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心配の真髄
素敵な青春
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綿貫千春は、朝の柔らかい日差しに目を覚ます。
伸びをしながら大きく息を吸い込むと、爽やかな空気が肺を満たした。
「おはよう、千春くん」
「お、おはようございます……」
まだぼんやりした頭で風月七緒に答えると、彼はもう布団も畳んでサービスでもらった水を飲んでいるところだった。
「……温泉、入ってきたんですか?」
「うん。夜と朝で男湯と女湯が入れ替わるからね」
昨日は結構飲んでいたようだったのに、それを感じさせないくらいには酒に強いらしかった。
千春は寝ることを優先してしまったが、確か5時過ぎ頃に七緒の起きる気配を感じて、今よりもっと夢現な状態で彼が部屋を出ていく後ろ姿を見た気がする。
人気の旅館というだけあって、空き家よりも洗練されていたし、思ったより古くもないので、あまり怖いという感覚もなく、ぐっすり寝てしまった。
旅館の朝ごはんも楽しみだという七緒と共に、朝食会場へと向かう。
畳の上に低めの椅子とテーブルが置かれていて、お新香や納豆、生卵に焼き魚と、ご飯のお供には絶対に困らなさそうな小鉢や皿がずらりと並ぶ。
確かにホテルのレストランやバイキングとはまた違って、素朴で趣深い。まるで、実家のような安心感だと七緒は頷く。
千春はそれほど旅行の経験もなく、旅館に宿泊したこともほとんどない。さらに言えば、実家のご飯ですらこのくらい用意されているのが当たり前だと思ってきたかもしれない。
ふとそんな当たり前のことに気がついて、誰に知られたわけでもないのに、なんだか自分が恥ずかしく感じられた。
「千春くん」
無言のまま、七緒に視線を合わせることで返事をする千春に、彼は満足げに朝食に目を落として呟いた。
「美味しいね」
「──はい」
普段から寡黙で、特に自分の気持ちを素直に吐き出すことのない千春だが、七緒はその心情を驚くほど敏感に察知する。
本人に言えば、たまたまだよ、なんて笑うに決まっているが、これも昨夜話してくれた彼の過去に起因することなのかもしれない。
進んで詮索するつもりは一切ないが、彼への感謝はいつかちゃんと言葉にして伝えなければならないと思う。
七緒ならわざわざ言わなくても感じとってくれていそうではあるが、だからと言って『言わなくてもいい』ことにはならない。それくらいは千春にもわかる。
世の中は──少なくとも千春が生きてきた世界は──いつも愚痴悪口を始めとする負の感情に溢れている。きっとその中には優しくて力強い生の言葉もたくさんあって。けれど、それを正しい形にするには、伝える側にも受け止める側にも困難で。
それでも、そういう目には見えない難題に立ち向かおうとする七緒は、やっぱり千春の目からは正しく見える。いや、格好良く見えるのだ。
今日も例によって、9時ぴったりに迎えに来た山城優一の車に乗り込むと、徐に七緒が切り出した。
「千春くん。旅館の朝ごはんってなんであんなに美味しいと思う?」
「えっ」
唐突な質問に戸惑い、千春は意図がわからず首を傾げる。
「夕食と違って特別なものって少ないじゃない。もちろん郷土料理はあるけど、お新香だって納豆だって、生卵だって、ほとんどの人が自分の家で食べるものでしょ?」
「──お米が美味しいから、とか?」
「あはは、そうだね。特にここは、全国的にも有名な平野があるからね。お水も美味しいし、そのお水で美味しいお米を炊くんだから、お米を楽しんで欲しいっていうのは、旅館の経営戦略のひとつでもあると思うよ。言い方は良くないけど、コスパを最大限に良くするのも、維持していく為には重要なことだから」
どうやら七緒の求める答えではなかったらしい。
けれど、彼はいつも千春の考えを否定することはない。一見すると味気のない意見も彼の手にかかれば、立派な経営論に様変わりしてしまう。
ちらりと山城を見ると、彼はステアリングを握りながら、いつものようににこにこと笑っているだけだった。千春は少し思案した後、別の角度から意見を出してみた。
「……じゃあ、やっぱり、自分の家とかじゃなくて、普段と違うところで食べるからじゃないですか。旅行先ってなんか気持ちも上向きだし」
「うん、それは確かに最大の理由かもしれないね。でも、旅行って楽しむためだけにするものじゃないと思うんだよね」
「……自分探しの旅、とかですか?」
とはいったものの、千春は『自分探しの旅』には懐疑的である。理由は至ってシンプルで、普段の場所ですら見つからない自分が、旅先で見つかるとも思えないからだ。ただし、この仕事という名の旅行中に、今までの自分なら考えなかったであろうことに遭遇してしまってもいるので、今は何とも言えないのが玉に瑕だが。
「そういうのもあるけど、もっと単純にさ。哀しいから、やり切れないから、誰も知らないところに行きたい、何も知らない街に行きたいっていうこともあるでしょ? 失恋したとか、仕事で大失敗したとか、いてもたってもいられないくらい気持ちが不安定な時に、『旅』を求める人もいるんだよね。大きな括りで言えば『リフレッシュ』になるのかもしれないけれど、それが一概に前向きや上向きであるとは限らないんじゃないかな」
「……そうですね」
そういう千春も、七緒に説得されたとはいえ、ここに来るまでは決して楽しい心持ちではなかったことを思い出す。つい2週間ほど前のことだ。
「僕はね、そういうどんな人にも寄り添ってくれるあたたかさと優しさが感じられるのが、『旅館の朝ごはん』だと思うんだよね。楽しい気持ちで旅行に来た人が、これから一日気持ちよく過ごせますように。そして、哀しく辛い思いをしている人がゆっくり着実に元の──新しいでもいいんだけど──生活に戻れますように。何より、この旅館に泊まったすべての人が幸せでいられますようにって、そういう願いが込められている気がしてね」
「さっきのコスパの話も同じですよ。確かに、旅館にとって経営の為には避けて通れない道です。でも、それはお客様にとっても幸せなことであるはず。そう信じて、毎日の企業努力を欠かさない。ホテルはどんなお客様の心も見て見ぬ振りして日常を忘れさせてくれますが、旅館はむしろ日常をそこかしこで思い出させつつどんなお客様の心にも寄り添って解してくれる。どちらが好きかはお客様の好みにもよりますが、『旅』というのはやっぱりいろんな選択肢があって然るべきですよね」
山城がしんみりと呟く。
彼の立場でどちらか一方に肩入れすることはできないにしても、きっと彼自身の心からの思いなのだろうと千春は推測する。
千春にとってはどちらかと言うと、ホテルのほうが身近で旅館のほうが特別──主に金銭的な面で──という印象なのだが、日常非日常という括りで言うと全く逆の印象になるのが、なんだか不思議な感じがした。
「さて、今日は朝から話題のお米に関するところへ行きましょう」
気を取り直して、山城が明るく言う。
タイムスケジュールを見れば、海側の地域でも大きな港を擁する市内に向かっているようだった。
名前を見るだけでは米に関するところとは思えないのだが、隣の七緒が説明してくれる。
「明治の頃から今でも現存している『米の保管庫』だよ。と言っても、実際に稼働していたのは数年前までで、今は役目を終えているけれどね」
「えっ、数年前まで稼働してたんですか!?」
──明治の頃から、って一体どれくらい経っているのか。
千春が呆然と聞き返すと、山城が快活に笑った。
「その説明を知ったお客様はみんな驚きますよ。そして、現地で目の前にするともっと驚かれます」
「……どういう意味で?」
「それは人それぞれかな。千春くんも、自分の目で見て、自分の心で感じてごらん。どんな感想も間違いじゃないからね」
旅館を出て30~40分。着いたところは、古い木造の建物が連なる、川と新緑に囲まれた情緒溢れる場所だった。
とはいえ、千春が初めに抱いた感想は──。
「どう? 千春くん」
「………………」
七緒の問いかけに、千春は言い淀む。
なんとか他の感想を絞り出そうとするものの、結局これしか思い浮かばない。
「正直に言っていいんだよ」
「──地味です、思ったより」
山城に促され、千春は馬鹿正直に言ってしまった。彼はくすくす笑いながら続ける。
「そういう人が一番多いかもしれないね。でも、まだ外見だけだからね。ここの魅力は、一目見ただけじゃわからないよ」
そう言う山城に連れられて、千春と七緒は中へと向かう。
確かに彼の言う通り、よく見ると、建築様式にはこだわりがあって、外見というよりむしろ機能性を重視して造られていることがわかる。周りにある新緑の木々も、米の保管庫としての役割を果たす為になくてはならない存在だという。
「実用性を考えて造られたにしては、外見も洗練されていて、余計な装飾が何もないのも納得ですね。それでいてこんなに美しいんですから、昔の人の知恵も侮れませんよね」
「ええ。ほとんど当たり前のように米を食べられる現代の我々よりずっと、当時の先人たちは米やその米を生活の糧にしていた多くの人々のことを考えていたのでしょうね」
それが約130年にも渡って受け継がれて、維持されて、人々の生活に根付いて来たのだ。
そう思うと、地味で面白味のないと感じたこの風景も、いつまで経っても変わらない美しさをまさに目に見える形として残してくれているようで、柄にもなくこれまでこの場所に関わって来た人々に感謝の念さえ覚えてしまった。
千春はその地味さを捉えるように、できるだけ広角で捉えつつ、その一つ一つはこだわり抜かれた技術であることを示す箇所は、それこそこだわりの角度と思いで写真に収めていった。
月曜日ということもあって、観光客はそれほど多くない。けれど、駐車場には車やバスが停まっているし、休日──特にゴールデンウィークや夏休みなどは、交通整理が必要なほど混雑するという。
ともあれ、そのおかげで写真は撮りやすかった。
SNSに載せるには、極力人の姿はないに越したことはない。写り込んでしまったら、許可を取らなければならないからだ。しかし、こういう観光地でそれを全員にするのは至難の業である。
特に千春は、七緒や山城と違って、愛想が良いほうではない。依頼するだけでも一苦労なのだ。
「あら……」
写真撮影の途中、連なる建物のすぐ側を歩いていた時、車椅子の女性が落としたハンカチを拾おうとしているところに遭遇した。
千春は七緒より少し先に駆け寄り、そっとハンカチを拾って、地面の汚れを払ってから彼女に手渡した。
「ありがとうねぇ」
この辺りの訛りで、ゆったりとお礼を言う。
白髪で上品な雰囲気のその年配の女性は、千春のカメラを見て言う。
「こちらにはご旅行で?」
「え、ええ、まぁ、はい」
寡黙で表情にも感情が出にくい千春だが、嘘をつけない性格なので、つい曖昧な返事になってしまう。
「そう。あなたも失恋か何か?」
「……はい?」
「うふふ、冗談よ。ごめんなさいね。一緒に来ている孫がね、失恋して落ち込んでいるものだからつい」
「お孫さんとご一緒なんですか」
孫というが、一体いくつくらいなのだろう。
彼女は大きな孫がいるほど高齢には見えない。月曜のこの時間なら、学校ではないのだろうか。
「おばあちゃん、ごめんね、遅くなって──」
パタパタと走って来たのは、20歳前後くらいの女性だった。千春と、近寄って来た七緒を見て、戸惑いながら小さく会釈する。
2人も返すと、彼女が車椅子の女性の隣にしゃがみ込む。
「どうしたの、おばあちゃん。何かあった?」
「ううん。ご親切にね、落ちたハンカチを拾ってくれたのよ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
今度は立ち上がってお辞儀をする。千春が首を振って大したことじゃないと身振りすると、微笑んでおばあちゃんの車椅子の背後に立った。
「この子はね、今年美容師になったばかりでね」
「え、ちょっと、おばあちゃん?」
唐突に孫の身の上話を始める祖母に、慌てて女性は遮ろうとする。
けれど、さすが年の功とでも言うのか彼女の声を無視して続ける。そういうところは、なんとなく隣の七緒に似ているな、と千春はぼんやり思う。
「あしすたんと、とか言うらしいけど、いつもね、頑張ってるのよ」
「美容師さんですか。だから、今日はお休みなんですね」
「そうそう。毎日仕事で忙しいんだけれど、私の面倒もよく見てくれてね。感謝してるわ。仕事で失敗したとか、今日はこういうことがあったとか、夜のちょっとした時間に話してくれるの。この間なんか、好きな人に彼女がいたって、泣きじゃくってね」
「ちょ、ちょっと、初対面の人たちに恥ずかしいこと言わないで!」
止めても無駄だと悟ったのか、黙って聞いていた彼女は祖母を再び諌めるも、効果は皆無だった。
「私もね、昔、たくさん恋したわ。でも、ほとんど叶わなかったの。私が奥手だったからっていうのもあるけれど、今思えば理想が高かったのねきっと」
「──じゃあ、おじいちゃんはそのおばあちゃんのお眼鏡にかなったってこと?」
「どうかしら。交際を始める前は、あんまり魅力を感じなかったんだけれどね。ある時、デートに誘われてね」
「デート? どこに行ったの?」
祖母の昔話に、女の子らしく彼女はうきうきと質問し始めた。自分のこととなると話題にされたくないのに、他人の──この場合は身内だが──こととなると途端に興味を示す。
千春は内心苦笑しながら、ふたりの会話に耳を傾けた。隣の七緒は相変わらずにこにこしている。
「ここよ」
「えー、ここ? なんで? 家から近いし、全然デートで来るようなところじゃないじゃん。面白くもないし」
「そうね。でも、当時はそれこそ遠くへ遊びに行くお金も余裕も、そういう場所もなかったから。ただ、ふたりきりになれる場所ならどこでもよかったのよ。まだお付き合いはしていなかったしね」
「それでそれで?」
「あの人はね、私と話す共通の話題が見つからなかったのか、この場所の説明を延々としてくれたわ」
「えっ、さすが昭和の男……全然ロマンティックじゃない!」
「私も退屈だなぁと思っていたのよ、その時はね」
「──その時は?」
「でもね。おじいちゃんが言ったの。人のことを思って造られた建物って、とても美しいでしょう?って。僕にとってあなたもそうなんですって」
「え、どういう意味? どういう意味?」
「あなたは人のことをよく見て、よく考えてる。誰に感謝されるわけでもないのに、落とし物を拾って、そっとその人の机に置いてあげたり、悲しい顔をして泣いている人には胸を貸して、背中をさすってあげられる。そんなあなたに、僕は惚れたんですって」
「えええ、すごい! あのおじいちゃんが? プロポーズみたい! ロマンティック~!」
「プロポーズだったのよ。結婚を前提にお付き合いしてくださいって。学生時代からあの人のことは知っていたけれど、私はその時あの人の何も知らなかったわ。こんなに私を見てくれる人がいたんだって、嬉しくなってね。そうしたら、都合のいい話だけれど、あの人がとっても格好良く見えたのね。延々としてくれたこの場所の説明も、ちゃんと意味があったの。この人は、自分の思ったことを正直に丁寧に話してくれる人なんだって、おじいちゃんのいいところを一つ知った。それから、あの人が亡くなるまでずっと、一つ一つ素敵なところを見つけていって、私の当時の高い理想なんかよりずっとずっと理想の人になっていったわ」
「じゃあ、いなくなった時、哀しかったよね……」
「そうね。よく、いなくなって初めて気づくなんて言うけれど、あの人がいなくなって気がついたのはあの人の存在そのものじゃなくて──そんなのは、彼が生きている時から知っていたから──、やっぱりあの人の素敵なところだった。彼と私の思い出で蘇ってくるのは、いつもふたりで笑ってる場面だった。あぁ、あの人はずっと当たり前に私のそばにいて、私を大事にしてくれていたんだって思ったものよ」
あんなにはしゃいでいた孫の女性が、途中から相槌を打たなくなって、千春はそっと彼女を見てぎょっとした。
彼女は泣いていた。
千春や七緒に見られないように、俯いて、懸命に涙を拭っている様子だったが、溢れる雫がちょうど千春の立ち位置からは見えてしまった。
「ねえ。おじいちゃんが教えてくれたように、この建物はたくさんの人の思いが詰まって造られて、今までずっとたくさんの人によって守られて来たの。──あなたも、独りじゃないからね。泣きたい時はたくさん泣いていいの。あなたのして来たことは、きっと誰かが見てる。どんなに地味で、どんなに小さくて気が付きにくいことだって、その誰かにとっては大事で愛おしいものになるかもしれないでしょう? 私はあなたがここにいることがとっても嬉しいし、感謝もしてるわ」
孫の手を引き、隣に立たせ、彼女の俯いた顔を覗き込むように、祖母はぎゅっと彼女の両手を握り締めた。
「この建物が百年以上経っても色褪せないのは、昔からたくさんの人に愛されて、今もこうしてたくさんの人に愛されているから。愛の大きさの話じゃなくてね、ここがまだ生きているとみんなが思っているからだと私は信じているの。ね? 人もおんなじ。みんな生きているだけで素晴らしいの。決して華やかな人生じゃないけれど、きっと多くの人がそういうものよ。地味で退屈で、それでも生きてる。そんなあなたを愛してくれる人がどこかに──ううん、少なくともここにひとりいるわ。忘れないでね」
弱々しくではあったが、彼女はこくりと頷いた。
涙はとめどなく溢れて、とうとう祖母の膝に縋り付くように顔を埋めてしまった。
「世の中には年寄りの戯言に付き合ってくれる、こんなに素敵な男性たちもいるのよ。あなたにもきっといい出会いがあるわ」
祖母は孫の頭を撫でながら、半ば置物と化していた千春と七緒に軽く目礼した。「付き合ってくれてありがとう」──そんな声が聞こえた気がして、千春は頷くか首を振るか迷ってしまったが、ひと足先に七緒が口を開いた。
「いいえ、ただの通りすがりです」
この日、『千の選択編集部』のアカウントには、千春の写真と共にこう投稿された。
『米の生産地として有名な街──。ここには日常の風景に溶け込むかのように、自然で美しい建物があります。約130年の時を経て今なお、人々の心に響く佇まいは、一見しただけではわからない美しさを秘めています。
観光客は元より、地元の方々もよく足を運ぶそうで、それだけ人々の生活に根付いているのでしょう。この建物の美しさの秘訣は、これまで長い間人々と共に培って来た年月と、その人々の様々な思いによるものだと、通りすがりの方から伺いました。それがどんなに地味でつまらないものだったとしても、ここに今も現存している──生きている。たったそれだけで、生きていることだけで素晴らしいのだと、だから美しいのだと、その方は教えてくれました。
日常を忘れたいあなた、そして日常をもっとずっと大切にしたいあなた──ぜひ、実際に訪れて自分の目で確かめてみてくださいね』
昨夜は七緒の意外な一面を見た。
人当たりがよく、優しく真面目で、頭の回転も早く気も利く。千春はこれまで彼を完璧な人だと思っていた。けれど人にはやっぱりいろんな顔があって、彼自身は人と深く関わることは苦手なのだという。
だからこそなのかもしれないが、あのおばあさんと同じく、七緒も人をよく見て、よく考えて、その人の幸せを願える人だと千春は思う。
「僕たちはあのおばあさんに利用されたのかもしれないね」
「え、利用?」
「失恋した彼女がどんな話をしたのかわからないけれど、休みの日にあの場所にわざわざ連れて行ったのはきっと、この話をしようと思っていたからじゃないかな」
「……だとしても、俺らの存在って必要ですかね?」
「別に僕たちじゃなくても良かったと思うよ。通りすがりの誰かなら誰でも。ハンカチを落としたタイミング、席を外していた彼女が戻ってくるのとほぼ同時だった。彼女が戻ってくる姿を見て、自然に身の上話をするに適した人間を引き合わせようとした。普段、家で世間話をしてくれるいつもの彼女じゃなく、失恋した今の彼女に伝えたいことがある、って意味だったんじゃないかな。ふたりきりだと、これが今の彼女に宛てた特別な話だと伝わりにくいから。……まぁ、僕の個人的な見解で言うと、千春くんである必要はあったかもしれないけれどね」
「は?」
「きっと、あのおばあさん、千春くんのことを見てたんじゃないかな」
「えっ?」
「千春くんは無意識だったかもしれないけれど、写真を撮る時、車椅子の彼女たちが通り過ぎるのをじっと待っていたよね」
「え、まぁ、それは──」
「千春くんにはSNS用の写真に写り込まないようにするため、って実用的な意図があったことだと思うけれど、あのおばあさんにとってはそれが美しい心遣いに感じられたんじゃないのかな」
千春には、彼女や七緒に自分がどう見えていたのか知る術はない。
けれど、自分の何気ない行動や言動が、誰かの心に留まったと感じる瞬間は、案外悪くないものだと思う。
この建物が、当時どこまで美しさを考えて造られたのかはわからない。
機能性や実用性を重視したことが、結果的に美しさを生み出してしまったのかもしれないし、米や米に関わる全ての人の未来や幸せを願った先人たちの心と愛が加わって、総合的に美しくなったのかもしれない。
それなら──と千春は思う。
自分のしたことは誰かがきっと見ている。
あのおばあちゃんはそう言っていた。
良いことも悪いことも、という意味だと千春は思う。
総合的に美しく見えると言うのなら、この『千の選択編集部』アカウントの投稿もそう見えているといいと、烏滸がましくも考えてしまう。
七緒や山城や、そして微力ながら自分の思いが詰まっている。風景や写真の美しさも、七緒が綴る言葉や表現の美しさも、たとえ全てが正しくなくても、見る人にほんの少しでも伝われば、その人たちの心も、千春の荒んだ心も、もしかしたら七緒の彷徨う心も、救われるかもしれないのだから──。
伸びをしながら大きく息を吸い込むと、爽やかな空気が肺を満たした。
「おはよう、千春くん」
「お、おはようございます……」
まだぼんやりした頭で風月七緒に答えると、彼はもう布団も畳んでサービスでもらった水を飲んでいるところだった。
「……温泉、入ってきたんですか?」
「うん。夜と朝で男湯と女湯が入れ替わるからね」
昨日は結構飲んでいたようだったのに、それを感じさせないくらいには酒に強いらしかった。
千春は寝ることを優先してしまったが、確か5時過ぎ頃に七緒の起きる気配を感じて、今よりもっと夢現な状態で彼が部屋を出ていく後ろ姿を見た気がする。
人気の旅館というだけあって、空き家よりも洗練されていたし、思ったより古くもないので、あまり怖いという感覚もなく、ぐっすり寝てしまった。
旅館の朝ごはんも楽しみだという七緒と共に、朝食会場へと向かう。
畳の上に低めの椅子とテーブルが置かれていて、お新香や納豆、生卵に焼き魚と、ご飯のお供には絶対に困らなさそうな小鉢や皿がずらりと並ぶ。
確かにホテルのレストランやバイキングとはまた違って、素朴で趣深い。まるで、実家のような安心感だと七緒は頷く。
千春はそれほど旅行の経験もなく、旅館に宿泊したこともほとんどない。さらに言えば、実家のご飯ですらこのくらい用意されているのが当たり前だと思ってきたかもしれない。
ふとそんな当たり前のことに気がついて、誰に知られたわけでもないのに、なんだか自分が恥ずかしく感じられた。
「千春くん」
無言のまま、七緒に視線を合わせることで返事をする千春に、彼は満足げに朝食に目を落として呟いた。
「美味しいね」
「──はい」
普段から寡黙で、特に自分の気持ちを素直に吐き出すことのない千春だが、七緒はその心情を驚くほど敏感に察知する。
本人に言えば、たまたまだよ、なんて笑うに決まっているが、これも昨夜話してくれた彼の過去に起因することなのかもしれない。
進んで詮索するつもりは一切ないが、彼への感謝はいつかちゃんと言葉にして伝えなければならないと思う。
七緒ならわざわざ言わなくても感じとってくれていそうではあるが、だからと言って『言わなくてもいい』ことにはならない。それくらいは千春にもわかる。
世の中は──少なくとも千春が生きてきた世界は──いつも愚痴悪口を始めとする負の感情に溢れている。きっとその中には優しくて力強い生の言葉もたくさんあって。けれど、それを正しい形にするには、伝える側にも受け止める側にも困難で。
それでも、そういう目には見えない難題に立ち向かおうとする七緒は、やっぱり千春の目からは正しく見える。いや、格好良く見えるのだ。
今日も例によって、9時ぴったりに迎えに来た山城優一の車に乗り込むと、徐に七緒が切り出した。
「千春くん。旅館の朝ごはんってなんであんなに美味しいと思う?」
「えっ」
唐突な質問に戸惑い、千春は意図がわからず首を傾げる。
「夕食と違って特別なものって少ないじゃない。もちろん郷土料理はあるけど、お新香だって納豆だって、生卵だって、ほとんどの人が自分の家で食べるものでしょ?」
「──お米が美味しいから、とか?」
「あはは、そうだね。特にここは、全国的にも有名な平野があるからね。お水も美味しいし、そのお水で美味しいお米を炊くんだから、お米を楽しんで欲しいっていうのは、旅館の経営戦略のひとつでもあると思うよ。言い方は良くないけど、コスパを最大限に良くするのも、維持していく為には重要なことだから」
どうやら七緒の求める答えではなかったらしい。
けれど、彼はいつも千春の考えを否定することはない。一見すると味気のない意見も彼の手にかかれば、立派な経営論に様変わりしてしまう。
ちらりと山城を見ると、彼はステアリングを握りながら、いつものようににこにこと笑っているだけだった。千春は少し思案した後、別の角度から意見を出してみた。
「……じゃあ、やっぱり、自分の家とかじゃなくて、普段と違うところで食べるからじゃないですか。旅行先ってなんか気持ちも上向きだし」
「うん、それは確かに最大の理由かもしれないね。でも、旅行って楽しむためだけにするものじゃないと思うんだよね」
「……自分探しの旅、とかですか?」
とはいったものの、千春は『自分探しの旅』には懐疑的である。理由は至ってシンプルで、普段の場所ですら見つからない自分が、旅先で見つかるとも思えないからだ。ただし、この仕事という名の旅行中に、今までの自分なら考えなかったであろうことに遭遇してしまってもいるので、今は何とも言えないのが玉に瑕だが。
「そういうのもあるけど、もっと単純にさ。哀しいから、やり切れないから、誰も知らないところに行きたい、何も知らない街に行きたいっていうこともあるでしょ? 失恋したとか、仕事で大失敗したとか、いてもたってもいられないくらい気持ちが不安定な時に、『旅』を求める人もいるんだよね。大きな括りで言えば『リフレッシュ』になるのかもしれないけれど、それが一概に前向きや上向きであるとは限らないんじゃないかな」
「……そうですね」
そういう千春も、七緒に説得されたとはいえ、ここに来るまでは決して楽しい心持ちではなかったことを思い出す。つい2週間ほど前のことだ。
「僕はね、そういうどんな人にも寄り添ってくれるあたたかさと優しさが感じられるのが、『旅館の朝ごはん』だと思うんだよね。楽しい気持ちで旅行に来た人が、これから一日気持ちよく過ごせますように。そして、哀しく辛い思いをしている人がゆっくり着実に元の──新しいでもいいんだけど──生活に戻れますように。何より、この旅館に泊まったすべての人が幸せでいられますようにって、そういう願いが込められている気がしてね」
「さっきのコスパの話も同じですよ。確かに、旅館にとって経営の為には避けて通れない道です。でも、それはお客様にとっても幸せなことであるはず。そう信じて、毎日の企業努力を欠かさない。ホテルはどんなお客様の心も見て見ぬ振りして日常を忘れさせてくれますが、旅館はむしろ日常をそこかしこで思い出させつつどんなお客様の心にも寄り添って解してくれる。どちらが好きかはお客様の好みにもよりますが、『旅』というのはやっぱりいろんな選択肢があって然るべきですよね」
山城がしんみりと呟く。
彼の立場でどちらか一方に肩入れすることはできないにしても、きっと彼自身の心からの思いなのだろうと千春は推測する。
千春にとってはどちらかと言うと、ホテルのほうが身近で旅館のほうが特別──主に金銭的な面で──という印象なのだが、日常非日常という括りで言うと全く逆の印象になるのが、なんだか不思議な感じがした。
「さて、今日は朝から話題のお米に関するところへ行きましょう」
気を取り直して、山城が明るく言う。
タイムスケジュールを見れば、海側の地域でも大きな港を擁する市内に向かっているようだった。
名前を見るだけでは米に関するところとは思えないのだが、隣の七緒が説明してくれる。
「明治の頃から今でも現存している『米の保管庫』だよ。と言っても、実際に稼働していたのは数年前までで、今は役目を終えているけれどね」
「えっ、数年前まで稼働してたんですか!?」
──明治の頃から、って一体どれくらい経っているのか。
千春が呆然と聞き返すと、山城が快活に笑った。
「その説明を知ったお客様はみんな驚きますよ。そして、現地で目の前にするともっと驚かれます」
「……どういう意味で?」
「それは人それぞれかな。千春くんも、自分の目で見て、自分の心で感じてごらん。どんな感想も間違いじゃないからね」
旅館を出て30~40分。着いたところは、古い木造の建物が連なる、川と新緑に囲まれた情緒溢れる場所だった。
とはいえ、千春が初めに抱いた感想は──。
「どう? 千春くん」
「………………」
七緒の問いかけに、千春は言い淀む。
なんとか他の感想を絞り出そうとするものの、結局これしか思い浮かばない。
「正直に言っていいんだよ」
「──地味です、思ったより」
山城に促され、千春は馬鹿正直に言ってしまった。彼はくすくす笑いながら続ける。
「そういう人が一番多いかもしれないね。でも、まだ外見だけだからね。ここの魅力は、一目見ただけじゃわからないよ」
そう言う山城に連れられて、千春と七緒は中へと向かう。
確かに彼の言う通り、よく見ると、建築様式にはこだわりがあって、外見というよりむしろ機能性を重視して造られていることがわかる。周りにある新緑の木々も、米の保管庫としての役割を果たす為になくてはならない存在だという。
「実用性を考えて造られたにしては、外見も洗練されていて、余計な装飾が何もないのも納得ですね。それでいてこんなに美しいんですから、昔の人の知恵も侮れませんよね」
「ええ。ほとんど当たり前のように米を食べられる現代の我々よりずっと、当時の先人たちは米やその米を生活の糧にしていた多くの人々のことを考えていたのでしょうね」
それが約130年にも渡って受け継がれて、維持されて、人々の生活に根付いて来たのだ。
そう思うと、地味で面白味のないと感じたこの風景も、いつまで経っても変わらない美しさをまさに目に見える形として残してくれているようで、柄にもなくこれまでこの場所に関わって来た人々に感謝の念さえ覚えてしまった。
千春はその地味さを捉えるように、できるだけ広角で捉えつつ、その一つ一つはこだわり抜かれた技術であることを示す箇所は、それこそこだわりの角度と思いで写真に収めていった。
月曜日ということもあって、観光客はそれほど多くない。けれど、駐車場には車やバスが停まっているし、休日──特にゴールデンウィークや夏休みなどは、交通整理が必要なほど混雑するという。
ともあれ、そのおかげで写真は撮りやすかった。
SNSに載せるには、極力人の姿はないに越したことはない。写り込んでしまったら、許可を取らなければならないからだ。しかし、こういう観光地でそれを全員にするのは至難の業である。
特に千春は、七緒や山城と違って、愛想が良いほうではない。依頼するだけでも一苦労なのだ。
「あら……」
写真撮影の途中、連なる建物のすぐ側を歩いていた時、車椅子の女性が落としたハンカチを拾おうとしているところに遭遇した。
千春は七緒より少し先に駆け寄り、そっとハンカチを拾って、地面の汚れを払ってから彼女に手渡した。
「ありがとうねぇ」
この辺りの訛りで、ゆったりとお礼を言う。
白髪で上品な雰囲気のその年配の女性は、千春のカメラを見て言う。
「こちらにはご旅行で?」
「え、ええ、まぁ、はい」
寡黙で表情にも感情が出にくい千春だが、嘘をつけない性格なので、つい曖昧な返事になってしまう。
「そう。あなたも失恋か何か?」
「……はい?」
「うふふ、冗談よ。ごめんなさいね。一緒に来ている孫がね、失恋して落ち込んでいるものだからつい」
「お孫さんとご一緒なんですか」
孫というが、一体いくつくらいなのだろう。
彼女は大きな孫がいるほど高齢には見えない。月曜のこの時間なら、学校ではないのだろうか。
「おばあちゃん、ごめんね、遅くなって──」
パタパタと走って来たのは、20歳前後くらいの女性だった。千春と、近寄って来た七緒を見て、戸惑いながら小さく会釈する。
2人も返すと、彼女が車椅子の女性の隣にしゃがみ込む。
「どうしたの、おばあちゃん。何かあった?」
「ううん。ご親切にね、落ちたハンカチを拾ってくれたのよ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
今度は立ち上がってお辞儀をする。千春が首を振って大したことじゃないと身振りすると、微笑んでおばあちゃんの車椅子の背後に立った。
「この子はね、今年美容師になったばかりでね」
「え、ちょっと、おばあちゃん?」
唐突に孫の身の上話を始める祖母に、慌てて女性は遮ろうとする。
けれど、さすが年の功とでも言うのか彼女の声を無視して続ける。そういうところは、なんとなく隣の七緒に似ているな、と千春はぼんやり思う。
「あしすたんと、とか言うらしいけど、いつもね、頑張ってるのよ」
「美容師さんですか。だから、今日はお休みなんですね」
「そうそう。毎日仕事で忙しいんだけれど、私の面倒もよく見てくれてね。感謝してるわ。仕事で失敗したとか、今日はこういうことがあったとか、夜のちょっとした時間に話してくれるの。この間なんか、好きな人に彼女がいたって、泣きじゃくってね」
「ちょ、ちょっと、初対面の人たちに恥ずかしいこと言わないで!」
止めても無駄だと悟ったのか、黙って聞いていた彼女は祖母を再び諌めるも、効果は皆無だった。
「私もね、昔、たくさん恋したわ。でも、ほとんど叶わなかったの。私が奥手だったからっていうのもあるけれど、今思えば理想が高かったのねきっと」
「──じゃあ、おじいちゃんはそのおばあちゃんのお眼鏡にかなったってこと?」
「どうかしら。交際を始める前は、あんまり魅力を感じなかったんだけれどね。ある時、デートに誘われてね」
「デート? どこに行ったの?」
祖母の昔話に、女の子らしく彼女はうきうきと質問し始めた。自分のこととなると話題にされたくないのに、他人の──この場合は身内だが──こととなると途端に興味を示す。
千春は内心苦笑しながら、ふたりの会話に耳を傾けた。隣の七緒は相変わらずにこにこしている。
「ここよ」
「えー、ここ? なんで? 家から近いし、全然デートで来るようなところじゃないじゃん。面白くもないし」
「そうね。でも、当時はそれこそ遠くへ遊びに行くお金も余裕も、そういう場所もなかったから。ただ、ふたりきりになれる場所ならどこでもよかったのよ。まだお付き合いはしていなかったしね」
「それでそれで?」
「あの人はね、私と話す共通の話題が見つからなかったのか、この場所の説明を延々としてくれたわ」
「えっ、さすが昭和の男……全然ロマンティックじゃない!」
「私も退屈だなぁと思っていたのよ、その時はね」
「──その時は?」
「でもね。おじいちゃんが言ったの。人のことを思って造られた建物って、とても美しいでしょう?って。僕にとってあなたもそうなんですって」
「え、どういう意味? どういう意味?」
「あなたは人のことをよく見て、よく考えてる。誰に感謝されるわけでもないのに、落とし物を拾って、そっとその人の机に置いてあげたり、悲しい顔をして泣いている人には胸を貸して、背中をさすってあげられる。そんなあなたに、僕は惚れたんですって」
「えええ、すごい! あのおじいちゃんが? プロポーズみたい! ロマンティック~!」
「プロポーズだったのよ。結婚を前提にお付き合いしてくださいって。学生時代からあの人のことは知っていたけれど、私はその時あの人の何も知らなかったわ。こんなに私を見てくれる人がいたんだって、嬉しくなってね。そうしたら、都合のいい話だけれど、あの人がとっても格好良く見えたのね。延々としてくれたこの場所の説明も、ちゃんと意味があったの。この人は、自分の思ったことを正直に丁寧に話してくれる人なんだって、おじいちゃんのいいところを一つ知った。それから、あの人が亡くなるまでずっと、一つ一つ素敵なところを見つけていって、私の当時の高い理想なんかよりずっとずっと理想の人になっていったわ」
「じゃあ、いなくなった時、哀しかったよね……」
「そうね。よく、いなくなって初めて気づくなんて言うけれど、あの人がいなくなって気がついたのはあの人の存在そのものじゃなくて──そんなのは、彼が生きている時から知っていたから──、やっぱりあの人の素敵なところだった。彼と私の思い出で蘇ってくるのは、いつもふたりで笑ってる場面だった。あぁ、あの人はずっと当たり前に私のそばにいて、私を大事にしてくれていたんだって思ったものよ」
あんなにはしゃいでいた孫の女性が、途中から相槌を打たなくなって、千春はそっと彼女を見てぎょっとした。
彼女は泣いていた。
千春や七緒に見られないように、俯いて、懸命に涙を拭っている様子だったが、溢れる雫がちょうど千春の立ち位置からは見えてしまった。
「ねえ。おじいちゃんが教えてくれたように、この建物はたくさんの人の思いが詰まって造られて、今までずっとたくさんの人によって守られて来たの。──あなたも、独りじゃないからね。泣きたい時はたくさん泣いていいの。あなたのして来たことは、きっと誰かが見てる。どんなに地味で、どんなに小さくて気が付きにくいことだって、その誰かにとっては大事で愛おしいものになるかもしれないでしょう? 私はあなたがここにいることがとっても嬉しいし、感謝もしてるわ」
孫の手を引き、隣に立たせ、彼女の俯いた顔を覗き込むように、祖母はぎゅっと彼女の両手を握り締めた。
「この建物が百年以上経っても色褪せないのは、昔からたくさんの人に愛されて、今もこうしてたくさんの人に愛されているから。愛の大きさの話じゃなくてね、ここがまだ生きているとみんなが思っているからだと私は信じているの。ね? 人もおんなじ。みんな生きているだけで素晴らしいの。決して華やかな人生じゃないけれど、きっと多くの人がそういうものよ。地味で退屈で、それでも生きてる。そんなあなたを愛してくれる人がどこかに──ううん、少なくともここにひとりいるわ。忘れないでね」
弱々しくではあったが、彼女はこくりと頷いた。
涙はとめどなく溢れて、とうとう祖母の膝に縋り付くように顔を埋めてしまった。
「世の中には年寄りの戯言に付き合ってくれる、こんなに素敵な男性たちもいるのよ。あなたにもきっといい出会いがあるわ」
祖母は孫の頭を撫でながら、半ば置物と化していた千春と七緒に軽く目礼した。「付き合ってくれてありがとう」──そんな声が聞こえた気がして、千春は頷くか首を振るか迷ってしまったが、ひと足先に七緒が口を開いた。
「いいえ、ただの通りすがりです」
この日、『千の選択編集部』のアカウントには、千春の写真と共にこう投稿された。
『米の生産地として有名な街──。ここには日常の風景に溶け込むかのように、自然で美しい建物があります。約130年の時を経て今なお、人々の心に響く佇まいは、一見しただけではわからない美しさを秘めています。
観光客は元より、地元の方々もよく足を運ぶそうで、それだけ人々の生活に根付いているのでしょう。この建物の美しさの秘訣は、これまで長い間人々と共に培って来た年月と、その人々の様々な思いによるものだと、通りすがりの方から伺いました。それがどんなに地味でつまらないものだったとしても、ここに今も現存している──生きている。たったそれだけで、生きていることだけで素晴らしいのだと、だから美しいのだと、その方は教えてくれました。
日常を忘れたいあなた、そして日常をもっとずっと大切にしたいあなた──ぜひ、実際に訪れて自分の目で確かめてみてくださいね』
昨夜は七緒の意外な一面を見た。
人当たりがよく、優しく真面目で、頭の回転も早く気も利く。千春はこれまで彼を完璧な人だと思っていた。けれど人にはやっぱりいろんな顔があって、彼自身は人と深く関わることは苦手なのだという。
だからこそなのかもしれないが、あのおばあさんと同じく、七緒も人をよく見て、よく考えて、その人の幸せを願える人だと千春は思う。
「僕たちはあのおばあさんに利用されたのかもしれないね」
「え、利用?」
「失恋した彼女がどんな話をしたのかわからないけれど、休みの日にあの場所にわざわざ連れて行ったのはきっと、この話をしようと思っていたからじゃないかな」
「……だとしても、俺らの存在って必要ですかね?」
「別に僕たちじゃなくても良かったと思うよ。通りすがりの誰かなら誰でも。ハンカチを落としたタイミング、席を外していた彼女が戻ってくるのとほぼ同時だった。彼女が戻ってくる姿を見て、自然に身の上話をするに適した人間を引き合わせようとした。普段、家で世間話をしてくれるいつもの彼女じゃなく、失恋した今の彼女に伝えたいことがある、って意味だったんじゃないかな。ふたりきりだと、これが今の彼女に宛てた特別な話だと伝わりにくいから。……まぁ、僕の個人的な見解で言うと、千春くんである必要はあったかもしれないけれどね」
「は?」
「きっと、あのおばあさん、千春くんのことを見てたんじゃないかな」
「えっ?」
「千春くんは無意識だったかもしれないけれど、写真を撮る時、車椅子の彼女たちが通り過ぎるのをじっと待っていたよね」
「え、まぁ、それは──」
「千春くんにはSNS用の写真に写り込まないようにするため、って実用的な意図があったことだと思うけれど、あのおばあさんにとってはそれが美しい心遣いに感じられたんじゃないのかな」
千春には、彼女や七緒に自分がどう見えていたのか知る術はない。
けれど、自分の何気ない行動や言動が、誰かの心に留まったと感じる瞬間は、案外悪くないものだと思う。
この建物が、当時どこまで美しさを考えて造られたのかはわからない。
機能性や実用性を重視したことが、結果的に美しさを生み出してしまったのかもしれないし、米や米に関わる全ての人の未来や幸せを願った先人たちの心と愛が加わって、総合的に美しくなったのかもしれない。
それなら──と千春は思う。
自分のしたことは誰かがきっと見ている。
あのおばあちゃんはそう言っていた。
良いことも悪いことも、という意味だと千春は思う。
総合的に美しく見えると言うのなら、この『千の選択編集部』アカウントの投稿もそう見えているといいと、烏滸がましくも考えてしまう。
七緒や山城や、そして微力ながら自分の思いが詰まっている。風景や写真の美しさも、七緒が綴る言葉や表現の美しさも、たとえ全てが正しくなくても、見る人にほんの少しでも伝われば、その人たちの心も、千春の荒んだ心も、もしかしたら七緒の彷徨う心も、救われるかもしれないのだから──。
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