4 / 68
始動の試験
真の信用
しおりを挟む
編集部に残った七緒は、とにかく宮本と共にデータの入ったSDカードを探すことにした。
念のため確認しておくべきことを、デスクの周りを捜索しながら訊ねる。
「まだPCに保存してなかったんだよね?」
幸か不幸か、編集長は夕方の締切まで不在で、他の編集者たちも時間に追われてそれどころではなさそうだった。
「はい。その前に紛失しちゃって」
「じゃあ、届いたところから順に追ってみよう」
まずは総務部。郵便物等が届くのは全てここ。バイク便も例外ではない。そして、そこから担当者によって各部署に振り分けられ、『千の選択』編集部へとやってくる。
「ここに届いた時にはありました。私が宛先ごとに振り分けて、それぞれのデスクに置いたので」
「そう。それは何時頃?」
「えっと……1時頃です」
「じゃあ、そこから宮本さんはどうしたの?」
「えっ?」
「今は2時半だよね。すぐに開けた?」
「………………」
「正直に言ってくれるかな?」
「……ご飯に、行きました」
七緒はため息を吐きたい気分をぐっと堪えた。
貴重品をデスクに置いたまま、しかも締切が迫っているのに──。
確かに昼ご飯を抜けとは言わないし、食べに行くのが悪いということではない。
ただ、自分だったらと考えた時に、それはあり得ない行動だった。
「戻ってきたのは?」
「2時ちょっと前です」
「……それで? 紛失に気づいたのはいつ?」
「戻ってきてすぐです、やらなきゃって思ってデスクを見たらもうなくて」
「持ち出してはいないんだね?」
データの持ち出しはメールでのやり取り以上に、厳しく管理されている。とはいえ、毎日外出する度に荷物検査があるわけではなし、やろうと思えばできてしまうのもまた事実である。
「はい」
真っ直ぐ目を見て答えたため、嘘ではない。
だとしたら、おそらくバイク便の封筒に入ったままだろう。中身はSDカードだから、おそらく何重にもなっていて厚みはそこそこある。ただし、軽いし、大きくはない。
──つまり。
その時、ドサドサドサッと大きな音が聞こえた。
チラリと見るとどこかのデスクの積み重なった資料が崩れた音だった。
そう、ちょうどあんなふうに。
「ゴミ箱、宮本さん、ゴミ箱は?」
「えっと、ここです……」
指差したゴミ箱の中身は──。
「ない」
空だった。
七緒は走り出した。
掃除のおばちゃんは、毎日郵便が届いた後くらいにゴミを回収する。郵便物は嵩張る封筒や厚紙が多いから、特に編集部のゴミ箱はすぐにいっぱいになってしまう。
たとえゴミ回収が終わってしまっていても、まだこの社内にはあるはずだ。
スーツのジャケットを翻し廊下を走る七緒を、すれ違う人たちが珍しそうに振り返る。
確か清掃員は普段、階段を使っている。
ここは3階。社内には他の編集部もあるので、そのどこかにいるはずだ。いや、いてくれないと困る。
他部署を駆け回りつつ、見つけたのは30分後のことだった。
時刻は午後3時半。まだ間に合う。
「すみません、3階の編集部の者ですけど、回収したゴミを確認したくて──」
息も絶え絶えに言うと、おばちゃんは申し訳なさそうに答えた。
「あら、ごめんなさい。3階のゴミはもう下までいっちゃってるのよ」
「え……」
ここは5階。その『下』というのは当然1階である。
七緒は来た道を戻り、エレベーターを待つ時間も惜しく、階段で1階まで降りた。
その間、七緒についてくる素振りもなかった宮本を電話で呼び出す。
1階に着くと、涼しい顔をしてエレベーターから降りてくる宮本と一緒になった。
2人で回収されたゴミを一時保管する広い部屋に入る。そこには、どこからこんなゴミが出ているのか疑うほどのゴミの山があった。
あと2時間弱。七緒は必死にスーツが汚れるのも気にせず探した。隣の宮本はスカートやら自分のネイルに彩れた手やらを気にしながら、ゴミを選んで端によけている。
宮本への苛立ちや怒りよりも、カメラマンの気持ちのほうがこの時の七緒には重要だった。
ただでさえ、編集部に対して不信感を募らせているところだ。これ以上、彼に嫌な思いはさせたくない。
それに、千春に対しても同じである。
このまま見つからなかった場合、千春の写真に頼らざるを得なくなる。彼個人には無関係の事情に巻き込んだ上、おそらく直接的な怒りを買うのも彼だ。それはできることなら避けたい。
「…………くそっ、ない…………」
「ないですね……」
哀しそうな顔をしているものの、宮本は相変わらずまるで他人事で、謝る素振りさえ見せない。七緒に謝ったところで何も解決しないのではあるが、彼女の場合は『悪いことをしたという意識がない』のだと思う。
残り2時間を切った。
清掃車が来るタイミングではないので、少なくともこの社内から外には出ていないと考えられるが、果たして次はどこを探せば良いものか──。
「あっ!」
途方に暮れる七緒の横で、宮本が大きな声を上げた。
「なに?」
「思い出しました!」
「何を!?」
急かしたい気持ちを抑えて、七緒は勢い込んで訊ねる。
「そういえば、日下部さん宛の荷物も一緒に入れるって!」
「……日下部さんって誰!?」
「わかりません!」
「………………」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。七緒は編集部のデスクに電話をかける。
出た人間に、社内に日下部なる人物がいるか訊くと、5階の専門誌編集部に一人いるという。
この編集社では旅雑誌の他に、マイナーな専門誌をいくつか扱っているのだが、件のカメラマンはどちらかといえばそちらの専門誌を主に担当していて、旅雑誌はその伝手で時折手伝ってもらっているのだと編集長から聞いたことがあった。
つまり、ここで失敗すれば専門誌編集部にも迷惑をかける、ひいてはこの社全体の問題にもなりかねない。
七緒は走った。また5階まで。
エレベーターのほうが早いですよ、という宮本の声はもはや聞こえていない。
エレベーターの中でじっとしている時間のほうが勿体なく思えた。
5階、日下部何某はデスクに座っていた。歳の頃は宮本とそう変わらない女性である。
「あなたが、日下部さん?」
「はい」
「3階の風月と言います。うちの宮本宛に届いた荷物見せて欲しいんですが」
「あぁそれなら、さっき清掃員さんが……」
七緒は来た道を引き返した。
1階まで降りなければならないことを覚悟したが、幸いなことに3階手前の踊り場で捕まえた。
「ゴミ? まだ探してたのね。どうぞ、ほらゆっくり見て」
ゆっくり見ている余裕はなかったが、バイク便の封筒はすぐに見つかった。ただし中身は入っていない。結局、ゴミを全て出して1番底のほうに厚く包まれたSDカードを発見した。
「すみません、後で片付けますから!」
「いいわよ、別に」
「いえ、下も散らかしたままなので!」
七緒はそれだけ言うと、3階に戻り、なぜかデスクに所在なく座っている宮本に手渡した。
「…………もう、自分でできるよね?」
有無を言わせぬ口調で、七緒は宮本を見つめた。
瞬間、はっとした顔をした宮本だったが、こくんと頷き、作業を始めた。
七緒は途端に暑くなって上着を脱ぐ。
千春に連絡をし、直帰するよう伝えた。
戻ってきたところで、もう話し合いどころではないだろう。
──結果、締切までわずか15分のところで、ようやく全ての原稿が完成し、事なきを得た。
踊り場で散らかしてしまったゴミはおばちゃんが気を利かせて片付けてくれていたが、下のゴミは遠慮されつつも七緒の気が済まなかったので一緒に片付けることにした。
そして、その日、七緒はずっと不在だった編集長に一部始終を伝えた。
編集長はなんだかんだと理由をつけて宮本への叱責は避けているようで、埒が開かないと感じた七緒は直接、宮本に向き合った。
「宮本さん。今回のこと、謝りに行こう」
「えっ……」
せっかくカメラマンに紛失のことは知られず解決できたのに? という疑問が、顔にそのまま表れていた。
「バレなきゃいい──そういう問題じゃないんだよ?」
「だって、急に決まったことだし、それに、バイク便だって、封筒ごと何も言わずに持って行くなんて……!!!」
宮本はわっと泣き出した。
不本意に当事者扱いされたことが納得いかないのだろう。
それでも、七緒にとっても譲れなかった。
「確かに、打ち合わせのことも、今回の紛失のことも、君だけのせいじゃないかもしれない。でも、君にも一因がある。そのことはわかるよね?」
「でも、なんで私だけが謝らなきゃならないんですか……」
「……それはカメラマンさんも同じだよね。彼はこっちの都合で急な依頼になっても、ちゃんと応えてくれたよね。限られた時間でも素敵な写真を撮ってくれたよね。カメラマンさんだけが大変な思いをしているわけじゃないけど、彼の身になれば自分だけが蔑ろにされていると感じても仕方なかったと思うよ。どんな環境でもプロの仕事をしてくれる人に、敬意と感謝は絶対忘れちゃいけない。それはわかるね?」
宮本はこくりと頷く。
パワハラだなんだと昨今は、新人教育にも配慮がいる。理不尽な理由で、ただ感情のままにぶつけるのはよくない。けれど、『怒る』と『叱る』は違う。
失敗は誰にでもある。失敗したことそれ自体より重要なのは、その失敗をどう受け止めるかだ。
彼女はこのままならずっと他人事で、きっと反省すらしないだろう。
それは彼女自身にとっても、編集部や会社全体にとっても今後、一切の利はない。
「謝るという行為に納得がいかないなら、お礼を言いに行こう。締切間際になってもきちんと予定通りに届けてくれたこと、SDカードを厳重に包んでくれたおかげで紛失しても見つけやすかったこと、そして破損していなかったこと。他にもたくさんあるよね。僕も一緒に行くけど、ちゃんと君の言葉で伝えるんだよ。そうしたらきっと、わかってくれる。──いや、わかってくれることを期待しちゃいけないんだけど」
この微妙な感覚をどう伝えればいいのか考えあぐねた結果、七緒は「あの人なら僕はわかってくれると思う、よ」と笑った。
「……ふふ、ずるい言い方」
宮本もくすくすと笑みを溢しながら、置いてあった鞄と背もたれの上着を手に取り、立ち上がる。
涙に濡れた瞳は、光を反射してキラキラと輝き、さっきまで泣いていたとは思えないほど、いい表情をしていた。
嘘泣きまでしてずるいのは君だろう──などとは流石に言えるはずもなかったが、七緒にはなぜかその横顔がほんの少し凛としたように見える。
「物はいいようって言うしね」
「SDカードの紛失のこと言わなきゃダメって言ったわりに、その言い方だと有耶無耶にしてません?」
「だから、物はいいようなんだよ。嘘はついていないし、相手にとっても気持ちいいほうがいいからね」
そう言って2人がフロアを出ようとした時、急に前を歩いていた宮本が立ち止まり、勢いよく七緒を振り返って、その勢いのまま頭を下げた。
「風月さん、ありがとうございました!」
その声はフロア中に響き、なぜか七緒のほうが焦ってしまう。
「い、いや……別に、その……」
この状況だけを見たら、七緒が無理やり謝らせているようにも見えるが、まぁ彼女の意思であることはその声音から伝わるだろうと七緒はあえて高を括ることにした。
その日、遅くなった訪問にも関わらず、カメラマンは2人を家に上げ、お茶まで用意してくれた。
宮本は吹っ切れたようにスラスラと状況を説明し、七緒の『自分の言葉で』という助言が効いたのか、ありのままを述べ、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。ご無礼をお許しください……って、あ、いや、許してくださいっていうのは烏滸がましいですよね……」
余計なことまで口走るのは玉に瑕だが、まぁ上々だろう。七緒は引き攣りそうになった笑みをなんとか崩さず、必要以上の口を挟むことなく済んだ。
「……正直に言えば、君の対応には腹が立ったよ。急いでるからなんだ、って。こっちだって、手間暇かけてやってんだ、ってな」
少し怖い顔を作って彼は言う。
けれどすぐにはにかんだように、頬を緩めた。
「……でも、数ヶ月前、初めて俺の写真を見た時、君は『綺麗! すごい! 美しい!』って素直に言ってくれた。俺はそれを今でも覚えててね。たとえそれが社交辞令であったとしても、フリーのカメラマンとして契約して数年、俺の写真が雑誌に載るのが当たり前と思っていたし、載せるのが当たり前とあんたたちも思ってるんだろうと俺にはそう見えていたから、なんか新鮮だったんだよ。まだこんなふうに言ってくれる人がいるんだってな。ありがとう、宮本さん」
「えっ!?」
まさか逆にお礼を言われるとは思っていなかったのか、紛失の真実を伝えた時より慌てふためいてしまった宮本を見て、七緒も思わず笑ってしまった。
結果的に、『自分が信用されていない』というのは、彼女自身にそう思われる心当たりがあったからで、カメラマンの彼には(おそらく)そういう意図はなかった。人間関係というものは、面と向かって話したとしても難しいものだと、妙に実感してしまう出来事だった。
彼の自宅を出ると、宮本共々、直帰する旨を編集長に伝え、七緒は帰路を辿った。
その道中に、千春に連絡を入れる。
もう出発は来週の月曜日に迫ってしまった。
後戻りはできない。立ちすくんでもいられない。
腹を括って挑むしかない──。
「あ、千春くん? 今日はごめんね。来週の簡単なタイムテーブルと、持ち物や宿泊施設なんかは後でメッセージで送るけど、これだけはちゃんと伝えておかなきゃと思って」
「……なんですか?」
「試験で君が言ったこと、それから、今のご家族と過ごす時間や、君の街のこと。ちゃんと覚えておいてね。きっと帰ってきたら、全然違う景色になると思うから──」
疑問符を浮かべながら返事をした千春の声を満足げに聞いて、七緒は通話を切った。
試験の時、彼はこう言った。
『僕の知らない日常がそこには当たり前にあって、そこにいる全ての人たちが幸せそう……いや、幸せであればいいなと思ったから』
当たり前というのが決して当たり前でないことを知るのは、当たり前がないと気がついた時だ。
意識して見えるものではないけれど、意識すれば簡単に見えることでもある。
彼にはちゃんとそのことを知っていて欲しい。
七緒は後で千春に送る内容を今一度メモしてから、当たり前に存在している家への道を、ゆっくりと歩き出すのだった。
念のため確認しておくべきことを、デスクの周りを捜索しながら訊ねる。
「まだPCに保存してなかったんだよね?」
幸か不幸か、編集長は夕方の締切まで不在で、他の編集者たちも時間に追われてそれどころではなさそうだった。
「はい。その前に紛失しちゃって」
「じゃあ、届いたところから順に追ってみよう」
まずは総務部。郵便物等が届くのは全てここ。バイク便も例外ではない。そして、そこから担当者によって各部署に振り分けられ、『千の選択』編集部へとやってくる。
「ここに届いた時にはありました。私が宛先ごとに振り分けて、それぞれのデスクに置いたので」
「そう。それは何時頃?」
「えっと……1時頃です」
「じゃあ、そこから宮本さんはどうしたの?」
「えっ?」
「今は2時半だよね。すぐに開けた?」
「………………」
「正直に言ってくれるかな?」
「……ご飯に、行きました」
七緒はため息を吐きたい気分をぐっと堪えた。
貴重品をデスクに置いたまま、しかも締切が迫っているのに──。
確かに昼ご飯を抜けとは言わないし、食べに行くのが悪いということではない。
ただ、自分だったらと考えた時に、それはあり得ない行動だった。
「戻ってきたのは?」
「2時ちょっと前です」
「……それで? 紛失に気づいたのはいつ?」
「戻ってきてすぐです、やらなきゃって思ってデスクを見たらもうなくて」
「持ち出してはいないんだね?」
データの持ち出しはメールでのやり取り以上に、厳しく管理されている。とはいえ、毎日外出する度に荷物検査があるわけではなし、やろうと思えばできてしまうのもまた事実である。
「はい」
真っ直ぐ目を見て答えたため、嘘ではない。
だとしたら、おそらくバイク便の封筒に入ったままだろう。中身はSDカードだから、おそらく何重にもなっていて厚みはそこそこある。ただし、軽いし、大きくはない。
──つまり。
その時、ドサドサドサッと大きな音が聞こえた。
チラリと見るとどこかのデスクの積み重なった資料が崩れた音だった。
そう、ちょうどあんなふうに。
「ゴミ箱、宮本さん、ゴミ箱は?」
「えっと、ここです……」
指差したゴミ箱の中身は──。
「ない」
空だった。
七緒は走り出した。
掃除のおばちゃんは、毎日郵便が届いた後くらいにゴミを回収する。郵便物は嵩張る封筒や厚紙が多いから、特に編集部のゴミ箱はすぐにいっぱいになってしまう。
たとえゴミ回収が終わってしまっていても、まだこの社内にはあるはずだ。
スーツのジャケットを翻し廊下を走る七緒を、すれ違う人たちが珍しそうに振り返る。
確か清掃員は普段、階段を使っている。
ここは3階。社内には他の編集部もあるので、そのどこかにいるはずだ。いや、いてくれないと困る。
他部署を駆け回りつつ、見つけたのは30分後のことだった。
時刻は午後3時半。まだ間に合う。
「すみません、3階の編集部の者ですけど、回収したゴミを確認したくて──」
息も絶え絶えに言うと、おばちゃんは申し訳なさそうに答えた。
「あら、ごめんなさい。3階のゴミはもう下までいっちゃってるのよ」
「え……」
ここは5階。その『下』というのは当然1階である。
七緒は来た道を戻り、エレベーターを待つ時間も惜しく、階段で1階まで降りた。
その間、七緒についてくる素振りもなかった宮本を電話で呼び出す。
1階に着くと、涼しい顔をしてエレベーターから降りてくる宮本と一緒になった。
2人で回収されたゴミを一時保管する広い部屋に入る。そこには、どこからこんなゴミが出ているのか疑うほどのゴミの山があった。
あと2時間弱。七緒は必死にスーツが汚れるのも気にせず探した。隣の宮本はスカートやら自分のネイルに彩れた手やらを気にしながら、ゴミを選んで端によけている。
宮本への苛立ちや怒りよりも、カメラマンの気持ちのほうがこの時の七緒には重要だった。
ただでさえ、編集部に対して不信感を募らせているところだ。これ以上、彼に嫌な思いはさせたくない。
それに、千春に対しても同じである。
このまま見つからなかった場合、千春の写真に頼らざるを得なくなる。彼個人には無関係の事情に巻き込んだ上、おそらく直接的な怒りを買うのも彼だ。それはできることなら避けたい。
「…………くそっ、ない…………」
「ないですね……」
哀しそうな顔をしているものの、宮本は相変わらずまるで他人事で、謝る素振りさえ見せない。七緒に謝ったところで何も解決しないのではあるが、彼女の場合は『悪いことをしたという意識がない』のだと思う。
残り2時間を切った。
清掃車が来るタイミングではないので、少なくともこの社内から外には出ていないと考えられるが、果たして次はどこを探せば良いものか──。
「あっ!」
途方に暮れる七緒の横で、宮本が大きな声を上げた。
「なに?」
「思い出しました!」
「何を!?」
急かしたい気持ちを抑えて、七緒は勢い込んで訊ねる。
「そういえば、日下部さん宛の荷物も一緒に入れるって!」
「……日下部さんって誰!?」
「わかりません!」
「………………」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。七緒は編集部のデスクに電話をかける。
出た人間に、社内に日下部なる人物がいるか訊くと、5階の専門誌編集部に一人いるという。
この編集社では旅雑誌の他に、マイナーな専門誌をいくつか扱っているのだが、件のカメラマンはどちらかといえばそちらの専門誌を主に担当していて、旅雑誌はその伝手で時折手伝ってもらっているのだと編集長から聞いたことがあった。
つまり、ここで失敗すれば専門誌編集部にも迷惑をかける、ひいてはこの社全体の問題にもなりかねない。
七緒は走った。また5階まで。
エレベーターのほうが早いですよ、という宮本の声はもはや聞こえていない。
エレベーターの中でじっとしている時間のほうが勿体なく思えた。
5階、日下部何某はデスクに座っていた。歳の頃は宮本とそう変わらない女性である。
「あなたが、日下部さん?」
「はい」
「3階の風月と言います。うちの宮本宛に届いた荷物見せて欲しいんですが」
「あぁそれなら、さっき清掃員さんが……」
七緒は来た道を引き返した。
1階まで降りなければならないことを覚悟したが、幸いなことに3階手前の踊り場で捕まえた。
「ゴミ? まだ探してたのね。どうぞ、ほらゆっくり見て」
ゆっくり見ている余裕はなかったが、バイク便の封筒はすぐに見つかった。ただし中身は入っていない。結局、ゴミを全て出して1番底のほうに厚く包まれたSDカードを発見した。
「すみません、後で片付けますから!」
「いいわよ、別に」
「いえ、下も散らかしたままなので!」
七緒はそれだけ言うと、3階に戻り、なぜかデスクに所在なく座っている宮本に手渡した。
「…………もう、自分でできるよね?」
有無を言わせぬ口調で、七緒は宮本を見つめた。
瞬間、はっとした顔をした宮本だったが、こくんと頷き、作業を始めた。
七緒は途端に暑くなって上着を脱ぐ。
千春に連絡をし、直帰するよう伝えた。
戻ってきたところで、もう話し合いどころではないだろう。
──結果、締切までわずか15分のところで、ようやく全ての原稿が完成し、事なきを得た。
踊り場で散らかしてしまったゴミはおばちゃんが気を利かせて片付けてくれていたが、下のゴミは遠慮されつつも七緒の気が済まなかったので一緒に片付けることにした。
そして、その日、七緒はずっと不在だった編集長に一部始終を伝えた。
編集長はなんだかんだと理由をつけて宮本への叱責は避けているようで、埒が開かないと感じた七緒は直接、宮本に向き合った。
「宮本さん。今回のこと、謝りに行こう」
「えっ……」
せっかくカメラマンに紛失のことは知られず解決できたのに? という疑問が、顔にそのまま表れていた。
「バレなきゃいい──そういう問題じゃないんだよ?」
「だって、急に決まったことだし、それに、バイク便だって、封筒ごと何も言わずに持って行くなんて……!!!」
宮本はわっと泣き出した。
不本意に当事者扱いされたことが納得いかないのだろう。
それでも、七緒にとっても譲れなかった。
「確かに、打ち合わせのことも、今回の紛失のことも、君だけのせいじゃないかもしれない。でも、君にも一因がある。そのことはわかるよね?」
「でも、なんで私だけが謝らなきゃならないんですか……」
「……それはカメラマンさんも同じだよね。彼はこっちの都合で急な依頼になっても、ちゃんと応えてくれたよね。限られた時間でも素敵な写真を撮ってくれたよね。カメラマンさんだけが大変な思いをしているわけじゃないけど、彼の身になれば自分だけが蔑ろにされていると感じても仕方なかったと思うよ。どんな環境でもプロの仕事をしてくれる人に、敬意と感謝は絶対忘れちゃいけない。それはわかるね?」
宮本はこくりと頷く。
パワハラだなんだと昨今は、新人教育にも配慮がいる。理不尽な理由で、ただ感情のままにぶつけるのはよくない。けれど、『怒る』と『叱る』は違う。
失敗は誰にでもある。失敗したことそれ自体より重要なのは、その失敗をどう受け止めるかだ。
彼女はこのままならずっと他人事で、きっと反省すらしないだろう。
それは彼女自身にとっても、編集部や会社全体にとっても今後、一切の利はない。
「謝るという行為に納得がいかないなら、お礼を言いに行こう。締切間際になってもきちんと予定通りに届けてくれたこと、SDカードを厳重に包んでくれたおかげで紛失しても見つけやすかったこと、そして破損していなかったこと。他にもたくさんあるよね。僕も一緒に行くけど、ちゃんと君の言葉で伝えるんだよ。そうしたらきっと、わかってくれる。──いや、わかってくれることを期待しちゃいけないんだけど」
この微妙な感覚をどう伝えればいいのか考えあぐねた結果、七緒は「あの人なら僕はわかってくれると思う、よ」と笑った。
「……ふふ、ずるい言い方」
宮本もくすくすと笑みを溢しながら、置いてあった鞄と背もたれの上着を手に取り、立ち上がる。
涙に濡れた瞳は、光を反射してキラキラと輝き、さっきまで泣いていたとは思えないほど、いい表情をしていた。
嘘泣きまでしてずるいのは君だろう──などとは流石に言えるはずもなかったが、七緒にはなぜかその横顔がほんの少し凛としたように見える。
「物はいいようって言うしね」
「SDカードの紛失のこと言わなきゃダメって言ったわりに、その言い方だと有耶無耶にしてません?」
「だから、物はいいようなんだよ。嘘はついていないし、相手にとっても気持ちいいほうがいいからね」
そう言って2人がフロアを出ようとした時、急に前を歩いていた宮本が立ち止まり、勢いよく七緒を振り返って、その勢いのまま頭を下げた。
「風月さん、ありがとうございました!」
その声はフロア中に響き、なぜか七緒のほうが焦ってしまう。
「い、いや……別に、その……」
この状況だけを見たら、七緒が無理やり謝らせているようにも見えるが、まぁ彼女の意思であることはその声音から伝わるだろうと七緒はあえて高を括ることにした。
その日、遅くなった訪問にも関わらず、カメラマンは2人を家に上げ、お茶まで用意してくれた。
宮本は吹っ切れたようにスラスラと状況を説明し、七緒の『自分の言葉で』という助言が効いたのか、ありのままを述べ、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。ご無礼をお許しください……って、あ、いや、許してくださいっていうのは烏滸がましいですよね……」
余計なことまで口走るのは玉に瑕だが、まぁ上々だろう。七緒は引き攣りそうになった笑みをなんとか崩さず、必要以上の口を挟むことなく済んだ。
「……正直に言えば、君の対応には腹が立ったよ。急いでるからなんだ、って。こっちだって、手間暇かけてやってんだ、ってな」
少し怖い顔を作って彼は言う。
けれどすぐにはにかんだように、頬を緩めた。
「……でも、数ヶ月前、初めて俺の写真を見た時、君は『綺麗! すごい! 美しい!』って素直に言ってくれた。俺はそれを今でも覚えててね。たとえそれが社交辞令であったとしても、フリーのカメラマンとして契約して数年、俺の写真が雑誌に載るのが当たり前と思っていたし、載せるのが当たり前とあんたたちも思ってるんだろうと俺にはそう見えていたから、なんか新鮮だったんだよ。まだこんなふうに言ってくれる人がいるんだってな。ありがとう、宮本さん」
「えっ!?」
まさか逆にお礼を言われるとは思っていなかったのか、紛失の真実を伝えた時より慌てふためいてしまった宮本を見て、七緒も思わず笑ってしまった。
結果的に、『自分が信用されていない』というのは、彼女自身にそう思われる心当たりがあったからで、カメラマンの彼には(おそらく)そういう意図はなかった。人間関係というものは、面と向かって話したとしても難しいものだと、妙に実感してしまう出来事だった。
彼の自宅を出ると、宮本共々、直帰する旨を編集長に伝え、七緒は帰路を辿った。
その道中に、千春に連絡を入れる。
もう出発は来週の月曜日に迫ってしまった。
後戻りはできない。立ちすくんでもいられない。
腹を括って挑むしかない──。
「あ、千春くん? 今日はごめんね。来週の簡単なタイムテーブルと、持ち物や宿泊施設なんかは後でメッセージで送るけど、これだけはちゃんと伝えておかなきゃと思って」
「……なんですか?」
「試験で君が言ったこと、それから、今のご家族と過ごす時間や、君の街のこと。ちゃんと覚えておいてね。きっと帰ってきたら、全然違う景色になると思うから──」
疑問符を浮かべながら返事をした千春の声を満足げに聞いて、七緒は通話を切った。
試験の時、彼はこう言った。
『僕の知らない日常がそこには当たり前にあって、そこにいる全ての人たちが幸せそう……いや、幸せであればいいなと思ったから』
当たり前というのが決して当たり前でないことを知るのは、当たり前がないと気がついた時だ。
意識して見えるものではないけれど、意識すれば簡単に見えることでもある。
彼にはちゃんとそのことを知っていて欲しい。
七緒は後で千春に送る内容を今一度メモしてから、当たり前に存在している家への道を、ゆっくりと歩き出すのだった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
アタル
桐野 時阿
ミステリー
自称、全国一の進学率を大々的に掲げる私立、教徳高校。
文武両道、泰然自若を校訓とし、国内全ての学校、生徒の模範として君臨していた。
その、国を代表する教徳高校のトップ、17歳にして絶対君主・藤間中流は、自らの理想を校内に敷き、思うがままに学校を作り上げていた。
生徒も教員も校長も教育委員会すらも力の及ばない彼を、人は「神の高校生」と陰で呼び、崇拝と畏敬を以て他者の干渉を悉く禁じていた。
しかし、彼の威厳が損なわれ、日本の歯車が狂った時、人々は深淵に潜む怪物を目の当たりにする。
果たして、彼は人か、神か……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる