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愛しい奏で

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 ――今、何時なのだろう。いや……そんなこと、どうでもいい。

 暗い部屋のベッドに横たわり、西本祐樹は天井の一点を見つめる。

 東京に帰って来てから、彼はずっと闇の中に居た。

 外で何が起きていようがいまいが、昼だろうが夜だろうが、関係ない。

 厚いカーテンを閉め切れば外の明かりが遮断される。テレビ、パソコン、携帯なども見なければ、明かりどころか何の情報も入ってこない。

 時々、綾波やメンバーが声を掛けてきたが、彼らと会話もしなかった。

 来月の武道館公演を前にして、手を怪我したり歌えなくなったりーーこんな状態が不味いのはわかっている。だけど、どうしても歌うことができない。

 クレッシェンドの楽曲のすべてをーー歌おう、奏でよう、としてもーー胸の奥に異物が詰まってしまったかの様にーー声を出そうとすると苦しくて吐き気さえ覚える。

 ピアノに向かえば、いつでもキラキラと輝く音の世界の中、自由自在に跳び回る事が出来た。なのに、あの日以来、ピアノの前に立つ事さえ苦痛になってしまった。そう、彼女と……ほなみと別れた日から……

 自分の音楽を表現し、世の中に発信する事、ステージに立って演奏することを夢見てきた。路上ライブもしたし、どんな場所へも出向いて演奏した。時には騙されたりして悔しい思いもした。

 デビューしてから、自分の作った音楽に酔いしれ、ライブ中に涙ぐむ客を見て

「ああ、自分はやっと、夢への第一歩を踏み出したんだ」

 と思えた。

 音楽と引き換えに命を懸けてもいい、という信念を持ってここまできた。

 それなのに、今の自分の不甲斐なさは何なんだ。

 ほなみと会う以前も、いくつかの恋をしてきたつもりでいた。

 今まで会った女の子達は皆、可愛くて安らぎをくれたし

「西くんの為なら何でもできる」と、言ってくれた。

 恋をする度、彼女達に対して、

「出来る事はなんでもしてやりたい」と、心から思っていた。

 彼女らは結局、スケジュールの都合などで会えない日々に不満を募らせ、他の男を選ぶ。西本を捨てて。

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