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花柳 都子

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新天の志

最古の最上

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 綿貫千春わたぬきちはる風月七緒かづきななおは、今日も県観光課課長の山城優一やまきゆういちの運転する車で、Y県観光へと出発した。
 梅雨前の金曜日。快晴の空は高く、朝9時でも夏日ほどの気温だった。
 今日は市内郊外にある有名な寺へ向かう。山門から本堂まで一千段以上の階段を上るというので、千春も七緒も普段より動きやすく涼しげな格好をして来た。
 山城やまきはというと、さすがにスーツではあったが、ノーネクタイで替えのスニーカーを用意しているらしい。
「私は慣れていますから」
 そう言って彼は軽快に笑うが、慣れるほど上ったことがあるのか? などと千春は、顔を引き攣らせた。観光課の仕事も甘いものじゃないな──決して舐めていたわけではないが──と思う。
「ところで、おふたりの土日のご予定はもう決まっていますか?」
 七緒とは東京からの出発前に打ち合わせ済みで、土日は一応休みの扱いだが、そのまま継続してY県に滞在することにしていた。
 次週の週末には東京に一度帰ることにしているが、それまでにY県の大まかな観光地を回る手筈になっている。
 土日は平日にはないイベント等の開催もあるので、七緒は気を遣って別行動にしようというのだが、千春としては結局行き先は同じになるような気もしている。
「今は果物もさかんな時期ですからね。各地で様々な催し物がありますよ。日曜日には、地元名産果物の種飛ばし大会なんかもありますね」
 噂に聞いたことはあるが、例年なかなかの盛況ぶりらしい。ここ数年は感染症の影響で開催自体断念を余儀なくされたが、ようやく全国的な観光が日常に戻りつつあるということだろう。
「僕もそれに行ってみようかと思ってるんです」
「……俺も、行ってみようかと……」
「奇遇ですね、私もですよ。私は半分以上仕事ですがね。おそらくいずみや他の観光課のメンバーも顔を出すと思います。屋台なんかもありますし、もし機会があれば種飛ばしに挑戦してみるのも一興ですよ。これが意外と難しくてね」
 はっはっは、とそのまま種飛ばしの難易度を語り始めそうな彼に、千春が訊ねる。
「そのイベントも県庁主催なんですか?」
 気を削がれたようなそぶりもなく、山城やまきは愛想よく続けた。
「いえいえ、市町村主体ですよ。観光課の人間として、大きなイベントには都合がつく限り行くようにしているだけです。どれだけY県の活性化につながっているか、県外からの観光客はどれくらいか、リサーチにもなりますからね」
「…………大変なんですね」
 率直な感想を述べる千春に、山城やまきは少し声のトーンを落として苦笑を浮かべた。
「まあ人事課などの事務的なところに比べると、やはり休日が本番──といいますか、アクティブにならざるを得ないのは事実ですね。私はそういうのも苦になりませんが、Y県や観光旅行などに興味がない人間にはしんどいかもしれませんね」
「でも、県庁でしたら異動でそういう職員が配属されることもあるでしょう?」
 静かだった七緒が、ゆっくりとした口調で訊ねる。
「もちろんです。ほとんどの人間は自らこういう祭りごとに足を運びますが、このご時世ですから、自分はインドア派だとかオンオフはっきりしたいとか言う人間に無理強いもできません」
 確か山城やまきは40手前だと聞いたが、課長というには少し若く思える。それとも公務員だとそれくらいは当たり前なのだろうか。
 ともかく、彼は誰とでも打ち解けられそうな印象だが、彼には彼なりの苦悩があるのだろう。
 能動的な活動にしても『好きだ』ではなく、『苦にならない』と言うところをみると、彼自身も望んだ仕事ではないのかもれしれない。けれど、七緒との会話や『千の選択』SNSプロジェクトに対する姿勢としても、彼には『プロ意識』が備わっていて、Y県の観光の未来を真剣に考えているように思う。
「現在のメンバーは大概、こういう活動に積極的ですから、向いているんでしょう」
 確かいずみという女性職員も、あまり顔には出ないようだが、観光──というよりも地元が好きなようだから、こういう活動は好きなのかもしれなかった。
「そういえば、明日は婚活パーティーでしたね」
「ええ、就職説明会と同じ会場で」
「またいずみさんが受付を?」
「いえいえ。今回は別の人間です。若くて未婚──決してセクハラではありませんが──の女性が受付ですと、参加者の特に女性の方が気にされることもあるらしく。以前はいずみに頼んだこともあったのですが、彼女自ら自分じゃないほうがいいと。あまりそういうことを言ったことがないので、当初は驚きました」
 千春は首を傾げるが、七緒は頷いているので、女心というやつがわかるのかもしれない。山城やまきにしてもいずみに言われるまで気が付かなかったようなので、そういうところは案外鈍感なのだろうかと勝手に想像する。
「さて、お待たせしました。着きましたよ」
 山城やまきが静かに車を停め、3人は澄んだ空気の外に降り立った。
 彼がスニーカーに履き替える間、階段の下から上を見上げたが、千春は思わずぽかんとしてしまった。
 確かに一千段以上あるとは聞いた。だが、文字通り『先が見えない』──。貴重品とカメラだけを持って行くことにして、同じく貴重品と手帳をポケットに詰め込む七緒を待った。
 カメラとは言ってもお寺だと写真撮影はかなり制限される。平日の午前中ではあるが、ちらほらと参拝客も見える。
 まずは本堂まで歩くことに集中したいが──。
 千春は三分の一ほどを過ぎたところで、後ろを振り返った。
「はぁはぁ」
 手すりにつかまりながら、七緒が息を切らしてなんとかついて来ている。
 山城やまきはというと、さすがに慣れていると言うだけあって余裕そうである。七緒のそばを彼に合わせるような歩幅で、ゆっくり進んでいる。
 千春は自分が若いからと自惚れているわけではないのだが、ゆっくり歩くほうが辛かった。
 できるなら勢いのまま一気に行ってしまったほうが、足の疲れを意識せずに済むような気もする。
 しかし、七緒を置いて行くわけにもいかず、手持ち無沙汰にカメラで階段の様子や、周囲の景色を写真に収めていった。
「ちちち、千春、くん……」
 もう一度言うが、まだ三分の一である。
 いくら二十代も半ばを過ぎ、文系で運動が不得手だとしても、こんな調子で最後まで上り切れるのだろうか。
「七緒さん、大丈夫ですか?」
「だ、だだいじょうぶ、先に行ってて、いいよ……」
 息も絶え絶えに彼は言うが、むしろそんな彼を置いて自分だけスタスタ行くのは気が引けた。
風月かづきさん、無理はしないでくださいね。千春くんは若いですし、いざとなったらあなたを背負ってもらいますから。そのためには一緒にいてもらわないと。さすがに私は、足はともかくこの歳になると腰が弱くなって来てしまって……」
 ははは、と山城やまきがばつが悪そうに笑う。千春に意味ありげな目配せをして来たので、そういう体で一緒に上ろうという意味だと受け取った。七緒を気遣いつつ、千春の気持ちも汲んでくれる。やはりよくできた人だと千春は思う。
「……一段、一段、煩悩が、消えると、聞きました……ちゃんと、上りたい、です、よね……」
 その間にもぜえはあぜえはあと喘ぎながら、七緒は千春の立ち止まっているところまで、ようやく辿り着いた。
 ふうと大きく息を吐き、下を振り返る。
 何しろ一千段もあるので、ここまででもそこそこの高さではある。
「ちなみに、このお寺は高名な俳人も訪れた場所で、縁切り寺としても有名ですね」
「縁切り?」
「主に悪運を払い、開運をもたらすと言われています」
 山城やまきの、おそらく何気ない観光案内に、千春は思わずカメラを強く握りしめた。
 ──悪運。
 まさに自分の置かれて来た状況のことである。
 今は開運に傾きつつあるが、またあの突発的な災難がいつ降りかかってくるか知れない。
 それが千春の歩んできた人生だ。
 まだまだ短い、まだまだ若い、これからだ、と大人は言うけれど、今までもこうだったのだから、これからだってこうだろうと思うのが当事者意識というものだ。
「千春くん。深く考えなくていいんだよ」
 息がだいぶ整った七緒が、自分より上の段で俯く千春にそっと呟く。
「──こう言ってはなんですが、私も信心深いほうではありません。私個人の考えとしては、『縁切り』よりも『悪運と縁を切った後にやってくる開運』を求めていらっしゃる方のほうが多いのではないかと思います。それでなくとも、風月かづきさんが仰ったように、一段上るごとに煩悩と距離を置いて、上に行くたび澄んだ空気と涼しい風にあたるだけでも、心持ちが不思議と変わるものです。先人たちが守り続けて来た静謐な空間を、自分も味わってみよう。それくらいの気持ちで訪れて欲しいところです。まぁ、名前だけ聞くと縁切り寺というくらいですから、カップルでどうぞとはなかなか紹介しづらいですが」
 山城やまきも『縁切り』の場所ではないことを伝えたかったと見えて、ほらほらとなぜか遅れて来たふたりに前を向かされ、背中を押された。
 一段、また一段。
 踏みしめるように、その一歩一歩を意識すると、確かにふたりの言うように『難しく考えず、この非日常な世界に身を任せる』──それだけでいい気がしてきた。
 なんだか面白くなって、軽い足取りでどんどん進むと、しばらくして七緒のぜえはあという息切れが聞こえて来た。
「ちち、千春くん……ちょっと、待って……」
「いいんですよ、ふたりとも。自分のペースで」
 ははは、と豪快に笑う山城やまきの声は、静かな空間を心地よく満たした。彼は七緒の背中をぽんぽんと叩き、まだ半分にも達していない階段の途中で大きく深呼吸をする。
「そんなに急がなくても、お寺も、開運も、逃げませんからね──」
 彼につられて見上げた空は、雲ひとつない美しい快晴だった。












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