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新天の志
心音の所在
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さすがに昨日は疲れたのか、綿貫千春は布団に入った途端寝入ってしまった。前日の風月七緒と同じように、いつ眠りについたのかも覚えていないほどで、これを気絶というのかもしれないと初めて実感した。
まるでブラック企業並みの仕打ちに思えるが、七緒は昨日と今日の分の報酬も掛け合ってくれると言うし、待遇は悪くないと思う。
相変わらず早起きの七緒が作った朝食を平らげ、ふたりはイベントに出かける支度をする。
空き家での生活は思いの外快適で、学生のいる家族はともかく、老夫婦や若い一人暮らしなら意外とありなのかもしれない。
とはいえ、千春の場合は七緒がいなければこの広い家での生活能力には乏しく、持て余してしまいそうなのだが。
ともあれ、今日のイベントは初夏のY県恒例の特産果物の種飛ばし大会である。
東京ではなかなか体験できないこともあって、特に七緒は主催の市町村に取材のアポを取ったとかで張り切っていた。
千春は「自由に写真を撮っていいよ」と七緒に言われたので、お言葉に甘えてそうさせてもらおうと思う。
会場にはおそらく県観光課職員の山城優一や、泉温子もいるだろう。休日ながら彼らも半ば働きにいくようなものだと笑っていた。
まだ本格的な夏の到来には早い時期だが、ここY県内では猛烈な暑さが継続的に観測されている。
しかし、幸いなことにこの日は風が涼しく、暑さより爽やかさのほうが際立つ気候になりそうだった。
日曜日ということもあり、山城の迎えは遠慮して、ふたりは快晴の太陽と涼風を浴びながら、目的地を目指した。
会場は思ったより賑わっていた。
屋台も出ていたし、何より感染症で自粛されていた期間も長かった為か、心待ちにしていた県民も観光客も多いのではないかと七緒は言う。
会場に着いたら別行動という約束通り、千春はカメラを持ってのんびり歩いてみることにした。
「お、いたいた。千春くん、おはよう」
「山城さん、おはようございます」
「昨日は大変だったみたいだね」
「……はい。でも、『落とし物』がなくて何よりでした」
『落とし物』が見つからないままでよかったという意味ではもちろんない。そもそも存在しなかった=本当に困っている人がいなくてよかった、と七緒なら言うだろうと思ってそう答えたのだ。
千春個人としては全く思うところがないわけではないが、きっと成り行きをSNSでしか知らない山城に、そこまで話すのは気が引けたからかもしれない。
「そうだね。よかったね」
彼にも通じたと見えて、頷いてくれた。
よく見ると、山城はスーツでこそなかったが、カジュアルながら清潔感のある服装で、すでに屋台で買ったとみえる焼きそばを手にしていた。
「ああ、これね。持たされてるだけだよ」
「えっ?」
千春の視線に気づいた山城が苦笑しながら、駆け寄ってきた女の子に持っていた焼きそばを渡し、両手で受け取った彼女に「気をつけるんだよ~」と手を振った。
「一緒に来たおばあちゃんに持って行くんだって。お母さんは車椅子のおばあちゃんのお世話で忙しいから、自分ができることするって言ってね」
「……それで、なんで焼きそばを?」
山城が持たされることになったのだろうか。
「お母さんは荷物で手がいっぱいだから、まずお母さんの手伝いをする。そうしたらまた戻ってくるから、それまでここで持ってて──いや待ってて欲しいって言われたんだよね」
その時、背後から控えめな女性の声が聞こえた。
「すみません、娘からは『おじさんが持っててあげようか?って言ってくれたんだよ!』と聞いていたもので……」
「えっ」
予想外の母親の登場に、山城が絶句する横で、千春は呟く。
「あぁ、やっぱり」
「ありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「いえいえ、迷惑だなんて。楽しんでいってくださいね」
山城が県庁の、それも観光課の課長だなどと知らない母親は、一瞬首を傾げたが「はい」と弱々しい、それでいて幸せそうな笑顔で去っていった。
「やっぱり」
千春がもう一度呟き、じとりと山城に視線をやると、彼はばつが悪そうに目を逸らした。
やましいことをしたわけじゃなく、むしろ優しいことをしたのだから、もっと堂々としていればいいのに──と思ったが、謙遜するところまでを含めてが、優しいの真髄かと妙に納得してしまった。
「あ、そうだ。実はね、千春くんにお願いがあって。これから写真撮るよね?」
慌てたように山城が話題を変える。
「はい、まあ。そのつもりです」
「じゃあ、これつけてもらえるかな」
「なんですか、これ」
山城が取り出したのは、腕章だった。『スタッフ』と書かれたそれを腕に巻く前に、彼に訊ねる。
「実はこのイベントの写真を千春くんにお願いしたくて。というか、実際は一般提供みたいな形になると思うんだけど、このご時世個人情報にも厳しくて、なかなか一筋縄ではいかなくてね。会場前の看板に、イベント関連の記事や資料に使用する写真に写り込む場合がございます、って注意書きがあるんだけど、そういうのに使う写真なのか、それとも勝手に撮られて個人のSNSにあげられるのか、撮られる側としては判断のつけようがないじゃない。でも、それがあれば大丈夫。さすがに『千の選択』アカウントに使うのは難しいかもしれないけれど、千春くんはそういうの気にせず自由に楽しく写真を撮ってくれればいいから」
「自由に、楽しく──」
千春は腕章を巻きつけ、カメラを強く握った。
「ありがとうございます」
まっすぐ山城の目を見ると、彼は少し驚いたように、しかしすぐにいつもの穏やかな表情で、千春の背中を押した。
「行ってらっしゃい」
しばらく気の向くままに会場内を回っていると、山城の部下である泉の姿を捉えた。
彼女は種飛ばしステージの近く、おそらく本部として使われているテントにいて、腕章をつけて、忙しそうに立ち働いていた。
確か市町村主催だから、仕事の延長ではあるが、職務ではないようなことを山城は言っていた。現に彼は私服に近かったし、千春に腕章を渡しはしたものの、公務という感じではなかった。
ふと周りを見ると、意外に泉と同じ年代くらいの男女が千春と同じ腕章をつけてそこかしこに散在していた。
どうやらこのイベントはボランティアスタッフも含めて運営しているらしく、泉もそのひとりかと思われた。
以前、山城や七緒と遭遇した出来事を振り返ってみても、彼女の地元に対する愛情はやっぱり本物なのだろう。
千春は遠目から彼女の様子を写真に収めた。
時折、屋台から漂うソースの匂いに釣られて、焼きそばやたこ焼きをつまみながら、千春は思い思いにイベントを楽しむ人たちを写真に撮って回った。
中には千春をカメラマンと見込んでか、自分のスマートフォンで撮って欲しいという依頼もあり、快く請け合った。
七緒の姿は一切見えなかったが、彼はわりと大勢に紛れてしまうタイプなのかもしれないと、ふと思う。
こういう人の多いところで一度離れると、もう二度と探せないような、そんな儚さを秘めているようにも思えるし、単純に彼の『順応型コミュニケーション能力』の賜物とも言えるかもしれない。
周りに溶け込むのがうまく、人の懐に入るのも自然で嫌味がない。相手に合わせることも厭わず、むしろそれが自然に行えるからこそ、相手も心を開く。
もしかしたら千春の視界にも入っているのかもしれないが、それを全く感じさせないのだとしたら、まるで『透明人間』だ。それも、普通(?)の『透明人間』ではない。『周りの色を取り込んで同化する』という意味の『透明人間』だ。
千春がぼんやりそんなことを考えていると、ピンポンパンポーンとよく商業施設や遊園地で鳴る迷子のお知らせの音が響いた。
「迷子のお知らせです。東京都からお越しの、綿貫千春さん。19歳、男の子。本部テント前にてお連れ様がお待ちです。繰り返します──」
ぶふっ、と口に含んだばかりの清涼飲料水を盛大に吹き出してしまった。
危うく下を向かなければ、種飛ばしの記録も打ち破ろうかというくらいの結果を叩き出していたかもしれない。
周りの人たちが自分を知るはずもないのに、今ので告白してしまったようなものだ。ちらちら、くすくすという視線と囁きを感じながら、千春は慌てて本部テント前へ向かう。
衝撃の迷子放送の少し前──。
泉に冷たいお茶を差し入れながら、山城は少しの間、彼女の仕事ぶりを観察していた。
泉自身は嫌々ながら山城の茶々──という名のコミュニケーションに対応しながら、雑務をこなしている。
「あの」
そこへ、七緒と同年代くらいの男性が声をかけてきた。
身長はそれほど高くなく、眼鏡をかけている。そして今の山城と似たカジュアルながら清潔感のある服装の、どこか見覚えのある男性だった。
彼は誰にともなく話しかけたようだが、やはりスタッフである泉がいの一番に反応した。
「どうされましたか?」
「実は……連れとはぐれてしまって」
「──お子さん、ですか?」
連れというくらいだから違うだろう、と山城は思ったが、自分は今公務ではない。県の観光課課長として、あまり市町村主催のイベント運営に直接手や口は出さないようにしている。
泉もそのあたりは心得ていると見えて、実際にそうとは思っていなさそうな口ぶりで訊ねた。
「いえ……やっぱり、大丈夫です」
「あ、ちょっと待ってください」
立ち去りかけた彼の背中に、泉が珍しく大きな声をかけた。
訝しげに振り向いた彼に、泉が言う。
「大人の方なんですね? この会場にいらっしゃるのであればお手伝いします。お写真か何かありますか?」
柔らかな泉の口調と表情に、彼はほっと安堵したような顔で、こちらに向き直った。
「……この会場には、たぶんいると思います。これが彼女の写真です」
横顔の写真だったが、山城はこれを見て思わず声をあげそうになった。
──どうりで見覚えがあると思った。
今週の中頃、花まつりを開催している自然公園を訪れた時、そしてその後の蕎麦屋での昼食の時に目にした夫婦の、夫が目の前の男性、妻が写真の女性だった。
七緒の推理によると『良好な家庭内別居』ではないかとのことだが、それを裏付ける何かがあるわけではないので、とりあえず彼の話を泉の傍らで聞くことにした。
本当は自分はスタッフではないので聞かないべきなのだろうが、それこそ何か手伝えることがあるかもしれない。
山城の反応に空気の揺らぎでも感じ取ったのか、ちらりと彼女はこちらを見たが、すぐに男性に微笑みかけた。
「大丈夫ですよ。すぐに見つけますから」
「でも……僕が探してもどこにもいなくて……何度も何周もしてみたんですけど……」
確かに夫の彼が見つけられない人物を、赤の他人が見つけられるはずもないか──。何か方法がないかと、途方に暮れるばかりの彼を見ながら山城は思案する。
その時、「私にいい考えがあります」と、泉が自信ありげに笑い、すぐそこのマイクを手に取った。
山城や夫が止める前に、彼女は迷子放送のチャイムを鳴らしていた。
夫はともかく、山城はそもそも女性の名前を聞いていないことに気がつき、泉の発案を静観することにした。
「迷子のお知らせです。東京都からお越しの、綿貫千春さん。19歳、男の子。本部テント前にてお連れ様がお待ちです。繰り返します──」
ぶふっ、と山城は思わず吹き出した。
堪えきれない笑いが漏れてしまう。
咳払いでなんとか誤魔化しつつ、あれほど旅雑誌や東京から来る彼らに興味も関心もなさそうだった泉が、千春の名前をフルネームで覚えていることに、感慨深げに頷いた。
恥ずかしい放送に、千春は顔を赤くしながら走った。本部テント前には、今呼び出しの放送をしたであろう泉と、なぜか口元が緩みっぱなしの山城、そして朧げながら見覚えのあるフォルムの男性が待ち構えていた。
「…………俺、迷子じゃないんですけど」
「19歳、男の子」
「やめてください!」
泉がマイクを通さず、しかしハキハキとした口調で繰り返すので、千春は子供扱いされた気分になって慌てて遮った。
「……綿貫くん」
中性的な名前のおかげか、千春は名字で呼ばれることが少ない。しかも逡巡しながらの呼びかけに、どう反応していいかわからず、同じく戸惑いつつ返事をすると、泉から意外な提案を受けた。
「今日撮った写真を見せて欲しい、んだけど」
年下との距離感がいまいちわからないのか、泉の口調は、丁寧さの中に微妙に砕けた表現も混じっていて、千春もなぜかつられて緊張してしまう。
「いいですけど、これといって特別なものは──」
そう言いながら、首に下げていたカメラを泉に渡す。
メモリを素早く確認しつつ、泉はやがて一枚の写真をじっくりと見つめて言った。
「いましたよ」
ひとり首を傾げる千春を前に、泉が示す写真の中の女性を、夫である男性がぱちくりと見つめる。山城も横から覗き込む。
だが──。
「おい、泉? どこにいるんだ?」
「ここですよ」
複数の女性が写る中、わりと写真の中心に近い位置で、ひとり空を仰ぎ見る女性を、泉は示していた。
「え、いや……え? あやめ、ちゃん──?」
「違う人じゃないのか、これは?」
「いいえ、同じ人です」
「千春くん、これいつどこで撮ったの?」
「ついさっきですよ。ステージ近くの──」
男性は3人が止める間もなく走り出していた。
顔を見合わせ、泉、山城、唐突に戻ってきたカメラを抱え、終始話についていけない千春の順に、彼の背中を追うのだった。
まるでブラック企業並みの仕打ちに思えるが、七緒は昨日と今日の分の報酬も掛け合ってくれると言うし、待遇は悪くないと思う。
相変わらず早起きの七緒が作った朝食を平らげ、ふたりはイベントに出かける支度をする。
空き家での生活は思いの外快適で、学生のいる家族はともかく、老夫婦や若い一人暮らしなら意外とありなのかもしれない。
とはいえ、千春の場合は七緒がいなければこの広い家での生活能力には乏しく、持て余してしまいそうなのだが。
ともあれ、今日のイベントは初夏のY県恒例の特産果物の種飛ばし大会である。
東京ではなかなか体験できないこともあって、特に七緒は主催の市町村に取材のアポを取ったとかで張り切っていた。
千春は「自由に写真を撮っていいよ」と七緒に言われたので、お言葉に甘えてそうさせてもらおうと思う。
会場にはおそらく県観光課職員の山城優一や、泉温子もいるだろう。休日ながら彼らも半ば働きにいくようなものだと笑っていた。
まだ本格的な夏の到来には早い時期だが、ここY県内では猛烈な暑さが継続的に観測されている。
しかし、幸いなことにこの日は風が涼しく、暑さより爽やかさのほうが際立つ気候になりそうだった。
日曜日ということもあり、山城の迎えは遠慮して、ふたりは快晴の太陽と涼風を浴びながら、目的地を目指した。
会場は思ったより賑わっていた。
屋台も出ていたし、何より感染症で自粛されていた期間も長かった為か、心待ちにしていた県民も観光客も多いのではないかと七緒は言う。
会場に着いたら別行動という約束通り、千春はカメラを持ってのんびり歩いてみることにした。
「お、いたいた。千春くん、おはよう」
「山城さん、おはようございます」
「昨日は大変だったみたいだね」
「……はい。でも、『落とし物』がなくて何よりでした」
『落とし物』が見つからないままでよかったという意味ではもちろんない。そもそも存在しなかった=本当に困っている人がいなくてよかった、と七緒なら言うだろうと思ってそう答えたのだ。
千春個人としては全く思うところがないわけではないが、きっと成り行きをSNSでしか知らない山城に、そこまで話すのは気が引けたからかもしれない。
「そうだね。よかったね」
彼にも通じたと見えて、頷いてくれた。
よく見ると、山城はスーツでこそなかったが、カジュアルながら清潔感のある服装で、すでに屋台で買ったとみえる焼きそばを手にしていた。
「ああ、これね。持たされてるだけだよ」
「えっ?」
千春の視線に気づいた山城が苦笑しながら、駆け寄ってきた女の子に持っていた焼きそばを渡し、両手で受け取った彼女に「気をつけるんだよ~」と手を振った。
「一緒に来たおばあちゃんに持って行くんだって。お母さんは車椅子のおばあちゃんのお世話で忙しいから、自分ができることするって言ってね」
「……それで、なんで焼きそばを?」
山城が持たされることになったのだろうか。
「お母さんは荷物で手がいっぱいだから、まずお母さんの手伝いをする。そうしたらまた戻ってくるから、それまでここで持ってて──いや待ってて欲しいって言われたんだよね」
その時、背後から控えめな女性の声が聞こえた。
「すみません、娘からは『おじさんが持っててあげようか?って言ってくれたんだよ!』と聞いていたもので……」
「えっ」
予想外の母親の登場に、山城が絶句する横で、千春は呟く。
「あぁ、やっぱり」
「ありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「いえいえ、迷惑だなんて。楽しんでいってくださいね」
山城が県庁の、それも観光課の課長だなどと知らない母親は、一瞬首を傾げたが「はい」と弱々しい、それでいて幸せそうな笑顔で去っていった。
「やっぱり」
千春がもう一度呟き、じとりと山城に視線をやると、彼はばつが悪そうに目を逸らした。
やましいことをしたわけじゃなく、むしろ優しいことをしたのだから、もっと堂々としていればいいのに──と思ったが、謙遜するところまでを含めてが、優しいの真髄かと妙に納得してしまった。
「あ、そうだ。実はね、千春くんにお願いがあって。これから写真撮るよね?」
慌てたように山城が話題を変える。
「はい、まあ。そのつもりです」
「じゃあ、これつけてもらえるかな」
「なんですか、これ」
山城が取り出したのは、腕章だった。『スタッフ』と書かれたそれを腕に巻く前に、彼に訊ねる。
「実はこのイベントの写真を千春くんにお願いしたくて。というか、実際は一般提供みたいな形になると思うんだけど、このご時世個人情報にも厳しくて、なかなか一筋縄ではいかなくてね。会場前の看板に、イベント関連の記事や資料に使用する写真に写り込む場合がございます、って注意書きがあるんだけど、そういうのに使う写真なのか、それとも勝手に撮られて個人のSNSにあげられるのか、撮られる側としては判断のつけようがないじゃない。でも、それがあれば大丈夫。さすがに『千の選択』アカウントに使うのは難しいかもしれないけれど、千春くんはそういうの気にせず自由に楽しく写真を撮ってくれればいいから」
「自由に、楽しく──」
千春は腕章を巻きつけ、カメラを強く握った。
「ありがとうございます」
まっすぐ山城の目を見ると、彼は少し驚いたように、しかしすぐにいつもの穏やかな表情で、千春の背中を押した。
「行ってらっしゃい」
しばらく気の向くままに会場内を回っていると、山城の部下である泉の姿を捉えた。
彼女は種飛ばしステージの近く、おそらく本部として使われているテントにいて、腕章をつけて、忙しそうに立ち働いていた。
確か市町村主催だから、仕事の延長ではあるが、職務ではないようなことを山城は言っていた。現に彼は私服に近かったし、千春に腕章を渡しはしたものの、公務という感じではなかった。
ふと周りを見ると、意外に泉と同じ年代くらいの男女が千春と同じ腕章をつけてそこかしこに散在していた。
どうやらこのイベントはボランティアスタッフも含めて運営しているらしく、泉もそのひとりかと思われた。
以前、山城や七緒と遭遇した出来事を振り返ってみても、彼女の地元に対する愛情はやっぱり本物なのだろう。
千春は遠目から彼女の様子を写真に収めた。
時折、屋台から漂うソースの匂いに釣られて、焼きそばやたこ焼きをつまみながら、千春は思い思いにイベントを楽しむ人たちを写真に撮って回った。
中には千春をカメラマンと見込んでか、自分のスマートフォンで撮って欲しいという依頼もあり、快く請け合った。
七緒の姿は一切見えなかったが、彼はわりと大勢に紛れてしまうタイプなのかもしれないと、ふと思う。
こういう人の多いところで一度離れると、もう二度と探せないような、そんな儚さを秘めているようにも思えるし、単純に彼の『順応型コミュニケーション能力』の賜物とも言えるかもしれない。
周りに溶け込むのがうまく、人の懐に入るのも自然で嫌味がない。相手に合わせることも厭わず、むしろそれが自然に行えるからこそ、相手も心を開く。
もしかしたら千春の視界にも入っているのかもしれないが、それを全く感じさせないのだとしたら、まるで『透明人間』だ。それも、普通(?)の『透明人間』ではない。『周りの色を取り込んで同化する』という意味の『透明人間』だ。
千春がぼんやりそんなことを考えていると、ピンポンパンポーンとよく商業施設や遊園地で鳴る迷子のお知らせの音が響いた。
「迷子のお知らせです。東京都からお越しの、綿貫千春さん。19歳、男の子。本部テント前にてお連れ様がお待ちです。繰り返します──」
ぶふっ、と口に含んだばかりの清涼飲料水を盛大に吹き出してしまった。
危うく下を向かなければ、種飛ばしの記録も打ち破ろうかというくらいの結果を叩き出していたかもしれない。
周りの人たちが自分を知るはずもないのに、今ので告白してしまったようなものだ。ちらちら、くすくすという視線と囁きを感じながら、千春は慌てて本部テント前へ向かう。
衝撃の迷子放送の少し前──。
泉に冷たいお茶を差し入れながら、山城は少しの間、彼女の仕事ぶりを観察していた。
泉自身は嫌々ながら山城の茶々──という名のコミュニケーションに対応しながら、雑務をこなしている。
「あの」
そこへ、七緒と同年代くらいの男性が声をかけてきた。
身長はそれほど高くなく、眼鏡をかけている。そして今の山城と似たカジュアルながら清潔感のある服装の、どこか見覚えのある男性だった。
彼は誰にともなく話しかけたようだが、やはりスタッフである泉がいの一番に反応した。
「どうされましたか?」
「実は……連れとはぐれてしまって」
「──お子さん、ですか?」
連れというくらいだから違うだろう、と山城は思ったが、自分は今公務ではない。県の観光課課長として、あまり市町村主催のイベント運営に直接手や口は出さないようにしている。
泉もそのあたりは心得ていると見えて、実際にそうとは思っていなさそうな口ぶりで訊ねた。
「いえ……やっぱり、大丈夫です」
「あ、ちょっと待ってください」
立ち去りかけた彼の背中に、泉が珍しく大きな声をかけた。
訝しげに振り向いた彼に、泉が言う。
「大人の方なんですね? この会場にいらっしゃるのであればお手伝いします。お写真か何かありますか?」
柔らかな泉の口調と表情に、彼はほっと安堵したような顔で、こちらに向き直った。
「……この会場には、たぶんいると思います。これが彼女の写真です」
横顔の写真だったが、山城はこれを見て思わず声をあげそうになった。
──どうりで見覚えがあると思った。
今週の中頃、花まつりを開催している自然公園を訪れた時、そしてその後の蕎麦屋での昼食の時に目にした夫婦の、夫が目の前の男性、妻が写真の女性だった。
七緒の推理によると『良好な家庭内別居』ではないかとのことだが、それを裏付ける何かがあるわけではないので、とりあえず彼の話を泉の傍らで聞くことにした。
本当は自分はスタッフではないので聞かないべきなのだろうが、それこそ何か手伝えることがあるかもしれない。
山城の反応に空気の揺らぎでも感じ取ったのか、ちらりと彼女はこちらを見たが、すぐに男性に微笑みかけた。
「大丈夫ですよ。すぐに見つけますから」
「でも……僕が探してもどこにもいなくて……何度も何周もしてみたんですけど……」
確かに夫の彼が見つけられない人物を、赤の他人が見つけられるはずもないか──。何か方法がないかと、途方に暮れるばかりの彼を見ながら山城は思案する。
その時、「私にいい考えがあります」と、泉が自信ありげに笑い、すぐそこのマイクを手に取った。
山城や夫が止める前に、彼女は迷子放送のチャイムを鳴らしていた。
夫はともかく、山城はそもそも女性の名前を聞いていないことに気がつき、泉の発案を静観することにした。
「迷子のお知らせです。東京都からお越しの、綿貫千春さん。19歳、男の子。本部テント前にてお連れ様がお待ちです。繰り返します──」
ぶふっ、と山城は思わず吹き出した。
堪えきれない笑いが漏れてしまう。
咳払いでなんとか誤魔化しつつ、あれほど旅雑誌や東京から来る彼らに興味も関心もなさそうだった泉が、千春の名前をフルネームで覚えていることに、感慨深げに頷いた。
恥ずかしい放送に、千春は顔を赤くしながら走った。本部テント前には、今呼び出しの放送をしたであろう泉と、なぜか口元が緩みっぱなしの山城、そして朧げながら見覚えのあるフォルムの男性が待ち構えていた。
「…………俺、迷子じゃないんですけど」
「19歳、男の子」
「やめてください!」
泉がマイクを通さず、しかしハキハキとした口調で繰り返すので、千春は子供扱いされた気分になって慌てて遮った。
「……綿貫くん」
中性的な名前のおかげか、千春は名字で呼ばれることが少ない。しかも逡巡しながらの呼びかけに、どう反応していいかわからず、同じく戸惑いつつ返事をすると、泉から意外な提案を受けた。
「今日撮った写真を見せて欲しい、んだけど」
年下との距離感がいまいちわからないのか、泉の口調は、丁寧さの中に微妙に砕けた表現も混じっていて、千春もなぜかつられて緊張してしまう。
「いいですけど、これといって特別なものは──」
そう言いながら、首に下げていたカメラを泉に渡す。
メモリを素早く確認しつつ、泉はやがて一枚の写真をじっくりと見つめて言った。
「いましたよ」
ひとり首を傾げる千春を前に、泉が示す写真の中の女性を、夫である男性がぱちくりと見つめる。山城も横から覗き込む。
だが──。
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「ここですよ」
複数の女性が写る中、わりと写真の中心に近い位置で、ひとり空を仰ぎ見る女性を、泉は示していた。
「え、いや……え? あやめ、ちゃん──?」
「違う人じゃないのか、これは?」
「いいえ、同じ人です」
「千春くん、これいつどこで撮ったの?」
「ついさっきですよ。ステージ近くの──」
男性は3人が止める間もなく走り出していた。
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