えば千春を警戒させない為の工夫にも感じられた。逆にそれが彼らの狙いをわからなくさせていて、千春には恐ろしかった。
今持って帰って来たばかりのカメラにはもう入っていない。週末──土曜か日曜──には、その週の分を整理してバックアップ用に移してある。
閉め切った和室を出ると、扉のすぐそこに妹の姿があった。
ばつの悪そうな顔をしているところを見ると、聞き耳を立てていたのかもしれない。
普段は快活で社交的だからこそ笑顔の絶えない妹には珍しく、心配そうな上目遣いで千春を見つめていた。
兄として何か言うべきか、肩でも叩いて安心させるべきか──そう思いつつも、千春にとっても今自分が何を問題にされようとしているのか見当もつかなかった。
せいぜいが首を振るしかできない。
わからない、という意味だったのだが、どう受け取ったのか、慈美は涙を溜めて、千春の服の裾を掴んで同じように首を左右に振った。
溜まっていた雫が、その振動で千春の七分袖から出た手首に飛んだ。
そっと妹の手を離させると、千春は無言で階段を上がった。
「──いい写真だね」
しばらく隣の年配の刑事とその日の写真を見て、どこかを指差しながら首を傾げたり横に振ったりした後、取ってつけたように浅葱は笑みを浮かべて、ノートPCの画面をこちら側に向けた。
「写真はこれで本当に全部?」
ふっと彼の瞳から光が消えた。
声も険しくなった。
「…………はい」
千春の戸惑いによる沈黙を、浅葱は吟味するようにこちらを見つめた。
「ここに入っていなかったり、削除したりしたものは?」
「ありません」
さすがにムッとして、千春は即座に言い返した。
理由も話さず、根掘り葉掘りと聞きたいことだけ聞いてくる。
それが彼らの仕事かもしれないが、疑われるようなことは何もない。
「──そう。じゃあ、先週の金曜日、午後十時頃、この辺りで火事があったのは知ってる?」
「火事? さあ、家にはいなかったので」
「あぁ、聞き方が悪かったよ。この辺り、っていうのはこの家の周辺じゃなくて、君の写真に写ってるこの街のことなんだ」
どちらにしても答えは同じだ。
「知りません。ニュースもあまり見ないので」
「うん。まあ今回は小火で済んだから、ニュースの扱いもいつもより大きくなかったんだけどね」
「今回? いつも? 何の話ですか」
うんざりした千春は、声にも顔にも表れていることを自覚しながら、隠す素振りはもう見せなかった。
うんうんと浅葱は頷きながら、何枚かの写真を取り出した。
「最近、この街で放火が多発してる。今回はと言ったけど、それを含めて5件。幸い、亡くなった方はいないけれど、大きなものだと周りの2・3軒に延焼している。ニュースにもなっているよ」
今度はスマートフォンを素早く操作して、そのニュースが報じられているページの検索画面を千春に向けた。
「──だから、何ですか。俺に何の関係が……!」
そこで浅葱は、とんとんと既にテーブルに置かれた現場検証写真を指差した。
「よく見てごらん。本当に心当たりはない?」
千春は何度か浅葱と写真を見比べたが、見るまで解放しないとばかりに視線で促してくるので、渋々写真をテーブルから取り上げた。
ハッと千春は、次々と写真を穴が開くまで見つめた。
「…………これ、は…………」
千春があの街を訪れた時に撮った被写体ばかりだった。大きく延焼したのは、ユニークな看板で、家は写していないが、確かにすぐそばに存在していた。
けれど、自分でもここがどこか知っていて撮ったわけではない。
通りかかることはあの後も何度もあったが、地理を覚えてしまったら、なんだか新鮮さが失われる気がして、あえて調べたり地図アプリを使ったりはしなかったのだ。
高台さえ目指していれば迷うことはなかったし、家からならもっと簡単にほぼ直線で往復できたからだ。
「君が写真を撮っていた場所ばかりだね?」
「………………はい」
「君が、やったのかな?」
千春は呆然としていた。
答えなければと思うのに、口が開かない。
『知らない世界』を求めていたはずなのに、こんな『世界』を知る羽目になるとは露ほども思わなかった。
黙ったままの千春に、あたふたと和室の隅に座っていた母親が立ちあがろうとする。
しかしその前に、スパーンと襖が開いた。
制服のスカートを皺が寄るほど握りしめた、妹の慈美だった。
「お兄ちゃんはそんなことしない! 無愛想で不器用で、生き方がど下手くそだけど! 絶対そんなことしないもん……お兄ちゃんは人を傷つけること、しないもん……」
ぽたぽたと涙が畳を打つ。
母親も寄り添い、妹と同じ意見らしく、今度は彼女が険のある瞳で刑事たちを睨みつけた。
「……申し訳ありません。また出直します。その時にはもしかしたら──署に同行してもらうかもしれません」
そう言って浅葱と年配の刑事は立ち上がった。
千春がテーブルに散らかしたままの写真は彼の刑事らしくない白く繊細な手で揃えられ、定位置の内ポケットへと戻っていった。
母は彼らを見送りに玄関へ、残されたのはぼんやり座ったままの千春と、堪えきれない涙をただ必死に拭う慈美だけだった。
学校に行って、父に借りたカメラ代を返すためにアルバイトをして、アルバイトがない休日は日がな一日被写体を探し求めていた。
部活には所属しなかった。『帰宅部』という名前もないほど、放課後の生徒たちの活動はそれぞれの裁量に任されていた──と言えば聞こえはいいが、実際にはそれほど部活動に力を入れていなかったのかもしれない。
もちろん大会に出たり、優勝を目指したりする運動部もあったし、吹奏楽部や美術部などの文化部も充実していた。実を言うと、写真部も存在した。
けれど、千春はあえて避けたのだ。
部活紹介の時にちらりと覗いてみたが、写真部とは名ばかりのお喋りお菓子部と化していたからだ。ついでに言うと女子生徒ばかりだった。
興味のある素振りを見て取ったのか、彼女たちからは強引に誘われたが、千春お得意の無愛想でなんとか乗り切った──わけではなく、女子たちの圧が強すぎて何もできなかっただけだが。
ともあれ、学業成績も悪くなく、基本的に授業態度も良かったので、千春は先生たちから目をつけられることはなかった。アルバイトの許可が下りたのもそのおかげだろう。
教室の中では孤立──というより、休み時間に誰かと群れたり話したりしなかっただけで、別に周りが意図してそうなったわけではない、と思う。
普通に挨拶や会話をするクラスメイトは男女問わずいたが、千春は子供の頃から強く自己主張をしない子だった。
だからか、相手が自分にとって都合のいいことを誰かに伝える際、その内容に千春が利用されたことも実はたくさんある。
気分がいいとは言えなかったけれど、わざわざ角を立ててまで訂正するのも億劫だった。その話を聞いた誰かが、利用されているだろうことに気がついても、気がつかなくても、別に何かが大きく変わるわけでもない。
千春は授業中にぼんやり窓の外を見つめながら、この景色もこの教室からしか見られないとなれば、格好の被写体──タイトルをつけるなら『青春時代』とか『青写真』とか──だろうか、などと考えてみる。
かと言って、今まさに自分が『青春時代』を過ごしているという感覚はなく、「その写真を見た人がそう思うだろう」という想像に基づくものだった。
だから恥ずかしいとかダサいとかそういうことは感じることもなかった。どこかに発表するつもりもないし、そもそも学校にカメラは持って来ていなかった。
壊すのが嫌だったし、高校生にしては高価なカメラだったので、クラスメイトたちに触れられるのも遠慮したかった。
千春はアルバイトがない日は、一度家に帰って──ちなみに自転車で通っていた──、カメラを持って被写体探しの旅に毎日のように出ていた。
近所は知り合いも多いし、同じ時間に帰宅する同級生や同年代もいたので、できれば彼らと接触したくなかった。
ある日、少しいつもより早く帰宅できたので、家からも学校からも離れた高台まで自転車を走らせた。
初秋の風が爽やかな日だったと思う。
日は短くなってきていたが、男でもあるし、制服は一度帰った時に着替えている。多少帰りが遅くなっても、見咎められることはないだろう。
思ったよりも急な坂道を息を切らしながらも上り終え、ベンチ数台と簡素な外灯があるだけのそこに辿り着いた。
思わず声が出た。
あの時と同じだった。
中学の修学旅行、目的もなく入った美術館で出会った、あの朝焼けの写真──。
その日は天気もよく、夕焼けに紅く染まった街が一望できた。
綺麗だと思った。
そして、当たり前に存在している景色だと言うのに、周りには誰も人がいない。まさに千春にとって『まだ見ぬ世界』の一つとして、刻み込まれた瞬間だった。
公園というには何も遊具がなく、広場というほど開けてもいない。東屋のような屋根のある場所でもないし、千春も身をもって体験したように来るのも一苦労な場所だ。
いわゆる穴場というやつで、ここで寝転がってみたら星降る夜空が見られるかもしれない。百万ドルには程遠いが、千春が千春として──この街の近くに住むひとりの男子高校生という立場や、誰かや何かに気を遣わず本当の自分でいられるという意味で──この目で見て触れられる光景の中では随一の被写体になりそうな予感がした。
その日から余裕があれば、その場所を訪れて、絵日記か観察日記のように、日々の街の移り変わりを記録していった。
大きく何かが変わることはもちろんなかったけれど、たまにパラパラ漫画みたいにして見返すのが楽しかった。
被写体はそれだけではなく、そこに至るまでの道中に発見したユニークな看板だったり、小さな石ころだったり──。
あてもなく自転車を走らせていたので、そこがどこなのかもわからなかった。きっと二度とここを通ることはないだろうななどと考えつつ、だからこそ今この瞬間にしか撮れない写真を、捉えられない景色を焼き付けようと努めた。
一球入魂などと球技ではよく使うが、この場合は『一葉入魂』とでも言うのだろうか。なんだか一人でおかしくなって、ついつい笑ってしまう。
自分の日常に、昨日まで、いやついさっきまで知らなかったことが増えていくのが楽しかった。
──そう、あの頃は純粋に楽しいという気持ちを千春も持っていたのだ。
それから更に一年ほどが過ぎた。
高校2年生になった千春は、妹の慈美や母親の春美がどこからか見つけて来た写真コンテスト等の賞に応募して、もといさせられていた。
千春としてはそういったものに興味はなかった。
何せ、最初に憧れたのは無名の写真家である。
名誉も称賛も必要なかった。
ただ自分に撮れる写真が、自分にそして誰かにとっての『世界』であることがわかればそれで──。
「お兄ちゃん、また最優秀賞だよ! すごいね!」
二つ年下の妹にそう言われても、「あぁ」とか「うん」とか気のない返事ばかりしていた。照れ隠しなんかではなく、それが紛れもない本心だった。
両親──特に父親は──態度や言葉には出さなかったけれど、額を買って来て和室に飾る程度には嬉しかったと見える。
そういう扱いが嫌だったわけではないけれど、「なんか違う」と思っていたことも事実だった。
誰かに見て欲しい、この気持ちを伝えたい、という意思が皆無だったとは言えない。それでも、この時期はただ自分の世界が広がることが、ただ写真を撮ることそのものが楽しかった。それだけだ。
一年が経とうとしていても、あの離れた街の高台には定期的に足を運んでいた。
おかげで脚力と体力がついたらしく、そこそこの文武両道を謳っていた学校にはあるまじき、全員参加のミニミニマラソン大会──という名前だった──も余裕で完走した。
人並みの学校生活だったと思う。
たまにトラブルや厄介ごとに巻き込まれることもあったけれど、千春にとっては日常茶飯事だった。取り立てて非日常を語るほどのことはない。
友人は相変わらず少なかったけれど、周りは大体そんな奴ばかりだった。アルバイト先の一つ年上の女子生徒と交際したこともあるが、千春の連絡不精に呆れたのかやがて自然消滅した。
何度も言うが、学校生活も、アルバイト経験も、それからこの頃の『世界の広さ』も、全て人並みだったと思う。元々、千春の『世界』はそれほど広くはなかったのだから──。
そんなある日、家に警察が訪れた。
夕食後に思いの外星は降って来なかった夜景を見に行くこともあったが、その日は夕食前に高台から帰って来た時のことだった。
「綿貫千春くんだね」
「……はい」
父の千慈と同じくらいの年配の男性と、30歳前後くらいの若い男性の、若いほうが訊ねた。
ご丁寧に玄関先の千春に警察手帳を見せてくれる。巡査だか巡査部長だか、そこまでは覚えていないが、ほとんど口をきかなかった年配刑事より若い彼のほうが、質問役に適しているのは千春にもわかった。
訝しげに返事をする千春に、警察手帳をしまってメモを取り出しながら、若いほう──確か浅葱といったか──が続ける。
「まずは上がって──って僕が言うのも変だけど、座って、落ち着いて話そうか」
刑事とは思えない柔らかな口調と声音だった。
顔も強面ではなく、今風の髪型も相まってか中性的な雰囲気で、『事情聴取』といった感じは全くなかった。
父はまだ帰って来ていなかった。母親に促され、和室に向かう。既にしばらく待った後だったのか、テーブルの上にはほとんど中身の残っていない湯呑みがふたつ置かれていた。
「千春、何度も電話したのよ!」
母親が小声で嗜める。
普段は放任主義というか、千春や慈美に干渉しない主義の母親が、特に息子の千春に電話をしてくることは確かに珍しかった。
その時、「ごめん」と言ったのかそれとも無言だったのかも記憶していない。
ただ千春が座ったと同時に、少し真剣な顔で、鋭い言葉尻で、浅葱は切り出した。
やっぱりこの人も刑事なんだなと頭のどこか片隅で考えながら、千春は聞いていた。
「先週の金曜日、午後十時頃、君はどこにいたかな?」
「──隣町のちょっと先にある、高台です」
あの場所がどういう名前なのか千春は知らない。
公園のように入り口に書いてあるわけでもなく、誰かに訊ねられたり説明したりする機会もなかったので、千春は勝手に『一ドルの街』と呼んでいた。
別に住んでいる人たちを揶揄するわけではない。
そもそも他人に言うことも一生ないだろう。
『百万ドル』を『特別』『非日常』と表現するのなら、自分の住む世界、普通に『日常』として見られる世界なら、それくらいがちょうどいいと思ったから名付けただけだ。
最初は『街』でなく『夜景』にしようと思ったが、住んでいる人たちを蔑ろにするようで気が引けた。自分は『夜景』より『夜を過ごす街』を見たいのだと、その時に実感したから。
「その日の写真はあるかな?」
「──ありますけど」
「もしよければ見せて欲しいんだけど、どう?」
猫撫で声というほどではないが、アリバイらしきものを訊ねた時の険のある口調ではなく、どちらかと言えば千春を警戒させない為の工夫にも感じられた。逆にそれが彼らの狙いをわからなくさせていて、千春には恐ろしかった。
今持って帰って来たばかりのカメラにはもう入っていない。週末──土曜か日曜──には、その週の分を整理してバックアップ用に移してある。
閉め切った和室を出ると、扉のすぐそこに妹の姿があった。
ばつの悪そうな顔をしているところを見ると、聞き耳を立てていたのかもしれない。
普段は快活で社交的だからこそ笑顔の絶えない妹には珍しく、心配そうな上目遣いで千春を見つめていた。
兄として何か言うべきか、肩でも叩いて安心させるべきか──そう思いつつも、千春にとっても今自分が何を問題にされようとしているのか見当もつかなかった。
せいぜいが首を振るしかできない。
わからない、という意味だったのだが、どう受け取ったのか、慈美は涙を溜めて、千春の服の裾を掴んで同じように首を左右に振った。
溜まっていた雫が、その振動で千春の七分袖から出た手首に飛んだ。
そっと妹の手を離させると、千春は無言で階段を上がった。
「──いい写真だね」
しばらく隣の年配の刑事とその日の写真を見て、どこかを指差しながら首を傾げたり横に振ったりした後、取ってつけたように浅葱は笑みを浮かべて、ノートPCの画面をこちら側に向けた。
「写真はこれで本当に全部?」
ふっと彼の瞳から光が消えた。
声も険しくなった。
「…………はい」
千春の戸惑いによる沈黙を、浅葱は吟味するようにこちらを見つめた。
「ここに入っていなかったり、削除したりしたものは?」
「ありません」
さすがにムッとして、千春は即座に言い返した。
理由も話さず、根掘り葉掘りと聞きたいことだけ聞いてくる。
それが彼らの仕事かもしれないが、疑われるようなことは何もない。
「──そう。じゃあ、先週の金曜日、午後十時頃、この辺りで火事があったのは知ってる?」
「火事? さあ、家にはいなかったので」
「あぁ、聞き方が悪かったよ。この辺り、っていうのはこの家の周辺じゃなくて、君の写真に写ってるこの街のことなんだ」
どちらにしても答えは同じだ。
「知りません。ニュースもあまり見ないので」
「うん。まあ今回は小火で済んだから、ニュースの扱いもいつもより大きくなかったんだけどね」
「今回? いつも? 何の話ですか」
うんざりした千春は、声にも顔にも表れていることを自覚しながら、隠す素振りはもう見せなかった。
うんうんと浅葱は頷きながら、何枚かの写真を取り出した。
「最近、この街で放火が多発してる。今回はと言ったけど、それを含めて5件。幸い、亡くなった方はいないけれど、大きなものだと周りの2・3軒に延焼している。ニュースにもなっているよ」
今度はスマートフォンを素早く操作して、そのニュースが報じられているページの検索画面を千春に向けた。
「──だから、何ですか。俺に何の関係が……!」
そこで浅葱は、とんとんと既にテーブルに置かれた現場検証写真を指差した。
「よく見てごらん。本当に心当たりはない?」
千春は何度か浅葱と写真を見比べたが、見るまで解放しないとばかりに視線で促してくるので、渋々写真をテーブルから取り上げた。
ハッと千春は、次々と写真を穴が開くまで見つめた。
「…………これ、は…………」
千春があの街を訪れた時に撮った被写体ばかりだった。大きく延焼したのは、ユニークな看板で、家は写していないが、確かにすぐそばに存在していた。
けれど、自分でもここがどこか知っていて撮ったわけではない。
通りかかることはあの後も何度もあったが、地理を覚えてしまったら、なんだか新鮮さが失われる気がして、あえて調べたり地図アプリを使ったりはしなかったのだ。
高台さえ目指していれば迷うことはなかったし、家からならもっと簡単にほぼ直線で往復できたからだ。
「君が写真を撮っていた場所ばかりだね?」
「………………はい」
「君が、やったのかな?」
千春は呆然としていた。
答えなければと思うのに、口が開かない。
『知らない世界』を求めていたはずなのに、こんな『世界』を知る羽目になるとは露ほども思わなかった。
黙ったままの千春に、あたふたと和室の隅に座っていた母親が立ちあがろうとする。
しかしその前に、スパーンと襖が開いた。
制服のスカートを皺が寄るほど握りしめた、妹の慈美だった。
「お兄ちゃんはそんなことしない! 無愛想で不器用で、生き方がど下手くそだけど! 絶対そんなことしないもん……お兄ちゃんは人を傷つけること、しないもん……」
ぽたぽたと涙が畳を打つ。
母親も寄り添い、妹と同じ意見らしく、今度は彼女が険のある瞳で刑事たちを睨みつけた。
「……申し訳ありません。また出直します。その時にはもしかしたら──署に同行してもらうかもしれません」
そう言って浅葱と年配の刑事は立ち上がった。
千春がテーブルに散らかしたままの写真は彼の刑事らしくない白く繊細な手で揃えられ、定位置の内ポケットへと戻っていった。
母は彼らを見送りに玄関へ、残されたのはぼんやり座ったままの千春と、堪えきれない涙をただ必死に拭う慈美だけだった。
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