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心配の真髄
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とあるネットニュースで、『多様性の多様性』とかいう現代社会のパラドックスみたいな問題提起を目にした。
『多様性』が叫ばれる世の中で、あらゆることを『多様性』の言葉で片付けてしまう人が増えているという。それは若者に限ったことではなく、むしろ覚えたての言葉を使いたい小学生のような中高年にもよく見られるらしい。
もちろん『多様性』を重んじるのはいい。
けれど、その中には『多様性』を否定する人間がいて然りで、それを否定しては『多様性』は成り立たない。
結局、『自分が思う多様性』を他人にも押し付けたいだけで、本来の意図とは程遠いのだ。
しかも、『多様性』の意味を履き違えて、どこでも何にでも『多様性』を濫用・行使しようとする輩も多いという。
芸能人がネット上で叩かれる事象に関しても、『いろんな考え方があるのだから、否定的な目で見る人たちが大勢いて、その人たちから批判を浴びるのは有名税だ』などと破綻した論理でもって自分の意見を正当化しようとする。
そんなことをすれば、いずれルールだって法律だって、『多様性』の一言で、あっけなく瓦解してしまう。
それがたとえ強い『正義感』からだとしても、警察でも司法でも、身内ですらない赤の他人にどれだけ彼らを責める権利があるのだろう。『馬鹿者』と現実の世界でぼそりと呟くのとは訳が違う。
現実の世界で推しに幻滅する、失望する同年代の女性たちもいると聞くが、どんなに好きで、どんなにお金を注ぎ込んだって、結局はただの一ファン──一般人でしかない。彼女たちが『残念』だとか『寂しい』だとか、何気なく自分のアカウントで呟いた一言だって、明確な悪意を持って広まれば、愛していた推しを傷つけることにもなりかねない。
そんな危うい状況を作り上げるSNSは好きじゃない。だから、専ら見る専だ。何か意見を言うことがあるとすれば、ネットニュースのコメント欄に書き込むくらいだ。
『多様性の多様性』とかいうニュース記事に、『多様性と自由って似てるよね。解放の意味で使われて然るべきだけど、そういうのを声高に叫ぶ人ほど多様性や自由に束縛されてる。もっと自然に自分の意見が言えて、ルールやマナーを守りつつ、自分の生きたいように生きている人がそういう言葉にふさわしいと思うんだけど。多様性や自由を語る人はまず、私みたいな否定的な意見も『多様性』と認め、『自由』って言葉から『自由』にならないと」とコメントを残した。
注目度の高いニュースで、1時間以内のコメント数はうなぎのぼりだからか、瞬く間に高評価と低評価が増えていく。
こういうニュースを見に来るのだから、良くも悪くも『多様性』に興味がある人が多いのだろうが、その中でも低評価をつけているのは盲目な『多様性信者』たちである。そもそもこういう意見に低評価をつけている時点で、『多様性』の呪縛から抜け出せないでいるのは明白なのに。
なんだか哀れになってきて、ネットニュースを閉じた。
──そういえば、あの人もそうだった。
どちらかと言うと積極性がなく、人に合わせるほうが楽な自分にとって、あの人との時間は居心地が悪かった、と今はそうはっきり感じる。
最初はただ、優しいんだなと思っていた。
「何食べたい?」
「どこに行きたい?」
「どうしたい?」
彼はいつでも私に意見を求めてきた。
彼自身はのほほんとしているように見えて、意外に決断力もあったし、優柔不断なタイプではなかった。
けれど、いや、だからこそなのか、私の意見を無視できない人だったと思う。自分がこうだと決めたことに従う──恋人の意見を聞く、優しくする、と自分が決めたから、そうしなければならないという考え方の持ち主だった。
今でもたまに思い出す。
意見を聞いている優男のふりをして、実はこちらに意見を強要しているのだ。決められない、決めようとしない私に、自分の価値観を押し付けていたのだ。
あの有無を言わさぬ瞳──。柔らかい声でにこにこ笑っているのに、目だけはいつも違った。
彼女の意見もちゃんと聞かなきゃ、そういういい男でいなきゃ。
そんな心が透けて見えるようで、いつからか純粋に『優しさ』とは受け取れなくなった。
彼自身がそういう『優しさ』という呪縛から逃れられないでいるようで、私はどんどん彼の隣の居心地が悪くなっていった。
きっと傍目にはいい彼氏に見えただろう。
実際、優しかったのは事実だ。
ただ、その『優しさ』の度合いとベクトルが、時に私の範疇を外れていっただけで。
2年ほど付き合って、別れを切り出したのは私のほうだった。
「何が食べたい?」
そう聞かれたから、「なんでもいいよ」と答えた。
本当になんでも良かった。
和食でもイタリアンでも、居酒屋や宅配のピザだって、なんでも良かったのだ。
けれど、彼は私に「決めていいんだよ」と言ってきた。押し問答をしていても埒が明かないのはわかっている。でも、頭が良くて気も利く彼が、何の提案も用意していないはずがない。
だから、彼が「ここにしよう」と言ってくれたら喜んでついていくつもりだった。
それなのに──。
「なんでもいいから、好きに意見を言って欲しいな」
ときた。
だから、「なんでもいい」って好きに意見を言っているのに!
私は叫んだ。
「なんでもいい」が本音であること、そう答えた以上どんな提案にも頷くつもりだったこと、そして──。
「それ、本当に私の為? 自分がすっきりしたいからでしょ! 結局、自分の為! 『私の意見を聞いた』っていう既成事実が欲しいだけ! 『どんな意見でもいい』とか、『なんでもいいからないの?』とか言うけどさ、じゃあ聞くけどなんでもいいはなんでもいいに入らないの!?」
彼は固まった。
笑顔のまま中途半端に。
彼は多様性信者とは違ったけれど、彼の心の構造はよく似ていた気がする。
もしかしたら、彼は本当に良かれと思ってそうしてくれたのかもしれない。
けれど、私はその間ずっと、自分自身を否定されているような気分だった。
相手に合わせる自分、消極的で自分の意見もない自分、いや、それを素直に言えない自分──。
愛して欲しい、わかって欲しいと思っていた人だからこそ、それを信じられる人だったからこそ、私は傷ついた。
その流れのまま、私は彼に別れを告げた。
それからは会っていない。連絡もとっていない。
彼から『別れたくない』の一言もなかった。
それだってきっと、私が決めたんだから仕方ない、私の意見を尊重しよう、そういう下心に満ちていたからだ。
悲しくはなかった。むしろ解放されてすっきりした。その時になって初めて、彼に自由を求められていた私こそ呪縛されていたのだと気がついた。
私はSNSを開く。アカウントは持っているが、自分で書き込むことはしない。書き込んだところで誰が見るでもなし──誰が見るわけでもないから言いたいことが言えるのかもしれないが──、書き込む意味と原動力が見当たらないので、別に構わない。
見る専と言っても、特定のフォローしたい誰かがいるわけでもない。
ただ暇つぶしに見たいだけなので、料理や掃除、動物や赤ちゃんなど、単発で見てもそこそこ楽しめるようなアカウントをフォローしている。
芸能人やリアルな知り合いはほとんどいない。
フォローしている中で異色なのは、とある女子高生のアカウントくらいだろう。
彼女の投稿はいつも写真が綺麗だ。
自撮りや映え重視の加工は一切ない。
ただただ、日常のちょっとした風景だったり、くすっと笑えるような光景や出来事が、短い言葉で綴られているだけだ。
きっと友達や恋人とのキラキラした青春を過ごしているのだろうけれど、そんな片鱗は露ほども見せない。
それは女子高生の彼女ではなく、どこにでもいるひとりの人間としての記録──。
きっと私だって、今は会うことのないあの人だって、同じような景色を見て、同じような道を歩いている。
それなのに、彼女の世界は自分と違って楽しそうだといつも思う。
私は楽しさや美しさ以上に無心を求めて、彼女のアカウントの投稿を遡っていくのだった。
『多様性』が叫ばれる世の中で、あらゆることを『多様性』の言葉で片付けてしまう人が増えているという。それは若者に限ったことではなく、むしろ覚えたての言葉を使いたい小学生のような中高年にもよく見られるらしい。
もちろん『多様性』を重んじるのはいい。
けれど、その中には『多様性』を否定する人間がいて然りで、それを否定しては『多様性』は成り立たない。
結局、『自分が思う多様性』を他人にも押し付けたいだけで、本来の意図とは程遠いのだ。
しかも、『多様性』の意味を履き違えて、どこでも何にでも『多様性』を濫用・行使しようとする輩も多いという。
芸能人がネット上で叩かれる事象に関しても、『いろんな考え方があるのだから、否定的な目で見る人たちが大勢いて、その人たちから批判を浴びるのは有名税だ』などと破綻した論理でもって自分の意見を正当化しようとする。
そんなことをすれば、いずれルールだって法律だって、『多様性』の一言で、あっけなく瓦解してしまう。
それがたとえ強い『正義感』からだとしても、警察でも司法でも、身内ですらない赤の他人にどれだけ彼らを責める権利があるのだろう。『馬鹿者』と現実の世界でぼそりと呟くのとは訳が違う。
現実の世界で推しに幻滅する、失望する同年代の女性たちもいると聞くが、どんなに好きで、どんなにお金を注ぎ込んだって、結局はただの一ファン──一般人でしかない。彼女たちが『残念』だとか『寂しい』だとか、何気なく自分のアカウントで呟いた一言だって、明確な悪意を持って広まれば、愛していた推しを傷つけることにもなりかねない。
そんな危うい状況を作り上げるSNSは好きじゃない。だから、専ら見る専だ。何か意見を言うことがあるとすれば、ネットニュースのコメント欄に書き込むくらいだ。
『多様性の多様性』とかいうニュース記事に、『多様性と自由って似てるよね。解放の意味で使われて然るべきだけど、そういうのを声高に叫ぶ人ほど多様性や自由に束縛されてる。もっと自然に自分の意見が言えて、ルールやマナーを守りつつ、自分の生きたいように生きている人がそういう言葉にふさわしいと思うんだけど。多様性や自由を語る人はまず、私みたいな否定的な意見も『多様性』と認め、『自由』って言葉から『自由』にならないと」とコメントを残した。
注目度の高いニュースで、1時間以内のコメント数はうなぎのぼりだからか、瞬く間に高評価と低評価が増えていく。
こういうニュースを見に来るのだから、良くも悪くも『多様性』に興味がある人が多いのだろうが、その中でも低評価をつけているのは盲目な『多様性信者』たちである。そもそもこういう意見に低評価をつけている時点で、『多様性』の呪縛から抜け出せないでいるのは明白なのに。
なんだか哀れになってきて、ネットニュースを閉じた。
──そういえば、あの人もそうだった。
どちらかと言うと積極性がなく、人に合わせるほうが楽な自分にとって、あの人との時間は居心地が悪かった、と今はそうはっきり感じる。
最初はただ、優しいんだなと思っていた。
「何食べたい?」
「どこに行きたい?」
「どうしたい?」
彼はいつでも私に意見を求めてきた。
彼自身はのほほんとしているように見えて、意外に決断力もあったし、優柔不断なタイプではなかった。
けれど、いや、だからこそなのか、私の意見を無視できない人だったと思う。自分がこうだと決めたことに従う──恋人の意見を聞く、優しくする、と自分が決めたから、そうしなければならないという考え方の持ち主だった。
今でもたまに思い出す。
意見を聞いている優男のふりをして、実はこちらに意見を強要しているのだ。決められない、決めようとしない私に、自分の価値観を押し付けていたのだ。
あの有無を言わさぬ瞳──。柔らかい声でにこにこ笑っているのに、目だけはいつも違った。
彼女の意見もちゃんと聞かなきゃ、そういういい男でいなきゃ。
そんな心が透けて見えるようで、いつからか純粋に『優しさ』とは受け取れなくなった。
彼自身がそういう『優しさ』という呪縛から逃れられないでいるようで、私はどんどん彼の隣の居心地が悪くなっていった。
きっと傍目にはいい彼氏に見えただろう。
実際、優しかったのは事実だ。
ただ、その『優しさ』の度合いとベクトルが、時に私の範疇を外れていっただけで。
2年ほど付き合って、別れを切り出したのは私のほうだった。
「何が食べたい?」
そう聞かれたから、「なんでもいいよ」と答えた。
本当になんでも良かった。
和食でもイタリアンでも、居酒屋や宅配のピザだって、なんでも良かったのだ。
けれど、彼は私に「決めていいんだよ」と言ってきた。押し問答をしていても埒が明かないのはわかっている。でも、頭が良くて気も利く彼が、何の提案も用意していないはずがない。
だから、彼が「ここにしよう」と言ってくれたら喜んでついていくつもりだった。
それなのに──。
「なんでもいいから、好きに意見を言って欲しいな」
ときた。
だから、「なんでもいい」って好きに意見を言っているのに!
私は叫んだ。
「なんでもいい」が本音であること、そう答えた以上どんな提案にも頷くつもりだったこと、そして──。
「それ、本当に私の為? 自分がすっきりしたいからでしょ! 結局、自分の為! 『私の意見を聞いた』っていう既成事実が欲しいだけ! 『どんな意見でもいい』とか、『なんでもいいからないの?』とか言うけどさ、じゃあ聞くけどなんでもいいはなんでもいいに入らないの!?」
彼は固まった。
笑顔のまま中途半端に。
彼は多様性信者とは違ったけれど、彼の心の構造はよく似ていた気がする。
もしかしたら、彼は本当に良かれと思ってそうしてくれたのかもしれない。
けれど、私はその間ずっと、自分自身を否定されているような気分だった。
相手に合わせる自分、消極的で自分の意見もない自分、いや、それを素直に言えない自分──。
愛して欲しい、わかって欲しいと思っていた人だからこそ、それを信じられる人だったからこそ、私は傷ついた。
その流れのまま、私は彼に別れを告げた。
それからは会っていない。連絡もとっていない。
彼から『別れたくない』の一言もなかった。
それだってきっと、私が決めたんだから仕方ない、私の意見を尊重しよう、そういう下心に満ちていたからだ。
悲しくはなかった。むしろ解放されてすっきりした。その時になって初めて、彼に自由を求められていた私こそ呪縛されていたのだと気がついた。
私はSNSを開く。アカウントは持っているが、自分で書き込むことはしない。書き込んだところで誰が見るでもなし──誰が見るわけでもないから言いたいことが言えるのかもしれないが──、書き込む意味と原動力が見当たらないので、別に構わない。
見る専と言っても、特定のフォローしたい誰かがいるわけでもない。
ただ暇つぶしに見たいだけなので、料理や掃除、動物や赤ちゃんなど、単発で見てもそこそこ楽しめるようなアカウントをフォローしている。
芸能人やリアルな知り合いはほとんどいない。
フォローしている中で異色なのは、とある女子高生のアカウントくらいだろう。
彼女の投稿はいつも写真が綺麗だ。
自撮りや映え重視の加工は一切ない。
ただただ、日常のちょっとした風景だったり、くすっと笑えるような光景や出来事が、短い言葉で綴られているだけだ。
きっと友達や恋人とのキラキラした青春を過ごしているのだろうけれど、そんな片鱗は露ほども見せない。
それは女子高生の彼女ではなく、どこにでもいるひとりの人間としての記録──。
きっと私だって、今は会うことのないあの人だって、同じような景色を見て、同じような道を歩いている。
それなのに、彼女の世界は自分と違って楽しそうだといつも思う。
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