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超えられない壁

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
 外もずいぶん暖かくなって来て、もう春もすぐそこ。
 新生活に向けて着々と準備を進めている、あるいは準備も終わってのんびりしているという方も多いことでしょう。
 私はと言えば特に変わりはありません。が、春といえば進学就職、そして異動の時期だなぁと思います。
 以前は警察署の近くで働いていたこともあったので、この時期になると、顔ぶれががらりと変わったりして、そういえば春だなぁと逆説的に感じることもしばしば。
 警察官といえば、私にはもう一つ思い入れというか、個人的な感情があって。きっかけは、ミステリ作品を描くにあたって、興味を持って調べたこと。ミステリには探偵同様、警察官というのは切っても切れない関係ですからね。
 その過程で、いざ自分が警察官になろうと思うとなんと高すぎる壁があることを知りました。実際、私が警察官を目指したことはない──というか目指せるだけの能力がないので、最初から選択肢になかったわけですが、警察官になる為、公務員になる為の能力云々とは別に、なんと私は警察官になる為の条件が満たされていないんです。
 というのも、警察官になる為の条件の一つとして、「女性警察官は身長155センチ以上が望ましい」とされています。私は5センチ以上足りません。あくまで「望ましい」ですから「不可能」ではないのでしょう。でも、同等の能力を持った人なら、必ず自分より身長の高い人が選ばれるわけで、たとえ、その人より高い能力や成績を持っていても、実際に選ばれるとは限りませんよね。
 私はともかく、知人に「警察官になりたくて学生時代に剣道を始めた」という人がいます。けれど彼女は私よりも背が低く、ある時ふと例の条件の話になりました。聞くと、彼女もそれで断念したようでした。
 能力や成績は努力で伸ばせるかもしれません。でも、身長なんて努力や頑張りで伸びるものではありません。そんな自分自身でどうにもできないことを条件にされたら不公平だと思ってしまいますよね。
 実は、低身長の人が選べない職業にはCAもあります。例によって私は目指すことすらありませんでしたが、身長145センチの人がCAを志して、英語をはじめとする外国語を勉強して、所作や言葉遣いなどに気をつけて、その他諸々の努力をしたとしても、きっと断念せざるを得ないのでしょう。
 よしんば試験まで漕ぎ着けたとしても、落とされる可能性が高いと思います。理由は公表されないでしょうが、おそらく身長はネックなはず。
 警察官にしろCAにしろ、低身長の人に選ぶ権利、志すチャンスすら与えられないのは、不公平不平等にも思えます。
 でも、じゃあ考えてみましょう。なぜ低身長ではいけないのか。これが正解ではないのかもしれませんが、想像することはできますよね。
 まず、警察官はどの部署に配属されたとしても、市民を守ること、そして凶悪犯と対峙する可能性があることを考慮に入れなければいけません。
 ですが、その凶悪犯が身長180センチ190センチの大柄な男だったら、どうしましょう。たとえ立ち向かったとしても、赤子の手をひねるかのように無力化されてしまうかもしれません。身長が高ければ必ずしも勝てるわけではないでしょう。それでも、低身長であればあるほど、勝てる可能性は低くなる。
 守らなければならないほとんどの市民が、自分より身長が高いのです。そんな中、自分も市民も守れなかった場合、警察官として足手纏いになりますよね。あってはならないことですが、万が一にも市民を守れなかった場合、その責任を負わなければならない事態に直面します。でも、失ったものが命だったり、体の一部だったりしたら。多くの人々の恐怖による心の喪失に繋がるとしたら──。
 こんなに恐ろしいことはありません。
 きっと警察官として未来に関わる多くの市民の安全の為、ひいては私の為に、重要な線引きなのでしょうね。
 そして、CA。こちらはもっとわかりやすく、上の荷物棚に手が届かないといけないのです。それはそうですよね。よく飛行機が離陸する前に、CAさんが荷物棚に手を伸ばしてしっかり確認している様子を見ます。
 飛行中に中の荷物が飛び出て、お客様に怪我をさせない為でしょう。
 低身長でその棚に手が届かないと、閉まっているかの確認も曖昧になり、お客様の大怪我に繋がる可能性もある。先ほどと同じ。お客様を守る為、ひいては怪我をさせたことで取れもしない責任を一生負わなければならない自分を守る為でもあります。
 努力や頑張りでどうにかなる仕事内容ではありません。
 ですから、努力や頑張りでどうにもならない身長制限というのは、ある種正当で妥当だと思うのです。
 能力や成績は人それぞれ、個性があって千差万別。一概に「適性なし」と判断することは困難でしょう。
 けれど、低身長というステータスは、ある境界線を作り、それ以下は篩にかけることで、一定の水準をキープできます。
 志という面でいうなら、高身長のAさんと低身長のBさんのうち、Bさんのほうが圧倒的に高かったとしても、志が高ければ高いほど、理想と現実のギャップに苦しまなければならないのもおそらくBさんです。
 どれだけ志が高くても、結局はそれが行使されなければ意味がありません。それが叶わないかもしれないと思えば、大きなショックを受ける前に振るい落とされたほうが幸せなのかもしれませんね。
 警察官を目指した低身長の知人は、他にもきのこ栽培の職も低身長で断られたと言います。なんで?と思いますが、高いところの収穫を人並み以上にできないと雇用するメリットが少ないのでしょう。特別な技術を必要としないことを前提とすれば、低身長の人より平均以上の身長の人を雇用したほうが効率もいいし、少なくとも仕事量の違いでお互いに嫌な気持ちになることもありません。
 最初が肝心とはよく言ったもので、『できないことはできない』といっそはっきり伝えてくれたほうが、納得はできなくても、ある程度の諦めはつきます。未来のデメリットや損失を考えれば、正当あるいは妥当だと受け入れることもできますね。
 私は低身長をそれほど恨んだことはありませんが、もうちょっと身長があったらなぁと思うことはやっぱりあります。
 それでも、私にしかわからないその感情を他人にもわかって欲しいとは思いませんし、きっとそうやって誰もが自分の身体的特徴──個性と言い換えてもいいかもしれません──と、向き合っていることと思います。
 自分の身長に嫌気がさしたとき、以前、フィクションの中に登場する車椅子を使う男性に、ある人が言っていた言葉を思い出します。「それがお前だろう」──。
 そうなんですよね。どんなに嫌になって、嫌いになっても、『背が低い私』を変えることはできません。悲しいかな、世の中にはどんなに頑張っても、どんなに願っても、変えられないことがあります。あえて壮大な言い方をすれば、それは『運命』であり、『宿命』であるかもしれません。
 そろそろお別れの時間です。
 ヒールや厚底でどれだけ取り繕っても、どれだけ背伸びをしても、結局は『自分は自分』でしかありません。私はおしゃれも好きだし、ヒールも底の厚い靴も、背伸びしてでも身につけたいと思いますが、でもできるなら等身大の私もずっと好きでいたいし、本当に愛する人にはその等身大の私こそ好きになって欲しいとも思います。
 警察官やCAになる為には、低身長という超えられない壁が存在していて、それを不公平だ不平等だと声高に叫ぶことはいとも簡単です。
 それでも、私自身や未来に関わる全ての人の幸せを願うのなら、「そうだよね」って受け入れることも必要でしょう。
 『低身長だからダメ』なのではなく、『多くの人を危険に晒す可能性が高くなるからダメ』なのだと、理由をきちんと理解あるいは納得すれば、自分自身を許せる、そしてゆくゆくは愛せるようになると私は信じています。
 時には我慢や辛抱もあるでしょう。叫び出したくなるくらい、我慢できそうにない時だってあります。でも、そんな部分も含めて『これが自分』なのだと心の底から思えた時、その時こそ、自分の生きる世界がとても広かったことを感じる瞬間です。そして、私自身や、周りの全ての人々をより愛せるようになる瞬間でもあると思います。
 この世界に生きる多くの人が、今まさに近づいてきた春のように、あたたかな日々を過ごせますように──。
 また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。



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