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ひれ伏せ文化

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
 休日なのに買い物して帰宅が遅くなっちゃった、空も部屋も真っ暗で、ついでに息も白いほどに冷えている。そんな時は熱いシャワーを浴びて肩まで湯船に浸かって、全身の疲れを癒したいですよね。
 休日の過ごし方は人それぞれかと思います。土日祝日が必ずしもお休みでない方も多いはず。私はある程度時間の自由がききますが、オンとオフははっきりしたいタイプなので、何もしない日──実際にはゲームや読書や映画鑑賞などなど趣味の時間に費やす日を作るのですが、まずその為には『一日部屋を出ない準備』というものをします。
 男性の方がどれくらいいらっしゃるかわかりませんが、私のラジオを聴く際は、『女性はショッピングやデートに出かけるもの』という固定概念を早々に捨ててくださいね。無駄に失望しますから。
 それは冗談としても、私の経験則上、そういう女性も決して少なくはないと思うのですが、いかがでしょう?
 まぁ性別や年齢に限らず、一人で自由きままに過ごす方もいれば、ご家族やご友人、恋人と過ごしたいわという方も同じくらい多いことと思います。
 私は一人でいる時間も一日の中に少しはないと、しんどいと感じます。一人暮らしも長くなると、相手が誰であっても『人がいる』空間というのが苦痛になるのもよく聞く話です。逆に『周りに人がいないと怖い』という方もいるかもしれませんね。賑やかなほうが好きという方ももちろんたくさんいるでしょう。
 以前にも話したことがあるかもしれませんが、私の理想の結婚──まぁ結婚でなくても良いです、友人や家族でも同じで、『沈黙が苦にならない人』と一緒に暮らしたいのです。同じ空間にいても、違うことをしていられるような。お互いを尊重するような関係に憧れますね。そんなの当たり前じゃんと思われるでしょうが、例えば誰とも話したくない時、自分がイライラしているなと感じる時、もっと言えば喧嘩している時──。落ち着いてくれば、相手の気持ちを考えられるようにもなりますが、一方的にこちらだけが感情的になっていると、交渉も謝罪も決裂するもの。そんな時に、私はただそっと見守っていて欲しいんです。私は謝らないと気が済まないたちなので、時間が経てば、自分の「ごめんね」も相手の「ごめんね」も受け入れられるようになる。わがままかもしれませんが、口喧嘩になるより、お互いに沈黙で怒りを鎮める、よく言う頭を冷やすというやつですが、そのほうが建設的な気がするのです。
 相手の性格にもよりますが、私は悪くなくても先に謝ってしまうことが多いです。そのほうが丸く収まるし、相手もつられて謝ってくれるかもしれませんから。というより私にもこうこうこういう非があるから相手は怒っているのだろうなと感じるから謝るのですが。お互いに緊迫した沈黙より、安堵した沈黙のほうが気持ちいいじゃないですか。
 謝罪といえば、つい先日、件の『部屋を出ない準備』の際に買い物に行って、支払いをクレジットカードでしたんですよね。「暗証番号をお願いします」と店員さんに言われたのですが、私が番号を打ち終わった後、「申し訳ありません」と言われたのです。「えっ何が?」と。私が機械操作を誤って、暗証番号が正しく入力されなかったのかも!なんて思って次の言葉を待ったのですが、特に何事もなく、スムーズに会計が終わってしまって。結局あの「申し訳ありません」の意味はわからないのですが、おそらく推測するに「お手数おかけしてすみません」くらいの意ではないかと思われます。
 私が言葉の使い方に口うるさいだけかもしれませんが、「申し訳ありません」は『謝罪』、「お手数おかけします」は『クッション言葉』ですよね。
 さっきの話ではありませんが、自分が悪いわけではないのに『謝罪』の言葉を使うと後々、厄介なことになったりします。会社でもよく言われますよね。苦情もといご意見に対して、まずは話を最後まで聞くこと。むやみに謝らないこと。『謝る』という行為は、自分の『非』を認めることですから、いくら『お客様が神様』でも謝らなきゃいけないこととそうでないことの区別はつけなければいけません。これも以前言いましたが、私は『お客様はお客様』と思っているので、謝る内容については慎重に、と会社員の頃はよく自分に言い聞かせておりました。
 言葉のニュアンスというのは『ニュアンス』という言葉以上に、その雰囲気をはっきりと感じさせるものです。言い方や仕草にももちろんよりますが、言葉そのものの力というのは侮れません。
 でも、思ってなくても言えるのもまた『言葉』の難しいところなのですが。本当にごめんと思っていなくても、言葉や仕草だけならどうとでも表現できます。
 一昔、いやふた昔ほど前のフィクション作品で、通行人と肩がぶつかっていちゃもんをつけられて、挙句「土下座して謝れ!」なんて台詞を聞くことがありましたが、むしろ「土下座でいいのか?」と私などは疑問に思ってしまいます。「土下座で満足できるの?」「そんな小さい男なの?」と。いや確かに土下座はしたくないですよ。謝罪の最上級でもあります。でも、土下座は日常でする機会がない上に、そういう「プライドの高い人間が、プライドの高い──と彼らが思っている──人間を跪かせてマウントを取りたいだけの行為」という実に安直な認識が我々にあるからだと思うのです。
 土下座とよく言いますが、やってることは正座して地に手をつけて頭を下げる、それだけです。やれないのは『土下座=それだけのことをしたんだな』という周囲からの目が気になるだけであって、別に謝る気は一切なくても行為自体はできるように思えます。
 そもそも『プライド』を何に対して持っているかも人それぞれですから、彼らに土下座して謝罪すること以上に、本人に守りたいものがあれば内心「こんなんいくらでもするわ」くらいに思われているのかもしれないのですよ? 頭を下げて顔は見えないわけですから、嘲笑っていたとしてもやらせた相手に気づかれることもない。
 それを「やってやったぜ!」と見下して満足する姿には、「おめでたい人だなぁ」と思ってしまうのです。それに『土下座』はしばしば『嘲笑』の対象にもなります。ですから、自主的ならともかく、命令による土下座などという、そんな形だけでもできてしまう『謝罪』なら本当の『謝罪』ではありませんし、そんな全く意味のない行為で「謝ってもらえた!」と満足するのもなんだか違うような気がします。嘲笑うなんて論外です。
 そもそも自主的であっても、それが本心かどうか、それとも『土下座すればいい』とか『これを求めてる』とかそういうパフォーマンス的な意図があるのか、見ている私たちには判断できません。ですから、私はどんなパターンであっても見ていて気持ちのいいものじゃないなと思います。見ている人が満足できるのは元を正せば『我々の土下座に対する認識』が『最大級の謝罪だから』というだけですから。
 とはいえ、実際に「土下座して謝れ!」をこんな理由で断ったとしたら、それはそれで「謝る気がないんだろう!」と言われるのが目に見えますが。
 こういう悪習をなくすには、まず『世界の認識』を変える必要があるので、現実的な考え方でないことは百も承知です。でも、私なら土下座でなくても誠心誠意謝ってもらえれば、がそんな相手の姿に納得できればそれでいいと思うのです。
 さて、そろそろお別れの時間です。
 形だけで言うなら「土下座しろ!」は「ひれ伏せ!」と同義にも思えますが、昔見た作品の「土下座を強要」する輩たちに、自分がしたことの浅はかさを振り返させる為に、今度は私が「そこにひれ伏しなさい!」と命令してあげたいものですね。真っ黒なムチとピンヒールを思い浮かべたあなたなら、喜んでやってくれる輩たちを想像したことでしょう。ちょっと愉快ですよね。土下座を嗤うような輩たちなら、「地べたにひれ伏すなんて豚以下ね!」などと心の中の彼らを罵ってあげましょう。きっと喜んでくれることでしょう。さっきまで見下して満足していた彼らの、今度は見下されて喜ぶ姿を見られました。さ、これで満足ですね。あら、最後の最後にとんだブーメランになってしまいました。
 では、また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。



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