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満月のしらべ
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さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
つい先日は満月でしたが、皆さんは見ましたか? 写真に撮ったというか方もいらっしゃるかもしれませんね。
都会にいるとなかなか空を見上げないものですが──というより、空を見上げても地上から天に向かって伸びるネオンのほうが強く感じられて、あまり風情や情緒といった雰囲気はないものですが、満月というのは驚くほど静かですよね。
私は雲の隙間、満月の周囲だけがなぜか晴れていて、まんまるいお月さまだけがひっそり佇む光景を、何度か地元で目にしたことがあります。
まるで月が「私を見なさい」とでも言うように、雲たちが月を隠すなんてとても烏滸がましいとでも言うように、ぽっかりと開けた空白に、満月が鎮座する様子はなんだか吸い込まれていってしまいそうになります。
ファンタジーのような言い回しですが、今度はもっと古風に言いましょう。青白く、空白という静寂に守られつつ、何者にも支配されないその姿は、『静謐』という言葉が自然と浮かんでくるほどに美しく感じられます。
不思議ですよね。宇宙規模であんなに遠くにあるものから音など聞こえるはずがないのに、そもそも『静か』という表現すら当てはまらないはずなのに、私たちは『太陽』を眩しく強く感じ、『月』を美しく儚く感じる。
基準はなんでしょうね、強いて言うなら『光の強さ』でしょうか。
私は眩しいとくしゃみが出るので、月あかりくらい淡い光のほうが助かるのですが、日本の地理で言えば、太陽のない日はそれでも多少明るく、月のない日は漆黒の闇をもたらします。
明かりがないと怖いという方もいるでしょう。
だから夜は好きじゃないという人もいるかもしれません。中にはそんな理由でなくとも夜中ずっと電気をつけているという方だっているでしょう。
急な強い光──雷を怖いと感じるのと同じで、停電などで急に光が消えてしまうのも恐ろしいものです。お風呂や部屋でひとりきりの時には、思わず叫んでしまうくらいに。
特に私たちの日常は光という光に溢れています。スマホだってパソコンだって、家や職場の電灯だって、テレビもゲーム機器も全て光を放ちます。光のない一日なんて想像もできません。
それでも光のない世界で精一杯生きている人もいます。物理的にももちろんですが、もしかしたら精神的にそういう方だって少なくないかもしれません。
満月というのは潮の満ち引きにも関係していて、人々の精神にも密接に関わっているとよく聞きます。私は専門家ではないので、難しいことはわかりませんが、ふと満月の綺麗な夜に思い出にと写真を撮ろうとすると、画面を通した満月ってぼやぁっとしていて、案外綺麗じゃないんですよね。
まぁそれは私の撮り方がただ下手なだけかもしれませんが、あんなにはっきりと見えていた月光が急に霞んで仄暗く見えてしまう。でも、画面から目を離して直接見ると、やっぱりそこには孤高の月が輝いていて──。
「記録より記憶に残せ」とはよく言ったもので、直接向き合わなければ、その輝きもそしてその儚さもうまく伝わらない。
月が人の心の動きと関係しているというのなら、とりもなおさず人の心と「ちゃんと向き合え」ということなのでしょう。きっとそれは自分自身の心も同じ。下を向いて目を背けてばかりでは何も進まない。そんな日も人生にはもちろん必要ですが、上を向いて、前を向いて、そして自分の中の淡い光と向き合ってはじめて、あぁ本当はこんなに明るかったんだと気がつく。
お月さまの言い伝えと言えば、かぐや姫や餅をつくうさぎなどが有名ですが、どちらも実は哀しく、けれど同じくらい幸せの祈りが込められたお話なんですよね。
日々生きていて、辛く苦しく、今日はいいこと何もなかったわと感じる日も人生には少なくありません。ひとりで泣きたい日もある、愛する人にそばにいて欲しいと願う日もある。
それはきっと誰もが心の底から幸せを信じたいからだと思うんです。
『明日は明日の風が吹く』、『必ず夜は明ける』、そんなふうに言いますね。哀しいことも辛いことも、長くは続かない。裏を返せば、朝が来れば必ず夜も来るのです。きっと幸せなことも、どんなに心から強く願ったとしても、残念ながら永遠には続かないものなのでしょう。
でも、私たちはできるだけ長く、できるだけ多く幸せでありたくて、誰もが足掻いてもがきながら日々を生きています。
自分の幸せより、大切な誰かの幸せを優先する人もいるでしょう。それも一つの生き方です。
たとえ新月の真っ暗な夜でも、月が存在していないわけではありません。遥か遠く、今は見えないけれど、月そのものは私たちの目の前にあるのです。
今は届かない幸せも、月に祈って、いえ月と共に祈っていれば、きっとまた姿を現してくれる。
月と太陽、陰と陽などと言われますが、幸せな日を待つ時間だってそれほど悪くはないと思えれば、それこそ幸せなんだろうと思います。
だって、それなら一日中、いえ一生幸せを感じて生きていられるではないですか。
もちろん人生そううまくはいきませんが、少しでも生きててよかったと思える時間が長いと素敵ですよね。
さて、そろそろお別れの時間です。
皆さんは食事や風景、ペットにイベント、写真をたくさん撮る派ですか? 私はよく言えば記憶に残すタイプで、悪く言えば頓着がない人間なので、写真フォルダにはあまり自分で撮った写真がありません。
私自身、写真に写るのが好きではないという性格もあるでしょう。でも、より大きな理由は、さっきも言ったように、『写真で見るほうが綺麗じゃないから』です。だって人間の五感のうち、写真で補えるのは視覚だけです。自分の目で確かめて、自分の耳で聴いて、味も感触もにおいもその場にいるこの瞬間でしか味わえない。
私は同時にいくつもの物事に集中できるほど器用ではないので、写真に集中すると、自分の五感が疎かになってしまう気がするんです。だったら、今この瞬間、自分が感じる全てで心を満たそうと考える。自分自身で記録に残せなくても、時間が経てば忘れてしまっても、印象深い出来事というのはふとした瞬間に思い出すものです。
現代は写真で物を検索できたり、鼻歌で気になる音楽を調べたり、言葉では説明できない曖昧な心のモヤモヤまで解決できてしまう世の中ですが、私はそういうモヤモヤまで「これが今の私よね」などとポジティブに考えて、答えが出せる日が来るまで、もしくは偶然答えに出会えるまでそのまま放っておいてしまうたちです。それが良いか悪いかわかりませんが、後になってから「あぁ、あのタイミングでこんな出来事に出会えたのは実は運命だったのかもしれないな」なんて感傷に浸ることもあります。
きっと、その運命に手が届くうちに答えを見つけられるほうが幸せなのでしょう。でも、それを逃すのもまた運命なんだと受け入れ、本当の手が届く運命は他にあるのだと、これから先必ずあるはずだと、そう信じるのはあまりにもご都合主義でしょうか。おめでたい人だと笑われてしまうかもしれませんね。
でも、誰かを不幸にするより、誰かを傷つけるよりなら、そのほうがいくらかマシなのかもしれないなと思ってしまう私は、やっぱり誰かと生きることには向いていないのかもしれません。
昔の写真というと、坂本龍馬が思い浮かびますが、カメラやスマホと機器がどんどん新しくなっても廃れないものですから、それほど画期的で恒常的なツールなのでしょう。
家族の思い出、恋人との軌跡、そして人生の宝物ですね。たくさん集まれば、一つ一つはどんなに小さくても壮観に感じるもの。
人の思いだって幸せだって同じです。
写真と同じように、月の光と似ているように、一つ一つは小さく淡い光でも、たくさん集まれば強く眩しい光にもなれる。
そんな愛と力強さに満ちた世界がいつの日か見られるといいですね。
では、また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。
つい先日は満月でしたが、皆さんは見ましたか? 写真に撮ったというか方もいらっしゃるかもしれませんね。
都会にいるとなかなか空を見上げないものですが──というより、空を見上げても地上から天に向かって伸びるネオンのほうが強く感じられて、あまり風情や情緒といった雰囲気はないものですが、満月というのは驚くほど静かですよね。
私は雲の隙間、満月の周囲だけがなぜか晴れていて、まんまるいお月さまだけがひっそり佇む光景を、何度か地元で目にしたことがあります。
まるで月が「私を見なさい」とでも言うように、雲たちが月を隠すなんてとても烏滸がましいとでも言うように、ぽっかりと開けた空白に、満月が鎮座する様子はなんだか吸い込まれていってしまいそうになります。
ファンタジーのような言い回しですが、今度はもっと古風に言いましょう。青白く、空白という静寂に守られつつ、何者にも支配されないその姿は、『静謐』という言葉が自然と浮かんでくるほどに美しく感じられます。
不思議ですよね。宇宙規模であんなに遠くにあるものから音など聞こえるはずがないのに、そもそも『静か』という表現すら当てはまらないはずなのに、私たちは『太陽』を眩しく強く感じ、『月』を美しく儚く感じる。
基準はなんでしょうね、強いて言うなら『光の強さ』でしょうか。
私は眩しいとくしゃみが出るので、月あかりくらい淡い光のほうが助かるのですが、日本の地理で言えば、太陽のない日はそれでも多少明るく、月のない日は漆黒の闇をもたらします。
明かりがないと怖いという方もいるでしょう。
だから夜は好きじゃないという人もいるかもしれません。中にはそんな理由でなくとも夜中ずっと電気をつけているという方だっているでしょう。
急な強い光──雷を怖いと感じるのと同じで、停電などで急に光が消えてしまうのも恐ろしいものです。お風呂や部屋でひとりきりの時には、思わず叫んでしまうくらいに。
特に私たちの日常は光という光に溢れています。スマホだってパソコンだって、家や職場の電灯だって、テレビもゲーム機器も全て光を放ちます。光のない一日なんて想像もできません。
それでも光のない世界で精一杯生きている人もいます。物理的にももちろんですが、もしかしたら精神的にそういう方だって少なくないかもしれません。
満月というのは潮の満ち引きにも関係していて、人々の精神にも密接に関わっているとよく聞きます。私は専門家ではないので、難しいことはわかりませんが、ふと満月の綺麗な夜に思い出にと写真を撮ろうとすると、画面を通した満月ってぼやぁっとしていて、案外綺麗じゃないんですよね。
まぁそれは私の撮り方がただ下手なだけかもしれませんが、あんなにはっきりと見えていた月光が急に霞んで仄暗く見えてしまう。でも、画面から目を離して直接見ると、やっぱりそこには孤高の月が輝いていて──。
「記録より記憶に残せ」とはよく言ったもので、直接向き合わなければ、その輝きもそしてその儚さもうまく伝わらない。
月が人の心の動きと関係しているというのなら、とりもなおさず人の心と「ちゃんと向き合え」ということなのでしょう。きっとそれは自分自身の心も同じ。下を向いて目を背けてばかりでは何も進まない。そんな日も人生にはもちろん必要ですが、上を向いて、前を向いて、そして自分の中の淡い光と向き合ってはじめて、あぁ本当はこんなに明るかったんだと気がつく。
お月さまの言い伝えと言えば、かぐや姫や餅をつくうさぎなどが有名ですが、どちらも実は哀しく、けれど同じくらい幸せの祈りが込められたお話なんですよね。
日々生きていて、辛く苦しく、今日はいいこと何もなかったわと感じる日も人生には少なくありません。ひとりで泣きたい日もある、愛する人にそばにいて欲しいと願う日もある。
それはきっと誰もが心の底から幸せを信じたいからだと思うんです。
『明日は明日の風が吹く』、『必ず夜は明ける』、そんなふうに言いますね。哀しいことも辛いことも、長くは続かない。裏を返せば、朝が来れば必ず夜も来るのです。きっと幸せなことも、どんなに心から強く願ったとしても、残念ながら永遠には続かないものなのでしょう。
でも、私たちはできるだけ長く、できるだけ多く幸せでありたくて、誰もが足掻いてもがきながら日々を生きています。
自分の幸せより、大切な誰かの幸せを優先する人もいるでしょう。それも一つの生き方です。
たとえ新月の真っ暗な夜でも、月が存在していないわけではありません。遥か遠く、今は見えないけれど、月そのものは私たちの目の前にあるのです。
今は届かない幸せも、月に祈って、いえ月と共に祈っていれば、きっとまた姿を現してくれる。
月と太陽、陰と陽などと言われますが、幸せな日を待つ時間だってそれほど悪くはないと思えれば、それこそ幸せなんだろうと思います。
だって、それなら一日中、いえ一生幸せを感じて生きていられるではないですか。
もちろん人生そううまくはいきませんが、少しでも生きててよかったと思える時間が長いと素敵ですよね。
さて、そろそろお別れの時間です。
皆さんは食事や風景、ペットにイベント、写真をたくさん撮る派ですか? 私はよく言えば記憶に残すタイプで、悪く言えば頓着がない人間なので、写真フォルダにはあまり自分で撮った写真がありません。
私自身、写真に写るのが好きではないという性格もあるでしょう。でも、より大きな理由は、さっきも言ったように、『写真で見るほうが綺麗じゃないから』です。だって人間の五感のうち、写真で補えるのは視覚だけです。自分の目で確かめて、自分の耳で聴いて、味も感触もにおいもその場にいるこの瞬間でしか味わえない。
私は同時にいくつもの物事に集中できるほど器用ではないので、写真に集中すると、自分の五感が疎かになってしまう気がするんです。だったら、今この瞬間、自分が感じる全てで心を満たそうと考える。自分自身で記録に残せなくても、時間が経てば忘れてしまっても、印象深い出来事というのはふとした瞬間に思い出すものです。
現代は写真で物を検索できたり、鼻歌で気になる音楽を調べたり、言葉では説明できない曖昧な心のモヤモヤまで解決できてしまう世の中ですが、私はそういうモヤモヤまで「これが今の私よね」などとポジティブに考えて、答えが出せる日が来るまで、もしくは偶然答えに出会えるまでそのまま放っておいてしまうたちです。それが良いか悪いかわかりませんが、後になってから「あぁ、あのタイミングでこんな出来事に出会えたのは実は運命だったのかもしれないな」なんて感傷に浸ることもあります。
きっと、その運命に手が届くうちに答えを見つけられるほうが幸せなのでしょう。でも、それを逃すのもまた運命なんだと受け入れ、本当の手が届く運命は他にあるのだと、これから先必ずあるはずだと、そう信じるのはあまりにもご都合主義でしょうか。おめでたい人だと笑われてしまうかもしれませんね。
でも、誰かを不幸にするより、誰かを傷つけるよりなら、そのほうがいくらかマシなのかもしれないなと思ってしまう私は、やっぱり誰かと生きることには向いていないのかもしれません。
昔の写真というと、坂本龍馬が思い浮かびますが、カメラやスマホと機器がどんどん新しくなっても廃れないものですから、それほど画期的で恒常的なツールなのでしょう。
家族の思い出、恋人との軌跡、そして人生の宝物ですね。たくさん集まれば、一つ一つはどんなに小さくても壮観に感じるもの。
人の思いだって幸せだって同じです。
写真と同じように、月の光と似ているように、一つ一つは小さく淡い光でも、たくさん集まれば強く眩しい光にもなれる。
そんな愛と力強さに満ちた世界がいつの日か見られるといいですね。
では、また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。
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