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それぞれの恋の焔②

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「ん――っ!美味しいわ――!豆ご飯大好きなの――!
このじゃが芋と鳥の揚げ煮なんて、天才だわっ!桃子ちゃん、いいお嫁さんになるわよ――!」


その日の夕飯、志村は首回りにフリフリのエプロンを巻いて、桃子の腕前を絶賛していた。


「えへへ!気に入って貰ってよかった!」


桃子は頬を上気させて嬉しそうに笑う。


「うん、本当に旨いよ。何処かで習ったの?」


「やだあ、そんなのやってないよ……それに
お姉ちゃんの方が上手だよ?」



「ああ、そういえばこの間のカレー、凝ってて旨かったな」


翔大を由清がつつく。



「何?いつの間にそんなに親睦深めたの?」



「いや、ちょっとね」
「ね――っ」


翔大と桃子は顔を見合わせて笑う。



真理は物も言わずに夕食を平らげて、手を合わせると立ち上がった。



「……ご馳走さん」



「あ、真理!自分の食器片付けてってね」



「おう」



真理が食器を持ち、後ろを通ると美名は思わず自分の手をギュッと握った。





真理は何も言わずに流しで食器を洗うと、プイッとそのままキッチンから出ていく。



「なーんか変ねえ。
あんなに静かな奴だっけ?具合悪いとかじゃないでしょうね?」


桃子は首を傾げた。



「いや……完食してあるしそれはないでしょ」


由清は苦笑する。



「きっと、何か難しい事を考えてるのよ!
例えば、日付変更線の事だとか」


志村は膝を叩いて言った。


「……或いは円周率とか?」


翔大は悪戯な笑みを浮かべ、桃子はケラケラ笑う。


「わ――!知恵熱出しちゃうの確実――!」




皆は面白がって勝手な事を言って騒いでいるが、美名は心中穏やかでいられない。


お茶を啜りながら、先程の事を頭の中で反芻した。



――――――








突然強く抱き締められて、美名は呆然としていたが、真理の隆々とした筋肉の腕と胸で締め付けられているのが本気で苦しくなり、


「い、痛い」


と、伝えたが……



聞こえていないのだろうか。
力が弱まるどころか、真理は顔を美名の肩先に埋めて、一層強く締めてきた。



「ひいっ」



思わず変な叫びを上げてしまう。


どの位そうしていただろうか。


突然真理が弾かれたように離れ、自分の口を手で覆い、美名を穴の空くかの如くガン見する。

その顔は真っ赤だった。


「わ、わ、わわ」


震える声で何か呟く。



「わ?」



「うわ――――――!」



真理は突然叫び、美名を強引に引っ張り席に座らせて、ハンドルを握った。


その目が血走っている。




「か、かか帰るぞっ!」


真理はセルを回すが、うまくいかずに焦る。


何回かやって成功すると、何故か右手を上げて叫んだ。



「倉田真理号――発進!」



「…………」

「…………」




そうして二人は、目も合わさず、口も聞かずに居たのだった。


最初怖いと思っていた真理が思いがけなく優しく、仲良くなれた様な気がしていたから、帰り道の真理のそっけない態度はショックだった。


何か、怒らせる様な事をしてしまったのだろうか?


考えたが、わからない。


そして、真理の突然の抱擁も意味がわからない。



―――――――――――


そして夕食の間も真理の様子は変だったのだ……
明日も胆試しの係の準備を朝からするのに……
こんなんで大丈夫なんだろうか?


それに、これから一緒に音楽をしていく仲間なのに……





「ふああ~私そろそろ寝るわ~
お肌の為には睡眠が大事よ~
皆、明日のイベント、楽しくやりましょうね?」



「は~い、志村さんお休みなさい~」


早々に志村は部屋に引き上げ、残った者達で片付けをした。



「あ!アンソニー!ちょっと!」


桃子は、由清と二階へ上がって行き、美名と翔大だけになる。



何となく溜め息を吐いてしまった美名に、翔大が鋭い目を向けてくる。


「美名」


「……!」


美名は後ずさりから逃げる様に背を向けてドアノブに手をかけたが、後ろから羽交い締めにされた。


「や……っ」


「なんで、逃げるの?」


「だ、だって……」


前を向かせられ、じっと見つめられてドキドキする。

目を逸らしたくても、頬を両手で挟まれて出来ない。



「そんなに怯えられると……キツいよ」


苦しげな瞳を見ていると胸が痛む。


「は、離して……」



「美名……頼むから、怖がらないで……俺は、好きなだけだよ」


頬に触れる指が、顎を掴むと上を向かせられ、翔大の顔が近付いてくる。



「――や、いやっ!」


美名は無我夢中ではね除けてキッチンを飛び出した。





美名は夢中で走り、玄関を出て暗闇の中を手探りで隠れる場所を探す。


翔大と居ると……見つめられて囁かれると、蕩けてしまいそうになる自分が許せなかった。



(私は綾波さんが好きなのに……)


毎日腕の中に包まれていたいと思うのに、翔大に惑わされてしまう。




「もう……やだっ……最低……!」




喉の奥が締め付けられて熱くなると涙が溢れてきた。


別荘の中庭は広大で、夜になると怪しげな雰囲気を醸し出していた。




(そういえば、明日は胆試し……
外でやるのかしら?
……確かにここならバッチリな感じ……
ていうか、怖くなって来た……)




別荘をチラリと振り返るが、戻るのを躊躇する。


(もし、しょう君にまた会ってしまったら……)








「……戻れない……」


美名が茂みの中で膝を抱え泣きながら空を見上げると、見た事の無い沢山の瞬きが広がっている。


「わあ……」

「おお……」


頭上で太い低い声がした。



「―――!?」
「げっ?」



同時に叫ぶ。



「きゃ――っお化け!?」
「あほー!俺だ俺!」



大きな掌で口を塞がれたまま見上げると、真理だった。



「ま……ことくっ」


美名は涙腺がゆるんで、ボロボロ泣き出した。


「おっ……ち、ちょ待て!何泣いてんだ――!」


「うぐっ……だっで……こわがっだ……」


手の甲で涙を拭う美名を真理が呆れて見ている。



不意にガサッと物音がして、美名の中にまた緊張が走る。



「うん?なんか居るのか?」


真理が目を凝らすと、翔大がキョロキョロと辺りを見回して居るのを見つけた。



「あれ?翔大?」


「ダメ!見つかっちゃう」


美名は慌てて真理を引っ張った。


「うわっ!」


バランスを崩した真理と美名は草むらに倒れ込む。




美名は、真理の上に乗る体勢で倒れてしまっていた。



「い、いてえ……」


真理は頭をぶつけたらしく、顔をしかめる。


「ご、ごめんね」


「な、何なんだよ!殺す気か――!」


「しいっ」


美名は真理の口を手で塞いで体を屈めた。


「――っ」


真理の身体がビクリと動く。



美名が身体の上に覆い被さる格好になり、その柔らかさと甘い香りに真理はクラクラと眩惑されていた。

夜風が長い髪を揺らして腕に纏わり付いて来ると身体の奥底がゾワリとする。



そんな事も知らず美名は、翔大から逃れる事しか考えて居なかった。


今、自分がまた他の獣を目覚めさせてしまったというのに。



「……ふ――
もう、諦めてくれたかな……」


翔大の気配が消えると、溜め息を吐いて真理から身体を起こそうとしたが、屈強な腕が絡み付いて動けない。


「――!?ま、真理君……?」





真理は、長い髪と柔らかいしなやかな身体を折れんばかりに抱き締める。


真理の心臓の音が伝わると、美名までつられてドキドキしてきた。



「んんっ」


太く骨ばった腕が鎖の様に締め付けると、小さく悲鳴を上げる。



「ま、真理君っ……い、痛い」

「…………」


離してくれる気配がないので、必死にもがいた。


「い、痛い!本当に痛いんだってば!」


その時、葉っぱが鼻を擽り、堪えきれずに盛大にくしゃみをしてしまった。


「ひ――っくし!」


「!」


真理は、ハッと我に返り腕の力を緩めた。





美名は真理の上から慌てて降りようとするが、バランスを崩して倒れそうになる。


「きゃっ……」
「あぶねっ」


間一髪の所で抱き留められた。


「この辺、固い岩とかあるかも知れないからな……」


「う、うん……あっ!
真理君、大丈夫だった?」

美名は腕を伸ばし、真理の後頭部に触れた。


「あ……な、なんか膨らんでるのは気のせい?」


「気のせいじゃねえわ!コブが出来たコブが!」


「ご、ごめんなさいっ」


「全く!責任は身体で払って貰うからな――!」


「……っ」


抱き締められたままで言われて、美名は思わず身体を震わせた。


怯えた目をしたのがわかったのだろうか。
真理はハッとして、笑顔になる。


「冗談だよ……そんな顔すんなよ」


「……」


よく見ると、真理は美名を庇って倒れた時の擦り傷が腕に出来ていた。
服も草や泥が付いてしまっている。





真理は美名をそっと離す。


「全く、お前には振り回される……迷惑な話だ」


ボソリと呟いたその言葉が、美名の胸にぐさりと刺さる。


「さて、いつまでも外に居たら虫に刺されるぞ~
戻るか……て……お前」


美名がまた涙を溢していて、真理は困った顔をして頭を掻く。


「おい、ひょっとして俺、お前に何かしたか?」


「……真理君……私が、嫌い?」


「ええ!?」


「昼間……突然ぎゅうってされたと思ったら素っ気なくなったし……
今だって……め、迷惑って……ううっ……ひっ」


話しているうちに感情が昂って声が上擦り、身体が震え、息が上手く出来ない。



「…………」


真理は、小さな子供の様に泣く美名を呆れる反面、堪らなく愛しい気持ちを抱いている事に気付いた。


震える肩に手を伸ばしかけたが、躊躇った後に引っ込める。


さっきは自覚無しに抱き締めてしまったが、気持ちの正体が分かった今それをしたら、歯止めが利かないだろう。







泣いている理由が、自分に嫌われている事を心配してだと思うと、いてもたってもいられなくなり、また力の限り抱き締めて


『好きだ』


と叫びたくなる。



だが、綾波と翔大の板挟みで悩む美名を更に悩ます事になってしまう……
それに、美名は自分に親愛の情は抱いているかも知れないが、それは恋ではない。

今は、言うべきではないと思った。




胸が痛むのを堪えて、真理は息を吸い込み、美名の頬を乱暴に掴み上を向かせるとデコピンする。


「いっ痛い――っ!」



「痛くて当たり前だ!痛いのがデコピンだ!わはは!」



美名は憤慨して叫ぶ。



「な、何すんの――っ」



「お前はアホか」



「――えっ」



「お前が好きなのはただ一人の男だろうが!
綾波だろ!
だったら奴にもっと愛される事だけを考えてろ!翔大やら、ましてこんな俺なんぞに好かれてるだ嫌われてるだ、気にしてる場合じゃねーだろ!ああ?」



きっぱりと言われて、美名はある種の衝撃を受けた。





真理は、物凄いドヤ顔をしてしきりに頷いていた。
多分心の中では


"良い事を言ったぜ俺!"

とか思っているのかも知れない。



美名も目から鱗の気持ちだったが、何か引っ掛かる。



「……わ、私を抱き締めた……のは何故?」


「――!」


真理の表情が固まった。

そっぽを向いて、咳払いをすると、上擦る声で言い訳がましく呟いている。



「そ、あれはだなつまり!……そうだ!
実家にいる犬に似てるからだよ!お前が!」


「…………?」


真理は手を叩いて興奮している。



「そ――だよ!お前みたいに毛が長いワンコでさあ!俺が東京に出るまでは毎晩一緒に寝てたんだよ!……だからつい、お前見てると奴を思い出してぎゅーっと」


「何よそれっ!もう!」


美名は思わずグーで鳩尾にパンチを入れた。


「ぐおっ」


真理が呻く。




美名がプリプリ怒りながら別荘へ向かい歩くと、真理が腹を押さえながら追いかけて来た。



「てて……なあ、お前、さっき何で隠れてたんだよ」

「…………そ、それは」



「ははーんそうか。
翔大から逃げてたのか」



「……」



「まっ、せいぜい気を付けるんだな。
合宿中に妊娠させられないように」



美名はカッとなり、思わず怒鳴った。



「へ、変な事言わないで!やっぱり真理君なんか嫌い!」



逃げる様に美名は走り去った。




真理は、遠ざかる美名の髪が揺れて見えなくなるまでずっと見つめていた。


長い溜め息を吐く。



(やっぱり、嫌い……か)


苦く笑いながら、手に残る身体の柔らかさと温もりを噛み締める様に暫く思い出していた。



翔大が、積極的に美名に迫っているのには気が付いていた。
美名が怯えているのも。


(守ってやらなければ)



彼は無意識に拳を握り締めた。



美名の言葉が耳の中にこだましている。




『私を……嫌いなの?』




満点の星空を仰いで真理は目を細めた。





「そんな訳、ないだろ……」


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