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花柳 都子

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心配の真髄

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 私はいつものように女子高生のアカウントを眺めていた。
 彼女はあまり他のアカウントの投稿を引用することはないのだが、ある時、たまたま『千の選択編集部』というそこそこ有名な旅雑誌の公式アカウントがタイムラインに現れたのを発見した。
 ──そういえば、あの人の仕事は確か、この旅雑誌の編集だった。
 別れてから数年、思い出すことも少なくなった。
 私は彼と違って特別旅が好きなわけではなかったし、温泉も美味しい料理も、実際に味わえば「良かった」と感想を抱くくらいはしたけれど、私の人生になければないで別に構わなかった。
 彼は旅も仕事も好きだったようで、よく出張先という名の旅先から写真を送ってきた。このアカウントに載っている、まるで香りや感覚まで見ている人に届けるようなプロの写真とは違って、あの人は食べ終わった丼だったり、散漫な背景だったり、角度も構図もめちゃくちゃで何がメインの被写体なのかすらわからないものが多かった。
 写真を撮るのが下手だという自覚はあったらしいけれど、どこに行ってきただの、何を撮ろうと思っただの、そういう補記事項みたいなメッセージもなく、私はただただ「何のために送ってきたんだろう?」と思っていた。
 私と同じ景色を共有したかったのか、それとも自分の楽しさや幸せを私にも伝えたかったのか──。
 どちらにしても当時の私がそれらの写真から正確に読み取れたとは思えないが、それでも遠く離れた地から自分に向けて何かを届けてくれるのは悪い気はしなかった。
 彼はいつも出かけるとお土産をくれて、センスも悪くなかった。お菓子だった時もあるし、ハンカチやペンなど実用的なものも多かった。
 あれから私は特定の人と長く付き合うことはなかったから、今でもタンスや机の中にしまってある。使うことはほとんどないけれど、ただ捨てるのも忍びなかった。もし、誰かと結婚や同棲をするとなったらさすがに手放すだろうが、そういう見通しも今のところはない。
 ともあれ、『千の選択編集部』の公式アカウントは、ここ最近になって稼働し始めたらしく、投稿自体はそれほど多くない。
 けれど、一目見て察した。
 ──あの人に似てる。
 概要欄には思った通り、彼の名前があった。
 さすがにカメラマンの欄には別の人の、性別不明の名前があって、少し可笑しくなってしまった。
 やはり今でも彼は、写真が不得手らしい。
 当時は若いながら達観しているふしがあったし、やればほとんど何でもこなせた人だったから、なんだかんだ言いながらも彼の下手な写真はそこそこ気に入っていた。
 基本的に上から目線──と感じていた──彼よりちょっと優位に立てる瞬間だったからかもしれない。
 私に送ってきた旅先からの拙い写真たちの印象が強く、彼の文章はなんだか誰かが乗り移って書いたものかと思えるほどだった。
 けれど、考え方やこのそこはかとないお節介さがよく似ている。
 ──感じ方は人それぞれなんだから、押し付けがましいこと言わないでよ。
 なんて、当時と全く同じ台詞を頭の中で呟いてみる。
 それでも、やっぱりのよしみからか、全ての投稿に目を通してしまった。何より、写真が美しかった。見たことも行ったこともない土地の、全く知らない景色だというのに、なんだか懐かしい気がした。
 この写真の中の世界を歩く自分が、鮮明に想像できるような気さえした。
 それはまるで、女子高生のアカウントを眺めている時と同じ気分だった。
 遠く離れた場所で、『私が私でいられる世界』とでも言うのだろうか。
 現実の私とは全く別人、そう、パラレルワールドの住人かのように離れた場所に存在している自分が、今の自分より生きている。
 そういう場面を頭の中に思い描けるほどに、このアカウントの写真は現実を忘れさせるとともに、本当に在りたい私を思い出させてくれる。
 何も変わり映えのない自宅にいるのに、そんな爽やかな空気を感じ、私は改めて元彼の投稿に触れた。
 ──あれ?
 最初は下手な自己啓発本みたいだと、まるで叶いもしない自分の姿を追い求めるように誘導されているみたいだと、そう思った。
 けれど。
 よく見ると、彼は何も押し付けてはいなかった。
 旅と同じように、今を生きるあなたにも『千の選択』がある。そして、それは誰に否定されるものでもない。
 『あなたはあはたを手放さないで』──。

 ──ああ、私は、これでいいんだ。
 なぜかその言葉は、驚くほどストンと私の心に入ってきた。
 あの頃、彼に否定されているとばかり思っていた。私が悪いんだと、責められているような気分だった。
 でも、違った。
 受け取り方が──いや、敢えて言うなら、彼の伝え方も──悪かったのかもしれない。
 私も彼と同じ。
 私だけの価値観や考えを彼に押し付けていた。
 あの日、別れようと言った私を追いかけてこなかった彼ばかりを責めた。
 やっぱり私は必要なかったんだと憤った。
 だけど、そう感じたのが何もとは限らない。
 彼にはそれを言う勇気も、伝える術もなかったのかもしれない。
 思えば、私は彼に「好きだ」とか「愛してる」とか、直接的にそういう言葉を言われた記憶がない。
 でも、不思議とそれに関しての不満はなかった。
 遠回しで迂遠な言い方だったと思う。
 それでも彼は、伝えることを諦めなかった。
 旅先での写真も、どれだけ下手でうまくいかなくても、送ってくれることだけで、私を想ってくれていることが伝わってきた。
 私は彼をずっと器用な人だと思っていた。
 でも、こと恋愛に関しては不器用な人だったのかもしれない。
 私はそれに気がつかなかった。
 数年越しに思い至ったからといって、彼への愛情や恋心が復活するわけではない。
 今更気がついたからと言って、当時の私が感じた思いをなかったことにはできない。
 私はそんなに、都合のいい女ではない。
 でも、彼には彼の葛藤があって、その中身はわからないにしても、わかろうとしなかった私にも相応の落ち度があって。
 私たちはきっと、すれ違ってしまっただけなのだ。
 ただ、私より相応しい──そういう私が気がつかなかった些細な彼の心の動きに気づけるような──人がいるだろうと、今は心からそう思う。
 幸せに、なって欲しいとも思う。

 ふと、彼と出会った頃のことを思い出す。
 大学の、広いキャンパスの、何でもない普通の道を歩いていた時のことだった。
 彼は垢抜けている今時の学生ではなかった。
 かと言って、野暮ったい印象もなく、当時は黒縁の眼鏡と本やコーヒーカップがよく似合う、清潔感のある優しい雰囲気の、少し年上の男性というイメージだった。
 友達や異性といる姿はほとんど見たことがないけれど、知り合いは多そうだった。教授クラスの大人とも、スーツを着る就活生とも、そして私のような地味で田舎者の後輩とも、分け隔てなく会話ができる人だった。
「先輩はどういう人がタイプですか?」
 ある時、本気半分冗談半分でそんなことを聞いた。すると彼は、苦笑しながら答えた。
「それは、恋愛の話?」
「そう受け取ってもらってもいいです」
「その言い方はずるいなぁ」
 困ったように頭を掻いて、彼は少し思案してから口を開く。
「…………一緒に『旅』を楽しめる人、かな」
 彼が私とともに所属するとあるサークルの他に、『旅』サークルなるものに時折参加していることは知っていた。
 いわゆるではなくて、カメラ好き、本格観光派、そしてただふらりとその時間を楽しみたい『旅通』の集まりだったと記憶している。
 あの頃の私には、なぜ全員で出発して、それぞれ別行動するのか不思議でならなかったが、まぁ今となってはわからないこともない。
 誰に遠慮するでもなく、ただ自分の好きなことを心から満喫したい。いかにも大学生らしい、若者らしい考え方ではないか。
 そして、彼は社交辞令なのか、私にこう訊ねた。
かなえさんは?」
 さん付けではあったけれど、下の名前で呼んでもらえるようになるまでには私たちの関係も進展していた。
「私は…………優しい人、です」
「優しい、か。それはかなえさんにとって?」
「──それ以外に、あるんですか?」
 彼は、風月七緒かづきななおは、頷いた。
「いろいろ、あると思うよ」
 私にはその真意はよくわからなかった。
 実は今でもわからないのだけれど、ひとつ、気がついたことがある。
 それは──。
 もしかしたら、彼は私に寄り添ってくれていたのかもしれないということ。
 自惚れかもしれない。勘違いかもしれない。
 でも、彼は私が求めた『優しい人』をずっと自分の中に探してくれていたのかもしれない。
 だから、苦手な写真も私に送ってくれた。
 一緒に旅を楽しもうと思って──。
 彼はきっと私が旅行好きでないことを知っていた。温泉も旅館のご飯もこれといってこだわりがなく、嬉しいともあまり思わない。
 そんな私に、彼は彼なりのやり方で『一緒に旅を楽しんで』くれようとしていたのかもしれない。
 そんな彼を、私は否定した。
 彼の優しさも、そして彼の心も全て。
 私はただ彼がそばにいてくれればよかった。
 何をして、どこに行こうと、何を食べようと、彼がいればそれで構わなかった。
 不器用なりに彼が求めた私たちの『旅の形』を、自ら放棄したのは一体どちらだったのだろう。
 私はもう一度、彼の投稿を全て見直した。
 いつの間にか、私の目からはぽろりと、涙が一粒溢れていた。

 ──ああそうか、これで最後の謎が解けた。
 彼は、優しい人なのだ。

 彼から『優しさ』という『自由』を奪ったのは私で、彼からの『優しさ』という『呪縛』に囚われていたのは、何を隠そう私のほうだった。

 





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