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新天の志
幕間
しおりを挟む泉温子は、勤務を終えて定時で家に帰った。
今までになく清々しい気分だった。
真崎は今頃どうしているだろうか。
彼のSNSを覗くと、温子が紹介したY県の観光地を回ったようで、数葉の写真が載せられている。
東京から来たカメラマンが撮った写真には遠く及ばない出来だが、彼が満喫していることを知るには十分だった。
本当は温泉にも入りたいけれど、今日は最終の新幹線で東京に帰るということだった。
彼が一流の商社に就職が決まったと聞いた時は、自分のことのように嬉しかった。その時には既に地元での就職を決意していた温子は、これで彼と会うことももうなくなるかもしれないと、少し寂しくもあった。
大学に他に友達がいなかったわけではない。女の子の友達も彼以外のゼミ仲間もいた。けれど、地元に対する本音をあんなに素直に吐き出せたのは、後にも先にも真崎だけだった。
上司である山城優一には、彼が面接担当官だった時に話したが、採用されるためにある程度練ったもので、自分の言葉で出た感情とは少し違う。未だに彼との距離感は測りかねているが、上司と部下という関係上、これくらいがちょうどいいと思う。
父も母も生粋のY県民で、ただ2人ともこの辺りの出身ではない。温子が生まれた時、自分たちの田舎よりも学校も近く、働き口もたくさんあって、多少は生活しやすいだろうと県庁所在地に移り住んだのだ。
父の実家も母の実家も、今でもたまに行くことがあるが、どちらも文字通り辺鄙な場所である。学校は歩いて1時間、一番近いコンビニはそれ以上の距離があって、職を探そうと思ったら車で30分圏内まで幅を広げなければなかなかうまくはいかない。
温子は真崎のSNSを何気なく見返していく。
東京での彼の生活に興味があったから──というのも嘘ではないが、彼は自分を気にかけてこんなところまで来てくれたのに、自分は彼のことを何も知らないのだと、いわゆる罪悪感のようなものが生まれたからだ。
彼はここ最近、仕事のことで悩んでいる素振りがある。別に彼自身の口──この場合は指だろうか──で直接的に語られているわけではないけれど、『ファミレスで食事』、『コンビニで買って帰る』、『飲み会も仕事のうち』などという文言は多く見受けられる。
それも投稿は大体深夜──。それまで会社にいるのかどうか、飲み会に付き合わされているのかどうかはわからないが、元来彼は優しく争い事を好まないタイプなので、言われたことは断れないし、競争は自ら譲ってしまうので向いていない。商社という仕事自体が苦痛なのではないかと感じられた。
彼が選んだ道とはいえ、やりたくない仕事もたくさんあるだろう。
温子には『やりたくない仕事』はないが、『やらなきゃいけない仕事』はある。いや、そう思っている時点で似たようなものなのだろうか。
とはいえ、多かれ少なかれ、社会人というのはそういうものだと理解していたし、それが長い目で見れば将来への経験値になることもわかっている。
同年代の中には新卒入社した会社を辞め、転職している者も多い。自分は公務員だし、よほどのことがなければ退職はしないだろうが、昔と違ってひとっところに勤め続けるご時世でもないと思う。
特に一般企業、それも大学のあった東京であれば、転職活動さえ億劫でなければ、いくらでもあるだろう。それでもやっぱり『やりたくない仕事』はどこにでもあって、逃れられるものでもない。
真崎は、真面目で律儀なところもあるから、もしかしたらそれら全てをこなさなければならないと、強い責任感を持っているのかもしれない。
けれど、『やりたくない仕事』も自分の本当のキャパシティをオーバーした時点で、『やりたい仕事』でさえできなくなってしまうと、温子は思っている。
ただの怠惰や逃げをキャパシティオーバーと勘違いしている人間もいるだろうが、真崎の性格を知る者として、温子は彼が既に『しんどい』状態であることを察している。
自分に何かできることはないだろうか──。
はっ、と温子は思う。
あのアカウントを使おう。
きっと、真崎は温子のアカウントを見るはずだ。彼は律儀な人だから、必ず自分にメッセージをくれる。大学時代から主な連絡にはSNSを使っていた。だから、今更それ以外の方法でコンタクトを取ってくることはない。つまり、温子のアカウントに何か彼を励ます何かがあれば──。
温子は『千の選択編集部』アカウントを検索した。
すぐに表示されたそれは、最後の更新がついさっきになっていた。写っているのは、今日の『就職説明会』のポスターだった。
なんでも、東京での開催も検討しているとのこと。参加は誰でも自由で、名物をたくさん用意しておくし、観光案内まで至れり尽くせりだという。
就職が目当てでなくてもいい。Y県に興味がなくてもいい。
旅雑誌とあろうアカウントの言葉とは到底思えなかったが、温子は『いいね』を押した。
最後の言葉を彼に──真崎に見て欲しかった。
20時頃。
食事と後片付けを終えた温子のもとに、真崎からメッセージが届いた。思った通り、SNSアカウント経由だった。他の人には見えない個別にやり取りできるサービスを使って、彼はこう送って来た。
『今日はいきなりごめんね。会って話せて、本当によかった。それに、元気そうで安心した』
『僕は、いろいろあったけど、もう少し頑張ってみるよ』
『でも、もしも、頑張れなくなった時が来たら、その時はまたあーちゃんと話したい。きっと、その時なら、本当のことを言えると思う』
それらは5分おきくらいに送られていて、彼の中の葛藤が窺えるような気がした。
『ねえ、あーちゃん。お土産、何がいいかな?』
最後にそんなメッセージが来て、温子は思わず部屋を出た。
階段を下りて、そのままの勢いで玄関のドアを開ける。
驚いた母親が名前を呼ぶけれど、温子はもう走り出していた。
駅、Y駅に向かってひたすら走った。
最終の新幹線は確か21時前。
間に合うだろうか。
息も絶え絶えになりながら、温子は真崎の姿を探した。まだ返信はしていないから、お土産屋さんにいるかもしれない。
半ば願望だったが、果たしてそこには真崎の姿があった。
「真崎くん……」
「えっ、あーちゃん!?」
「お、お土産、これが……いいよ……」
それは温子が毎日食べているY県の郷土料理。具沢山の野菜が、ご飯のお供にちょうどいい。
「それから、……これも……」
温泉が多いY県の入浴剤詰め合わせ。これも温子の家にある。なぜY県にいてY県の温泉地詰め合わせなのかわからないが、東京へのお土産にはいいだろう。
──ちゃんとご飯を食べて、お風呂に入って、仕事を忘れる時間も必要だよ。
例によって素直になれない温子だったが、目をまん丸にして終始驚いていた真崎はそれらを大事そうに抱えて、レジに向かった。
本当は温子が買えばよかったとこの時になって初めて気づいたが、財布を持って来ていなかった。
それでも真崎は「ありがとう」と言って、そろそろホームに行くという。
「真崎くん。また──」
──また来てね。
温子は手を振りかけたが、その言葉を直前で飲み込んだ。
自分がこれを言ったら、なんだか押し付けがましい気がした。
「また来るよ」
間髪入れずに真崎が笑って言った。
温子は彼につられて笑みを浮かべ、今度は本当に手を振った。
彼の姿がホームに消えて、温子は踵を返す。
温子と別れ、新幹線に乗った真崎はもう一度SNSを開いた。
温子にメッセージを送るのは野暮だと思ってやめたが、この名残惜しさを埋めるために彼女のアカウントを覗くくらい許されるだろうと思って。
彼女のタイムラインには『千の選択編集部』の投稿が一番上にあった。
投稿された写真に写っているのは、今日の『就職説明会』のポスターだった。
なんでも、東京での開催も検討しているとのこと。参加は誰でも自由で、名物をたくさん用意しておくし、観光案内まで至れり尽くせりだという。
就職が目当てでなくてもいい。Y県に興味がなくてもいい。
Y県にはこんな会社があってこんな仕事があると知ってもらう機会になる。
それならきっとあなたの過ごす街にもいろんな会社があって、いろんな仕事がある。
『観光』にいろんな形があるように、『仕事』にもいろんな形があって。
世界はあなたの想像よりもっとずっと広く、逞しく、ここに存在している。
だから。
旅に『千の選択』があるように、あなたの道にも『千の選択』があることを、どうか忘れないで──。
暗い道を走り始めた新幹線の窓に、真崎の横顔が映る。
彼の頬を一筋の雫が伝って、静かに流れ落ちた。
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