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歌姫を見守る獣①
しおりを挟む「はいオッケー!プリキーさん、はまじろうさん、お疲れ様でした――!」
スタッフ達が手を叩き、美名やメンバーもホッとした表情で頭を下げる。
翔大と別れた翌日は朝からTSBテレビの深夜の音楽番組
『キラ☆キラ☆ミュージック』の収録で、夕方になった今終了したのだ。
「お疲れ様~!
長丁場で大変だったけど良い出来だったわよ!」
志村が手を叩き三人とはまじろうを労う。
「テレビ収録って時間かかるんですね……」
美名は溜め息を吐いて軽く肩を回す。
「待ち時間長いしね……まあ、それでも夜までかからなかったから良かったね」
由清は連日の疲れも見せず、爽やかに笑った。
「ん――っ
スタジオに朝からカンヅメだと息がつまるぜ――!俺さあ、アレやりたい!ほら、タレントが旅行してさあ、その珍道中がまんま番組になるヤツ!あと食レポな!
遊んで食って仕事になるなら最高たよな~!」
真理は首をポキポキ鳴らして言った。
「もうっ!あなたはミュージシャンでしょ~!それは系統が違うじゃない!」
「え~
ボンバーの奴等とかバラエティとか出まくってるじゃん~」
「そりゃあ、あの子達はミュージシャン……ってもちょっとまた違うからねえ」
「何かさ~
外でロケやる様な仕事やりて――!
オッサン、何か無いのかよ――!
温泉レポとかよ――!」
「無茶苦茶言うんじゃないのよっこの子は!」
「ぐへっ」
真理は志村に尻をしばかれて呻いた。
美名はクスクス笑って見ていたが、ふとはまじろうに声を掛ける。
「はまじろうもお疲れ様!……ねえ、暑いでしょう?着ぐるみ脱ぐ?」
美名が頭に触れようとすると、はまじろうは忍者の如く素早く身をかわした。
美名は頬を膨らませて、首を傾げてはまじろうに近付く。
「え~……
もう二週間一緒にお仕事してるのに……
もう少し打ち解けてくれてもいいんじゃない?」
「はいどうぞ」
由清がペットボトルの水を渡すと、はまじろうはピョコンと頭を下げて黄色い手で受け取った。
由清は美名に小声で耳打ちする。
「ほら、水を飲む為に背中のチャックを開ける筈だよ……」
「あっ!そっか!」
「何だよ何だよ!二人で何をナイショ話してんだ?」
真理もやって来るが、由清にギロッと睨まれ
「静かに!」と釘を刺される。
「ひいっ……怖いっ」
「真理くん、気にならない?はまじろうの中の人」
美名が小声で話すと、真理も頷いた。
「あ~そういやそうだよな……
あの敏捷性と驚異の体力な~」
三人ははまじろうがどうするのか、息を潜めて見ていたが、スタッフに呼ばれて向こうに跳ねながら行ってしまい、皆肩を落とした。
「あ――!いい考えだと思ったんだけどな~」
由清が悔しそうに舌打ちする。
「う~ん、惜しかったね」
美名が残念そうにしていると、志村が突然叫んだ。
「あ――――っ!ま、マズイわっ」
「うおおおっ!何だよビックリすんじゃねーかっ」
その大声に真理が飛び上がり、由清は耳を塞いだ。
志村は頬をポリポリ掻いて苦笑いする。
「ごめんなさいね~
そういや今日、隣のスタジオで、N野M菜が映画紹介の番組収録してるのよ……
すっかり忘れてたわっ」
「なにぃ?N野M菜があ――!?」
真理が忌々しげに言う。
「……それって伏せ字のつもり?……誰かバレバレじゃない……」
由清は呆れるが、美名は何の事か分からずにキョトンとしていた。
「う――ん、どうかしら……もうとっくに終わってて帰っていただいてれば問題ないけどねえ~」
「げげ――っ
会いたくね――」
「う~ん」
志村達が眉をひそめてボソボソ話すのを、美名が怪訝な顔で見ていると、スタジオに見知らぬ長身の男性が入って来て、周りのスタッフに笑顔で挨拶している。
はまじろうにも頭を下げて挨拶をして、にこやかに握手をした。
背の高い身体に、童顔の丸い頭がひょっこりと乗っかっている様な印象の男性だった。
(剛さんと同じ位の年齢なのかしら……)
と、美名がぼんやりと見ていると、男性がこちらを振り返ってお辞儀をした。
「あららっ!
増本さんじゃな~い!」
志村が気付いて手を振ると、増本と呼ばれた男性がこちらへやって来る。
「昨日は本当にごめんなさいね~!
……今度美味しいワインご馳走するからそれで許して?」
「アハハ……気になさらないで下さい……
プリキーさんと一緒のお仕事が流れたのは残念でしたけど……
また何かご縁があると良いですね!」
増本は笑うと目尻が下がるらしい。
いかにも好青年という印象だった。
「皆、この方は増本達郎さん。
N野……じゃなくて西野未菜ちゃんのマネージャーさんよ」
志村が紹介をすると、増本は胸ポケットから名刺ケースを取り出し、美名達に一枚ずつ丁寧な所作で名刺を渡して挨拶をする。
「増本と申します……
西野をデビュー時から担当しています。
以後よろしくお願いします……」
「は、はい……よろしくお願いします」
美名も同じ様に深々とお辞儀をするが、真理がボソリと呟く。
「――マネージャーさんはともかく、あの女狐にはよろしくしたくねーな」
「真理っ!」
由清が真理をシバいた。
「アウチッ……
何だよ!お前だってそう思ってる癖に!」
「も――っ真理は!」
由清は真理の口を掌で無理矢理塞いだ。
志村も真理の尻に蹴りを入れ、すまなそうに増本に頭を下げる。
「オホホ、ちょっと口の悪い子供がプリキーには居るものだから……
ごめんなさいね?
N野……じゃない、西野さんは可愛らしくて素晴らしい歌手ですもの。
増本さんがマネージャーとしてしっかりサポートされてるから、彼女も頼もしく思ってるでしょうねえ?」
「良く言うぜ――!
……ムゴッ」
喚く真理の口を両手で由清は塞いだ。
増本はフッと笑うが、その笑顔には何処と無く陰が見えた。
「いえ……
その彼のおっしゃる通りです。
西野は天賦の才を持っていますが、大人としては……
分別に欠ける点が多々ありまして……
私がもう少し彼女を導ければ良いのですが……力不足でして……」
「……」
美名は、初めて会うこの増本と言う男の中に、西野へのマネージャーとしてではない特別な想いがあるのではないか?と感じ取った。
何だか自分と綾波を重ねてしまう。
「んまあああ……増本さん!
そうよね!手を焼かされれば焼かされる程、可愛いわよね――!
出来の悪い子供程可愛い!
わかるわっ!
あなたのそのおおらかな包容力はまるで海だわ――!素敵よ――っ」
志村は目に涙を浮かべ、真理の尻をバシバシ殴り悲鳴を上げさせて居る。
美名はふと、誰かの視線を感じて振り返るが、視線の主を見付ける事は出来なかった。
「……?」
最近、そういう事が多い様な気がする。
仕事をしている時に、誰かが自分を見つめている感覚が離れない。
色んな人に見られる仕事だから、つまりそういう事なのかも知れないが、それとは違う様な気がする。
嫌な感じはしない。
何か、温かく包まれる様な、見守られている様な空気を感じるのだ。
「昨日はお会いできませんでしたから、今日ご挨拶に寄ってみました……
では、まだ収録をしてますのでこれで……」
増本がまた深々と頭を下げると、志村がその手を取った。
「んも――!
そんなに畏まらないで頂戴ね?
何か、困った事があったら、良かったら相談に乗るわよ~!
お互い様で助け合いましょうね?」
「ありがとうございます」
増本が笑うと口許に笑窪が出来てチャーミングだった。
ハートを射抜かれた志村が
「ああっ」と胸を押さえてよろめき、壁に頭をぶつけて倒れてしまう。
「し、志村さんっ」
「何をしてんだよオッサン――!」
「真理、一緒に身体を起こして?せーのっ」
「ぐぐ……
オッサン重い!」
筋肉質の志村は見かけよりも身体が重く、真理と由清が起こすのに難儀していると、側転しながらはまじろうがやって来て一緒に起こそうと奮闘する。
スタッフもわらわらと回りを取り囲んでいる。
美名も心配して見ていると、増本に後ろから声をかけられた。
「美名さん……
実は、西野から預かっている物がありまして」
「――?」
増本は薄紅色の、薔薇が描かれた綺麗な封筒を差し出した。
美名が受けとると、笑顔で
「開けて見て下さい」
と促す。
封を丁寧に切り、便箋を広げてみると、甘い薫りが鼻腔を擽った。
西野の香水と同じ薫りだろうか。
女の子らしい文字が綴られている。
『美名ちゃんへ
昨日は会えなくて、残念だったな~
これ、本当にそう思ってるんだからね?
私ね、美名ちゃんに、酷い意地悪な事を言ってしまったのを後悔しています。
デビューしてから、毎日気にするのは売上の数字、ブログを書けばブログのアクセスの数字……
とにかく数字に追われる世界で、いつの間にか人との関わりよりも、そういう事しか見えなくなって、自分を見失ってたかも……
真っ直ぐに音楽を一生懸命やっている美名ちゃんが羨ましくて、妬ましくて八つ当たりしちゃったのかも……
ごめんね?
こんな事をいうのも図々しいかも知れないけど、お詫びの印にディナーをご馳走したいの。
それに、ちょっと恋の悩みも聞いて欲しいなって……
私、芸能界に信頼できる人が居ないし……
美名ちゃんと友達になれたら良いなあ、なんて思ったの。
今夜、来てくれたら嬉しいです。
西野未菜』
「未菜ちゃん……」
美名は、その文章を全面的に信じる事が正直出来ず戸惑うが、目の前に増本の誠実な瞳があり、顔を逸らせなくなってしまう。
「信じられないのも当たり前だと思います……
あんなに酷い事をした後で……
しかし、西野は本当にあなたにすまないと思っているんです……
僕からもお願いします……
どうか、話を聞いてやってくれませんか?
その場に、僕も居ますから……」
大きななりをした増本が頭を深々と下げる。
美名は真理達をチラリと見るが、皆まだ志村を介抱するのに忙しい様だった。
(皆に相談した方がいいのかな……)
「――美名さん!どうか!」
増本が土下座をするのを見て、美名はギョッとした。
「や、止めて下さい増本さん!どうか……頭を上げて下さい」
美名は回りを気にしながら自らもしゃがむ。
「……西野の至らなさは、僕の至らなさでもあります……
どうか……お許しを……」
床に頭を擦り付けんばかりの増本を前にして美名はオロオロして、つい承諾の言葉を口にしてしまった。
「わかりました……
どの様にすれば良いですか?」
増本はガバッと顔を起こして美名に再び頭を下げた。
「ありがとうございます……!
西野も喜びます!
……今夜、僕が迎えに行きますから……」
「は、はい」
「本当に、ありがとうございます!
じゃあ、後で!」
輝く様な笑顔を残し、増本は軽い足取りでスタジオを後にした。
増本の熱意にほだされてしまったが、果たして大丈夫なのだろうかと、美名は流石に疑いを捨てきれずに居た。
「志村さんに……相談してみようかな……」
美名が志村の回りに群がる人だかりへ目を向けた時に、後ろから誰かに肩を叩かれた。
振り返ると、そこに居たのははまじろうだった。
「はまじろう……
いつの間にここに居たの?」
はまじろうは、身体を捩り、何かを訴えている。
「え……?」
はまじろうは、美名が握っている手紙を見せろ、という風に手を差し出した。
「ああ……
見てたの?
……うん……どう思う?」
美名は、何故か促されるままに、はまじろうに手紙を渡す。
はまじろうは手紙を握り、まじまじと中身を確認している……多分。
顔の口の部分に僅かに穴が空いていて、通気孔と目になっているらしいが、ぱっと見た目からは全く分からない。
はまじろうは、手紙を美名に返すと、首をブンブン振っている。
「行くな、て事?」
すると、頷く様に黄色い顔を大きく上下に揺らす。
「う―――ん……でも、もうお返事しちゃったしなあ……」
はまじろうは、激しく首を振り、腕で×の形を作って見せた。
「心配してくれるんだ?」
はまじろうは 、また頷く。
美名は首を傾げてはまじろうの頭にそっと手で触れた。
はまじろうは今度は逃げなかった。
美名は、表情が窺えないその愛嬌のある顔をじっと見つめた。
「でも……
未菜ちゃん……恋愛で悩んでるんだって……
ひょっとしたら……増本さんの事なのかも……
何だか、私と剛さんの事みたいで……
他人事って思えない……」
はまじろうは、何秒か動かずに美名の話を聞いていたが、また首をしきりに振る。
美名ははまじろうに微笑んでその身体をギュッと抱き締めた。
「ありがとう……心配してくれて。
私……人が良すぎるのかな……やっぱり。
未菜ちゃんの事、まだ複雑だけど……
その話を聞いたら、何だか憎めない様な気持ちになって来ちゃった……って痛いっ!」
はまじろうは、いきなり美名の頭をその手で殴ったのだ。
多分、ゲンコツで。
「……バカか!て言いたいの?」
美名は頭を押さえながら軽く睨む。
多分、ここに綾波が居たら同じ様に言ったのかも知れない。
けれど、少なくとも綾波は今ここには居ないのだ。
志村達に相談すれば即座に反対されるのは分かっているが、美名は、自分の直感を今一度信じて行動してみたいと思っていた。
『自分の身を守る事は周りの人達を守る事でもあるのよ』
ペコに言われた言葉が頭を過った。
しかし美名は思っていた。
もう一度だけ。
もう一度だけ信じてみたい。
歌手を目指して上京し、思い通りにいかない日々に何度も諦めようとした時に西野の歌を聞いて励まされた事もある。
西野未菜という歌手その人を目標にしていた部分もあるのだ。
その西野自ら働き掛けてくれているのだ。
全面的に許せるかは分からないが、その気持ちは出来る限り受け止めたい。
それに、増本も一緒なのだから大丈夫だろう、と美名は考えていた。
はまじろうは美名に手を握られながら、
「やめとけ」とでも言いたげに首を振っていた。
「大丈夫だってば~」
美名がコロコロ笑っていると、復活した志村が真理と由清と共にやって来た。
「あ――!
はまじろう!おまっ……何をイチャイチャしてんだ――!」
真理が美名をはまじろうからひっぺがし凄むが、今度は真理がはまじろうにシバかれた。
「うお――っ
何だよお前っ!?」
真理がはまじろうの胸ぐらを掴むが、逆に真理が身体を抱え込まれてしまう。
「ひい――っ何だよこのっ……お前、俺になんか恨みでもあるのか!」
「はまちゃ~ん、もうその辺で許してあげて?」
志村が声を掛けると、真理はあっさりと解放された。
「な……なんだよあいつっ……
なんか、着ぐるみの中からスゲー殺気を感じたぞ!」
「まあまあ、着ぐるみに本気でムキになるなよ」
「き……着ぐるみだからって、はまじろうだからって何もかも許されると思ったら大間違いだからな――っき――っ」
「はいはい、落ち着け落ち着け」
喚く真理を由清が宥めた。
スマホのアラームが鳴り、志村は時間を確認する。
「あなた達、今から移動でしょ?
……車が来てる筈だから、もう行きなさい」
「うおおおっ――!
美名と離れて野郎だけでラジオ収録だとか、気が乗らねー!」
「パーソナリティーは女性じゃんか……」
由清の言葉に真理は若干目の色を変えた。
「マジ?」
「ちゃんと仕事内容を把握しておけよな!
今日の番組は
"オールオールジャパン"で、パーソナリティーは今十代に大人気のモデル出身女性シンガーの
"アイミ"だろ――!」
由清は真理の耳元で綺麗な顔を険しくして怒鳴った。
「わ……分かったよ……頼むから凄むなよっ!
地味に怖いんだよお前――!」
真理は耳を塞いで由清から逃げるが、志村に捕まえられてしまう。
「はい!
二人で仲良く頑張るのよ!
明日は久々にポキノンの取材もあるし!
プリキーは忙しいわよ~
ほーっほっほ」
志村は由清と真理の肩を抱き、エレベーターまで連れて行く。
「ちょっと私ははまじろうと打ち合わせがあるから……
あなた達だけで先に行っててね?」
「行ってらっしゃい……真理くん、由清くん、頑張ってね」
「お――!美名、今夜はゆっくり休めよ~」
二人が手を振ると目の前で扉が閉まった。
志村は軽く伸びをすると、欠伸を噛み殺した。
「志村さん……もう大丈夫ですか?
さっき倒れて……」
「あははっ!
大丈夫よ~!
ちょっとときめく事があったりするとたま~にあんなドジをするのよね~」
舌をだして言う志村が可愛く思えて、美名はクスリと笑う。
「ねえ、美名ちゃんは最近どう?
ゆっくり話す時間が無いから気になってたのよ……綾波くんから連絡は?」
志村は真顔になって訊ねた。
「いえ……ありません。
昨日電話したら……通じなくて……」
美名は思わず声を詰まらせた。
「んまあっ何ですって――!?
……おかしいわね……それは……
もうっ!綾波くんったら!何をしてんのよ!」
憤る志村の横で、はまじろうが頷いている。
美名は涙が溢れそうな瞼を指で押さえて無理矢理笑う。
「……きっと、何か理由があるんです……
私には分からない何か……
剛さんを、信じて……また連絡をくれるのを待ちます……
それまで、私は私のやるべき事を頑張ります」
志村まで目を潤ませ、美名をギュッと抱き締めた。
「んも――!
美名ちゃんったら健気――!
頑張り過ぎなくて良いのよ?
苦しいなら苦しいって言いなさいね?」
「は、はい……
本当は……寂しい……です……凄く」
美名が涙声を出すと、志村は何故か側にいるはまじろうを蹴った。
はまじろうは悲鳴を上げる事は無いが、コロコロと床を転がる。
「美名ちゃんがこんなに待ってるのに……
酷い男よねっ!
……あっ、もう私も行かなくちゃ……
美名ちゃん、またゆっくり話しましょうね?
今夜は早く休むのよ?」
「はい……ありがとうございます」
「あっ!そうだ!はまじろう――!」
志村は倒れているはまじろうの首根っこを掴まえて起こすと、何かヒソヒソと話している。
志村とはまじろうは頷き合い、お互いにガッツポーズをして別れた。
「美名ちゃん、送ってあげたいんだけど、私もすぐに向かわないとならないの……ごめんなさいね」
「大丈夫ですよ?
タクシー呼んで貰って帰りますから」
「じゃあ、明日……一時に迎えに行くからね?」
「は~い!行ってらっしゃい!」
あたふたとエレベーターに乗り込む志村に、美名とはまじろうは手を振った。
美名が時計をチラリと見て、一度マンションに帰って支度をしなければ、と考えていると、はまじろうが顔を覗き込んでいた。
「はまじろう、色々聞いてくれてありがとうね?
……明日はまた一緒にポキノンの取材だよね。
会えるのを楽しみにしてるからね?
じゃあ、また明日ね!」
美名は、はまじろうに軽くハグをしてから手を振りながらエレベーターに乗り込んだ。
はまじろうは、長い髪を揺らしながらエレベーターに乗り込み無邪気な笑みで手を振る美名に手を振り返し、扉が閉まるとくるりと後ろを向き楽屋へ向かった。
途中、何人かの スタッフに声をかけられ、頭を下げる。
「はまじろう様」
と書かれた紙が貼られた奥の楽屋のドアを開けて、誰も居ない事を確かめると二重になっている背中のファスナーを下ろしていく。
はまじろうスーツは、通気性が大分改善されて作られてはいるが、流石に朝から夕方まで頭から布を被った状態は消耗する。
ストンと床にスーツを落とし、汗ばんだスエットを脱ぎ捨てていく。
シャツを袖に通し、スラックスを穿きベルトを通し、鏡を睨むように見ながら、紺のストライプのネクタイを締めた。
乱れた髪を指で軽く整えるとペットボトルの水を一気に飲み干して溜め息を吐く。
『暑くない?……脱いだら?』
美名が手を伸ばして近付いて来た時には逃れたが、抱き締めて来た時には動く事が出来なかった。
甘い髪の薫りと柔らかい身体の感触に、クラクラしそうになり自分を保つのが精一杯だった。
その場で抱き締め返していたら、どうなってしまったか分からない。
「思ったよりも……キツいな……」
綾波は鏡の前の椅子に腰かけ、身体を反らし天井を仰いだ。
約二週間、はまじろうとしてプリキーとキャンペーンで駆けずり回り美名の側にいながら声もかけず、触れる事もしなかった。
美名と距離を置いて落ち着こう、と考えたが、いざ離れるとなると気掛かりで仕方が無かった。
――俺が側に居ない間泣いていないか、泣いている美名に他の男がつけこんで迫ったりしないのか……
実際、真理は美名の事を諦めて居ないのが丸分かりで、何かと言うとちょっかいを出したり触ったりしていて気が気ではなかった。
サプライズパーティの夜に、美名を責めている最中にベランダから見ていた真理の恋情がまだ燃える目が常に頭を過り、本音では美名の側に奴を一歩足りとも近付けたくない。
美名が頑張ってかわして居るのを見て密かにほくそ笑んだが、着ぐるみの中で笑いを噛み殺すのはなかなか大変な事だった。
『そんなに心配なら隠れてないで側に居ればいいじゃないの!
美名ちゃんも寂しがってるのに――!』
志村には散々そうやって説教された。
だが今、美名の側に居たら、美名が立ち直れなくなる程滅茶苦茶に傷付けてしまう気がしたのだ。
抱き締めて、貪る様に愛して、愛の言葉を耳が痛くなる程に囁きあってもまだ足りない。
今、この手の中に居る美名がふと突然消えてしまうのでは無いか、と脈絡無く不安が襲う。
愛の幸福に酔いしれてしまったら、失ってしまった時に自分はどうなるのか――
菊野の時も、ほなみを愛していた時も自分の中の何処かでは
"どうせ手に入らないのだ"
という諦めが予めあったように思う。
それはつまり、得る事も出来ないが、失う事も無いのだ。
失う悲しみを味わわなくて良いという、何処か褪めた安心感があった。
だが惹かれてしまうのは止めようが無くて、それなりに苦しんだのだ。
――だが美名は違う。
無理矢理その身体を奪った俺は憎まれても当然だった。
俺ははなから美名に愛されようとは思って居なかったのだから。
ほなみに似た顔と身体が欲しかった、それだけだったのだ。
けれど、美名を抱いたその時から俺は美名に夢中になってしまった。
呼ぶ甘い声も、からかうとすぐに紅く染まる頬も、背中に絡み付いて来るそのしなやかな腕も柔らかい唇も、すぐに潤む水気を含んだ瞳も、何もかもを愛してしまった。
そして美名も、俺を愛していると言ってくれた。
堪らなく幸福だった。
だが、俺の過去を知った時の美名の怯えた目を見た時、自分の諦め癖が頭をもたげてしまった。
――ああ、やはり駄目だ。俺はまた愛されずに終わる、と。
『離さない』と言われたり、突き放されたり……美名は振り回されて混乱して、今度こそ嫌われるだろうと思った。
綾波自身、どうして良いか分からずに居たのだ。
だから自分の気持ちに整理を付ける為に美名から離れ、智也に無理矢理口裏を合わせて貰ったのだか……
美名の側から離れ一日ともたなかった。
智也は苦笑しながら
『はまじろうに扮して側に居たらどうか』
と提案して来たのだ。
綾波は一も二もなく了承した。
はまじろうとプリキーのコラボは約一ヶ月続く。
その間に自分も美名も気持ちが固まるのではないだろうかと考えた。
声を聞いたらまた抱き締めたくなる、と思いスマホも解約してしまったが、その事で美名をまた傷付けてしまった様だ。
側にいても触れる事も出来ない、だが離れる事も出来ない自分はとことん愚かだと思う。
「――そうだ……
美名は、今夜……西野の誘いに乗ったんだったな」
綾波には、罠にしか思えなかった。
あの増本というマネージャーも、一見好青年に見えるが、そういう奴に限って人には見せない一面を持っている。
西野が美名に敵意を持っているのは明らかで、何を仕掛けてくるのか分かったものではない。
「……ウダウダしている暇はないな……」
綾波は、物思いのブラックホールに飲み込まれる前に、気持ちを切り替える様に頭を振り楽屋を出た。
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